頼まれ物だけではなく、自分のアクセサリーもぼちぼち作ってます。これはグレーのパールのネックレスをばらしてリフォームしたもの。元々は友人の持ち物だったんだけど、20代の頃、わたしがたいそう気に入っていて、何かというと借りていたらそのうちわたしのものになった(笑)。最近使っていなかったので、アクリルと金属と透かしをプラスして今風に作り直してみました。黒に合わせるとグッド。
材料費 700円くらい。
重ね付けしてもばらしても使える3本セット。
材料費 800円くらい。
これがメイン。1本だとこんな感じ。
細い2本はアジャスターで付けます。
どちらかというと繊細なアクセサリーが好きなので、今まで、小さい、細いパーツばかり買い集めていたんだけど、ビーズをやっている友人に、「年取ると手先が効かなくなるから、留め具は大きい方が着けやすいよ」とアドバイスされたので、大きめな引き輪を使ってみました。確かに止めやすい!
手持ちのパーツに合わせて買い足すことが多いとは、先日書きましたが、気に入ってとりあえず買っておくということもあります。そんな2種類のビーズと、上で使った水色のビーズの残り。花柄のものは紙を巻いてできています。これも800円くらい。
友人のイヤリングを作ったら、久しぶりにピアスがしたくなって作りました。いくつも穴空けたのにここ何年かほとんどしていない…。おしゃれが面倒になるというのは老化現象以外のなにものでもないよね…。
手持ちのピアス差し込んで使います。この翡翠のピアスは、若い頃、台湾に行った時に買ったもの。パーツ箱の中から翡翠の色に合うものを集めて作りました。
材料費は…わからん。300円くらいかしら。
写真は先月の漫画部の際に焼いたキッシュ。ちょっと前にキッシュについて書いた時に、そういえばどこで買うより昔友人が作ってくれたキッシュが一番おいしかったよなあ、と思って自分で作ってみたらば確かにどこで買うよりおいしかったですわ。
さて、漫画部その他でお借りした作品の数々。いくつかちょっとメモっておこうと思います。
◎聖☆おにいさん 中村光
「面白かったら即感想書くね」といいつつはや10日。面白くなかったわけじゃなく。ダメな子ですいません。
「これが笑いのツボじゃない場合は友人関係を続ける自信がない」とまで言われたわけですが。正直おおげさじゃん? それほどのもん? まあそりゃ仏像をバッグ掛けにしてる口絵とかグーだけど、そんでもって絶叫マシーンが天界が動くほどの恐怖とか、後光が差しちゃうから夜徳の高いこと言っちゃだめとかそりゃ面白いけどさ。って途中まで思いながら読んでた。
で。仏陀の趣味がシルクスクリーンで二人がいつも着てる妙な文字Tシャツが実は仏陀の手作りTシャツで、イエスの趣味がmixiで神業の即レスに「神降臨」とかのへんで吹いた。
そして求める宗教画が選挙ポスターの下りで引きつけ起こしそうになった。
とりあえず3回読みました。
微妙に仏陀の方が徳が高いあたりが日本人の心をくすぐるのではないでしょうか。そんなことない?
◎ハピネス 古谷兎丸
これはまぎれもなく文学だ。
最初の一編「嬲られ踏まれそして咲くのは激情の花」の主人公の少女と同じ女の子に、最近実際に出会った。その激情はどこから生まれるのだろう? どうしてその花が咲く人と咲かない人がいるのだろう? なんて話をそのうちするかも。
激情がないってつまんないことよ? と激情のないワタクシは最近とみに思うデス。
◎ミヨリの森&ミヨリの森の四季 小田ひで次
最初は画が苦手かもと思ったけど、すぐに可愛くてたまらなくなった。ミヨリが森を受け入れるのと同時に、わたしもこの作品の隅々までが愛おしくなっていった。ミヨリも可愛いけど精霊たちの造形が秀逸。カバーに記された「ソゲリ親子の歌」とかもうどうしてくれよう。
何より素晴らしいのは、この手の話で、しかも本人がNPO的な活動を実際にしているということなので、普通もっとエコだの農業だのに紙面を割きたくなると思うのだけど、それを決してしないバランス感覚。それしちゃうとたぶん一気にうざくなるんだよね。そこんとこが興味の対象であるわたしでも。
岩手に引っ越してこの森でミヨリと一緒に生活したくてたまらなくなるよ。
続きはまた。
お彼岸は実家に帰っていて、今から戻るのだけど寒くて駅で震えてるよ!
