昨日実家から戻って、昨日も今日も普通に仕事ですが、なんもやる気が出ないのでした。仕事はまあそれなりにやってますが。ごはんとかちゃんと作る気になれない。
週末実家で働き者をやりすぎてるのだろうか。
なぜ実家だとおっくうじゃなく色々やってしまうのかしら。いや、逆。なぜ一人だと何もかもおっくうなのかしら。だね。
疲れちゃいないんだけど。食欲もイマイチ。にゃんとも。
週末実家で働き者をやりすぎてるのだろうか。
なぜ実家だとおっくうじゃなく色々やってしまうのかしら。いや、逆。なぜ一人だと何もかもおっくうなのかしら。だね。
疲れちゃいないんだけど。食欲もイマイチ。にゃんとも。
ずいぶんと久しぶりにサンデープロジェクトの後半部分を見た。
新幹線や地方空港の整備が推し進められる一方で、地域の足が奪われて行く現状のレポートだった。
新幹線に賛成の地域にだけ交付される補助金。
山奥の集落へのバス路線の廃止。
すでに廃止された地域で活動するボランティアを白タク行為で逮捕する警察(貰っていたのはガソリン代程度だというのに)。
タクシー業界の要請を受けてNPOへの圧力を強める国交省。タクシー業界の権益(そしてそこが天下り先である国交省の省益)の為に、NPOが車両を使えないように法改正する国。
なんと美しい国か。涙が出そう。
これが戦後60年、お上のやりたい放題を許して来たわたしたちが、引き受けなければならない今の日本の姿なんだね。
わたしは許さない。わたしはこんな国は望まない。絶対に。
新幹線や地方空港の整備が推し進められる一方で、地域の足が奪われて行く現状のレポートだった。
新幹線に賛成の地域にだけ交付される補助金。
山奥の集落へのバス路線の廃止。
すでに廃止された地域で活動するボランティアを白タク行為で逮捕する警察(貰っていたのはガソリン代程度だというのに)。
タクシー業界の要請を受けてNPOへの圧力を強める国交省。タクシー業界の権益(そしてそこが天下り先である国交省の省益)の為に、NPOが車両を使えないように法改正する国。
なんと美しい国か。涙が出そう。
これが戦後60年、お上のやりたい放題を許して来たわたしたちが、引き受けなければならない今の日本の姿なんだね。
わたしは許さない。わたしはこんな国は望まない。絶対に。
テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済
今日は寒いですねー。実家に来てますが、ワンコの散歩もこの冬には珍しく身を切るような冷たい風でした。写真は余所の畑でみつけた6本足大根(後ろにあと2本)。
さて。さっき携帯に、PCからの転送メールがやってきました。「○○の前回データが代理店のサーバーに上がりました。各自ダウンロードしてください。ダウンロードが済んだら即刻削除すると言われたので明日中にすませてください」
はあ?…明日日曜なんですけど? ていうかなんでたかがダウンロードにそんな注文を?
その人に電話をすると、「代理店の担当者が意地悪を言うんだよ。あなたにはこっちでダウンロードして渡すから」とのこと。
フリーなんだから土日に作業というスケジュールになってしまうのはよくあること。それはしかたないです。それにまっとうな人は「週末で申し訳ないけれど」というエクスキューズ付きで発注してくれますよね。
しかしたまにパワハラとでもいうのか、こうゆう意味のない意地悪を言う人がいるんだよね。「サーバーの余裕がない」というのがこの人の言い分らしいが、この担当者になる前は仕事が全部終わるまで全てのデータはバックアップフォルダに保存されていたので、まあ単なるいやがらせなのであろう。
わたしの直接のお客さんはみんないい人で決してこんなまねはしないのだが。
一緒に仕事をするという態度が取れず、仕事を出してやるという立場をかさにきて、制作会社に無意味なプレッシャーをかける代理店の人間てのがいるわけです。
そそ、たいてい最終クライアントじゃないのよね、代理店なのよね、こうゆう勘違い人間は。
まーわたしが遭遇するのはごくたまにだけどね、幸いなことに。
2月21日(水)@新宿バルト9
「いつオスカル様が登場するのかしら!」と思いながら観てました。
リボントレースとひだ飾りの豪奢で麗しいドレスの数々、羽根飾りと扇子とデコラティブな靴たち、そしてそしてそしてドレスに負けない美しく飾り立てられた溢れんばかりのお菓子!
まあこれらを観るだけでもこの映画を観る価値はありますね。それだけといえばそれだけですが。
ルイ16世の性的不能も、デュ・バリー夫人との確執も、子をなさない王妃としての苦しみも、フェルゼンとの燃えるような恋も、苦しい別れも、王太子に向けられた不倫の子という疑惑も、あっさり淡々と流されたり、全然触れられなかったり。
物足りないと言えば物足りないのですけど、でもアメリカ人がフランスの歴史に深くコミットしたって失敗するに決まってるし、だったら自分流に撮っちゃおうっていうソフィア・コッポラは案外賢いのかも。
でもね、やっぱり、本物のヴェルサイユ宮殿で繰り広げられるロココの女王のお話が、“英語”で語られるのだけは許せないのよね…。
「いつオスカル様が登場するのかしら!」と思いながら観てました。
リボントレースとひだ飾りの豪奢で麗しいドレスの数々、羽根飾りと扇子とデコラティブな靴たち、そしてそしてそしてドレスに負けない美しく飾り立てられた溢れんばかりのお菓子!
まあこれらを観るだけでもこの映画を観る価値はありますね。それだけといえばそれだけですが。
ルイ16世の性的不能も、デュ・バリー夫人との確執も、子をなさない王妃としての苦しみも、フェルゼンとの燃えるような恋も、苦しい別れも、王太子に向けられた不倫の子という疑惑も、あっさり淡々と流されたり、全然触れられなかったり。
物足りないと言えば物足りないのですけど、でもアメリカ人がフランスの歴史に深くコミットしたって失敗するに決まってるし、だったら自分流に撮っちゃおうっていうソフィア・コッポラは案外賢いのかも。
でもね、やっぱり、本物のヴェルサイユ宮殿で繰り広げられるロココの女王のお話が、“英語”で語られるのだけは許せないのよね…。
2月21日(水)
久しぶりに映画を観に行きました。ずっと前からシャロンと約束していた「マリー・アントワネット」。父のことで行けなくなってしまったので、シャロンに観てしまっていいよーと話しておいたら、平日にたえちゃんと観るので一緒にどうですかーと誘ってもらったのです。
どこももう終わっていて、新宿に新しくできたシネコン、バルト9でだけやっているというので、思いがけずできたばかりの映画館で観ることに。場所は新宿通りにできた丸井の新館の上です。何故かバルト9がスカラ座の跡地だと思いこんでいて、そこに向かったら「バルト9はあっちです→」という貼り紙がしてありました。わたしのようなうっかりさんが多いらしいわ。
最近都心はこういう最新のファッションビルとのコンプレックスが多いね。チケットの予約をして、空いた時間は買い物や食事をっていうことなんでしょう。あ、いや、コンプレックスは元々そうだけど、地方や東京のはずれとかだと、ファッションビルというより、もっとファミリーユースっぽいじゃない?
