私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

オバマ氏の正体見たり(1)

2008-06-25 10:26:40 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 2008年2月27日付けの『オバマ現象/アメリカの悲劇(1)』に始まるシリーズ4回、3月26日付けの『ライト牧師は正しいことを言った(1)』に始まるシリーズ4回、それに4月30日付けの『人種についての二つの講演』と、合計9回のブログでバラク・オバマ氏のことを取り上げました。随分と書いたものです。その頃は、民主党大統領候補指名をめぐってクリントンとオバマの間で熾烈な争いが進行中でしたが、6月初めには、オバマの勝利が確定しました。その間、オバマの色々の発言があり、行動があり、また、それらについて、多数の論客たちが多様なコメントを行って来ましたが、「オバマ現象」とオバマ氏その人についての私の考えは、2月以降、何らの修正、訂正も必要としなかったばかりか、むしろ悲しい確信のようなものに成長してしまったようです。
 『オバマ現象/アメリカの悲劇(1)』で私は次にように書きました。:
■「オバマ現象」は、ごく荒っぽく捉えれば、白人アメリカの「集団ナルシシズム」と表現できるかもしれません。しかし、この表し方には、致命的な誤りがあります。神話のナルシスは水面に映る自らの美しい容姿に恋いこがれて死に至りますが、白人アメリカが本当の自分の美しい姿を映していると信じ込んでいる鏡は、実は、悪魔がかざす魔の鏡であり、そこに映っているのはアメリカの本当の姿ではありません。喩えが安っぽくなり過ぎましたが、「オバマ現象」がアメリカを死に至らしめる病となる可能性は、やはり、否めません。「オバマ現象」は白人アメリカがバラク・オバマを待ちに待ったメシアとして熱狂的に迎えている現象ではなく、黒人の男をアメリカ合衆国大統領として擁立しようと熱心に努力する自分たちの姿こそ、アメリカ白人の心の正しさ、寛容さ、美しさを映すものであるとする自己陶酔、自己欺瞞こそが「オバマ現象」の真髄である--これが私の言いたい所なのです。■
ちょっと気障な言い回しでしたが、『オバマ現象/アメリカの悲劇』のシリーズでその真意の説明に努力したつもりです。白人アメリカが信じている、あるいは、信じたいと思っているアメリカの姿は多くの忘却の上に立つ偽りの歴史にもとづくものであります。4月30日のブログ『人種についての二つの講演』には、
■アメリカの悲劇は、アメリカ人が「God bless America 」と信じ続ける事にあります。「アメリカは、アメリカ人は、もともと、神の祝福を受けた、素晴らしい國であり、素晴らしくも善き人間たちである」という信仰が続く限り、アメリカの悲劇、そして、世界の悲劇は続きます。バラク・オバマの選挙戦略の礎石はこの信仰、Robert N. Bellah がいみじくも“The American Civil Religion”と名付けたものに他なりません。■
とも書きました。この強固な“アメリカ民間宗教”が健在であるかぎり、アメリカがヒロシマ・ナガサキで何をしたかを、白人アメリカが理解することは絶対にありえません。その同じ宗教が大統領候補バラク.オバマの人気を支えているのです。
 オバマ氏個人については、■その昔、バート・ランキャスター主演の『エルマー・ガントリー』というハリウッド映画がありました。エルマー・ガントリーは弁舌まことにスムースな天才的宣教師でしたが、神を信じてはいませんでした。私にはこのエルマー・ガントリーとバラク・オバマが重なって見えて仕方がありません。■と書きました。この意地悪な私のオバマ観もますます信憑性を増しています。聴衆の無知や恐れや願望に狙いを定めて、そのスピーチに巧みな嘘を織り込む手腕の見事さ、スーパーコンピューターも顔負けの政治的計算の素早さと的確さ、オバマ氏の頭脳の明敏さには驚くべきものがあります。
 オバマ氏の正体を見定めるのに決定的に重要な二つの講演が最近なされました。一つは、5月23日マイアミのCANF (Cuban American National Foundation:キューバ系アメリカ人中央財団?)の集会で、もう一つは、6月4日首都ワシントンのAIPAC (American Israel Public Affairs Committee、イスラエルの利益を代表する超強力なロビー(政治的圧力団体)として有名です。) の年会で、オバマ氏が行った講演です。この二つの講演、実に実に興味深いものです。オバマ氏がアメリカ合州国大統領となった暁には、アメリカのみならず、全世界の命運をも決するような恐るべき内容なのですから。
 今回は、まず、マイアミでの講演を取り上げます。ウィキペディアにはCANFが、冒頭にずばり,次のように定義してあります。
■The Cuban American National Foundation (CANF) is a non-profit organization dedicated to overthrowing the Cuban government of Fidel Castro and a transition to a pluralistic, market-based democracy in Cuba. (CANFはフィデル・カストロのキューバ政府の転覆をもっぱらの目的とするNPOである。)■
というわけで、CANFが過去にカストロの暗殺を企て、キューバにテロ攻撃を仕掛けたことも幾度もあったようです。今度のオバマの講演を取り仕切ったCANF会長のホセ・エルナンデスも、ベネゼラア訪問中のカストロの暗殺計画に直接関与していたと考えられています。1959年のキューバ革命の成功以来、カストロは無数の暗殺の企てを、今日まで、奇跡的にかいくぐって生きのびて来た男です。
