「この世界の問い方」(その2)

71WIY2G4CTL.jpg 大澤真幸「この世界の問い方 普遍的な正義と資本主義の行方」の2回目。

チャーチルは「ロシアは謎を秘めた謎の中の謎である」と述べた。

私は中学か高校のとき英語の参考書か何かで、"Russia is a riddle."という文を見た憶えがある。

今日は、ロシアのウクライナ侵攻について、「この世界の問い方」がどう解説しているのかを紹介しようと思う。

多くの人は、ロシアのウクライナ侵攻はあまりにも一方的であり、原発の占拠やダムの破壊など、あまりにも常軌を逸した行動に対して、なぜそんなことをするのかと不思議に思っているだろう。
まずロシアのウクライナに対する感覚は、歴史的に根深いものがあることが確認される。
 これは、ロシアにとっては、きわめて屈辱的なことだ。ウクライナは、ロシアにとって「ほとんどわれわれ」である。ウクライナ人とロシア人は、そのくらい、民族的にも、また言語・宗教・文化の点でも共通性が大きい。それなのに、ウクライナは、ロシアよりもヨーロッパをとった。
 ウクライナ人は、ロシア人にとって抑圧した自己、否認した自己である、とも言える。述べてきたように、ロシア人も――特にプーチンは――、ほんとうは西側のヨーロッパに憧れている。だが、そのことを素直に行動に移し、ヨーロッパに接近することはできない。ほんとうは (アメリカを含む)ヨーロッパを羨ましく思い、ヨーロッパに嫉妬しているということを否認しているのだ。ロシア=プーチンは、自己のそうした側面を抑圧し、羨望や嫉妬などまったくないかのようにふるまい、たとえば「われわれはロシアだ」「われわれはユーラシアだ」「われわれはビザンツの末裔だ」等といきがっていることになる。
 ヨーロッパを選んだウクライナに、ロシア (プーチン)が見ているのは、否認し、斥けようとした自分の姿である。人は、一般に、自分自身の中にある嫌悪すべき何かを、他人のうちにみたとき、 その他人を激しく憎悪することになる。 ほんとうは、 その他人ではなく自分自身が嫌いなのだが、その否定的な感情が他人に投射されるのである。

まえがき
 
1章 ロシアのウクライナ侵攻
   ―普遍的な正義への夢を手放さないために
(1)何のための軍事侵攻か
  ―小さな真実の下にある大きな妄想
ロシアはヨーロッパなのか?/「どこまでが西か」をめぐる競争/「大国」への野望/ユーラシア主義?/プーチンの歴史的参照項/「ほとんどわれわれ」さえも……
(2)「文明の衝突」ではあるが……
どちらがファシスト的なのか/文明の衝突=歴史の終わり/衝突の過剰/リベラル・デモクラシーが残ったのか?/寄生する階級闘争/二段階の解決
(3)偽善ではあるが、しかし……
ロシアを非難しない国々がたくさん/ロシアはグローバルサウスの同盟者か?/偽善が可能な世界
(4)〈戦争の最も望ましい終わり方〉をめぐって
戦争の理想的な終息について/反政府運動―その理由が重要だ/ロシア人にとってよいこと/愛国と普遍/日本人にとっての教訓
 
2章 中国と権威主義的資本主義
   ー米中対立、台湾有事と日本の立ち位置
(1)中国はどうして台湾に執着するのか
世界一、親米度と親中度の差が大きい国/アメリカと中国―ポジからネガへ/台湾への執着/帝国的なものの転用/帝国的なものの否定/平等性と序列/自らを世界そのものと合致させようとする意志
(2)集団的自衛権を行使するときがくるのか?
日本はどちらに付くのか?もちろん/集団的自衛権の行使の一環として/中国を経済的に追い詰める?/権威主義的資本主義/「悪いとこ取り」なのに
(3)権威主義的資本主義
そもそも中国は資本主義なのか/常態としての腐敗/毛沢東の二つの失敗/最大の「走資派」/法則を逆走する/伝道への情熱の欠如/集権化と分権化の絶妙なバランス
(4)ふたつの資本主義が残るのか?
  否、残るとしたらひとつだ
それはアメリカである/アメリカの金権政治/レント資本主義/基礎的な不安/その上でもうひとつの不安/ほんとうの問い
 
3章 ベーシックインカムとその向こう側
   ―コロナ禍とBI、そしてコモンズ
(1)あれも、これもすると私たちは第三のものを得る
リーマンショックの教訓/「ソフィーの選択」を迫られる/「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」/BIのように/MMTが成り立つための根拠/MMTが見落としているもの/資本主義という枠組みを捨てるとき
(2)ベーシックインカムそれは可能だ。
  しかし可能性こそがその限界だ。
日本社会はベーシックインカムを必要とするか/BIは財政的には可能である/利己的にして贖罪的な消費の先に……/まさにそれゆえにBIには限界がある/親切な奴隷主のように/レントとしてのBI/コモンズへ
 
