「世にも奇妙なニッポンのお笑い」~(その2)笑いの翻訳
チャド・マレーン「世にも奇妙なニッポンのお笑い」の2回目、
今日は「第八話 笑いを翻訳するのは難しい」を中心に。
著者は、漫才師であるとともに、字幕翻訳家としての活動もしているそうだ。
みずからを「チャド奈津子」と称している。もちろん戸田奈津子さんのもじりである。(⇒戸田奈津子「字幕の中に人生」)
最初は板尾創路さんあたりからの、突然の依頼があったらしいのだが、要するに、英語国民がこの字幕で笑えるのかをチェックしてもらいたいということが発端のようだ。
お笑いで使われる言葉は、リズムがあり、韻があり、メロディというか抑揚がある。音は感じられたとして、意味を同時に理解するには…
書中では、その一例として、チュートリアルの漫才の英訳が掲載されている。
前に、「日本語を翻訳するということ」の記事では、オノマトペの翻訳はなかなか難しいことを書いたおぼえがあるが、チャドはおそるべし、その語感を英語に移す努力、されにそれらが韻を踏んでいることまで再現しようとしている。そのため、新しい言葉を創り出すことまでする。
そういうチャド奈津子も納得できる翻訳ができないことがままあるという。
その一つが方言で演じられるお笑い。東北や九州などのお笑いでは、その方言が笑いの源泉になっていることが多いが、これを翻訳する、つまり、日本の中にある方言という位置まで含めてということだと思うが、これはとてもできないという。
この本を読んでいて思い出した。この記事ではなくて、「日本語を翻訳するということ」に書くべきだったと思うけれど、良く知られた夏目漱石の逸話がある。
英語教師をしていた漱石が、"I love you" の訳しかたとして、日本人はそんな直接的な表現はしない、「月が綺麗ですね」とでもやるほうが良いと言ったとか。
ところで、先だって公のメディアでの誤訳が問題になっていた。
"I get why people would be upset about it."を、「なぜ多くの人が騒いでいるのか分からない」と誤訳したというもの。こんなセンシティブなところで、どうして間違うかなぁ。仮定法は「そういう人がいるがどうかは知らないけれど、もしそういう人がいれば」という慎重な言い回しなんだと思うけれど、誤訳した人はそれに引きずられたんだろうか。
今日は「第八話 笑いを翻訳するのは難しい」を中心に。
著者は、漫才師であるとともに、字幕翻訳家としての活動もしているそうだ。
みずからを「チャド奈津子」と称している。もちろん戸田奈津子さんのもじりである。(⇒戸田奈津子「字幕の中に人生」)
最初は板尾創路さんあたりからの、突然の依頼があったらしいのだが、要するに、英語国民がこの字幕で笑えるのかをチェックしてもらいたいということが発端のようだ。
お笑いで使われる言葉は、リズムがあり、韻があり、メロディというか抑揚がある。音は感じられたとして、意味を同時に理解するには…
書中では、その一例として、チュートリアルの漫才の英訳が掲載されている。
徳井 | 俺の生活は荒れたよ。 | From then on, it was all a downward spiral. | |
福田 | なんで?! チリンチリンなくなっただけやろ? | Why? All you did was lose your "Ringy Dingy". | |
徳井 | 毎晩毎晩、酒飲んだよ | I started drinking all the time. | |
福田 | えーっ? おかしない? | Are you serious? | |
徳井 | 毎晩毎晩、酒飲んで。べろんべろんや。 | Night after night, I got "Wobbly Bobbly". | |
福田 | うん。 | Hm. | |
徳井 | 朝起きて、チリンチリン探した。 | I'd wake up and look for my "Ringy Dingy" | |
福田 | うん。 | Hm. | |
徳井 | 夜、べろんべろん。 朝、チリンチリン。 俺の体、がりんがりんや。 | My nights were "Wobbly Bobbly" My days were "Ringy Dingy" I ended up "Boney Woney". | |
福田 | ややこしいわ、お前。 | You're making things way too complicated |
前に、「日本語を翻訳するということ」の記事では、オノマトペの翻訳はなかなか難しいことを書いたおぼえがあるが、チャドはおそるべし、その語感を英語に移す努力、されにそれらが韻を踏んでいることまで再現しようとしている。そのため、新しい言葉を創り出すことまでする。
新しい言葉を創るなんてのは、母国語とする人でなければ無理じゃないだろうか。外国人だったら、そんな言葉は無いで終わらされそうだ。
そういうチャド奈津子も納得できる翻訳ができないことがままあるという。
その一つが方言で演じられるお笑い。東北や九州などのお笑いでは、その方言が笑いの源泉になっていることが多いが、これを翻訳する、つまり、日本の中にある方言という位置まで含めてということだと思うが、これはとてもできないという。
本書を読むまで全く知らなかったのだけれど、オーストラリア(チャドの出身国)映画の「マッドマックス」は有名だけれど、この映画を米国で上映するときには、オーストラリア英語を米国語にする吹替えを行ったそうだ(欧米では字幕は好まれない)。元のオーストラリア英語では、発音に違和感があるだけでなく、語彙・表現も違っていて、とても米国語民には理解できないシロモノだという(もちろんその可笑しさが)。
この本を読んでいて思い出した。この記事ではなくて、「日本語を翻訳するということ」に書くべきだったと思うけれど、良く知られた夏目漱石の逸話がある。
英語教師をしていた漱石が、"I love you" の訳しかたとして、日本人はそんな直接的な表現はしない、「月が綺麗ですね」とでもやるほうが良いと言ったとか。
このエピソードを思い出してネットにあたったら、なかなか見事な解説を見つけた。
⇒夏目漱石がI LOVE YOUを「月が綺麗ですね」と訳した理由(潮見惣右介)
ところで、先だって公のメディアでの誤訳が問題になっていた。
"I get why people would be upset about it."を、
ためしに、この英文をGoogle翻訳に入れたら、「私はなぜ人々がそれに怒っているのでしょう」と変な日本語に翻訳された。問題の誤訳と同意のようにも読める。そこで、仮定法(would be)を直説法(are)にしてみたら「私はなぜ人々がそれに憤慨しているのかわかります」とまともに翻訳された。AIも仮定法は苦手なのかな。
この頃は、翻訳機とか、スマホにも翻訳アプリがあるけれど、こんなことでは、チャド奈津子や漱石の水準になることはまだまだ難しそうだ。
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