「この世界の問い方」(その5)

71WIY2G4CTL.jpg 大澤真幸「この世界の問い方 普遍的な正義と資本主義の行方」の5回目。

昨日まで、1,2章のロシア、中国をとりあげ、3章のベーシックインカムをとばして、4章のアメリカについて記事にしてきた。今日は最後の「5章 日本国憲法の特質」をとりあげて、本書の紹介を終えることにする。

憲法改正については、今までも何度も記事にとりあげてきた。私は改憲に絶対反対というわけではないが、改憲するなら、日本国をどういう国にするのかが合意され、それを正確に表現する条文を作成するのが順序だと思っている。ところが改憲論者には、「条文が変わっても今まで同様だ」というような不届き者がいたりする。
本書でもその点は明確だ。
 しかし、これも考えてみると奇妙な儀式である。日本人は大真面目にこれをやっているが、外から見ると、いささかこっけいなものに映るだろう。 集団的自衛権の行使の可能性が、憲法に見えない文字で書いてあるかどうかを問うより前に、そもそもお前がそれを欲しているかを問うべきではないか。あなたは、政府に集団的自衛権を行使して欲しいのか。憲法に問う前に、国民に問うべきだろう。しかし、日本人は、自分でそれに答えず、憲法に答えてもらうことにしている。憲法は、「Pである。ただしQは例外だ」という話法を使って、代弁してくれる。
 そうすると、私たちは、Qに何を代入しても、Pという一般原則を保っていると見なすことができる。つまり、九条は、内容の上では空虚になっても、形式としては維持されていることになる。これはとんでもない欺瞞だ。しかし、同時に、「形式」も重要である。いくら内容の上では空虚になっても形式を棄てられないとすれば、そこには何か理由があるのだ。
まえがき
 
1章 ロシアのウクライナ侵攻
   ―普遍的な正義への夢を手放さないために
(1)何のための軍事侵攻か
  ―小さな真実の下にある大きな妄想
ロシアはヨーロッパなのか?/「どこまでが西か」をめぐる競争/「大国」への野望/ユーラシア主義?/プーチンの歴史的参照項/「ほとんどわれわれ」さえも……
(2)「文明の衝突」ではあるが……
どちらがファシスト的なのか/文明の衝突=歴史の終わり/衝突の過剰/リベラル・デモクラシーが残ったのか?/寄生する階級闘争/二段階の解決
(3)偽善ではあるが、しかし……
ロシアを非難しない国々がたくさん/ロシアはグローバルサウスの同盟者か?/偽善が可能な世界
(4)〈戦争の最も望ましい終わり方〉をめぐって
戦争の理想的な終息について/反政府運動―その理由が重要だ/ロシア人にとってよいこと/愛国と普遍/日本人にとっての教訓
 
2章 中国と権威主義的資本主義
   ー米中対立、台湾有事と日本の立ち位置
(1)中国はどうして台湾に執着するのか
世界一、親米度と親中度の差が大きい国/アメリカと中国―ポジからネガへ/台湾への執着/帝国的なものの転用/帝国的なものの否定/平等性と序列/自らを世界そのものと合致させようとする意志
(2)集団的自衛権を行使するときがくるのか?
日本はどちらに付くのか?もちろん/集団的自衛権の行使の一環として/中国を経済的に追い詰める?/権威主義的資本主義/「悪いとこ取り」なのに
(3)権威主義的資本主義
そもそも中国は資本主義なのか/常態としての腐敗/毛沢東の二つの失敗/最大の「走資派」/法則を逆走する/伝道への情熱の欠如/集権化と分権化の絶妙なバランス
(4)ふたつの資本主義が残るのか?
  否、残るとしたらひとつだ
それはアメリカである/アメリカの金権政治/レント資本主義/基礎的な不安/その上でもうひとつの不安/ほんとうの問い
 
