「足利将軍たちの戦国乱世」(その2)

ほかの記事を優先させたので、ちょっと間があいたけれど
山田康弘「足利将軍たちの戦国乱世―応仁の乱後、七代の奮闘」の2回目。
2回目は、将軍が権力闘争の中心から外れていく、つまり室町幕府終焉への動きに注目する。

71Pof9wEVNL_SL1500_.jpg その発端は、三好氏による13代将軍足利義輝の殺害(永禄の変)である。このとき足利義栄を将軍にたてる三好側は義輝だけでなく、その弟の足利周暠も殺害しており、奈良にいた義昭(覚慶)も殺害される危険が大きかった。
であれば義昭側が黙って殺されるのを待つわけにはゆかない。
 その後、義昭は三好氏を討って将軍家を再興すべく、剣を取って立ちあがった。まずは矢島において還俗し、「足利義秋」と称した(のちに義昭に改名)、次いで朝廷に願って「左馬頭」の官途も入手した。また、母方の伯父、大覚寺義俊(京都・大覚寺の門跡)と連和し、味方を募って京都の北、丹波方面で反三好の兵を挙げさせた(ただし、この蜂起は失敗した)。さらに、各地の諸大名にたいして「上洛して兄の敵、三好・松永を討ちたいので協力せよ」との号令を発した。
 すると、この号令に応じたものがあった。尾張国(愛知県北西部)の大名・織田信長である。信長は、少し前に今川義元(駿河国[静岡県] などの大名)を討ち(一五六〇年五月)、このころは尾張の北隣、美濃国に勢力を拡大せんとしていた。
 義昭は、信長からの申し出を聞いてよろこび、彼と手を組むことにした。そもそも当時、将軍家は前将軍・義輝が三好らに殺害されてまさに滅亡の淵にあった。このような逆風から抜けだして義昭が世に出るためには、強力な「推進力」が欠かせない。義昭はこの推進力としての役目を信長に求めた。この決断は、その後の展開を考えれば正しかったといえよう。義昭はさっそく信長のもとに近臣を派遣し、上洛作戦を練った。

はしがき
 
序 章 戦国時代以前の将軍たち
 1 不安定であった理由
将軍存立の仕組をさぐる/補完しあう将軍と諸大名
 2 なぜ応仁の乱が起きたのか
初代尊氏から四代義持へ/天皇はなぜ存続したのか/八代将軍義政の登場/応仁の乱へ
 
第一章 明応の政変までの道のり
―九代将軍義尚と一〇代将軍義稙
 1 悲運な若武者・義尚
義政と義視の兄弟/応仁の乱の結末/父と子の軋轢/なぜ自身で出陣したのか/戦塵のなかで死す
 2 将軍を逮捕せよ―明応の政変
将軍候補は二人あり/義稙が将軍となる/親征はじまる/明応の政変/虜囚の辱めを受く
 
第二章 「二人の将軍」の争い
―義稙と一一代将軍義澄
 1 義稙が脱走す
北陸で再起をはかる/いきづまる情勢/大敗した前将軍
 2 苦悶する義澄
対立する義澄と政元/たがいに補完しあう/変人・細川政元/細川一門の大騒動
 3 ふたたび義稙が将軍となれり
義澄が去り、義稙が戻った/暗殺されかかった義稙/決戦、船岡山/出奔した義稙/痛恨の判断ミス/京都の土をふたたび踏めず
 
第三章 勝てずとも負けない将軍
―一二代将軍義晴
 1 都落ちすること数度におよぶ
義晴とは何者か/動乱ふたたび生起す/苦戦する細川高国/和睦ならず/高国憤死せり/本願寺を焼き討ちにせよ/勝者は誰か
 2 小康の治を保つ
安定に向かう義晴の立場/「頼りにされていた」将軍/将軍はどう裁いたか
 
第四章 大樹ご生害す
一三代将軍義輝
 1 細川と三好のどちらを選ぶか
北白川城包囲事件/父義晴が死す/重臣伊勢貞孝の裏切り/連携相手の取捨に迷う
 2 将軍御所炎上す
五年ぶりの京都/台頭する義輝/まさかの凶変
 
