電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

それでは皆様よいお年を

■2024年最後の挨拶とか年間ベストとか
今年も多忙のうちに年に一度の更新となってしまった。とはいえ、こうして他人に読ませることをある程度は想定しないと、考えたことがまとまらない。
また例によって本年の収穫物など。
1.(とくになし)
2.評論『維新の夢』
3.評論『逝きし世の面影』
4.評伝『おかしゅうて、やがてかなしき』
5.小説『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章』
6.TVドラマ『新宿野戦病院』
7.TVドラマ『不適切にも程がある』
8.エッセイ『室町ワンダーランド』
9.ドキュメンタリー『映像の世紀バタフライエフェクト』
10.映画『コング×ゴジラ』
列外.『竹久夢二展』

■1.(とくになし)
申し訳ないが本年も「とくになし」とさせてもらう(2020年以来だ)。とにかくクソ多忙すぎてろくに本も読まず映画も観ず、録画したドラマとアニメなら隙を見て視聴してた程度で1年が終わった(それでも暇なだけで何も生産してないよりはマシか)。

2.『維新の夢』渡辺京二(https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093790/)
仕事のため再読。渡辺京二の歴史観では、明治維新は本来、革命ではあっても革新ではなく、むしろ理想化された古代という「ここではないどこか」への跳躍だった!
横井小楠らの儒学者は、漢学の古典における理想社会と西洋の近代民主国家を二重写しに解釈していた(「小楠の道義国家像」)。それが単なる天皇の権威化と、西洋的合理主義に飲み込まれていった過程が明治時代の45年間だ。だから、じつは明治期の方が昭和期よりもまだ狂信的な天皇崇拝は弱かった(明治末年に乃木希典大将が殉死したときは、志賀直哉のように公然と時代錯誤だと断じた者もいた)。
そして、明治維新は江戸時代までの農村共同体の安定を破壊した面も少なくない。大正期の1918年に起こった米騒動は、近代以前ならありえなかった事態だという。これは物的な米不足ではなく、投機目的で米の買い占めが原因だ。明治以前の農村は自給自足が基本だったのに、税が物納から現金に変わり、地主が地元の米を外に売って小作人が飢える図式が生まれたのだ。普段は日本の伝統を大事にしろと説く保守派は、こういう足元レベルでの、経済効率化のための国家による伝統破壊はまるで無視してる。

3.『逝きし世の面影』渡辺京二(https://www.heibonsha.co.jp/book/b160743.html)
これも仕事のため再読。かつて本書は一部で「日本スゴイ」系の自画自賛にも援用され、そのため一部の左翼リベラル派に非難されたが、どっちも読み方がおかしい。本書に描かれた幕末~明治初期の日本人の姿は、現代日本の我々とは完全に別の失われた時代の人々なのだ、渡辺京二ははっきりそう述べてる。
明治期の西洋人の旅行者やお雇い外国人らによる記録を見ると、当時の日本人は珍妙で非効率なことも大量にやってる。新橋~横浜に初めて汽車が開通した時期は、車両を屋内と勘違いしてホームで下駄を脱ぐ乗客が続出したという。東京大学の講師に招かれたアメリカの学者モースは、港湾労働者や大工らが、動きを合わせるため大声で合唱しながら作業し、体を動かすより歌ってる時間の方が長いと記してる。このころの日本人は、時間を惜しんで黙々と労働に集中するという感覚なんかなかったのだ。
こうした一方、教養のある階層は、意外なまでに冷静で合理主義的だった。明治10年代に東北地方を旅行したイギリス人のイザベラ・バードは、秋田市で師範学校の教頭が、「われわれに宗教はありません」「あなたがたは宗教はいつわりだとご存じのはずです」と語ったと記してる。「明治から戦前の日本人はみんな敬虔な天皇教信者だった」というのも誤った偏見だったのだ。

4.『おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』前田啓介(https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721298-3)
2024年に生誕100年を迎えた映画監督・岡本喜八の足跡を追ったルポ。喜八は2005年まで生きて81歳で死んだのに、なんと1冊の3分の2が戦前編だ!
著者は、喜八は1924年2月17日の早生まれなので、徴兵されて入営したのが同学年の他の者たちより約半年遅く、この数か月の差ゆえにフィリピンや沖縄のような激戦地に行かず「自分だけ生きのびた」という感覚を抱いていたと指摘する。この説明を読んで今さらながら改めて、そうか、徴兵されてもすぐ戦場に行くのではなく、訓練期間と戦地への兵員移送の日数が必要なんだよなと理解した。
喜八と山田風太郎はともに戦中派らしい死生観が共通すると思っていたが、両人の微妙な違いもわかった。両人とも人の命はあっけないという認識は同じながら、喜八は映画『肉弾』や『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』のように、自分はなぜ死ななければならないのか納得して死ぬことにこだわった。これに対する風太郎のクールさは、やはり人間を思考する存在である以前に人体という物として見てしまう医学生の視点ゆえか。
松本零士が『独立愚連隊』を絶賛したという話はいかにも納得(戦場まんがシリーズの一編『戦場交響曲』は、喜八の『血と砂』オマージュに見える)。『肉弾』は主人公が戦争に抵抗せず特攻に行かされて死んでしまうので、公開された1968年当時の大学生には不評だったという。そうは言うけど実際に抵抗なんてできるかよというのが1945年当時の心情だったのだろう。一方で『激動の昭和史 沖縄決戦』は、戦争に巻き込まれた沖縄県民の視点が乏しいため竹中労に批判された。喜八の戦争観は良くも悪くも一貫して学徒出陣者の目線で、「巨大な命運の前に卑小な個人は抗うこともできず、自分を悲喜劇的に客観視するしかできなかった」という立場だったようだ。

5.『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章』(https://tkj.jp/book/?cd=TD293992&path=&s1=)
TVアニメ版は第一期から約10年かけて、京都アニメーションの放火事件を乗り越えて本年ついに完結。アニメでの版最終回前の展開が原作小説と大きく違うというので、未読だった小説最終巻2冊をあわてて読む(書店ではライトノベル枠ではなく一般小説の棚だった。実際に表紙以外は絵がない)。
本作は学校内の部活動だけで閉じた狭い世界観だ。現実の高校吹奏楽部もすさまじい体育会系の上下関係と勝利至上主義がよく問題視される。自分は本来、学校の外の世界が出てこない青春物は面白く思えない。が、本作はその狭い世界ゆえの濃密な人間関係のギスギス感(チームメイト的な絆の強さと表裏一体の競争心やら依存やら)に注目してきた。で、最終章は主人公の久美子が進路という学校の外の世界と向き合う。
少年漫画なら主人公が部のエースだが、部長である久美子は人間関係の仲裁役として成長しつつも、ソロ演奏の担当になれるかぎりぎりの実力だ。プロの奏者にはなれないから、本気で音楽を職業にする気の親友・麗奈とは進路も分かれる。家がマイ楽器を所有できる身分か否かという残酷な階級差の描写がえぐい(きちんとした金管楽器は数十万円する)。そもそも学校の部活で音楽やスポーツを本格的にやるのは日本だけで、それら「文化」全般が明治期にはめずらしい輸入品だった名残だ。
アニメと異なり小説版はほとんどの登場人物が京都弁を話すが、小学生のとき転校してきた久美子は標準語で、それゆえ部の人間関係の中心にありつつどこかアウトサイダー的立場なのが印象深い(これは東国から九州に来て育った自分も身に覚えがある)。そして、高校三年になって転校してきた新キャラの真由も京都弁を話さず、久美子からライバル視されるのに、当人は久美子に妙な仲間意識を抱いてるという皮肉が絶妙。
アニメ版の終盤は、主人公の久美子が、楽器に愛着があってもプロの奏者にはなれないことを踏まえて大人になっていく苦みがより明確にされ、悪くない改変と思えた。

6.『新宿野戦病院』(https://www.fujitv.co.jp/shinjuku-yasen/)
戦場帰りの下世話な中年外科医が英語まじりの岡山弁で若者に命の尊さを説教……これだけなら、1980~90年代の青年誌マンガのようなベタなおっさんセンスだが、それを女性(それも小池栄子)が演じると謎の説得力。
本作はドタバタ版『ER』かと思いきや、トー横キッズだの女性支援NPOだの外国人犯罪だの現実の最新の諸問題を取りこみつつ、娯楽作と社会派をしっかり両立してる。各回のゲストキャラは、老いた元ヤクザ、不良外国人、見栄張りのホスト、借金まみれの風俗嬢、妻と娘に暴力を振るうDV男、家出少女、ドラッグの売人など、闇金ウシジマくんばりに底辺人間像がてんこ盛りなのに、全然いやな感じがしない。
終盤、謎の新種ウイルスによる感染者バッシングと世間のパニックの描き方は、脚本の宮藤官九郎自身が、TV業界人の中でも初期に新型コロナに感染した体験と視点を反映していたという。そういう意味では、もはや一種の私小説的ドラマともいえる。
ところで、2025年のHNK大河ドラマ『べらぼう』は江戸の風俗街=吉原遊廓が主な舞台だそうだが、当方は連続ドラマで「クドカンの幕末太陽傳」がすごく観たい。幕末が舞台の作品なら『いちげき』(原作は永井義男)、落語が題材の作品なら『タイガー&ドラゴン』という実績がある。幕末の風俗街を舞台に実在人物と史実の事件をちょいちょい挟みつつ、居残り佐平次に遊女ら市井の民のしょーもない欲得と見栄と意地と必死な生き様のお話……すごく似合いそうではないか! 本人は『いだてん 東京オリムピック噺』で歴史物は懲りたと言いつつ『いちげき』を引き受け、山田太一作品『終わりに見た街』のリメイクもやったぐらいだから勝手に期待してる。
余談ながら『終わりに見た街』は、かつて旧作版を見た時、昭和20年にタイムスリップしてきた家族のなかで、親より子供の世代の方が戦時下の価値観に染まってしまう図式に実感がなかったが、この歳になると逆に妙なリアリティを感じる。大人と違って小中高校生は学校という狭い世界に生きていいて、たった1歳違いの先輩後輩関係が絶対だと思ったり、痛くて危険なばかりの体育祭の組体操みたいな競技を命じられればすんなり受け入れてしまったり、校内の価値観でしかない物を本気で世界のルールと信じてしまう。学校も軍隊も似たような物だからな。