 5月23日のCANFでのオバマ講演は、そのトランスクリプトを読むと、長い時間をかけた濃厚な内容のものであることが分かります。対キューバ政策だけではなく、彼が大統領となった場合の、彼の中南米政策の全体を表明したものです。全文はオバマの公式ウェブサイトで読むことが出来ます。話は、如何にもオバマ調の歴史のごまかしから始まります。米国と中南米の間には歴史的に親密なきずな(bonds)があって、■ These bonds are built on a foundation of shared history in our hemisphere. Colonized by empires, we share stories of liberation.(これらのきずなは我らの半球で共有された歴史という礎石の上に築かれている。)■とオバマは言います。確かに、被植民地として、米国は英国から、キューバ、メキシコ、コロンビア、ベネズエラなどはスペインから、ハイチはフランスから独立しました。しかし、独立後のアメリカ合州国はスペイン、英国、フランスの勢力の退潮を追って、それらの帝国の旧植民地に次々と帝国主義的侵略を始めます。キューバとハイチ、それにフィリピンがその代表です。ですから、キューバやハイチの心ある人々の歴史的意識に向かって、「あなた方とは自由独立を目指して共に闘ったきずな」があるなどと言うのは、開いた口のふさがらない憤飯ものの大嘘であります。これに続いて、この折角のきずなが、ブッシュ政権がイラク戦争に気を取られて米国の裏庭である中南米をおろそかにしたために切れ、そこに出来た「真空状態」にベネズエラのチャベスのような民衆煽動政治家たちがつけ込んだ、とオバマはとんでもない嘘を重ねます。■ No wonder, then, that demagogues like Hugo Chavez have stepped into this vacuum. His predictable yet perilous mix of anti-American rhetoric, authoritarian government, and checkbook diplomacy offers the same false promise as the tried and failed ideologies of the past.■ 加えて、この真空状態にイランも乗り込もうとしていると警告を発します。[checkbook diplomacy] とはチャベスが近隣の貧乏国に自国産の石油を安く分けてやっていることを指しています。
 キューバについても、オバマはあきれるほど大げさなデマを叫びまくります。
■ Throughout my entire life, there has been injustice in Cuba. Never, in my life time, have people of Cuba known freedom. Never, in the lives of two generations of Cubans, have the people of Cuba known democracy. This is the terrible and tragic status quo that we have known for half a century ? of elections that are anything but free or fair; of dissidents locked away in dark prison cells for the crime of speaking the truth. I won’t stand for this injustice, and together we will stand up for freedom in Cuba. ■
このあと、オバマは大統領選挙戦を意識して、大統領ブッシュにしても共和党大統領候補マケインにしても、この数年間、ただタフガイのふりをするだけでカストロのキューバに対して碌に何もしなかったが、自分は断固としてキューバを解放すると宣言します。:■ My policy toward Cuba will be guided by one word: Liberated.■ 恐ろしい話です。少しでもフェアな心をもってキューバの歴史と現状を知ろうと努力する人には、オバマの描くキューバが大きな嘘であることを直ぐにも見抜けるに違いありません。ベネズエラのHugo Chavez が民主的な選挙で選ばれたことは認めますが、■ But we also know that he does not govern democratically. He talks of the people, but his actions just serve his own power.■ と言います。しかし、これもまた大嘘です。そして、オバマ氏の言うことは、ハイチとコロンビアに到って、「この人ほんとにハーバード出なの?」と言いたくなるような歴史と現実の歪曲になって行きます。ここではハイチについてだけ読んでみましょう。
■ The Haitian people have suffered too long under governments that cared more about their own power than their peoples’ progress and prosperity. It’s time to press Haiti’s leaders to bridge the divides between them. And it’s time to invest in the economic development that must underpin the security that Haitian people lack. And that is why the second part of my agenda will be advancing freedom from fear in the Americas.