「足利将軍たちの戦国乱世」
山田康弘「足利将軍たちの戦国乱世―応仁の乱後、七代の奮闘」について。
副題に「応仁の乱後」とある。応仁の乱がおさまって世は落ち着きをとりもどしたかのように思っていたけれど、どうしてどうして、乱後の権力闘争は、大規模な戦闘は少ないものの、その流れはなかなかドラマティックである。
本書は、そのドラマティックな権力闘争をわかりやすく追いかけてくれる。
同じ著者が編集した山田康弘・編集, 日本史史料研究会・監修「戦国期足利将軍研究の最前線」という本では、本書と同時代の足利将軍家の実状を詳らかにする論文集だが、それらの研究成果も踏まえてだと思うけれど、あえて細かい史料批判などは加えずに、大掴みに権力闘争の流れ―つまり誰から誰へ権力が移行するのか、それへの対抗はどうだったのか、それぞれに将軍、その取り巻き、大名たちがどういう利害にもとづいてそう動いたのかが解説されている。ドラマのプロットを書いたらこんなふうになるのかなと思うぐらい。
全体については上のように総括できると思うけれど、それについては目次を見ればだいたい想像がつくと思う。本記事ではそういうストーリーの中で考えることで室町幕府・足利将軍がどういうものだったのかが理解されるように思う。
私が習った学校教育では、室町幕府は、有力大名に支えられる体制であり、鎌倉幕府や江戸幕府のような強い集権体制ではなかったと教えられた記憶がある。
だが鎌倉幕府も初期においては将軍家自体には実力はなく、有力御家人のほうに力があったはずなのに、「いざ鎌倉」というように将軍との強い主従関係があったのはなぜなのか。
本書では、室町幕府が諸国に分権的な体制をつくったことを次のように説明する。
副題に「応仁の乱後」とある。応仁の乱がおさまって世は落ち着きをとりもどしたかのように思っていたけれど、どうしてどうして、乱後の権力闘争は、大規模な戦闘は少ないものの、その流れはなかなかドラマティックである。
本書は、そのドラマティックな権力闘争をわかりやすく追いかけてくれる。
同じ著者が編集した山田康弘・編集, 日本史史料研究会・監修「戦国期足利将軍研究の最前線」という本では、本書と同時代の足利将軍家の実状を詳らかにする論文集だが、それらの研究成果も踏まえてだと思うけれど、あえて細かい史料批判などは加えずに、大掴みに権力闘争の流れ―つまり誰から誰へ権力が移行するのか、それへの対抗はどうだったのか、それぞれに将軍、その取り巻き、大名たちがどういう利害にもとづいてそう動いたのかが解説されている。ドラマのプロットを書いたらこんなふうになるのかなと思うぐらい。
一人の主人公にスポットをあててストーリーを創る大河ドラマなどとは違い、主人公が入れ替わり立ち替わりするわけで、視聴者が感情移入するのは難しいかもしれないが、これはこれでドラマにしても面白いものになるのではないかと思う。
いってみれば、『源氏物語』で光源氏なきあと、その子・孫の世代が描かれる(宇治十帖)ようなイメージのもの。
はしがき | |
序 章 戦国時代以前の将軍たち | |
1 不安定であった理由 | |
将軍存立の仕組をさぐる/補完しあう将軍と諸大名 | |
2 なぜ応仁の乱が起きたのか | |
初代尊氏から四代義持へ/天皇はなぜ存続したのか/八代将軍義政の登場/応仁の乱へ | |
第一章 明応の政変までの道のり | |
―九代将軍義尚と一〇代将軍義稙 | |
1 悲運な若武者・義尚 | |
義政と義視の兄弟/応仁の乱の結末/父と子の軋轢/なぜ自身で出陣したのか/戦塵のなかで死す | |
2 将軍を逮捕せよ―明応の政変 | |
将軍候補は二人あり/義稙が将軍となる/親征はじまる/明応の政変/虜囚の辱めを受く | |
第二章 「二人の将軍」の争い | |
―義稙と一一代将軍義澄 | |
1 義稙が脱走す | |
北陸で再起をはかる/いきづまる情勢/大敗した前将軍 | |
2 苦悶する義澄 | |
対立する義澄と政元/たがいに補完しあう/変人・細川政元/細川一門の大騒動 | |
3 ふたたび義稙が将軍となれり | |
義澄が去り、義稙が戻った/暗殺されかかった義稙/決戦、船岡山/出奔した義稙/痛恨の判断ミス/京都の土をふたたび踏めず | |
第三章 勝てずとも負けない将軍 | |
―一二代将軍義晴 | |
1 都落ちすること数度におよぶ | |
義晴とは何者か/動乱ふたたび生起す/苦戦する細川高国/和睦ならず/高国憤死せり/本願寺を焼き討ちにせよ/勝者は誰か | |
