「女系図でみる驚きの日本史」

91BHEz_YqRL_SL1500_.jpg 大塚ひかり「女系図でみる驚きの日本史」について。

歴史上の人物・一族の系図は、たいていが男性中心に書かれていて、女性の名前があるのは、自身や子供が「歴史に名を遺すような」人物の場合のようだ。

だから本書の女系図というのは概ね著者が諸資料を追いかけて作製されたものになる。
〝腹〟が運命を左右する  女系をたどった平家の末裔を追った本としては、つとに角田文衛の『平家後抄』があり、私も影響を受けた。が、私がそもそも「女系図」に目覚めたのは、平家絡みではなく、平安時代の藤原道長の栄華を描いた歴史物語の『栄花物語』を読んでいた中高時代のことであった。
 紫式部と同時代の赤染衛門が書いたといわれるこの本は、「誰と誰が結婚し、誰が生まれて、誰が死んだ」という貴族社会の動向やスキャンダルから成り立っていて、内容を頭に入れようとすると、おのずと系図を書かずにはいられないという具合だった。『大鏡』『愚管抄』『古事記』『日本書紀』などの歴史物はいずれも同様で、古典好きな私が大学で日本文学ではなく日本史学を専攻したのも、古典文学の物語としての面白さより、古典文学から当時の人の暮らしぶりや考え方を知る面白さのほうが私の中ではまさっていたからだ。それで、古典文学を読むために系図を作るというより、系図を作るために古典文学を読むようなことになっていた。

一講 平家は本当に滅亡したのか
平家の生き残りだらけ/天皇に繋がる清盛の血/北条政子も平氏/〝腹〟が運命を左右する
 
二講 天皇にはなぜ姓がないのか
女帝と易姓革命/史上初の藤原氏腹天皇/女系天皇を許容する古代法/〝卑母〟を拝むな/女性皇太子の誕生
 
三講 なぜ京都が都になったのか
「渡来人の里」だった京都/天皇の生母は百済王族の末裔/妻子のおかげで即位できたミカド/流動的だった天皇の地位/古代天皇・豪族を支えた母方の力/今も生き続ける「滅亡」の一族
補講その一 聖徳太子は天皇だった? 謎の年号「法興」
 
四講 紫式部の名前はなぜ分からないのか
娘によってのみ名を残す父/紫式部という呼び名が表す力/母の名だけ記される/乳母の力が一族に影響/繁栄する紫式部の子孫/清少納言と紫式部の意外な接点
補講その二 乳母が側室になる時 今参局と日野富子
 
五講 光源氏はなぜ天皇になれなかったのか
〝劣り腹〟という侮蔑語/「逆玉」で出世した道長/婿取り婚が基本/道長の「愛人」だった紫式部/〝数〟ならぬ身の夢
 
六講 平安貴族はなぜ「兄弟」「姉妹」だらけなのか
出世の決め手は「母方」/藤原定頼というモテ男/女泣かせの「美声」/『小大君集』に描かれるレイプ事件
補講その三 究極の男色系図 政治を動かす「男の性」
 
七講 「高貴な処女」伊勢斎宮の密通は、なぜ事件化したのか
密通斎宮は紫式部の「はとこ」/『伊勢物語』が伝える「逢瀬」/政治利用された「密通」/父と娘の対立/「不義の子の末裔」の密通
 
八講 貴族はなぜ近親姦だらけなのか
犯した養女を孫の妻に/息子の妻を奪う/異母妹と子をなす/出家後の女色/姪を欲しさに/〝腹〟が卑しいから
 
九講 頼朝はなぜ、義経を殺さねばならなかったのか
妻を息子に譲る/「後家の力」で分かる義経の地位の高さ/白拍子の愛人はステイタス/源平二人の後家
補講その四 戦国時代の偽系図 学者と武将と「醜パワー」
 
十講 徳川将軍家はなぜ女系図が作れないのか
子や孫に呼び捨てにされた側室/正妻と側室の極端な身分差/「性」と「政」を峻別/〝フグリ〟をつぶされた鎌倉将軍/強い外戚を作らない
補講その五 茶々と家康の縁談 久々の女帝誕生の真相
 
あとがき
参考原典・主な参考文献
そうした女系図といえるようなものがあまりないことに疑問をもち、女系図として再構成したら何が見えてくるのかが本書で示される。

まず見えてくるのは、滅んだとされる一族であっても、男系は絶えていても、女系は連綿と続いて、それこそ現代にまで至っているということ。
平清盛の妻時子は壇ノ浦で亡くなっているが、残された娘は冷泉家に入り、その子孫には後深草・亀山両天皇が並び、後深草の系統は伏見、後伏見を経て、今上天皇へ続く。
また紫式部の孫(男)と清少納言の孫(女)は結婚しているそうだ。

