ついに出た! 日本語による現代形而上学の入門書!
日本語で読める現代形而上学の入門書としては、既にアール・コニー+セオドア・サイダー『形而上学レッスン――存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド』 - logical cypher scape2があり、内容には一部重複するところもあるのだが、『形而上学レッスン』がハードカバーで物理的にごつい本なので、入門書としてはワードマップの方のハンディさというのは優れたところだと思う。
また、ページの下方に注がついているスタイルなのだが、ここでより詳しく知るために何を読めばいいのかが示されているし、巻末にも丁寧な文献案内が付されているのがよい。
また、形而上学においてはどのように議論が進められるのか、といった方法論的なことについても解説されており、形而上学というものが一体どういう営みなのかということかについても分かる
とかく、おすすめの一冊。
序章 現代形而上学とは何か
第1章 人の同一性
第2章 自由と決定論
第3章 様相
第4章 因果性
第5章 普遍
第6章 個物
第7章 存在依存
第8章 人工物の存在論
終章 形而上学のさらなる広がり
個々の章は独立して読むこともできるようになっているが、序章で書かれているとおり、
1章と2章、3章と4章、5章と6章、7章と8章とが、大体ペアになっている感じ。
1〜6章は、類書でも扱われることの多いトピックであるが、7章と8章は入門書の類で紹介されるのはおそらく初めてなのではないかというようなトピックかと思われる。
終章では、本書では扱われなかった話題や、周辺の他分野との関わりについても紹介されている。
序章 現代形而上学とは何か
序章では、現代形而上学とは何かということについて、どういうトピックを扱うか、どうい方法論を使っているのか、科学との違いは何かといったことが書かれている。
方法論としては、「言葉の意味や議論の構造を明確化すること」と「反照的均衡」が挙げられている。
常識は、(...)様々な形而上学的立場を評価するための基準になる。(...)私たちが当然正しいと考えていることと矛盾しないことは、様々な形而上学的立場が目指す大事な目標である。しかし他方で、ときには哲学的解答ではなく、常識のほうが修正されることもある。たとえば、常識が互いに不整合であることが示されたり、常識が他の知見(たとえば、科学的知見)と衝突しているころが判明したりしたときには、形而上学的立場ではなく常識の方が改められることがある。反照的均衡とは(...)世界についてももっとも整合的な理解を与えてくれるような形而上学的立場に至ろうとする方法である。p.16
第1章 人の同一性
身体説と心理説が紹介され、それぞれ記憶交換の事例と複製の事例において問題があることが示される。
次いで、パーフィットの、同一性は重要ではないという議論が紹介される
第2章 自由と決定論
自由とは、別行為可能性のあることであるものであり、
また決定論とは、ある特定の時点の世界の状態と自然法則から、その後の世界の状態が必然的に決定するものであると考えると、この両者は衝突する。
これに対して、両立論と非両立論の大きく分けて二つの立場がありうる。
両立論はさらに
(1)決定論が正しくても、別行為可能性はある→決定論について詳しく検討する道
(2)自由とは本当に別行為可能性のことなのか疑う→自由について詳しく検討する道
の二つに分けられる。
ここでは、(2)として、フランクファートの議論が紹介される。
それは、別行為可能性がなくても自由であると思えるような事例である。そして、フランクファートは、二階の意欲によって自由を捉える。ただし、これにも「操作の問題」という問題がある。
次に、非両立論にも二つの立場がある。
(1)決定論が正しい=強硬な決定論
(2)決定論は誤り=リバタリアニズム(政治哲学における「リバタリアニズム」とは別物)
リバタリアニズムとして、行為者因果説について紹介される。
第3章 様相
可能世界について
可能主義と現実主義について
本質について
(クリプキは、種と起源を本質的な性質と考える。本質ではなく「このもの性」という何かに訴えようとする立場もある)
対応者について
対応者関係は同一性ではなく類似性(なので、推移的でなく、対称的でもない)
可能主義や対応者理論への批判に応答したのが、On the Plurality of Worlds 巻末の文献案内によると、現在翻訳進行中らしい
第4章 因果性
ヒューム的因果論と反ヒューム的因果論とがそれぞれ紹介される。
- ヒューム的因果論
