私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

スラヴォイ・ジジェクとオバマケア

2012-11-28 11:26:51 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 スラヴォイ・ジジェクについては、これまで、何もしっかり考えたことはなく、彼の発言に時おり接するだけのことでした。今度バラク・オバマ氏の大統領再選に関連してジジェクが書いた記事がガーディアンに出たのがきっかけで、この高名な知識人に少し積極的な興味を持ちました。記事のタイトルは「なぜオバマは人間の顔を持ったブッシュ以上か(Why Obama is more than Bush with a human face)」です。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/nov/13/obama-ground-floor-thinking

才気煥発のジジェクが論じ来たり論じ去るあまたの主題の殆どに関して私は無知ですが、ここでの論題のオバマとその医療保険制度(オバマケア)については、私はこの5年余りの間かなり注意深く見守って来たこともあって、この論客の見解が少なからず浅薄ではないか、と思った次第です。flashyに過ぎるとも感じました。バラク・オバマは進歩的革新的精神を持つ政治家だが現実を見る賢明さを備え、当面やれることしか試みない、オバマの医療保険制度(オバマケア)はその好例だが、その実質的内容は殆ど無に等しいにしても、それが保守派に与えたイデオロギー的なショックは強烈だ?と言った風に、ジジェクはオバマとオバマケアを高く評価します。しかし、これはヨーロッパの忠実な延長拡大としてのアメリカという歴史的実体の本質を把握することが出来ていない人のいう事です。
 アメリカでは、日本と同じく、建物の階の数え方を地面のレベルから一階、二階、と数えますが、ヨーロッパでは日本での二階が第一階目です。この才人はこの単純な事実に深遠な意味を与えて一つのアメリカ論、つまり、アメリカの保守派が強調する“選択の自由(freedom to choose)”にはその基底となる伝統的基盤がないというアメリカ論を立ち上げます。
â–  In Europe, the ground floor of a building is counted as zero, so the floor above it is the first floor, while in the US, the first floor is on street level. This trivial difference indicates a profound ideological gap: Europeans are aware that, before counting starts ? before decisions or choices are made ? there has to be a ground of tradition, a zero level that is always already given and, as such, cannot be counted. While the US, a land with no proper historical tradition, presumes that one can begin directly with self-legislated freedom ? the past is erased. What the US has to learn to take into account is the foundation of the "freedom to choose".
「ヨーロッパでは建物の地表の階はゼロと数え、したがってその上の階が一階ということになるが、アメリカでは街路のレベルが第一階だ。この何でもない違いが実は深遠なイデオロギー的な断絶を示唆しているのだ:ヨーロッパ人は、数え始める前に?つまり決定や選択が行なわれる前に?伝統の基盤がなければならず、ゼロのレベルは常に既に与えられていて、それ自体としては勘定に入らないことを承知している。ところが一方、アメリカでは、ちゃんとした歴史的伝統のない土地柄だから、勝手に法律で設定した自由でもって事を始められると仮定してかかる -- つまり、過去は消されているのだ。 “選択の自由”にはその基盤があり、それを勘定に入れることをアメリカは学ばなければならない。」■
