私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

もう一人のオッペンハイマー

2024-05-31 10:26:13 | æ—¥è¨˜
 現在のオッペンハイマー論ブームで取り上げられてもよいのに、何故か取り上げられていないオッペンハイマー像は幾らもあります。例えば、ひと頃女流サイエンスフィクション作家として評判だったアーシュラ・K・ルグインの『所有せざる人々』に出てくる物理学者シュヴェックは「オッペンハイマー」なのです。早川書房の文庫本にあるルグイン自身の言葉を引用します:

「おなじくわたしの作品、『所有せざる人々』の始まりも、やはりおなじようにはっきりしていましたが、それがふたたび明確なかたちにまとまるまでは、ひどく混乱した一時期もありました。それもまたひとりの人間から始まりましたが、今回は前のよりもはるかに近くから、非常な鮮明さをもって見た像でした。今度はそれは男性で、科学者、実際は物理学者でした。わたしはその顔をいつもよりずっとはっきりと見ました。痩せた顔、大きな澄んだ目、大きな耳  —— どうやらこれは、子供の頃に見た青年時代のロバート・オッペンハイマーの記憶からきているようです。けれども、そういった視覚的な細部よりもさらにはっきりしていたのは、彼の個性であって、それはこよなく魅力的なものでした  —— 魅力的というのは、炎が蛾にとって、というような意味です。彼はそこに、すぐそこにいました。今度もわたしはそこに近付かなければなりませんでした….  ã€‚」

この先にも、小説の主人公である物理学者シュヴェックについて、作者の、「非常に知的で、それでいて無防備と言えるほど天真爛漫」という措定もあります。これが、もし、オッペンハイマーに対する作家ルグインさんの観察にもつながるとすれば、誠に驚くべき pinpoint sharp な洞察です。

貧しい小国アナレスの優れた物理学者シュヴェックは物質の移送についての画期的な理論を案出します。その理論について大国ウラスの物理学者たちと討論したいと考えて、単身ウラスを訪れますが、シュヴェックを招待したウラスの物理学者たちの真の目的は、シュヴェックの新理論を手に入れて、それを他国の軍事的制覇に使用する事でした。それからシュヴェックの反抗と脱出のドラマが展開するわけです。ネタばらしはやめておきます。

原タイトルの『The Dispossed』は、米国では、普通、北米大陸の先住民、いわゆる、「アメリカン・インディアン」を意味します。アーシュラ・K・ルグインのKは家族の名、Kroeber (クローバー)から来ています。父は Alfred Kroeber、米国の産んだ最高の文化人類学者だと言えましょう。母は Theodora Kroeber、『イシ:北米最後の野生インディアン』(岩波現代文庫)の著者です。とても興味深い内容の本ですのでお勧めします。文化人類学の立場からすれば、イシは一つの標本(スペシメン)だった訳ですが、A.  ã‚¯ãƒ­ãƒ¼ãƒãƒ¼ã¯ã‚¤ã‚·ã‚’一人の良き人間として、一人の友人として扱いました。クローバー教授が、久々のサバティカル・イヤー((安息年の意、研究のために与えられる長期有給休暇)で米国東岸に出掛けていた1916年3月、イシが病を得て亡くなりました。クローバー教授がすぐバークリーの同僚に、イシの死体解剖について、通常の死亡原因確認のための解剖以上の、「標本」としての解剖を決して許さないようにと強い言葉で依頼した手紙の原文が残っています。その中の、私が忘れることの出来ないクローバー教授の発言を以下に紹介します:

As to disposal of the body, I must ask you as my personal representative on the spot in this matter, to yield nothing at all under any circumstances. If there is any talk of the interests of science, say for me that science can go to hell. (もし、学問の為にとか何とか言う向きがあったら、学問なんど糞食らえ、地獄に落ちろ、と、私に代わって、言ってくれ)

学者として何と見上げた素晴らしい言葉ではありませんか! 手紙の前文は以下の記事を見てください:


A. L. クローマーは1876年の生まれ、娘のアーシュラは1927年の生まれ、オッペンハイマーは1904年の生まれ、カリフォルニア大学バークレー校の助教授になったのは1929年、同校の人類学教授のクローマーの話を聞きに、クローマー家を常連の客として訪れていたのです。10歳前後の聡明多感な少女アーシュラもそこに居ました。
 ノーランの映画『オッペンハイマー』には出てきませんが、ピーター・セラーズのオペラ『ドクター・アトミック』にはロスアラモスのオッペンハイマー家のハウスメイドとして北米インディアン女性が出てきます。これは事実であり、また、オッペンハイマーにまつわる空想小説の一つに、北米インディアン男性がロスアラモス研究所所長オッピー暗殺を狙うテロリストを倒すという内容のものもあります。北米インディアンとの繋がりはクローマー家の客間に発していたのかも知れません。

 オッペンハイマーの「愛」は、カミュのそれと同じく、漠然とした人類愛ではなく、個々の隣人に向けられたものであったと考えられます。オッペンハイマーの1960年の日本訪問の写真として、オッペンハイマー夫妻と日本人老夫婦が写った写真が、よく見掛けられます。この御夫婦はオッペンハイマーが愛した教え子の物理学者日下(くさか)周一博士の親御さんで、父親も物理学者でした。日下周一博士については、大阪市立科学館の加藤賢一氏によって詳しいことが調べられ報告されています。次の文献をご覧下さい:
    

この中には書いてありませんが、オッペンハイマーはこの愛弟子にわざわざ米国の軍籍を取らせて陸軍科学研究所に就職させました。オッペンハイマーの意図は、日下周一博士が、敵国人と見做されて、米国内の日本人収容所に送られるのを避けるためであったのです。これは何もオッペンハイマーが戦前から日本人贔屓だったというわけではありません。オッペンハイマーはそういう人間だったといことです。日下周一博士はその後プリンストン大学に転職しますが、この取引には、オッピーの友人の物理学者ユージン・ウィグナーが絡んでいたと私は睨んでいます。

 最近、偶然に、面白い記事を発見しました。THE AMERICAN SCHOLAR ã¨ã„う雑誌の記事です:


タイトルは「The Humanist in the Laboratory(科学研究室の人文主義者)」、著者はMark N. Grant|August 25, 2023 とあります。これは、オッペンハイマーの再再評価と言った内容です。少し読み進むと、映画『オッペンハイマー』はよい映画だが、ロバート・オッペンハイマーの芸術的関心や文化的教養がよく評価されていない、と書いてあります。著者は、11歳、小学校6年生の時、宿題作文として、オッペンハイマーの生涯について書きました。オッペンハイマーの死の3年ほど前の1964年初めのことでした。たまたま、オッペンハイマーを個人的に知っていた人と家族的につながりがあって、その人がオッペンハイマーに少年マークの作文を示してくれました。驚くべき事に、ロバート・オッペンハイマーは少年マーク・グラントに手書きの返事を送りました。「マーク君、・・・」に始まる手紙のフォトを見ると日付は1964年6月4日と判読できます。返事の原文は:

Our neighbor and friend Carl Frank showed me the paper you wrote about me recently. I am grateful to him for showing it to me, and grateful to you for what you have written. It is a good short account of a long life. Your last sentence is right, but only in part. What I wrote to President Kennedy and said to President Johnson was a hope for this country, but not only in science.

最後の所を特に注意して読んでください。ロバート・オッペンハイマーは、喉頭癌でひどく憔悴しながらも、プリンストン高等研究所の所長としての職務を続け、1967年2月18日夕刻、帰宅してベッドに倒れ込んだまま、意識を回復する事なくこの世を去りました。癌の兆候が現顕化し、体力の衰弱を意識する中にあっても、見も知らぬ一小学生に返事の手紙を書き送る、ロバート・オッペンハイマーとはそういう人間でもあったのです。

 因みに、上に紹介したマーク・グラントという人の論考は、近頃話題の生成AIのもたらし得る危機についての論議から始まります。興味のある方はぜひお読み下さい。

藤永茂(2024年5月31日)

カール・ヤスパースのオッペンハイマー批判

2024-05-23 11:32:24 | æ—¥è¨˜
 アルベール・カミュは1842年7月に『異邦人』を刊行し、同年12月に彼の哲学的著作『シーシュポスの神話』を刊行しました。その始めのところで、カミュはカール・ヤスパースの言葉を引用して、人間の存在についてのヤスパースの実存哲学的思考に批判と反抗を試みています。