7.『不適切にもほどがある!』(https://www.tbs.co.jp/futekisetsunimohodogaaru/)
コンプラにきびしい現代を風刺しつつも「昭和はよかった」というおっさん目線に留まらず、昭和と令和の一長一短を両方見せる公平さ。阿部サダヲ演じる主人公の小川が、昭和から令和にタイムスリップして戸惑ったりブチ切れつつも、いつしか令和の価値観にもなじんで行くのが妙にリアル。ただし、小川は1980年代の50歳代とはいえ、東京の中学教師という設定で若者と接する機会が多く、少年ジャンプも読んでる当時としては感性が若いおっさんだ。劇中、セクハラや性表現について「寛容になりましょう♪」「自分の娘と思ってみましょう♪」と歌っていたのは、下世話ネタが大好きな一方、実際に年頃の娘がいるクドカンの等身大の感情なのだろう。それに文句はない。だが、わたしはむしろ「お互いもっと鈍感になりましょう」「お互い他人事だと思いましょう」と言いたい。ネット社会の現代は無関係の赤の他人の言動が見えすぎるのが問題だ。
そして、話題になった最終回ラストのテロップ、「この作品は不適切な台詞が多く含まれますが(中略)2024年当時の表現をあえて使用して放送しました」――この未来から2024年の現代をもを相対化する視点によって、本作は日本SF大賞エントリ対象たりえるんじゃないか。この未来目線、じつは小林多喜二の『蟹工船』のラストと同じだ(https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html)。

8.『室町ワンダーランド』清水克行(https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163918501)
週刊文春の連載コラムとして初回から読んでいたが、ついに完結して単行本化。著者みずから日本史で室町時代は人気がないと語る。確かに南北朝と戦国期を除くと英雄はいない。だが、武家、公家、寺社、領主に属さない自衛武装民が並立して絶対強者がなく、神仏の罰やオカルトを本気で信じて行動し、幕府でも朝廷でも反逆は日常茶飯事、ハク付けのため真偽不明のルーツを自称したり、武士の子は15歳ぐらいで人を斬るのが当然で5歳ころから動物を殺して訓練だの、警察機構は機能しないから私人同士がしょうもない理由で本気で殺し合い……といったエピソードの数々は鮮烈だ。
著者が研究者として食えるようになるまで、目先の生活ための高校歴史教師の仕事が修行の場となった話も興味深い。本職の歴史学者の仕事は、思いつきで奇抜な新説を述べて人目を引けばよいわけではない。ひたすら大量の古文書を読み、比較検討してその時代の傾向や特徴を読み取り、ひたすら研究対象の現地を歩いて地形や痕跡を調べる等々、非常に地味だが、その積み重ねの先に浮かんでくる面白さには説得力がある。
最終回では、歴史を学ぶのは「日本スゴイ」と自画自賛のためではないとキッパリ強調してる。過去の日本にも足利尊氏のような不忠の裏切者、足利義教のようなワガママ暴君、細川政元のようなうさん臭い陰謀家は大量にいるし、奴隷の人身売買だの鼻削ぎ耳削ぎだのの残虐話も大量にある。逆に過去の日本人が偉大であっても、それは現代に生きる我々とはまったく異なる価値観の中に生きた人々の業績だ。

9.『映像の世紀バタフライエフェクト』(https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/)
毎回、歴史的なエピソードを現代最新の話題につなげる発想が鋭い。世界的にヒットした『ポケモンGO』の開発者が中国残留孤児の子孫なのは驚いた。カラシニコフの回は、ミリタリーオタク心をくすぐられつつも血なまぐさい内容にうんざり。終戦直後ベルリン占領の回でフランス軍がブルトーザーではなく生きた象に瓦礫撤去をさせてたのは笑った、仏領ベトナムあたりから連れて来たのか。

10.『ゴジラ×コング 新たなる帝国』(https://godzilla-movie.jp/)
例によって男子小学生のハートで観るべき娯楽作。ジュール・ヴェルヌの小説みたいな地下空洞世界とか巨大生物ばかりが住む南洋みたいな空間とか、昭和40年代の少年の想像力そのまんま。なぜか地下空間で巨大な猿たちが「謎の棒」(https://pbs.twimg.com/media/FSNFprkaUAEcpPK.jpg)を回してるのは御愛嬌。
そしてキングコングという怪獣は、不思議と「老いと孤独」のイメージが似合う。もともと怪獣は人間社会から疎外される存在の象徴なのだ。1933年版の初代キングコングは、白人美女に岡惚れして都会に出てきて哀れな末路を迎える南島の醜男だった。この感覚、ほぼ「特撮=ヒーロー」になってしまった現代では通じなさそうで辛い。

列外.東京都庭園美術館『竹久夢二展』(https://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/240601-0825_yumeji/)
アールデコ建築の東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)で、大正昭和モダン美術という絶妙の組み合わせ。夢二の絵はやたら女性のうなじを描いた物が多い。江戸の浮世絵もそうだが、当時の日本人が女性のセクシーさ感じる部位は胸でも脚でもなく首だったのだな(だがそれも中世以前は垂れ髪なので髷を結うようになった江戸以降の美意識だ)。
改めて見ると夢二が描いた女性はほぼ和装で、洋装モダンガールも袴の女学生も都会の建築物もほとんど出てこない。一方、三越の広告などを描いた杉浦非水は都会の風景も大量に描いたし、当時のインテリの間でモダニズムといえば、鉄筋コンクリートに飛行機に地下鉄だった。この和風と近代の同居こそが大正~昭和前期の面白さといえる。

