私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

松本仁一著『カラシニコフ』(2)

2007-02-28 09:45:08 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 本書の第1章「11歳の少女兵」は1991年に始まったシエラレオネ内戦の話です。1995年、美しい目の少女ファトマタ・カラマは11歳で反政府ゲリラRUFに拉致され、AK47を渡されて兵士にさせられました。こうした子ども兵士の数は1万5千人を超えたといわれています。彼らはAK47を手に町や村を襲って殺戮と掠奪を繰り返し、ファトマタも3人を射殺。少年少女たちが受ける心の傷の凄まじさは想像に余ります。
 本書ではシエラレオネと隣国のリベリアの過去の歴史が次のように要約されています。「1787年、英国が解放奴隷を移住させてフリータウンの町をつくる。そこを中心に「國」ができた。米国が1822年、解放奴隷を送り込んでつくった隣国リベリアと成り立ちがよく似ている。そして両国とも、近代型の国家を建設することができなかった。移住者が先住者を差別支配したからだ。黒人による黒人差別だった。国民同士が対立し、国家への一体感は育たない。健全な国民意識が発達しない中で、権力者はダイヤモンドなどの利権を私物化し、教育や福祉、医療、インフラ整備などの國の建設は放置された。」新聞の連載記事はまず“読ませる”もの、一種のエンターテインメントでなければならないのは、承知しています。アフリカ史の解説記事ではないことも分かっています。しかし、「教育や福祉、医療、インフラ整備などの國の建設」が放置された理由が「黒人による黒人差別」だったと言い切ってしまうのは余りにも荒っぽく酷い要約です。
 シエラレオネの東部、リベリアとの国境近くは良質のダイヤモンドの産地です。その「ダイヤ利権をめぐり、政争が繰り返された。政権を握ったものがダイヤ収益を独占し、自分の一族に分配するという仕組みだ。そのダイヤ利権に、隣国リベリアの反政府指導者チャールズ・テーラーが目をつけた。」悪名高いテーラーの登場です。「ファトマタを拉致したRUFはそのテーラーとつながっていた。RUFは東部のダイヤ産出地帯を支配してダイヤを安く買い取り、国境を越えてリベリアのテーラーに売り渡す。その見返りにテーラーから武器弾薬を受け取った。」「シエラレオネ内戦は、地域ボスたちの利権争いに、隣の地域の暴力団ボスが手を突っ込んだという構図なのである。」この歯切れのよい構図をしっかりと頭に叩き込まれた読者は、第1章で展開されるシエラレオネ内戦の目を覆う地獄絵の現地密着ルポをたどることになります。英国と米国が、解放奴隷のために、折角、シエラレオネとリベリアを建設してやったのに、いざ黒人に國の運営を任せてみると、無茶苦茶に、元も子もなしにしてしまった-これが大部分の読者の思い込むところでしょう。
 そうではないのです。言うまでもなく、「フリータウン」は自由の町、「リベリア」は自由の國を意味します。しかし、この二つの麗々しい名前はアングロサクソンの自己欺瞞と粉飾の典型であり、黒人奴隷にとっては始めから呪うべき名前であったのです。それをはっきり見据える一番の方法は、リベリア建設を一手に担った「アメリカ植民協会」(American Colonization Society)という組織の歴史を知ることです。
ネット上で十分学べます。英語ばやりのこの頃、読むのはいやだ、はないでしょう。アメリカでは、独立戦争以前から、北部で奴隷制度反対の声があり、奴隷の身分から解放される黒人が少しずつ増えていました。1790年、独立直後の統計では米国内の黒人人口約76万、その内6万人が解放奴隷(free slaves)、その数は漸増の見通しでした。アフリカに米国の植民地を開いて解放奴隷を送り込む事業を具体的に着想したのは、ニュージャージー生れの白人牧師Robert Finleyで、彼には黒人の福祉を思う気持がありました。しかし、彼が首都ワシントンに出てACS(American Colonization Society)が設立された時点では、ACSのメンバーが「奴隷でなくなった黒人は アフリカに送ってしまうのが、奴隷制度の維持と白人国アメリカのための最善の政策」と考えていたのは明白に立証できる事実で、やがてリベリア(自由の國)という皮肉な呼び名を担う植民地は、アメリカ国内の奴隷の解放とその後の福祉を目指すものでは全然なかったという事実を、私たちは忘れてはなりません。