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毎日カメラ

カメラと写真について

手紙  


 手紙を書いている、、姿は、知的な美人に見えますね。
手紙
    24mm  2.8   OM-2n konica SXG100

 今時は、メール。端末機器に入力する姿はあまり格好よくない気がします。
 
 文字を書く事は、写真を撮る事と同等に手間がかかるものでした。
 
 写真を撮る事は、メールを打つ事と同等に気軽なものになりました。




 崩壊  


 いずれ、人も木もゆらぎながら成長を果たし、ゆっくりと崩壊していくのであります。
フォギーフィルターの木漏れ陽
    50mm 1.4 フォギーフィルター  OM-2n ネオパンSS
 このような木漏れ陽の光景を見ると、ゆっくりと崩壊していく、そんなイメージが湧くのです。
 惑星メーテル 崩壊 という曲があるのですが、その曲を聞きながらゆっくりと眠りたいですね。こんな木漏れ陽の中で。


地上の天使
最終カット 母親にカメラを委ねる
50mm 1.4 フォギーフィルター  OM-2n



時代  

 もう二十数年前にもなりますね。今、この子は二十代半ばでしょうか。
 当時の母親と同じぐらいの年齢。結婚して子どもがいるかもしれません。
小さな木
     50mm 1.4 フォギーフィルター  OM-2n ネオパンSS
 小さな傍らの木はどれくらいの大きさになっているかな。



写真は語る、、  

 写真を撮る意味など、多くの人が考えそれぞれ持論を持っておられよう。
 
 私は、写真は自分とともに老いていくと考えています。
 撮影のその瞬間はカメラを挟んで互いにみとめ合いその場を共有し定着する。そして、やがてその写真は月日を費やす。しかし写真は色が褪せる程度でなんら画は変わらないが、実は自分と共に老いていくのです。
NORIKO1.jpg
 見るたびに、「あんたは今頃、こうなっているよ。」「あんたも老けたね。」とやり返される。想像の範囲ですが、まぎれもなく写真と対話し、共に時間を費やしているのです。

 カメラのファインダー越しの、少し緊張したり特別な顔をした瞬間が、実は撮影者に見せる真の顔なのです。見つめ合った事実は写真が証明しています。
NORIKO2.jpg
       50mm 1.4 フォギーフィルター   OM-2n ネオパンSS
だからいつまでも彼女と語る事ができるというわけです。
  だからワンカットを大事にしたいですね。


モノクロの画像とは  

 記憶は不思議であり、そのときの光の降り方と空気感はよみがえるのですが、何を話たかは思い出せない。
 ただ、だまって見ていただけかもしれません。
花ぬすびと

 そして、この小さな花々の色も思いだせません。古い記憶はおおかた色の情報を削ぎ落としモノクロの画像として整理されていくのではないかと思います。


いにしえの  

遠い いにしえの 恋の想い出に眠れずに
昔の写真をこっそりだして 見る

 日暮し の名曲の出だしですが。中学生ぐらいの時だったでしょうか。このフォトジェニックな詩とメロディーが頭に沁み込みました。
いにしえの写真
      50mm 1.4 フォギーフィルター  OM-2n ネオパンSS

そんな曲に影響され、後の10〜20代に写真を撮りまくるわけですが、当時のネガはほとんど残っていませんね。
 ただ、唯一の一本、34カットが残るのみ。

  

「パパとママとコドモたち」  

 4回にわたって「ueda調」とその周辺についての事を打ってきましたおり、奇しくも本日の新聞記事の案内に写真展の紹介が載っておりました。
 「フジフィルム•フォト•コレクション」101点を紹介する展示らしいのです。木村伊兵衛、土門拳、細江英公、森山大道、篠山紀信、荒木経惟、東松照明、、、と他、超有名写真家の。 ただし、それぞれ一作品という事らしいです。
パパとママとコドモたちの記事
 この記事を飾る写真はというと、植田正治「パパとママとコドモたち」であります。
 もう、どうしようもなく「これしかない!」といった感じです。
 証しますが、私はこの写真のタイトルをこの記事で初めて知りました。
 不自然な写真ですが、パパはともかく、「ママ」には笑えます。
 写真の異質な不自然さと、似つかわしくないタイトルはユニークです。
 タイトルも作品の一部であるという事は学ぶべきところかと思います。
ママとコドモたち
  ママとコドモたちトンネルにて