2 小康の治を保つ | |
安定に向かう義晴の立場/「頼りにされていた」将軍/将軍はどう裁いたか | |
第四章 大樹ご生害す | |
一三代将軍義輝 | |
1 細川と三好のどちらを選ぶか | |
北白川城包囲事件/父義晴が死す/重臣伊勢貞孝の裏切り/連携相手の取捨に迷う | |
2 将軍御所炎上す | |
五年ぶりの京都/台頭する義輝/まさかの凶変 | |
第五章 信長を封じこめよ | |
―一五代将軍義昭 | |
1 足利義栄と競いあう | |
剣を取った義昭/近江から越前に退く | |
2 信長と手を組む | |
念願の一五代将軍となる/苦戦する義昭と信長/信長包囲網をくずせ/信長と袂をわかつ | |
3 まだまだ終わらず | |
毛利氏のもとに駆けこむ/なぜ包囲網は失敗したのか/将軍家の再興ならず | |
終 章 なぜすぐに滅びなかったのか | |
1 将軍の利用価値とは何か | |
いくつかの危機/なぜ大名は将軍を支えたのか/高いランクの栄典がほしい/正当化根拠の調達など/交渉のきっかけをえるなど/安定的でも十分でもない | |
2 戦国時代の全体像を模索する | |
全体の「見取り図」/将軍の活動領域はどちらか/〈天下〉における三つの側面/「闘争・分裂」だけにあらず/なぜ滅亡していったのか | |
あとがき |
私が習った学校教育では、室町幕府は、有力大名に支えられる体制であり、鎌倉幕府や江戸幕府のような強い集権体制ではなかったと教えられた記憶がある。
だが鎌倉幕府も初期においては将軍家自体には実力はなく、有力御家人のほうに力があったはずなのに、「いざ鎌倉」というように将軍との強い主従関係があったのはなぜなのか。
鎌倉中期には北条氏が全国の半分近くを一族がおさえ、御家人中圧倒的な実力を持つようになる。
本書では、室町幕府が諸国に分権的な体制をつくったことを次のように説明する。
にもかかわらず、守護依存の仕組みが採用されていたのは、どうしてか、それはおそらく、守護が当初、その任国内にほとんど独自の権力を有していなかったからだろう、守護は、将軍の後ろ盾がなければ国内の武士たちを統率することができなかった。したがって、そのような守護が将軍への協力を拒否する、などということはありえなかったのだ。
守護は上古の吏更務なり。 国中の治、ただこの職に依る
これは『建武式目』(初代将軍・足利尊氏が定めた基本的な施政方針)の一節である(第七条)。「守護は、古代朝廷の国司のような地方官だ」という意味であり、この直後に出された式目の追加法(建武五年閏七月二九日)にも「守護を補せらるの本意は、治国安民のためなり。人として徳あらばこれに任じ、国として益無くんばこれを改むべし」とある。すなわち、守護は治国安民を本務とし、不適任ならば将軍によってただちに罷免されて別人に交替させられる、という非世襲の職というわけである。
このように守護は当初、あくまでも将軍が京都から各国に派遣した地方官(将軍の代理人)と位置づけられ、各国を領地として私有する領主ではなかった。そして、将軍の地方支配や有事対応は、いずれもこうした守護のあり方を前提にして組み立てられていたのである。しかし、このような「守護に依存する」という将軍存立の仕組は、のちに将軍家の禍根となっていく。
つまり、当初は守護は将軍の命でいかようにも首をすげかえられる存在で、将軍が大きな直轄領・強い直轄軍を持つ実力第一の存在である必要はなく、またそれを志向もしなかったとする。
それが、各地の守護が任地の領民との関係を築くようになると、次第に世襲化し、守護大名が育つ。これが「のちに将軍家の禍根」ということだ。
不思議なのは北条を滅ぼしたなら、全国の半分近くに「無主の地」ができただろうから、そのうちの半分でも足利氏が押さえればどのような国家体制をとろうと足利が実力第一の存在になれたのではないか、なぜそうできなかったのか、あるいはしなかったのか、幕府草創期の経済・土地領有関係を知りたいものだ。
それについては措いて、幕府がそういう出自で体制がそうなっている以上、将軍は自分を支える有力者を捕まえなければならないことになる。それが実力第一の大名であればそれでよし、そうでなければ実力の劣る大名たちを連衡させて指揮下におく、そういう「政治」を行うことになるわけだ。
そうした権力闘争の中心にあったのが足利将軍である。そして足利将軍が他の大名と異なる権威を持ちえたのは、朝廷から授かる官位である。