 ロバート・オッペンハイマーは1904年に生まれ、1967年になくなりました。百年目を記念して、『Reappraising Oppenheimer  Centennial Studies and Reflections』(Edited by Cathryn Carson and David A. Hollinger, 2005) という本が出版されました。タイトル通り、「オッペンハイマーを評価し直す」ことを標榜する学術書的出版物です。2頁の写真を含めて、細字425頁、読み応えは充分ですが、私がその内容に異議を唱える余地も充分あります。私が特に注目する章が三つ、18、14、13 の3章で、第18章は既に取り上げました。第14章は、Charles Thorpeの『The Scientist in Mass Society  J. Robert Oppenheimer and the Postwar Liberal Imagination』と題する本文22頁の論考です。チャールズ・ソープはカリフォルニア大学(サンディエゴ分校)の社会学部の教授。内容は同教授著の『オッペンハイマー 悲劇の知識人』(2006年)に概ね依存しています。この論考のp304に、1959年にC.P.スノーがケンブリッジ大学で行った講演「二つの文化」の自然科学的文化高揚の主張に関連して、同年末に行われた、オッペンハイマーの原爆文明論的発言が取り上げられていますので、その部分を以下にコピーします:

  In contrast to Snow’s call for more science against Oxbridge humanism, Oppenheimer argued that the public culture had been stunned by “overemphasis … of the role of certitude,” based on the prestige of science. This was particularly the case regarding atomic weapons which were now usually addressed in terms of rational-choice models rather than ethics. “What are we think of such a civilization,” Oppenheimer asked, “which has not been able to talk about the prospect of killing almost everybody, except in prudential and game-theoretical terms?”
  It was , however, unclear what position on nuclear weapons Oppenheimer was suggesting as an alternative. The philosopher Karl Jaspers articulated a common complaint  about the difficulty of pinning down Oppenheimer’s ethical and political views. Referring to Oppenheimer’s quasi-religious appeal at the end of “Prospects in the arts and sciences” to “love one another,” Jaspers wrote : “ In such sentences I can see only an escape into sophisticated aestheticism, into phrases that are existentially confusing, seductive, and soporific in relation to reality.”
  Novelist Mary McCarthy took Oppenheimer’s frequent  but vague talk about love as a sign that he finally lost his marbles. Writing to Hannah Arendt about the CCF conference “Progress in Freedom” held in Berlin in June 1960, she said, “Another feature of the Congress was Oppenheimer, who took me out to dinner and is, I discovered, completely and even dangerously mad. Paranoid megalomaniac and sense of divine mission.” At one point, Oppenheimer turned to CCF Secretary General Nicolas Nabokov “and said the Congress was being run ‘without love’. After he had repeated several times, I remarked that I thought the word ‘love’ should be reserved for the relation between the sexes.”

長い原文引用ですが、重要な内容ですので、ネット上で得られる知識や翻訳アプリを使って読んで下さい。CCF (Congress for Cultural Freedom, 文化自由会議)  ã¯ï¼‘950年に西ベルリンで発足した反共文化人団体で、もともと米国のCIAによって創設されていたことが1967年になって暴露されました。オッペンハイマーがソ連のスパイ疑惑で公職追放になったのは1954年4月ですから、その彼をソ蓮共産主義に対する反共運動に動員する米国国家権力というものの強かさを思わざるを得ません。そして、このチャールズ・ソープ教授の文章で一番顕著な事は、「原爆の父」オッペンハイマーが「愛」という無意味な言葉を持ち出して自己の責任を曖昧にしていることに対する批判、あるいは、非難です。こうした場合によく使われる手口は、批判される当人の発言を一部分だけ引用することや有力な有名人の言葉を引用利用することです。以下に、私の反論を述べてみます。

