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不定形爆発 Ver.2.0

アニメとか漫画とか、まあ色々。与太話ブログ。プラモの話と写真はTwitterに移転しました。

『憑物語』—憑かれていたか、疲れていたか

新年初更新ですが、『ゆゆ式』じゃなくて『憑物語』の話です。いえーい。


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言葉遊びをしたいと思います。


今回は『憑物語』というタイトルですので、まず「憑かれている」ということについて。


斧乃木余接は憑かれていました。
それは言わずもがな、彼女が付喪神だからです。決してただの可愛らしい童女ではなく、人の死体から形作られた付喪神であって、怪異です。人でなしです。
人の死体に何かが取り憑いている、と言ってもいいのかもしれません。
あるいは、手折正弦という男の美学に、こだわりに憑かれていたという面もあるでしょう。生きていない、死んだ怪異こそ美しいとする彼の美学に見初められて憑かれていた。
その美学に憑かれていたことに加えて、影縫余弦が怪異との間に立てる代理人の役割を果たしていたということも、上記の「自分は人でなしである」という意識を固めていたやもしれません。彼女は「人であるために」人の形をしているのではなく、「人といるために」こそ人の形をしているのですから。決して人になることのできない、どうしようもない隔たりがあります。

阿良々木暦は憑かれていました。
彼は鬼に憑かれています。今回の話で、阿良々木くんが吸血鬼に近づきつつあるということが示されたことで、一層「鬼に憑かれている」という事実、忍野忍と一心同体・一蓮托生・運命共同体であるという事実が強調されました。
あるいは、吸血鬼の力というものに憑かれていた、とも言えるでしょう。吸血鬼の力を使えば、およそ大抵のことは解決でき、実際解決するために何度も吸血鬼化してきたのですから。そうして解決できるという事実に、力に、彼自身溺れていた部分もあったのでしょう。それは余弦が指摘したことからも窺えることではあります。

手折正弦は憑かれていました。
余弦が言うように、美学やらこだわりというのに憑かれていたと言えるでしょう。
もうひとつ、「自分は体よくこの場にキャスティングされたのではないか」という思いに支配されていました。憑かれていました。
そして彼の中でのその事実、キャスティングされて阿良々木くんを吸血鬼に近づけることの手伝いをするなどというのは真っ平御免だと、疲れてもいました。

「疲れている」ということについて。
阿良々木暦は疲れていました。
人助けをしなくてはならないということに。もちろん、彼はそれを苦にも思ってないようですが、妹の月火に言わせるとそうではない。
背負い込みすぎると月火は指摘します。手にも背にも負えないことを、なんでも背負い込もうとする。それが自分を追い込むのではなく、追い詰めてもいる。そう指摘します。
千石撫子が蛇神になったことも、今回妹たちと神原駿河が攫われたことも、我がこととして考えようとする機会があるようです。そういう危うさ、ないし傲慢さが彼にはあるようです。余弦もそんなことを言っていましたね。
そうやって分相応を知らず、背負い込めるだけ背負い込んでいく姿勢のままでいるのなら、阿良々木暦という人間の重力は増していくばかりでしょう。さながらブラックホールのように。今回、忍野扇が彼をして「曲げることのできる人間」と言ったのは、その点正しいのかもしれません。全てを自分の方へ引き寄せ曲げるブラックホール。

斧乃木余接は疲れていました。
いや、疲れてはいなかったかもしれません。今回の話で、彼女と阿良々木くんとの間で人と人でなしの狭間の話(人を殺すとか殺さないとか、余接を交渉物として渡すか渡さないとか)はありましたが、この話で彼女が疲れている素振りなどなかったのですから。少なくとも、私の目にはそうは映りませんでした。
終盤、彼女は正弦を殺し、自らが人の領域を外れた怪異であることを顕示します。それは彼女の語るように、阿良々木君との間に埋めがたい溝を作るという扇の目的に沿ったものであったかもしれません。
しかし、最後のオチの部分になって、彼女は阿良々木家に人形としてやってきます。扇の目的が分断なら、それと真逆に阿良々木くんに接近しようと言うことでしたが、それは見方を変えれば、阿良々木くんというブラックホールに「曲げられた」という言い方もできるでしょう。背負い込まされた。穿った言い方をすれば、疲れさせられたと言ってもいいのかもしれません。それでも、あの愛くるしい童女の見た目をした怪異はそれを表に出すことはしないでしょう。いえーい、とか言ってのけるに違いありません。