第五章 信長を封じこめよ
―一五代将軍義昭
 1 足利義栄と競いあう
剣を取った義昭/近江から越前に退く
 2 信長と手を組む
念願の一五代将軍となる/苦戦する義昭と信長/信長包囲網をくずせ/信長と袂をわかつ
 3 まだまだ終わらず
毛利氏のもとに駆けこむ/なぜ包囲網は失敗したのか/将軍家の再興ならず
 
終 章 なぜすぐに滅びなかったのか
 1 将軍の利用価値とは何か
いくつかの危機/なぜ大名は将軍を支えたのか/高いランクの栄典がほしい/正当化根拠の調達など/交渉のきっかけをえるなど/安定的でも十分でもない
 
 2 戦国時代の全体像を模索する
全体の「見取り図」/将軍の活動領域はどちらか/〈天下〉における三つの側面/「闘争・分裂」だけにあらず/なぜ滅亡していったのか
 
あとがき
多くのドラマでは、義昭は、朝倉を見限って織田に(初めて)やってきたとか、明智光秀が織田信長に引き合わせたような描き方が多いので、私もそのように思っていたのだけれど、本書によると、光秀のことはともかく、そもそも義昭が将軍を目指すにあたって、各地の有力大名の支援を求めた当初から、信長は応じているということだ。

朝倉を見限ってはじめて信長を頼ったのでもなく、まず信長を頼ったが信長は美濃を平定しなければ上洛が難しいので朝倉を頼ったということらしい。(そして朝倉が動かず、岐阜を平定した信長のところに戻った)


信長がなぜ応じただが、信長の尾張統治の正統性は盤石ではなく、将軍権威を利用するチャンスととらえたからだろう。

そして周知のとおり、義昭と信長の間もまた相利共生と言える状態が続く。少し長いけれど引用しよう。
 こうしたなか、信長は、反信長派の大名たちが必ずしも相互に団結していない隙をつき、彼らと個別に交渉して和睦に誘った。
 この策略は奏功し、まずは六角氏を、次いで三好三人衆を和睦に応じさせることに成功した(一五七〇年一一月)。そこで信長は、次に朝倉氏とも和睦しようとした。これにたいして朝倉氏も、信長との和睦に前向きな姿勢を示した。というのは、厳冬の季節を迎えつつあったからである。このままでは、近江に進出していた朝倉軍は、積雪によって越前への帰国が困難になる可能性があった。
 しかし、信長と朝倉との和睦がすぐに成立したわけではなかった。両者は現に交戦中であり、それゆえ和睦の「きっかけ」がなかったからである。そこで、義昭がここで動いた。義昭はかつて朝倉氏のもとに亡命していたから、朝倉とは旧知の間柄であった。それゆえ、信長の要請をうけてみずから京都から近江の三井寺(滋賀県大津市)まで下り、信長・朝倉双方を取りもったのだ。この結果、信長と朝倉氏は和睦するにいたった。 一五七〇年(元亀元年) 一二月のことである。
 これを見た本願寺や浅井氏、延暦寺も、その後あいついで信長と和睦した。彼らは和睦に反対であった。しかし、朝倉抜きでは信長に対抗することができなかったからである。こうして、信長と反信長派とのあいだで和睦が成立した。
 この結果、反信長派は、信長を倒す千載一遇の好機を逸した。彼ら反信長派は、信長の勢威拡大に対抗すべく、信長という「共通の敵」を前にして団結し、その封じこめをこころみた。いわゆる信長包囲網、「バランシング」(合従策)をとったわけである。しかし、反信長派の団結は、信長を追いつめるにしたがってゆるんでいった。そこを信長につかれ、個別に交渉を持ちかけられることで和睦に引きずりこまれてしまった。
 いっぽう、信長はこの和睦によって、生涯最大の危機を脱することに成功した。この成功の一因は、義昭の働きにあった。義昭は信長不在中の京都を守り、また、敵対者と和睦する契機を信長に提供してやることで彼を助けたからである。信長にとって、義昭は利用価値の高い存在であったのだ。それゆえ信長は、義昭を守護し、義昭が十分に持ちあわせていない軍事・警察力を提供して彼を支えた。
 このように、義昭と信長は、相互に補完しあう関係にあった。したがって、二人のうちどちらかが他方より圧倒的に優位に立つ、ということはなかった。よく「義昭は信長の傀儡になっていた」といわれるが、それは事実ではない。もっとも、二人のあいだに亀裂が走ったこともあった。たとえば、信長が義昭にたいし、五ヵ条におよぶ要求を突きつけたことがあった(一五七〇年正月二三日付。 石川武美記念図書館成堂文庫蔵)。このとき信長は「義昭がこれまで下した裁判の判決文は、すべていったんこれを破棄し、あらためて考えなおして発給されたし」といったことを求めた。
 だが、二人の関係が破綻することはなかった。双方とも、たがいに相手を必要としていた。だから、多少の軋轢があっても「離婚」するわけにはいかなかったのである。

