「日本語を翻訳するということ」
昨日、余白を解釈するで先に一部を紹介した
牧野成一「日本語を翻訳するということ―失われるもの、残るもの」について。
この程度のブログを書いたぐらいでモノ書きとは言えないと思うけれど、文章を書くときに考えさせられることが、また読み手にとっても鑑賞を豊かにするであろうことが、沢山盛り込まれている。
副題のとおり、日本語を外国語に(方言を他の方言に)翻訳するときに、どうしても元の言語の持っている微妙なところが失われることがある。目標の言語ではどう表現するのかと考えたときに、しっくりする表現が見当たらないということである。
その違いこそ言語の違い、文化の違い、それによって形作られている感覚・人間性で、それらを完全に説明しようとしたらとてつもないこと(言葉一つ一つに本一冊の訳注がつくことになるかもしれない)になり、翻訳作業は破綻してしまう。
というわけだから、本書で取り上げられている日本文の事例の多くは、日本で育ち、日本語を母語とする人には感覚的に理解できるもので、あらためて指摘されて「あっそうか」と気づかされること、ただしそれまでは自覚していなかったことである。(「チコちゃんに叱られる」ネタが満載と言えるかも)
もちろん目標言語にも日本語と似たような感覚の表現ができることもある。
たとえば擬音語・擬態語(オノマトペ)は、日本語にはきわめて多く、英語には少ないとされるが、だからアキラメルというわけではない。本書では、英語における2つの連続する子音はオノマトペ的感覚を持っていて、日本語のオノマトペを翻訳する際にはそうした言葉を選んで原文の感覚を残すことができる。
文法の基本のような時制も感覚が違う。過去形・現在形は、英語においては、語りの時点を基準として決められるが、日本語ではそうではない。私もこのブログを書いているとき、現在形か過去形かで迷うことはたびたびあるのだけれど、英語ではそうした迷いとは無縁であるという。
日本語では、過去のことを現在形で語るのは、そのことを「ウチ」向きに語るという意識が付着しているという(第4章)。
この「ウチ」「ソト」感覚というのは、時制の問題だけでなく、「犬」か「犬たち」かを使い分ける意識にも存在するという(第5章)。そして、それは「ですます」か「である」かの選択にも通じている感覚である(第6章)。
受動態は、
チョムスキー流の理解では、「僕はスリに財布をとられた」は、
英語と日本語では成り立ちが違っており、日本語の受動態を作る助動詞「る」「らる」は、受け身だけでなく、自発、可能、尊敬も表すが、国語学者の橋本進吉博士によれば「自発」が源とする説を紹介し、チョムスキー流の文解析を使って説明している。
こうして見てくると、まるで日本語が特別精妙な言語であるかのように思えてくるが、もちろんそういうことではないだろう。
いくら習熟したとしても外国語の語彙や表現は、母国語のそれの数十分の一といったぐらいでしかないし、その基層にある文化まで考えれば、その差はさらに大きくなるだろう。
これは日本語と外国語を取り換えても同じことなわけで、英語を母国語とする人にしてみれば、英語の文学を日本語に翻訳するときに、日本語には対応する表現がないと嘆いていることだろう。
それを説明することはある程度できるだろうけど、それでは上述のとおり、言葉一つ一つに厖大な注をつけるようなもの、原文がもつリズムは結局失われ、翻訳ではなく、解説になるのだろう。
ところで、著者は原文の音韻やリズムを感じる方法として、「詩の翻訳を読むときは原音をCDなどで聴くべきではないか」と提案している。
外国語の詩の朗読のCDがそうそうあるわけでもないと思うのだが、そう言われて考えれば、オペラ鑑賞をはじめ、多くの言葉付きの音楽を聴くときには、同じことをしている。
オペラのドイツ語やイタリア語、ミサ曲のラテン語、そういうものは(部分部分に知っている単語はあるにしても)、言語としてちゃんと理解していない。しかし、歌詞を勉強したり、作品解説を読んだり、何度も聞いていたりして、今、何が歌われているかはちゃんと解って聞いている。
映画を字幕で見る人が多い(⇒「字幕の中に人生」)というのも、案外、理にかなっているのかもしれない。
牧野成一「日本語を翻訳するということ―失われるもの、残るもの」について。
この程度のブログを書いたぐらいでモノ書きとは言えないと思うけれど、文章を書くときに考えさせられることが、また読み手にとっても鑑賞を豊かにするであろうことが、沢山盛り込まれている。
副題のとおり、日本語を外国語に(方言を他の方言に)翻訳するときに、どうしても元の言語の持っている微妙なところが失われることがある。目標の言語ではどう表現するのかと考えたときに、しっくりする表現が見当たらないということである。
その違いこそ言語の違い、文化の違い、それによって形作られている感覚・人間性で、それらを完全に説明しようとしたらとてつもないこと(言葉一つ一つに本一冊の訳注がつくことになるかもしれない)になり、翻訳作業は破綻してしまう。
というわけだから、本書で取り上げられている日本文の事例の多くは、日本で育ち、日本語を母語とする人には感覚的に理解できるもので、あらためて指摘されて「あっそうか」と気づかされること、ただしそれまでは自覚していなかったことである。(「チコちゃんに叱られる」ネタが満載と言えるかも)
もちろん目標言語にも日本語と似たような感覚の表現ができることもある。
たとえば擬音語・擬態語(オノマトペ)は、日本語にはきわめて多く、英語には少ないとされるが、だからアキラメルというわけではない。本書では、英語における2つの連続する子音はオノマトペ的感覚を持っていて、日本語のオノマトペを翻訳する際にはそうした言葉を選んで原文の感覚を残すことができる。
[fl-] | 動く光 |