で、アントワネットはとても小さい劇場だったので、1時間ほど前に行った時は既にいっぱいで、次の回を観ることになって、わたしたちもとりあえずはレストラン階に。しかし「お金がないんです~!」と叫ぶシャロンに(しかも3時間近く潰さねばならぬ)、ここは新宿、外へ出れば安いお店がたんとある、ってことで外へ出ました。
そして安くて有名なあの「さくら水産」へ。初めて入りましたよ。もちろん50円の魚肉ソーセージも頼んだ(写真、全部で6切れです)。確かに何もかも安かったです。3時間もいたのに一人2300円弱でした。味もそんなに悪くない。180円のビーフンはなかなかのものでした。
250円の定食セット(ごはん、みそ汁、玉子、お新香)って言うのがあって、コレに納豆80円を付ければ330円で食事ができる! と、みんなで興奮してました。
アントワネットは、まあまあ。コスプレものとしては楽しかったですね。
2月22日(木)
先週、CS2(デザイナー用の新しいアプリケーション)を導入して、今日は仕事に使ってみました。しかし機能を紹介するビデオを見ると、本当に便利で素晴らしいのだけど、この機能を使いこなさなきゃいけないんだナーと思ったら、なんだか憂鬱になってしまった…。
↓昨日マイミクの友人がミクシで紹介していたすごいビデオ。
http://d.hatena.ne.jp/acqua_alta/20070219/bob
あまりの才能のすごさに爆笑。
男は飲みつぶれ、女は泣き付かれて眠る、っていう唄があるけれど、たしかに涙には辛い気持ちを洗い流す効果があるのかもしれない。
辛さや悲しみに押し潰されてしまう人は、上手く泣けない人なのかもしれないな、と、ふと思った。
辛さや悲しみに押し潰されてしまう人は、上手く泣けない人なのかもしれないな、と、ふと思った。
昨日実家で仏壇の話をしていたら、母が、「ここんちは割に長く続いている家なのに、位牌がほとんどなくって、代わりに“霊簿”ってものがあるんだよね」と言って、先祖代々の亡くなった日と法名(戒名を含んだ死語の名)を記したものを見せてくれました。
いやー、初めて知りました、そんなに続いている家だとは。だって聞かされてなかったよ?(考えてみればあの墓を見ればわかるよ。なんか漠然と墓参りしてたわ…)
ま、田舎じゃあんまり珍しくもないんでしょうが、でも例えばサンジくんとわたしはわたしたちで始まりわたしたちで終わるわけで、そう考えると300年以上ってのはなかなか感慨深い。
霊簿なので、家系が始まった時ではなく、最初のご先祖が亡くなったのが約300年前ってことですが、考えてみればその人にも親はいるわけで、つまりお寺の檀家になってからの歴史なのか?
まあよくわかりませんが、写真がその霊簿です。一番古い記録が宝永2年なので1705年ですね。
こういうことは父が生きてるうちに聞いときゃよかったなあとつくづく思います。後悔先に立たず…。
母は、昔から決まってることは誠実に続けてるけど、わたしと同じく物事を追求しないタイプなので、聞いてもほとんど知らないのよ。わたしはブログを始めてから多少考えるようになったけれども、でも“考えたこともない”って事が多すぎるんだよね…。
実家で確定申告のための伝票整理をしようと、領収書をカバンに詰めて来た。おかげて早々と経費の計算は終わったわ。
母は母で遺族年金の書類と格闘してた。相当めんどくさそう。お金をもらうのは楽じゃない、取られるときは簡単なのにとぼやいてた。
今夜はキムチ鍋。姉が味噌を入れると言い張る。キムチ鍋なのに。味噌はともかく顆粒のだしのもとを大量に入れられて参った。普段あまり化学調味料を摂らない生活をしてるせいか、舌にいつまでも味が残って不快。
ここんとこずっと、帰ったときは主にわたしが台所をやっているので、実家にある調味料には不満で、近所のコープで先々週は醤油と白だし、先週は塩と胡椒を買ったのだけど、まだまだだね…。
しかしまあ実家とはいえ人んちだからな。いくら自分が台所やってるからってあんまりいじくりまわすのも気が引けるよ。
ていうか病気の人とは言い合いできないよー。これってある意味、嫁と姑が味付けで揉めるってのに近いかもしれないな(笑)。
母は母で遺族年金の書類と格闘してた。相当めんどくさそう。お金をもらうのは楽じゃない、取られるときは簡単なのにとぼやいてた。
今夜はキムチ鍋。姉が味噌を入れると言い張る。キムチ鍋なのに。味噌はともかく顆粒のだしのもとを大量に入れられて参った。普段あまり化学調味料を摂らない生活をしてるせいか、舌にいつまでも味が残って不快。
ここんとこずっと、帰ったときは主にわたしが台所をやっているので、実家にある調味料には不満で、近所のコープで先々週は醤油と白だし、先週は塩と胡椒を買ったのだけど、まだまだだね…。
しかしまあ実家とはいえ人んちだからな。いくら自分が台所やってるからってあんまりいじくりまわすのも気が引けるよ。
ていうか病気の人とは言い合いできないよー。これってある意味、嫁と姑が味付けで揉めるってのに近いかもしれないな(笑)。
今週は比較的ヒマでした。んで今後の仕事に備えていろいろと調べたり試したり考えたりした結果、結局新しいアプリケーションを買う事に。そんでそれを買う結果、結局新しいマシンも買う事になるかもしんないけどまだ決心がつかない本日でした。
ああめんどくさい。
ああめんどくさい。
離婚後300日以内に産まれた子供は前夫の子、という民法の規定が最近話題になっているね。わたしも最近になって初めて知りましたよ。
新しい夫の子供として役所が受け付けてくれず、家庭裁判所に持ち込んでお墨付きをもらうしかないんだってね。出産した女性にも、新しい夫にも、場合に寄っては別れた夫にも負担を強いているんだとか。
暴力夫から逃れてようやく新しい幸せを得た女性は、前夫に連絡するくらいならと子供を無戸籍のままにすることを選ぶ人も少なくないそうで、これはなかなか深刻な問題ですよね。
男性は離婚後すぐ再婚できるのに女性は半年できないんだから、子供の規定も半年にしとけば充分では?
だいたい300日って…。離婚の前日までセックスしてるとか考えてんのか、この法律は?