 流石にジジェクは鋭いな、着眼点がオリジナルだ?と感心する人々も居るでしょうが、私は、この慧眼そうに見えるアメリカ論は政治家オバマとは関係のないことであり、更に、ヨーロッパとアメリカでの建物の階の数え方の相違には、別に、“down to earth” で散文的な歴史的理由があると想像します。(特別それを知りたいとも思いません。)バラク・オバマという人物が稀代のコン・マン、メルヴィルのいう Confidence Man、一番直裁な訳語で言えば、詐欺師であるという私のオバマ観は、初回の大統領選挙(2008年)の2年前ほどから2回目大統領選挙勝利の今日まで、微動だにしないどころか、確証がいよいよ累積しつつあるという感じです。医療保険制度に就いては、オバマが、初回の選挙前、はっきりと単一支払い制度を支持する発言をしていた事はこのブログで何度か注意した通りです。しかしそれと同時進行の形で、現行のアメリカの医療システムを変えないままで実質的な医療費への国家支出をどうすれば倹約出来るかについての極めてテクニカルな政策研究を促進する動きも示していました。大統領就任後の最も注目すべき動きは、単一支払い制度の支持者たちを身辺から排除し、医療保険制度の改革に当たっては、保険業界や製薬業界の既得権益を損なわない形で行なうようにする政府人事を実行することでした。アメリカの医療保険制度に関してオバマ大統領がやり遂げた事は、近未来(少なくとも10年とか15年)にアメリカで他の先進国並みの単一支払い制度が実現する望みを断ち切ってしまったという事にあります。貧困層の人々は適切な医療が受けられないために死ぬ確率が、今後大きくなることはあっても、減少することはないということです。ところがジジェクは、私の予想とは正反対で、オバマケアのお蔭でアメリカ人の大部分は不確かな(dubious)“選択の自由”など行使する必要もなく適当な医療を自動的に保証されるので、安心して日々の生活に従事出来るようになったというのです。そして、オバマケアはアメリカの保守的イデオロジーに打ち込まれた楔であり、その楔が作った亀裂をより大きくすることがオバマの目指す所であるかのようにジジェクは言いますが、大変な見当違いだと私は考えます。
 私は、その昔、大型計算機を使って原子や分子の計算をしていたことがあります。その頃憶えた言葉に“Garbage In, Garbage Out” というのがありました。「いい加減なインプット(入力)をすると、下らぬアウトプット(出力)しか出て来ない」という意味です。今度はじめてランダムハウス英和を引いてみると、GIGO[ガイゴー]:入力が正しくないと、出力の情報もやはり正しくないという経験則、と出ていました。コンピューターに喩えて、ジジェクと私を較べてみると、ジジェクが今の京コンピューターなら、私は五十年前のコンピューターです。ジジェクは膨大なメモリーを持ち、情報の処理速度も物凄く速い。私の方といえば、呆れるほど貧弱なメモリーしかなく、それもすっかり老朽化してしまい、情報処理の能力も惨めなもので、長い時間がかかります。人さまに恥ずかしいほどゆっくりとしか入力した情報の処理が出来ません。しかし、GIGO則は高速のコンピューターにもノロマのコンピューターにも、平等に適用されます。入力がいい加減な内容だと出力もいい加減なものになります。
 スラヴォイ・ジジェクが出演している飛び切り面白い動画があります。ジジェク専門家は先刻ご存じのことでしょうが。
http://www.youtube.com/watch?v=PM0I5k50XsY
出演者はジュリアン・アサンジュ、スラヴォイ・ジジェク、デイヴィド・ホロヴィッツという豪華な顔ぶれで、また、驚くべき顔合わせです。David Horowitzという名には不快な思い出が伴います。1962年発刊、1975年廃刊の「ランパーツ(Ramparts)」というアメリカの左翼的雑誌がありました。私はその頃ランパーツを定期購読して読んでいました。ホロヴィッツはその編集者でした。彼は1980年代後半派手に転向し、右翼の論客となり現在に到っています。左から右に転向したから悪いと言っているのではありません。この人物の有名知識人としての不潔さが嫌なのです。この動画を見ながらつくづく思ったことは、ホロヴィッツにしろ、ジジェクにしろ、こうした派手に活躍する知識人たちとは、我々にとって何なのかということでした。That’s Entertainment! というだけの事かも知れません。
 たまたま、チョムスキーの興味深い発言に出会いました。David Samuels との会話からの全く断片的な引用です。
http://www.zcommunications.org/q-and-a-with-noam-chomsky-by-noam-chomsky