 まず、オッペンハイマーの曖昧な発言の例として引用されている発言ですが、拙著『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(ちくま学芸文庫)の313頁から、もっと詳しく長い発言の内容を書き写します:
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一九五九年、スイスのラインフェルデンで行った講演の中で、オッペンハイマーは、水爆とミサイルの開発に狂奔する祖国アメリカを次のように論じている。「核兵器の問題について高貴で厳粛な倫理的議論が行われていなという事実の前で私は深く苦悩する。たしかに、これまで、抜け目のない議論(prudent discussion) 、戦略論、ゲーム理論ならばたくさんあった。… ほとんど全ての人間を殺戮し尽くす可能性を論ずる時、計算高い、ゲーム理論の言葉で (in prudential and game-theoretic terms) しか語れないでいる我々の文明 (civilization) を、我々は何と考えればよいのか。悪いことをした敵に対してだけ使うのであれば原爆水爆もどうということはないという見解を、西側、特に我が国が表明した全ての場合に、我々は誤りを犯してきたのである。第二次世界大戦における戦略爆撃作戦 — これこそがこの大戦の全面的特徴であった — から歴史的に結果した良心の痛みの喪失こそ、世界の自由、人間の自由の促進の重大な障害となっているのである。
********
ここには、一片の曖昧さもありません。今、現在の戦乱の世界の空にも響き渡るべき喫緊の警鐘です。オッペンハイマーが人間の持つ悪しき意味での prudence  ã‚’如何に忌み嫌ったかも、はっきりと読み取れます。この言葉がオッペンハイマーという謎(私は謎とは思いませんが)を解くキーワードだとすれば、メアリー・マッカーシーはこれを知らなかったので、謎を間違えて解いた、あるいは、全く解き損ねたことになります。作家メアリー・マッカーシーがハンナ・アーレントに書き送った手紙の中の lose one’s marbles とは「気が狂う」「頭がおかしくなる」という意味です。この手紙の調子は品位に欠けていると思います。

 オッペンハイマーがCCFで頻発したとされる「愛(love)」という言葉について、興味深い文献を見つけました。1960年9月21日に、東京文京区公会堂で行われたオッペンハイマーの『科学時代における文明の将来』と題する講演内容の記録(日本語訳)です。安保闘争最中の事でした。講演の始めに妙な発言があります:「私の講演の題目は「文明の将来」というのでありますが、これは私がつけた題ではありません。私はこの言葉を気安く使いません。と申しますのは、私は、私の国や日本の同僚の多くと同じように、この将来なるものの存在そのことに深い疑いを抱いているものであるからです。」 これは妙な発言です。一体、誰がつけた題目なのでしょうか?何しろ、オッペンハイマーの訪日と重なって、時の米国国務長官キッシンジャーも訪日していたのですから。講演の全文(日本語訳)は次のサイトにあります:


今、私が特に着目するのは、このオッペンハイマーの講演の結びの部分です:

「 我々には責任が、歴 史に対する、他 の人間に対す る責任があります。こ れは我々に不可避的に課せられた条件です。我 々の役割は、一 つには平和を維持できるよ うに、今 一つには、そ れなくては本当の入間であるとは言えない倫理的義務 ともっと完全 に適合す るように、社 会 や人間 の諸制度 を作 り変 えることです。この目的のためには、ま ずお互いの問で忍耐強く、又、軽蔑 を交 えないで話 し合 うことを学 ばねばな りません。そ して 、人の話 に耳 を傾 け ることを学ぶ必要があ ります。
この現代世界、絶 えず変化し、前例のない新しさに満 ち、理 解するのに困難な、全 く変化した生活をいとなみ、 ものが もっと単純 で身近か であった時代 に深い郷愁 を感じさせる世界にある我々には、二 重の責務があります。その一つは,各 々の仕事にはげみ、技 倆を保ち、能 力の許すかぎりで最上の専門家となることです。こ れは我々 が専門的技術者 として又一箇 の人間 として生 きる為 であり、こ れによって我々の知的な誠実さが保たれるのです。他方又、我 々は自分のよく知らぬ物ごとにも、寛容と友 情を以って接し、友人或いは他人の言うことに全力をあ げて耳を傾けることが必要です。こ の二重の責務を果すことはたやすいものではありません。もしそれができるとすればそれは、単に知的であるにとどまらぬもの、即ち、愛と友情と同胞愛によってであります。」