■ これがどんなにひどい無責任な文章かは、ハイチに対する米国の内政干渉の歴史のほんのエレメンタリーな知識があれば、立ち所に分かります。両国の関係は、ハイチが世界最初の黒人共和国として1804年1月1日に独立宣言を発してから今日まで、綿々と絡まり合っているのですが、それをここで辿るのは不可能ですので、1915年から1934年までのほぼ20年間、ハイチはアメリカ海兵隊によって侵略占領支配されていた事実だけを指摘するに止めます。海兵隊の不法な侵略に反抗してハイチの黒人たちは直ちに立ち上がりました。シャルルマーニュ・ペラルトに率いられた「カコの反乱(Caco Insurrection)」と呼ばれる事件です。アメリカ海兵隊の損害は死傷者合計98人、ハイチ人民側の死者は1万5千人を超え、ペラルトは1919年に暗殺されました。この一事を知るだけでも、オバマのマイアミ講演が歴史の真実を棚に上げた如何に凄まじい嘘であるかが分かります。これまでハイチの人々を苦しめて来た歴代の政府権力はすべて米国利権の手先であったのです。ハーバード出身ならずとも、並みのアメリカ・インテリなら知っている筈の歴史的事実です。この悲惨なハイチの歴史を知りたければ、ネット上ですぐに資料が見付かります。私の手許にある単行本の良著として、次の5冊を挙げておきます。
*C. L. R. James : The Black Jacobins (1963, 1989)
*Laurent Dubois : Avengers of the New World (2004)
*Paul Farmer : The Uses of Haiti (1994, 2006)
*Peter Hallward : Damming the Flood (2007)
*Eiko Owada : Faulkner, Haiti, and Questions of Imperialism (2002, Sairyusha)
最後の大和田英子さんの本(彩流社)は、異色の内容で、とても興味深く読ませて頂きました。フォークナーの傑作の一つ『アブサロム、アブサロム!』の主人公トマス・サトペンはハイチからやってきた男です。大和田さんの本を読むと、フォークナーのハイチへの思い入れが並々ならぬものであったことが分かります。フォークナーがコンラッドを,文学者として、高く評価していたことはよく知られていますが、黒人に対する思いという点では、私には、二人は大変違っていたように思われます。
 皆さん、John Pilger というジャーナリスト兼ドキュメンタリー映画製作者を御存知でしょうか。権力に抗して屈しない立派さでは、アウン・サン・スー・チーさんやネルソン・マンデラさんにも比せられる人物です。ノーベル文学賞受賞の硬骨漢ハロルド・ピンターも「ジョン・ピルジャーは、鋼のような注意力で、事実を、不潔な真実を、明るみに出す。私は彼に挙手の礼を捧げる」と書いています。そのピルジャーさんも、オバマ氏の最近の二つの講演を取り上げ、飛ぶ鳥落す勢いの「アメリカの希望の星」を「Obama Is A Hawk(オバマはタカ派だ)」と断定しました。これについては次回にお話しします。なお、hawk には「詐欺師」の意味もあります。

藤永 茂 (2008年6月25日)



『闇の奥』再読改訳ノート(4)

2008-06-18 12:37:03 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 小説を読む、文学作品を鑑賞する(appreciate)とはどういう事なのか、どういう精神的経験であるのか? コンラッドの『闇の奥』を読み返しながら、絶えず考えていますが、相変わらず、私には難問です。何かの足しになればと思って『The Secret Agent(密偵)』も読んでみましたが、こちらには、こちら特有の問題もあって、余り助けにはなりませんでした。これについては、やがて、本気で書いてみるつもりです。
 さて、本題の改訳の仕事を続けます。
# [Hampson 17]
{They had sailed from Deptford, from Greenwich, from Erich ? the adventures and settlers; kings’ ships and ships of men on ’Change; captains, admirals, the dark ‘interlopers’ of Eastern trade, and the commissioned ‘generals’ of East India fleets.}
Hampson の訳注には on ’Change は「The place where merchants met for the transaction of business.」とあります。また、commissioned ‘generals’ は「That is, general merchants, dealers in many kinds of goods.」とあります。
[藤永 16-17]
[旧訳] 「彼らのすべてが、デットフォードから、グリニッジから、イーリスから、船出していったのだ。?冒険家、移住者、王たちの船、取引所商人の船、船長、提督、東洋貿易の「もぐり商人」、東インド商会船隊の何でも売買の「お偉い商人」たち。」
[新訳] 「彼等は、デットフォードから、グリニッジから、イーリスから、船出していったものだった。?冒険家、移住者、王たちの船、商取引所に集まる商人たちの船;船長、提督、東洋貿易にたずさわる腹黒の「もぐり商人」、それに東インド商会商船隊のよろず取り扱いの「お偉い商人」たち。」
#[Hampson 18]
{‘And this also,’ said Marlow suddenly, ‘has been one of the dark places of the earth.’}
単純過去形ではなく、has been となっていますから、
[藤永 17]
[旧訳] 「『ここもねえ』と突然マーロウが口を開いた。『地球上の暗黒の地の一つだったんだ』」