そもそもこうした系図が書けるのは、その一族が皇族、公家、後には武家といった上流階級で、記録が残っているからだろう。そして上流階級は通常、上流階級同士で婚姻する。
ヨーロッパでは各国間で王族同士で婚姻関係が結ばれた。貴賤結婚を避けたり、政略結婚として行われるからそうしたことになる。


さて次に見えてくるのが、公家・武家社会では地位を得るのに最も重要なのは血縁であるが、父の地位が高くなければ上の地位を得るのが難しいことはもちろんだが、それに加えて母がどれだけ力を持っているかも重要であるということ。
「光る君へ」でも描かれていたが、道長の正妻源倫子は多くの資産をもっており、それはまだ一の人になる前の道長のそれを上回っている。もうひとりのやはり正妻というべき源明子のほうは血筋は遜色ない、あるいはむしろ倫子を上回るかもしれないが、資産のほうは及ばなかったのだろう。道長は倫子に同居していて嫡妻ともいえる立場だが、おそらくそれだけではなく、資産が物を言ったのではないかと思う。

以前、何かの本で読んだ憶えもあるが、室町時代ぐらいまでは、女性も自身の資産をもち、家を経営することがあったという。北条政子もそういう一人だったようだ。
 そしてもう一人、歴史上、最も権勢を振るった後家が、源頼朝の後家の北条政子だ。彼女が、夫頼朝や長男頼家死後、父時政と継母の牧の方をも失脚させ、次男の実朝を立てて実権を握ったことについて『愚管抄』は、
「実朝の母であり、頼朝の後家であるのだから、あれこれ申すまでもない」(〝実朝ガ母頼朝ガ後家ナレバサウナシ〟) (巻第六)
 当然のこととしている。一二二一年、後鳥羽院が承久の乱を起こし、北条氏が朝敵となってしまった時も、「尼将軍」たる政子が御家人らを前に、〝皆心を一にして奉るべし〟(『吾妻鏡』承久三年五月十九日条)と大弁舌を振るって、勝利に導いたのは有名な話だ。
 池禅尼と北条政子、共に婚家の男子直系は滅びたものの、女系図で見れば平氏は繁栄し、両人の実家の血筋は、鎌倉時代の公武のトップに君臨している。

ここでもう一つの疑問が出てくる。女性も自身の資産をもち、それを管理する「社会人」であるのに、なぜその名前がわからない例が多いのかである。これについて本書は次のように書いている。
 なぜ、女の名はそんなにも分かりにくいのか。
 武士の時代には女の地位が低下したため、公的な記録に女の名が残りにくくなったということがあるが、女の財産権が強く、地位も高かった平安貴族の場合は事情が異なる。
 結論から言うと、太古からあった「実名忌避の俗信」が根強く残っていたためだ。
「実名忌避の俗信」とは、名前と人間は一体であるという考え方から、実名を知られると呪いをかけるのに利用されたり、災いを受けるなど危険であるとして、実名を秘したり、別名で呼ぶ習慣のことだ(穂積陳重『忌み名の研究』、豊田国夫『名前の禁忌習俗』など)。
 とくに「女子は相手に実名を告げるのは、肌を許すこととすら考えられていた」(角田氏前掲書)。名前を知られることは心身共に支配される危険を意味していたわけで、その危険度は女や貴人のほうが高いため、実名を秘すうち、不明になってしまうのだ(『源氏物語』でも、実名が分かるのは惟光などの受領階級や、玉鬘の幼名瑠璃君くらいで、女君はもちろん、主人公の源氏の実名すら記されない)。今で言うなら個人情報をさらすと、詐欺やストーキングに悪用されるから秘すといった感覚で、実名も知らぬまま、ハンドルネームで呼び合っているネット社会に似てなくもない。

第四講 紫式部の名前はなぜ分からないのか


「実名忌避の俗信」という言葉で妙なことを連想した。
某国では国民にユニークな番号を割り当てて個人を確実に同定できる制度を創設しているが、その番号は重要なものだから厳重に管理しなければならず、みだりに人に教えてはいけないというような指導をしている。
その結果、実に面倒な照合作業が発生したり、その過程でミスが起こったりしているという。番号は名前と同じ扱いにしておけばなんということはなかったのに、不思議なことをしたものだ。


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