「因果関係は別の出来事のあいだの関係である。」「別の出来事のあいだに必然的な結びつきはない」という二つのテーゼ
この立場は、因果関係をどのように分析するか
一つは、規則性である。
しかし、これは因果関係の特徴を十分に捉え切れていない(たまたま成り立っている規則性との区別、共通原因、非対称性)
次に、反事実条件文による分析である
因果的先回りというケースによって問題が生じるが、ルイスがそれに対処するための改良を行っている。
反事実条件による分析は、ヒューム的因果の分析として有望視されているが、まだ対処すべき問題もあり議論が続いている
- 反ヒューム的因果論
ここでは、反ヒューム的因果論として二つ紹介される。
一つは、アームストロングによる普遍者の事例としての因果関係、である。
例えば、「赤さ」という普遍者が、「このトマトの赤さ」という事例として現れるように、「自然法則」という普遍者が、「因果関係」という事例として現れるというもの
もう一つは、事実因果説
これは、ヒューム的因果論、出来事因果というテーゼを否定する。
この世の中には、出来事が起こらなかったという因果もありうる。例えば、「自転車に鍵をかけなかったから、自転車が盗まれた。」とか、「自転車に鍵をかけたから、自転車が盗まれなかった。」といったケース。前者は、「自転車に鍵をかけた」という出来事が存在しておらず、後者は「自転車が盗まれた」という出来事が存在していない。
一方、事実因果は、「自転車に鍵をかけたという出来事が起こらなかった」という事実を、原因や結果として捉える。
出来事は、特定の時間・空間に位置を占める存在者であるのに対して、事実は、特定の時間・空間に位置を占めていない。
ヒューム的因果論においては、因果関係とは、時空間の中で成立している関係だと考えるので、因果関係とは出来事のあいだで生じる関係だと捉える。
一方、事実は、時空間の中で成立していないので、それの関係がどうして、時空間の中で成り立つ因果となるのかが問題になる。
第5章 普遍
ここでは、普遍者をめぐる実在論と唯名論の論争が紹介される。
特にここでは、普遍論争の内容そのものだけでなく、形而上学における論争がどのように行われるのかという点についても注意が向けられている。
ここでの争点は、他の多くの理論的対立の場合と同様、「説明枠組みとしての総合力」である。より詳しく言えば、この論争で争われるのは、「普遍者を認める立場と認めない立場のどちらの方が、総合的に見て、世界の事実を説明するための枠組みとしてより優れているのか」である。p.143
第一に、本章でみたいくつかの論点――ある種の文の真理の説明、時空世界内での位置付け、認識との関わり、説明の効率性・倹約性など――は、(...)他の存在者をめぐる論争でも頻繁に登場するごく一般的な論点である。
(...)第二に、(...)何かの存在をめぐる論争が最終的に行き着くのは、「説明枠組みとしての総合力」という争点である。そしてそうである以上、私たちはこの種の論争において、ある立場を一撃のもとで葬り去る決定的論駁というものを期待すべきではない。むしろ私たちが目指すべきものは、(...)よりよいバランスをもった立場はどれなのかを見極めることである。p.167
また、本章内のコラムにおいて、そのような「総合力」を評価するための基準がいくつか紹介されている。
すなわち、「正確性」「整合性」「単純性」「包括性」「一貫性」である。
実在論に対しては、普遍者をどこまで認めるかという線引き問題と、一体どこにどのように存在するのかという問題が提起される。
(ところで、セオドア・サイダー『四次元主義の哲学』(中山康雄監訳、小山虎、齊藤暢人、鈴木生郎訳) - logical cypher scape2において三次元主義が主張していた対象は「余すところなく存在する」という概念が、普遍者についてもいわれることがあるというのを知って驚いた。というか、「余すところなく存在する」というのが一般的な概念なんだ、と)
唯名論に対しては、特に類似性唯名論について、共外延性の問題と不完全な共同性の問題が提起される。
これに対して、トロープ唯名論が応答するが、こちらにも問題がないわけではない。
第6章 個物
個物の存在論的還元について
存在論的還元というのは、ある存在者のカテゴリーをより基本的な存在者のカテゴリーで説明しようとすること。
例えば、普遍者の束説は、「個物」というカテゴリーを「普遍者」というカテゴリーによって説明する。
個物について三つの説が紹介される
・普遍者の束説
・基体説
・トロープの束説
第7章 存在依存
