日本人メジャーリーガーのパイオニア・野茂英雄
イチロー、松井秀喜、松坂大輔、岩村明憲など今やメジャーで活躍する日本人選手は多いですが、日本人選手にメジャーリーグを身近な存在とした第一人者と言えばそう、野茂英雄です。そんなわけで今から41年前の今日は、その野茂英雄が生まれた日です。
1968年8月31日、野茂英雄は大阪府大阪市で生まれ、小学校から本格的に野球を始め、この頃から「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考えるようになり、後の“トルネード投法”の原型となる投法スタイルを貫きました。
高校は成城工業高校に進学し(この学校に進学した理由として野茂はいくつかの名門校のセレクションを受験したものの、受験先の監督から「そんなフォームじゃ大成しない」と見なされた為仕方なく無名の公立校に行かざるを得なかった説が有力)、成城工2年生の時にエースの座をつかみ、2年生の時の甲子園予選では2回戦で完全試合を達成するなど注目を集めました。その後社会人の新日鉄堺に進み、1年目に後に決め玉となる伝家の宝刀フォークボールをマスターし、2年目にはチームを都市対抗に導き、この実績が認められて日本代表に選ばれソウルオリンピックに出場して銀メダル獲得に貢献するなど、野茂は自他共にアマチュアナンバーワン投手となり、当然ドラフトの目玉となりました。
1989年のプロ野球ドラフト会議(後に1968年の会議に匹敵する豊作ぶり)では史上最高となる8球団(ロッテ・大洋・日本ハム・阪神・ダイエー・ヤクルト・オリックス・近鉄)から指名され、抽選の結果近鉄バファローズが交渉権を獲得し、契約金1億2千万円(史上初の1億円台)・年俸1千万円という破格の額で入団、まさに大物ルーキーとして相応しいものでした。また契約時に投球フォームを変更しない条件も付け加えられました。
1年目の1990年4月10日の西武戦で初登板し(清原和博から初三振を奪う)、その後白星の付かない試合が続いたものの4月29日のオリックス戦で先発し勝利し(プロ初勝利)、また完投で当時のプロ野球記録となる1試合17奪三振というまさに華々しいものであり「ドクターK」伝説の幕開けに相応しいものでした。
この年は新人ながら最多勝・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率といったタイトルを獲得し、またパ・リーグ初の沢村賞を獲得し(沢村賞は当初セ・リーグ限定だったものの平成になってからパ・リーグの投手にも授与する資格が与えられた)、当然リーグMVPに輝きました。他には同年のオールスターで中日・落合との初対決もありました。
1年目の華々しい活躍で自他共に近鉄の顔となり、1990年から4年連続で最多勝・最多奪三振を獲得するなどリーグを代表する投手となった野茂、また当時黄金期の真っ只中である西武ライオンズの4番・清原和博との対決も注目を浴びました。お互い力と力のぶつかり合いはかつての江夏豊と王貞治の対決を想起するものでそれにもファンは喝采しました。ただ、野茂は一方でフォアボールを乱発する癖もあり、野手陣やファンからすれば煩わしくもありました。通常よりも違うフォームの為野手陣もタイミングが取りづらく、四球を連発することで野手陣からの反感もありました(スタンドの観客からも「また野茂の独り相撲が始まった」との不満があったくらい)。まァ金村義明氏も当時を振り返って「守ってる側のことを考えてくれないと・・・」と苦言を言ったくらいでした(94年を除いては、野茂がシーズンに与えた四球は100を越えていた)。
しかし93年に監督が仰木彬から鈴木啓示に変わると状況は一変、鈴木は野茂の投球フォームや調整法に口出しするようになり、また鈴木が現役時代に実践していた「走りこみ重視」を強調するようになり、またフォームに関しても「三振を取るが四球が多すぎる。フォームを改造してもっと大きな投手にしてやろう」と見なしていたのでした。鈴木との確執を決定的とした94年シーズン開幕戦(西武戦)で9回ワンアウトまで野茂はノーヒットノーランを続けたものの、ヒットを打たれて記録が消えたところですぐに赤堀に交代し、その赤堀が西武・伊東にサヨナラグランドスラムを打たれるというあっけない結末となり、またこの年は右肩痛で満足いく成績を残せませんでした。
94年オフ、野茂は契約更改で複数年契約と代理人制度をフロントに熱望したが、フロントはあっさり拒否しフロントの提示する億の年俸を「お金の問題じゃない」と拒否し、任意引退という形でメジャーリーグ挑戦を宣言するのでした。
当時日本ではメジャーリーグは雲の上の世界としか見なされず、過去に村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツに在籍したが中継ぎでいくらか登板したに過ぎず、また江夏豊がミルウォーキー・ブリュワーズのテストを受け不合格になるなど、日本人はメジャーで通用しないという風潮が強く、そんな野茂に対しマスコミもまた「わがまま」「すぐに失敗する」と大リーグ挑戦には否定的でした。
