超短い上にすンごいしょうもないネタですが。
日常系の作品が終わるたびに、一定度の難民が生まれます。
日常系を見ては、そののんびりまったりした世界観や、かわいらしい女の子という麻薬なんかにどっぷりはまった
ヤク中視聴者。んで、その作品が終わるたび絶望し、「次の難民キャンプを見つけなければいけない…」などと仰っているわけですね。
思い返すと『GJ部』のころからいたような気がします。
『GJ部』→『ゆゆ式』→『きんいろモザイク』→『のんのんびより』→『未確認で進行形』(or『桜Trick』?異説あると思います)→『ご注文はうさぎですか?』って感じでしょうか。今期はどこに難民キャンプを打ち立てたんでしょうか。『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』が、一番「やさしい世界」を体現しているとは思うのですけども。
それはさておき、自称なり他称なり「難民」と言われている彼らですが、果たして「難民」なのか?と。
なんか毎回ゾンビよろしく次の
獲物難民キャンプを求めているわけですが、バビロン捕囚の憂き目に遭ったユダヤ人じゃあるまいし、「難民」と称するほどなのかな…と思わないではいられないわけです。まあ自分が、心を『GJ部』と『ゆゆ式』に預けてしまっているからなのかもしれませんが。
毎回それらの日常系アニメのBDを買っているとか、BDを買ってことあるごとにそれらを見てしまう人々もいますがそれらの人もまとめて日常系難民でくくってしまうと、「亡国たるアニメに対して愛着とか執着とか望郷とか郷愁の気持ちはないんかい!」とか思ってしまうわけですね、ハイ。
いったい彼ら日常系の難民は、いったいどこにルーツを持った難民なのか?
特定の作品の面影を追い求めているわけではなさそうですし、日常系の雰囲気というか、「やさしい世界」という曖昧模糊とした物を追い求めているだけなら、いっそイナゴか、はたまた霞を食べる仙人とでも呼びならわしたらいいんじゃなかろうかと。
しかし、望郷の念を抱いていた難民も、時が経つにつれて出自へのアイデンティティが変化していくのかな…とWikipediaのバビロン捕囚の記事見て考えてしまいました。ルーツへの愛着を失っていくと言うのか。きっかけになった国=アニメを忘れ果て、果てなき流浪の民と化してしまうこともあり得るのかも…と。
あるいは、忘れ果てても、ルーツや定住地(自分の場合は『GJ部』『ゆゆ式』ですね)に戻って/を見つけて、移動を終える…と考えると、ああやっぱり、難民という呼称は適切なんだなと。
ただ、難民ではあってもイナゴにはなりたくないですね。雰囲気とか空気とか曖昧なものに釣られてモノを見るんじゃなくて、なにか言語化できるモノを見ていきたい。これは抱負ですけどね。
なんか話がぐるりと一回転したような気もしますが、まぁ
完徹したテンションで文章書いたらダメだなってコトですかね(了)
- 2014/07/21(月) 05:39:24|
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