■回顧と展望
というわけで、また本年やった仕事の一部。
『米ロ対立100年史』(https://www.amazon.co.jp/dp/4299052218)
なんと監修は佐藤優。当方はおもに前半の章を担当、キリスト教がアメリカ開拓に与えた思想的な影響。独裁体制と相性の良いロシアの大家族主義(父親は強権的だが兄弟は平等)。アメリカがイスラエルを支持する理由。ヒトラーとの密約を信じて裏切られたスターリンの失策。マンハッタン計画の裏で進行した米ソの原爆スパイ合戦のお粗末な実像。軍事と表裏一体だった米ソ宇宙開発史(ソ連は最初「世界初の人工衛星」の価値がわかってなかった)、そして21世紀の現在のアメリカ大統領選挙、ウクライナ戦争へのキリスト教文化の影響……等々を米露の両サイドから説明。
『いまこそ知りたい日ソ戦争』(https://www.amazon.co.jp/dp/429905959X)
第二次世界大戦で日本とソ連の交戦は1945年8月の1か月あまりだが、戦場は満洲のみならず樺太、千島列島におよび、死者、シベリア抑留者は数十万人に上る。その割に語られることが少ないのは不当だ。
当方はおもに終戦後~現在までの章を担当。ソ連側も千島占領が急すぎてアメリカ軍とのバッティングを恐れたとか、北方領土返還交渉が進まない理由、ロシアにとって第二次世界大戦の勝利はウクライナ侵攻を正当化する理由にもなってる事情などを説明。
なお、監修の麻田雅文先生の著書『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』によれば、大正期のシベリア出兵はソ連の立場では「日本による侵略」で、日ソ戦争でのソ連軍の乱行はその復讐の面があるらしい。因果はめぐる、諸行無常なり。
『蔦屋重三郎完全ガイド』(https://www.shinyusha.co.jp/media/tutajyu/)
冒頭の数ページしか手伝ってないが、江戸時代後期の洒落本、滑稽本、遊廓ガイドブック、遊女や歌舞伎役者のブロマイド浮世絵などについて調べると、本当にやってることが今のラノベや推し文化と変わらんなあという気になる。
『一冊でわかる明治時代』(https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309722078/)
2023年末から9か月ぐらいかけて1冊全部を執筆。まじで疲れた(監修の大石学先生と協力の門松秀樹先生にも相当に手間をかけさせた)。
「五箇条の御誓文」は西洋近代の民主主義ではなく儒教思想の産物。明治天皇は京都弁と畳の部屋を愛する豪傑好きだった。明治民法は地域ごとの農村の伝統を壊して一律に武士の家父長制価値観を課す物だった。中国大陸が原産の白菜が日本で普及したのは日清日露戦争に農民の兵が大量に参加した副産物。愛国心は上からの教育ではなく日清日露戦争への民衆の参加で下から高まったが、同時に「俺たちも国のために戦ってるんだから政治参加させろ」と選挙権拡大を求める声も高まった。坪内逍遥、夏目漱石らの言文一致運動が標準語(現代日本語)をつくった。明治期に専業主婦なんかなかったし、子供はみんな農作業や丁稚奉公や出稼ぎ女工をやってた……等々、教科書的な記述では触れられてない視点、民衆にとっての近代化の意味を意識的に盛り込んだつもりです。
『一冊でわかる大正時代』(https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309722085/)
こちらも1冊全部を執筆。明治の方と合わせて丸1年近く費やしたことになる。
鬼滅の刃やはいからさんが通るは人気でも大正時代そものの印象は薄い。大きな理由は英雄の不在だ。なんと15年間に首相は11回も代わった! だがそれは強権的な藩閥政治が後退した結果で、政界の諸政党のグダグダ感は現代とも相通じる。国民に嫌われた山縣有朋の実像。平民宰相を呼ばれた原敬のしたたかな手腕。世界大戦後の国際協調の反面で進んだ米英との対立(なまじ旧ドイツ領の南洋諸島を得たためアメリカと険悪に)。サラリーマン世帯の成立(といってもまだ労働人口の5%)。忍者ブームは立川文庫(大正時代のラノベ)と大正期の映画がつくった、じつは洋装のモダンガールは東京でも1%程度だった……等々、といった事情を説明。
***
改めて述べるが、左翼リベラル派が言う「明治から戦前はずっと軍国主義一色だった説」と、保守派が言う「戦後は日本国憲法のせいで日本人が道徳的に堕落した説」は、どちらも大ウソである!! だったら大日本帝国憲法が発布された明治23年に突然、日本人は道徳的になったのか? 明治41年には明治天皇の名で「日露戦争後の国民の風紀は乱れている、みんな真面目にお国のため働け」という内容の戊申詔書が出されてる。明治23年から昭和21年まで大日本帝国憲法は改正されなかった。にも関わらず、大正時代には一度、デモクラシーとか自由恋愛とかが流行した。しかも大正時代のリベラル派は、保守派の元老に対抗するため「大日本帝国憲法を守れ」と言っていた(護憲運動)。そのあと、憲法の条文は何も変わらんまま、昭和の戦争の時期になるとまた風紀が厳しくなった。結局、大多数の民衆はいちいち憲法の条文なんか気にして生活してないのだ。それより民衆の価値観に大きく影響したのは、大正期、さらに戦後に急激に進行した都市への人口流入、農村社会の解体による地縁や血縁の束縛からの解放だ。
***
今も世の中は大きく変化してるというけれど、本当に新しいことが起こってるのかわからない。AIの普及でいろいろな仕事がなくなるというが、19世紀に「写真」が普及しても手描きの画家はなくならず、鉄道と自動車が普及しても人間は歩いてる。安倍政権時代はさんざん円高デフレが全部悪いと言っておいて、一転して円安インフレになっても事態は良くならず、でもオイルショック期はもっとインフレの混乱がひどかった。ドナルド・トランプを再選させたアメリカは世界の警察官をやめたがってるらしいが、もともと建国以来250年の歴史では南北アメリカ大陸外に関わりたくないというモンロー主義の時代の方が長かった。
――何事も、直近の過去との比較ばかりでなく、もっと昔はどうだったか、そもそもいつの時代も変わってないんじゃないかという視野もまた必要。一応、そういう視野の提示を目指して仕事しているつもりだ。
***
原稿料収入だけで生活するフリーランスになって以来、日曜も祝日も仕事せねばならん代わりに、すっぽり1週間ぐらい暇な時期が年に数回はあるものだったが、本年はそういう暇がまったくなかった! まあ、それでも毎日必ず7時間は寝てるし深夜枠のアニメも観てたから偉そうなことは言えないが…。
仕事の合間に脳内だけ歴史を跳躍した空想をしてると、江戸にも明治にも自分みたいなの(田舎から出てきた、文化産業の最末席にしがみついてる貧乏底辺インテリ)はいたんだろうなあとよく思う。そう考えると、不思議と孤独と孤立を感じない。今後も頭と身体が動く限りは、歴史の語り部の末裔としてしぶとく活動し続けるつもりです。
それでは皆様よいお年を。

それでは皆様よいお年を

いつもの年末恒例の報告。その時々で見た物や読んだ物についてダラダラ考えてるうちに年が過ぎ、最後にまとめて記すスタイルなのでくそ長くなる。とはいえ、流行り物について小まめに流れを追わなければならない今のSNSの速度は自分には向かないのでね。

■2023年最後の挨拶とか年間ベストとか
また例によって本年の収穫物など。
1.小説『ギケイキ』町田康
2.ルポ『イラク水滸伝』高野秀行
3.漫画『大奥』よしながふみ
4.ルポ『スペイン巡礼』天本英世
5.ドラマ『らんまん』脚本:長田育恵
6.映画『ゴジラ-1.0』監督:山崎貴
7.映画『シン・仮面ライダー』監督;庵野秀明
8.評論『アメリカ大衆芸術物語』
9.漫画『魔獣戦線』石川賢
10.東京国立博物館「古代メキシコ展」
列外.茅ケ崎海岸

■1.『ギケイキ』(https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309416120/)
仕事で平安後期の平家と源氏の争乱を調べ直したのを機に通読。
NHKドラマの『鎌倉殿の13人』でも描かれたが、武士道なにそれ食えるの? みたいな、暴虐、奸計、裏切り、女の取り合い、男同士の嫉妬、意地と保身の間で揺れまくる武人たち……。ムカついたら殺す、神仏は必ず罰を下すという、命の値段が一銭五厘どころか藁一束ぐらいの世界、それが中世日本クオリティ。しかしまったく嫌な感じがしないのが町蔵節。漫画化するなら平野耕太か亡き石川賢の絵柄しか思い浮かばんな。
「あの頃、私たちに「日常」なんてなかったのだ。暴力、そして謀略。これをバランスよく用いなければ政治的に殺された。だからみんな死んだんだよ。私も死んだんだよ。
 っていうか、いろんなマイルドなもので偽装されてわかんなくなってるけど私からみればそれはいまも変わらない。」(第1巻79p)
「みんなそれぞれの生を生きている。躍動のまにまに殺し殺される。(略)そんな瞬間のやりとりが戦場ならば、ここも戦場、そこも戦場、命はいつだって流動している。悔いなんてあるわけがない。」(第2巻286p)
一応、ストーリーは元の『義経記』を踏まえ、一ノ谷や壇ノ浦ほかの合戦を省略したのも原典通りだという。現代作家なら意図してキャラクターを配置するものだが、弁慶の父の弁聖だの義経の使用人の喜三太だの、後世では知名度の低い人物が急にやたら目立つ唐突さが逆に妙にリアル。現実は書き割りシナリオじゃないんだから重要キャラとモブの境界線もあいまいだ。
思えば谷崎潤一郎の『源氏物語』とか、太宰治の『右大臣実朝』もあるし、平安時代を現代的に再解釈するのは日本文学の伝統なのか。

■2.『イラク水滸伝』(https://www.amazon.co.jp/dp/4163917292)
高野秀行の本に外れはほぼない。砂漠の国イラクのアウトローな川の民に取材した本書は、例によって民族・宗教文化論から、同地と同じような地縁血縁コミュニティが生きてた近代以前の日本との類比、筆者の個人的なツッコミが縦横にクロスオーバーする。
筆者には『イスラム飲酒紀行』(講談社)という傑作があるが、政教一致のイラン国内は本音と建前があり、判事もこっそり酒を飲んでるが、イラン国外のシーア派は律儀にイスラム教の戒律を守ってるという話は面白い(36p)
中東の宗教-民族-権力者の関係は一律ではない。独裁者フセインは湿地に住むマンダ教徒でも政権に忠実なら差別しなかったが、米軍がフセインを打倒したら民衆の宗教差別が復活したという皮肉(60p)。戦前までイラクではユダヤ人も多く、独自の美しい刺繍布(アザール)技術を持っていたが、戦後はユダヤ人がイスラエルに流出して、彼らの知識も技術もあっさり失われたというのも歴史の皮肉(391p)
腐ってもメソポタミア文明の子孫なのかイラク人は倫理観と秩序レベルが高い模様。治安の悪い土地の道路ではお約束の私的に通行料を要求する役人はおらず、アフリカなどの公務員が腐敗した国家と比較されるとイラク人は怒るという(149p)
現地民に親しまれている即興宴会芸のような詩の朗読(民謡みたいなの)を覚えたら商談がスムーズになったという話も興味深い(239p)。中世の日本では、よそ者でも気のきいた和歌を詠めれば一目置かれたのと似たようなものではないか?
本書に登場する図太くもおおらかな湿地民の生活環境は、河川上流の開発による水量の減少で先細りだが、高野は「シュメール、アッカド、バビロニアなどの文明は高く栄えては滅び、今はもうない。マアダンの人々は一度も栄えたことはないが、滅びることもない」と記す(447p)。実際に今後は、温暖化の影響でむしろ湿地帯の水量が増えて住みやすくなる可能性も皆無ではない。とにかく”数千年スパンの視野”をするっと違和感なく読まされた。あと何度も出てきた水牛の乳のヨーグルトがまじでうまそう。

