1990年代の始めは、いわゆる日本のバブル経済がすでにはじけ、80年代に日本全国を襲った狂乱リゾート開発の名残がわずかに海外に見られるだけでした。それらの海外ゴルフ・リゾート開発の中で最大のものが、日本航空(JAL)が地元の反対を押し切って強引に進めたハワイ島コナのホクリア・リゾート開発です。1ビリオンドル(10億ドル=1、000億円)というメガプロジェクトの開発工事が始まると、聖地とされるハワイ先住民の墓がブルドーザーで破壊され、遺骨が散乱し、同時に土壌が流出して付近の海が茶色に変色するという事態になりました。これに怒ったハワイ先住民たちと海の汚染を危惧する環境保護団体が、日本航空の現地法人を相手に工事中止を求める訴訟を起こしました。
ハワイのリゾート開発問題に長らく関わって来た私は、コナの反対住民たちから協力を依頼され、彼らを支援する活動を始めました。それが、ハワイ先住民の人たちとその文化に初めて深く触れるきっかけになりました。その後、現地の実情を日本の人々に訴えようと彼らを日本に招いて国会での記者会見などを行いましたが、同時に裁判費用捻出のためにフラコンサートツアーも企画しました。そのとき初めて私はフラ・カヒコ、いわゆる古代伝統フラを見る機会を得たのです。ワイキキのホテルでやっている観光客相手のフラダンスというのは、商業用であって本当のフラではありません。本来、フラは神に捧げる祈りの儀式であって、人に見せる類いのものではないのです。
そのとき来日したハワイ先住民グループのひとりで、伝統文化の継承活動に関わっているアカが、鴨川の我が家で初めてフラ・カヒコを踊ってくれました。そのときの迫力、緊張感、そして踊りの優雅さと祈りの素晴らしさに感動したことを今でもはっきり覚えています。
10年掛かった裁判で、結局私たちが勝利し、工事は中止になり、日本航空は撤退しました。その日本航空が倒産したことは、なにかとても感慨深いです。
さて、現在世界的にも注目されているフラ・カヒコの継承者で、昨年のフラコンサートで感動を呼び起こしたクム・ケアラ・チンが再度来日し、5月20日に横浜の神奈川近代文学館ホールでフラの女神に捧げる”lakaフラの女神の息吹!”で本邦初公開のチャントと踊りを披露してくれます。フラに興味がある方はお見逃しなく。
木曜日, 5月 13, 2010
水曜日, 7月 29, 2009
"地球の歌”(EARTH SONG)
”アースソング(地球の歌)”というマイケル・ジャクソンのミュージックビデオを友人から今日教えられました。私は初めて観たのですが、1995年の制作だそうですね。
じつは、マシュー君のメッセージでマイケル・ジャクソンの死について言及していることで、疑問を投げかけた読者の方がいまして、ちょっと論議を呼んでいます。
でも、このビデオを観れば、それだけでもマイケルがただ者ではないことが理解できますね。
さて、このビデオの最後に簡単な解説訳がありますが、とても大切なことを伝えていますので以下に詳しい訳を書きました。ご参照ください。
”アースソング(地球の歌)”のミュージックビデオは4大陸で撮影されました。そのすべてで人間たちとそのテクノロジーによってもたらされた様々なかたちの被害が起きています。
ロケーション場所は以下のとおりです。
アマゾンの熱帯雨林地域
このビデオに写っているこの森林の大半はすでに存在していません。このビデオ撮影後の1週間以内に完全に破壊される運命になっていました。ここに出て来る人たちはこの地域の先住民たちで、プロの俳優ではありません。
クロアチア
この映像は戦争地域で、そこの住民たちと一緒に撮影されました。
タンザニア
この映像にはマサイ族の村の人たちが写っています。このミュージックビデオ制作にあたって、動物を傷つけるような事は一切していません。非人道的な動物虐待の実際の映像は、過去のドキュメンタリーから入手しました。撮影中、1頭のアフリカ象が(このビデオには出てきません)撮影現場から数マイル以内の地点で、密猟者に殺される事件があったことをここに書き留めておきます。
ニューヨーク
森林火災のシーンは、ニューヨーク州ウォーウィックにあるトウモロコシ畑に7,200坪のオープン野外セットを作って撮影されました。この映像撮影中の同じ週に、ロングアイランドとニュージャージーにある何千エーカーの森林が放火で消失しました。
じつは、マシュー君のメッセージでマイケル・ジャクソンの死について言及していることで、疑問を投げかけた読者の方がいまして、ちょっと論議を呼んでいます。
でも、このビデオを観れば、それだけでもマイケルがただ者ではないことが理解できますね。
さて、このビデオの最後に簡単な解説訳がありますが、とても大切なことを伝えていますので以下に詳しい訳を書きました。ご参照ください。
