「足利将軍たちの戦国乱世」(その3)
山田康弘「足利将軍たちの戦国乱世―応仁の乱後、七代の奮闘」の3回目。
本書の終章は「なぜすぐに滅びなかったのか」と題して、将軍の存続、そして終焉の理由をまとめている。
全体の総括となっているので、今日の記事も、ここからの引用でいっぱいである。
まず戦国期の将軍にとって最大の課題について。
有力大名の臣下になるのなら気楽なのだが、戦国大名の誰かの臣下になったのでは、戦国はさらに収拾のつかないものになったのではないだろうか。天下を一統する、つまり室町将軍に代わる権威をもちえた秀吉まで待ってはじめて臣下になれたということだろう。秀吉が天下人になったことにより、ようやく将軍の重責がなくなったということになり、その臣下として楽隠居できたとも言えるかもしれない。ご苦労様でした、である。
さてその難儀さは次のようにまとめられている。
似通った項目もあるけれど、いずれも大名との連携の難しさを表している。どこかの国でも同盟国の戦争に巻き込まれる心配とか、普段からけっこう無理な注文も聴いているとか、現代の国際関係にも通ずるものだ。
『⑦「浮気」の報い』があげられているが、将軍のなかには、特定の大名だけ頼ると結局、言いなりになってしまうから、対抗勢力を育てようとしたり、あるいは乗り換えようと考えたりする。義昭は信長から、武田や毛利へと乗り換えようとして没落してしまった。
大名側からの将軍の利用価値は次のようにまとめられている。
私が特に注目する一つが、『㋒メンツを救いショックを吸収する装置として使う』で、たとえば、「負けたわけではないが、将軍が戦をやめよというから、畏まってご指示にしたがう」というような使い方。忖度の逆バージョンのような感じ。
こういう使い方ができる存在はいつでも必要で、将軍不在時に天皇を使ったのが織田信長かもしれない。
『㋝幕府法の助言をえる』は少しわかりにくいが、もつれた争訟を法(将軍)の権威でおさめるような使い方だろう。これが成立するのは、戦国大名がそれぞれ分国法をもって国を治めているときでも、幕府法は一応全国的に権威があったということを意味するかもしれない。
これだけ利用価値があったのになぜ結局幕府は終焉を迎えたのか。長くなるが本書の結論を転載する。
新しい天下人の、新しい体制ができあがれば、旧体制の室町幕府は不要となった。
言ってしまえばあたりまえのことかもしれないが、その過渡期であった戦国時代に将軍になった人たちは、先も見えない中、とにかく将軍たろうと苦闘したようだ。
本書の終章は「なぜすぐに滅びなかったのか」と題して、将軍の存続、そして終焉の理由をまとめている。
全体の総括となっているので、今日の記事も、ここからの引用でいっぱいである。
まず戦国期の将軍にとって最大の課題について。
戦国時代に活躍した七人の将軍たちは、いずれも苦難の道を歩んだ。その根因は、何といっても将軍家に軍事力が乏しかったことにある。その直属兵力は、わずかに二〇〇〇~三〇○○人程度という、小大名のレベルでしかなかった。これは、戦国期に将軍が弱体化した結果としてそうなったのではなく、盛時よりもともと乏しかったのである。それゆえ、将軍が戦国期を生き残るためには、武力をもつどこかの有力大名と連携していくことが不可欠であった。しかし、大名との連携は、将軍にとってなかなか難儀な仕事であった。
有力大名の臣下になるのなら気楽なのだが、戦国大名の誰かの臣下になったのでは、戦国はさらに収拾のつかないものになったのではないだろうか。天下を一統する、つまり室町将軍に代わる権威をもちえた秀吉まで待ってはじめて臣下になれたということだろう。秀吉が天下人になったことにより、ようやく将軍の重責がなくなったということになり、その臣下として楽隠居できたとも言えるかもしれない。ご苦労様でした、である。
はしがき | |
序 章 戦国時代以前の将軍たち | |
1 不安定であった理由 | |
将軍存立の仕組をさぐる/補完しあう将軍と諸大名 | |
2 なぜ応仁の乱が起きたのか | |
初代尊氏から四代義持へ/天皇はなぜ存続したのか/八代将軍義政の登場/応仁の乱へ | |
第一章 明応の政変までの道のり | |
―九代将軍義尚と一〇代将軍義稙 | |
1 悲運な若武者・義尚 | |
義政と義視の兄弟/応仁の乱の結末/父と子の軋轢/なぜ自身で出陣したのか/戦塵のなかで死す | |
2 将軍を逮捕せよ―明応の政変 | |