1817年1月1日、ACSはアメリカ合衆国最高裁判事 Bushrod Washington を会長として発足、発起人はすべて白人で、下院議長Henry Clay、Andrew Jackson 将軍などの有力者が名を連ねました。時の大統領 James Monroe はヴァージニア州の知事の頃から解放奴隷の国外追放(deportation)を支持していましたから、当然ACSの熱心な支持者になりました。少し横道ですが、私としては、アンドリウ・ジャクソンに触れないわけには参りません。ジャクソンは,1830年、大統領として「Indian Removal Act (インディアン強制移住法)」に調印し、在任中5万人の先住民を西部に追いやります。奴隷として使えなくなった黒人同様、出来るものならば、先住民たちも国外に追放したかったのでしょう。 さて、話を元に戻します。ACSの真意を見抜いた黒人たちは直ちに抗議の声をあげます。ACS発足の1817年、3千人以上の黒人がフィラデルフィアでACSの植民政策反対の集会を持ったことが記録されています。棄民政策であることを見抜いたからです
 1820年1月31日、小型商船エリザベスは86人の黒人移住者とアフリカでの生活用物資、それに大砲2挺、小銃100挺、火薬などを積んでニューヨークから出航し、まずシエラレオネのフリータウンに寄って、それから適当な植民場所を探しましたが土着民たちの抵抗にも会い、4月頃になると病死する移民が続出して、結局フリータウンに引き揚げてくる不始末に終りました。移民計画頓挫のニュースに大統領モンローはがっかりしましたが、あくまで強気に計画を推進、1822年1月には軍隊を派遣して4月強行上陸、紆余曲折を経て、シエラレオネから西南へ300キロのメシュラード岬を植民開拓の地と決めました。この植民地はリベリアと名付けられ、家屋や教会が建てられた沿岸の地は大統領の名を取ってモンローヴィアと呼ばれることになります。やっと軌道に乗ったかに思われた米国植民地リベリアでしたが、ACSが躍起になって宣伝しても、黒人一般の反対気分のため、移住希望の解放黒人の数は少なく、1830年になっても移住者は1500人に満ちませんでした。ところが、1831年8月21日、かの有名な「ナット・ターナーの反乱」がヴァージニア州で起ります。米国史上で最も重大な奴隷反乱です。ターナーと6人の黒人奴隷は白人主人とその家族を殺し、銃を集め、奴隷仲間を誘って、総勢75人となり、60人ほどの白人を殺害しますが、やがて打ち負かされ殺されて、ターナーも11月30日に絞首刑に処せられました。事件にショックを受けた白人たちは、多数の無実の黒人を射殺し、奴隷取り締まりの法律を厳しくする一方、解放奴隷をアフリカに送り出してしまうという事業目的に賛同してACSへの寄付金が急増し、同時に、黒人の側にも、「ナット・ターナーの反乱」以後の白人側からのbacklash に嫌気がさして、進んで「自由の國」リベリアへ移住する者も急増し、その数は1832年だけで千人を超えることになりました。これが、米国のアフリカ植民地リベリアのはじめ10年の歴史ですが、これから先も、すべてはアメリカ合衆国のご都合次第で事が進められ、碌なことはありませんでした。話の続きは次回に。

藤永 茂 (2007年2月28日)



松本仁一著『カラシニコフ』(1)

2007-02-21 09:48:45 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 この本は、朝日新聞の朝刊に2004年1月12日から4月8日にかけて連載され、話題を呼んだ「カラシニコフ-銃・国家・ひとびと」をその後の事態の変化などを加えて書き直して、2004年7月に発行されました。表紙のタイトルの肩にはAK47 の文字と銃の画が付いています。私は朝日を購読していませんし、日本を留守にしがちでしたので、連載も本も知りませんでした。2007年1月7日のブログの英語クイズ「AK?47 as WMD」は朝日の読者にとってはやさしいクイズであったに違いありません。