さっきテレビで、民主党の枝野さんの質問に対する、安倍首相の気のない答弁を見たけど、「オンナは勝手に離婚なんかすんな。別れたらせめて1年くらいは大人しくしとけ」みたいなフキダシが、頭の上に見えちゃったわよ。
新しい夫の子供として役所が受け付けてくれず、家庭裁判所に持ち込んでお墨付きをもらうしかないんだってね。出産した女性にも、新しい夫にも、場合に寄っては別れた夫にも負担を強いているんだとか。
暴力夫から逃れてようやく新しい幸せを得た女性は、前夫に連絡するくらいならと子供を無戸籍のままにすることを選ぶ人も少なくないそうで、これはなかなか深刻な問題ですよね。
男性は離婚後すぐ再婚できるのに女性は半年できないんだから、子供の規定も半年にしとけば充分では?
だいたい300日って…。離婚の前日までセックスしてるとか考えてんのか、この法律は?
さっきテレビで、民主党の枝野さんの質問に対する、安倍首相の気のない答弁を見たけど、「オンナは勝手に離婚なんかすんな。別れたらせめて1年くらいは大人しくしとけ」みたいなフキダシが、頭の上に見えちゃったわよ。
2月7日(水)
昨日の精算やらお寺への挨拶(兼支払い)やらで午前中はまだまだざわざわ。
お昼はまたサンジくんがチャーハンを作る。兄嫁にうらやましがられることしきり。兄は嫁にお皿に取ってもらったりするタイプ。
週末は3連休だけれど、止めてもらっている仕事もあるので夕方一旦東京に戻る。姉がしばらく実家に留まるとのこと。
なんか美味しい物食べよう、しばらく和食だったから洋食食べようということで、三茶のイタリアンに行くことに。その前にあまりの肩こりにマッサージにも行く。「おそろしく凝ってますね」と驚かれるが、やってもらってだいぶほぐれた。薬屋さんでピップエレキバンの強力なやつなんかも買ってしまう。うう、ばあさんだよ、まったく。この肩こりは何だろう。ここ1年くらいずーっとなんだよね。まだ早いと思うんだけど…まさか更年期? いや、四十肩かしら…。
それはともかく、イタリアンは三茶の人気店、グッチーナ。以前一度行こうとしてお休みだったんだけど、そのまま行く機会を逸していた。
噂に違わずとても美味しかった。…けど、何食べたか思い出せない…。
HP見ながら思い出してみました。えーと前菜盛り合わせ、4種チーズのパングラタン、ウニソースのリングイネ、だったかな…。あと白金豚のソテーだったような…。デザートは……うーん? …これは年のせいでなく葬式後のショックが続いていたからってことにしておこう…。
雰囲気もよかったしまたみんなで行きたいところです。ワイン込みで二人で15,000円くらいだったよ、確か。
2月8日(木)
わたしの方に午前中やらなければいけない仕事があったので、サンジくんも午前中大阪に戻る。とはいえ今日はそんなに忙しくはなし。でも何となくやっぱり遅くなってしまった。
2月9日(金)
某公的機関に監修をしてもらわなければいけない仕事をやっているので、夕方その公的機関に原稿を持っていく。担当の人が一緒に来てくれと言うので付いていったのだけど、何ということもなく、相手はただ受け取っただけだった。なんか使用する言葉とかのレクチャーでもされんのかと思っていたので拍子抜け。
仕事は終わりだけど、母に頼まれた青色申告用の帳簿を作らなければならないので事務所に戻る。母に言わせると、数年間使っていた農業用の帳簿が切れたので、各方面に問い合わせるも、どこも扱っていなかったのだそうだ。「じゃあ他の人はいったいどうやって申告してるんですか!」と聞いたらしいが、要領を得なかったらしい。まあ今時はどんどんオンライン化が進んでいたりするしねえ。自分で作ればいらない項目はカットできるし、わたしが作ってあげるよ、ということに。
なんだかんだで結局帰るのが遅くなってしまった。って毎日言ってるような…。
2月10日(土)
東急FoodShowでお総菜を買って、午後実家へ。仕事仲間の友人達がお香典をくれたので、父の霊前に供える。まだ毎日けっこう人が来るらしい。暖かい日が続くけれどお花はまだ全然生き生きとしている(写真)。ひとつ蘭が枯れていたので引っこ抜いたら、花の部分だけが薬に浸けてあって、茎の部分は作り物だった。なるほど、だから長持ちなんだわ。
母とお酒を飲みながら姉と3人で夕食の膳を囲む。
2月11日(日)
特にやることもないので洗濯とか掃除とか犬の散歩とか。風が冷たい!
2月12日(月)
今日は覚悟を決めて冷蔵庫の大掃除。わたしのとこの冷蔵庫は小さいので、あんまり得体の知れない物が奥の方に眠っているということはないのだけど、実家の冷蔵庫は大きい上に、しばらく父の病院にかかりきりだったせい(と母が主張するのでそういうことにしておく)で、とんでもない状態になっていた。野菜室で液状化していたブツは、中を見ないで袋のまま捨てたよ、思わず。棚から何から全部洗ったので、半日かかりました。はー疲れた。
夕飯を食べてから帰宅。前にも書いたように姉はまだあまり家事とかできないんだけど、車の運転だけはほぼ完璧。なのでまた母と夕飯時にはお酒を飲みました。こうゆう時お酒飲まない人(姉は病気になる前から飲まない)がいるとほんと助かるわぁ。
2月13日(火)
急に飛び込んだ仕事をかたづける。まだ肩こりが酷い。またマッサージに行きたいなあ。
夜中不安に襲われたことはブログに書いたとおり。電話が通じた時、声が潤んでいたら、「酔っぱらってんの?」とサンジくんに聞かれたことは秘密ね。
ふと「のんのんばあとオレ」が読みたくなって、寝る前に何度目かの再読。
2月14日(水)
世はバレンタイン。喪中は全ての行事は自粛ですよ、ええ。自粛って思ってると、何故か自分のために美味しいチョコを買おうかなと言う気にもならない。
女子であふれるチョコ売り場をかき分けて、お香典を頂いた友人へのお返しを探しに右往左往。やれやれ。明日にすればよかった。何しようかなーと思ったけど、無難な線に落ち着きました。実家なんかだとお葬式のお返しはしょうがないほど溢れていて、お茶海苔タオルはもらっても嬉しくないだろうけど、意外と独身だとこういう物ってもらわないもんね。
