私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

人種差別(racism)(2)

2020-09-29 00:54:57 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 

 1959年の7月から、私はシカゴ大学の物理学教室でリサーチ・アソシエイトとしてロバート・マリケンという教授の下で研究生活を始めました。マリケン教授の研究グループは、大学院学生を含めて、20名を超える大きさでしたが、その中の生活で人種差別を経験したことはありませんでした。

 米国生活の2年目、1961年の初夏、私は妻と5歳と3歳の息子を連れてカリフォルニア州ロサンゼルス市郊外のアナハイムにあるディズニーランド・パークに行くことを思い立ちました。このパークは1955年7月の開園で、すでに評判になっていました。私がシカゴ市にいた頃には、ダウンタウンに日本航空の支店があって、米国内の航空旅行一般を取り扱っていたので、そこに出かけてアナハイムのディズニーランドに行く家族旅行の航空券と宿泊の相談をしました。パークの案内書を見ると、パークの内部にある直営ホテルの記事が出ていましたので、宿泊料は高価でしたが、折角の機会ですから、そこに泊まることを決心して日航支店の係員さんに宿泊の予約を頼んだのです。ところが係員さんが奥に入り、日航の顧問と名乗る60歳前後の恰幅の良い日本人紳士が出て来て、「パークの直営ではないが、すぐ近くに良いホテルがあるのでそこに泊まりなさい」と言うのです。しかし、私は、パーク敷地内の便利そうな直営ホテルに家族を泊まらせてやりたいという思いが強く、顧問さんの勧めを断りました。顧問さんの顔が一瞬曇ったのですが、係員さんに、私の希望通りのフライトとホテルの予約をさせました。

 ところが、ホテルの受付でサプライズが待っていました。宿泊が受けつけられなくなったので他のホテルに行ってくれと言うのです。シカゴ日航支店からの予約文書はちゃんと整っていることは一見して明らかでしたから、私は声を荒立てて相手の理不尽さを執拗に抗議しました。間抜けな私は、相手がはっきりそう言わないものだから、これが人種差別だとは思い及びませんでした。あくまで頑固に食い下がる私に、とうとうホテル側が降参して、私たち家族4人は、やがて瀟洒な部屋に案内され、旅装を解いたのでした。ホテルの客もスタッフも全て白人、これが人種差別の具体的対象となった私の最初の経験です。

 今、ネットに出ている[ディズニー直営ホテル ]の説明を見ると「長年ディズニーランド・リゾートのメインホテルとして人気を集めてきた老舗ホテル」とありますが、その高層ホテルは私のぼんやりした記憶とは合致しません。私たちが宿泊した時から60年たった今は、数多の非白人の人たちがアナハイムのディズニー直営ホテルの中を楽しそうに闊歩しているものと私は想像します。

 1963年の春から私は招待研究員としてカリフォルニア州サンノゼのIBM会社の広大な敷地の一部を占める平屋建ての研究施設で研究に従事しました。IBMの本社は米国東部にあって、1960年ごろから20年ほどの間、大型電子計算機では世界中を席巻支配したハイテク企業の先達です。私が滞在した頃は、サンノゼでは磁気ドラムメモリー装置などを製作していました。ある朝、出勤して駐車場で車のドアを閉めようとした私は、右手の親指の先をドアに挟んで潰してしまいました。馬鹿な事故で、爪が肉に食い込み、出血しました。ハンカチで押さえながら研究所内に入ると友人の研究者(イタリア人)が「医療係を兼ねている秘書がいるから」と言って、中年の女性(白人)のところに私を連れて行ってくれました。ところがその女性は硬い表情で私の友人と声を潜めて何か問答を交わし始め、それが終わると、友人は「今から本部の医療室に行こう」と言って、私を研究棟から連れ出しました。中央の建物に到着する道すがら、イタリア人の友人は「彼女は白人以外の患者の体に触れたことがないんだってさ」と、私が潰れた指先の応急処置をしてもらえなかった理由を説明してくれました。1963年と言えばケネディ大統領が暗殺された年、随分と昔の話です。

