5月5日、26時30分。
5月5日、27時30分。
終わりました。
2つ前のエントリで、自分は「GJ部麻薬論」なるものをぶち上げました。その中で、こんなことも書きました。
放送後にBDやDVDを借りてきて(^p^)となる人間が果してどれほどいるのか。
申し訳ございません、
完全に自分のことでございました。BDは全巻発売日に買いました。りぴーと!でぃすくも買いました。『GJ部@』のBDも買うでしょう。きっとそれらを何回でも見返すと思います。
GJ部麻薬論を書いていた時、それはもちろん「面白いネタを提供してやろう」という気分も多分にありましたが、最初に頭にあったのは『らき☆すた』のことでした。
ひょんな機会で『らき☆すた』を見た時、「キャラクタがかわいいな」とか「パロディ面白いな」とか「このアニメ好きだな」などと思ってはいたものの、その後ついぞ見返すことはなく、同時に世間でも絵やらSSやらの2次創作はどんどん下火になっていき、俗な言い方であまり好きではないですが、いわゆるオワコンという位置についているような気がしていました(『らき☆すた』が好きな方には申し訳ありません)。
結局、キャラクタがかわいいという一点でしか興味を保持していなかった自分にとって、それはある意味の契機になりました。
「かわいい」だけでは誰からも顧みられない。
「かわいい」だけの萌えアニメならいずれ飽きられる。
そう考えていたからこそ、麻薬論を書いた当時の自分は、『GJ部』も所詮、瞬間最大風速をマークして消えていくだけの仮の物に過ぎないんだ……と感じていたのです。
社会のメカニズムに風刺をくれてやるわけじゃなし、険悪な人間関係の中から何かを拾い出すわけでもなし。
学園バトルでもなければSFロボットでもないし、ラブコメでもなければファンタジーでもない。
ただただ「かわいい」だけの、萌えアニメじゃないか、と。
ところがどっこい、ですよ。
最終回に近づくにつれて、どんどんのめり込んでいる自分がいるじゃないですか。
『GJ部』なんて、別に現実を引き映した鏡でもなければ、世間様に大上段から問題をふっかけるような作品でもない。
あんなにちっちゃい女子高生なんていないし、チェスでワールドチャンピオンに勝っちゃう先輩もいないし、毎日ケーキ焼いてくれる同級生もいない。ひたすらマンガ肉食ってる留学生も、敬語の使い方がみょうちきりんに過ぎる後輩もいない。
でも、そこには確かに「終わり」があったんです。
1話から季節は容赦なく進み、いずれ訪れる卒業式。
ゆるゆるやっていた毎日は終わりを告げ、同時にこの作品で描かれてきた世界も終わり。
そうすると必然的に、今まで見てきた話の中身を思い出すわけです。
このキャラクタたちは、今までに、どういうことをしてきたのかを保護者目線で振り返る機会が与えられたように感じました。
そうすると、そこまで思い入れがなかったはずなのに、割と思い出せるじゃないですか。
かわいいキャラクタたちが。『GJ部』のキャラクタのデザインやら動きなんて、現実には全く関連がないわけです。『けいおん!』みたいに、わりかしリアルな女子高生に似せてあるわけでもないし。
でも、画面上でキャラクタたちが見せるちょこまかした動きや、言動なんかは、確実にかわいいんですよ。小動物的かわいいもあれば、ラブストーリー的かわいいも、コメディ的かわいいも、いろいろありましたが。
そんな言葉で分類するのも野暮なくらい、かわいかったんです。
どんなものにも来る終わり、それが劇中の卒業式や文化祭なのか、はたまたメタ視点の最終回なのか…。それは様々でしょうが、そこまでの過程を思い返し、懐かしみ、郷愁にも似た気分を味わうための思い出の付箋としての意味も、「かわいい」にはあったんじゃないか、という気がしたのです。
『GJ部』自体は、最終回、終わりのその後、部長を引き継ぎ、意思が引き継がれていく…という部分を見せてくれました。この引き継いでいく過程をドラマチックにキャラクタが感じる(そう視聴者たる自分に見せる)ためにも、やはり視聴者が「かわいい」にタグ付けしたそれまでの話数が重要になってくるわけで、そういった意味でも、画面上にかわいく、居心地のよい空間を見つけだすことの重要性は大きかったように思います。
「かわいい」にあんまりにも意味を見出しそうとしすぎて、自分は変なことになっているのかもしれませんが、それでも、以前の『らき☆すた』を路傍に打ち捨てていた頃の自分を『GJ部』はよくぞ成長させてくれたと思います。
今回の『GJ部@』も、卒業式のあとということで、まず「卒業旅行」というワードが出てきてくれたのは、ごく自然に感じました。あ、