■  In fact, my favorite prophet, then and still, is Amos. I particularly admired his comments that he’s not an intellectual. I forget the Hebrew, but lo navi ela anochi lo ben navi?I’m not a prophet, I’m not the son of a prophet, I’m a simple shepherd. So he translated “prophet” correctly. He’s saying, “I’m not an intellectual.” He was a simple farmer and he wanted just to tell the truth. I admire that.
「実際、子供の頃もまた今でも、私の好きな預言者はアモスです。私は、とりわけ、自分はインテリではないと彼が言ったことに感服します。私はそのヘブライ語をよく憶えていないが、lo navi ela anochi lo ben navi -- 私は預言者ではない、預言者の子供でもない、私はただの羊飼いだ、と言ったのです。つまり、彼はナビという言葉を正しく翻訳した。彼は“私はインテリではない”と言っている。彼はただの農夫だったのであり、ただ真理を告げたいと欲しただけだった。私はその事に感服するのです。■

ノーム・チョムスキーは、出来たら現代のアモスになりたいと思っているかも知れませんが、スラヴォイ・ジジェクやデイヴィド・ホロヴィッツがアモスでないことはほぼキマリのようです。

藤永 茂 (2012年11月28日)



バッハのカンタータBWV82

2012-11-21 11:23:44 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 しばらく前に思い立って、バッハのカンタータをBWV1から聴き始めました。カンタータだけでなく、ヘンスラー・クラシックから発売されているCD172枚のバッハ全集をCD1から全部聴いてみようと思ったのです。現在まだ30枚目(CD30)あたりで、全部聴かない前に死んでしまうかも知れません。
 このヘンスラー社のバッハ全集(ヘルムート・リリング指揮)の発売が始まったのは1996年頃ではなかったかと思いますが、全部揃えるとなると、当時日本ではCDが高い頃でしたから、円に換算して30万円は優に越したでしょう。カナダでも手が出ませんでした。バラ売りで、トレバー・ピノックのハープシコードでの6つのパルティタ(BWV 825-830)(CD2枚)と世俗カンタータBWV201(CD1枚)を購入しました。私は昔から驢馬(ろば)という動物に、そして、驢馬と人間との関係に強い関心を持っています。この世俗カンタータBWV201にはバッハが作曲した驢馬の鳴き声の真似があると知ったのが購入の理由です。この全集が今は2万円余りで手に入ります。1枚当りがトマト一個の値段、こんなお買い得ものは滅多にありますまい。今からクラシック音楽が好きになる若者たちへの大きな祝福です。
 10日ほど前にカンタータBWV82『Ich habe genug(古くはgenung)、(I have enough、われは足れり)』に到着しました。一つの解説に、これは過去60年間に最も数多く録音されているバッハのカンタータだと書いてあります。リリングの演奏も立派なものですが、私は随分と以前に、アンソニー・ベルナール指揮、歌い手ハンス・ホッターの1950年のモノ録音のCDを買って聴いていました。カンタータの内容は、静かに死を受け入れそれを迎える老人の気持と強く結びつきます。偶然ですが、数日前、50年間お付き合いのあった友人の訃報に接しました。このカンタータの真ん中にあるアリアは「安らかに眠れ、疲れた目よ」と始まり、ホッターの歌唱では10分42秒の長さに及ぶ、心に沁みる静かな美しいララバイです。私は2度続けてこのアリアに聴き入りながら、故人の冥福を祈りました。故人はとても優れた立派な理論物理学者でした。目に見えた業績で測っているのではありません。世間的に名が残ることはありますまいが、私の胸の中には、私が死ぬまで、学者の鑑として生き続けることになりましょう。