存在者の秩序はどうなっているのか、何が基本的な存在者で何が派生的な存在者なのかという、存在論にとって重大な課題に答えるために重要となってくるのが「存在依存」という関係
「αはβに存在依存する⇔必然的に、αが存在すればβも存在する」
と定義される。
例えば、「このカーテンの赤さ」は「このカーテン」に存在依存する。もし「このカーテン」がなくなってしまったら、「このカーテンの赤さ」もなくなってしまう。一方で、「このカーテン」は「このカーテンの赤さ」に存在依存していない。「このカーテンの赤さ」がなくなってしまったとしても(日焼けして色落ちしたりしても)、「このカーテン」は必ずしもなくならない。
存在依存にはさらに色々な種類がある。
例えば、一方的なそれと相互的なそれ、直接的なそれと間接的なそれ
また、先ほどの定義は単純すぎて、幾つか問題があるので修正がなされている(自己依存や複合的対象について)
さらに、βの位置に抽象的存在者や必然的存在者を入れると、当惑させられる結論が導かれるという課題もある。
最後に、存在依存と付随性(スーパーヴィーニエンス)について
この二つの関係は、わりとよく似ている。
しかし、違いもある。存在依存という概念は非還元主義的な立場と親和的で、付随性は還元主義的な立場と親和的。
存在依存は、αとβのどちらの存在も認めている。
それに対して、αはβに付随(スーパーヴィーン)するといった時に、αの存在にはコミットメントしない。
本章のコラムにおいて、存在依存という関係の萌芽は、フッサールの考えた「基づけ」という関係であり、こうしたフッサールへの再評価は82年のB・スミスが編纂した論文集から始まったと述べられている。
第8章 人工物の存在論
人工物とは、例えば工業製品、工芸品、芸術作品であったり、あるいは制度的対象(貨幣、会社、法など)や文化的対象(フィクションのキャラクターなど)などである。
こうしたものは、伝統的なカテゴリー体系の中では適切に位置づけられてこなかった。
人工物には、タイプとしての抽象的人工物があったり、志向的作用に存在依存したりしているものがある。
ここでは、人工物も包括して説明できるようなカテゴリー体系として、A・トマソンの理論が紹介される。
まず、トマソンは存在依存関係を、さらにいくつかに区分する。
・歴史的依存と恒常的依存
歴史的依存は、αが存在するなら、αが存在する時点がそれ以前にβが存在するという関係で、例えばある作品の登場人物が存在するならば、その登場人物が存在する時点と同時かそれ以前に作者の志向的作用が存在する。ただし、その作者が死んで、作者の志向的作用が存在しなくなっても、登場人物は存在し続ける。
恒常的依存は、αが存在する時点全てでβも存在するというもの。例えば、青銅でできた銅像が存在するなら、銅像が存在する全ての時点で、材料である青銅もまた存在している。
・固定的依存と類的依存
例えば、ピカソの『ゲルニカ』は、ピカソという特定の作者だったり、ゲルニカという特定の町に存在依存している(固定的依存)。
一方で、例えば電話機は、必ずしもベルという発明者に存在依存しているわけではなく、ベルのような電話機というものを発明しうる人が存在すれば、存在する(類的依存)。
また、絵画であれば特定のカンバスがなければ存在できないかもしれないが、小説であれば何らかの媒体があれば存在できて、それが特定の何かである必要はない。
トマソンは、こうした存在依存の関係の組み合わせでダイアグラムを作って、カテゴリーを個別化する。
これは、図を書かないと説明しにくいので説明はパス
これを使うと、「アリストテレス主義的な」普遍的性質と、「プラトン主義的な」普遍的性質を区別することができたり、芸術作品と工業製品と制度的対象を区別することができたりする。さらに、実在はしないけどありうるカテゴリーなんかもある。包括性があるといえる。
このトマソンの理論は、フッサールの弟子であるインガルデンに依拠しているらしい。
コラムにおいてインガルデンと形而上学について紹介されている。
わが国においては美学や文学理論の文脈で論じられることの多い哲学者であはあるが、彼の一般的存在論に関する未完の大著『世界の存在をめぐる争い』がもつ射程の大きさを見落としてはならない。(...)本章で論じたトマソンによる存在依存の区分とその組み合わせに基づくカテゴリーの個別化は、インガルデンのそれを幾分簡素化したものになっている。/現代形而上学におけるインガルデンの重要性を理解する哲学者は、既述したトマソンやP・サイモンズらを除けば、ごく少数にとどまる。(...)今後、英語圏の分析的形而上学者のあいだに「マイノング主義者」ならぬ「インガルデン主義者」たちが登場する可能性は大いにある。p.247