『GJ部』は終わったんだなと。あそこでのかわいかった思い出は、一区切りついてしまったんだなと。
でも卒業を迎えた後、終わったままじゃ寂しい。だからこそ。
GJ部は心の中にあって、いつまでも永遠だという終わりのその先の言葉が、とても響いてくる。
最後にGJ部のみんなで手をつないで出来た輪。『GJ部@』の@の輪。終わりのないものがある輪。
『GJ部@』とてもよいものでした。
『GJ部@』を見終わった後、寝ないでぶっ通しでこの文章書いているので、かなりとっ散らかった印象がありますが、最後に。
「かわいい」があるからこそ、作品の「かわいい」のその先に思い至れる。
「かわいい」だけでも、思い出の付箋になる立派な役割がある。
かわいいもんはかわいいんだ。それの何が悪い。という、今さらと言えば今さらなことですが、気付かせてくれた『GJ部』『GJ部@』には、麻薬論をぶち上げたことを謝りたいのと、感謝の気持とでいっぱいです。
最後にもうひとこと付け加えるなら、
『GJ部』のかわいさは麻薬レベルだと思います。(了)
テーマ:GJ部 - ジャンル:アニメ・コミック
- 2014/05/06(火) 05:41:24|
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10か月ぶりのブログ更新です。思考が固まってないので、メモ書き程度に。
『のんのんびより』の放映が終了しました。
思い返せば、今年は
<春> 『GJ部』最終回→もう何もかもが終わった…
<夏> 『ゆゆ式』最終回→
もう何もかもが終わった…<秋> 『きんいろモザイク』最終回→
もう何もかもが終わった…<冬> 『のんのんびより』最終回→
もう何もかもが終わった…と、いったい何回燃え尽きた矢吹ジョーになれば気が済むんだと言わんばかりの日々でした。まぁそのくらい日常系のアニメが多かったし、そればっかり見てました。
そういう流れの中で『のんのんびより』最終回を見ていた時に、「ん?」と首をひねりました。というか驚愕しました。
キャラクタたちが、カメラ目線で、こっちに向けて手を振っている。
まず最初に思い出したのは、『よつばと!』12巻でした。
あれも最後のシーンで、よつばがカメラ目線で「今日はなにしてあそぶ?」って言って終わるんですよね。
それを読んだ時にまず感じたのが、驚愕でした。読んでた電車の中で絶句しましたもん。
なんでかって、まぁBS漫画夜話なんかでも言われてたような気がしますが、自分が『よつばと!』という作品を「こんな世界は実際存在しないけれど、漫画という形でどうぞご鑑賞ください」というものだと認識していたからなんですよね。
だから、読者である自分はその世界を眺めるだけで、別段作品世界に対して批判したりなんだりってしてませんでした。あくまで自分たちはいわば「お客様」で、眺めているだけ。演劇や舞台やドラマとも違うから、ファンサービスとかそういうのもないし、関わりがまったく断絶していると感じていましたから。それはそういうもんだと。
ところがどっこい、作中のキャラクタが、
カメラ目線で、つまるところの
読者=自分に向けて語りかけてきたんだから、これはもう一大事ですよ。え、この作品って、私たちを必要としていたの!?って具合ですよ。
そもそも、読者がいて初めて成り立つ、というか、発信者(=作品)と受信者(=読者/視聴者)がいて成り立つものってなんでしょう。
たとえばメタネタでしょうか。あれって、発信者と受信者の間に共通の理解がないと成り立たない=面白くないですよね。両者共通の知識があって、初めて意味が通じるようになるじゃないですか。
あとは、時事ネタとか。あれも両者の理解がないとネタとしてお互いの中で成立しないですよね。他にも、古典で言うなら説話系の物語なんかもそうでしょうか。
パッと思いつくのはこの辺ですが、『よつばと!』ってこの手のネタ全然使ってないじゃないですか。
読者が作品を読んで、「勝手に」共感したり、「勝手に」感じ入ったりするばかりだったんじゃないでしょうか。だって、そういうネタがない限りは、読者の必要性は限りなく希薄で(作品が成立する段階で、作者や編集とかが「客」のことは考えてるのかもしれませんが)、私たちは鑑賞しているだけのお客様に過ぎないんですから。合いの手さえ求められていない。なんでしょうね、悪い喩え方をするなら、マジックミラー越しにものを見ているって感じなんでしょうかね。
そこで急にカメラ目線で、私たちに何かを投げかけてくる。
それって、一種のドッキリですよ。生まれた時から「あなたは透明人間です」と言われていて、いろいろ好き勝手していたら、実は「バレバレだぜ」って明かされるみたいな。
こっちが見ているだけだと思ったら、実は向こうもこっちを認識していた、という。