なにこの寒さ。実家にあったセーター引っ張り出して着て来たのに全然寒い…。マフラーと手袋が欲しいよー。
東京はもう桜が咲き始めたようだけど、実家の辺は白木蓮が満開でした。桜はまだまだみたい。
なにこの寒さ。実家にあったセーター引っ張り出して着て来たのに全然寒い…。マフラーと手袋が欲しいよー。
東京はもう桜が咲き始めたようだけど、実家の辺は白木蓮が満開でした。桜はまだまだみたい。
今にも桜が咲きそうに暖かく気持ちのよい日々ですね。
五年経っても終わらないイラク戦争だとか混迷を極めるアフガンだとかパレスチナだとかシエラレオネだとかダルフールだとか危ういコソボ独立だとか軍隊が非武装のデモ隊を殺すミャンマーだとか今まさに殺されているチベットだとか、世界はそんな呑気なこと言ってられない状態ですけど、地球の上には春がやってくるのですね。日本の(それなりの)平和がありがたい、でもニュースを見ると心が曇る、そんな今日この頃。
この冬は久しぶりに編み物をしました。
気に入ったセーターが見つからなかった話は書きましたが、実は帽子も探していて、同じく見つかりませんでした。いや、これがいいってのはあったんだけど、えらく高かったの。
で、ハット思い立ってちゃちゃっと編むことにしました。ハットじゃなくてキャップですけど。
久しぶりに一つ編んだら色々編みたくなって毛糸だけはあと2アイテム分買ったんですが、結局気分がビーズ方面にスライドしてしまって帽子を二つ編んだだけで冬が終わりそうです。
白い方がわたしの。年齢を顧みないぶりっ子な形ですが、どうも“お下げ”が付いていなニット帽は似合わないのよね。これを見た友人Mに同じ形で編んでほしいとリクエストされたので同じものをもう一つ編みました。
ところで久々に編み物してるよ~と友人Sに画像を送ったところ、「自分も久しぶりに編もうかな」というやり取りになり、1週間後には「ルームシューズとクッションカバーを編んだ」という画像が届き、更に2週間後にはかぎ針編みの美しいボレロの画像が届き、「今、更に大物を作っているのだがさすがになかなかできない」という報告が届きました。きみにゃ~ホント負けるよ!
そして、ビーズ。これは友人Nに頼まれたもの。リクエストは“アンティークとアジアンの中間くらいのテイスト”。長く垂れるイヤリングと部分的にお揃いのバレッタです。人に頼まれると妥協しないので作りがいがあるね。楽しかった。
つまるところ自分のものはけっこう妥協してるわけね。まあまず既にあるパーツを使って作ろうとしてしまうからなあ。あるものを使ってそれに合うビーズを買い足す、そうすると買い足したものがまた余るのでそれに合うものを買い足す…ってエンドレスじゃん、それ!
五年経っても終わらないイラク戦争だとか混迷を極めるアフガンだとかパレスチナだとかシエラレオネだとかダルフールだとか危ういコソボ独立だとか軍隊が非武装のデモ隊を殺すミャンマーだとか今まさに殺されているチベットだとか、世界はそんな呑気なこと言ってられない状態ですけど、地球の上には春がやってくるのですね。日本の(それなりの)平和がありがたい、でもニュースを見ると心が曇る、そんな今日この頃。
この冬は久しぶりに編み物をしました。
気に入ったセーターが見つからなかった話は書きましたが、実は帽子も探していて、同じく見つかりませんでした。いや、これがいいってのはあったんだけど、えらく高かったの。
で、ハット思い立ってちゃちゃっと編むことにしました。ハットじゃなくてキャップですけど。
久しぶりに一つ編んだら色々編みたくなって毛糸だけはあと2アイテム分買ったんですが、結局気分がビーズ方面にスライドしてしまって帽子を二つ編んだだけで冬が終わりそうです。
白い方がわたしの。年齢を顧みないぶりっ子な形ですが、どうも“お下げ”が付いていなニット帽は似合わないのよね。これを見た友人Mに同じ形で編んでほしいとリクエストされたので同じものをもう一つ編みました。
ところで久々に編み物してるよ~と友人Sに画像を送ったところ、「自分も久しぶりに編もうかな」というやり取りになり、1週間後には「ルームシューズとクッションカバーを編んだ」という画像が届き、更に2週間後にはかぎ針編みの美しいボレロの画像が届き、「今、更に大物を作っているのだがさすがになかなかできない」という報告が届きました。きみにゃ~ホント負けるよ!