将軍候補は二人あり/義稙が将軍となる/親征はじまる/明応の政変/虜囚の辱めを受く | |
第二章 「二人の将軍」の争い | |
―義稙と一一代将軍義澄 | |
1 義稙が脱走す | |
北陸で再起をはかる/いきづまる情勢/大敗した前将軍 | |
2 苦悶する義澄 | |
対立する義澄と政元/たがいに補完しあう/変人・細川政元/細川一門の大騒動 | |
3 ふたたび義稙が将軍となれり | |
義澄が去り、義稙が戻った/暗殺されかかった義稙/決戦、船岡山/出奔した義稙/痛恨の判断ミス/京都の土をふたたび踏めず | |
第三章 勝てずとも負けない将軍 | |
―一二代将軍義晴 | |
1 都落ちすること数度におよぶ | |
義晴とは何者か/動乱ふたたび生起す/苦戦する細川高国/和睦ならず/高国憤死せり/本願寺を焼き討ちにせよ/勝者は誰か | |
2 小康の治を保つ | |
安定に向かう義晴の立場/「頼りにされていた」将軍/将軍はどう裁いたか | |
第四章 大樹ご生害す | |
一三代将軍義輝 | |
1 細川と三好のどちらを選ぶか | |
北白川城包囲事件/父義晴が死す/重臣伊勢貞孝の裏切り/連携相手の取捨に迷う | |
2 将軍御所炎上す | |
五年ぶりの京都/台頭する義輝/まさかの凶変 | |
第五章 信長を封じこめよ | |
―一五代将軍義昭 | |
1 足利義栄と競いあう | |
剣を取った義昭/近江から越前に退く | |
2 信長と手を組む | |
念願の一五代将軍となる/苦戦する義昭と信長/信長包囲網をくずせ/信長と袂をわかつ | |
3 まだまだ終わらず | |
毛利氏のもとに駆けこむ/なぜ包囲網は失敗したのか/将軍家の再興ならず | |
終 章 なぜすぐに滅びなかったのか | |
1 将軍の利用価値とは何か | |
いくつかの危機/なぜ大名は将軍を支えたのか/高いランクの栄典がほしい/正当化根拠の調達など/交渉のきっかけをえるなど/安定的でも十分でもない | |
2 戦国時代の全体像を模索する | |
全体の「見取り図」/将軍の活動領域はどちらか/〈天下〉における三つの側面/「闘争・分裂」だけにあらず/なぜ滅亡していったのか | |
あとがき |
①選択ミス
②不安
③拘束
④連鎖没落
⑤巻きこまれ
⑥見捨てられ
⑦「浮気」の報い
似通った項目もあるけれど、いずれも大名との連携の難しさを表している。どこかの国でも同盟国の戦争に巻き込まれる心配とか、普段からけっこう無理な注文も聴いているとか、現代の国際関係にも通ずるものだ。
『⑦「浮気」の報い』があげられているが、将軍のなかには、特定の大名だけ頼ると結局、言いなりになってしまうから、対抗勢力を育てようとしたり、あるいは乗り換えようと考えたりする。義昭は信長から、武田や毛利へと乗り換えようとして没落してしまった。
大名側からの将軍の利用価値は次のようにまとめられている。
㋐栄典獲得競争の有利な展開
㋑正当化根拠の調達
㋒メンツを救いショックを吸収する装置として使う
㋓家中内対立を処理する
㋔周囲からの批判を回避する
㋕権力の二分化を防ぐ
㋖内外から合力をえる
㋗交渉のきっかけをえる
㋘敵の策謀を封じこめる
㋙情報をえる
㋚ライバルを「御敵」にする
㋛敵対大名を牽制する
㋜他大名と連携する契機をえる
㋝幕府法の助言をえる
(※多少重複する部分がある)
私が特に注目する一つが、『㋒メンツを救いショックを吸収する装置として使う』で、たとえば、「負けたわけではないが、将軍が戦をやめよというから、畏まってご指示にしたがう」というような使い方。忖度の逆バージョンのような感じ。
こういう使い方ができる存在はいつでも必要で、将軍不在時に天皇を使ったのが織田信長かもしれない。
『㋝幕府法の助言をえる』は少しわかりにくいが、もつれた争訟を法(将軍)の権威でおさめるような使い方だろう。これが成立するのは、戦国大名がそれぞれ分国法をもって国を治めているときでも、幕府法は一応全国的に権威があったということを意味するかもしれない。
これだけ利用価値があったのになぜ結局幕府は終焉を迎えたのか。長くなるが本書の結論を転載する。
なぜ滅亡していったのか
さて、これまで将軍存続の理由を探ってきたわけだが、では、なぜ将軍は滅亡することになったのだろうか。最後の将軍・義昭は将軍家の再興をはたすことができず、豊臣秀吉の一従臣としてその生涯を終えることになった。これはなぜなのだろうか。