これが現実世界の、例えば舞台なんかだったらわかりますよ。だって目の前に生身の人間がいるんだから。そもそもそれは「役者」であって、「キャラクタ」とは違います。
でも、これって「漫画」じゃないですか。
そこには「役者」は存在せず、「キャラクタ」しか存在しないわけですよ。そもそも住む世界が違う。
元々メタネタとか時事ネタとか大量に突っ込んでくる類の作品だったらまだしも、『よつばと!』という作品の「キャラクタ」が急にこちらと接点を持ったら、戸惑いますよ、そりゃ。
『のんのんびより』でも似たような感覚を持ちました。
それは別に、「こんな田舎があるわけないじゃん」とか「こんな世界があるわけないじゃん」という批判とは位相が違います。ていうかそれはただの野暮です。江戸時代だったら確実にハブられるやつです。そんなことは百も承知なんです。
なぜ、こちらと直接的な接点を持とうとしたのか。
『のんのんびより』だって、向こうが提供する(作品内で完結する)物語、風景、キャラクタ、そういったものから、こちらがあくまでも「勝手に」共感したり感動したりするものだったと思っていました。
なんで作品の外の、受信者=視聴者に挨拶をしに来たのか。エンドカードなんかでなく、作品内で。
せっかくの年末なので、空いた時間でもう少し考えたいと思います。
テーマ:のんのんびより - ジャンル:アニメ・コミック
- 2013/12/24(火) 06:18:06|
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ガンダムシリーズを大量に見たわけではないけれども、やはり疑問に感じるところ。
最近、新作『機動戦士ガンダムAGE』の制作が発表されたり、『THE ORIGIN』のアニメ化が決まったりと、ガンダム界隈はなかなか騒がしいですね。『THE ORIGIN』はマ・クベに期待。
それはさておき。
ガンダムに出てくる親って、なんだかやたら早く退場する気がしません?
死んだり、酸素欠乏症で頭がアレになったり。
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| これはドラマではありません!実戦です!
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 ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.-、 _
ヽ、メ、〉 r~~ー-、__ ________________
∠イ\) ムヘ._ ノ |
⊥_ ┣=レヘ、_ 了 | え--い、ホワイトベースはいいっ!
-‐''「 _  ̄`' ┐ ム _..-┴へ <
| |r、  ̄ ̄`l Uヽ レ⌒', ヽ. | ガンダムを映せっ! ガンダムの戦い振りをっ!!
(三 |`iー、 | ト、_ソ } ヽ |
| |`'ー、_ `'ー-‐' .イ `、  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | `ー、 ∠.-ヽ ',
__l___l____ l`lー‐'´____l. |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| .| |
|| |__.. -‐イ
|| | ノ/まあ冗談はさておき。
とにもかくにも、どいつもこいつも、さっさと退場しすぎる。
よしんば退場しなかったとしても、子供に対して無責任と言うか、保護能力を失っている。
普通―フィクションを現実に当てはめるという無粋なことをすると―親って、子供が兵器に乗って戦うなんて危険な状況を承認するものじゃないと思うのですけれど。
これって、主人公が「子ども」であるがために起きる事態だと思うのですよね。
最初のガンダム、1stのことですが、これを例にとってみましょう。
物語開始当初、アムロのそばには母親がいません。父は仕事人間で、親子の触れ合いがめったにないことが示されます。
そこにジオン軍の奇襲。父はコロニーに開いた穴から宇宙空間へ放り出され、アムロとは離れ離れに。
一方の母は地球にいますので、アムロにとって「親に保護される環境」というのが完全に取っ払われてしまいます。父もおらず母もいない。親しかったフラゥ・ボゥの家族も皆死んでしまった。
そこで一番自然な次の行動と言えば、ホワイトベースに乗り込んで戦うということ。
もちろん、この状況に至るまでの要素として、サイド7が住める環境ではなくなったこととか、ホワイトベースの兵員の大半が死んでしまったこととか、色々ありますが、「親の不在」も一要素としてしていいと思うのです。