 カンタータBWV82のことを少し書いてみようかと思って、ネットを覗いてみて改めて驚かされました。現代は、情報過剰であり、それに対する反応(自己発信)も余りにも安易であり過剰です。ちょっと気を引かれる情報があり過ぎますし、自分が思った事を発信する行為も内容もあまりにも安易過剰になっています。勿論、人さまのことだけではなく、当の私個人の今のブログ行為、著作行為も含めてのことです。このたび亡くなった友人は、そうしたことに殆ど何の興味も示さない人でした。
 Bach Cantata WebsiteというサイトのカンタータBWV82の所、
http://www.bach-cantatas.com/BWV82.htm
には、実に驚くべき量の情報が提示されています。例えば、その中の解説の中のAMG(allmusic)の項を開けてみると、短い解説に続いて1988年から最近までに発売されたカンタータBWV82のCDが150以上もリストアップしてあり、その多くを短時間ながら試聴することが出来ます。有名な男女の歌手たちが何人もこのカンタータを歌うのを聴くことが出来ます。その誘惑に勝てる人はあまり居ますまい。また討論(Discussions)の部もあって、多数の評論や感想を読むことも出来ます。当然のことながら、私はこのワンダフルなウェブサイトの中に吸い込まれ、うろつき回って、随分長い時間を(無駄に)過ごし、大いに雑学袋をふくらませましたが、その中で、私がたまたま持っていたハンス・ホッターのカンタータBWV82が多くの人々によって最高の名唱とされていることを知って、彼のCDに舞い戻り、あらためて、耳を澄ませてホッターの声に聴き入りました。このCDの解説者(Alan Blyth, 1989)は
■ It appeared in 1950, and I recall cherishing the original 78s, playing them over and over again and admiring each time the peculiarly profound utterance of the singer. Hotter brings a wonderful warmth and sincerity to the central lullaby, “Schlummert ein”, and an urgent drive to the concluding aria, where his large voice moves with surprising fleetness through the runs. Today, fashion decrees a lighter bass for Bach’s music; so much the worse for fashion. It is a reading that hasn’t been surpassed in my experience. ■
と書いています。
 この60年以上も前のモノ録音がこれほどの確かさで人の心を打ち続けるのは一体何故なのか? 今の私たちにはもっと「静かな心」が必要です。もっとゆったり流れる時間が、もっとゆったりとした息づかいが必要です。その昔、ポール・ヴァレリーは「美は衝撃によって取って代わられた」と嘆きました。意外性を、不意打ちを売り物とする芸術家が多過ぎます。人の心をマニピュレートすることを始めから意識的に狙うアーティストが多過ぎます。ハンス・ホッターという歌い手が、そのような場所からどんなに遠くに立って歌っていたかを、じっくりと考えてみたい、感じ取ってみたいと願っています。