[新訳]「『ここもねえ』と突然マーロウが口を開いた。『地球上の暗黒の地の一つだったという過去を持っているのだ』」
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{He was a seaman, but he was a wanderer too, while most seamen lead, if one may so express it, a sedentary life. Their minds are of the stay-at-home order, ・・・}
sedentary の語源はフランス語の形容詞 sédentaire で、「(職業・生活などが)一つの場所でおこなわれる、移動をともなわない、(人が)家に引きこもっている、出不精の」といった意味ですから、世界のあちこちを動いてまわる船乗りの生活は、普通の意味では、むしろ典型的に a sedentary lifeではない生活なのですが、作者コンラッドがこう表現する理由は直ぐあとで説明されています。
[藤永 17]
[旧訳] 「たいていの船乗りは、まあ言ってみれば、けっこう定住者的な生き方をするものだが、彼は船乗りであると同時に、漂泊者でもあった。船乗りたちは心情的に家にこもっているタイプで、・・・」
[新訳] 「たいていの船乗りは、妙な言い方をしてよければ、出不精な生き方をするものなのだが、彼は船乗りであると同時に、漂泊者でもあった。船乗りたちは心情的に家にこもり勝ちといったタイプで、・・・」
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{But Marlow was not typical (if his propensity to spin yarns be excepted),・・・}
[藤永 18]
[旧訳] 「しかし、マーロウは(見聞談を長々とやるいかにも船乗りらしいところを除けば)型にはまっていなかった。・・・」
[新訳] 「しかし、マーロウは(冒険談を長々とやる船乗りらしい性癖を別にすれば)型にはまっていなかった。・・・」
#[Hampson 19]
{・・・; put in charge of one of these craft the legionaries, ? a wonderful lot of handy men they must have been too ? used to build, apparently by the hundred, in a month or two, if we may believe what we read.}
the legionaries とあるので、「彼ら」ではなく、「軍団兵たち」とします。
[藤永19]
[旧訳] 「物の本にあるところを信用すれば、彼らはそうした船を、一月か二月のうちに、何百と造ったものだそうだ-ずいぶんと器用な連中だったに違いないね。」
[新訳] 「物の本にあるところを信用すれば、軍団兵たちはそうした船を、一、二ヶ月のうちに、何百と造ったものだそうだ-彼らは手先の器用な大した連中でもあったに違いないね。」
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{Imagine him here ? the very end of the world, a sea of the colour of lead, a sky the colour of smoke, a kind of ship about as rigid as a concertina ? and going up this river with stores, or orders, or what you like.}
この部分については、藤永訳『闇の奥』(p222~223)にも訳注を付けました。ここで改めて問題にするのは、with stores, or orders です。前には「兵糧、兵士、その他あれこれを積んで」と訳しましたが、orders には軍隊用の服装や装備品の意味があるようですので、「軍団の食糧とか、装備品とか、その他あれこれを積んで」と改訳します。

藤永 茂 (2008年6月18日)



ナンセンと1921年ロシア大量餓死(2)

2008-06-11 11:34:38 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 ナンセンのノーベル賞受賞講演(1922年12月19日)からは、10年後の第二次世界大戦の予感が読み取れ、全ヨーロッパの頽廃を憂える気持が伝わって来ます。
â–  No one knows what tomorrow will bring. Many people live as though each day were the last, thus sliding into a state of general decadence. From this point the decline is steady and inexorable. Moreover, the worst that this insecurity, this speculation in uncertainty, creates, is the fear of work; it was bred during the war, and it has grown steadily since. It was bred by the stock-jobbing and the speculation familiar to us all, where people could make fortunes in a short time, thinking they could live on them for the rest of their lives without having to work and toil.