親が、保護者がいないということは、主人公が―子どもが戦うという状況に異を唱える者がいないということで。
それは物語をすんなり進めるのに一役買っていると思うのです。それに加えて、主人公が天才的なパイロット能力でも持っていたら、もう否やを唱える者はいないでしょう。
アムロは物語の中盤で母に出会いますが、この状況ではむしろ引き止める方が視聴者から見れば非難を浴びる対象になりかねません。(そもそも「宇宙は嫌だ」という理由で仕事人間の父のテム・レイに子どもを預ける母に保護する能力があるようにも思えませんし、そんな気が本当にあるかどうかも疑わしい。)
主人公が大人の作品(第08MS小隊とか逆シャア)は、この構造を必要としないので、親の存在はオミットされています(シローは親族が毒ガスで死んだようだけど)。
以後の作品でも、子供が主人公の作品が作られますが、どれでも親は子供のそばにいないような気がします。なんで?子供が活躍できないから。
子どもがパイロットで活躍するという構図は引き継がれ、『F91』に至っては、子どもに対する愛情を持った母が近くにいるにもかかわらず、子供がパイロットであるという構造は消えません。
最新作である『機動戦士ガンダムAGE』でも母親が死ぬようですし、この構図も、親が死ぬなりなんなりして不在状態になるという要素も、「子どもが主人公」である限り、どこまでも延々と連綿と永遠に継がれていくんでしょうね。
親の不在という要素は、物語を回す歯車という位置づけだけでなく、ガンダムのお家芸立場をも担っていくのでしょう。
テーマ:機動戦士ガンダムシリーズ全般 - ジャンル:アニメ・コミック
- 2011/07/01(金) 00:07:20|
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人ならざるヒロインについて。引き篭もり気味の主人公「じんたん」の前に、幼馴染みの少女「めんま」が突然現れる。
自分の願いを叶えて欲しいと頼む「めんま」に途惑う「じんたん」は…。(公式サイトより)
というわけで始まりましたね、『あの花』。めんま可愛いよめんま。見た目は。うん。今後も注視していきたいアニメです。どうしてじんたんにしかめんまが見えないのか、とかね。
それにしても、今期はヒロインが人外のアニメが多いなぁ。宇宙人とか、幽霊とか。宇宙人は違うか。
しかし、なぜヒロインにわざわざ
人外を据えるのか(人外という言い方はアレかと思いますが)。この『あの花』にあてはまらないにしても、そういうものが存在するのには、何か理由があるんじゃないか?
人外のヒロインというのは、それこそ『うる星やつら』のラムちゃんの昔から存在するわけで、いや、古典とかを漁ればもっと前から存在するわけですよね。キツネやタヌキが化ける話とか。
今だって、Wikipediaで検索すれば
人外萌えとかいう項目が出てくるし、SSサイトを巡れば、ヒロインが人間じゃないものなんて星の数ほどあります。鬼とか狐とかロボットとか触手とか、もう何でもアリ。普通の人間×人外ヒロインの多いこと多いこと。
こういうヒロインたちって、大抵の場合、
主人公しか頼れる人物がいないんですよね。なぜかと言えば、その時の世界観というのが、現実世界の延長でしかないから。動物が化けるなんて世間一般では認められてないように。ロボットなんかは、また事情が別になりますが(任務とかそういうの)。
他にも、「世間知らず」とかが理由として使われることが多いと思います。これもまた、「現実世界」の常識という、作品世界における基準が存在しているからです。
頼れるのは主人公しかいないから、人外ヒロインはどんどん主人公に依存することになる。そうするとヒロインは、現実の女性と違って
絶対に主人公を裏切らない。なんと都合のいいことでしょうか。仮に物語が悲恋の方へ向かうにしても、このヒロインの健気さ・一途さは変わることはありません。
基本的に、世界のどこでも「一人の人物に対して一途」というのは
非常な美徳です。その美徳を簡単に生み出せるのが、「人外」というキャラクタ造形なのではないでしょうか。したがって、こういった人外ヒロインについても必ずどこかに需要が存在するのだなぁ、と考えた次第です。
テーマ:あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 - ジャンル:アニメ・コミック
- 2011/04/15(金) 05:38:27|
- まじめに考えた邪推
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