「古代人の一生」
吉村武彦,吉川真司,川尻秋生編
「古代人の一生 老若男女の暮らしと生業」について。
編集者に3人の名前が並んでいるが、これは岩波書店「シリーズ 古代史をひらくⅡ」全体の編集者らしい。本書はその一冊で責任編集は吉村武彦となっている。
編集とは別に、5人の論文が収録されている(目次参照)
副題は「老若男女の暮らしと生業」となっているが、目次の各章を見ればわかるように、男女に注目していて、老若のほうにはあまり切り込んでいない。
また、生業という語からは、農業・漁労など、どうやって暮らしの糧を得たかという感じがあって、庶民っぽいのだけれど、本書が取り出す事例・考察は、豪族や宮廷の暮らしが中心で、そうした生産労働のことはあまりない。それは文献、考古資料に残るのは宮廷などの上層部に関することが多いからだろう。
それぞれの著者がその専門にしたがって知見を述べているので、素人にはとっつきにくいところもあるのだけれど、ジェンダーというものが歴史や考古学の研究で意識されるようになったのはそれほど古いことではない。おそらく社会でジェンダーという言葉が知られるようになったあとに、これらの研究者も意識するようになったのではないだろうか。
そしてそうした視点を得たことで、今まで研究してきたことが、実はジェンダーを考える上でも重要な成果を多く含んでいるということに気づいた、そういうことだろう。
ただ、フェミニズム的な運動の中では、その主張を優位に運ぶために、都合のよい研究成果を選び取って喧伝したのではないかというところもあるようだ。なので本書では、正確であろうとすることに意を払っているように見える。
たとえば、「婦」という文字は、女が箒を持っている形象で、これは女性を家政婦のように扱うもので、自立した女性にはふさわしくないというような話を聞いたことがあるけれど、本書では「婦」という文字について、次のように誤解を解くように指摘する。
箒は箒でも、家事労働のようなものではなく、もっと神聖なもののようだ。
研究者のなかでも、史料等の一部にフェミニズム的な部分を見つけると、それを見つけて報告すること自体は評価されるべきだけれど、フェミニズミに寄せた解釈をしてしまうこともあったようだ。たとえば、
専門家ですら自身の思想から完全にフリーになることは難しいようだが、専門外の人ともなると自分の主張を支持する「科学的根拠」になると思えば、その部分だけを(文脈をはずれることも往々にしてある)取り出して、正論だと言いがちだ。
ジェンダーのことはこのぐらいにして、「古代」といっても同質ではなく、時期によって文化習俗は異なっている。私は全然知らなかったのだけれど、人物埴輪が作られるのは古代でも一時期のことであり、それ以前はむしろ禁忌だったという。
一時期人物埴輪が作られていなかったというのは考古学上事実とのことだ。そのこと自体私には新鮮だが、その前はそれが禁忌であったというのはどういうことなのだろう。禁忌を破るには権力が必要だったとするのはそうかもしれないが、そもそも禁忌だったというのはどういう理由なのか、本書からはよく読み取れなかった(読み落としかも)。
いずれの論文もかなり専門的で、前提知識とか学界の動向とかを知らないと、ただただ畏れ入る。
歴史・考古学は常に新しい発見・知識で上書きされ続けている、それはよくわかる。
「古代人の一生 老若男女の暮らしと生業」について。
編集者に3人の名前が並んでいるが、これは岩波書店「シリーズ 古代史をひらくⅡ」全体の編集者らしい。本書はその一冊で責任編集は吉村武彦となっている。
編集とは別に、5人の論文が収録されている(目次参照)
副題は「老若男女の暮らしと生業」となっているが、目次の各章を見ればわかるように、男女に注目していて、老若のほうにはあまり切り込んでいない。
また、生業という語からは、農業・漁労など、どうやって暮らしの糧を得たかという感じがあって、庶民っぽいのだけれど、本書が取り出す事例・考察は、豪族や宮廷の暮らしが中心で、そうした生産労働のことはあまりない。それは文献、考古資料に残るのは宮廷などの上層部に関することが多いからだろう。