親切なコメントやメールをいただきましたけど、わりに元気です。
でも、今夜、サンジくんに連絡が取れなかったら、なんだか急にすごい不安が押し寄せて来てしまったよ。ドドドドドドドドってジョジョですか。
結局は連絡付いたけど、もうちょっとで向こうの実家に電話するとこでした。
やあねぇ、いい年して。油断できないわね。
でも、今夜、サンジくんに連絡が取れなかったら、なんだか急にすごい不安が押し寄せて来てしまったよ。ドドドドドドドドってジョジョですか。
結局は連絡付いたけど、もうちょっとで向こうの実家に電話するとこでした。
やあねぇ、いい年して。油断できないわね。
朝早く起きて葬儀場へ。今日は昨日よりも喪服がきれいに着られた。昨日はやっぱりあわててたんだね。
朝8時半に葬儀場へ到着。これからお別れ式だ。棺の蓋が開けられて、みんなで花を手向ける。父は花を育てるのが好きだった。いつだったか母が植えようと思ってチューリップの球根を用意しておいたら(母も植物好き)、知らないうちに父が全部植えてしまって母が怒ったことがあったっけ。父は花は好きだったけどガーデニングのセンスはなかった。何でもかんでもそこら中に植えてしまうので、母がよくぶつぶつ言ってたなあ。そうかと思うと、枯れたと思いこんで、アスパラガスを根こそぎにしてしまったり。植物の知識もイマイチだったのね。
遺体を花で埋めて、それからわたしが見舞い用に作った句集を入れ、新しいノートととボールペンを添え、姪っ子が見舞いに持ってくると喜んだというシュークリームを入れて、棺の蓋は閉じられた。
兄が位牌を持って、わたしが遺影を持って、バスに乗って火葬場へ向かう。火葬場でもう一度顔を見て、それから父は骨になってしまった。
祖母の時は火葬が済むと、みんなが見ている前で炉から台を引き出し、骨が標本のようにきれいに残っていたのだけど、今回は、終わったということでみんなが再び炉の前に戻った時には、もう全部寄せ集めてあって、人の形に骨が残っているのは見ることができなかった。方式が変わったのか、昔よりも焼く温度が高温になったせいなのか、それとも長い闘病で骨がもろくて残らなかったのか、頭蓋骨もほとんど原形をとどめておらず、なんだか拍子抜けした。
箸を持ち、二人でひとつの骨を骨壺に納める骨上げをして、最後に一番上にめがねを載せ(時計を忘れてきたので後でわたしが骨壺を開けて入れたのよ、実は)、これでおしまい。
やっぱり火葬ってあっけない。葬儀の前に遺体を家において別れを惜しむように、葬儀後も土葬の方がやっぱりいいと思った。日本には、今でも土葬を行っている地方が少しだけあるそうだけど、自分とこの畠や山に遺体を埋めて、埋めたところを小山にしておくと、少しずつその山が小さくなるんだって。畑仕事しながら、「祖父ちゃん、だいぶへっこんだなー」とか死者に話しかけたりするんだってよ。なんだかいいよね、それって。都会じゃ無理だけど。
ちなみに告別式の前に火葬にするのでサンジくんは驚いていた。母に聞いたら、土葬から火葬に変わった時に家の方ではこういう手順になってしまったみたい。
それからまたバスに乗って葬儀場に戻り、おしのぎのおむすびをもらって、午後は告別式。告別式には友人が一人来てくれた。どうもありがとう、嬉しかった。それから弔電を送ってくれた友人もいた。みんなもう親を亡くす年齢なんだよね。叔父叔母ももう年だし、人生も後半に入ると出会いより別れの方が多くなるのかもなあ。これがその最初なのかもね。あああなんだかしんみり。
そして告別式には、兄の教え子が、卒業生も含めてたくさん来てくれたせいもあって、何と今日も300人、両日で600人以上の人が会葬してくれたのでした。女子中学生や女子高生や女子大生がずらりと並んでいるのを見て、父の写真を振り返ったら、なんだか驚く父の声が聞こえてくるようで、微笑ましくなっちゃって、葬式中だというのに自然に笑みがこぼれてしまいました。盛大でよかったなあ。いいお葬式でした。
なかなかよい戒名ももらって、お坊さんの話もいい話でしたよ。
告別式が終わったあとは本膳。精進落としってやつですが、お坊さんや世話になった隣組をもてなす意味もあります。
うちは十年くらい前に家を引っ越したのだけど、前の家があった場所の隣組は、とっても賑やかだった。新しい家のある場所の隣組はみなさんとっても大人しい。でも前の場所にはとっても意地悪な人がいたりしたけど、今のところはみんないい人なんだって。こんな小さな地方のほんとに小さな集落でも、不思議とそういうカラーができちゃうんだよね。面白い。ちなみにその意地悪なおじさんももう亡くなってるんだけど、その葬式は、10年に一度あるかないかという土砂降りだったらしい。
告別式も終わって、残るは念仏講。そう、まだ行事があるのよ、田舎だから。
と言っても最近では家の方でもやらなくなっているのだそうだ。今回もやらない方向で話が進んでいたので、わたしが強烈にお願いしてやってもらったの。お念仏のない葬式なんて! いやだ! そんなの! とか言って。
お念仏っていうのは、隣組の人が家に集まって、鐘に合わせて「不動、釈迦、文珠、普賢、地蔵、弥勒、薬師、観音、勢至、阿弥陀、阿しゅく、大日、虚空蔵 南無十三仏南無阿弥陀」と十三回唱えるの(写真参照、これは父の筆)。その間、孫に当たる子供が、お供えしている水を、どんどんと取り替えていくという儀式。仏様が三途の川を渡る時にとても喉が渇くからという理由らしい。兄のとこの姪達が着替えに戻って遅れたので、最初はわたしと姉が子供達に混ざって参加。姉は涙ぐんでた。お念仏はね、何よりも心を癒すんだよね。こういう儀式が廃れちゃいけないと思う。
それから「帰命頂礼」という歌も歌われた。これは祖母の時に歌ったか実は覚えがないんだけど、これも昔から伝わる歌らしい。今度詩を載せてみます。JASRACに断らないとダメ?