■3.『大奥』(https://www.hakusensha.co.jp/comicslist/40895/)
NHKでのドラマ化を機に今更ながら原作全巻を通読(ドラマ版は、仲間由紀恵、安達祐実ら往年のアイドル女優に貫禄ある大人の悪役女性をやらせて見せたのが絶妙)。
劇中のように「男女が同数だった時代」が簡単に忘れ去られ、そのあと今度は「男の人口が激減して女が中心で世の中が回っていた時代」があっさり忘れ去られるかとツッコミが入りそうだが、実際に現代人はつい数十年前の「会社員&専業主婦の世帯なんて都市部の上流階層だけで、農家でも個人商店でも夫婦そろって働いてた時代」「みんな子持ちでも仕事が回ってた時代」を忘れてる。江戸時代なら領地や農地などの家財(生産手段!)を継承することに意義があり、それゆえ劇中のような個人の意志を無視した家存続のための婚姻・出産も行われたが、総サラリーマン(雇われ人)社会じゃ家存続の義務感も成り立たない……皆この変化を忘れたまま少子化を嘆いてる。こういう現実を相対化する意味でも、本作はすごく優れたSF(社会の思考実験)だと思う。
本作での徳川吉宗や平賀源内のイケメン女傑ぶり、家茂&和宮の夫婦でも単純な友人でもなく家族と言うよりない不思議な関係の美しさなどは語られ尽くされてるけど、それらに加えて当方はNHKドラマで略された江島生島事件が印象深い。美男美女が大多数を占める本作で、報われない真面目な醜男の江島に唯一好意的に接してくれた生島新五郎が、男慣れした包容力ある年増女の歌舞伎役者というのが泣かせる。よしながふみは、単純な男女の恋愛ではない関係性(主従とか同志的な戦友とか家族愛とか)とともに、年齢を重ねた女性の魅力を描くのが本当にうまい。
ちな男装した女の歌舞伎役者を宝塚だと思った人は多いだろうが、我が国には白拍子というもっと古い女の男装舞踊がある。つくづく本作の設定は日本文化として違和感ない。画面に登場しなかったこの世界の本居宣長は、天照大神や卑弥呼や持統天皇を引き合いにして「女王統治こそ日本の伝統」とか言う人で、それが一時的に幕府公認の思想になるんだけど、所詮は一時的なものに終わりそう。

■4.『スペイン巡礼』(https://www.amazon.co.jp/dp/482640039X/)
スペイン自体が恋人と称したアナキスト天本英世の紀行とくれば筆が乗ってないわけがない。1980年の刊行時、天本は54歳で現在の当方と同年代だが、いや、じつに若々しい。独裁者フランコゆかりの地に来れば敵地に来たような気分になり、1936年に起こったスペイン内戦の初期に戦死したアナキスト指導者ドゥルティの聖地に来れば大はしゃぎする。内戦に勝利して長期のファシズム政権を築いたフランコの死は1975年(本書が書かれたつい数年前)、独裁への抵抗者も全然まだ存命の時期だ。
天本が敬愛する詩人ガルシア・ロルカは内戦期にファシスト軍に殺され、フランコ政権時代、彼の詩は発禁とされたが、隠れキリシタンのように支持者は滅びなかった。天本は東京・高円寺の店で長年フラメンコの朗読をしていたのがスペインのテレビ番組に取材されたことがあり、行く先々で「ロルカの詩を朗読していた日本人」として声を掛けられる。そればかりか、モロッコまで行ったとき天本が怪博士ドクター・フー役を演じた『キングコングの逆襲』を観たことのある人物に出くわしたのには驚く。
当時はアジアからの観光客がめずらしかったゆえか、どこでも現地の住民は好意的。このへんもEUの一部と化した現在のスペインとは大きく異なりそう。独裁体制を脱したばかりの1970年代末の同国はまだヨーロッパの田舎で(それゆえ物価が安い)、南欧ラテン系らしい大部屋雑居の大家族主義が健在の筈、日本人と気質が合ってたのかもしれない。あと食い物がうまそう。貝とか魚とか食材や味覚も日本人に近いのかもしれない。

■5.『らんまん』(https://www.nhk.jp/p/ranman/ts/G5PRV72JMR/)
坂本龍馬にジョン万次郎に自由民権運動と、「明治の土佐」が持っていた要素をこれでもかとぶち込んだ、山田風太郎の明治小説のごとき贅沢なる作風。
学者が主人公のドラマを面白く見せるのは難しそうだが、新種の発見、分類、証明の苦労と、その成果をあげたときの喜びの表現がうまい。地方からの上京者や洋行帰りのエリートとかの若い男たちが混在して、衝突をくり返しつつ試行錯誤に明け暮れる東京大学植物学研究室の雰囲気がよい(『王立宇宙軍』のオネアミス宇宙軍とか、『風と樹の詩』の寄宿学校の感じだ。19世紀~20世紀前半当時なら彼らも中流以上の階層)
そして文化的な開拓期を生きた若者のクロスオーバーが渋い。牧野富太郎と同郷の土木技術者の広井勇ばかりでなく、小林一三や南方熊楠まであのような形で絡んでくるとは。
最後に祖母役の松坂慶子がまさかの再登場してくれたのも嬉しい。

■6.『ゴジラ-1.0』(https://godzilla-movie2023.toho.co.jp/)
本物の戦中派である笠原和夫の脚本なら、あるいは山田風太郎の小説なら、神木隆之介が演じる元特攻隊員の主人公・敷島はラストで迷いなく死んでる。それが当時の人間なら普通の感覚(初代ゴジラの前年である1953年版の『戦艦大和』は、乗員らが波に飲まれて終わりの直球バッドエンド)……が、逆にそれではひねりも救いもない。
だから本作で注目すべきなのは、青木崇高の演じる整備士の橘が、戦友を死なせて生き残った敷島を痛烈に恨みながらも、あえて「赦した」(生還できる脱出装置をつけた)点だろう。その変心の理由は余計な台詞で説明されない。だが、劇中随所で語られる戦時中の人命軽視への嫌悪感は悲痛だ。死ぬ覚悟は2度はできないと戦中派の鈴木清順も語っていた。それでも敷島が今度は本気で死ぬ覚悟を決め、一緒に不眠不休でゴジラ迎撃用の震電を整備した過程で、恨みを超えた真の仲間意識が生まれたのかもしれない。
そう、過程。本作は軍隊も超兵器もなく、元軍人の民間人が旧式の駆逐艦だけでゴジラを倒すというご都合主義ながら、過程のテテールの積み上げで説得力を持たせてる。
今の日本映画は過去の時代が舞台でも画面がきれいすぎて嘘くさいが、戦後の焼け跡の”汚さ”の再現は圧巻。ゴジラは巨大すぎてリアルな恐怖感が薄れがちだが、小さな木造船に狙いを定めて追いかけてくる臨場感、船が大揺れして乗員が水浸しになる描写。赤ん坊が成長し、バラックの家が再建されるわかりやすい復興のイメージ。山崎貴の過去作はそんなにきちんと観てないけど、『三丁目の夕日』『永遠の0』『アルキメデスの大戦』とかで培ったノウハウ総動員なのはわかる。
本作の男性的ロマンティズムに戦争への反省がないという指摘は正しいけれど半面でしかない。現実の戦後復興も陸海軍や軍事工場で血と泥に汚れつつ規律や技術を身につけた男たちが成し遂げたわけで、戦前的なものと戦後平和主義はきれいに区分できない。
それに、もともと1950~70年代の東宝ゴジラシリーズは戦争映画なのだ、『太平洋の嵐』(1960年)『太平洋奇跡の作戦キスカ』(1965年)などとスタッフもキャストも重複するが、軍人の勇気や団結心のロマンと戦争への悔恨の奇妙な同居は当時からだ。これは既に多くのオールド特撮オタクが指摘してるだろうけど、1954年の初代「ゴジラ」にも海上に残留した浮流機雷がちらっと出てくるし(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20140611/p2)、1955年の『ゴジラの逆襲』は本当に最後の30分だけ特攻隊映画だし(戦時中の航空隊の生き残りは全員、迷わずゴジラに突っ込む)。本作では終盤、ゴジラが東京ではなく相模湾の寒村に出現するが、これが幻の本土決戦(アメリカ軍が準備していた関東上陸計画のコロネット作戦)の再現なのは明らかだろう。
とはいえ、よくこんな終戦直後の陰惨な雰囲気を描く企画が通ったなとも思ったが、考えてみればNHKの朝ドラマでは戦中戦後の話は通例だし、『この世界の片隅に』も大ヒットした。今後も「終戦直後」は時代劇の一ジャンルとして定着していくのか。