 この最後の結びの言葉「愛と友情と同胞愛」に、私は強く心を惹かれます。これはアルベール・カミュが生涯をかけて求め続けた「愛」と同じものだと、私には思えてならないのです。カミュにとって、まださやかでない「愛」はカミュの手帳の第5冊(1945年9月ー1948年4月)に現れます:

「反抗。死刑に関する第一章。同じく。終末。したがって、不条理から出発すれば、到着地点が何であれ、必ずなにかしらの愛の体験 — それをこれから定義しなければならないが — に行き着く。」(大久保敏彦訳「カミュの手帳」、頁295)
仏原語:「Revolte. ….. Ainsi, parti de l’absurde, il n’est pas possible de vivre la révolte sans aboutir en quelque point que ce soit a une experience de l’amour qui reste a definir.」

この「愛」を主題とした小説『最初の人間』は、1960年1月4日のカミュの突然の自動車事故死によって、未完原稿の形で残され、それから30余年後の1994年に刊行されました。しかし、それより前に、他の著作を通して、カミュの言う未定義の「愛」の意味はほぼ明らかになっていたと言えると私は考えます。そして、上述のように、オッペンハイマーが一種のもどかしさを伴って繰り返した「愛」という言葉も、本質的に、カミュが求めた人間と人間との真の連帯を意味していたと私は考えます。しかし、このことの詳しい説明は他日を期する事にして、カール・ヤスパースのオッペンハイマー批判に戻ります。

 カール・ヤスパースには、『Die Atombombe und die Zukunft des Menschen』(「原子爆弾と人類の将来」、1958年)という著作があり、今、私の手元にはその英訳本(シカゴ大学出版、1963年)があります。そのp201からp202にかけて、多くの物理学者が、「人類が新しい考え方をしなければ、将来は無い」と考えている事を指摘し、オッペンハイマーの恩師マックス・ボルンの発言を引いているので、その部分をコピーします:

Max Born, for example, sees the same way ahead as Einstein: the complete abolition of war and a power-free politics. “Today,” he says, “we do not have much time left; it is up to our generation to succeed in thinking differently. If we fail, the days of civilized humanity are numbered.”
We hear different language from a scientist like Oppenheimer, whom Jungk quotes as talking of “beauty,” of  “our faculty of seeing it in remote, strange, unfamiliar places,” of paths that “maintain existence in a great, open, windy world …. This is the premise of man, and on these terms we can help, because we love one another.” In such sentences I can see only an escape into sophisticated aestheticism, into phrases that are existentially confusing, seductive, and soporific in relation to reality.  In another direction, Wolfgang Pauli pointed to a long-neglected “inner road to salvation.”….

これがチャールズ・ソープのカール・ヤスパースからの引用の原文です。自分が展開したい論旨に基づいて、恣意的に原文がカットされている典型的な例と言えましょう。ヤスパースの原著ではオッペンハイマーに対する批判に続いて彼の師匠のパウリも槍玉に挙げられているのも興味深いところです。soporific は、辞書を見ると、「眠気を誘うような、催眠性の」と出ています。
 上に名前が挙がっているマックス・ボルンはゲッティンゲン大学でのオッペンハイマーの師ですが、それについて興味深い話があります。 ロスアラモスの後、オッペンハイマーはプリンストン高等研究所の所長になりましたが、ボルンは一度も招待されませんでした。オッペンハイマーをはじめとするボルンの昔の教え子たちが核兵器の開発に参加した事にボルンが批判的であったことがその理由だろうとボルンは考えていたようですが、そのボルンが晩年のオッペンハイマーに手紙を送って、政治家たちの冷笑と大衆の無関心に挑戦し、他の科学者たちが責任回避を試みる難問に立ち向かったオッペンハイマーを称揚したことがありました。オッペンハイマーはその恩師からの手紙に、心を込めた礼状を送りました:「私は、これまで私がしたことの大きな部分をあなたが容認しておられないように感じていました。あなたのお気持ちを、私はいまあなたと共にしています」
マックス・ボルンは人間としても奥の深い物理学者でしたから、人間としていささか出来そこないのこの弟子に、暖かな理解を持っていたのでしょう。