 1968年、私はカナダに生活の場所を移しました。カナダは米国と同様にアングロサクソン白人(WASP)達が支配する多民族移民国家ですが、米国が「人種の坩堝(メルティングポット)」を標榜するのに対して、カナダのスローガンは「人種のモザイック」で、同化政策的傾向はカナダの方が弱く、従って、人種差別の度合いでは、カナダの方が米国よりマシだというのが一般の認識です。カナダで生活を始めた私は、ほぼ10年前の米国初渡航の頃に比べて、私を含む非白人に対する人種差別についての実体験も豊かになっていましたが、一つ新しい認識として、北米大陸の先住民、いわゆるアメリカインディアンたちが過去に味わった悲惨、現在も続く苦難を具体的に知り、大きな衝撃を受けました。

北米大陸の入植植民地化を開始したWASP達は、ひとたび橋頭堡を確立すると、先住民達の人間的誇りがあまりにも高く奴隷化が困難であることを悟ってからは、先住民に対して手段を選ばない民族浄化(簡単に言えば、皆殺し)の政策に着手し、その進撃がカリフォルニアの太平洋岸に達して、いわゆる「フロンティア」が消滅するまで続きました。

 私がカナダに渡ったのは丁度ベトナム戦争の真っ最中で、ベトナムの人たちが「対米抗戦」と呼ぶ、米国による無差別皆殺し戦争が、私の心の中では、北米での先住民無差別皆殺し戦争と結びつきました。物理学者として口を糊する身の私が、あえて『アメリカ・インディアン悲史』(朝日新聞社、1972年)を執筆した理由です。

 1997年の6月、米国メリーランド州ボルチモアのピーボディ音楽院で教鞭をとっていた長男に呼ばれてボルチモアに旅行し、チェサピーク湾に面するこの土地の名物である蟹料理専門のレストランに連れて行って貰いました。広い店内は全く大衆的な雰囲気でしたが、驚いたことに、黒人の客は一人も見当たりません。当時のボルチモアの人口の半分は黒人であることを聞き知っていた私が、「この店、黒人ははいれないの?」と息子に尋ねると、「入れないのじゃなくて、入らないの」という答えが返ってきました。セグリゲーションが自然に起こっていたわけです。あの時から20年たった今はどうなっている事でしょうか。

 人種差別という現象は難しい問題です。米国のアカデミズムではCRT (Critical Race Theory ) という怪しげな理論も持ちはやされて物議を醸しているようですが、ロビン・ディアンジェロさんの『白人の脆弱さ(White Fragility)』と同じく、無視することにして、次回のブログでは、人種差別学の専門家たちが児戯に等しいとして馬鹿にするに違いない、私自身の経験に基づいた人種偏見絶滅の方途を披露することに致します。

 

藤永茂(2020年9月29日)


人種差別(racism)(1)

2020-09-09 23:04:53 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 

 先月、朝日新聞で、米国ではロビン・ディアンジェロという白人の女性社会学者が2018年6月に出版した『白人の脆弱さ(White Fragility)』という本が、今年の夏になってベストセラー(ノンフィクション部門)のトップの座を長期間占めたことを知りました。本書の紹介者宮家あゆみさんは、

“表題の「白人の脆弱さ」とは、11年前に著者が作り出した専門用語。白人が「最小限の人種的ストレスを受けただけで耐えられなくなり、様々な自己防衛的な行動をとる状態」を表す。例えば、ベージュのクレヨンを「肌色」と呼ぶのは不適切ではないかといった簡単な質問にも、白人は動揺し、早口で弁明する、沈黙する、話題から逃げるなどの反応を示すという。”

と解説しています。人種差別の問題に強い関心を持っている私は、早速注文して取り寄せました。200ページ足らずの本ですが、読み辛い、私にとっては、なかなか難解の本です。アマゾン(米国)のこの本の購入者評価の数は12,676にも登っています(9月2日)から、余程の評判なのでしょう。識者による書評も沢山あります。一例として雑誌「アトランティック」のもの:

https://www.theatlantic.com/ideas/archive/2020/07/dehumanizing-condescension-white-fragility/614146/