3章 ベーシックインカムとその向こう側
   ―コロナ禍とBI、そしてコモンズ
(1)あれも、これもすると私たちは第三のものを得る
リーマンショックの教訓/「ソフィーの選択」を迫られる/「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」/BIのように/MMTが成り立つための根拠/MMTが見落としているもの/資本主義という枠組みを捨てるとき
(2)ベーシックインカムそれは可能だ。
  しかし可能性こそがその限界だ。
日本社会はベーシックインカムを必要とするか/BIは財政的には可能である/利己的にして贖罪的な消費の先に……/まさにそれゆえにBIには限界がある/親切な奴隷主のように/レントとしてのBI/コモンズへ
 
4章 アメリカの変質
   ―バイデンの勝利とBLMが意味すること
(1)今回の勝利が真の敗北の原因になるとしたら……
「民主党政権」の教訓/まさに「理性の狡智」のように/子どもの投票/救済者はやってきた?/空いているポジション
(2)BLMから考える
BLMとコロナ禍/「私はあなたたちのために何ができるのでしょうか」/行動の前に言葉が/リー将軍のみならずリンカーン大統領も/みんな人種主義者だった、しかし……
 
5章 日本国憲法の特質
   ―私たちが憲法を変えられない理由
短い憲法/長寿の憲法/変えられない理由/冒瀆の繰り返し/敗戦の傷/Pである。ただしQは例外だ。/「創設」の行為/とてつもないシニシズム/積極的なアクターとして
なるほど条文の形にすることで、求めている国家像を示すことになり、議論が明確になるという意見もあるだろう。しかし、それなら「条文が変わっても今までどおり」という説明では議論にならないのではないだろうか。

それはともかく、本書には面白い視点がいくつか示されている。
一つは、世の中の変化に合わせて憲法も柔軟に改正されるという一般論はもちろん正しいが、これを頑なに拒む「護憲派」についての分析である。
 憲法の究極の不動点が、九条なのだとしたら、他の部分ならば改正できるのではないか。憲法九条だけが問題ならば、他の条項に関しては、いくらでも時代の変化に合わせ、より適切なものに改正したり、あらたな事項を追加したりすることができるのではないか。ところが、そうはいかないのだ。ここが興味深いところではある。
 確かに、憲法九条とは意味的にまったく関係のない部分に関して、国民の過半数が支持するような内容の条項を作ることは可能だろう。憲法とは切り離して、その内容の賛否を問えば、過半数の国民が支持するような規定は、いくらでも作りうる。しかし、それが恵法の中に組み込まれるのであれば、そうした方向への改正は日本人には絶対に認められない。どうしてなのか。
 日本人は、「改正可能性」という様相が、九条に伝染することを密かに恐れているからである。どういうことか説明しよう、日本人は、もちろん、憲法は改正可能だということを知っている。 憲法自体にそうはっきりと書いてある。国会議員の3分の2以上が賛成し、国民投票で過半数の支持が得られれば、改正できる、と。だから、日本人は、憲法を変えることができることは知っているが、他方で、実際上は、憲法というものは変わらないものだと思っており、安心している。その「安心」という感情が生ずる原因は、おそらく、九条にある。憲法が変わらない以上は、九条も変わらない、と。
こうした恐れを持つ人が一定数いるのは、もちろん絶対平和を希求するということもあるだろうが、今までの政府のやり口―解釈改憲で憲法を骨抜きにしてきたことへの反発があるのではないかと思う。

そしてその解釈改憲についても本書では次のように批判する。
 冒漬の繰り返し
 だが、ここでまた奇妙なことが起きていることに気づかなくてはならない。憲法九条ほど冒漬的に扱われてきた法はない。 九条に書いてあることは、それほど難解なことではない。 中学生くらいの国語力で十分に理解できることが書かれている。戦後の歩みを通じて、日本人と日本政府は、誰でもすぐに理解できるこの九条を蹂躙し続けてきた。九条違反の疑いのあることをどこまでできるのか、その範囲を次第に大きくするプロセスが、日本の戦後の政治史だった。