魔の自動小銃AK47を巧みに使って、いま世界が抱える大問題「アフリカ」に多くの日本人の注意を向けることに成功したのはこの本の大きな功績です。遅ればせにこの本を読んだ私は、しかし、別の大きなクイズを問いかけられたような気持がします。大きな危惧を抱かされたと言った方が正確かも知れません。一つの問いの形にすると「アフリカにとりわけ失敗国家が多いのは何故か?」となります。この本の読んだ人の大部分は、少し考え込んでから、結局の所、口には出さずとも心の中で、「やっぱり、多分、アフリカの黒人がダメなんじゃないの」と結論するのではないか-これが私の大きな危惧です。読者だけではない。松本仁一さん御自身も、はっきりそうだと書かずとも、「黒人はダメだ。アフリカの悲惨な現状をもたらした責任はアフリカ黒人にある」と内心では思っておられるのではありますまいか。読者として、私はこの本の幾つかの個所でそのように感じます。二カ所取り上げてみます。
 まず南アフリカ共和国政府についての見解です。「警官の給料の遅配・欠配こそないものの、南ア政府からは国民の安全を守ろうという強い意思を感じられなかった。犯罪と懸命に闘っていたのは、「キューインシデント」の財界や「希望の山」「バッテリーセンター」のNGOだった。十年前、希望に満ちてスタートした新しい南アがいま、治安の面では「失敗国家」すれすれのところにいる。」(p224) 初代大統領ネルソン・マンデラとそれを継いだタボ・ムベキ現大統領の苦渋に満ちた南ア共和国舵取りをp221の「政府は治安に無関心」という見出しで括るのは、少し荒っぽすぎます。同じことはp171の「植民地のほうがましだった」という見出しの下で語られているお話についても言えます。その中で一人の女性が「独立して三十五年、何もいいことがありませんでした。・・・植民地時代のほうがましだった」と言います。正直な実感でしょう。しかし、このエピソードから日本の一般の読者が引き出すに違いない結論について、松本さんは何も思い惑うことはなかったのでしょうか?
 私は、この注目すべき著書『カラシニコフ』について、今から断続的に長い論評を試みたいと思います。今日はその第一回として、この本の第一章で取り上げられているシエラレオネに就いての一つのコメントから始めます。それは拙著『闇の奥の奥』のp208で言及したアフリカヌス・ホートンの事です。
 「ホートンはエディンバラ大学などで医学を修め、1859年医師の資格を取り、英軍軍医として21年間勤務して中佐にまで昇進する。森鴎外の生涯に30年先んじている。英軍軍籍を離れてシエラレオネに帰ったホートンは、1868年、『西アフリカとその国民』と題する英書を出版して注目を浴びたが、ここで彼は西アフリカに幾つかの独立国を建設することを提案したのである。しかし、当時、解放奴隷の福祉よりもアフリカ西海岸の植民地支配強化を重視していた英国政府はホートンを潜在的な危険人物と看做し、その影響の排除に向けて動いたのである。この歴史の時点での英国政府の利己的行動を見逃しては、その後のシエラレオネの歴史と現在の無残な情況を解読することは出来ない。コンラッドの「限界」を考える場合、ホートンをはじめとするアフリカ黒人の知的指導者たちが、コンラッドの『闇の奥』以前の時期に、黒人国の独立を志向し構想していたことを忘れてはなるまい。」(『闇の奥の奥』208)。
ホートンは1835年シエラレオネで生まれました。父親は大工さんで元奴隷のイボ族の黒人でした。子供の頃から大変な秀才ぶりを発揮し、シエラレオネの中心都市フリータウンに英国が設けた黒人教育施設フォラー・ベイ・インスティチュートに学び、英軍から奨学金を得て英国に渡り、1859年エディンバラ大学で医師の免許を取ります。大学で勉学中に、生まれた時からの名前James Beale Horton を Africanus Horton と改めます。アフリカ人としての自覚がさせた改名でした。コンラッドをレイシスト呼ばわりして物議をかもしたアチェベも大学生の時にAlbertという英語名をChinua というアフリカの名に変えましたが、その百年前にホートンという同じイボ族の先輩が居たわけです。事実、アフリカに独立の嵐が吹き荒れる百年前に、ホートンはアフリカに独立の黒人国をつくる事を真剣に考え、その考えを公にしたのでした。ホートンは1861年から数年間にわたって、シエラレオネに黒人の指導的人士を育成するための大学の設立に努力を尽くしましたが、植民地官僚とキリスト教伝道師たちの強い妨害にあって、実現しませんでした。彼らにとって「人種平等」などもってのほかの考えだったからです。