もちろん仕事の性別分業という点については、本書(「考古学からみる女の仕事、男の仕事」)で、マードックの性別分業のデータを引用して、傾向について注意は払っている。
刊行にあたって | |
〈古代人の一生〉を考える | 吉村武彦 |
男と女、人の一生 | 吉村武彦 |
考古学からみる女の仕事、男の仕事 | 菱田淳子 |
埴輪からみた古墳時代の男と女 | 若狭 徹 |
男の官仕え女の宮仕え | 吉川敏子 |
『万葉集』にみる女と男 ―古代の歌における虚構と現実との相関 | 鉄野昌弘 |
座談会 〈古代人の一生〉と性差 | |
吉村武彦、菱田淳子、若狭 徹 吉川敏子、鉄野昌弘、吉川真司 |
そしてそうした視点を得たことで、今まで研究してきたことが、実はジェンダーを考える上でも重要な成果を多く含んでいるということに気づいた、そういうことだろう。
ただ、フェミニズム的な運動の中では、その主張を優位に運ぶために、都合のよい研究成果を選び取って喧伝したのではないかというところもあるようだ。なので本書では、正確であろうとすることに意を払っているように見える。
たとえば、「婦」という文字は、女が箒を持っている形象で、これは女性を家政婦のように扱うもので、自立した女性にはふさわしくないというような話を聞いたことがあるけれど、本書では「婦」という文字について、次のように誤解を解くように指摘する。
さて、甲骨には「婦某」という女性名が刻まれていることがある。この「婦某」について、甲骨を整理する役割に携わった女性の名前とする説と、女性の貢納者の名前であるとする説がある。「婦」という文字のつくりは「羽はき」つまり羽をたばねて掃く道具である羽箒の象形で、高貴あるいは特別な女性を示す文字と推測されている。古トの内容から、殷代には女性が地方領主となったり、領地の管理をするなど政治的役割を果たしていたことが推測されている。
「考古学から見る女の仕事、男の仕事」(菱田淳子)
箒は箒でも、家事労働のようなものではなく、もっと神聖なもののようだ。
こういう「言葉狩り」「文字狩り」ともいうような話はあちこちにある。たとえば「子供」という表記の「供」はそなえもので、子を一人の人格として扱っていないから「子ども」と書くべきという話を聞いたころがあるが、「供」は複数を著すもので「そなえもの」という意味ではないという。
研究者のなかでも、史料等の一部にフェミニズム的な部分を見つけると、それを見つけて報告すること自体は評価されるべきだけれど、フェミニズミに寄せた解釈をしてしまうこともあったようだ。たとえば、
官人・宮人の分担と連携
つづいて後宮の内と外、すなわち宮人と官人の奉仕の関係について考える。かつて、文珠正子は『令集解』後宮職員令の注釈の「与男官共預知之(男官と共に之を預かり知る)」という字句に着目し、中務省が宮人の考叙を管掌すること、身分の低い女性の雑任が官司で働いていたことなどから、日本の後宮は男性が勤務する官司と密に繋がることを指摘した。そして、女司と男司の未分化は、宦官の不在と、律令制の中に令制以前の古い品部・雑戸を組み入れたことに由来し、それが日本の後宮の開放性に影響したとの見通しを示した[文珠、一九九二]。 文珠が論じたのは主に散事・雑任の働きについてであったが、その研究に触発され、職事を含めた男女の共同労働も取り上げられるようになった[伊集院、二〇一六]。 たしかに、宦官不在の日本では、職務遂行上のいずれかの場面で男女が連携せざるを得ないが、それを共同で労働していたと評価し、男女の共同労働が本来的な体制であったとすることには疑問が投げかけられている。