fl-ash(ぴかっと光る)/ fl-are(めらめらと燃える)/ fl-ame(燃え立つ)/ fl-cker(火がちらちらする) | |
[gl-] | 動かない光 |
gl-ow(熱と光を出して輝く)/ gl-are(ぎらぎら光る)/ gl-eam(かすかに光る)/ gl-int(きらきら光る)/ gl-immer(ちらちら光る) |
はじめに | |
序章 翻訳とは、つまり、何だろう? | |
0-1 重訳も翻案も通訳も | |
0-2 本書の目的 | |
0-3 消える音 | |
第1章 こぼれ落ちる響き | |
1-1 詩を翻訳すると? | |
1-2 日本語の擬音語と擬態語の英訳はできるか | |
1-3 口蓋音と鼻音は心理的な距離感を表せるか | |
第2章 ひらがな、カタカナ、漢字 | |
2-1 4つの表記法 | |
2-2 言語の句読点は翻訳できるか | |
2-3 書字方向―縦書きか、横書きか | |
第3章 比喩は翻訳できるのか | |
3-1 直喩(シミリー) | |
3-2 隠喩(暗喩) | |
3-3 擬人化 | |
3-4 提喩(シネクドキ) | |
3-5 換喩(メトニミー) | |
3-6 創造的な比喩の翻訳 | |
第4章 過去の話なのに、現在形? | |
4-1 現在形と過去形しかない日本語 | |
4-2 意識の流れを、現在形で | |
4-3 リービ英雄の時制 | |
4-4 日本語の再構成 | |
第5章 日本語の数はおもしろい | |
5-1 「無数」とは? | |
5-2 複数表示の「タチ」は一体何か | |
第6章 「ですます」が「である」に替わるとき | |
6-1 コミュニケーションの矛先 | |
6-2 追憶の独り言 | |
6-3 「発話権」に注目すると | |
6-4 モダリティはウチ形につく | |
第7章 受動文の多い日本語、能動文の多い英語 | |
7-1 受動態の声 | |
7-2 自発態の声 | |
7-3 可能形の声 | |
第8章 翻訳に見る「日本語」の文体 | |
8-1 繰り返しと翻訳 | |
8-2 省くか、繰り返すか、それが問題だ | |
8-3 リズムと繰り返し | |
まとめ | |
参考文献 |
日本語では、過去のことを現在形で語るのは、そのことを「ウチ」向きに語るという意識が付着しているという(第4章)。
この「ウチ」「ソト」感覚というのは、時制の問題だけでなく、「犬」か「犬たち」かを使い分ける意識にも存在するという(第5章)。そして、それは「ですます」か「である」かの選択にも通じている感覚である(第6章)。
この「ウチ」「ソト」感覚というのは、日本文化・民俗の特徴としていろんなところでとりあげられていると思う。
受動態は、
能動文(たとえば、John loves Mary)の目的語(ここではMary)を主語にして文頭に動かし、主語の行為者(ここではJohn)を by John のように動詞のあとに動かし、動詞を "be+過去分詞形"("be loved")にするという「移動規則」として勉強しました
チョムスキー流の理解では、「僕はスリに財布をとられた」は、
S1 [僕は S2 [スリが僕の財布をtor] -rareta]
という、2つの文(S1、S2)の入れ子構造になっていて、重複する「僕」が省略されたものと考えるのだそうだ。英語と日本語では成り立ちが違っており、日本語の受動態を作る助動詞「る」「らる」は、受け身だけでなく、自発、可能、尊敬も表すが、国語学者の橋本進吉博士によれば「自発」が源とする説を紹介し、チョムスキー流の文解析を使って説明している。
受動態の解説では、"語幹+-rareru" という説明が入るのだけれど、語幹には子音で終わるものを認めている。例えば、「盗る」の語幹は tor としている。大昔の国語学では、日本語は子音は単独で存在しないという説をとっていたが、積極的に子音語幹を認めることで、語の活用などが明解に説明できる。
アタリマエのことのようだけれど、こういう解説をする本はあまり多くないので、ここで紹介しておく。
こうして見てくると、まるで日本語が特別精妙な言語であるかのように思えてくるが、もちろんそういうことではないだろう。
いくら習熟したとしても外国語の語彙や表現は、母国語のそれの数十分の一といったぐらいでしかないし、その基層にある文化まで考えれば、その差はさらに大きくなるだろう。
これは日本語と外国語を取り換えても同じことなわけで、英語を母国語とする人にしてみれば、英語の文学を日本語に翻訳するときに、日本語には対応する表現がないと嘆いていることだろう。
それを説明することはある程度できるだろうけど、それでは上述のとおり、言葉一つ一つに厖大な注をつけるようなもの、原文がもつリズムは結局失われ、翻訳ではなく、解説になるのだろう。
ところで、著者は原文の音韻やリズムを感じる方法として、「詩の翻訳を読むときは原音をCDなどで聴くべきではないか」と提案している。
外国語の詩の朗読のCDがそうそうあるわけでもないと思うのだが、そう言われて考えれば、オペラ鑑賞をはじめ、多くの言葉付きの音楽を聴くときには、同じことをしている。
オペラのドイツ語やイタリア語、ミサ曲のラテン語、そういうものは(部分部分に知っている単語はあるにしても)、言語としてちゃんと理解していない。しかし、歌詞を勉強したり、作品解説を読んだり、何度も聞いていたりして、今、何が歌われているかはちゃんと解って聞いている。
それに、多くのミサ曲はポリフォニックだし、オペラではポリテクストの場面もあって、原語をきちんと聴き取れる人でも、全体を言語として把握できているとはかぎらないだろう。
映画を字幕で見る人が多い(⇒「字幕の中に人生」)というのも、案外、理にかなっているのかもしれない。