阿良々木くんも斧乃木ちゃんも、何かであって何かでない、中途半端な存在になりました。
阿良々木くんは、人でもなければ怪異でもないモノに。
斧乃木ちゃんは、そんな阿良々木くんに曲げられて、怪異として離れるでもなく、愛くるしい童女でもない、人形としての居候・代理人に(斧乃木ちゃんに関してはもとよりこの代理人という位置だったというのもありますが、それでも阿良々木くんとの距離がこれまでとは別の形で迫ったのは疑うべくもないと感じます)。
立ち位置のハッキリしないブラックホールが、この先拡大していくのか否か、それはわかりませんが、この阿良々木くんを中心にした人間関係は気になるところです。

しかし、そんな曖昧な状態を全肯定してくれる戦場ヶ原というのは、阿良々木くんにとって心強い存在だと思います。このブラックホール的関係においてはどう転ぶかわかりませんが。忍は「吸血鬼になっても構わない」とか言ってましたからね。戦場ヶ原ひたぎという存在はかなり貴重です。

阿良々木くんを中心とした関係性と、忍野扇というわけのわからない存在(メタ的な存在なのでしょうか)がどういう結末を迎えるのか。
そういうワクワクに憑かれていますし、早くアニメ化してくれーと疲れてもいます。早く!

  1. 2015/01/18(日) 01:11:47|
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麻薬との付き合い方 ~GJ部麻薬論~

『GJ部』というアニメがあります。



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初めてその1話を見た時、正直な話、「なんだこのアニメ、クッソつまらんな」などと思ったのは否定できません。いや、今でも「うーん……」という思いが拭えないというのが現状です。

ところがどっこい、Twitterなんかを見てくださればわかると思うのですが、GJ部視聴中、自分はものの見事にあ^~かわええんじゃあ~という反応しかしていません。
何もこれは自分に限った話ではなく、Twitterで実況なんかやってるとよくわかるんですが、1話放映当時は「これは足切り安定だな」という雰囲気が確実にあったはずなのです。
ところがどうです、公式が驚愕するくらい視聴率は伸び、gdgd妖精から移ってまでGJ部を実況したりする人々は増えるばかり。

どうしてこうもGJ部に熱を上げる人が増えたのでしょうか。
もちろん、「『キルミーベイベー』に似てる」とか「クソアニメだからこそオススメする」みたいな、まぁどことなく天邪鬼な人たちの宣伝も、原因としてはあったでしょう。

しかし、ここで自分はGJ部を麻薬に準える、「GJ部麻薬論」をぶちあげたいと思います。

なんで麻薬なのか。
みなさんは、どういう理由でGJ部を見ていますか?
キャラが可愛い以外の理由で見てる人、いますか?
お世辞にも、ストーリーなんてものはあってないようなものだし、ギャグみたいな要素も見受けられません。もっと悪い言い方をすれば、「カワイイ」以外の要素はないんじゃないでしょうか(キャラクターの演技等も、「カワイイ」という要素に通じると思います)。
出歯亀根性の極致と言いますか、クラスの可愛い子をいくら眺めても飽きないような、そういう感覚でGJ部を見てはいませんか?少なくとも自分はそう感じています。

そうすると、ストーリーの起伏もなければギャグもないこのアニメで盛り上がる部分は、必然的に「カワイイ」にしかないわけです。
ぶっちゃけた話、このアニメを評価するのも評論するのも賛美するのも「カワイイ」というワードひとつで足りてしまう。
それさえわかればあとは簡単、「カワイイ」要素しかないのだから、後はその波に乗るだけで、高揚感とか酩酊感が味わえます。クラスの男子評議会で、「あの子可愛いよな!?」って賛同する奴が多ければ多いだけ、その波に乗った奴はテンションが異常に上がるみたいな、そういう感覚です(例えが微妙ですけど)。

まぁ、実際可愛いんですよ、このアニメ。キャラクターが。アニメ見てて、キャラクターのほっぺペチペチしたくなりませんか?