そして、ビーズ。これは友人Nに頼まれたもの。リクエストは“アンティークとアジアンの中間くらいのテイスト”。長く垂れるイヤリングと部分的にお揃いのバレッタです。人に頼まれると妥協しないので作りがいがあるね。楽しかった。
つまるところ自分のものはけっこう妥協してるわけね。まあまず既にあるパーツを使って作ろうとしてしまうからなあ。あるものを使ってそれに合うビーズを買い足す、そうすると買い足したものがまた余るのでそれに合うものを買い足す…ってエンドレスじゃん、それ!
野菜干しにすっかりはまって、晴れた日の日課と化しています。
色々やってみたけど、やはりキノコと根菜がうまいね。あと自分の好み的に、あまりからからにするより生乾き状態がおいしいと思う。
舞茸の天ぷらは絶品でした。蓮根は、二日干して天ぷらにしたら固すぎた。味は好かったけど、やはり一日にしといた方が天ぷらには合うと思う。
ごぼうと人参のきんぴらはかなりおいしかった。どんぶり一杯、二人で完食してしまった。
トマトは一日だとほとんど変化無し。ミニトマトは二日でわりと味が濃くなっておいしかった。
ブロッコリーとピーマンは一日だとさほど変化を感じなかった。
今のところそんなところ。
以下干す際のコツ。
○料理に合わせて切ってから干す。(きんぴらにするならきんぴら用に切ってから)
○重ならないように並べて干す。
○長く干す時はカビに注意。かびてきたら即使うか冷蔵庫に入れる。
2/26(火)@世田谷パブリックシアター
谷崎潤一郎の「春琴抄」と「陰翳礼賛」を基にしたサイモン・マクバーニーの新作。
テアトル・コンプリシテの芸術監督であるサイモン・マクバーニーの作品は、わたしの中では最上級の演出家として“何があっても必ず観に行く芝居”としてランクされているのだが、今回の「春琴」は、その中でも最も素晴らしい舞台だった。
谷崎の「春琴抄」は、正宗白鳥に「聖人出づると雖も、一語を挿むこと能わざるべし」と言わしめたそうだが、この完璧と評される日本語の文学が、イギリス人によって完璧な舞台となったことに感動を覚える。
芝居や映画を観たとき、「ここがこうだったら完璧だったのに!」とよく思う。もちろんそれは客観的批評というより多分に主観的嗜好によるものなのだけれど。
今回の舞台はそういう意味で「完璧」だった。なぜこの人はこうまでわたしの好みを知り尽くしているの? などと考えていた。まるで自分のために用意されたような舞台だった。
数カ所役者がセリフをかんだ箇所があったのだが、それが本当にもったいなかった。舞台は生もの、いつもならそんなことはさほど気にしないのだが、今回は、完璧さがそこだけそがれたようで、その瞬間、ひどく残念に感じた。それくらい見事だった。
谷崎の「春琴抄」と同じくこの舞台も重層的に構築されている。
原作と同じく、「鵙屋春琴伝」を読む“語り手”。
春琴の想い出を語る老いた佐助。
役者によって演じられる春琴と佐助の物語。
そうして、これら全てを、つまり谷崎の「春琴抄」を、NHKラジオ第2放送のラジオドラマとして物語るナレーター。
真っ暗なスタジオで、ぽつんと一つ机の上にともされた灯りだけを頼りに、そこで語られる美しくも非日常的な物語。しかし、その朗読者のシーンだけ、素晴らしい朗読技術とともに、観客に笑いを誘う俗っぽさを併せ持つ。
この部分、朗読の合間に携帯電話を使って語られる彼女の不倫関係(?)の話は、個人的な好みで言えば、舞台の芸術的な完璧さという観点から考えると、はたして必要なのか? という疑問も沸き起こるのだが、「物語」の中にのみ存在する、春琴と佐助という特異な愛の形が、それを読んでいるナレーターに微妙に影響を与えるという形で現実に繋がっていくことを考えると、やはり彼女のシーンがあればこそ、この舞台がより印象的になったと思わざるを得ない。