■7.『シン・仮面ライダー』(https://www.shin-kamen-rider.jp/)
10代のころ石ノ森章太郎の漫画版と、KBCテレビの初代ライダー再放送に熱中した人間としては「1980年代当時にこういうのが見たかった!」が全部詰まったような快作。明らかに怪物じみたヒーロー像、普通のライダースーツの延長みたいにコートを着てたり、首に地肌が見えてるビジュアル、人間臭さあふれる怪人、漫画版通りの12人のショッカーライダーに本郷猛の肉体が死んで一文字隼人と一体化する展開……。
逆に言えば「1980年代当時にあえて1970年代ヒーロー風を狙ったような」二重の懐かしささえ感じる。そんなわけで俺のようなオールド特撮オタクは歓喜ながら、良くも悪くも新味はなく、元の昭和版を知らん人に不評でも仕方ない。実際、パンフレットで庵野秀明自身が、僕の考えた仮面ライダーをやりたいのではなくオリジナルの魅力を現代に再認識してほしかったと述べてる。ただ、本職のスーツアクターに頼らず、演者自身が仮面をつけたまま身体で観客に感情を意識させる演技は圧巻だった(とくに緑川ルリ子が死ぬ場面であえて本郷猛の顔を見せない演出!)
裏を返すと仮面ライダーもウルトラマンも、もはやハムレットや忠臣蔵と同じように、演出を変えつつ再演をくり返す古典素材と化してくのか。

■8.『アメリカ大衆芸術物語』(https://www.amazon.co.jp//dp/4327376175/)
19世紀まで西部劇は「現代劇」だった! 映画が普及する前、アメリカではダイムノベルと呼ばれた安物娯楽小説が大量に売られたが、西部劇はその人気コンテンツで、バッファロー・ビル、ピンカートン探偵社など実在人物をモデルにしつつ荒唐無稽な作品が濫造された。『忠臣蔵』『好色五人女』ほかの歌舞伎も江戸の実録再現ドラマだったのだから、似たようなものだ(いや、梶原一騎原作の実在人物プロレス漫画に近いか?)。その作者の多くは実際にはアメリカ東部在住だったというから、後世のイタリア人が空想のアメリカを舞台にしたマカロニ・ウェスタンと大して違わない。
西部劇の舞台はほぼ南北戦争後の1860~1880年代。現実に「フロンティアの消滅」が宣言された1890年代ごろから西部劇は「懐かしの世界」となる。都市化の進行とともに大衆娯楽は、文学から映画、そして犯罪物、ミステリ、SF、コミック・ヒーローに移っていった。1910年代の第一次世界大戦を節目とした旧時代の威厳ある大人像の解体が、ハードボイルド・ピカレスクヒーローを生んだという分析は興味深い。

■9.『魔獣戦線』(https://www.amazon.co.jp/dp/4575935077)
石川賢の漫画では『5000光年の虎』と同じぐらい好きな作品ながら、小学生のとき読んだきりたったのを中野まんだらけで発見して約40年ぶりに再読。
妻子を平然と実験材料にするマッドサイエンティスト、4匹の獣と一体化して怪物じみた主人公(すごく狂暴)、雪山の洞窟内にいきなり宇宙が広がるシュールな絵面、乱心した神があっさり人類の大掃除、ノストラダムスの大予言とかの影響で漂う終末感、あっさり死ぬヒロイン……そうそう、1970年代中期ってこんなのがめずらしくなかった。
1980年代にもオカルト終末論は流行したけれど、こういう作風が完全に時代遅れになって「等身大」「普通」の主人公が主流になり、石川賢もヤクザ漫画に転進したり迷走していたわけだが、今にして思えば、そういう1980年代の方が特殊だったのか。

■10.東京国立博物館「古代メキシコ展」(https://mexico2023.exhibit.jp/)
金属製品がほぼない、丸い物はあるけど車輪がない、宝飾品が翡翠や貝殻で水晶みたいな透明な宝石がない、エジプトとかインドとまったく違う別大陸の大河なき高山地帯の文明。でも世界のどこでも必ずドラゴンぽい大型爬虫類の像がある不思議。
テオティワカンは8世紀ごろに滅び、記録は何も残らず、数百年後にアステカ人が発見するまで忘れられた都だったという。中米に限らず何度も簡単に文化は断絶する、消えた古代都市の生き残りはどうなったのやら、諸行無常なり。

■列外.茅ケ崎海岸
神奈川県在住の旧友からぜひ遊びに来て欲しいと誘われていたので訪問。せっかくなので初めて江ノ島電鉄に乗る(『スラムダンク』『プリキュア☆スプラッシュスター』の聖地)。東京湾ではなく「太平洋」の海岸を見たのは20代の頃以来ではないかと思うが、強風のため波が高いのに今さら驚く、東映の映画のオープニングみたいだ。
海水浴場に案内してもらって、同地は1945年秋にアメリカ軍の上陸するはずだった場所で、若き日の渡邉恒雄が徴用されて対戦車壕を掘らされたとレクチュアを受ける(つまり日本のノルマンディー)。もし本当に戦場になってたら防御物がほぼ何もない地形だ。これを見てくると『ゴジラ-1.0』の終盤は感慨深い。それが戦後、駐留した米軍によってサーフィンが広められ、サザンオールスターズの故郷になったのはどういう因果か。

■回顧と展望
例によって目先の作業をしてるだけで一年が終わってしまった。本年はどういうわけか長いこと会ってなかった旧友と再会したり急にメールや電話が来たが、幸いにして先取りの走馬灯でもなさそう。転職した者、妻子がいる者、非常勤で大学の先生をしてる者、非営利の団体に勤めてる者、海外と日本を往復してる者……みな大変そうだ。話す内容は20代の頃とあまり変わらんが、それぞれ「大人」をやってる。
一方で自分はどうか? 相変わらず成長しないネオテニー中年いや老人だ。とはいえ、自分の仕事があるうちは責任をもってそれをやらなければならない。
***
というわけで、例によって本年やった仕事の一部。
『一冊でわかる東欧史』(https://www.amazon.co.jp/dp/4309811167)
ウクライナ戦争の勃発を機に、旧ソ連圏からバルカン半島まで冷戦時代の「鉄のカーテン」の東の20か国以上をまとめて一冊で通史にした大胆企画。戦乱と政変の話(おもにカトリック圏VS東方正教圏、ゲルマン系VSスラブ系VSその他の少数民族の対立)ばかりで個々の人物が埋もれそうなので、当方は意識的に、ドストエフスキーも愛読したウクライナの文豪ゴーゴリ、ポーランド独立運動の闘士を父に持つ音楽家ショパン、ロボットという語を発明したチェコ人作家カレル・チャペック、人工知能の基礎理論を築いたハンガリー人フォン・ノイマン、などなどの文化人も拾って論じてます。
『一冊でわかるオーストリア史』(https://www.amazon.co.jp/dp/4309811183/)
当方は15~19世紀のハプスブルク全盛期の部分を担当。17世紀に三十年戦争でこたんぱんにされて以降こそが文化大国オーストリアの本領発揮。軍事は二流で、ついぞ新大陸やアジアに植民地を作らなかったのに19世紀まで欧州五大国の一角にあり続けたのは、女王マリア・テレジアの外交力の遺産といったあたりを説明。
『一冊でわかる平安時代』(https://www.amazon.co.jp/dp/4309722067)
2024年のNHK大河ドラマは紫式部が題材というので注目を集める平安時代だが、当方は後半の院政から平家の盛衰、源氏の内ゲバやらの血なまぐさい時期の方を担当。昨今は「源平の合戦」と言わなくなった理由、皇族・公家・武家・寺社の間の多くの政争の理由は領地の所有権だった事情、平安末期から始まる日本の中世(戦国期まで)=絶対強者のいない多重権力の分立時代という点などをわかりやすく整理したつもりです。
『江戸の暮らしと幕府のすべて』(https://tkj.jp/book/?cd=TD040824)
当方はおもに前半部分を担当。歴代将軍の横顔、大奥の実像、老中や町奉行や寺社奉行といった幕府に仕える者たちの仕事内容、参勤交代の背景などを説明。かつての進歩史観で封建時代は批判的に語られてきた反動で、ここ十数年は江戸時代を持ち上げるのがトレンドだけど、江戸時代だって一長一短だ。それは明治以降ではなく中世以前と比較(ここが重要)するとよくわかる。たとえば街道は安全になった代わりに移動の自由は制限され、寺社や農村の自衛武装が禁じられて戦乱はなくなったが、身分制度は固定化された。各時代ごと良い点もあれば悪い点もある。今の20代以下にはバブル時代やSNS普及以前の00年代のネットに憧れる者もいるそうだが、その時代も別に楽園じゃねえぞ。
***
自分がやってるのは依頼を受けての仕事でしかないけれど、こう書くとじつに偉そうで僭越ながら、読者に対して単なる知識(出来事の説明)の羅列ではなく、現代日本とは異なるものの見方や考え方(文明観)自体を提示したいと常に意識してるつもりだ。あと単に歴史や文化の背景について調べるのが楽しいという面もあるが。
2024年は比較的に本領発揮の仕事に着手することになる予定。
それでは皆様、よいお年を。

あけましておめでとうございます

今年もよろしくお願いします。

それでは皆様よいお年を

また年に一度の報告会だがくそ長いぞ。

■2022年最後の挨拶とか年間ベストとか
例によって本年の収穫物など。
1.小説『死の家の記録』
2.漫画『まんが道』
3.学術書『資本論』第1巻
4.TVドラマ『鎌倉殿の13人』
5.漫画『タコビーの原罪』
6.ノンフィクション『アリストテレスとアメリカ・インディアン』
6.TVドラマ『ふたりのウルトラマン 沖縄本土復帰50年』映画『シン・ウルトラマン』
8.エッセイ『金魚すくいは金魚にとって救いにはならない』
9.映画『月光仮面』(1981年版)
10.特別展 きみとロボット』(日本科学未来館)
列外.人造人間キカイダー、仮面ライダー龍騎、機動戦士ガンダム水星の魔女