信長の最大の危機を救うために義昭はしっかりと将軍としてふるまったとのことだ。二人の間に少々の軋轢があっても、相利共生の構造はそれなりに続いたようだ。
その後はよく描かれるように、武田信玄の進軍による直接・間接の動きの中で、義昭が反信長の兵をあげることになる。

ただ注意しなければならないのは、応仁の乱でもそうだったが、諸将はどちらに与するか、あるいは静観するかの判断は、そのときどきの情勢によって随分変わるということ。昨日の敵は今日の友なのである。
そしてその判断をいつ行い、いつそれを表に出すかもまた、情勢を変える効果があるわけだから、信長方、義昭方と決めつけるのは難しそうだ。それが戦国期というものだろう。

そしてコテンパンにやられた義昭だが、本能寺の変が義昭に復活の機会を提示する。
ここでも相利共生関係をどうつくるのかという、戦国期足利将軍らしい動きを義昭がすることになるようだ。あまりドラマでは描かれないようなので転載しておこう。
 義昭は、信長の滅亡によって窮地を脱した。
 すると、そのような義昭に近づいてきたものがあった。柴田勝家(信長の重臣である。柴田はこのころ、信長の遺産をめぐって羽柴秀吉と争っていた。それゆえ、上杉や毛利といった、旧反信長の大名たちと手を組まんと欲した。そこで柴田は、毛利らとの仲介を周旋してもらおうと、彼らと人脈のある義昭に近づいたのだ。義昭はこれに応じた。 柴田に協力することで彼に恩を売り、その力を使って帰京をはかろうとしたわけである。だがその後、柴田は秀吉に討滅されてしまった(一五八三年四月)。この結果、義昭の目論見は外れた。
 ところが、今度は羽柴秀吉が義昭に接近してきた。 秀吉は、柴田を討滅したあと織田信雄(信長の子) や徳川家康と争った(その後秀吉は、一五八四年四月に小牧・長久手の戦いで家康らとついに激突した)。そうした秀吉には、毛利氏ら旧反信長派大名たちと近しい義昭が「利用「価値あり」と映ったのだろう。
 秀吉は義昭に接触し、その帰京を約束することで協力を求めた。義昭はこれに応じ、京都帰還の期待を抱いた。彼の近臣はこのころ、「義昭様は今年の春には、秀吉殿の尽力によって帰京することができそうだ」と語っている(『上井覚兼日記』)。しかし、秀吉はその後、信雄や家康を降すと(一五八四年末)、義昭への関心を失ってしまった。そのため、義昭の帰京が実現することはなかった。

このときは帰京は実現しなかったが、この後、九州攻めでは、義昭は秀吉からの求めに応じて島津への降伏勧告を行い、それが認められたのか帰京が許され、秀吉の臣下となる。
本書は、この義昭の晩年を、徳川慶喜と比べて次のように描いている。
 その後、義昭は、秀吉の奏請によって朝廷から准三宮(皇后などに準じる身位)の栄位を賜り、秀吉配下の諸大名中、最高ランクの格式をえた。だが、義昭がこのあと政治の表舞台で活躍することはなかった。彼は剃髪して「昌山」と号し、静かに余生を送った。ちなみに、こうした義昭の生き方は、最後の徳川将軍・慶喜のそれと重なるところがある。慶喜も、また将軍退任後は政治から離れ、明治・大正を静かに生きたからである。 義昭も慶喜も、将軍在任中は「幕末」の動乱のなかで権力闘争に明けくれた。しかし、二人ともその本性は、争いを好まない、温和な人物だったのかもしれない。

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