 Edward Wilmot Blyden (1832-1912)もホートンと同時代の偉大な黒人でした。ホートン、アチェベと同じく、ブライデンもイボ族の黒人奴隷の子孫としてヴァージン諸島地域で生れ、アメリカ合衆国に渡って神学校に入学を試みますが、黒人という理由で拒否され、その上あれこれひどい目に会いました。南北戦争以前のアメリカに見切りをつけて1851年リベリアに移住し、やがて、社会的に重要な地位を占め、1885年にはリベリアの大統領候補にもなりましたが、成功しませんでした。彼はそれを機会に隣国のシエラレオネのフリータウンに居を移し、黒人社会の有力者として過ごします。彼には多数の著作があり、「Christianity, Islam, and Negro Race 」(1887年)は特に有名なようで、現在もその復刻版をアマゾンから入手できます。
 拙著『闇の奥の奥』ではホートンの事(p208)の他に、p194でもジョン・ホーキンスとフランシス・ドレークに関連してシエラレオネに言及しました。『闇の奥』のマーロウがイギリスの誇りとする彼らが“海賊”として活躍したのは1500年代のなかばです。シエラレオネは長い歴史を持っています。それを大雑把にでも知らなければ、シエラレオネの現在の惨状を理解する視点は得られません。
 コンラッドの『闇の奥』のマーロウはこう語ります。「僕はフランスの汽船で出発した。船はあちらにある港という港に一つもらさず寄っていくのだが、・・・」(『闇の奥』p37)。このくだりを読んだ読者はマーロウの船が寄港した港の中にシエラレオネのフリータウン、ホートンやブライデンが浩瀚な著作の数々を執筆してイギリスで出版し、黒人の思想的指導者として活躍する人口数千人の大きな都市があったとは想像しないでしょう。そんなことをされては、クルツとマーロウのドラマの書割りとしての原始のアフリカのイメージが壊れてしまいます。アフリカはあくまで人食い人種のアフリカでなければならなかったのです。『闇の奥』執筆当時のコンラッドが同時代人のホートンやブライデンの名とその著作を知っていた可能性は十分ありまし、フリータウンを知らなかったということは絶対にありえませんので、当時のアフリカ西海岸におけるイギリスの植民地経営の一大拠点の存在を無視したのは小説構成上の意識的行為であったのです。「グラン・バッサムとかリトル・ポポとか」(『闇の奥』p38)の地名はこの小説に馴染んでも、「フリータウン」は馴染まなかったに違いありません。
 人食い人種といえば、『カラシニコフ』で「「赤い肉」みんなが食べた」という見出しの話が気になります。「何もない市場に赤い肉が出るときがありました。人肉だといううわさが広まりました。でもこの町に残った人で、赤い肉を食べなかった人はいません」(p38)。これはほんとうの話でしょう。しかし、ここで読者が「ウーン、やっぱりアフリカの黒人というのは野蛮だなあ」と思ってしまうのでは-と著者松本さんは心配にならなかったのでしょうか? 拙訳『闇の奥』の訳注(p207)にも書きましたが、「この國(イギリス)が誇りとする」(p16)男の一人サー・ジョン・フランクリンの探検隊員も餓死する前に仲間の肉を食べたことが立証されています。このカニバリズムの問題についてはコンラッドも強い関心がありましたし、私も機会を別にして取り上げてみたいと思っています。

藤永 茂 (2007年2月21日)



コンラッドの「ボイラー職工」とセリーヌの「アルシイド」

2007-02-14 11:06:11 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
  映画『ダーウィンの悪夢』にはいろいろの人たちが出てきます。ナイルパーチ加工工場の経営者、大型輸送機のロシヤ人パイロット、機体整備士、彼ら目当ての黒人プロスティチュート、建物の夜警、漁師たち、その妻たち、・・・、それぞれに懸命に生きる人たちです。インターネットで一観客の感想を読みました。「なかなか難しいのは、だれかめちゃくちゃ悪いヤツがいて、そいつが全てを仕切っているわけではないということ。それぞれの人はそれなりに一生懸命にやっているのだろうけれど全体としてはめちゃくちゃになってしまう。うまい解決手段がまったく分からないです。」