■1.『死の家の記録』ドストエフスキー/工藤精一郎 訳 (https://www.amazon.co.jp/dp/410201019X)
6月中、あまりに暑いのでシベリア流刑地の話でも読めば気分が涼しくなるかと考え、長年の積ん読に手を出す。だが、シベリアでも夏の労役の方が「五倍も苦しい」(新潮文庫版34p)と書かれてるw
本書は小説だが作者自身の体験を元にした話だ。監獄の何が辛いかといえば、普通は自由がないとか外界と隔離されるとか書きそうなものだ。しかしドストエフスキーは、「おそろしい苦痛が、獄中生活の十年間にただの一度も、ただの一分も、一人でいることができないことにあろうとは、わたしは絶対に想像できなかったろう。作業に出ればいつも監視され、獄舎にもどれば二百人の仲間がいて、ぜったいに、一度も――一人きりになれない!」(新潮文庫版17p)と、恨みがましく語る。さすが『地下室の手記』の作者だ。この正直な人間嫌いの表明は良い。一人の時間が許されない辛さは俺も味わったからよく知ってる(http://www.axcx.com/~sato/bq/198801.html)。世の中には大勢でいるのが嫌な人間もいるんだよ!
シベリアの流刑地においても、こっそり外界から金品を持ち込んで商売する奴もいれば、看守を買収したり、物売りに来る女性に手を出したり、囚人仲間の金を取ったりの出し抜き合いもある。人間はどんなことをしても生き延びようとするし、どんな環境でも悪知恵を働かせる者はいるのだ。そういや、山田風太郎も書いてたな。「曾て今こそ最低生活なり、この線をきって下降せば国民の生活は破滅すと思いしこと両三度にとどまらず。併し己は、「人間は死ぬまで生きているのだ」という明瞭なる事実を失念していた。」(『戦中派闇市日記』三月一日)。これは財布も身体も危機になった本年の実感(後述)。
流刑囚の世界は、人間の本音と力関係がむき出しだ。囚人に寛容なリベラル看守はかえって舐められ軽蔑されるし、囚人にも最後の精神の拠り所としてのプライドがあるから、恩義や貸し借りをむしろ屈辱だと思って拒否する者だっている。
しかし一方、囚人たちの間にも信頼関係はある。獄中で唯一、皆が信用して金を預ける相手は、カトリック信徒の老人だった。正教徒が多数派のロシアでは完全にアウェーでも一人で信仰を貫いてる無欲で潔癖な偏屈者だ。10年以上前に『スターリンとヒットラーの軛のもとで 二つの全体主義』の評でも書いたが(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20091231/p3)、孤立した環境でも一人で神と対話してる者は強い(一種の狂気だ)。集団の場の空気に精神を支配されてるだけの日本の新興宗教の信徒とは根本から違う。
そして、流刑囚の間では、ロシア人でもポーランド人でもイスラム教徒のタタール人、チェチェン人でも、凶悪殺人犯でも、官憲の暴力に屈しない強い意志の持ち主は民族に関係なく尊敬を受ける。また、文化果つる地の貴種憧憬なのか、意外にインテリ階層の流刑囚の話を聞きたがる囚人やシベリア住民もいる。支配階級やその手先の官憲や看守の価値観と関係なく、民衆にはゆるぎない下世話でしぶとくも誇りある民衆の世界があるのだ。
――案外と、現在のウクライナ戦争が続くロシアの田舎の庶民にも、プーチンを冷めた目で見ている面従腹背の人間は少なくないのではないか。またプーチンも、そんなタフで地道なロシアの民衆を味方に引き込みたいからこそ、必死にEUとアメリカの文化堕落(反キリスト教的なLGBTだの)とか、ネオナチの脅威やらを説いているのではないか。

■2.『まんが道』藤子不二雄A(https://www.amazon.co.jp/dp/4120015203)
春先に月に豊島区のトキワ荘ミュージアムを見に行き、無性に本作が読みたくなって中野区立図書館とまんだらけでゲットしたら、直後に作者の訃報が。
藤本弘(藤子・F・不二雄)はついぞ思春期的なテーマの長編を描かなかったが、安孫子 素雄(藤子不二雄A)は本作と『少年時代』という大傑作を残した。ひょっとして藤本弘の最大の業績は、相方に劣等感を与えたことではないか? 安孫子はそれをバネに大きく成長した。小学生の頃は会社員を三日でやめた藤本はさすが天才、新聞社に一年以上務めた安孫子は凡人だなあと思ってたけど、いやその新聞社時代の下積み経験が重要なのだ。周囲の目立たぬ大人からも学ぶべき点はいくらでもあったりする。
本作は史実そのままではないが、それでも貴重な歴史民俗資料といえる。劇中の満賀と才野(as安孫子と藤本)は、高校時代から大量に映画を観ているが、圧倒的に西部劇ファンだった。西部劇漫画も大量に描いたし、『ドラえもん』でのび太が射撃の達人なのはその名残だ。一方、時代劇を観ることはほとんどなく、時代劇漫画は苦手だとハッキリ書いてる。これは『まんが道』の劇中が戦後の占領期(1946~1951年)と重なるのと無縁ではない。当時、GHQは仇討ち物を中心に時代劇を制限し、アメリカ的価値観の宣伝手段として西部劇をはじめとするハリウッド映画を広めた。これに対し、手塚治虫(1928年生まれ)は日本の歴史物も大量に描いてる。安孫子と手塚の年齢差はたった6歳。それでも、戦前と戦後、富山県の高岡と兵庫県の宝塚という文化環境の差は大きかったのだろう。

■3.『資本論』カール・マルクス(https://www.amazon.co.jp/dp/4003412516/)
本年、仕事のため読んだ本で一番印象深かった一冊。マルクスは本書の前に『共産党宣言』で、人類の歴史はすべて階級闘争の歴史だとトヤ顔で書いた。これを真に受けたマルクス主義歴史学(階級闘争史観)は、今ではさんざん叩かれてる。実際、人類の歴史は常に被抑圧階級が悪い権力者を打倒してバンザイというパターンばかりではないし、本当に時代が進むにつれて世の中が良くなってるのかはビミョーだ。
だが、『資本論』第1巻の第24章(ここは経済学ではなく歴史の話)を読めば、当のマルクス自身、王侯貴族の封建的な土地支配が崩壊したり、産業革命で科学技術が向上しても民衆の待遇はちっとも良くなってない。むしろ農地という生産手段を失い、自分の労働力しか売る物がない身分に転落してますます貧乏になってると、進歩の問題点を力説してる。マルクス主義歴史学の人たちは、ここをきちんと読んだのか? と言いたい。
近代以前の農村は自給自足が基本だから、みんな自分が栽培した米や麦、自作の味噌や蓑笠やわらじを使ってた。ところが、資本主義(商品生産社会)になったら、みんな工場で作ったものを買わないといけなくなった。
マルクスはそのように、すでに資本主義が「自分が作ったものを自分が所有する」という私有のあり方を破壊してる、だったら究極的には私有財産制がなくなるんじゃねえの、と言ってるのであって、これは資本主義が招いたボケに対するノリツッコミなのである!

■4.『鎌倉殿の13人』脚本:三谷幸喜(https://www.nhk.or.jp/kamakura13/)
本作については多くのことが語られているが、粗野で陽気な坂東武士がそのまま内ゲバ粛清地獄になる展開に説得力が溢れてるのが怖い(史実通り)。日本人は昔から平和的で国家に忠実だったとか大ウソ。武士とか公家とかの身分と地域、さらに「××家」という一族郎党こそが帰属意識の基盤で、郎党のため必要となれば昨日までの仲間だって天皇だって平気で裏切る――それが中世クオリティ。近代の途中までの村社会もそんなもんっすよ。
そして、小栗旬の演じる北条泰時がある時期から冷酷な独裁者と化すのではなく、だんだん狂気に陥ってく積み重ねが怖い。西田敏行の後白河法皇は『仁義なき戦い』の山守の親分そのまんまだ(これも史実通り)、北条政子役の小池栄子の台詞外の演技も目を見張る。源頼朝の死後に尼僧姿で泣く場面では、涙は少しでもちゃんと鼻の頭が赤かった。

■5.『タコピーの原罪』タイザン5(https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496638370192)
すごく久しぶりに「本物の子供目線の物語」を読んだ印象。たとえば新海誠の映画とか、十代の少年少女の心理をじっくり描こうとする作品は多いが、思春期の少年少女の自意識だけで話が閉じてるものは面白くない。本作ははっきり「大人や世界に対する無力感」が描かれてる、これが重要。だって現実の子供は、世界が学校と家だけで本当に狭いし、親は選べないし、大人の前じゃまったく選択肢がないぞ。子供の目線では、本当に運の悪い偶然だけの組み合わせとしか思えない事態だってある。さらに、子供だけで何かを解決できると思っても悲惨なことにしかならない……本作はそこをじっくり見せている。あとヒロインが学習性無力で弱っちそうだけど別に良い子じゃなく、殺意全開なのがいい。怒れない人間は困る。そして、劇中であっさり人は死ぬし、けっこう怖い内容なのに淡々とした不思議な透明感と、被害者意識だけに偏らない公平な目線。安達哲の漫画『さくらの唄』と、桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の初読時の感じを思い出した。

