「ブッダは実在しない」
島田裕巳「ブッダは実在しない」の感想。
腰巻(写真参照)に書かれているように「ブッダは創作された一つの観念である」という本。
もちろんブッダに限らず、偉人の伝記にはその人を称揚するためか、話が作られるということは良くある。アリエナイ奇跡譚がくっついてくる。
ただ、そういう場合は、その人の実在は動かしがたいという前提で、どの話は事実で、どれが作り話かということになるわけだが、この本では、一人の人間としてはブッダは実在しないという。ブッダは今更言う必要もないが、もともと「悟った者」という普通名詞である。普通名詞である以上、ブッダの集団がいてもブッダであるというわけだ。
まぁ、そういう説を出しても、否定できるだけの証拠もないのだろうとは思う。
著者は古い仏教経典には一貫性がなく、それは一人のブッダのものではなく、複数のブッダによるものだから当然だというわけだけれど、「嘘も方便」が当時からあったなら、一貫性がなくてもおかしくはないとも考えられる。
ブッダ複数人説を否定したいと考えているわけではないけれど、この著者は宗教と科学をどう調和させているのだろう。
著者は、我が国仏教にはもともとのブッダの教えは入っていないと大問題のように言うのだけれど、それはブッダの教えを一人の人間の教えとして考える態度であって、神を信じる態度ではないように思う。
宗教的な心情を思うなら、ブッダが教えたところの神(にあたるもの)が居て、後の仏教を発展させてきた多くの高僧・名僧は、宗教的体験をしてきて、その教えを深化させてきたとも言える。時代とともに何度でも仏の教えが更新されて何らおかしくはない。
そうした神を否定したら、そもそも宗教が成り立たないのではないか。
ブッダが一人であろうと複数であろうと、それがそんなに大きな問題だろうか。
著者はキリスト教において、イエスの復活などという荒唐無稽なことを否定したら、キリスト教が成立しない。「史的イエス」という考え方は行き場を失ったともいう。
そりゃそうかもしれないだろう、けれどこんなことで宗教と科学の対立や調和の問題が終わるというほど単純な話じゃないのではないだろうか。
やっぱり、信じるものは救われるのであろう。
(私自身は「救われないもの」の一人だろうと思うけど)
というわけで、お釈迦様がいたかどうか、それはわからない。
各種の経典類は多くの仏教徒がこの形にしてきたものであることは歴史的事実である、ただし、そのなかにお釈迦様の言葉がそのまま入っているかどうか、それもわからない。
著者によると、仏教が西欧に知られ、研究対象になったのは比較的最近のことであり、原始仏教がどんなものであったのか、経典成立史は、というような問題意識は、それからのことだそうである。
ならば、それまでの仏教の発展はどう理解すべきなのだろう。
ところで、この本を読んでいて、ふと次の小咄を思い出した。
お経もこの定期券みたいなものだったりして。
ありがたい、ありがたい。
腰巻(写真参照)に書かれているように「ブッダは創作された一つの観念である」という本。
もちろんブッダに限らず、偉人の伝記にはその人を称揚するためか、話が作られるということは良くある。アリエナイ奇跡譚がくっついてくる。
ただ、そういう場合は、その人の実在は動かしがたいという前提で、どの話は事実で、どれが作り話かということになるわけだが、この本では、一人の人間としてはブッダは実在しないという。ブッダは今更言う必要もないが、もともと「悟った者」という普通名詞である。普通名詞である以上、ブッダの集団がいてもブッダであるというわけだ。
まぁ、そういう説を出しても、否定できるだけの証拠もないのだろうとは思う。
釈迦入滅後、お釈迦様の骨は8カ所に分けて奉納され、さらにアショーカ王がうち7つを発掘、8万4000の寺院に小分けして配布したという。人間の骨は3kgぐらい(乾燥重量だとさらに少ない?)だから、1粒が小さすぎるなら、複数人説の根拠になるかなと思ったが、計算してみると、3kg×7/8÷84,000=0.03125g、玄米1粒の重さは0.022gあたりというから、むしろ仏舎利として納得できる数値である。
著者は古い仏教経典には一貫性がなく、それは一人のブッダのものではなく、複数のブッダによるものだから当然だというわけだけれど、「嘘も方便」が当時からあったなら、一貫性がなくてもおかしくはないとも考えられる。
ブッダ複数人説を否定したいと考えているわけではないけれど、この著者は宗教と科学をどう調和させているのだろう。
著者は、我が国仏教にはもともとのブッダの教えは入っていないと大問題のように言うのだけれど、それはブッダの教えを一人の人間の教えとして考える態度であって、神を信じる態度ではないように思う。
宗教的な心情を思うなら、ブッダが教えたところの神(にあたるもの)が居て、後の仏教を発展させてきた多くの高僧・名僧は、宗教的体験をしてきて、その教えを深化させてきたとも言える。時代とともに何度でも仏の教えが更新されて何らおかしくはない。
そうした神を否定したら、そもそも宗教が成り立たないのではないか。
ブッダが一人であろうと複数であろうと、それがそんなに大きな問題だろうか。
著者はキリスト教において、イエスの復活などという荒唐無稽なことを否定したら、キリスト教が成立しない。「史的イエス」という考え方は行き場を失ったともいう。
そりゃそうかもしれないだろう、けれどこんなことで宗教と科学の対立や調和の問題が終わるというほど単純な話じゃないのではないだろうか。
やっぱり、信じるものは救われるのであろう。
(私自身は「救われないもの」の一人だろうと思うけど)
というわけで、お釈迦様がいたかどうか、それはわからない。
各種の経典類は多くの仏教徒がこの形にしてきたものであることは歴史的事実である、ただし、そのなかにお釈迦様の言葉がそのまま入っているかどうか、それもわからない。
著者によると、仏教が西欧に知られ、研究対象になったのは比較的最近のことであり、原始仏教がどんなものであったのか、経典成立史は、というような問題意識は、それからのことだそうである。
ならば、それまでの仏教の発展はどう理解すべきなのだろう。
ところで、この本を読んでいて、ふと次の小咄を思い出した。
あ、定期券が落ちたぁる……
届けたらなあかん思うけど、名前書いたぁらへんがな。
そやけど、けったいな定期券やなぁ、日付が書いたぁらへん……
そういうたら、駅の名前も書いたぁらへん…………
わし、なんでこれが定期券やと思たんやろ?
お経もこの定期券みたいなものだったりして。
ありがたい、ありがたい。