その理由は、さしあたって三つほど想定することができよう。
まずひとつは、将軍家の脆弱な軍事力という点である。戦国期列島社会には「闘争・分裂」という側面しかなかったわけではないが、この側面があったことは厳然たる現実である。否、大名たちの上に、彼らを統制しうる警察官役が存在していない戦国社会においては、「強いか弱いか」という力の論理がモノをいう「闘争・分裂」という側面こそが、支配的な側面であったといっても過言ではない。
さすれば、そのようななかで武力の乏しい将軍 (義昭)が生き残っていくことは、かなり困難であったといえよう。それでも義昭は、諸大名をまとめ上げ、包囲網を結成して信長に軍事的に対抗せんとした。しかし、信長包囲網は有効に機能せず、義昭は将軍家の復活をはたせなかった。将軍家に十分な直属軍事力が兼備されていないという、創業期に起源する欠陥が、最後まで将軍を苦しめていったわけである。
第二は、信長や秀吉、とりわけ秀吉が、足利将軍以上の利益を諸大名に付与しはじめたことがあげられる。秀吉は大名たちが自分のもとに服属してくれば、原則としてその領土を安堵してやった。また、大名間で紛争が発生すれば、これを裁き、強制力をともなう裁決を下して紛争を解決に導いていった。この結果、大名たちは自分たちの領土を、秀吉の武力によって安定的に保ちうることになった。と同時に彼らは、近傍大名とのあいだで紛争が生起しても、戦争ではなく、強大な軍事力をもつ秀吉の裁定によって解決をはかることができるようにもなったのである。
これまで多くの大名は、自分の力だけで領土保有や近隣大名との紛争解決に努めていかねばならず、多大な精力を費消する臨戦態勢をつねに強いられてきた。その原因は、大名同士の紛争を防いでくれたり、実効性のある紛争裁定を下してくれたりする 「警察官」役のリーダーが大名たちの上に存在していなかったことにある。ところが秀吉が登場し、こうした警察官役を担うようになった。その結果、大名たちはもはや臨戦態勢をとる必要がなくなり、自力救済にともなう負担からようやく解放されることになった。
もちろん、「警察官」秀吉の裁定はときに恣意的であったし、諸大名は秀吉から安堵や裁定をうけるかわりに、秀吉から課された軍役などを十全にはたさなくてはならなかった。しかし、それを差し引いても、大名たちにとって秀吉のあたえた利点は大きかったといえる。さすればこのことが、諸大名のあいだで「足利離れ」を引きおこしていったことは十分に考えられよう。なぜならばこれまで足利将軍は、武力が乏しかったこともあって警察官役を担えず、大名たちに安定という利点を供与することができなかったからである。
第三は、秀吉の「天下人」としての地位が確立されていくにともなって「秀吉こそが大名たちの主君」といった認識が広まっていったことが想定できよう。
秀吉は一五八七年(天正一五年)末、長らく毛利氏のもとにあった義昭の帰京を許したのち、これをみずからの一従臣とした。また、秀吉は天皇を持ちだし、「自分は、天皇から日本六十余州を進止せよと命じられた」と称することで、自身が諸大名はもとより足利とも別格な、列島を差配する資格のある存在であることを内外に宣伝していった(「島津家文書」)。さらに秀吉は、列島すべての たちを新たにランキングし、その頂点に秀吉を据えた。そ して、このランキングを社会の主要構成員たる大名たちに強制し、これをいっきょに受容させていった。
これら一連の施策によって、「足利ではなく、秀吉こそが大名たちの主君」といった認識が、諸大名以下、社会に広まったであろうことは想像にかたくない。それは秀吉治世期、足利旧将軍家が忘れられた存在になっていったことが証明していよう。最後の将軍・義昭が没したとき「近年、将軍の号、蔑ろなり。有名無実、いよいよもって相果ておわんぬ」といわれたことは、さきに述べたとおりである。
つまり、足利氏(義昭)は、力の面で秀吉らに圧伏され、利益の面でもおくれをとり、そして、かつてのごとき「大名たちの主君」でもなくなっていったのである。この結果、足利将軍家はついに復活することなく、滅亡することになったのではないか。今のところ、このように考えておきたい。
さて、これまで将軍存続の理由を探ってきたわけだが、では、なぜ将軍は滅亡することになったのだろうか。最後の将軍・義昭は将軍家の再興をはたすことができず、豊臣秀吉の一従臣としてその生涯を終えることになった。これはなぜなのだろうか。