(誰も明日がどうなるか知らない。多くの人々は毎日が最後の一日であるかのように生き、全般的な頽廃の状態に滑り落ちて行く。ここから先は衰退が確実に進行し、どうにも止めようがない。そのうえ、この不安、不確定性への思惑がつくりだす最悪のものは、働くことを恐れ嫌がる気持である。それは戦争中に育ち、しかも、その後も着実に成長してきた。その傾向は,我々の誰もが知っている株式の取引きや投機行為によって生み出され、それによって、人々は短期間に大儲けすることが出来、その後の人生では骨を折って働く必要もなく、その財産の上にあぐらをかいて暮らせるかもと考えるようになっている。)■
 しかし、この時点では、ナンセンはまだ国際連盟の充実による世界平和の実現に夢を託していました。ですから、1921年のロシア大飢饉救済の任務を個人としてのナンセンに押し付けながら、組織としてはロシアの窮状救済に踏み切らなかったことに、ナンセンは率直な不満を講演の中で表明しています。もし国際連盟が早期に全面参加していたら千万を越える大量餓死は食い止めることが出来た筈だとナンセンは考えたのです。国際連盟がソ連援助に踏み切れなかった理由は、新しい脅威である共産主義国家ソ連を助けたくないということでした。この意味で1921年のロシア大量餓死は人災であったのです。
 ところでアメリカ合州国はどう振舞ったか? ナンセンは講演の後半でアメリカの救援活動に対して最大級の賛辞を捧げています。
■ I must, however, first mention the gigantic task performed by the Americana under the remarkable leadership of Hoover. ……After the war, it was extended to Central Europe, where hundreds of thousands of children were given new hope by the invaluable aid from the Americans, and finally, but not least, to Russia. When the whole story of this work is written, it will take pride of place as a glorious page in the annals of mankind, and its charity will shine like a brilliant star in a long and dark night.(終りの部分の訳:この事業の全貌が文字となる暁には、人類の歴史における燦然たる一頁として最高の地位を占めるであろうし、その慈善行為は長く暗い夜の空に輝く星としてきらめくことになるであろう。)■
このナンセンの手放しの賛辞を聞いた一般のアメリカ人たちはさぞかし甘い自己満足に浸ったことでしょう。1922年末のクリスマス・タイムという記念講演の時点では、ナンセン自身もフーバーの胸中の狡猾な計算など知る由もなかったと思います。このあたりでナンセンのノーベル講演をはなれて、問題の人物ハーバート・フーバーに話を移します。 
 これからお話しする事は、スタンフォード大学のフーバー協会所属の学者Bertrand M. Patenaude が、2006年10月、ブリュッセルで行った講演に基づいています。講演のタイトルはずばり『Food as a Weapon(武器としての食糧)』です。1917年4月、アメリカが第一次世界大戦に参加した時、大統領ウッドロー・ウィルソンはフーバーをアメリカ政府食糧行政官に任命しました。アメリカ国内の食糧生産を増強し備蓄して、アメリカと連合国側の食糧供給を確保拡大するのがフーバーの使命で、“Food Will Win the War (食糧でこの戦争を勝ち取ろう)”というスローガンを掲げて、フーバーはその任務遂行に邁進しました。大戦は1918年11月に終結、1919年1月には、フーバーは連合国側の経済復興の最高行政官に地位につき、終戦からの9ヶ月の間に10億ドル以上を救済につぎ込みました。フーバーは自らウィルソン大統領に進言して、ARA(American Relief Administration)というヨーロッパ救援機構を立ち上げ、その総裁になって救援活動を続け、1919年後半には、当のARAを実質的に民間組織に変更しました。今で言えば、プライベタイゼーションです。それからほぼ3年間、フーバー総裁の指揮の下、ARAは、ロシア共産主義勢力の支配下に落ちた地域を除く、ヨーロッパや近東に食糧援助を行っただけではなく、鉄道再建や河川交通の復興整備、電信電話事業の拡張、果ては、石炭産業にまで手を伸ばします。ロシアの共産主義革命は1917年10月の出来事ですが、フーバーと彼のARAの広汎な救済事業は「ヨーロッパ・近東地域の共産化を見事に阻止した」と一般に高く評価されました。この「共産主義封じ込み」の経済戦略は、30年の時を経て、第二次世界大戦後の荒廃したヨーロッパに対する「マーシャル計画」のアイディアへと受け継がれて行きます。
 さて、われらの主題である「1921年ロシア大量餓死」の話を致しましょう。前回のブログで、1921年、ひどい旱魃のためにレーニン統治下のウクライナ地方などで大飢饉が発生し、約3千万人が餓死しかねない事態になったことをお話ししました。国際連盟の諸国から頼まれて救援の仕事に就いたナンセンは、諸外国からの内政干渉を嫌うレーニンの信頼をやっと取り付けたのですが、いざ具体的援助となると、ヨーロッパ諸国の消極性に悩まされます。ところが、実は、この大飢饉が発生する前の1919年頃から、フーバーのARAだけは、レーニンのソ連にもしきりに足を踏み入れようとしていたのでした。ですから、外国からの内政干渉を恐れ嫌っていたレーニンがナンセンの純粋な人道的熱意にほだされて、ナンセン個人を信用する判断を下し、ナンセンを介して西欧からの食糧援助を受け入れる決定をした時、うまくその機を捉えて、どっとソ連に流れ込んで来たのは、フーバーのARA手持ちのアメリカ産の食糧だったのです。そのお蔭で2千万人ほどの人々が救われたものとPatenaude 氏は見積もっています。(ちなみに、餓死者は5百万から1千万と彼は推定しています。つまり、この控えめの見積もりでも、コンゴ人大虐殺やユダヤ人大虐殺に優に匹敵する惨禍です。)アメリカから贈られてきた大量の食糧によって、1千万、2千万の人命が救われたのですから、ナンセンが最大級の賛辞を捧げたのも無理はありません。ナンセンは、政治や経済より、いや、何よりも、人命の尊さを重んじた人物でした。しかし、フーバーはそうではありません。彼は、ヨーロッパやロシアに対する大盤振る舞いの“人道主義的”救済事業の見栄を切っていた当時から、彼の派手な慈善行為の裏にアメリカ合州国の腹黒い計算が隠されているのだとして、ヨーロッパでいろいろ批判や非難を受けていました。
 私が準拠しているフーバー協会のPatenaude 氏の講演にも、その事はちゃんと言及されています。フーバーのARAの「人道主義的救済」が、実は、アメリカの経済政策、 農業生産政策の一環であることは、フーバー自身が公式に認めていたのでした。その部分を講演から引用します。:
â–  Hoover was also accused of undertaking the Russian famine relief mission to ease the postwar economic depression in the United States by disposing of surplus American corn. One reason this charge still stands is that Hoover himself publicly acknowledged it ? embraced might be a better word. Consider his testimony before the Senate Foreign Relations Committee during the hearing about Russian relief in December 1921:
The food supplies that we wish to take to Russia are all in surplus in the United States, and are without a market in any quarter of the globe … . We are feeding milk to our hogs, burning corn under our boilers … . I have a feeling we are dealing today with a situation of a great deal of economic depression and that we have a proper right to inquire not only whether we are doing an act of great humanity, but whether we are doing an act of economic soundness.