を挙げておきます。この主題「白人の脆弱さ(White Fragility)」についての

ディアンジェロさん自身の講演動画もいくつか見聞できます:

https://www.youtube.com/watch?v=45ey4jgoxeU

 このWhite Fragilityという言葉に対する私の最初の(本を読む前の)直感的な反応は「変な言葉だなあ」というものでした。北米大陸の白人の持つ人種差別感情のどの面が脆く弱いのだろう!? 最近はWASP(White Anglo-Saxon Protestant) という言葉は耳にすることも目にすることも殆どなくなりましたが、私が北米白人社会に接し、その中での生活を経験するようになった1950年後半からの半世紀間、WASPという言葉で括られる北米白人たち一般に“脆弱さ”を感じた記憶はありません。

 人種差別の問題は私にとって大変難しい問題で、よく分からないままで死んでしまうことになると思います。その核心的な問題はユダヤ人問題です。ルイ=フェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Céline)という特異な作家がいます。十数年前、私はこの人を通じてユダヤ人問題に近づこうと思い立ったのですが、もう時間切れです。あまりにも遠回りの道を選んでしまいました。

しかし、人種差別について、私にはっきり分かっていることもあります。ロビン・ディアンジェロさんが編み出して、今、評判になっているWhite Fragilityという胡散臭い学問的専門用語の議論などには深入りせず、北米の歴史ではっきりしている事実と、私自身の経験だけに限って、人種差別についての私の思いを述べてみようと思います。

 『White Fragility』と同じ頃にShawn Swankyという人の筆になる『THE GREAT DARKENING』(2013年出版)という本を入手しました。この本によると、1862年から1863年にかけての1年間に、当時英国の植民地であった(カナダ西岸の)ブリティッシュ・コロンビアで、入植民が意図的に伝染させた天然痘によって、10万人のオーダーの先住民が死にました。この地に住んでいたティルコティン族やハイダ族などの先住民のほぼ90%が病死し、の全員が死んでしまった場合もあったようです。先住民にはもともと土地の所有権の概念がなく、疫病で住民が消失あるいは激減した土地は、たちまち、白人の奪うところとなりました。この入植英国白人の暴虐に対して過激化した先住民(ティルコティン族)たちが武力反抗に立ち上がり、入植白人14人を殺害するに至りましたが、反乱は鎮圧され、捕らえられた5人のティルコティン族反乱指導者は、もっともらしい裁判の上、見せしめの為、公開の絞首刑に処せられました。その日1864年10月26日は、現在も、先住民の記憶の中に生きているとのことです。この史実に興味のある方は、次のサイト:

http://www.shawnswanky.com

をのぞいてみて下さい。

 英国白人(WASP)が北米先住民を天然痘菌で殺戮した例としては、米国北部のデトロイトの辺りで起こったいわゆるポンティアック戦争(1763年〜1766年)中の事例が有名です。ポンティアックは先住民側の軍事勢力を代表する“酋長(チーフ)”でしたが、強力な権力者の役柄を担っていたわけでも天才的な武将でもありませんでした。ただ不法残忍な侵入者に対する先住民たちの激しくも正当な憤怒のシンボルとして入植白人たちの目に焼き付いた存在でした。英国軍側の総司令官はジェフリー・アマースト将軍で、彼の着想に従って、部下が天然痘菌を付着させた毛布を先住民側に渡したことになっています。近年、その真偽についての疑問が持ち上がっていますが、ジェフリー・アマーストが天然痘を伝染させて先住民を殺戮するアイディアを抱いたことは歴とした史料によって確認できます。北米の英国軍に対する先住民軍の攻撃は熾烈を極め、その戦士たちの勇猛さは英国軍と入植白人たちに衝撃を与えるに十分、白人側が先住民を殲滅するのに手段を選ばない心理状態に落ちたのも当然でした。同時に、チーフ・ポンティアックの名は、北米先住民の勇猛さ、かっこよさのシンボルとして北米入植白人の心に刻み付けられたのだと思われます。

 1776年はアメリカ独立の年です。ポンティアック戦争が戦われたデトロイト地域は、やがて、世界を席巻する米国の自動車産業の大中心となり、ポンティアックの名はゼネラルモーターの製造車のブランド・ネームの一つとしてとして、世界中に知られることになりました。私の北米生活で最初に購入したのはポンティアックの中古車でした。