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”アースソング(地球の歌)”のミュージックビデオは4大陸で撮影されました。そのすべてで人間たちとそのテクノロジーによってもたらされた様々なかたちの被害が起きています。
ロケーション場所は以下のとおりです。
アマゾンの熱帯雨林地域
このビデオに写っているこの森林の大半はすでに存在していません。このビデオ撮影後の1週間以内に完全に破壊される運命になっていました。ここに出て来る人たちはこの地域の先住民たちで、プロの俳優ではありません。
クロアチア
この映像は戦争地域で、そこの住民たちと一緒に撮影されました。
タンザニア
この映像にはマサイ族の村の人たちが写っています。このミュージックビデオ制作にあたって、動物を傷つけるような事は一切していません。非人道的な動物虐待の実際の映像は、過去のドキュメンタリーから入手しました。撮影中、1頭のアフリカ象が(このビデオには出てきません)撮影現場から数マイル以内の地点で、密猟者に殺される事件があったことをここに書き留めておきます。
ニューヨーク
森林火災のシーンは、ニューヨーク州ウォーウィックにあるトウモロコシ畑に7,200坪のオープン野外セットを作って撮影されました。この映像撮影中の同じ週に、ロングアイランドとニュージャージーにある何千エーカーの森林が放火で消失しました。
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月曜日, 3月 16, 2009
ワンネス
今から10数年前、国民の1割がエイズに冒されているとされた東アフリカのウガンダの村々を回ったことがあります。当時私が関わっていた快医学という自然療法を紹介するのが主な目的でした。初めてのアフリカの地、驚くような不毛な大地と貧しさ、仕事もなく朝から町にたむろする青年達、電気も水道もトイレもない暮らし,強烈な乾燥と砂埃、薬も設備もろくにない病院、そこに死を待って横たわる赤ん坊たち・・・それにもかかわらず、微笑む人々、日本では見たこともない子どもたちの笑い顔、半日も掛けて離れた村から歩いて来てくれる人々、3時間も待ってようやく笑顔で現れる約束の相手、ゆっくりと流れる遊休の時空間。
舗装されていないデコボコ山道を何時間も掛けてたどり着いたある小さな村に着くと、そこに出迎えてくれていた民族衣装を着た村の娘たちが即興のコーラスで私たちを歓迎してくれました。そのハーモニーとうねるようなリズムの素晴らしかったこと!
今でも強烈に目の裏に焼き付いているその記憶を呼び戻したのは、今日送られて来たこの映像です。何の垣根も・・偏見、肌、人種、思想、教育、政治、年齢、家系、国籍、言語、性・・あっという間に乗り越えてしまうもの・・これほど人をワンネスにしてしまうものは今地球上にはありませんね。
舗装されていないデコボコ山道を何時間も掛けてたどり着いたある小さな村に着くと、そこに出迎えてくれていた民族衣装を着た村の娘たちが即興のコーラスで私たちを歓迎してくれました。そのハーモニーとうねるようなリズムの素晴らしかったこと!
今でも強烈に目の裏に焼き付いているその記憶を呼び戻したのは、今日送られて来たこの映像です。何の垣根も・・偏見、肌、人種、思想、教育、政治、年齢、家系、国籍、言語、性・・あっという間に乗り越えてしまうもの・・これほど人をワンネスにしてしまうものは今地球上にはありませんね。
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木曜日, 10月 09, 2008
スウィング・オバマ
昨日は、若もの向きのヒップホップ・オバマ応援映像でしたが、今日のは、渋いジャズのものを紹介しましょう。
どうも、あの良き時代に育った私には、こっちの方が素直にこころとからだが浮き浮きとして来ますね。昔,ロスアンゼルス郊外のバリー地区に、ビックバンドジャズ専門のライブハウスがあって、よく聴きに行きました。一流のジャズメンがズラーと並んで、時には観客の数よりも多いときもあったりして、本当に贅沢な店だったんです。入場料なんか、飲み物付きで15ドルくらいだったかなあ。出演者たちは、ギャラなんてどうでもよく、とにかくジャズを演奏したいという連中が集まってました。
この映像はニューヨークのCACHAC JAZZ CLUBというところで撮影されています。
曲は”Takin' It Back With Barack Jack"、言わば、「バラクで(政権を)取り戻そう」という意味でしょうね。
なかでフルーゲルホーンを吹いているリョウ・ササキという日本人がいますが、有名な人なのかしら?