1995年、野茂はロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び年俸は980万とかなり下がったものの、同年5月2日に初登板し(村上雅則以来のメジャー初登板)、1ヵ月後には初勝利を挙げこの年は13勝をマークし新人王も獲得するなど前年ストライキで人気が停滞したメジャーリーグの人気回復に貢献までしたのでした(この年はオールスターにも出場した)。翌96年にはノーヒットノーランを達成し(コロラド・ロッキーズ戦で)、その後はメッツ・ブリュワーズ・タイガースと渡り(タイガースでは日本人初の開幕投手を務めた)、2001年にはボストン・レッドソックスに移籍し、同年4月4日にオリオールズ戦でノーヒットノーランと達成するという快挙を達成するなど復活を印象付けました(メジャーにおいて両リーグでノーヒットノーランを達成したのは史上4人目のこと)(また同年マリナーズに移籍したイチローとも対決した)。翌年はドジャースに復帰し主力として活躍したものの、2005年にはタンパベイ・デビルレイズに移籍し同年6月に日米通算200勝を達成するも7月に解雇され、野茂はその後メジャー復帰を目指す為の試練と直面するのでした。
長い苦難を乗り越え、2008年にカンザスシティ・ロイヤルズにマイナー契約同然で入団し、その際野茂はトルネード投法の特徴であるワインドアップ・モーションを封印しシーズンに臨みました。オープン戦での実績が評価され4月に久々のメジャー復帰を果たしたものの結果が出なく、ロイヤルズから戦力外通告を受けたのでした。
そして2008年7月、野茂は共同通信の取材に対し「リタイアすることにした。プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った。」と引退を表明することを発表したのでした。また目標としていたメジャー30球団から勝利を果たせぬままでした。野茂自身これには限界を示唆するものかも知れないが、もはや自分自身の思うピッチングが出来なくなったともコメントしたのでしょう。私はこれについて、かつて王貞治が1980年のシーズンに30本塁打を打ったものの「王貞治としてのバッティングが出来なくなった」と引退を表明したコメントと似てるような?とも感じました。
引退後はオリックス・バファローズのテクニカル・アドバイザーに就任し、また態度を保留していた名球界にも入会しました。
野茂のメジャーにおける活躍は日本人メジャーリーガーを多く輩出し、日本人にメジャーリーグが遠い世界ではないという認識につながり、当初「わがまま」と批判したマスコミも一転賞賛したのだからなお更かもしれません。また不況のあおりで年々減少する社会人野球の衰退にも直視して、自費で「NOMOベースボールクラブ」を設立して野球選手を目指す若者たちへの受け皿となるなど、多方面でも活躍しました。
日本人メジャーリーガーのパイオニアとして日本人にメジャーが遠い世界ではないと印象付け、また衰退の徒を辿る社会人野球の回復にも力を注ぐなど、常に野球界の為に尽力したのだから、野茂の功績は野球界全体に大きな足跡を残したといっていいでしょう。
1968年8月31日、野茂英雄は大阪府大阪市で生まれ、小学校から本格的に野球を始め、この頃から「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考えるようになり、後の“トルネード投法”の原型となる投法スタイルを貫きました。
高校は成城工業高校に進学し(この学校に進学した理由として野茂はいくつかの名門校のセレクションを受験したものの、受験先の監督から「そんなフォームじゃ大成しない」と見なされた為仕方なく無名の公立校に行かざるを得なかった説が有力)、成城工2年生の時にエースの座をつかみ、2年生の時の甲子園予選では2回戦で完全試合を達成するなど注目を集めました。その後社会人の新日鉄堺に進み、1年目に後に決め玉となる伝家の宝刀フォークボールをマスターし、2年目にはチームを都市対抗に導き、この実績が認められて日本代表に選ばれソウルオリンピックに出場して銀メダル獲得に貢献するなど、野茂は自他共にアマチュアナンバーワン投手となり、当然ドラフトの目玉となりました。
1989年のプロ野球ドラフト会議(後に1968年の会議に匹敵する豊作ぶり)では史上最高となる8球団(ロッテ・大洋・日本ハム・阪神・ダイエー・ヤクルト・オリックス・近鉄)から指名され、抽選の結果近鉄バファローズが交渉権を獲得し、契約金1億2千万円(史上初の1億円台)・年俸1千万円という破格の額で入団、まさに大物ルーキーとして相応しいものでした。また契約時に投球フォームを変更しない条件も付け加えられました。
1年目の1990年4月10日の西武戦で初登板し(清原和博から初三振を奪う)、その後白星の付かない試合が続いたものの4月29日のオリックス戦で先発し勝利し(プロ初勝利)、また完投で当時のプロ野球記録となる1試合17奪三振というまさに華々しいものであり「ドクターK」伝説の幕開けに相応しいものでした。
この年は新人ながら最多勝・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率といったタイトルを獲得し、またパ・リーグ初の沢村賞を獲得し(沢村賞は当初セ・リーグ限定だったものの平成になってからパ・リーグの投手にも授与する資格が与えられた)、当然リーグMVPに輝きました。他には同年のオールスターで中日・落合との初対決もありました。
