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2011/09/17

nuk:東電賠償は推計で単純化をはかるべき

素朴な話だが、東京電力が賠償するために被害者・避難者に送った賠償請求書式が大変すぎるということで話題になっている。
しかし、6万人もの債権者に対して、すべて、実額で賠償しようというのが間違いだ。

交通費から始まり、逸失利益についてもすべて証明書類を要求しているようだが、証明書類がない人、それも避難の都合とか、自営業でそう簡単には収入を算出できない人とか、様々な人がいる。

そのような大量の債権債務関係を整理するのに、通常、法実務としては一定の推計をして、それで大部分は片付けて、特殊な例外がある時だけ実額証明で例外処理をするということができる。

その典型は税務処理であり、青色申告していない事業者は他業者と比較した推計で課税される。それに対して実額反証が許されるかどうかは議論の余地があるが。
また、そもそもの逸失利益だって、将来の収入の失われた分を算定するのだから、今の仕事と収入水準がずっと続くという、平均余命まで生きるという、仮定を於いての推計をするのだ。

法というのは自然科学のような厳密な立証が求められる世界ではなく、通常人が安心して行動の基礎とする程度の確からしさがあれば事実と認めて、それを元に権利義務を決めていく。それは裁判であってもそうである。その上、分からないところは、逸失利益のように、フィクションを作って、それに当てはめて決めていく。それすらもできない、損害額の証明が著しく困難といわれる場合は、裁判官が適当な額をエイヤッと決めるということも法律で決まっている。

(損害額の認定)
民事訴訟法第248条  損害が生じたことが認められる場合において、損害の性質上その額を立証することが極めて困難であるときは、裁判所は、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果に基づき、相当な損害額を認定することができる。

多少語弊のある言い方ではあるが、要するにそういうことだ。そしてこのエイヤッと決めるのは、「できる」と規定されているにもかかわらず、「しなければならない」と解釈されているのだ。

そのように考えると、今回の原子力賠償の債権者(=被災者)に対してすべてを実額で証明せよ、すべて領収書や証明書を提出せよというのは、適切ではない対応の仕方だということが分かるだろう。状況の特殊性を考慮せず、建前論で走っているという誹りを免れない。

ではどうすべきか?
まずは、被災者の多数に当てはまるような類型を想定し、類型ごとに大まかな損害額を想定し、標準となる賠償額を提示すべきなのである。6万人もの被害者のすべてに当てはまる推計では大雑把すぎるので、居住地域と、職業、年齢、家族構成、避難の場所やその状況、せめてその程度の要素で類型分けを行い、一定のチャート図で自分の状況を適用していけば一応の金額が出る算定システムを提示すべきだ。
その金額は、それでも実額ではなく推計なので、過不足は当然ある。不足だという被害者は、仕方がないから実額を証明して請求していく必要があるが、多すぎるという人は不問とする。それでは過大賠償となってしまうと思われるかもしれないが、6万人の一人一人について一枚一枚の領収書を提出させて集計し、それを東電の側で一枚一枚チェックするという膨大なコストを考えたら、その節約分で十分お釣りが来るというものだ。

問題は、こうした類型に当てはまらない賠償を求める場合で、例えば原発事故のせいで就職機会を失ったとか、学校を変わらざるを得なくなったとか、テレビにも出てくるように賠償されるかどうか分からず不安を覚えるという状況の人々は残る。
その場合こそ、原賠ADRの出番なのである。

それにして、この程度のことは原発事故の被害者の立場に立てば当然、東電の立場からも賠償にかかるコストを少しでも少なくしようと思うのなら当然思いつく話だろうと思うが、なぜそうならないのだろうか?

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