シンプルな舞台。棒と布と紙と畳と着物。それらを役者自身が操って場面展開がはかられる。
本条秀太郎が三味線を弾く。その三味線が舞台上で組み立てられ、ほぼ音合わせ無しでいきなり奏でられるのにも感動。こういうプロフェショナルな技に弱い。
幼い春琴が、“人形”で登場した時には、あまりにツボで倒れそうになった。その人形は二人の女優が後ろで操る。二人のうちの一人が深津絵里で、彼女が人形の春琴のセリフを当てる。やがて春琴は成長し、人形を操っていたもう一人の宮本裕子が“人形の春琴”を演ずる。人形を演ずる生身の女優を、さらに深津絵里が後ろで操り、セリフを当てる。ここも重層的である。
そしてついに、春琴が佐助を打ち据えるシーンで、人形の春琴が生身の春琴に入れ替わる。深津が生身の春琴になるわけである。
春琴が佐助を打ち据えるのは日常であり、嗜虐性を持つ春琴が被虐制を持つ佐助を折檻するのは、二人の性的嗜好でもあるわけだが、人形(宮本)の手で佐助を叩いていた深津が、興奮のあまり自分で叩き出してしまい、その瞬間生身の春琴が生まれるという演出には、ほんとうに震えが来た。それまで甲高い声で春琴の声を演じていたのが、一転して深みのある大人の女の声に変じるのも見事。
この変化だけで、まるで、特異な二人の関係が大人の成熟した関係に変わったように感じられ、その後の佐助の、春琴に対する異常とも思える愛の行動ーー暴漢に襲われて醜くなってしまった自分を佐助にだけは見られたくないという春琴の思いに応え、佐助が自らの目を針で突いて盲になるーーが、不思議とすとんと心に落ちたのだった。
いつものサイモン・マクバーニーの映像マジックも健在で、背景に映し出される「鵙屋春琴伝」の文字がはらはらと散るように消える(実際には本のページがめくられるだけなのだが、そう見える)ところや、役者たちの持つ小さな紙がよせ集まったところに春琴の顔が映し出され、その白い紙が蝶のようにぱたぱたと飛び立ちバラバラに壊れて再構築されたり(後半で白い紙はヒバリとして使われるので、蝶でなくてヒバリかもしれない)。
演出も素晴らしいが役者たちももちろん素晴らしい。しみじみと老いた佐助を演じる世界の名優ヨシ笈田、人形の春琴に打ち据えられる肉体が輝くばかりに美しい、若き佐助を演じるチョウソンハ、深津絵里はもちろん、完璧に人形になっていた宮本裕子、深みのある声で素晴らしい朗読を聞かせた立石凉子(数カ所噛んでいたけど)、その他の人たちも、みな無駄のない鍛えられた動きが美しかった。
カーテンコールに応える役者たちはみな、幸福そうで誇らしげだった。
この舞台に出会えた、観客であるわたしも、本当に心から、幸福だった。
谷崎潤一郎の「春琴抄」と「陰翳礼賛」を基にしたサイモン・マクバーニーの新作。
テアトル・コンプリシテの芸術監督であるサイモン・マクバーニーの作品は、わたしの中では最上級の演出家として“何があっても必ず観に行く芝居”としてランクされているのだが、今回の「春琴」は、その中でも最も素晴らしい舞台だった。
谷崎の「春琴抄」は、正宗白鳥に「聖人出づると雖も、一語を挿むこと能わざるべし」と言わしめたそうだが、この完璧と評される日本語の文学が、イギリス人によって完璧な舞台となったことに感動を覚える。
芝居や映画を観たとき、「ここがこうだったら完璧だったのに!」とよく思う。もちろんそれは客観的批評というより多分に主観的嗜好によるものなのだけれど。
今回の舞台はそういう意味で「完璧」だった。なぜこの人はこうまでわたしの好みを知り尽くしているの? などと考えていた。まるで自分のために用意されたような舞台だった。
数カ所役者がセリフをかんだ箇所があったのだが、それが本当にもったいなかった。舞台は生もの、いつもならそんなことはさほど気にしないのだが、今回は、完璧さがそこだけそがれたようで、その瞬間、ひどく残念に感じた。それくらい見事だった。