内裏での官人の伺候が進み、〈開かれた内裏〉へと移行した平安時代においても、天皇が居所とする清涼殿の西廂の台番所に伺候するのは女房、南廂の殿上間に伺候するのは男房と、内裏内における男女の職務や空間のテリトリーは分かれていた。また、『延喜式』や平安時代の儀式書などでも、玉体に関わる場面においては、男女の持ち場を分けている事例を確認できる。例えば、六月の御贖の次第では、中臣氏の男性たちが祭祀に用いる品々を捧げて延政門から内裏に入るが、彼らが進むのは階下までで、そこで品を受け取った中臣女(中臣氏の女性から選出)が、殿上で玉体を量るなどの所作を行うことになっている(『延喜式』神祇一 四時祭上30・31)。ここでは、男女が連携して祭事を遂行しているが、場を同じくしての共同労働はしていない。異なる役割を持って連携することと、場を同じくして同内容の業務に従事する労働とは明確に弁別されなければならない。男女の共同労働の論拠として用いられた「与男官共預知之」の解釈についても然りである。
つづいて後宮の内と外、すなわち宮人と官人の奉仕の関係について考える。かつて、文珠正子は『令集解』後宮職員令の注釈の「与男官共預知之(男官と共に之を預かり知る)」という字句に着目し、中務省が宮人の考叙を管掌すること、身分の低い女性の雑任が官司で働いていたことなどから、日本の後宮は男性が勤務する官司と密に繋がることを指摘した。そして、女司と男司の未分化は、宦官の不在と、律令制の中に令制以前の古い品部・雑戸を組み入れたことに由来し、それが日本の後宮の開放性に影響したとの見通しを示した[文珠、一九九二]。 文珠が論じたのは主に散事・雑任の働きについてであったが、その研究に触発され、職事を含めた男女の共同労働も取り上げられるようになった[伊集院、二〇一六]。 たしかに、宦官不在の日本では、職務遂行上のいずれかの場面で男女が連携せざるを得ないが、それを共同で労働していたと評価し、男女の共同労働が本来的な体制であったとすることには疑問が投げかけられている。
内裏での官人の伺候が進み、〈開かれた内裏〉へと移行した平安時代においても、天皇が居所とする清涼殿の西廂の台番所に伺候するのは女房、南廂の殿上間に伺候するのは男房と、内裏内における男女の職務や空間のテリトリーは分かれていた。また、『延喜式』や平安時代の儀式書などでも、玉体に関わる場面においては、男女の持ち場を分けている事例を確認できる。例えば、六月の御贖の次第では、中臣氏の男性たちが祭祀に用いる品々を捧げて延政門から内裏に入るが、彼らが進むのは階下までで、そこで品を受け取った中臣女(中臣氏の女性から選出)が、殿上で玉体を量るなどの所作を行うことになっている(『延喜式』神祇一 四時祭上30・31)。ここでは、男女が連携して祭事を遂行しているが、場を同じくしての共同労働はしていない。異なる役割を持って連携することと、場を同じくして同内容の業務に従事する労働とは明確に弁別されなければならない。男女の共同労働の論拠として用いられた「与男官共預知之」の解釈についても然りである。
「考古学から見る女の仕事、男の仕事」(菱田淳子)
専門家ですら自身の思想から完全にフリーになることは難しいようだが、専門外の人ともなると自分の主張を支持する「科学的根拠」になると思えば、その部分だけを(文脈をはずれることも往々にしてある)取り出して、正論だと言いがちだ。
「この国古来の伝統」という言葉によって語られる言説の中には、歴史学の観点から即座に否定されるようなものも多々みられる。ファクトチェックを受けるまでもないような説であっても、それに学問的な反論をすることは非常な労力を要し、研究者としてはそれを無視せざるを得ない場合もある。「夫婦同姓は日本の伝統、家族の絆」といった言説に対し、夫婦同姓は明治以降の欧米の影響を受けた制度であり、また、東アジアにみられる夫婦別姓は父系を重視する家父長制の産物であって、その抑圧からの解放を求め、韓国では父母両方の姓を名乗る女性も現れているなどの事実を提示しても、その訴求力はどの程度あるだろうか。しかし、ネット上に飛び交う真偽とりまぜた諸説の氾濫の前に、専門家はそれらを黙殺するのではなく、なんらかの対応が必要な事態が迫っていることを強く感じる。