さて「カワイイ」要素で高揚した後ですが、どこにも冷静にGJ部を評価しようとする向きはありません。自分もしようとしたことはありません。
んで、1週間経とうとしたら、また「カワイイ」を求めてテレビの前に群がるのです。

この一瞬の高揚だけが全てで、後に何も残らない感覚、これこそ麻薬ではないのかと思うのです。
GJ部に可愛い!面白い!とシュプレヒコールを上げている人々は、いわばヤク中の群れなわけで、そこに冷静に作品を評価しようとする人は誰もいませんし、後になってGJ部をどうして面白がっていたのかを聞いても、おそらく「可愛かったから」以外の答えが返ってくるべくもないでしょう。

そういう意味では、GJ部という麻薬の用法用量を、視聴者が把握してきたとも言えるのではないでしょうか。「カワイイ」成分にアてられて、大勢で妄想世界でわーきゃーするのが楽しく、そして、それしかない。乗るしかない、このビッグウェーブに、ってやつですね。

まぁこのヤク中がマイノリティだったらなにも問題はなくって、アングラでなんか騒いでるやつらがいるなぁくらいで終わったと思うんですけど、いかんせんその数が多くなってきたというのがここ最近だと思います。
そうすると、「他のアニメを叩いておきながら、GJ部を異常に賞賛している奴」みたいな、どう考えても頭オカシイ人ってのが出てくるわけですね。そこに不快感を感じる人だって当然います。
普段の生活の中で、ヤク中を見かけたら、誰だって「うわぁ……」ってヒくと思います。GJ部も同じです。「カワイイ」しかないモノをありがたがるのは、どう考えてもおかしいんですよ(まぁよくよく見れば、誰も「真剣に」GJ部を面白がってる人なんていないんですけど)。

だから、GJ部を、麻薬を、過剰に持ち上げすぎてはいけないんです。用法用量を守って、他人に迷惑をかけない範囲で嗜むのが秘訣です。やりすぎると阿片窟で摘発された清国人みたいになります。麻薬というものは一般に流通するものではなく、アンダーグラウンドで静かに流れていくものですから、あまり表で大々的に騒ぎ立てるべきではないんですよ。

ただ、GJ部という麻薬について、これにハマった人々の社会復帰は早いと思います。
今はみんなが、決まった日付、決まった時間に一斉にこのクスリをやっているから、ここまで熱狂的に膨れ上がっているだけであって、放送後にBDやDVDを借りてきて(^p^)となる人間が果してどれほどいるのか。
おそらく、みんなまた新しい作品、いや麻薬を見つけてGJ部から離れていく。そういう意味での社会復帰、ですが。

でも、本物の麻薬みたいに、全てが終わった後に「なんで俺はあんなアニメで盛り上がってたんだ…」と忌避しないでほしいのです。
GJ部はあくまで、「カワイイ」という麻薬のようなものに過ぎません。アニメ作品なのです。

摘発されることのないように、用法用量を守って適切に、自覚的にこの麻薬を楽しむこと。
そして社会復帰の暁には、「GJ部?あぁ、そういう作品もあったね」とにこやかに語れること。



自分は、『GJ部』という作品が好きです。(了)






テーマ:GJ部 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2013/02/28(木) 17:05:56|
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『中二病でも恋がしたい!』 第12話「終天の契約」 ― 第二の誕生

六花ちゃんおめでとう!



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はい、最終回でしたねー。
自転車2人乗りとか、夢とキボーにあふれすぎて、ああん、もう!


六花ちゃんが死んだパパに別れを告げるのが今回の見どころで、それは絶対的に正しいのだと思います。
あのシーン。
もう彼女らの中で、中二病は絶対の地位を失っていて、だからこそ、遠い船の光を、中二病という演出が重なって、境界線の向こうからの大いなる光に見えた。妄想から奇蹟へ昇華することができる。

中二病なら「当然起こり得る」ことでも、それが必然性を伴わない口上の演出だってわかってたら、それは「奇蹟」でしょ?

ここには認識の差異があります。父親の事から目を背ける絶好の口実で、世界を形作る要素だった中二病が、現実を刺激を与える、現実をしのいでいく、ちょっとしたスパイスにまで地位を落としているのですから、六花の中で、現実が無視できなくなっているわけです。
人は現実と折り合いをつけていかなければいけないのは自明の理で、そういう意味では、中二病をうまく現実の中に折り込むことができたのではないかな、と。
中二病を後生大事に抱えるものでなくて、時折取り出しておひさまにかざして眺めてみる、そういうものにできたのではないでしょうか。苦しい時、辛い時、そういう時に眺めて、自分に活を入れられる、そういうものに。


簡単に捨てられなくて、持て余していた六花の中二病は、かように劇的な奇蹟を経て、劇的であるからこそ、現実の中に折り込めた。
劇的じゃなければ、あの状態の六花なら余計に諦観を深めてしまいそうですもの。
まさに奇蹟。
そして、今までの中二病で覆われた現実でもなく、中二病なんてくっだらなくてお父さんのいない辛い現実でもなく、中二病を「それもアリだ」と思えるような現実に生まれ出でたわけで。
お誕生日、おめでとう。