近々母に歌ってもらってビデオ録っておこう。隣組も若い人は歌えなかったようだし。
途中で一度お茶を出す。昨日サンジくんと買い物に行った時に買ってきたお菓子を一人一箱ずつ渡す。これは念仏玉というらしい。そうしてもう一度十三仏と帰命頂礼をやって、全部お終いになった。
本膳を頂いたのが夕方だったので、夕飯は軽く煮込みうどんにした。父はうどんが好きだったので、お香典のお返しもうどんにした。
兄と義兄とサンジくんはいつまでも飲んでいた。料理を運ぶわたしに酔っぱらった兄が言った。「二人ともいい男だ。オレの妹の旦那にはもったいない」
ああそうですか。誰が作った料理を食ってンだよ、この男どもは。
父もここで一緒に飲みたかっただろうなあ。わたしが結婚した時にはもうあんまり飲めなくなっていたからなあ。兄だって前はそんなにちょくちょく家に来なかったし、義兄なんて、ほとんど来なかったし。
孝行をしたい時に親は無しだよ! オニイチャン達!(嫁も無しかもよ)
ちなみにサンジくんは親孝行だ。
今日はいよいよ納棺、そして通夜。風も止んでとても暖かい。昨日、一昨日は元気にしていたワンコは、不思議とまた今日は大人しい。
今日まで三日間、家に遺体を置いて、枕辺にお膳を供えて、日々何度もお線香を立てて、いろんな人が訪ねてくれて、疲れたけど、母にも自分にもたぶん他の家族にも、この時間は、心を落ち着かせるのにとても役立ったのだと思う。
最近は、遺体を病院から葬儀場へ直接運んでしまう家も多いのだとか。
母は、「一旦家に連れて帰らないとお父さんがかわいそう」と言っていたので、もし葬儀場が混んでいなくてすぐに通夜が行えたとしても、たぶん一日は家で父と共に過ごしただろう。こういう昔ながらのやり方って、やっぱり意義があるんだなと、改めて実感した。
それと、大げさかもしれないけれど、人が家族を作ることの意味を知ったように思う。父の古いアルバムには、わたしが知らない家族の写真がいくつか載っていて、それを見ながら、ああ、人は、こんな風に、新しい家族を作りながら、人生を繋いでいくんだなと、なんだかしみじみと感じ入ってしまった。
今回、いろんな人に「一昨年結婚しておいてよかったねえ。お父さんに花嫁姿見せてあげられて」と言われたのだけど、親孝行としてだけでなく、本当に、サンジくんがいてくれてよかったなと、素直に思いましたですよ。
午後になって、葬儀社の人が来て、納棺の準備をする。身体の方は病院できれいにしてくれたので、髭を剃って、ちょっぴり死に化粧を施してくれる。本当に尊い仕事だなあと思う。顔は亡くなった日とほとんど変わっていない。親族がアルコール綿をもらって少しずつ手足を清める。
それからみんなで手伝って経帷子を着せる。一般的には、遺体には生前に着ていた服を着せて、経帷子は上から掛けるらしいけど、家の方では装束一式を着せて、背広の方を上から掛けるのだ。亡くなる前、かなり手足が浮腫んで水がたまったままなので、着ている浴衣は脱がせず、その上から白い着物を着せる。それから親族が、足袋、脚絆、手甲を着けてあげる。頭の三角布は最近では表情が暗くなるとのことで袂に入れる事にしているそうだ。わたしは頭陀袋を頭から下げる係りをやった。中に入れる六文銭(三途の川の渡し賃)は印刷された紙で代用。
遺体を棺に入れてから、みんなで小銭を着物の袂や、棺のあちこちに入れる。これは、十万億土を旅する間、極楽までのお小遣いだそうだ。わたしは50円玉を入れた。
杖と守り刀を添え、父は葬儀場へと運ばれていった。
それからてんやわんやで喪服に着替え、わたしたちも葬儀場へ。結婚した時に母が着物を一式揃えてくれたので、それを着る。結婚したら親族の葬式には着物を着るものだってことだけど、なんかそんな格好をする年になったのね、と妙な感じ(実際には年は関係ない)。着物は好きでよく着るけど、やはり喪服とか留め袖とかって特別な感じよね。
昔は振り袖だって母が着せてくれたもんだけど、やはり母も年だ。身長が違いすぎて(母が縮んだのね)、あまりうまい具合に着れなかった。下手でも自分で着た方がマシだったかも…。というか自己流で済ませず、やはり一度ちゃんと着付けを習おう。
葬儀場に到着。メモリアルコーナーはとてもいい感じにできていた。祭壇も立派。 献花もたくさん。うん、こうでなくちゃ。
通夜には驚いたことに300人もの人が来てくれた。ちょっとした名士だねー、お父さん。
通夜ぶるまいは家の方では決まった人だけ。会場でやっているので時間も短くて少々味気ないけど、明日は朝早くからまた動かなきゃいけないので早々に切り上げて帰る。女性陣は着物なので、葬儀場にはサンジくんと姉の旦那が泊まってくれた。
明日は6時起きだ。
今日まで三日間、家に遺体を置いて、枕辺にお膳を供えて、日々何度もお線香を立てて、いろんな人が訪ねてくれて、疲れたけど、母にも自分にもたぶん他の家族にも、この時間は、心を落ち着かせるのにとても役立ったのだと思う。
最近は、遺体を病院から葬儀場へ直接運んでしまう家も多いのだとか。
母は、「一旦家に連れて帰らないとお父さんがかわいそう」と言っていたので、もし葬儀場が混んでいなくてすぐに通夜が行えたとしても、たぶん一日は家で父と共に過ごしただろう。こういう昔ながらのやり方って、やっぱり意義があるんだなと、改めて実感した。
それと、大げさかもしれないけれど、人が家族を作ることの意味を知ったように思う。父の古いアルバムには、わたしが知らない家族の写真がいくつか載っていて、それを見ながら、ああ、人は、こんな風に、新しい家族を作りながら、人生を繋いでいくんだなと、なんだかしみじみと感じ入ってしまった。
今回、いろんな人に「一昨年結婚しておいてよかったねえ。お父さんに花嫁姿見せてあげられて」と言われたのだけど、親孝行としてだけでなく、本当に、サンジくんがいてくれてよかったなと、素直に思いましたですよ。
午後になって、葬儀社の人が来て、納棺の準備をする。身体の方は病院できれいにしてくれたので、髭を剃って、ちょっぴり死に化粧を施してくれる。本当に尊い仕事だなあと思う。顔は亡くなった日とほとんど変わっていない。親族がアルコール綿をもらって少しずつ手足を清める。
それからみんなで手伝って経帷子を着せる。一般的には、遺体には生前に着ていた服を着せて、経帷子は上から掛けるらしいけど、家の方では装束一式を着せて、背広の方を上から掛けるのだ。亡くなる前、かなり手足が浮腫んで水がたまったままなので、着ている浴衣は脱がせず、その上から白い着物を着せる。それから親族が、足袋、脚絆、手甲を着けてあげる。頭の三角布は最近では表情が暗くなるとのことで袂に入れる事にしているそうだ。わたしは頭陀袋を頭から下げる係りをやった。中に入れる六文銭(三途の川の渡し賃)は印刷された紙で代用。
遺体を棺に入れてから、みんなで小銭を着物の袂や、棺のあちこちに入れる。これは、十万億土を旅する間、極楽までのお小遣いだそうだ。わたしは50円玉を入れた。
杖と守り刀を添え、父は葬儀場へと運ばれていった。
それからてんやわんやで喪服に着替え、わたしたちも葬儀場へ。結婚した時に母が着物を一式揃えてくれたので、それを着る。結婚したら親族の葬式には着物を着るものだってことだけど、なんかそんな格好をする年になったのね、と妙な感じ(実際には年は関係ない)。着物は好きでよく着るけど、やはり喪服とか留め袖とかって特別な感じよね。
昔は振り袖だって母が着せてくれたもんだけど、やはり母も年だ。身長が違いすぎて(母が縮んだのね)、あまりうまい具合に着れなかった。下手でも自分で着た方がマシだったかも…。というか自己流で済ませず、やはり一度ちゃんと着付けを習おう。
葬儀場に到着。メモリアルコーナーはとてもいい感じにできていた。祭壇も立派。 献花もたくさん。うん、こうでなくちゃ。
通夜には驚いたことに300人もの人が来てくれた。ちょっとした名士だねー、お父さん。
通夜ぶるまいは家の方では決まった人だけ。会場でやっているので時間も短くて少々味気ないけど、明日は朝早くからまた動かなきゃいけないので早々に切り上げて帰る。女性陣は着物なので、葬儀場にはサンジくんと姉の旦那が泊まってくれた。
明日は6時起きだ。
今日は朝から風が強い。
今日も朝から人がやってくる。
今日も朝からお茶くみ係。
父の教員仲間だった先生が、叙勲の申請に使うからと資料を借りに来る。
(どうせなら生きてるうちにくれればいいのにと言ったら、そしたら叙勲祝いとかなんとかまためんどくさいからいいんだよ、とクールな母であった。噂に寄れば紙が一枚ぺらっと来るだけらしい。100万円くらいくれればいいのにねぇ。とこれは後日談。)
お昼はサンジくんが焼きそばを作ってくれる。下働きに徹する末っ子夫婦であるよ。
葬儀場のメモリアルコーナーに飾る写真などもピックアップ。父が自ら書いた漢詩の色紙やら俳句の短冊やら。それとこれは絶対外せない、短歌で受賞した知事賞の楯。古い古いアルバムも一冊。写真はそのアルバムにあった若き日の父(下が父)。なかなかハンサムざんしょ?