「考古学から見る女の仕事、男の仕事」(菱田淳子)
ジェンダーのことはこのぐらいにして、「古代」といっても同質ではなく、時期によって文化習俗は異なっている。私は全然知らなかったのだけれど、人物埴輪が作られるのは古代でも一時期のことであり、それ以前はむしろ禁忌だったという。
人物埴輪出現
ここまで、本章の主題となる人物埴輪が登場するまでの前史について述べてきた。やや冗長ではあったが、縄文から弥生時代へと続いた人物造形が、古墳時代の前半(三世紀中頃―五世紀前半)に一度途切れてしまうこと、その時期には人物像が禁忌であったこと、そして人のかたちは見えないながらも、家・器財・動物埴輪で構成された埴輪群像が墳頂部と造り出しに置かれ、首長の霊の存在と、首長の生前のマツリゴトを強く印象づけていたことが明らかにできたと思う。
人物埴輪の出現は五世紀前半―中葉である。現在最古の人物埴輪は大阪府堺市大仙陵古墳から採取された女性頭部、双脚男性像脚部であり、馬と犬の埴輪が伴う。多重の濠の間にめぐる内堤から濠に転落したものと考えられる。
大仙陵古墳より一つ古い王陵である大阪府羽曳野市誉田御廟山古墳の陪塚(巨大古墳の周囲に造られた小型墳)である栗塚古墳(一辺四三メートルの方墳)からは人物埴輪の顔や腕が出土しており、主墳である誉田御廟山古墳段階(五世紀前半)に人物埴輪の出現を遡らせる推測もあるが、まだ確定的ではない。いずれにしても、巨大前方後円墳が連続して造営された百舌鳥・古市古墳群の大王陵において、墳墓の諸スタイルを刷新する際に人物埴輪が生み出されたのは間違いなかろう。それまで王陵の地であった奈良県三輪山山麓のオオヤマト古墳群、奈良盆地北部の佐紀古墳群とは異なる新機軸として、それまでの禁忌を破って人物像が作出されたのである。
これは流行をリードする大王墓においてはじめて許されたものであった。大仙陵古墳では端正な作りの女性像、双脚で立ち上がる男性像、馬具をフル装備した飾り馬、犬の頭部の像があり、一気に多数の群像が出揃ったことを示唆している。
人物埴輪の出現は五世紀前半―中葉である。現在最古の人物埴輪は大阪府堺市大仙陵古墳から採取された女性頭部、双脚男性像脚部であり、馬と犬の埴輪が伴う。多重の濠の間にめぐる内堤から濠に転落したものと考えられる。
大仙陵古墳より一つ古い王陵である大阪府羽曳野市誉田御廟山古墳の陪塚(巨大古墳の周囲に造られた小型墳)である栗塚古墳(一辺四三メートルの方墳)からは人物埴輪の顔や腕が出土しており、主墳である誉田御廟山古墳段階(五世紀前半)に人物埴輪の出現を遡らせる推測もあるが、まだ確定的ではない。いずれにしても、巨大前方後円墳が連続して造営された百舌鳥・古市古墳群の大王陵において、墳墓の諸スタイルを刷新する際に人物埴輪が生み出されたのは間違いなかろう。それまで王陵の地であった奈良県三輪山山麓のオオヤマト古墳群、奈良盆地北部の佐紀古墳群とは異なる新機軸として、それまでの禁忌を破って人物像が作出されたのである。
これは流行をリードする大王墓においてはじめて許されたものであった。大仙陵古墳では端正な作りの女性像、双脚で立ち上がる男性像、馬具をフル装備した飾り馬、犬の頭部の像があり、一気に多数の群像が出揃ったことを示唆している。
「埴輪からみた古墳時代の男と女」(若狭 徹)
一時期人物埴輪が作られていなかったというのは考古学上事実とのことだ。そのこと自体私には新鮮だが、その前はそれが禁忌であったというのはどういうことなのだろう。禁忌を破るには権力が必要だったとするのはそうかもしれないが、そもそも禁忌だったというのはどういう理由なのか、本書からはよく読み取れなかった(読み落としかも)。
素人考えでは、もっと古い時代、縄文時代にさかんにつくられた土偶は人の形をしているわけで、そういうものを否定しようとしたということだろうか。
いずれの論文もかなり専門的で、前提知識とか学界の動向とかを知らないと、ただただ畏れ入る。
歴史・考古学は常に新しい発見・知識で上書きされ続けている、それはよくわかる。