■6.『アリストテレスとアメリカ・インディアン』ルイス・ハンケ/佐々木昭夫 訳(https://www.amazon.co.jp/dp/4004130638/)
昭和中期の岩波新書のなかでは埋もれた奇書ともいえる一冊。16世紀、南北アメリカ大陸に住む異教徒の先住民も白人キリスト教徒と同じ人間かをめぐって、カトリック教会と神学者ラス・カサスらがくり広げた大論争のお話。
当時の白人植民者の目線は、俗流なろう系異世界ラノベの転生者にそっくりなのに驚く。故郷のヨーロッパでは平民でも新大陸に来れば貴族か騎士様気取りで、新大陸を巨人やドラゴンやユニコーンが住む地と思いながら探検し、現地住民は同じ人間ではないから(異世界ファンタジーでのオークやゴブリンみたいな扱い)何をしてもよいと思ってる。
そんな状況下、ラス・カサスらは人種の平等を説いたが、これは近代的な合理主義による人権思想ではない。「神の前では万人は平等」というキリスト教の考え方を徹底した結果だ。このため、キリスト教以前のギリシャの大哲人アリストテレスだって、異教徒なんだから地獄行きだよとあっさり切り捨てる。こういうのが本物の宗教の強さと怖さだ。

■7.『ふたりのウルトラマン 沖縄本土復帰50年』(https://www.nhk.jp/p/ts/PN3P16XW6Y/episode/te/RYXZ186VWJ/)
 『シン・ウルトラマン』(https://shin-ultraman.jp/)
6月に『シン・ウルトラマン』を観に行って、本当にすごくよくできてるんだが、こんな俺みたいなおっさんオタクが喜ぶネタ満載でいいのかとビミョーな気分になる(本作は初代ウルトラマンの諸要素を巧みなアレンジで再現してたが、劇中の禍特対が禍威獣の研究分析チームであって戦闘は主任務ではないのがポイント。原典の科学特捜隊も本来はそう。斎藤工の演じる主人公の神永が、山本耕史のメフィラス人間体と会話する場面のような、日常的風景とSF的要素の不思議な混在も実相寺昭雄がよくやる演出だった)。
そんななか、本作に乗じてNHKが放送した『ふたりのウルトラマン 沖縄本土復帰50年』が渋かった。ほとんど初代ウルトラマンの原作者と言える脚本家・金城哲夫の挫折は、上原正三の著書『金城哲夫 ウルトラマン島唄』などで語られてる。本作は金城と、円谷プロダクションの監督ながら経営にも関わっていた円谷一の友情と行き違いをメインに描き、最後は金城の死後も多くのヒーロー作品を手掛けた上原の目線で終わる(その上原も2020年に物故した)。1960年代当時、返還前の沖縄は「外国」だった。多くの日本人が愛したウルトラマンは、本土から疎外された異邦人の視点から生まれたのだ。この事実は何度でも語っておく意義がある。

■8.『金魚すくいは金魚にとって救いにはならない』高井守(https://www.amazon.co.jp/dp/B09NRGQWSZ)
高井氏とは興味関心が半分ぐらい重複するが(最初期のコンピュータ史、ベンヤミンやオーウェルら1920~30年代の知識人、東欧や中央アジアのマイナー国史、1960~70年代の特撮などなど)、残り半分はまったく別物だ。それでも、1990年代から勝手に以費塾門弟の兄貴分として仰がせてもらってきた。
氏は堂々と左翼を自称しているが、欺瞞的な大衆性善説は口にしない。自分も含めて人間はくさいしきたない、だからこそ人間は誠実さと公平さを持たなければならないという考え方がうかがえる。このツイート集の多くは、自戒と明るいニヒリズムを下地にしたユーモアが漂う。「みんな自分の自由は好き。他人との平等はきらい。」(2015-3-15)。
人間に虫の良い期待はしないけど、より良くする意志は捨てないって大事。

■9.『月光仮面』(1981年版)原作:川内康範(https://www.allcinema.net/cinema/86044)
長い間映像ソフト化もされず、小学生のとき劇場で見たきりの幻の作品だったが、youtubeに転がってたのを畏友のTwitterから偶然発見。
初見時も感じたがわりと大人向けの作風だ。本作の悪役ニューラブカントリー教団は、社会に不満を抱く若者を集めて自分たちだけの国を作ろうと唱え、その資金を得るため裏で凶悪事件をくり返す。まさに、オウム真理教と赤軍派に、アメリカの人民寺院とブランチ・ダビディアンを足した雰囲気。今にして思えばすごく嫌なリアリティにあふれてる。
劇中では月光仮面が往年のヒーローとして多くの人々に知られているというメタ的設定。月光仮面はオーソドックスなヒーローではなく、教団が秘密裏に強奪した金を横取りして不遇な人々に寄付するなど、一種の劇場型義賊のように描かれる。作品全体のノリも『太陽を盗んだ男』『蘇る金狼』『野獣死すべし』のような同時期のピカレスクアクションっぽい。このへん、若者がシラケ世代などと呼ばれ、真面目な正統派主人公が受けにくくなった1970年代末~80年代初頭の世相を反映した感が強い。
そして、劇中歌の「月光仮面はきみかもしれない」というフレーズが印象的。川内康範は、月光仮面について「けっして主役じゃない、裏方」「正義そのものではない」、だから「正義の味方」だと語っていた(『箆棒な人々』(太田出版)245p)。つまり、正義の実行者はあなたかも知れない、月光仮面はその味方なのだ、というわけだ。

■10.『特別展 きみとロボット』日本科学未来館(https://www.miraikan.jst.go.jp/exhibitions/spexhibition/kimirobo.html)
人型ロボットやドローンばかりでなくサイボーグ義肢の展示も多数。乙武洋匡がみずから被検体に志願した「OTOTAKE PROJECT」で使われた義足の実物も展示されてた。これについては『モノノメ』第2号(https://slowinternet.jp/mononome2/)の記事を当方も少しだけ手伝ってる。『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のスタッフも取材に来たのではないか? あと動力なしのパワードスーツ(着る竹馬だ)が面白かった。

■列外.『人造人間キカイダー』
放送50周年ということで東映特撮youtubeで無料公開を毎週視聴。ある意味で小学生のころ一番熱中した番組(1980年ごろの再放送だったけど)。ほぼ毎回主人公ジローが敵のギル博士の笛の音で乱心、ミツコとマサルの姉弟と父の光明寺博士がすれ違いの大いなるマンネリ。だが、見返りを求めず戦う醜い不良品ロボット・キカイダーの悲壮感はこの時代特有。1970年代当時は、特撮ヒーローだけでなく時代劇も刑事ドラマもこんなんばっか。こういうストイシズムは本当にTVから消えて久しい。
疎外感を抱える異形の怪物的ヒーローは石ノ森章太郎の偉大な発明品だ(Amazon配信の『仮面ライダーBLACKSUN』を邪道とか言ってる奴ぁ素人のニワカ)。これは思春期的な感情で、漫画版でははっきり怪物と人間の一方通行の恋が描かれてる。このモチーフは弟子筋の永井豪『デビルマン』に継がれ、今も『東京喰種』や『チェンソーマン』まで人気だ。それがなぜ1980年代には一度すたれたのか? これは真面目に考える意義がある。

■列外.『仮面ライダー龍騎』
こちらも放送20周年を機に東映特撮youtubeで無料公開。よくできたヒーロー物フォーマットも伝統芸能のように形骸化しては意味がない。この時期の平成ライダーは、仮面ライダーの名だけ冠しつつ従来のヒーローの解体に意欲的だった。見返すと主人公の真司が当初は本当にヒーローらしくない。それが、ノリが軽いようで本音を見せない北岡弁護士(仮面ライダーゾルダ)、「人間はみんなライダーなんだよ」の名言を吐いた強欲社長の高見沢(仮面ライダーベルデ)、責任感も使命感も強固な香川教授(仮面ライダーオルタナティブ)といった大人と対峙しつつ、強い意志の持ち主に成長していく。各々の正義を掲げる者同士の群像劇、巨悪と戦うのではなく並列な関係のドラマが当時は画期的だった。