(フーバーは、また、過剰生産されたアメリカ産コーンをうまく始末して合州国内の大戦後の経済不況を和らげる目的でロシア飢饉の救済に着手したとして非難された。この告発が正当なものと今も看做されている理由の一つは、フーバー自身が公にその非難が当たっている事を認めたということだ-非難をいさぎよく受容したと言うほうがよいかもしれない。1921年12月、上院の外交委員会のロシア救済事業についての審問の場で彼が行った証言をみてみよう:
我々がロシアに持って行こうとしている供給食糧はすべてアメリカ国内で余っているものであり、世界中どこにも買い手のないものである。・・・ 我々は豚に(余った)牛乳を飲ませ、ボイラーで(余った)コーンを燃やしている。・・・ 現在、我々は深刻な経済不況の事態に対処しており、したがって、我々は、偉大な人道的行為に従事しているかどうかだけではなく、経済的に健全な行動をとっているかどうかも審問するのが当然とされるべきだと、私は感じている。)
[embrace という言葉は「抱きしめる」と訳すより、「いさぎよく認める」としたほうが良いでしょう。例えば、Embracing Defeat なども。 ]■
そうです。フーバーは1921年のロシア大飢饉を救援することで、一石二鳥、いや、一石で三鳥をせしめようとしたのでした。(1)人道主義大国アメリカのイメージの確立する、(2)国内剰余農産物を処理して価格を維持し、経済不況の解決に寄与する、(3)今後の対ソ連輸出の足場を他国に先んじて固める。
 ところで、「豚に牛乳を飲ませ、生産過剰のコーンを燃やしてしまう」という話-これは珍しい話ではありません。スタインベックの『怒りのぶどう』には、価格維持の為に、せっかく実った大量の果物が棄却される一方で、農業労働者が飢えに苦しむ有様が見事に描かれています。この名作に描かれている1930年代の小貧農たちの農地喪失と流浪の苦難は、第一次世界大戦時代のフーバーによる大農場方式の強引な農産物増産ドライブによって、その種が蒔かれたのだと言えるかも知れません。
 さて、前回のブログの冒頭で、第一次と第二次の世界大戦のはざまで、二度の大量餓死がソ連国内で起ったと申しました。ナンセンが献身的な努力を傾けたのは初回(1921-1922)で、次は1932年から1933年にかけて、主にウクライナ地方で起りました。この大量餓死にはホロドモール(Holodomor)という呼び名がついています。中立的な学者たちは餓死者の総数を3百万ほどと推定していますが、これをソ連政府によるゼノサイドであったと強く主張するウクライナ人が多数存在し、彼等が掲げる死者総数はもっと大きいものです。ゼノサイドの主張がなされている事実は、この大量餓死が、私の言う意味での、人災であったことを示していますが、それについては、今は深入りしますまい。むしろ、読者の方々にお願いしたいのは、第一次大戦(2600万)、初回ロシア大飢饉(~1000万)、次回ロシア大飢饉(~500万)、第二次大戦(5300万)、締めて約1億に近い人命が1914年から1945年という僅か30年の間に主にヨーロッパを中心として失われ、それが人間同士の殺し合いの結果であったという恐るべき歴史的事実に深く思いを沈めることです。そして、「ヨーロッパのゲームは遂に終った」と書き残して死んだフランツ・ファノンや、「A wolf never forgets his or her place in the natural order. Europeans do. (狼は自然界の理法の中の自分の場所を決して忘れることはない。ヨーロッパ人はそれを忘れる)」というアメリカ・インディアンの闘士ラッセル・ミーンズの言葉に思いを馳せて下さい。 Something is deadly wrong with the EUROPIAN MIND!