 『THE GREAT DARKENING(大いなる暮色)』(2013年出版)が告げる天然痘伝搬による民族浄化(ethnic cleansing)の事件(1862年〜1864年)を私はこの本で初めて知りました。この事件がブリティッシュ・コロンビアのローカルな先住民以外の人々に知られていないのは、英国白人(WASP)達による意図的な歴史の歪曲抹消の結果です。 この事件はポンティアック戦争(1763年〜1766年)から約100年後の出来事ですが、これからまた100年後に目を移してみると、私の眼前に一つの注目すべき著作がクローズ・アップします。カナダで1941年に初版が出版されたエミリー・カー著『クリー・ウィク』(Emily Carr : KLEE WYCK) です。エミリー・カー(1871年〜1945年、白人)はカナダの女性画家として、おそらく、世界中で最もよく知られた人でしょう。オクスフォード大学出版局から出版されたこの本は出版直後から大変な賞賛を浴び、時のベストセラーになって、亡くなる少し前の70歳でのこのデビュー作で彼女は一躍作家としての地位を確立したのでした。1951年、“カナダの古典”というシリーズを出しているクラーク・アーウィンという出版社がオクスフォードから版権を買い取って『クリー・ウィク』を継続して出版し、その後の50年間、北米や英国で永続的に版を重ねてきました。日本でもエミリー・カー著『カナダ先住民物語』というタイトル、上野真枝さんの立派な翻訳で、2002年に出版されました。

 ところが、2004年になって、別の出版社から『クリー・ウィク』の初版本を復元した新版が出版され、その解説的序文から、クラーク・アーウィン社から出版販売されていたものは、1941年の原著から2300語以上を削除したものであることが分かります。では、どの様な内容の文章が、どんな理由で削除されたのか?

 北米大陸に乗り込んできたWASP(White Anglo-Saxon Protestant) 達が本心で望んでいたことを直截に言ってしまえば、それは先住民の皆殺し(extermination)です。ジェノサイド(genocide)です。民族浄化(ethnic cleansing) というむごたらしく汚らわしい言葉もあります。皆殺しが地域的に成し遂げられる場合もあります。米国西岸のカリフォルニア州はその好例でしょう。しかし、エミリー・カーが生まれ、生活したカナダの西岸ブリティッシュ・コロンビア州ではかなりの数の先住民が生き残りました。WASP白人勢力が政治権力を握った州政府はハイダその他の先住民に強引な同化政策を適用し、彼らの伝統的な生活文化を破壊しようとしました。その先鋒の役を担ったのが、キリスト教の宣教師達でした。先住民の生活文化に強く心を惹かれ、政府の同化政策に反対であったエミリー・カーは『クリー・ウィク』の初版の中に、とりわけ宣教師達の振る舞いに対する批判を込めた文章を沢山書き込んでいました。そうした、同化政策を推進する勢力の神経を逆撫する様な文章が組織的に『クリー・ウィク』の原文から削除されてしまっていたのです。

 ポンティアック戦争(1763年〜1766年)での英国軍側の総司令官ジェフリー・アマースト将軍の天然痘菌使用の発想、1864年、ブリティッシュ・コロンビアでのティルコティン族反乱指導者達の公開絞首刑、1951年からの半世紀にわたる『クリー・ウィク』の内容削除の継続と、この三つの事件のつながりが浮き彫りにするものは、アングロサクソン白人(WASP)達の首尾一貫した強固な人種差別の姿勢です。その強靭な心理に脆弱さなど見当たりません。敢えて言えば、このWASPの危機的状況下に、一種学術書の様な装いで『白人の脆弱さ(White Fragility)』が出版され、それがベストセラーになる現象の裏に、アングロサクソン白人達の強かさが伏せられている様に、私には思われます。

 1950年代の終わりから、非白人として北米大陸での生活を50年間経験した私は、それなりに人種差別についての考えを蓄積してきました。次回には私自身の実体験を中心にお話をしてみます。

 

藤永茂(2020年9月9日)