1年目の華々しい活躍で自他共に近鉄の顔となり、1990年から4年連続で最多勝・最多奪三振を獲得するなどリーグを代表する投手となった野茂、また当時黄金期の真っ只中である西武ライオンズの4番・清原和博との対決も注目を浴びました。お互い力と力のぶつかり合いはかつての江夏豊と王貞治の対決を想起するものでそれにもファンは喝采しました。ただ、野茂は一方でフォアボールを乱発する癖もあり、野手陣やファンからすれば煩わしくもありました。通常よりも違うフォームの為野手陣もタイミングが取りづらく、四球を連発することで野手陣からの反感もありました(スタンドの観客からも「また野茂の独り相撲が始まった」との不満があったくらい)。まァ金村義明氏も当時を振り返って「守ってる側のことを考えてくれないと・・・」と苦言を言ったくらいでした(94年を除いては、野茂がシーズンに与えた四球は100を越えていた)。
しかし93年に監督が仰木彬から鈴木啓示に変わると状況は一変、鈴木は野茂の投球フォームや調整法に口出しするようになり、また鈴木が現役時代に実践していた「走りこみ重視」を強調するようになり、またフォームに関しても「三振を取るが四球が多すぎる。フォームを改造してもっと大きな投手にしてやろう」と見なしていたのでした。鈴木との確執を決定的とした94年シーズン開幕戦(西武戦)で9回ワンアウトまで野茂はノーヒットノーランを続けたものの、ヒットを打たれて記録が消えたところですぐに赤堀に交代し、その赤堀が西武・伊東にサヨナラグランドスラムを打たれるというあっけない結末となり、またこの年は右肩痛で満足いく成績を残せませんでした。
94年オフ、野茂は契約更改で複数年契約と代理人制度をフロントに熱望したが、フロントはあっさり拒否しフロントの提示する億の年俸を「お金の問題じゃない」と拒否し、任意引退という形でメジャーリーグ挑戦を宣言するのでした。
当時日本ではメジャーリーグは雲の上の世界としか見なされず、過去に村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツに在籍したが中継ぎでいくらか登板したに過ぎず、また江夏豊がミルウォーキー・ブリュワーズのテストを受け不合格になるなど、日本人はメジャーで通用しないという風潮が強く、そんな野茂に対しマスコミもまた「わがまま」「すぐに失敗する」と大リーグ挑戦には否定的でした。
1995年、野茂はロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び年俸は980万とかなり下がったものの、同年5月2日に初登板し(村上雅則以来のメジャー初登板)、1ヵ月後には初勝利を挙げこの年は13勝をマークし新人王も獲得するなど前年ストライキで人気が停滞したメジャーリーグの人気回復に貢献までしたのでした(この年はオールスターにも出場した)。翌96年にはノーヒットノーランを達成し(コロラド・ロッキーズ戦で)、その後はメッツ・ブリュワーズ・タイガースと渡り(タイガースでは日本人初の開幕投手を務めた)、2001年にはボストン・レッドソックスに移籍し、同年4月4日にオリオールズ戦でノーヒットノーランと達成するという快挙を達成するなど復活を印象付けました(メジャーにおいて両リーグでノーヒットノーランを達成したのは史上4人目のこと)(また同年マリナーズに移籍したイチローとも対決した)。翌年はドジャースに復帰し主力として活躍したものの、2005年にはタンパベイ・デビルレイズに移籍し同年6月に日米通算200勝を達成するも7月に解雇され、野茂はその後メジャー復帰を目指す為の試練と直面するのでした。
長い苦難を乗り越え、2008年にカンザスシティ・ロイヤルズにマイナー契約同然で入団し、その際野茂はトルネード投法の特徴であるワインドアップ・モーションを封印しシーズンに臨みました。オープン戦での実績が評価され4月に久々のメジャー復帰を果たしたものの結果が出なく、ロイヤルズから戦力外通告を受けたのでした。
そして2008年7月、野茂は共同通信の取材に対し「リタイアすることにした。プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った。」と引退を表明することを発表したのでした。また目標としていたメジャー30球団から勝利を果たせぬままでした。野茂自身これには限界を示唆するものかも知れないが、もはや自分自身の思うピッチングが出来なくなったともコメントしたのでしょう。私はこれについて、かつて王貞治が1980年のシーズンに30本塁打を打ったものの「王貞治としてのバッティングが出来なくなった」と引退を表明したコメントと似てるような?とも感じました。
引退後はオリックス・バファローズのテクニカル・アドバイザーに就任し、また態度を保留していた名球界にも入会しました。
野茂のメジャーにおける活躍は日本人メジャーリーガーを多く輩出し、日本人にメジャーリーグが遠い世界ではないという認識につながり、当初「わがまま」と批判したマスコミも一転賞賛したのだからなお更かもしれません。また不況のあおりで年々減少する社会人野球の衰退にも直視して、自費で「NOMOベースボールクラブ」を設立して野球選手を目指す若者たちへの受け皿となるなど、多方面でも活躍しました。
日本人メジャーリーガーのパイオニアとして日本人にメジャーが遠い世界ではないと印象付け、また衰退の徒を辿る社会人野球の回復にも力を注ぐなど、常に野球界の為に尽力したのだから、野茂の功績は野球界全体に大きな足跡を残したといっていいでしょう。