藤永 茂 (2012年11月21日)



リビアの息の根(2)

2012-11-14 10:34:14 | ã‚¤ãƒ³ãƒãƒ¼ãƒˆ
 ベンガジ事件、つまり、2012年9月11日、アメリカのリビア大使クリス・スティーブンスがリビア東部の都市ベンガジで何者かの襲撃を受けて殺害された事件の真相は、すでに3ヶ月経過した今も明らかにされず、謎は深まるばかりといった様相を呈しています。しかも、オバマ大統領の再選が決まった二日後に、国民的な人気も高く4年後には次期大統領候補という声まで掛かっていたペトレイアス米国中央情報局(CIA)長官(60歳)が不倫発覚で突然オバマ大統領に辞表を出して即刻辞任するという事態が発生しました。ペトレイアス氏はアメリカ軍の最高司令官の地位を占めていた名声赫赫たる退役将軍で、今週中にCIA長官として米国議会の下院と上院の委員会で、ベンガジ事件について、宣誓下の証言を行なう予定でしたが、オバマ政府は辞任を理由にペトレイアス氏を委員会に出席させない模様であり、その一方で、ペトレイアス氏の辞任はベンガジ事件とは何の関係もないと言い立てています。
 マスコミの報道を信じるとすれば、ペトレイアス氏の婚外不倫のストーリーは割に簡単です。ペトレイアス氏には結婚生活37年の妻がありますが、不倫の相手はPaula Broadwell という二児と夫を持つ39歳の作家で、『All In』というタイトルのペトレイアス将軍の伝記を本年1月に出版して既に評判の女性です。この情事についてFBIが捜査を始めたきっかけは、もう一人、ペトレイアス氏と親しい関係(家族的に)にあるJill Kelley という既婚の女性からの通報でした。本当かどうか分かりませんが、Paula BroadwellはJill Kelleyがペトレイアスと親密な関係にあるのを嫉妬して、脅し文句を含んだイーメイルを送って来るのでFBIに通報したという話なのです。Jill Kelley の方も胡散臭い女性のようです。
 今からしばらくアメリカ人たちはこのスキャンダルをめぐって下らない議論をあれこれ展開するでしょう。アメリカの国家機密が漏洩した恐れはないのか、女性たちはスパイである可能性はないのか、婚外不倫を罰していたら切りがないのではないか、・・・ などなど。これらのマスコミ報道記事に対して、無数のコメントが寄せられていますが、中には当を得たものもあります。例を二つ。
■ Petraeus has killed tens of thousands of iraqis and other human beings. And now, he is told to resign because he had extramarital relations. 「ペトレイアスはイラク人や他の人間たちを何千何万と殺してきた。ところが今、婚外不倫の理由で辞職しろと申し渡された。」■
■ Kill thousands of innocents, get promoted.? Have an affair, get forced to resign. Could our family values be any more warped? 「罪のない人々を何千と殺せば、昇進だ。ところが、情事一つで、首を切られる。我が国の家庭倫理はこれ以上ねじまげようも無いだろうよ。」■
 事の全体の本質は“Benghazi Cover Up”という一語に尽きると私は考えます。私がそう考える根拠もたっぷりあります。ベンガジ事件の翌日9月12日の、つまり事件直後のアルジャジーラやロイターやワシントン・ポストなどの事件第一報の記事では、アメリカのリビア大使クリス・スティーブンスを含む米人4名、リビア人警備員約10名を殺害した犯人グループはカダフィ支持者の残党であり、その総数は数十人にものぼったとも伝えられました。死者が一ダースほども出たのですから、負傷者も多数にのぼったと考えるのが常識でしょうが、アメリカ人が数人負傷したというニュースがチラと流れた後は、何も聞こえてきません。それらの記事は熱心に探せば、いまもネット上で見つかる筈です。しかし、その後は、NATO, USA, UN の力で隠蔽(cover up)され、何のことだか分からなくなったままで時が経って行きます。オバマ政府も何時までも黙りを決め込むわけにはまいりますまいから、誰かが断罪されるでしょうが、はっきりとカダフィの残党だということにはなりますまい。それを言えば、リビ作戦の輝かしい成功に泥がつきますから。ベンガジ事件の危機は強引に突破して、とにかく隣りのシリアを潰す?これがオバマ政権とそれを操る勢力が目指す所でしょう。ベンガジ事件の犯人たちを罰する行動はすでに進行中です。前回のブログに、「この10月(2012年)始めから、トリポリの南東約150キロの都市バニ・バリド(Bani Walid)に対してリビア政府軍は封鎖と砲撃を開始しました。戦闘は次第に激しさを増し、多数の死者負傷者の症状から有毒ガスなどの化学兵器の使用の疑いも報じられるようになりました。10月20日当りから攻撃は激化して、遂に10月24日にはバニ・バリドの陥落が宣言されました。」と書いた通り、根強く息づいているカダフィ支持者の残党に対する厳しい処罰行為は続いているのです。彼らはリビア国内では「緑の抵抗団(Green Resistance,アラブ語でTahloob)」といって、知らない人はないそうです。彼らの抵抗運動の報道は多数あります。
 バニ・バリドの封鎖と攻撃で散々痛めつけられた人々の多くが黒人であることも注目に値します。カダフィ政府の熱心な支持者の多くが黒人であったことは、このブログでも何度か言及しましたが、英国のスカイ・ニューズの2012年10月23日の記事を一例として掲げておきます。その中に牢獄の中で黒人たちがカダフィのリビアの象徴であった緑の旗を無理に食わされるムービーがあります。
 