意図と偶然  

 前記のように写真は多様な表現を成就してしまいますが、それでもなお、表現として多く写されるのは「ueda調」であるのです。
異型の木

路地

いちごの傘

 以上の3枚は、かの表現を意識しての撮影ではありませんが、結果的にどことなく「ueda調」となってしまっているのではないでしょうか。多様な表現の中で知ってか知らずかの結果、多くの枚数をつくりだしてしまうこの表現とは、やはり写真表現、否、映像表現としての避けられない棋譜のような気がします。

 写真表現はやりつくされた感もあります。それはそれでいいのですが写真を趣味としてきて、これからも趣味でありつづける以上、なんらかの試みは必要ではないかと思うのです。
 写真のもつもう一つの特徴に「偶然性」があります。「ueda調」が演出や意図に近いものであるのと対局であります。この偶然と意図と混合するというのも一つの試みとしてやってみてもいいのではないかと、
親子
 上の写真は、私がビルの向こうから生える木の風景を撮影し、巻き上げをしないまま子ども(娘)に一枚撮らせたものです。子どもの事ですから、カメラを持つと即、私を撮影したのでした。ホントウはもっとアート的な物を撮って欲しかったのですが、、。
 
 よくある多重露光なのですが、次の露出を他者に任せるところが「偶然性」となるわけです。両者がいかに意図したものを撮ろうとも、出来上がりは偶然にまかせる事になるのです。
 パソコン内で作り上げるイメージの重ね合わせではなく、、、。  

    ご清聴ありがとうございました おわり





見るものすべて  

 見る物すべてを写し止める事ができる写真の表現は多様。なにしろ「見るものすべて」ですから。

 まずは自然や生物の摂理。
ヒヨドリ_補食

 子どもの情景。
芝生でのayane

 ぼかしを利用したイメージ遊びや
ひまわり園にて_前面ボケ

 色がメインの構成。
ビデオ撮影

 だれもが持つであろうイメージ、、、身近な花と虫の小さな自然。
ひまわりとミツバチ

 そして、感情移入しやすいような資料的な画像。
ひまわり群生

 このように、私個人の乏しい撮影経験による写真の表現でもこれくらいの種類ができてしまうのです。

  つづく。 (次で「結」の部になります)


「ueda調」  

 つづき、、
  なぜ、この作風を超越した写真はできないかというと、すでに私たちは「そういう作風」を知らないうちに撮ってしまっているからだと思うのです。
 周囲の状況がわかるような取り込みに人物を置くと自然と人物はオブジェ化する。なぜなら写真というのは、いかに被写体が「動的」であってもそれを停止させてしまう特徴ゆえ、激しく不自然な動き程「オブジェ」として成立してしまう絶対的な制約があるからです。広範囲な取り込みと個々の表情がわからなくなるほどの点景人物となるとそれはきわだってきます。

跳ぶなよ!
 
 私たちは写真を撮るとき、おおかたは先に記したような状況であるのではないでしょうか。ですから「そういう作風」はごく自然と共感してしまうという事には道理が通っているのです。
 それでは、すべての写真は押し並べて「ueda調」という事になるのでしょうか、、、。つづく

脳内デジタルズーム  

 物を眼で見る時、外視野を含めますと非常に広い範囲を捉えながら、印象深い映像は望遠視での切り取り画のような記憶ではないでしょうか。脳内でデジタルズームをしているからではないでしょうか。
 広範囲の切り取りで、印象深い対象を配置するのは、いわゆる「ueda調」で、添景人物とかの作風に見られるような、簡素化された空間に小さな対象を配置する事による作画で、その写真を見ると自然と脳内で、小さな対象に感情移入するとなるわけで、小さな対象が大きな印象として記憶されるのです。
小さな開発
「ueda調」は人気です。その「ueda調」を模倣するのは良い事だと思うのですが、そういう写真に多くの「写真する人」が共感してしまう事に危惧を思うのです。停滞、あるいは閉塞感というのを感じてしまいます。
 と、言っても、この作風を超越した写真はできない、、、。 つづく。



今一度、ご紹介  

ご紹介
 
 今一度、ご訪問者様にご紹介。
 撮影データにしばしば記しております「M−1」というのは、ライカM−1でも、E,M-1でもなく、
オリンパスM-system
      オリンパスM-1 M system 35 50 135
ご覧のM−1でございます。

マイルーム  

マイルーム

 これは、マイルーム。洗濯物がかかってますねー。
マイルーム
 本来は、フルムを吊るして乾燥させるためのものなのですが、、、。
 仕事から帰ると、こういう状態になっていた。*_*