どうも、あの良き時代に育った私には、こっちの方が素直にこころとからだが浮き浮きとして来ますね。昔,ロスアンゼルス郊外のバリー地区に、ビックバンドジャズ専門のライブハウスがあって、よく聴きに行きました。一流のジャズメンがズラーと並んで、時には観客の数よりも多いときもあったりして、本当に贅沢な店だったんです。入場料なんか、飲み物付きで15ドルくらいだったかなあ。出演者たちは、ギャラなんてどうでもよく、とにかくジャズを演奏したいという連中が集まってました。
この映像はニューヨークのCACHAC JAZZ CLUBというところで撮影されています。
曲は”Takin' It Back With Barack Jack"、言わば、「バラクで(政権を)取り戻そう」という意味でしょうね。
なかでフルーゲルホーンを吹いているリョウ・ササキという日本人がいますが、有名な人なのかしら?
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日曜日, 7月 06, 2008
ザ・ニューフロンティアーズのCD発売
今日は手前味噌の宣伝です。(そう言えば今年早々漬けた味噌がいい味になってきました)
私の青春はフォークソング一色で、それこそ1日中がちゃがちゃ仲間たちとやっておりました。そんなとき、いつも頭を悩ましたのが練習所です。若い連中が昼間から大きな音をガンガンやるんですから近所からクレームがくるのは当たり前。そこで練習所としてマンションの1室を借りたんです。学生時代にどうしてそんなことができたかと言うと、それだけの稼ぎがあったからです。日本ではなく外国で。
60年代後半、ベトナム戦争真っ最中のころですね。学園が、反ベトナム戦争運動と反安保・反政府闘争で吹き荒れていた時代です。友人たちが連日デモに出かけて行くのをしり目に、僕たちはラジオやカレッジコンサートなどの出演のための練習で忙しい毎日でした。完全なノンポリです。そして、全学連の連中が聞いたら怒り心頭になったであろう場所で荒稼ぎしていたのです。
ある日、偶然知り合ったアメリカの軍曹のつてで基地内(当時は米軍キャンプと呼んでました)のクラブで演奏したら、これが大受け。以来米軍キャンプでの人気者になったのです。僕たちがやっていた音楽が当時の若者(アメリカの団塊世代)がともに育ったアメリカンフォークソングだったからです。いまから考えると、そしていまアメリカが関わっているイラク戦争も併せて、当時のアメリカ軍兵士や将校たちのこころには、つづいている戦争の緊張感と日本に滞在している安堵感との入り交じった感情があったことでしょう。僕たちの音楽がかれらの魂をなにか揺すぶったのだと思います。
当時サラリーマンの初任給が2万円くらいだったと思います。僕たちの米軍キャンプのギャラが一晩で100〜200ドル。(当時のレートは1ドル=300円)どうして若僧の学生たちにマンションが借りられたかわかりますね。米軍キャンプのエンターテインメント施設には下級兵士用クラブと将校だけが入れるオフィサーズクラブがありましたが、前者はおもにディスコ風、後者はりっぱなステージを供えたディナークラブでした。僕たちはオフィサーズクラブ専門で、しかもエンターテイナーとしてはトップのランクに入れてもらっていました。たまには広いディスコ会場でベトナム戦争帰りの若い兵隊たち、みんな僕たちとおなじ世代です、を前に演奏しました。いつも最後の曲は"I'm Going Home"で終わるのですが、そのとき若い連中が指をVサインにして大騒ぎしていっしょに歌うのです。あとで訊いたら、あと二日で故郷に戻るんだよ、という意味だったんです。
関東区域にはもっとも大きな立川・横田キャンプ、三鷹のグリーンハイツ、朝霞キャンプ、厚木と横須賀キャンプなど米軍施設がありましたが、もっとも権威があるというかハイクラスなのが赤坂山王ホテルのクラブでした。
のちのち、プロの道を進もう、さらにアメリカに行こうと決心したのも、この米軍キャンプでの経験があったからです。
さて、何十年の時の流れがあって、去年暮れのある日、昔の仲間のひとりで、今もギタリストとして現役で活躍している吉川忠英くんから突然電話がありました。
「そろそろまたニューフロンティアーズをやろうか」
「うん、やろう」
20年ぶりに、ことしの3月新宿のBack In Townというライブハウスで演奏をやりました。来場してくれたみなさんにはあらためてお礼を申し上げます。その練習をやっているとき、レコード会社のディレクターが聞きつけて来て、どうせ練習するならそれでCDをつくりましょうよ、ということで出来たのが6/25ビクターから発売された「The New Frontiers sing The Kingston Trio」です。
じつは、吉川くん自身の新しいCD「HOOTENANNY with CHUEI YOSHIKAWA」発売記念コンサートが6月29日原宿であり、僕たちもゲスト出演しました。ほかにもなつかしいゲストが招かれていて、白鳥英美子・マイカちゃんやマイク真木さん、麻田浩さんのモダンフォーククゥワルテット、モダンフォークフェローズなどと40年ぶりの再会で、昔の雰囲気そのままの本当に楽しい会でした。