4章 アメリカの変質
   ―バイデンの勝利とBLMが意味すること
(1)今回の勝利が真の敗北の原因になるとしたら……
「民主党政権」の教訓/まさに「理性の狡智」のように/子どもの投票/救済者はやってきた?/空いているポジション
(2)BLMから考える
BLMとコロナ禍/「私はあなたたちのために何ができるのでしょうか」/行動の前に言葉が/リー将軍のみならずリンカーン大統領も/みんな人種主義者だった、しかし……
 
5章 日本国憲法の特質
   ―私たちが憲法を変えられない理由
短い憲法/長寿の憲法/変えられない理由/冒瀆の繰り返し/敗戦の傷/Pである。ただしQは例外だ。/「創設」の行為/とてつもないシニシズム/積極的なアクターとして
そしてそのロシアが憧れているという西欧とはなんだろう。西欧はリベラル・デモクラシーと資本主義を両輪として発展してきた。
 リベラル・デモクラシーが残ったのか?
 ここで、文明の間の葛藤の前提になっている普遍的な標準とは何かを、あらためて見直してみよう。西洋に由来するとされるその標準を、である。その標準とされている価値観こそ、リベラル・デモクラシーである。なぜこれが、その上ですべての文明が営まれ、互いに交流し、また競争しあうときに前提とされるべき標準となっているのか。単純である。その倫理的な優位性が認められているからである。つまり、実際に、リベラル・デモクラシーが普遍的に妥当し、受け入れられる公正な規範だと承認されているからだ。それこそが、「歴史の終わり」ということであった。もはや、リベラル・デモクラシーに対する真の挑戦者は現れない……はずだった。
 だが、ここでよくよく反省してみるべきだ。勝利したとされるリベラル・デモクラシーには、限定がついている。限定とは何か。資本主義である。資本主義の枠内でのリベラル・デモクラシーが勝利したのだ。真の勝利者は、資本主義である。普通は、資本主義とリベラル・デモクラシーの間には、何の矛盾もない、と考えられている。むしろ、(政治制度としての) リベラル・デモクラシーの(経済システムにおける)自然な同伴者は資本主義である、と見なされてきた。両者は車の両輪だ、と。

  *

 しかし、そうではない。資本主義には、自由や平等の理念に反する搾取が内在している。資本家による労働の搾取がなければ、剰余価値(≒利潤)は発生せず、それゆえ資本なるものが存在しえない。剰余労働の搾取は、資本主義の本質的な条件である。このことを厳密に証明したのが、ほかならぬマルクスの『資本論』である。マルクスは、搾取関係から帰結する不平等を記述するために、「階級」という概念を導入した。搾取が生み出す不平等は、ブルジョワジー/プロレタリアートという二項対立を構成する。この不平等、この差別への根本的な抵抗は、階級闘争という形式をとる。
 階級関係として、典型的には、一国内での資本家と賃労働者の関係が連想されるだろう。しかし、資本主義のグローバル化は、階級的な搾取の関係を、一国内に閉じられないものへと拡大していった。マルクス以降のマルクス主義の理論的な努力の多くは、国際化、あるいはグローバル化した階級的搾取を記述するための概念の創造にあてられた、と言ってもよいくらいだ。そのようにして提起された概念が、たとえば帝国主義であり植民地主義である。あるいは、イマニュエル・ウォーラーステインは、グローバル資本主義の階級関係を、近代世界システム(世界=経済)の国際分業体制として、すなわち「中心/準周辺/周辺」の搾取の関係として記述した、と言ってよいだろう。中心がブルジョワジーであるとすれば、プロレタリアートに対応するのが準周辺と周辺である。そして緩やかな意味では、「中心」に分類される諸国は、西側文明の領域と重なっている。「南北問題」などと呼ばれている経済的な格差も、グローバルな階級関係の――厳密ではないが――一次近似的な表現である。

歴史的にはリベラル・デモクラシーが資本主義を育ててきたのかもしれないが、いまや資本主義はリベラル・デモクラシーの枠など必要としないまでに発展したということかもしれない。

プロテスタンティズムが資本主義の勃興をもたらしたとしても、今や資本主義はプロテスタンティズムを必要としない(ばかりか邪魔?)というのと同様かもしれない。
また、初期の資本主義が、土地を囲い込んで工業を発展させたのと同様の囲い込みが、現代ではサイバースペース(インターネット)で行われているという。
(これについては、「2章 中国と権威主義的資本主義」に「レント資本主義」で説明される)


誤解を恐れずにまとめれば、プーチンは西欧に憧れをもっているが、その西欧から見ればロシアは周辺にすぎない。
そしてそこへきて元は自分の土地だと思っていたウクライナが西欧を向いている。