 いや、すっかり話が暗くなりました。フリチョフ・ナンセンに戻りましょう。
 何事も政治、何事も商売、これに徹する腹黒いフーバーに較べて、ナンセンの方は余りにお人好しな人間であったかも知れません。彼のそうした所につけ込んで、うまく彼を利用した人間たちも居たようです。英語に simpleton という言葉があります。ナンセンは一種のシンプルトンであったかも知れません。彼が第二次世界大戦の惨禍を見ずに,1930年、この世を去ったのは彼にとって幸せでした。国際連盟の難民高等弁務官としてヨーロッパの広汎な地域で難民の救済に当ったナンセンは「ナンセン・パスポート」と呼ばれた難民用のパスポートを世界各国の政府に認めさせ、何十万という難民たちにそれを与えて國から國への移動を可能にし、彼等が定住の地を見出す機会を与えました。ストラビンスキー、シャガール、アンナ・パブロヴァ、ラフマニノフなどもその恩恵を受けたのだそうです。アーサー・ランサムという児童文学作家を多分御存知でしょう。彼もナンセンの影響を受けています。
 30年ちかく前のことになりましょうか、私は、ノールウェーのトロムソー大学の友人に招かれて、北極圏内に位置する最北辺の都市トロムソーを訪れたことがあります。そこで、ナンセンが贔屓にしていたというアンコウ料理店に案内して貰ったのですが、驚いたことに、何でも世界のグルメ・ツアーの一行という日本人たちに出会いました。日本人は美食となるとクレージーです。

藤永 茂 (2008年6月11日)



ナンセンと1921年ロシア大量餓死(1)

2008-06-04 15:56:52 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 レオポルド二世のコンゴ自由国での数百万人規模の大量虐殺について、私は『「闇の奥」の奥』(p81~)に次のように書きました。
■アメリカの奴隷“解放”宣言から半世紀後、19世紀の末から20世紀の初頭にかけて、人類史上最大級の大量虐殺が生起したという事実には全く否定の余地は無い。しかし、この驚くべき大量虐殺をアフリカ人以外の人間の殆どが知らないという事実こそ、私には、もっとも異様なことに思われる。この惨劇から僅か40年後に生起したユダヤ人大虐殺ならば世界の誰もが知っている。ユダヤ人の受難に較べて、コンゴ人の受難がほぼ完全に忘却の淵に沈んでしまった理由を、今こそ私たちは問わなければならない。■
では、コンゴ人大虐殺とユダヤ人大虐殺をへだてる約40年の間には、それに似た規模の大虐殺は起らなかったのでしょうか? 勿論、第一次世界大戦(1914-1918)と第二次世界大戦(1939-1945)を除外しての話です。Lester R. Brown の本によると、大戦の死者数は、第一次2600万人(非戦闘員50%),第二次5350万人(非戦闘員60%)、これはまことに凄まじい数字で、この前に立ち止まって、「人間とは、人類とは、何か」と自分に問いたださなければなりません。レミングというネズミ科の動物がいます。百科事典『マイペディア』によると、「周期的に大発生し、極限に達すると大移動をする。このときは大群が真っすぐに進み、湖水や海に飛び込んだほとんどが死滅する」のだそうです。馬鹿馬鹿しい滑稽さですが、20世紀の前半に起った二つの世界大戦と較べると、レミングの行動の方がはるかにましでしょう。何千万人という規模で、人間たちはお互いを狂人のように殺戮し合って消えて行ったのですから。
 先ほどのクイズの答えは次の通り:コンゴ人大虐殺とユダヤ人大虐殺をへだてる約40年の間に、ロシアの地域で悲惨な大量餓死が二度(1921-1922、1932-1933)も起っています。二回とも天候異変(旱魃)が引き金となりましたが、その本質は、私が前回のブログで論じた意味で、やはり人災です。以下では、始めの方の大量餓死のことを取り上げます。
 北欧の小国ノルウェーの国家的英雄フリチョフ・ナンセン(Fridtjof Nansen, 1861-1930)の話から始めます。大学では動物学専攻、科学者として出発したナンセンはグリーンランドをスキーで横断したり、船で北極探検に出掛けたり、探検家としての名声とともに、優れた人物としてノルウェーの政治外交にも加わり、その人望を高めて行きます。首相へという呼び声もあった程です。1914年に始まった第一次世界大戦では、自国が巻き込まれないように努力を尽くし、戦後は1920年1月に発足した国際連盟に世界平和の夢を託して、積極的に参画しました。戦後ドイツやロシアの地に置き去りになった数十万人の戦争捕虜が一日何千という数で飢餓や病気のために死んでいたのですが、国際連盟はそれらの戦争捕虜救済の任務に就くようナンセンに要請しました。ナンセンは、はじめ、科学の仕事をしたいからと断ったのですが、説得され、1920年の末から救済の仕事に没頭して行きます。大戦の惨禍に追い打ちをかけるように、1921年から1922年にわたって、ロシアのウクライナのあたりを大飢饉が襲いました。NDC(Nansen Dialogue Center) というウェブサイトによると、一年半の間に三千万に近い人々が餓死したとあります。信じ難い数字ですが、自分の足でボルガ地方を視察したナンセンも、放置すれば“1900万人が死に見舞われるだろう”と国際連盟の各国に訴えています。1921年8月、戦争捕虜救済に上乗せされる形で、ナンセンはこの大飢饉救済の任務も,更には、大戦とロシア革命の結果として生み出された百数十万人の難民救済の仕事も背負い込んでしまいました。この今回のブログでは1921年-1922年の大量飢餓の話に絞りますから、興味のある方はナンセンの伝記をお読み下さい。彼は「一千万の命を救った男」とも呼ばれています。