ロベルト・ユンクも反戦、反核に徹した誠に尊敬すべき論客でしたが、彼の名著『千の太陽よりも明るく: 原爆を造った科学者たち』の中のオッペンハイマー観には重大な偏向があります。それは、ユンクが、例の問題の男ハーコン・シュヴァリエー (Haakon Chevalier) から直々に聞いた話に基づいているからです。ハーコン・シュヴァリエーについてはここでは論じますまい。もしこの人物に本格的興味をお持ちの方は、ぜひ、次の二書を読んでから、この人物に対する判断を下していただきたいと思います;
*THE MAN WHO WOULD BE GOD (G.P. Putnam’s Sons  New York, 1959)
*OPPENHEIMER  The Story of a Friendship ( George Brazier  New York, 1965) 
ヤスパースのオッペンハイマー批判がハーコン・シュヴァリエーの言に依存していたとなれば、ヤスパースの批判の姿勢が、したがって、ソープの批判が的を外れたものであった事になります。
 現在、ノーランの映画『オッペンハイマー』上映を機に、無数の一過性コメントが世に氾濫していますが、もっと腰を入れたオッペンハイマー論が、日本で、生まれて欲しいものです。上に掲げたハーコン・シュヴァリエーの二冊の著作は、日本国内では入手し難いかもしれませんが、ご希望の方がおいでであれば、喜んでお貸し致しします。

藤永茂(2024年5月23日)

ジョン・エルスの2023年の映画の日本語版がNHKで

2024-05-15 11:47:54 | æ—¥è¨˜
 これは臨時のお知らせです。前回に紹介したジョン・エルスの『To End All War   Oppenheimer & the Atomic Bomb』の日本語版が今(昨晩と今晩)NHKのBS1で放映されています。
 ここには、「オッペンハイマー」を越えて、「ドキュメンタリー映画とは何か」という大きな問題が提出されています。

藤永茂(2024年5月15日)

再び、オッペンハイマー現象を問う

2024-05-13 09:38:58 | æ—¥è¨˜
 ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』の公開を機に、「オッペンハイマー産業(インダストリー)」と呼ぶにふさわしい営利活動が目につきます。私も、1995年出版の旧著の売れ行きが伸びてご利益に与る始末です。
                             
 ロバート・オッペンハイマーは1904年に生まれ、1967年になくなりました。百年目を記念して、『Reappraising Oppenheimer  Centennial Studies and Reflections』(Edited by Cathryn Carson and David A. Hollinger, 2005) という本が出版されました。タイトル通り、「オッペンハイマーを評価し直す」ことを標榜する学術書的出版物です。2頁の写真を含めて、細字425頁。私が特に注目する章が三つ、18、14、13の3章です。
 第18章は「映画のオッペンハイマー」と題して、ジョン・エルス(Jon Else) という米国の著名なドキュメンタリー映画製作者の談話を中心とした記事で、ノーラン監督の『オッペンハイマー』を論じる人々に読んで、そして、良く考えて欲しい内容です。ジョン・エルスが制作した『The Day After Trinity』(1981年)は有名で、現在もYouTube で見ることが出来ます: 


ジョン・エルスは、昨年(2023年)、『To End All War   Oppenheimer & the Atomic Bomb』という魅力的なタイトルの映画を作りました。これも主題はオッペンハイマーです:


なかなか貴重な記録映像も多数含まれていて見応えはあります。ジョン・エルスは、ノーランの『オッペンハイマー』を見て、そのドキュメンタリー版を作りたくなったのでしょう。上に掲げたサイトで見ることが出来るバージョンは広告をかき分けながら見なければなりませんが、辛抱して観てみて下さい。ノーランさんもコメンテーターの一人として出て来ます。ジョン・エルスさんの作るドキュメンタリー映画、いや、ドキュメンタリーとは一体何か、という問題について、映画の通人たちに考えてほしいと思います。オッペンハイマーという個人について、ジョン・エルスはノーランよりは好意的ですが、私なりに、この映画の中核のメッセージを摘出すれば、「原爆とはこんなに酷いものだがら、戦争をやめよう」と人間たちが悟るように、オッペンハイマーは広島、長崎への原爆投下を進言した」ということになります。これは真実ではないと私は思います。しかし、繰り返して、この映画を観ているうちに、何故、米国人が、これほどまでに「オッペンハイマー」に固執するのか、大変、気掛かりになって来ました。つまり、私の言葉で言えば、「オッペンハイマー現象とは何か?」という疑問です。
 このブログ記事の冒頭に掲げた「オッペンハイマーを評価し直す」ことを標榜する学術書的出版物の第18章「Oppenheimer in Film  A Transcript」はジョン・エルス自作の『The Day After Trinity』を中心に極めて興味深い議論が数人の討論参加者の間でなされていますが、私は、とりわけ、ジョン・エルスの次の発言(p381~p382)に興味を持ちました。今までのオッペンハイマー映画像はどうも冴えないというのです:

Jon Else: In film so far  we’ve had some less-than-Faustian, somewhat smaller-than life Oppenheimers―in Fat Man and Little boy, and BBC series. It is partly because the scripts have been a bit pedestrian, and partly because we haven’t yet a really great actor in the role.・・・・I’m thinking of someone on the scale of Jack Nicholson or Marlon Brando―because you need a great actor as well as a great script.・・・・
Theres another irony with Oppenheimer. We talked about being so charismatic and bristling with attraction. But if you look at the real Oppenheimer on film―he’s just not very charismatic on film, surprisingly.The affect is sort of flat. So newsreel footage is obviously not the answer. And that is one of the reasons we kept him off screen, by the way. He wasn’t quite ready for prime time.

 ジャック・ニコルソンとかマーロン・ブランドといったクラスの俳優が映画でオッペンハイマーを演じるべきだ、ですって!正直なところ、私はエルスさんやノーランさんに向かって、「What you really want from Oppenheimer !?」と叫びたくなります。我々は、ドラマタイズされていない、本当の、悩みも、思い上がりも、愚かしさも備え持った一人の人間、一人の物理学者、ロバート・オッペンハイマーをこそ知らなければなりません。ジョン・エルスの2023年の映画の中で、アインシュタインはオッペンハイマーを”fool”と呼びます。聴聞会で追い詰められたオッペンハイマーは自らを”idiot”と認めます。

話がついつい長くなって、なかなかロベール・カミュとの共通点までたどり着けませんが、次回こそ、その議論をいたします。

藤永茂(2024年5月13日)

オッペンハイマーとパウリ

2024-05-02 10:30:08 | æ—¥è¨˜
 敗戦の1945年から4年後の1949年に湯川秀樹博士が日本人として初のノーベル物理学賞を受賞しました。敗戦後の日本国内を大いに元気付けたニュースでした。1952年4月には湯川記念館(正式名称は京都大学基礎物理学研究所)が設立され、1953年9月には湯川博士を会長として、国際理論物理学会議が京都と東京を中心に開催されました。 ウィキペディアには、日本初の国際会議とあります。ウィキペディアの記事に挙げられている参加者リストは不十分で、より詳しい資料は山口嘉夫博士による次の記事にあります:

海外からの出席者の選定は小谷正雄先生を中心に行われました。既によく名を知られた学者たちだけでなく中堅や若手も含まれていましたが、会議開催の時点でノーベル賞受賞者は一人もいなかったのに、会議後に、その参加者の中から15人ものノーベル賞受賞者が出ました。小谷先生たちの鑑識眼の鋭さ高さを物語っています。
 この画期的な国際会議の当時、私は九州大学理学部物理の大学院特別研究生、有象無象の出席者の一人として湯川記念館に赴きました。当時の記憶で一番はっきり残っているのは、「泉屋のラスク」です。参加者には泉屋のクッキーの小箱が配られたのですが、田舎出の貧乏書生、「泉屋」も「ラスク」も知りませんでした。「こんな美味しい結構なものがあるのか!!」
 
 ところで、おかしな噂話が会場で飛び交いました、「ヴォルフガング・パウリが参加しようとしたが、湯川さんがノーと言ったらしい。湯川さんが彼の非局所場理論の第一報の講演をプリンストンでしたら、そこに居合わせたパウリが「第二報は永久に出ないだろう」とこき下ろしたことがあったのを湯川さんが根に持ったからだ」というものでした。ハイゼンベルグもボルンも呼ばれなかったのですから、この噂は根も葉もないことだったのでしょうが、パウリという人のこうした傍若無人ぶりは、物理屋の間では有名なものでした。
 