さて、一方で気になる部分もあるんですよね。
なんというか、中二病ってそんな大層なものじゃないんじゃないかなーっていう経験論が、この作品の中二病を中二病ではないと認めたがらないw
まぁ中二病の定義とかになると、別段この作品と関係なくなるのですが。
個人的には、中二病って子どものごっこ遊びと変わらないと思うので、わざわざ「素直にああいう風に振る舞えるのが素敵」とか「抑圧から解放されたかった」みたいな、そういう理屈付けはあんまりいらなかったんじゃないかなー、と。六花の中では、単純に前付けなしの「かっこいいと思った」から始めて、演じているうちにごちゃごちゃとお父さんの物語をくっつけちゃった。そんな気がしないでもないのです。
そういう憧れから話を始めるなら、これは別段中二病である必要はないわけで、看板に偽りありと言いますか、タイトルが『偽物語』でも違和感ないかと。
まぁ、ガジェットとして中二病を選ぶのは、それはそれで自由なので、水掛け論にしかならないのですけどw
聞き流しといてください。

そういえば、最後にしたり顔(顔見えないけど)でナレーションかました天の声、あれはいったい誰なんでしょう?いったい誰の意思を反映して喋っていたのか?そもそも、あれは誰だ?高二病か?大二病か?
あのナレーションがあるせいで、なんかあの世界が歪に見えますね…1話もそうでしたけど。話してる内容が、全部わかったようなので、なおさらに。


なんか実は重要な役割担っていた勇太くん。
彼が一番煮えきらなくて、なんだかなぁと思わせてくれます。前回「モリサマーにビンタされないかな」とか書きましたが、「浅いのよ」とか言われるだけで済んじゃったし、凸守なんかもっと辛辣に彼に当たっていい気すらしますw
中二病をやめろと言ったり、中二病で呼び戻したり。
なんだか都合のいい奴だな…という印象がどうにも拭えないのです。
六花は彼にそこまであーだこーだ強く言ったりすることができないキャラクタゆえ、全て彼の胸三寸で話が進むので、なおさらです。
なんか違和感があるならもっとよく考えろ、間違ってると思うなら早くやり直せ、やり直せるなら早く動け、と。
人の生き方を左右する物言いをしていることを、自覚してほしい、と。
まぁ、劇中では彼も16歳かそこらなので、そこまで言うのは酷なんですけど。

この件から得るべき教訓は、人は失敗してもやり直すことができるということですかね。すんのところで間に合った印象ですが。



とにかく、スタッフのみなさま、お疲れ様でした。意外といろいろ考えさせられたな…。





テーマ:中二病でも恋がしたい! - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2012/12/20(木) 03:27:22|
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『中二病でも恋がしたい!』 第11話「片翼の…堕天使」 ― 追っかけろっ!

八つ当たり、ダメ、ゼッタイ。


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今は時間がないので、とりあえず覚書程度に。あとでまともに書き直すよ!たぶん


まず、来週、勇太は丹生谷にビンタされると思う。(オイ
というか、何らかの形で“罰”的な何かは受けると思う。別にビンタでもなんでもなくていいけど。
だって凸守泣かしたし。
泣かしたし!
あとくみん先輩の出番少ないし!ふざけんなし!(私怨)

まぁ、少なからず、前の記事でも書いたように勇太が甘やかした(言い方悪いかもだけど)のに、掌返したように六花を叩き落としてるような状態で、もう「なんなのお前?」みたいな部分がございまして。
十花のイタリア行でお母さんが帰ってきて、それで君なんも手出さないって、なんやねん・・・?
自分で違和感を抱えているなら、「不可視境界線はある」って言ったなら、それなりの行動をしてみせろよ、男だろ!
凸ちゃんに当たってる場合じゃない!
飛び乗れ、電車に!

このままじゃ、六花も勇太も燻ったまんまでさ。
あと1話で解決するんだ、ド派手にいこうぜ!