本書は、なぜこの憲法がこのように苛められてきたのか、その理由を成立時に遡って指摘する。
 短い憲法
 私たちの憲法は短い。日本国憲法の字数は非常に少ない。日本国憲法は、英文では、およそ5千語になる。 比較政治制度論を専門としているケネス・盛・マッケルウェインが、1789年以降に存在した世界の成文憲法を英訳して比較し、それを通じて日本国憲法の特徴を分析している。それによると、およそ900の成文憲法の平均語数は、2万1千である。日本国憲法は、平均の4分の1にも満たない。世界的に見て、きわめて短い方の憲法だということになる。どうして私たちの憲法はこんなに短いのか、ということを考えてみよう。
 先に言っておく。短いからといって、悪いわけではない。逆に良いわけでもない。 憲法の長さと憲法の良し悪しには、何の相関関係もない。ちなみに、最長の憲法はインド憲法で、その語数は、日本国憲法のおよそ29倍である。
 日本国憲法が極端に短い直接の原因は、はっきりしている。敗戦後、大急ぎで作ったからである。敗戦によって、基本的には、これまでの制度がすべて無効になった。さまざまな政治制度をどうするのか、詳細がまだ決まっていない。その段階で憲法を作るので、政治制度について憲法の中で明確に規定するわけにはいかなかった。たとえば国会議員の定数、選挙制度、地方自治のやり方等々について、詳しく憲法に書くことができない。そうすると、それらの制度にまったく言及しないか、言及した場合には、詳細に関しては「別に法律に定める」として、実質を未規定にしておかなくてはならない。大まかな線しか書けないので、憲法はどうしても短くなるのだ。
私は、憲法はだいたいの方向性だけ示して、細かいことは法律で定めるというのが、憲法という最高法規のスタイルだと思っていたのだけれど、そういうことではないらしい。単に時間的制約があったから粗っぽいものになったというわけだ。
他国の憲法を読んだことはないから、たとえば語数が29倍もあるというインドの憲法が、どのぐらいの細かさを持っているのかわからないが、想像するに選挙手続きなども具体的に定めているのではないだろうか。
そしてそれだけの細かさがあれば、たとえば国会議員の定数まで憲法に書いてあったら、そりゃ人口の変化で定数を変更するための改憲が結構な回数行われるのも当然だろう。よく改憲派が、諸外国の憲法はたいてい改正されている、日本国憲法は異常だというけれど、そういう事情を考えると、単純に改憲回数を比較することはミスリーディングになる恐れがあるだろう。

この憲法の「粗さ」の指摘は私には新鮮だったが、もう一つなるほどなぁと思ったことがある。
 とてつもないシニシズム
 ここから日本の憲法の方を振り返ると、何が欠落しているのかが見えてくる。ここには「創設」の行為がない。「我ながら偉大なことを成し遂げた」と振り返ることができるような行為への集合的な記憶が存在しない。権威を含み、憲法の正統性の源泉になるような行為、その反復へと人々を導く行為が、日本の場合には欠けている。
 九条を含む新しい憲法を得たとき、日本人は、それを、偉大な産物、偉大な成果であるとは感じただろう。しかし、その結果を導いた行為の記憶はない。あるのは、逆の「無為」の感覚である。「私たちは何もしなかった」と。日本人が、成果として与えられた憲法に関して、「これはすごい、偉大だ」と感動した証拠のひとつは、宮沢俊義が唱えた八月革命説である。これほどのものを生み出したとすれば、昭和二十年八月に革命があったと考えなくては、説明がつかない、と。もちろん、そんな革命は存在しなかった。それは、純粋に架空の革命である。偉大な結果と無為の記憶。そのギャップを、存在しなかった「創設」の行為としての架空の革命が埋める。

そう考えると、「自主憲法」を欲する改憲派の心情もわからなくはない。しかし、大日本国憲法は欽定憲法で、日本人に集団的記憶ってあっただろうか。そして、「今までどおり」という変な説明で改憲された憲法が、日本人の血肉になるようなものだろうか。それでも国民投票が行われたら、自分たちが改正したという自負心が生まれるものだろうか。
そもそも自分は政治に参加しているという意識がどれほどもたれているものだろうか。

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