ぼくたち、ニューフロンティアーズが再結成したという噂がどこかにまわったのか、出演依頼があり、来週の12日にも新宿の厚生年金ホールでゲスト出演することになりました。
どうやらこれから演奏活動も忙しくなりそうな案配です。
(ニューフロンティアーズのCDは、グローバルピースキャンペーンストアでご注文できます。)
私の青春はフォークソング一色で、それこそ1日中がちゃがちゃ仲間たちとやっておりました。そんなとき、いつも頭を悩ましたのが練習所です。若い連中が昼間から大きな音をガンガンやるんですから近所からクレームがくるのは当たり前。そこで練習所としてマンションの1室を借りたんです。学生時代にどうしてそんなことができたかと言うと、それだけの稼ぎがあったからです。日本ではなく外国で。
60年代後半、ベトナム戦争真っ最中のころですね。学園が、反ベトナム戦争運動と反安保・反政府闘争で吹き荒れていた時代です。友人たちが連日デモに出かけて行くのをしり目に、僕たちはラジオやカレッジコンサートなどの出演のための練習で忙しい毎日でした。完全なノンポリです。そして、全学連の連中が聞いたら怒り心頭になったであろう場所で荒稼ぎしていたのです。
ある日、偶然知り合ったアメリカの軍曹のつてで基地内(当時は米軍キャンプと呼んでました)のクラブで演奏したら、これが大受け。以来米軍キャンプでの人気者になったのです。僕たちがやっていた音楽が当時の若者(アメリカの団塊世代)がともに育ったアメリカンフォークソングだったからです。いまから考えると、そしていまアメリカが関わっているイラク戦争も併せて、当時のアメリカ軍兵士や将校たちのこころには、つづいている戦争の緊張感と日本に滞在している安堵感との入り交じった感情があったことでしょう。僕たちの音楽がかれらの魂をなにか揺すぶったのだと思います。
当時サラリーマンの初任給が2万円くらいだったと思います。僕たちの米軍キャンプのギャラが一晩で100〜200ドル。(当時のレートは1ドル=300円)どうして若僧の学生たちにマンションが借りられたかわかりますね。米軍キャンプのエンターテインメント施設には下級兵士用クラブと将校だけが入れるオフィサーズクラブがありましたが、前者はおもにディスコ風、後者はりっぱなステージを供えたディナークラブでした。僕たちはオフィサーズクラブ専門で、しかもエンターテイナーとしてはトップのランクに入れてもらっていました。たまには広いディスコ会場でベトナム戦争帰りの若い兵隊たち、みんな僕たちとおなじ世代です、を前に演奏しました。いつも最後の曲は"I'm Going Home"で終わるのですが、そのとき若い連中が指をVサインにして大騒ぎしていっしょに歌うのです。あとで訊いたら、あと二日で故郷に戻るんだよ、という意味だったんです。
関東区域にはもっとも大きな立川・横田キャンプ、三鷹のグリーンハイツ、朝霞キャンプ、厚木と横須賀キャンプなど米軍施設がありましたが、もっとも権威があるというかハイクラスなのが赤坂山王ホテルのクラブでした。
のちのち、プロの道を進もう、さらにアメリカに行こうと決心したのも、この米軍キャンプでの経験があったからです。
さて、何十年の時の流れがあって、去年暮れのある日、昔の仲間のひとりで、今もギタリストとして現役で活躍している吉川忠英くんから突然電話がありました。
「そろそろまたニューフロンティアーズをやろうか」
「うん、やろう」
20年ぶりに、ことしの3月新宿のBack In Townというライブハウスで演奏をやりました。来場してくれたみなさんにはあらためてお礼を申し上げます。その練習をやっているとき、レコード会社のディレクターが聞きつけて来て、どうせ練習するならそれでCDをつくりましょうよ、ということで出来たのが6/25ビクターから発売された「The New Frontiers sing The Kingston Trio」です。
じつは、吉川くん自身の新しいCD「HOOTENANNY with CHUEI YOSHIKAWA」発売記念コンサートが6月29日原宿であり、僕たちもゲスト出演しました。ほかにもなつかしいゲストが招かれていて、白鳥英美子・マイカちゃんやマイク真木さん、麻田浩さんのモダンフォーククゥワルテット、モダンフォークフェローズなどと40年ぶりの再会で、昔の雰囲気そのままの本当に楽しい会でした。
ぼくたち、ニューフロンティアーズが再結成したという噂がどこかにまわったのか、出演依頼があり、来週の12日にも新宿の厚生年金ホールでゲスト出演することになりました。
どうやらこれから演奏活動も忙しくなりそうな案配です。
(ニューフロンティアーズのCDは、グローバルピースキャンペーンストアでご注文できます。)
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