つまり実力において抜きんでることができない将軍は、朝廷の権威を頼らねばならないことを自覚していた。
さて、とはいってもただ官位を受けるだけでは、権威を示すには十分ではない。また、大きな所領からのあがりがなく財政的に厳しい将軍家にとっては、裁判を行い、その手数料を稼ぐことが必要となる。
上にあげた同じ著者による「戦国期足利将軍研究の最前線」には具体的な事例を史料をもとに紹介してあったと思うが、本書では次のように説明されている。
将軍と朝廷、将軍と大名たち、そのどちらにおいても、相利共生の関係がある。それが落ち着いているときは問題ないのだが、ここに別の将軍をたてる勢力が現れれば、この関係は大分裂、それこそが戦国期足利将軍を中心とした権力闘争が巻き起こるという構図。
歴史を動かしたわけではないが(動かそうとして失敗する例はある)、歴史の動きの中心には将軍がいた、そういうことらしい。
これは『建武式目』(初代将軍・足利尊氏が定めた基本的な施政方針)の一節である(第七条)。「守護は、古代朝廷の国司のような地方官だ」という意味であり、この直後に出された式目の追加法(建武五年閏七月二九日)にも「守護を補せらるの本意は、治国安民のためなり。人として徳あらばこれに任じ、国として益無くんばこれを改むべし」とある。すなわち、守護は治国安民を本務とし、不適任ならば将軍によってただちに罷免されて別人に交替させられる、という非世襲の職というわけである。
このように守護は当初、あくまでも将軍が京都から各国に派遣した地方官(将軍の代理人)と位置づけられ、各国を領地として私有する領主ではなかった。そして、将軍の地方支配や有事対応は、いずれもこうした守護のあり方を前提にして組み立てられていたのである。しかし、このような「守護に依存する」という将軍存立の仕組は、のちに将軍家の禍根となっていく。
つまり、当初は守護は将軍の命でいかようにも首をすげかえられる存在で、将軍が大きな直轄領・強い直轄軍を持つ実力第一の存在である必要はなく、またそれを志向もしなかったとする。
それが、各地の守護が任地の領民との関係を築くようになると、次第に世襲化し、守護大名が育つ。これが「のちに将軍家の禍根」ということだ。
不思議なのは北条を滅ぼしたなら、全国の半分近くに「無主の地」ができただろうから、そのうちの半分でも足利氏が押さえればどのような国家体制をとろうと足利が実力第一の存在になれたのではないか、なぜそうできなかったのか、あるいはしなかったのか、幕府草創期の経済・土地領有関係を知りたいものだ。
それについては措いて、幕府がそういう出自で体制がそうなっている以上、将軍は自分を支える有力者を捕まえなければならないことになる。それが実力第一の大名であればそれでよし、そうでなければ実力の劣る大名たちを連衡させて指揮下におく、そういう「政治」を行うことになるわけだ。
そうした権力闘争の中心にあったのが足利将軍である。そして足利将軍が他の大名と異なる権威を持ちえたのは、朝廷から授かる官位である。
しかし、義教は政治への意欲に燃えていたから、征夷大将軍にならないまま執政を開始しようとした。このことはさきにも述べたように、このころはすでに、足利氏の当主となったものはそれだけで、天下を差配することが可能であったことを物語っている。
ところが、義教はこのとき、儒者の清原常宗入道から次のような諫言をうけた。すなわち、義教が征夷大将軍にならないままで天下を差配する、というのは好ましいことではない。なぜならば、これでは「征夷大将軍にならずとも、実力さえあれば誰もが天下を差配することが可能だ」ということになりかねないからである。それは、いま天下を差配している足利氏にとっては危険きわまりないことだろう。
そこで――と常宗は助言する。これを防ぐためには、足利氏しか征夷大将軍の称号を天皇から授与されない、という状況をつくったうえで、「天皇から征夷大将軍の称号を授けられたものしか、天下を差配することはできない」ということにしておきなさい。そしてそのためには、このことを広く世間に認知させねばならないから、義教はいま、征夷大将軍の称号を天皇からきちんと授けられたあとで天下を差配すべきなのだ――常宗は、このように義教に提言したのである。義教はこれを聞いて納得し、天皇から征夷大将軍の称号をえるまで一年ほど、表立ったかたちでみずから執政することは控えた。
さてこの常宗諫言は、中世史家の佐藤進一氏が指摘したように、足利氏にとって「天皇制の存在が不可避の要請であることを説明した注目すべき文字」といえよう(『日本中世史論集』)。
