2010/10/11

 
三保半島散策

9日、10日と所用で静岡県清水を訪問した。あいにくのお天気で9日はまったく富士山も見えない状態だったが、10日の午後には雨もあがり、時折日も差すほどに回復したので、当てもなく三保半島を散策した。

日本三大松原といわれる三保半島の松並木。江戸時代までは半島全体が神の杜とされる松原だったそうだ。天女が降り立ったといわれる羽衣の松から、御穂神社までの松並木の「神の道」を通り神社参拝。老木がそびえる静かな神社だった。そこから海岸沿いの松並木を北に歩いて明治時代に造られたという灯台を目指す。

右手には太平洋の大波。チューブを巻きながら砂浜にぶつかる地響きのような音が力強い。視界には松並とその向こうに田子の浦、そして右手に駿河湾を成す伊豆半島が広がる。陸地のすぐ上をたなびくようにひろがる雲のはるか上に、富士山が時折姿を現す。こうして見ると、富士は本当に巨大だ。「頭を雲の上に出し」という歌があるが、「腹から上」を雲の上に出している。

今は田子の浦の陸地部分には工場が立ち並び、煙突から白い煙を出し続けているが、きっと戦前のここからの景色はさぞかし美しかっただろうな・・・などと想像しながら歩き続けていると、目的地の灯台についた。

灯台の前に空き地があって、記念碑のようなものがあったので、近づいてみる。「甲飛予科練之像」とその碑文だ。 碑文を読む。

『「甲飛予科練」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のことであり、旧制中学三年生から、志願により選抜された者たちである。

 昭和十九年九月一日 清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、予科練習生十四、十五、十六期生千数百余名が航空兵を目指して、日夜厳しい教育と訓練に明け暮れた所であります。

 当時、学業半ばにして国難に殉ぜんと、全国より馳せ参じた若人、今だ思慮分別も熟さず、心身も長じていない少年期の練習生が、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」と生還を期し得ない精神と技量を養成されました。

 思えば、純朴にも祖国のため何の疑念も抱く事なく、身命を捧げんとしたのであります。愛国心に徹した人生観、青春のひととき、苦楽を共に過ごした霊峰富士を眺める時、清水海軍航空隊がここにあり、わたくしたち甲飛練習生の跡であると、そして更に後世に戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願いながら、この碑を建立しました。』


愕然と立ち尽くす。

国難に殉ぜんと、神々しいまでに美しい富士と田子の浦と三保の松原に囲まれて、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」との思いを胸に、少年たちがこの地で飛行訓練に明け暮れていたのかと思うと、なんとも美しいというべきか、美しすぎて壮絶というのか、多くの少年はその現実離れした美しさに陶酔し、われを忘れてしまったことだろうと、その碑と背後に聳え立つ富士山を仰ぎ見、立ち尽くした。


家に帰って、三保の予科練を調べてみると、昭和20年6月30日に隊は解散となり、予科練の少年たちが特攻に殉ずることはなかったと知り、ほっと安堵した。しかし、1週間後の7月7日には、対岸の清水の港や市街地が空襲される。少年たちは無事だったのだろうか?どんな思いで富士山を背に燃え上がる街を見ていたのだろうか?

当てのない散策だったが、なんとも不思議なご縁で、65年前の少年たちの人生に思いをはせる秋の1日となった。

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