ロシアの歴史を遡れば、キエフ公国に至る。ウクライナは故地といえる。そしてソ連時代にウクライナを併呑し、自分の土地だという意識になったのだと思う。

このコンプレックスがある以上、ロシアは「俺たちが正しい」と言い続けるだろう。

だが裏返せば、自分たちはヨーロッパだという意識も保たれている。
 再確認しよう。「歴史の終わり」の政治は、文明(文化的なもの)の間の葛藤・衝突という形式をとる。ただし、よく見れば、諸文明は、平等にそれぞれ特殊なものとして相対化されているわけではない。西洋文明だけが、文明間の競争・闘争のための場を与える普遍的な標準として機能している。ウクライナに軍事侵攻したプーチン=ロシアにとっての真の敵は、前節で述べたように、西洋――アメリカをその中核的な大国とする西洋である。西洋を拒否するということは、通常の文明(生活様式)の間の葛藤の前提となっている「標準」を認めないということ、自分たちの文明により高い普遍性があると見なしていることを意味しているはずだ。だが、プーチン=ロシアは、過激な相対主義者であって、自分たちの文明的な伝統に由来する価値観が、普遍的な真理である、と主張しているわけでもない。それならば、西洋が与える普遍性の中で、相応のポジションを得れば十分ではないか。それなのに、ロシアは、多大な犠牲を出す――敵に犠牲者を出すだけではなく自分も多く損害を被る――軍事侵攻を選択した。それは、あまりに過剰である。その過剰分をどう説明すればよいのか? これが当面の疑問である。

ロシアは西欧の「標準」に対しては閉塞感を持っているに違いない。だが、西欧の資本主義が世界を支配する中、力(経済力)ではかなわない多くの国が、「標準」ルールを呑まされ、ロシア同様の閉塞感を持っていることは同じではないだろうか。
そのことは、ロシアのウクライナ侵攻を糾弾することが国際世論一般ではないことが示している。
 ロシアを非難しない国々がたくさん
 ロシアがウクライナに軍事侵攻を始めて一週間ほど経過したときに、国連総会の緊急特別会合で、ロシアを非難し、軍の即時撤退などを求める決議案が採択された。賛成したのが、141か国、反対が、ロシア自身を含めて5か国。と、この数字だけ見ると、圧倒的な支持を得て、賛成派が勝っているように見える。
 が、よく見ると、棄権した国が35か国もある。反対した国と合わせると40か国になる。141:5ならば、前者が後者の30倍近いので圧倒的な勝利だが、141:40であれば、3.5倍程度なので、決議案賛成派の勝利の程度はずいぶん小さくなる。しかし、国際紛争において、この度の軍事侵攻ほど、どちらに非があるのかはっきりしている例は稀である。ロシア側が国連憲章や国際法に違反していることは、明らかだ。そういうコンテクストの中で、決議案への賛成をはっきりと示さず棄権するとすれば、それは、「反対」と言っているにほぼ等しいことになる。
 棄権した国の中には、中国やインドのように、その思惑や理由がすぐにわかる国もある。しかし、棄権した国の多くは、ラテンアメリカやアフリカの小国である。これらの国々は、ロシアがウクライナに勝利し、たとえばウクライナ領(の一部)を自国に統合したとしても、何か得をするわけではない。そして、もう一度繰り返せば、この紛争は、ロシアとウクライナで、どちらにより大きな問題、より大きな悪があるのか迷うような例ではない。それならば、どうして、かくも多くの国が、ロシアを非難する決議案に賛成票を投じなかったのか? とりわけ、ラテンアメリカやアフリカの多くの国々が、棄権というかたちで、賛成することを拒否したのはどうしてなのか? 理由は、ロシアを非難する西側諸国の偽善性にある。

著者はさらにもう一つのロシアに対する制裁をとりあげる。
 付け加えておけば、さらに一か月余り後の、国連人権理事会での「理事国としての資格」をロシアから剥奪する国連決議に関しては、以上に述べたことがより露骨に表れている。この決議案に賛成したのは93か国、賛成しなかったのは82か国。拮抗している、と言っても過言ではない小差である。アジア、アフリカ、中東、ラテンアメリカ等のグローバルサウス諸国の多くが、あからさまに人権侵害を犯しているロシアを、人権理事会から排除することに、積極的には賛成しなかったことになる。たとえば、日本に地理的に比較的近い国々としてASEANの加盟国を見るならば、賛成したのは、10か国中2か国だけである。
 どうしてなのか。少なくとも、これらの国々から見れば、ロシアの人権侵害を非難する西側諸国も、今ロシアがウクライナに対してやっているのと同じような人権侵害を、自分たちに対して行なってきたように感じられるからである。西側諸国は偽善に対する代償を支払わされたことになる。

ロシアがやっていることは間違っている、しかしそれをする気持ちもわかる、ということなのかもしれない。
こうしたロシアや、ロシアを非難することを躊躇う国々があることは、新自由主義によって末期的な状態になってきた資本主義への不信感が根強いことを意味しているのではないだろうか。それはナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」のような。

私にはロシア-ウクライナ問題について論評できるような知識はないから、本書の引用ばかりになってしまったが、ご容赦いただきたい。

関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

六二郎。六二郎。

ついに完全退職
貧乏年金生活です
検索フォーム

 記事一覧

Gallery
記事リスト
最新の記事
最新コメント
カテゴリ
タグ

飲食 書評 ITガジェット マイナンバー アルキビアデス Audio/Visual 

リンク
アーカイブ
現在の閲覧者数
聞いたもん