 最近の天気は曇天か小雨ばかりなので、外に干せないという事らしい。
 「軽いものだけ掛けといたし!」と、のたまわれた。 返す言葉はありません。


これでいいのだ  

 注文していたネオパンが入荷したという事だったので、Kタムラに行ったのですが、本日は成人式だったようでプリント客や撮影客で込み入っておりました。
 しかたなく順番待ちと思い店内を観察。最近はプリント注文はセルフ式のようで、客自らデジカメデータをパソコンに入力するようです。よって店にいる時間というか、パソコン占有時間が長い。
 カウンターではおばあさんが店員とデジカメを挟んでやりとりしている。どうやら画面を見ながらのプリント注文らしい。そのあと、いらないデータは全て削除してと店員に頼んでいた。自分がこのおばあさんの後ろにいたが、急かすような気にさせたら悪いので、フィルムの受け取りは後日と思い店を出たのでした。
ジーンズ
    M-system 35mm f2.8 M-1 1/15 ネオパン100 

 デジカメ、、、撮影は気軽ですがプリント注文は手間そうです。フィルムなら「同時プリントで」で終わるのに。
 しかし、おばあさんと店員のやりとりは会話のやりとりが楽しそうだったので、これでいいのだ。



窓とは?  

窓とは?

 一目見たときは、カメラのレンジファインダーのようだと思って写したのです。写す前も後もさほど観察はしていないのですが、現像後よく見ると窓の奥には、なにやら日常生活には無縁そうな代物が見えているようです。
レンジファインダーのような窓
   MーSystem50㎜ 1.8 5.6 M-1 1/60

 そもそも窓というのは、光を取り入れたり外の様子を伺うためにあるのではと思うのですが、これを見ている限りでは、まったく窓の意味がありません。この建物の様子から人の住むためのものではないと想像するのですが、それなら窓などいらないのでは?と思うのです。あえて窓を付け、そこから見えるようにロープを吊るしてあるというのはどういう道理なのでしょうか。



2015年 初買いカメラ ZX1  

2015年 初買いカメラ
ZX1.jpg
 今年の初買いカメラはこれです。中古品で4480円。
ZX1試写
雨の水滴が付いたクルマのフロントガラス越しにカメラ屋のポスターを撮る。前ボケの水滴がまん丸だ。

 正月、実家に帰ったおり母親が「カメラ一台おくれよ」と、のたまった。さすがに今時フィルムカメラを渡すのもかわいそうなので、デジタルカメラを購入したしだいです。
 私が現行で使用しているTZ5よりもかなり薄くて軽い。その分ホールド感は悪いのですが、レンズの広角域が広い。
ZX1TZ5.jpg
   ZX1とTZ5
 このてのコンパクトカメラは広角域が広いほうが有意義に使えるし、母親に渡すのは少し惜しい気がするのだが、、。
 また、こんなつまらない事で悩んでしまう。


ベイマックス  

ベイマックス
 雪が降ると雪だるまを作る事になりますが、今年はベイマックス。
ベイマックス
   M-system 35mm 5.6 オリンパスM-1 1/500 ネオパン100   露出をベイマックスに合わしたため、人物などがアンダーです。白と黒の妥協点は難しい。

 さすがディズニー、タイムリーなキャラクターを出してきたものです。
 浸透するデザインとは、誰でも簡単に描ける、作れるという事のようです。


雪の元日  

 今年の元日は、朝は晴れで良い天気だったのですが、昼過ぎからはご覧のような雪となりました。
 元日は実家に行く事にしているのですが、足元が滑るだろうと思い出かけるのをためらいましたが新雪のうちは、キュッキュッと片栗粉の上を歩くようにグリップが効くもので、思いきってバス停まで行きました。
元旦2015_1
 写真1  50mm 1.8 5.6 M-1 1/125 ネオパン100

元旦2015_2
  写真2  50mm 1.8 5.6 M-1 1/60 ネオパン100

 写真1は黒い服を着る娘で、写真2は黒い着物と頭巾を被った初詣帰りの御夫人です。白黒フィルムには最適な場面。
 ただ、シャッター速度が遅めで雪が流れ、ふわりとした感じが出なかったようです。



harada  

2015年になってしまいました。こんな拙いところを見てくださる皆様、本年もよろしくお付き合いくださいませ。
 さて、昨年はご覧のカメラやレンズが手元にやってきました。
2014増えたカメラ

今年はこれらの機材でフィルムを消費という事になります。使命となりますと重荷ですが、なんとか楽しんでやっていきましょうか。



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