必要以上に着替えを詰め込んで来たのに、なんと下着を持ってくるのを忘れたので、午後夕飯の買い物がてらサンジくんと出かける。2人になるとついつい甘えがでちゃうね。「疲れたー」を連発。ファミレスに寄ってパフェ食べちゃいました。
朝から近所の人や親戚が次々に弔問にやって来る。今日はとても暖かい。甥と姪に遊んでもらってワンコも今日は元気。
暖かい日が続いた後、急に冷え込んだ昨日は、うちの方だけで3人が亡くなったそうで、葬儀場がいっぱいのため、通夜が5日、告別式が6日ということに。帰りが延びるので何軒か仕事先に電話。
今日はほぼ一日中お茶くみ、ご飯のしたく、洗いもの。姉がまだ完全でないためあんまり役に立たないので、わたしが下働きに徹する。
もちろん喪主の方がはるかにたいへんなので、末っ子でよかった…と思ったけど、よく考えたらサンジくんは長男だった。あっちの時はこの苦労をするのね…。
うちの分家のおじさんが地域の世話役で、葬式の事は何もかもわかっているので、喪主の兄と相談しながらほとんど仕切ってくれる。こうゆうときは、隣組の存在とか、地域の付き合いの有り難みが身にしみる。
葬儀をどのコースにするか、何をお返しにするかは、兄が相談してくれたのでわたしも口を出した。必要以上に(笑)。
人並みの中くらいのコースで、というのはすぐに決まったけれど、その中クラスがまた上下に別れているんだ、これが。わたしは断然上を主張したわけ。
今まで、高額な戒名代や豪華な葬儀に疑問を持つ人々が、親しい人だけでひっそり行う葬儀や散骨なんかの話を聞くと、それもいいなあなんて思っていたけれど、いざとなったらわたしが家族で一番保守的でしたよ。
「元校長先生なんだからそれなりに見栄えがよくなくちゃだめ」
「できるだけ連絡をして盛大にやるべき」
などと強く主張。「お父さんは派手なことも権威的なことも嫌いだったんだから」と、県教委関係へは連絡しなくていいかーなんていう母に、「派手なことは嫌いでも、大勢に集まってもらうのはうれしいはずだ! わたしにはわかる!」とか叫んでたよ、根拠ないけど。
まあでも葬式は賑やかな方がいいよ、ホントにね。
夕方サンジくんが大阪の寿司屋で買ってきた恵方巻きを手土産に到着。しかし忌中なので節分行事はできません。普通に切って食べました。本場の寿司屋の太巻きはおいしかった。
サンジくんと一緒にわたしもようやく父の死に顔をちゃんと見た。とても安らかな顔だった。
母がしきりに「昨日に比べてなんだか笑っているような顔になっている、不思議だ。」とみんなに言っていた。
それはたぶん重力のせいだ、とは口にしませんでした。
暖かい日が続いた後、急に冷え込んだ昨日は、うちの方だけで3人が亡くなったそうで、葬儀場がいっぱいのため、通夜が5日、告別式が6日ということに。帰りが延びるので何軒か仕事先に電話。
今日はほぼ一日中お茶くみ、ご飯のしたく、洗いもの。姉がまだ完全でないためあんまり役に立たないので、わたしが下働きに徹する。
もちろん喪主の方がはるかにたいへんなので、末っ子でよかった…と思ったけど、よく考えたらサンジくんは長男だった。あっちの時はこの苦労をするのね…。
うちの分家のおじさんが地域の世話役で、葬式の事は何もかもわかっているので、喪主の兄と相談しながらほとんど仕切ってくれる。こうゆうときは、隣組の存在とか、地域の付き合いの有り難みが身にしみる。
葬儀をどのコースにするか、何をお返しにするかは、兄が相談してくれたのでわたしも口を出した。必要以上に(笑)。
人並みの中くらいのコースで、というのはすぐに決まったけれど、その中クラスがまた上下に別れているんだ、これが。わたしは断然上を主張したわけ。
今まで、高額な戒名代や豪華な葬儀に疑問を持つ人々が、親しい人だけでひっそり行う葬儀や散骨なんかの話を聞くと、それもいいなあなんて思っていたけれど、いざとなったらわたしが家族で一番保守的でしたよ。
「元校長先生なんだからそれなりに見栄えがよくなくちゃだめ」
「できるだけ連絡をして盛大にやるべき」
などと強く主張。「お父さんは派手なことも権威的なことも嫌いだったんだから」と、県教委関係へは連絡しなくていいかーなんていう母に、「派手なことは嫌いでも、大勢に集まってもらうのはうれしいはずだ! わたしにはわかる!」とか叫んでたよ、根拠ないけど。
まあでも葬式は賑やかな方がいいよ、ホントにね。
夕方サンジくんが大阪の寿司屋で買ってきた恵方巻きを手土産に到着。しかし忌中なので節分行事はできません。普通に切って食べました。本場の寿司屋の太巻きはおいしかった。
サンジくんと一緒にわたしもようやく父の死に顔をちゃんと見た。とても安らかな顔だった。
母がしきりに「昨日に比べてなんだか笑っているような顔になっている、不思議だ。」とみんなに言っていた。
それはたぶん重力のせいだ、とは口にしませんでした。
2月1日(木)
プレゼンが終わった。やれやれ。提出側はみんなけっこう気に入ってくれたけどどうなるかはわかりません。
夜、母より電話で「お父さん、なんと今日お粥を食べたよ!」との知らせ。隣のベッドの人が食べていたうどんが目の前にちらついたとかで、病院が次の食事にお粥を出してくれたら、完食してしまったとのこと。ひょっとして回復している? 「金曜の夜か土曜日に行くね」と言って電話を切る。
2月2日(金)
午後、仕事中に母より電話。「お父さん、すごく悪くなっちゃってもうだめらしい。昨日はお粥食べたのに…。」
頭がジンジンした。でも、ああ、やっぱり、あれはろうそくの最後の明るい炎だったんだね、という気持ちも沸き起こる。すぐに帰りたいのは山々だったけれど、行ったらそのまま数日は帰れないだろうから、やっている仕事を放り出す訳にも行かず、とりあえず終わり次第帰るからと伝える。自分でも驚くくらい狼狽えて、胸がドキドキして、手が震えて、集中できない。とりあえずサンジくんに電話する。翌日こっちに来てくれるとのこと。
どうにか終わらせて帰り支度をしている時にまた母から電話。「お父さんね、もう、死んじゃった。早かったねえ…」