その理由は、さしあたって三つほど想定することができよう。
まずひとつは、将軍家の脆弱な軍事力という点である。戦国期列島社会には「闘争・分裂」という側面しかなかったわけではないが、この側面があったことは厳然たる現実である。否、大名たちの上に、彼らを統制しうる警察官役が存在していない戦国社会においては、「強いか弱いか」という力の論理がモノをいう「闘争・分裂」という側面こそが、支配的な側面であったといっても過言ではない。
さすれば、そのようななかで武力の乏しい将軍 (義昭)が生き残っていくことは、かなり困難であったといえよう。それでも義昭は、諸大名をまとめ上げ、包囲網を結成して信長に軍事的に対抗せんとした。しかし、信長包囲網は有効に機能せず、義昭は将軍家の復活をはたせなかった。将軍家に十分な直属軍事力が兼備されていないという、創業期に起源する欠陥が、最後まで将軍を苦しめていったわけである。
第二は、信長や秀吉、とりわけ秀吉が、足利将軍以上の利益を諸大名に付与しはじめたことがあげられる。秀吉は大名たちが自分のもとに服属してくれば、原則としてその領土を安堵してやった。また、大名間で紛争が発生すれば、これを裁き、強制力をともなう裁決を下して紛争を解決に導いていった。この結果、大名たちは自分たちの領土を、秀吉の武力によって安定的に保ちうることになった。と同時に彼らは、近傍大名とのあいだで紛争が生起しても、戦争ではなく、強大な軍事力をもつ秀吉の裁定によって解決をはかることができるようにもなったのである。
これまで多くの大名は、自分の力だけで領土保有や近隣大名との紛争解決に努めていかねばならず、多大な精力を費消する臨戦態勢をつねに強いられてきた。その原因は、大名同士の紛争を防いでくれたり、実効性のある紛争裁定を下してくれたりする 「警察官」役のリーダーが大名たちの上に存在していなかったことにある。ところが秀吉が登場し、こうした警察官役を担うようになった。その結果、大名たちはもはや臨戦態勢をとる必要がなくなり、自力救済にともなう負担からようやく解放されることになった。
もちろん、「警察官」秀吉の裁定はときに恣意的であったし、諸大名は秀吉から安堵や裁定をうけるかわりに、秀吉から課された軍役などを十全にはたさなくてはならなかった。しかし、それを差し引いても、大名たちにとって秀吉のあたえた利点は大きかったといえる。さすればこのことが、諸大名のあいだで「足利離れ」を引きおこしていったことは十分に考えられよう。なぜならばこれまで足利将軍は、武力が乏しかったこともあって警察官役を担えず、大名たちに安定という利点を供与することができなかったからである。
第三は、秀吉の「天下人」としての地位が確立されていくにともなって「秀吉こそが大名たちの主君」といった認識が広まっていったことが想定できよう。
秀吉は一五八七年(天正一五年)末、長らく毛利氏のもとにあった義昭の帰京を許したのち、これをみずからの一従臣とした。また、秀吉は天皇を持ちだし、「自分は、天皇から日本六十余州を進止せよと命じられた」と称することで、自身が諸大名はもとより足利とも別格な、列島を差配する資格のある存在であることを内外に宣伝していった(「島津家文書」)。さらに秀吉は、列島すべての たちを新たにランキングし、その頂点に秀吉を据えた。そ して、このランキングを社会の主要構成員たる大名たちに強制し、これをいっきょに受容させていった。
これら一連の施策によって、「足利ではなく、秀吉こそが大名たちの主君」といった認識が、諸大名以下、社会に広まったであろうことは想像にかたくない。それは秀吉治世期、足利旧将軍家が忘れられた存在になっていったことが証明していよう。最後の将軍・義昭が没したとき「近年、将軍の号、蔑ろなり。有名無実、いよいよもって相果ておわんぬ」といわれたことは、さきに述べたとおりである。
つまり、足利氏(義昭)は、力の面で秀吉らに圧伏され、利益の面でもおくれをとり、そして、かつてのごとき「大名たちの主君」でもなくなっていったのである。この結果、足利将軍家はついに復活することなく、滅亡することになったのではないか。今のところ、このように考えておきたい。
新しい天下人の、新しい体制ができあがれば、旧体制の室町幕府は不要となった。
言ってしまえばあたりまえのことかもしれないが、その過渡期であった戦国時代に将軍になった人たちは、先も見えない中、とにかく将軍たろうと苦闘したようだ。