 戦争捕虜救済、大飢饉救済、難民救済という目覚ましい偉業に対して、ナンセンは1922年のノーベル平和賞を受賞します。その時(1922年12月19日)の『苦難のヨーロッパ人(The Suffering People of Europe)』という題の受賞講演は実に興味深い内容なので、かいつまんで紹介します。冒頭でナンセンはローマ彫刻「瀕死のガリア人」を異境の戦場で死んで行く兵士の苦悩のシンボルとして引き合いに出し、遠く遥かな故郷の空を望みながら、出血して死を迎える無名の兵士たちに想いを馳せます。
■ That is how I see mankind in its suffering; that is how I see the suffering people of Europe, bleeding to death on deserted battlefields after conflicts which to a great extent were not their own.■ 中国大陸に骨を埋めた多くの日本軍兵士たちに就いても同じ事が言えるでしょう。どうしてこんな事になったのか。ナンセンは言葉を濁しません。■ This is the outcome of the lust for power, the imperialism, the militarism, that have run amok across the earth.■ 飽くなき覇権への渇望、帝国主義、軍国主義、それらが世界中に猛り狂った結果だと言い切ります。次に、ナンセンは産業経済的背景の分析にすすみ、ヨーロッパ社会全体が思慮の浅い政治的、財政的投機家たちの手中で弄ばれたし、今もまだそうだと言います。( the whole European community and its way of life have been and still are toys in the hands of reckless political and financial speculators)私は、ここで、現在のブッシュ、チェイニーとネオコンたちを想起しないではおれません。続いて、ナンセンが,ある意味では、徒手空拳で数百万の餓死寸前の人間たちを救ったとも言える、ロシアの1921年大飢饉に話が移ります。
■ When one has stood face to face with famine, with death by starvation itself, then surely one should have had one’s eyes opened to the full extent of this misfortune. When one beheld the great beseeching eyes in the starved faces of children staring hopelessly into the fading daylight, the eyes of agonized mothers while they press their dying children to their empty breasts in silent despair, and the ghostlike men lying exhausted on mats on cabin floors, with only the merciful release of death to wait for, then surly one must understand where all this leading, understand a little of the true nature of the question. This is not the struggle for power, but a single and terrible accusation against those still do not want to see, a single great prayer for a drop of mercy to give men a chance to live. ■ beheld は behold(見る)の過去形、the great beseeching eyes は「大きく見開かれた嘆願するような目」。ナンセンのこれらの言葉は演説用のセンチメンタルな美辞麗句ではありません。国際連盟はナンセンに大飢饉救済を頼みながら、いざとなると、ロシアの飢餓者たちを大々的に救済することは
共産主義革命で生まれたソヴィエト政権を承認することになるなどと言って足踏みするヨーロッパ諸国に、腹を立てたナンセンが自らボルガ地方に出掛けて、悲惨な現状の写真を多数撮り、それを示しながら、躊躇する国々を説得しようと努力した事実を反映した発言であったのです。ナンセンは、資本主義だの、社会主義だの、あるいは、やれファシズム、やれボルシェヴィズムと言い争っていては、無辜の人間たちが死んでしまう-とにかく今は救わなければ、と思ったのでした。実際、ナンセンが人々に示したと思われる写真の一枚には、骨と皮ばかりになった何百という死骸が積み上げられているのが写されていて、アウシュヴィッツやダッハウのユダヤ人の死骸の山の写真に酷似しています。しかも、死者の総数はユダヤ人大虐殺の2、3倍にものぼると思われます。この話の続きは次回に致します。

藤永 茂 (2008年6月4日)