谷崎の「春琴抄」と同じくこの舞台も重層的に構築されている。
原作と同じく、「鵙屋春琴伝」を読む“語り手”。
春琴の想い出を語る老いた佐助。
役者によって演じられる春琴と佐助の物語。
そうして、これら全てを、つまり谷崎の「春琴抄」を、NHKラジオ第2放送のラジオドラマとして物語るナレーター。
真っ暗なスタジオで、ぽつんと一つ机の上にともされた灯りだけを頼りに、そこで語られる美しくも非日常的な物語。しかし、その朗読者のシーンだけ、素晴らしい朗読技術とともに、観客に笑いを誘う俗っぽさを併せ持つ。
この部分、朗読の合間に携帯電話を使って語られる彼女の不倫関係(?)の話は、個人的な好みで言えば、舞台の芸術的な完璧さという観点から考えると、はたして必要なのか? という疑問も沸き起こるのだが、「物語」の中にのみ存在する、春琴と佐助という特異な愛の形が、それを読んでいるナレーターに微妙に影響を与えるという形で現実に繋がっていくことを考えると、やはり彼女のシーンがあればこそ、この舞台がより印象的になったと思わざるを得ない。
シンプルな舞台。棒と布と紙と畳と着物。それらを役者自身が操って場面展開がはかられる。
本条秀太郎が三味線を弾く。その三味線が舞台上で組み立てられ、ほぼ音合わせ無しでいきなり奏でられるのにも感動。こういうプロフェショナルな技に弱い。
幼い春琴が、“人形”で登場した時には、あまりにツボで倒れそうになった。その人形は二人の女優が後ろで操る。二人のうちの一人が深津絵里で、彼女が人形の春琴のセリフを当てる。やがて春琴は成長し、人形を操っていたもう一人の宮本裕子が“人形の春琴”を演ずる。人形を演ずる生身の女優を、さらに深津絵里が後ろで操り、セリフを当てる。ここも重層的である。
そしてついに、春琴が佐助を打ち据えるシーンで、人形の春琴が生身の春琴に入れ替わる。深津が生身の春琴になるわけである。
春琴が佐助を打ち据えるのは日常であり、嗜虐性を持つ春琴が被虐制を持つ佐助を折檻するのは、二人の性的嗜好でもあるわけだが、人形(宮本)の手で佐助を叩いていた深津が、興奮のあまり自分で叩き出してしまい、その瞬間生身の春琴が生まれるという演出には、ほんとうに震えが来た。それまで甲高い声で春琴の声を演じていたのが、一転して深みのある大人の女の声に変じるのも見事。
この変化だけで、まるで、特異な二人の関係が大人の成熟した関係に変わったように感じられ、その後の佐助の、春琴に対する異常とも思える愛の行動ーー暴漢に襲われて醜くなってしまった自分を佐助にだけは見られたくないという春琴の思いに応え、佐助が自らの目を針で突いて盲になるーーが、不思議とすとんと心に落ちたのだった。
いつものサイモン・マクバーニーの映像マジックも健在で、背景に映し出される「鵙屋春琴伝」の文字がはらはらと散るように消える(実際には本のページがめくられるだけなのだが、そう見える)ところや、役者たちの持つ小さな紙がよせ集まったところに春琴の顔が映し出され、その白い紙が蝶のようにぱたぱたと飛び立ちバラバラに壊れて再構築されたり(後半で白い紙はヒバリとして使われるので、蝶でなくてヒバリかもしれない)。
演出も素晴らしいが役者たちももちろん素晴らしい。しみじみと老いた佐助を演じる世界の名優ヨシ笈田、人形の春琴に打ち据えられる肉体が輝くばかりに美しい、若き佐助を演じるチョウソンハ、深津絵里はもちろん、完璧に人形になっていた宮本裕子、深みのある声で素晴らしい朗読を聞かせた立石凉子(数カ所噛んでいたけど)、その他の人たちも、みな無駄のない鍛えられた動きが美しかった。
カーテンコールに応える役者たちはみな、幸福そうで誇らしげだった。
この舞台に出会えた、観客であるわたしも、本当に心から、幸福だった。
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