 オッペンハイマーがどのような人間であったかを判じるのに、彼とパウリとの美しい関係を知ることは極めて重要、それに関連する面白い逸話を紹介しましょう。拙著『オッペンハイマー』(ちくま文庫、88頁~)からの転載です。

 W.ファリー(Wendell Furry, 1907-1984)はハーバード大学の教授として重きをなした理論物理学者ですが、彼が、イリノイ大学で博士号を取得する前年の1931年、ミシガン大学で開催中の理論物理学国際夏の学校に出席しました。講師としては、海外からゾンマーフェルト、クラマース、パウリという大物が選ばれ、米国人はオッペンハイマー一人だけでした。オッペンハイマーがディラックの相対性電子理論の話をしていると、突然パウリが立ち上がって、黒板の前に進み出てオッペンハイマーの話をさえぎり、「いやいや、そんな話は全部まちがいだ」と叫びました。(黒板に書いてあった数式を消してしまったという説もあります。)オッペンハイマーも負けていませんでした。クラマースが中に入って、やっと騒ぎがおさまり、パウリは元の席に戻ったのでした。天下のパウリを相手に堂々と応酬するオッペンハイマーの勇姿がファリーの心に焼き付き、元々は、イリノイで博士号取得してポストドック奨学金を手に入れるとハーバード大学で研究生活を始めるつもりでしたが、結局、オッペンハイマーの居る西のバークレーに行き先を変えたのでした。
 
 オッペンハイマーがパウリの毒舌に傷つけられなかったのには深い理由がありました。話を数年前に戻します。1927年夏、ヨーロッパから帰国して、カリフォルニアで就職したオッペンハイマーでしたが、物理学者としてさらなる研鑽を求めて、1929年1月にはスイス、チューリッヒのパウリのもとに行きます。滞在は僅か半年でしたが、得たものは莫大でした。オッペンハイマーは、晩年、次のように回想しています:「それは実に身の為になった期間だった。私は極端なまでにパウリに尊敬の念を抱いたばかりでなく、しんそこ彼が好きになり、彼から多くのことを学んだ。・・・・パウリと過ごした時間は、ただただこの上もなく素晴らしいものに思えたのだった」

 ヴォルフガング・パウリについてもっと知りたい方は次のサイトをご覧になって下さい:

生涯の終わりまでオッペンハイマーの心の友であったイシドール・ラビとの親交は二人がチューリッヒのパウリのもとで研究に従事した時に始まりました。ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』でもラビは大きな役割を担っていますが、二人の出会いは事実と異なり、パウリは出てきません。

オッペンハイマーが亡くなった直後、ラビを中心に編集されたオッペンハイマーについての本が出版されました:
『OPPENHEIMER』(Charles Scribner’s Sons・New York, 1968)
古い本ですので、入手しにくいでしょうが、オッペンハイマーに本格的に興味を持った人には一見をお勧めします。ラビが6頁に及ぶ序文を書いています。その中に、オッペンハイマーとパウリのことも出てきます。ロバート・サーバーの文章も必見です。その中には、オッペンハイマーが愛した日本人物理学者日下周一の名も出てきます。「オッペンハイマーは原爆の父ではなく産婆さんだ」と私は思っていますが、それをサポートしてくれるヴィクター・ワイスコップの言葉もあります。ロスアラモスでのオッペンハイマーの役割について「It was not that he contributed so many ideas or suggestions; he did so sometimes, but his main influence came from his continuous and intense presence」(25p)とワイスコップは書いています。

 ãƒ­ãƒãƒ¼ãƒˆãƒ»ã‚ªãƒƒãƒšãƒ³ãƒã‚¤ãƒžãƒ¼ãŒã©ã‚“な人であったか、その答えの一つは、彼とその教え子の日下周一との関係を知ることから得られます。オッペンハイマーにとっては人間と人間との関係が何よりも大切であったのだと私は思っています。

 前回のブログ記事で末尾に「私は、ロバート・オッペンハイマーとアルベール・カミュには重要な共通点があると考え始めています。次の記事でそのことを論じます」と書きましたが、次回に先送りします。

藤永茂(2024年5月2日)