今回の話は、画面がなんか退色してるみたいな印象を受けました。
眼帯を「成り行き」で取っちゃったからでしょうかね。
場面も夜とか夕暮れとかが多くて、光源が心もとない感じ。
屋内のシーンもあるにはあるのですが、部室は電気がついてないし、教室は電気がついてるけど、電気って人工の光なわけで、その気になったら消せるので、一気に暗転して奈落の底まで落ちてしまいそうな。

来週、色鮮やかなエンドマークを描きますように。



テーマ:中二病でも恋がしたい! - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2012/12/13(木) 04:15:19|
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『中二病でも恋がしたい!』 第9話「混沌の・・・ 初恋煩」 ― 中二病でも恋が「したい」

くすぶるなぁ・・・。


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先々週、ブログであんなことやこんなことを書きましたが、先週の8話で「んんwww何も解決しておりませんぞwww」と突然ポケモンも大してやってないのに論者化する程度には、あの棚上げ(最後で「これでいいのか・・・?」とは言ってましたが)に驚いたわけですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。私は元気です。

さて、そんなこんなで勇太を意識し始めて、頭に蝶々がとまるほど頭がお花畑になってた(カワイイ)六花ちゃんですが、まぁ気になることがございまして。
それって恋なの?
前回、勇太に中二病を肯定してもらえたのは良いと思うのですが、それが恋心なのかなぁ・・・とか。
まぁ人間のラブい心情を語るほどレベル高くないというか卵から生まれたてみたいな状態の自分ではありますが、それでも「なーんか違うんでねえかなぁ・・・」と。

敵ばかりのあの中で、確かに手を差し伸べてくれたのは勇太でしたが、あの肯定の仕方だと、どうにも六花ちゃんの「逃げ」を肯定しているかのように映ってしまうんですよねぇ。
逃げ。
世の中には逃げちゃダメだ逃げちゃダメだと言って頑張った挙句に壊れてしまった少年もいるようですが、でも基本的に流れてくる現実には立ち向かわないといけないと思うんですよ。勿論頑張りすぎは良くないので、適度な休み、逃げは必要なのですが。
でも、その邪王真眼は、必要な逃げなのか?
確かに父親が死んだことは悲しい出来事だし、母親が姉と六花を置き去りにしたのも嫌な出来事だし、祖父に理解されないのも辛い出来事ではあります。
が、いつまでもそれらから逃げているわけにはいかないでしょう。
閉じた目を、邪王真眼を開かせようとしたのが前回の姉・十花だったわけですが、十花から六花を肯定してやり、手を引いて逃げたのは勇太。
そんな勇太を六花が特別視するのは想像に難くないのですが、それって恋ってか「庇護者」を見つけた時のそれではないのかなぁ、と思うのですよね。
自分の理屈を肯定してくれる庇護者、それが勇太なのではないかと。
もっと言っちゃえば六花ちゃん、甘えてんじゃねーのと。
んで、たまたま庇護者が男で、ついでにその甘えを恋だ恋だと囃し立てるモリサマーのせいで、勘違いしちゃってんじゃないかな。
自分の理屈を肯定してくれる人間なんて、そんなん誰だって好きになるよ。そんな奴いたら男の俺だって男好きになるよ。でもそれは、恋じゃない。
落っこちそうになったのを助けてもらおうと(吊り橋効果?)、とにもかくにも、「逃げ」を振り払えない限り、ラブい何かからは一歩遠ざかっている、そんな気がするのです(そういう後ろめたい恋もあるのかもしれませんが・・・自分にはよくわからない。あるいは「初恋」という、右も左もわからない部分もあるのかもですが・・・)。
おかげで、今回の六花ちゃんはめちゃめちゃ可愛いのに、なんだか素直にブヒれなかったりしたわけでw

もう自分が書いたことなんて砂上の楼閣のように崩れ去るべきものなのかもしれませんが、前にも書いたように、六花ちゃんは、そんなに馬鹿な子じゃないと思ってるんですよ。
きっといつか、爆ぜないリアルに向き合わなきゃ行けない時が来る(それは8話での勇太の「これでいいのか・・・?」に担保されている・・・と思う)。

作品タイトルは、『中二病でも恋がしたい!』です。
恋がしたいんですから、恋をしてるわけじゃないんですよ。
今はタイトル通り、「恋がしたい」地点に到達したので、これから先があるとすれば。
できれば「この恋」が、少しでもプラスの力になるように。



ここまで書いてきましたが、別にこの作品が嫌いなわけでもなんでもないです。
自分のメンヘラ的思考とちょっと違うので、これからどんな紆余曲折を経て、最終地点へ向かうのかな、なんて。
気になったまでです。


とりあえず、十花さんはベッドの下のエロ本漁る前にやることがあると思います(迫真)






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  1. 2012/11/29(木) 03:18:54|
  2. アニメ感想・考察(Ver.2.0)
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