ところが、義教はこのとき、儒者の清原常宗入道から次のような諫言をうけた。すなわち、義教が征夷大将軍にならないままで天下を差配する、というのは好ましいことではない。なぜならば、これでは「征夷大将軍にならずとも、実力さえあれば誰もが天下を差配することが可能だ」ということになりかねないからである。それは、いま天下を差配している足利氏にとっては危険きわまりないことだろう。
そこで――と常宗は助言する。これを防ぐためには、足利氏しか征夷大将軍の称号を天皇から授与されない、という状況をつくったうえで、「天皇から征夷大将軍の称号を授けられたものしか、天下を差配することはできない」ということにしておきなさい。そしてそのためには、このことを広く世間に認知させねばならないから、義教はいま、征夷大将軍の称号を天皇からきちんと授けられたあとで天下を差配すべきなのだ――常宗は、このように義教に提言したのである。義教はこれを聞いて納得し、天皇から征夷大将軍の称号をえるまで一年ほど、表立ったかたちでみずから執政することは控えた。
さてこの常宗諫言は、中世史家の佐藤進一氏が指摘したように、足利氏にとって「天皇制の存在が不可避の要請であることを説明した注目すべき文字」といえよう(『日本中世史論集』)。
つまり実力において抜きんでることができない将軍は、朝廷の権威を頼らねばならないことを自覚していた。
なので将軍は朝廷を支援し続ける。そういう相利共生である。
さて、とはいってもただ官位を受けるだけでは、権威を示すには十分ではない。また、大きな所領からのあがりがなく財政的に厳しい将軍家にとっては、裁判を行い、その手数料を稼ぐことが必要となる。
上にあげた同じ著者による「戦国期足利将軍研究の最前線」には具体的な事例を史料をもとに紹介してあったと思うが、本書では次のように説明されている。
その場合、「日行事」(内談衆の当番。数日ごとに持ちまわりで担った)が内談衆の統一見解を「手日記」と称される文書に記し、それを義晴に上申してその意向をうかがった。すると、義晴は内談衆の統一見解を参考にして自分の判断を下し(義晴は内談衆の見解に拘束されずに判断を下すことができた)、これを日行事に伝えた。そこで日行事は、義晴の上意を「賦」と呼ばれる文書に記して奉行衆に伝達し、次いで奉行衆はこの上意にしたがって、一定の書式をもつ判決文書(研究者はこれを「幕府奉行人奉書」と呼んでいる)を作成してこれを訴訟当事者に下した。こうして裁判は完了したのである (山田康弘 『戦国期室町幕府と将軍』)。
さて、ここで裁判について少し詳しく述べたのは、細川晴元や六角定頼が裁判を指揮していたわけではなかったことを示したかったからである。よく「義晴は将軍の空名をもつだけで、まったく細川らの傀儡にすぎなかった」などといわれることがあるが、それは誤りである。細川らは義晴政権の支柱であり、義晴主宰の裁判にも部分的に介入することはあった。しかし、裁判を完全に牛耳っていたわけでは決してなかった。
なお、さきにも述べたように、将軍に裁判を希望するものは礼銭を納めなければならなかった。この礼銭は将軍の貴重な財源となったから、義晴や内談衆は、多くの裁判が将軍に依頼されるよう、裁判の円滑な遂行に注力し、 裁判機関としての信頼性向上に専心した。
さて、ここで裁判について少し詳しく述べたのは、細川晴元や六角定頼が裁判を指揮していたわけではなかったことを示したかったからである。よく「義晴は将軍の空名をもつだけで、まったく細川らの傀儡にすぎなかった」などといわれることがあるが、それは誤りである。細川らは義晴政権の支柱であり、義晴主宰の裁判にも部分的に介入することはあった。しかし、裁判を完全に牛耳っていたわけでは決してなかった。
なお、さきにも述べたように、将軍に裁判を希望するものは礼銭を納めなければならなかった。この礼銭は将軍の貴重な財源となったから、義晴や内談衆は、多くの裁判が将軍に依頼されるよう、裁判の円滑な遂行に注力し、 裁判機関としての信頼性向上に専心した。
将軍と朝廷、将軍と大名たち、そのどちらにおいても、相利共生の関係がある。それが落ち着いているときは問題ないのだが、ここに別の将軍をたてる勢力が現れれば、この関係は大分裂、それこそが戦国期足利将軍を中心とした権力闘争が巻き起こるという構図。
歴史を動かしたわけではないが(動かそうとして失敗する例はある)、歴史の動きの中心には将軍がいた、そういうことらしい。