http://news.sky.com/story/1001431/black-libyans-bear-brunt-of-post-gaddafi-chaos

 ベンガジ事件の真相は永久に判明しないかも知れません。これまでのオバマ政府の無茶苦茶な嘘つきぶりを見ていると、そう結論せざるをえません。私としては、今の時点で既にオバマ政府の“公式発表”には興味を失っています。リビア猛爆の直前に発表されたバイアグラ・スキャンダルのことを思い出して下さい。しかし、一つの予告の形で、私の願いを述べておきたいと思います。
 リビアで米欧帝国主義勢力が行なった言語道断の暴挙がこのまま許される筈はありません。やがて、いつの日か、アフリカの大地に米欧帝国主義の墓標が立てられる時が必ず来ます。その時、リビアは米欧帝国主義の真の The Beginning of the End として世界の人々の記憶に甦ることでしょう。

藤永 茂 (2012年11月14日)



リビアの息の根(1)

2012-11-07 13:07:49 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 リビアの息の根はまだ止められていないようです。
 2001年の9・11の11年目の記念日、2012年9月11日、アメリカのリビア大使クリス・スティーブンスがリビア東部の都市ベンガジで襲撃を受けて殺害されました。大使と共にアメリカ人スタッフ3人、計4人のアメリカ人が一度の襲撃で殺されたわけで、アメリカにとって大変衝撃的な事件でした。アメリカの大使館はリビア西部に位置する首都トリポリにあり、カダフィはトリポリに居を構えていましたが、東部の大都市ベンガジはカダフィに対する反乱の出発点、反乱勢力の拠点となった都市であって、カダフィが惨殺されて、2011年10月23日、国民評議会がリビア全土の解放を宣言し、内戦は終了したと一般的に認識された後では、ベンガジを中心とする東部地区が独立する動きさえ現れました。それにはガダフィ時代にリビア全体の財政を賄っていた石油資源が主に東部に存在することと大いに関係があったのは言うまでもありません。独立云々は別としても、クリス・スティーブンスというアメリカ人はベンガジ現地に乗り込んで反カダフィ組織の国民評議会を盛り上げ、見事にカダフィ政権を打倒した主役の人物であり、彼自身の感覚としても、ベンガジは人々の感謝に包まれる居心地の良い安全な場所だという思い込みがあったに違いありません。クリス・スティーブンス殺害のニュースが伝えられた当初には、大使はたまたまベンガジの総領事館を訪れていて襲われたことになっていましたが、そうではなく、市内の一区画で米国人の官僚や主に石油関係の民間人などが生活の拠点としていた住宅地区の一角で殺されたのでした。その建物は領事館的な機能は果たしていたのでしょうが、アメリカ人の正式セキュリティ要員は配備されておらず、警備を担当していた現地リビア人も10人ほど殺害されましたが、マスメディアはリビア人の犠牲者についてはほぼ完全に沈黙を続けて今日に到っています。要するに殺害された4人のアメリカ人の命に較べて現地人スタッフの命など何の意味もないということでしょう。これについてはこのブログでも以前に取り上げました。
 死者十数人を出したとすれば、これは重大な襲撃事件ですが、アメリカ政府の最初の公式発表によれば、この事件の少し前に、アメリカのアマチュアが制作した映画の内容がイスラム教の預言者モハメッドを侮辱したとして、エジプトの首都カイロで起った抗議集会の流れを受けて、リビアのベンガジでも同様にして自発的に人々が集まって来て反米的な抗議行為が始まり、それがエスカレートして、クリス・スティーブンス大使が殺害される結果になったという説明でした。つまり、何かしら偶発的な事態のエスカレーションによって、この不幸な事件が勃発したという印象を人々、あるいは、いわゆる国際社会に与える必要があったのでしょう。とすれば、現地人の死者が10人ほど出たことを伏せようとしたのもリビア人の人命軽視ということではなく、事件の重大さを隠蔽する必要から出たことであるのかも知れません。
 オバマ大統領とヒラリー国務長官は直ちに声明を発表して、犯人を捕えて厳しく罰することを誓いました。クリス・スティーブンスを殺害した犯人たちは何者なのか? オバマ政府は、反イスラム映画に対する反対を表明した群衆だという立場を先ず取りました。NATO筋からは「外国人過激派」という説が流されました。トルコ政府は「シリアのアサド政権がやった」という見解です。米国の議会筋ではアルカイダが犯人だろうという声もあります。いやイランがやったという意見も反イランのアラブ王国にはあります。
 しかし、クリス・スティーブンス大使殺害のニュースの直後には、アルジャジーラ、ロイター、ガーディアンなどの有力報道機関は一斉に「これはカダフィの残党の仕業と考えられる」と報じていたのです。これは、一致してカダフィのリビアを圧倒的な暴力で破壊することに成功したと信じた“国際社会”が最も耳にしたくないニュースであり、事実であることは間違いありません。2011年10月23日の国民評議会のリビア全土の平定解放の宣言に続いて、10月30日には、NATOはリビア作戦の完全成功による終結を発表しました。それから、ほぼ11ヶ月後に、カダフィ打倒の勢力の拠点であったベンガジで、カダフィ打倒攻勢の事実上の指揮を取ったアメリカの練達外交官僚クリス・スティーブンスが、ガダフィ支持勢力の残党組織によって殺害されたとなると、これはまことに由々しき事態と言わなければなりません。
 この10月(2012年)始めから、トリポリの南東約150キロの都市バニ・バリド(Bani Walid)に対してリビア政府軍は封鎖と砲撃を開始しました。戦闘は次第に激しさを増し、多数の死者負傷者の症状から有毒ガスなどの化学兵器の使用の疑いも報じられるようになりました。10月20日当りから攻撃は激化して、遂に10月24日にはバニ・バリドの陥落が宣言されました。
 私が見るところ、これが、クリス・スティーブンス大使殺害の直後にオバマ大統領とヒラリー国務長官が約束した「犯人厳罰」の実行です。詳細の説明は次回に行ないます。

藤永 茂 (2012年11月7日)