「間に合わなくてゴメン…」口の中で呟くけど声にならず。「今終わったから。家に戻って支度してすぐ向かうね」ようやく言って電話を切る。何軒かのお客さんに連絡をして、やっていた仕事を宅配便に乗せる算段をする。初めて送るところなので、宛先を間違えないよう、何度も確認する。
仕方ないと思いつつも、“間に合わなかった”という気持ちがのしかかって来る。ふと時計を見たら、危篤の電話から亡くなった報せまで1時間半しか経っていなかった。すごく長時間仕事にかかっていたような気がしたけど、すぐに向かったとしても間に合わなかったんだね。
三茶の駅に着いたとき、サンジくんに危篤の報せしかしていなかったことを思い出して、歩きながら電話。「大丈夫なんか?」と聞かれて「わかんない」と答える。
着替えを詰め込んで実家に向かうと、またまた電車が止まっている。
前日までの暖かさがウソのように、震えるほど寒い。昼間着ていたスカートのまま来てしまったことを後悔する。乗り換えの駅でさんざん待たされて、ようやく動き出した車両はうちの駅まで行かないという始末。しかしいつ次の電車が来るか判らないので、ぎゅう詰めの電車にとりあえず乗る。途中で座れたので、何人かの人にメールで連絡。いつもの倍の時間をかけてようやく帰宅。うちに到着したら10時を廻っていた。
うちに入る前に犬小屋に向かう。「Kちゃん。お父さん死んじゃったんだって…」いつもは飛びついてくるKが、吠えもせず、飛びつきもせず、ただ頭をすりつけてくる。あんたにもわかるんだね。
家に入って父の遺体に対面する。顔を見ることができなくて、つい枕飾りの方へ座ってしまう。お線香を上げて呆然としていると、兄がやってきて、「顔見てやった?」と聞く。かぶりを振りながら、もう耐えきれなくなって、涙があふれた。「いい顔してるよ」と兄が布をはずしたけれど、その時はどうしても見ることができなくて、ひとしきり泣いた。
居間では甥と姪もわたしの前に到着したばかりらしく、やはり電車が止まってたいへんだった話をしていた。わたしの後から別の姪が到着。彼女はとてもお祖父ちゃん子だったので、いつまでも号泣していた。
母と兄が、亡くなった時の話をしていた。結局、母と兄しか間に合わなかったらしかった。姉は前日まで長らく実家に逗留していたのが、お粥を食べたということで一旦自分の家に戻った矢先だった。わたしも、兄の家族も、翌日の土曜日に見舞う予定だった。「病院でみんなにわんわん泣きながら見送られたくなかったのかもね」なんて、勝手な理由を付けてみたり。
母と姉が父と枕を並べて寝ることにする。人が多いので、終い風呂からわたしが出たのは2時過ぎていた。
寝る前に、犬があんまり大人しいのでもう一度撫でてやろうと外に出た。
満月が、煌々と、辺りを照らしていた。
プレゼンが終わった。やれやれ。提出側はみんなけっこう気に入ってくれたけどどうなるかはわかりません。
夜、母より電話で「お父さん、なんと今日お粥を食べたよ!」との知らせ。隣のベッドの人が食べていたうどんが目の前にちらついたとかで、病院が次の食事にお粥を出してくれたら、完食してしまったとのこと。ひょっとして回復している? 「金曜の夜か土曜日に行くね」と言って電話を切る。
2月2日(金)
午後、仕事中に母より電話。「お父さん、すごく悪くなっちゃってもうだめらしい。昨日はお粥食べたのに…。」
頭がジンジンした。でも、ああ、やっぱり、あれはろうそくの最後の明るい炎だったんだね、という気持ちも沸き起こる。すぐに帰りたいのは山々だったけれど、行ったらそのまま数日は帰れないだろうから、やっている仕事を放り出す訳にも行かず、とりあえず終わり次第帰るからと伝える。自分でも驚くくらい狼狽えて、胸がドキドキして、手が震えて、集中できない。とりあえずサンジくんに電話する。翌日こっちに来てくれるとのこと。
どうにか終わらせて帰り支度をしている時にまた母から電話。「お父さんね、もう、死んじゃった。早かったねえ…」
「間に合わなくてゴメン…」口の中で呟くけど声にならず。「今終わったから。家に戻って支度してすぐ向かうね」ようやく言って電話を切る。何軒かのお客さんに連絡をして、やっていた仕事を宅配便に乗せる算段をする。初めて送るところなので、宛先を間違えないよう、何度も確認する。
仕方ないと思いつつも、“間に合わなかった”という気持ちがのしかかって来る。ふと時計を見たら、危篤の電話から亡くなった報せまで1時間半しか経っていなかった。すごく長時間仕事にかかっていたような気がしたけど、すぐに向かったとしても間に合わなかったんだね。
三茶の駅に着いたとき、サンジくんに危篤の報せしかしていなかったことを思い出して、歩きながら電話。「大丈夫なんか?」と聞かれて「わかんない」と答える。
着替えを詰め込んで実家に向かうと、またまた電車が止まっている。
前日までの暖かさがウソのように、震えるほど寒い。昼間着ていたスカートのまま来てしまったことを後悔する。乗り換えの駅でさんざん待たされて、ようやく動き出した車両はうちの駅まで行かないという始末。しかしいつ次の電車が来るか判らないので、ぎゅう詰めの電車にとりあえず乗る。途中で座れたので、何人かの人にメールで連絡。いつもの倍の時間をかけてようやく帰宅。うちに到着したら10時を廻っていた。
うちに入る前に犬小屋に向かう。「Kちゃん。お父さん死んじゃったんだって…」いつもは飛びついてくるKが、吠えもせず、飛びつきもせず、ただ頭をすりつけてくる。あんたにもわかるんだね。
家に入って父の遺体に対面する。顔を見ることができなくて、つい枕飾りの方へ座ってしまう。お線香を上げて呆然としていると、兄がやってきて、「顔見てやった?」と聞く。かぶりを振りながら、もう耐えきれなくなって、涙があふれた。「いい顔してるよ」と兄が布をはずしたけれど、その時はどうしても見ることができなくて、ひとしきり泣いた。
居間では甥と姪もわたしの前に到着したばかりらしく、やはり電車が止まってたいへんだった話をしていた。わたしの後から別の姪が到着。彼女はとてもお祖父ちゃん子だったので、いつまでも号泣していた。