■列外.『機動戦士ガンダム 水星の魔女』
ガンダムシリーズも、ガンダムの名だけ冠しつつ若手スタッフが自分の作風を試すコンテンツとなって久しい。それでも、古典的な国家間戦争ではない非対称戦争や経済戦争が問題となる21世紀に、えんえんと「地球在住者VS宇宙移民者の独立戦争」の図式をくり返すのはずっと不満があった(富野由悠季自身はとっくにこの図式を卒業してる!)。
そんななか本作は、学園物の皮をかぶりながら。地球在住者の方が差別されるというひっくり返しを初めてやったうえに、国家ではなく企業を敵とする経済バトル(単に敵を倒せばいい武力闘争よりずっと複雑だ)を描いて「おおっ」と目を見張る。
脚本の大河内一楼氏は以前に一度だけゴードギアス本の『クリティカル・ゼロ』(http://www.kisousha.co.jp/geass/)で取材させてもらい、自分と同世代のアニメ関係者の中では少しシンパシーがあるが、キャラクター同士の信頼関係が築かれる過程や、逆に些末なすれ違いの積み重ねを描く手腕にますます磨きがかかってる。『少女革命ウテナ』との対比はさんざん語られてるけど、本作はヒロイン二人が単純な「守る/守られる」関係ではなく、相互的に影響し合ってるのが良い。
で、本作は同性間の関係を描いているからそれだけで素晴らしい(あるいはけしからん)ポリコレ作品だとか、逆にあれは恋愛ではないからダメだとかいう論議があるが、じつにくだらん。「恋愛」でなければならないという考え方こそ臆見では? 単純な男女役割分担ではなく、同性間にも多様な強い絆の関係性(チームメイト、主従、ライバル、戦友…etcetc)があり得るのを描くのが百合とかBLの自由度だろうに。だったら『兵隊やくざ』や『県警対組織暴力』も、同性間の強い絆を描いているからそれだけで素晴らしい(あるいはけしからん)ポリコレ映画なのかよ? これはギャグではないぞ! 実際に男ばかりの関係を描くヤクザ映画を論じてきた春日太一は『俺たちのBL論』を書いてる。

■回顧と展望
父親と母親が死んだ年齢を2で割ると52歳なので、30歳当時はそれぐらいが自分の寿命かなあと考えてた。本年その年齢になったが、どうもまだ死ななそうだ。
12月の頭あまりに喉が痛いので検査に行ったらコロナ陽性が出たが、その前に別のケガ(転んで肩をぶつけた)でアスピリン系の鎮痛剤(ロキソニン)を飲んでたせいか、まったく平熱のまま味覚と嗅覚も異常なく、4日間ぐらい激烈に喉が痛かっただけで終わった。水を飲むのも辛いぐらい喉が痛いので、狂犬病だったらコロナよりヤバいぞと思ったのが恐怖の頂点。そのあとは一週間ぐらい外出できずにだらーっと過ごしてただけ。それで12月まで上映していた4Kリマスター版『王立宇宙軍』を観に行きそびれた。
肩の打撲で抵抗力が落ちてなければ発症してなさそうなのに、そのため処方された鎮痛剤のため症状がほとんどなかったのだから、禍福は糾える縄のごとし。
しかし、こうして50歳過ぎのおっさんが見苦しく自分の生命に執着してる一方、ウクライナでは20代の若者が消耗品のように死んでいる。命の値段が1ルーブル50コペイカぐらい(戦前の日本風に言えば一銭五厘)の感覚。つくづく人間の命の値段は不平等なり。
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たださぼってたと思われると嫌なので本年の仕事の一部を記しておきます。
『マンガでわかる資本論』池田書店(https://www.amazon.co.jp/dp/426215582X/)。マルクスの生涯から、交換価値、金の物神性、ソ連がダメになった理由、ブラック企業経営者側の都合、資本家もまたシステムの奴隷……といった話を説明。監修の的場昭弘先生には、近代以前の商業と近代の資本主義の何が違うか実地によぉーく説明してもらいました。英国では産業革命の前すでに土地から切り離された近代プロレタリアが成立していた! 第三次産業中心の今やどこの国も勤労者の大部分がその状況だ。
『図説日本の城と城下町(3) 江戸城』(https://www.amazon.co.jp/dp/4422201735/)。大名屋敷跡が官庁街になった霞ケ浦、神田川沿いの高低差が町のカラーを分けた内神田とと外神田、徳川家菩提寺のある上野と元は港湾都市だった浅草、江戸時代から学び舎が多かった本郷と小石川などを担当。東京に来て30数年、実地取材のため初めて東京都の東側を自転車で走り回ったら、新宿区の四谷と皇居、上野と秋葉原の近さを実感した。
『復活事典』(https://www.amazon.co.jp/dp/4862556485/)。ここ10数年のあらゆるジャンルのリメイク作品や再ブームを網羅。これは映画やアニメや1980年代シティポップや競馬ブームだけではない。ファッションじゃ黒髪も復活したし、パワースポットめぐりは江戸時代の寺社参詣の復活だ。上皇も200年ぶりに復活したしね。
『分離・合併事典』(https://www.amazon.co.jp/dp/486255671X/)。こちらはあらゆる分野の「系統図」を網羅。犬の品種、映画ジャンル、ジオン公国から腐るほど多いネオジオン系組織、JRグループ、自民党の派閥、右翼、左翼団体に源氏、平氏、さらには原始人から縄文人と弥生人まで。今の生物学では鳥と爬虫類は同一の分類なんやぞ。
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本年の収穫物と体験の総論めいたことを偉そうに述べると、確かに世の中は生存競争ではあるけど、現実には武力で敵を倒すより、好きでもないものといかにダラダラと共存するかの方がよほど大変なのだ。ウイルスでも隣国でも家族でも元首相でも、ただ殺せばいいなんて単純なものじゃない。ま、「俺はあいつ嫌いだ」ぐらいはハッキリ言いますけどね。
というわけで当方はまだ生きるつもりなので皆様よいお年を。

我々はなぜ統一教会が嫌いなのか

近代合理主義者と化した保守

安倍晋三暗殺事件をきっかけに統一教会(世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ、反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者のひろゆきと山本一郎なのは興味深い
一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的に1970年代生まれ以下の世代は、保守や愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。
無論、1970年代生まれ以下の世代でも立場はさまざまだ。
東浩紀(1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会の擁護というより、スターリニズムや連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダンの思考を原理主義的なドグマにしてしまった模様。
一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会と利害関係があるらしい。
https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12
http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html
東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的に統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。
今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国、中国、民主党だけでなく、森喜朗に代表される体育会系、マッチョ価値観の自民党重鎮も不人気で、平然と皇室をコケにする書き込みだって多数あった。非合理的な宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係を肯定する主張は評判が悪かった。
かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難が自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか。
ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国、韓国は儒教国家だからダメだ」と言う人間が少なくない。お笑い草である。戦前までの日本だって支配階級の基本思想は儒教だった。幕末に尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代に朱子学が普及して、「幕府が天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇の教育係の元田永孚は西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教的価値観の産物だ。
だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想の日本は、最初から西洋的価値観の近代国家だったらしい。彼らには古代中世の日本の伝統的価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌や能楽や歌舞伎や浄瑠璃より、漫画やアニメやゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽の予算を削減しようとしてたな。
「保守・愛国を唱えながら近代合理主義で何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代人から見れば非合理な考え方に従っていた古代や中世の人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去の時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去の世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄だから天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。
そうなれば、単に力(財力、権力、情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵やワタミが大統領になったら本当にイヤだぞ。

共産主義も統一教会も環境の産物

統一教会は2015年に世界平和統一家庭連合と改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。
https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808
つまり、統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威や先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的に山上徹也個人の家庭を破壊した。
『週刊文春』7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三を暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力で自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年の秋葉原通り魔事件や、2019年の京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったかの説明が抜けている。
リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも、伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家は個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段を継承するために血統の存続が重視され、先祖からの連続性が意識されていた。漁村も商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。
ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口は都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供は家族から切り離され、父親も母親も子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界の歴史 第25巻』(中央公論社)270p)
統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想が伝統的な家族観を破壊した」と主張するが、この解釈は因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果から生まれた思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統的共同体を解体して蒸気機関と工場労働者を世に広めた資本家がいたのである。
逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業を全否定して国民を農村に強制移住させたポル・ポトのカンボジアこそが理想かよ?
先進国では工業化社会がさらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会の要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1)高度経済成長期に中卒や高卒で都市の工場や商店に就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出したわけでなく、家計を支えるためとか経済的理由で就職した者が大部分だ。
そして勤め人は世襲の家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想に関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。
こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家に従属する義理はないから上京以来ろくに親元に帰らない。長男の長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地や家業を持ってるのではないのだから仕方ない。
統一教会のような保守派は、家族が大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造の問題にまったく踏み込めていない。

信者にとってのカルト宗教の魅力とは何か?

困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムかカルト的団体に帰属意識を求める者が増える。
エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教的伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀末から1930年代に昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。
統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者の気持ちが理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいかに狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。
先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力でどうにもならない事態に直面していきなりオカルトや宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルのスティーブ・ジョブスのような英才も、最期は近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、非合理的なものへの免疫をつけておくこと必要だ。
そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営の団体も同じだ。
こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いかに社会制度が近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。
あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場の第三者に一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。
これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的に洗脳する側に忖度するように”誘導”することである(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。
その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初はカップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間の常識だと錯覚したという。
これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。
信者は教祖や教団幹部個人の命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。

思想だけで世の中は動かない

2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代の社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合、統一教会的なるもの――家父長制バンザイのカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。
実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラやパワハラは嫌われ、体罰や理不尽な校則は廃止される方向に進んできた。
ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。
近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホやコンビニやAIやドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働を人件費の安い海外にアウトソーシングしたり国内の視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生の世界では、依然として日本人相手なら許されないパワハラが横行している。
いかに自由平等人権といったリベラルイデオロギーの字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義は古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制は廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスもアメリカも奴隷制を廃止したが、それはリベラルな人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場と比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。
統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なものを嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会が崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観への絶対服従を逃れているのであって、本当に自分の力と意志だけで世の中の非合理を克服したり、独立した個人として生きてるわけではないことは、自覚しておきたい。