母と兄が、亡くなった時の話をしていた。結局、母と兄しか間に合わなかったらしかった。姉は前日まで長らく実家に逗留していたのが、お粥を食べたということで一旦自分の家に戻った矢先だった。わたしも、兄の家族も、翌日の土曜日に見舞う予定だった。「病院でみんなにわんわん泣きながら見送られたくなかったのかもね」なんて、勝手な理由を付けてみたり。
母と姉が父と枕を並べて寝ることにする。人が多いので、終い風呂からわたしが出たのは2時過ぎていた。
寝る前に、犬があんまり大人しいのでもう一度撫でてやろうと外に出た。
満月が、煌々と、辺りを照らしていた。
1月26日(金)
日生劇場にて「スウィーニー・トッド」鑑賞。感想は改めて。
1月27日(土)
水曜、木曜で帰ったばかりだけれど、来週仕事がみっちりで次の週末まで帰れないので、恒例洋服交換会の後、また父を見舞うために実家へ。面会時間に間に合ったので病院を覗いてからタクシーで帰る。寝ていたけれど、声をかけたら目を開いて、前回よりも元気そう。
1月28日(日)
午後病院へ。先日持っていった句集は少しづつ読んで聞かせているとのこと。午前中1本飲んだヤクルトを、午後も1本飲みきってしまう。ほんの少しずつ食欲が出ている感じ。
今回、悪くなったと言われてから、身体がずっと浮腫んで、水分が排出できない状態で、手も足もぱんぱんに水がたまっている。前回来た時に、足裏に貼って水分を取るシートを買っていったのだけど、そのシートがまあまあ取っていると母に聞いた。とはいえ、ほとんど気休め程度だと思う。少しでも排出しないかなーと、マッサージをしてあげたんだけど、あんかを入れているのに、ふくらはぎは触ると冷たくて、ああほんとにこれは水だわ、と実感。夜東京に戻る。
1月29日(月)
金曜日のプレゼン予定が木曜日になったので気が焦る。
水木しげる先生が国際マンガ賞受賞。
1月30日(火)
仕事。とにかく仕事。
1月31日(水)
今日もとにかく仕事。ブログは書いた。
日生劇場にて「スウィーニー・トッド」鑑賞。感想は改めて。
1月27日(土)
水曜、木曜で帰ったばかりだけれど、来週仕事がみっちりで次の週末まで帰れないので、恒例洋服交換会の後、また父を見舞うために実家へ。面会時間に間に合ったので病院を覗いてからタクシーで帰る。寝ていたけれど、声をかけたら目を開いて、前回よりも元気そう。
1月28日(日)
午後病院へ。先日持っていった句集は少しづつ読んで聞かせているとのこと。午前中1本飲んだヤクルトを、午後も1本飲みきってしまう。ほんの少しずつ食欲が出ている感じ。
今回、悪くなったと言われてから、身体がずっと浮腫んで、水分が排出できない状態で、手も足もぱんぱんに水がたまっている。前回来た時に、足裏に貼って水分を取るシートを買っていったのだけど、そのシートがまあまあ取っていると母に聞いた。とはいえ、ほとんど気休め程度だと思う。少しでも排出しないかなーと、マッサージをしてあげたんだけど、あんかを入れているのに、ふくらはぎは触ると冷たくて、ああほんとにこれは水だわ、と実感。夜東京に戻る。
1月29日(月)
金曜日のプレゼン予定が木曜日になったので気が焦る。
水木しげる先生が国際マンガ賞受賞。
1月30日(火)
仕事。とにかく仕事。
1月31日(水)
今日もとにかく仕事。ブログは書いた。
ばっちいタイトルでごめん。2ちゃんねるの事ではない。
火曜日の夕刊に、「万博を控えた上海で、タクシーに痰吐き用の袋を取り付ける計画が論議を呼んでいる」という小さな記事が載っていた。なんでも窓の外に吐くのを防止するためで、しかし車の中に置くのは不快じゃないかとかそういう話。
で、突然気付いたんだけど、そういえば日本では路上で痰を吐く人も減ったけど、そもそもあの痰壷ってものを最近は見かけないなあと。あれっていつ頃から失くなったっけね?
なんかまるで痰壷に思い入れがあるみたいだけど(笑)別にそうゆうわけではなく。中国や韓国のニュースにはよくデジャヴを感じるのよね。ああ、こんなこと、昔日本でもあったなあと。
で、痰壷だけど、たしか20年近く前に見たアングラ芝居に痰壷ってものが出て来たのを覚えてるんだわ。その時、「うぇ~」とは思ったけど珍しいとは感じなかったので、あの時代にはまだあったんだよね、たぶん。でもどこにどうゆう風にあったか思い出せない…。灰皿スタンドと一緒にあったんだっけ?
それと、あんなものが公共の場所にあるのは汚いからなくそう、いやそんなことしたら反って道に吐くので汚いじゃないか、みたいな論争があったような…。
そんな風にいつの間にか無くなって、誰も思い出さないようなものって結構沢山ありそうよね。
火曜日の夕刊に、「万博を控えた上海で、タクシーに痰吐き用の袋を取り付ける計画が論議を呼んでいる」という小さな記事が載っていた。なんでも窓の外に吐くのを防止するためで、しかし車の中に置くのは不快じゃないかとかそういう話。
で、突然気付いたんだけど、そういえば日本では路上で痰を吐く人も減ったけど、そもそもあの痰壷ってものを最近は見かけないなあと。あれっていつ頃から失くなったっけね?
なんかまるで痰壷に思い入れがあるみたいだけど(笑)別にそうゆうわけではなく。中国や韓国のニュースにはよくデジャヴを感じるのよね。ああ、こんなこと、昔日本でもあったなあと。
で、痰壷だけど、たしか20年近く前に見たアングラ芝居に痰壷ってものが出て来たのを覚えてるんだわ。その時、「うぇ~」とは思ったけど珍しいとは感じなかったので、あの時代にはまだあったんだよね、たぶん。でもどこにどうゆう風にあったか思い出せない…。灰皿スタンドと一緒にあったんだっけ?
それと、あんなものが公共の場所にあるのは汚いからなくそう、いやそんなことしたら反って道に吐くので汚いじゃないか、みたいな論争があったような…。
そんな風にいつの間にか無くなって、誰も思い出さないようなものって結構沢山ありそうよね。
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