 ただ「解決手段」というのなら、はっきりしています。タンザニアの人たちが漁獲とその加工を支配し、製品の輸出価格を自主的にフリーに決め、収益をタンザニアの人たちに公平に分配をすればよいのです。しかし、今の“フリートレード”の世界では、この解決手段は全く実行することが出来ません。夢のまた夢です。ですから、結局のところ、「うまい解決手段がまったく分からない」のと同じことになります。
 コンラッドの小説『闇の奥』で、語り手マーロウに散々にこきおろされる「巡礼」と呼ばれる白人の男たちがいます。ヨーロッパから見れば地の果てのアフリカ奥地に身を落して、交易会社の現地出張所の支配人にペコペコへつらいながら、少しでも多く金を稼ぐことに汲々としている碌でなしの白人たち、しかし、彼らの中には、故郷に残してきた家族を養うために身を削る思いで働いている男たちも居たに違いありません。ザウパーの映画『ダーウィンの悪夢』の中に出てくる白人たちも、マーロウに蔑まれる「巡礼たち」と同じような人たちなのでしょう。國に残してきた家族の写真を身に付けているロシヤ人パイロットも居ました。
 『闇の奥』の中の登場人物で、家族持ちだとはっきり書いてあるのは中央出張所付きの職工長です。「僕はね、中央出張所の何人かの機械工とは結構よい仲になっていたんだ。彼らは、ほかの巡礼たちから、当然のことのように、ひどく見下ろされていた?僕が思うに、礼儀作法をよくわきまえないというのでね。座っていたのは職工長で?仕事はボイラー工?いい腕の職工だった。」(『闇の奥』79-80) マーロウが仲良しになったこの職工長は、6人の小さな子供たちを妹に預けて、コンゴ河中流まで出稼ぎに来ていたのです。彼の話は2頁たらずで終ってしまいますが、小説『闇の奥』で作者コンラッドの愛情が幾分でも注がれているのはこの人物だけです。「クルツの子分になったロシヤ人の若者がいるじゃないか」と言う人がいるかもしれませんが、私にはそうとは思えません。成る程、マーロウ/コンラッドは「もし、絶対的に純粋で、打算を知らぬ、非実際的な冒険精神が一人の人間を支配したことがあるとすれば、それは、つぎはぎだらけの服をまとったこの若者のことであった。謙虚でしかも澄み切った情炎を持ったこの男を、僕は羨ましいとさえ思ったのだ。」(『闇の奥』145)と金髪色白のロシヤ人青年を持ち上げますが、小説の中でのこの人物の取り扱い全体を検討してみると、コンラッドの真正の愛情が注がれているとは思えません。物語構成の道具としては幾つもの役割が振り当ててありますし、したがって、このハーレキンのような服を来たロシヤ青年の「解釈」をめぐって多くの評論が発表されていますが、作者の愛情という角度から論じたものは、私の知るかぎり、ありません。加えて、職工長についての評論にも、今までの所、私は出会ったことがありません。
 ヨーロッパからアフリカにやって来た出稼ぎ白人に小説家が愛情を注いだ例として、私の心を強く惹き付けるのは、セリーヌの『夜の果てへの旅』の中に出てくるアルシイド軍曹です。アルシイドの物語は中央公論社版『世界の文学42、セリーヌ「夜の果ての旅」』(生田耕作・大槻鉄男訳)で12頁(2段組)の長さに及び、これを数行に要約してしまうのは心苦しい限りです。アルシイドがコンゴ河河口の陰惨な港町トポで耐え難く辛い仕事に6年間も耐え抜こうとしているのは、両親を失った小さな姪ジャネットのためなのでした。ジャネットは小児まひの身でボルドーの尼僧院に預けられていたのです。小説の主人公でセリーヌの分身でもあるバルダミュは、そのことを知って言葉を失います。「ポマードでかためたちょび髭、偏屈者らしい眉毛、日焼けした肌。はにかみ屋のアルシイド!どれほど彼は節約しなければならなかったことか、窮屈な給料の中から・・・かつかつのボーナスと内緒のしがない商売のうちから・・・この地獄のようなトポで、何ヶ月も、何年も!・・・僕は、どう答えてよいかわからなかった。」(生田・大槻訳、p156)「天使の同類だった、この男は。しかもすこしもそんな気ぶりはなかった。自分ではほとんど意識せずに、薄い血のつながりの一人の女の子のために、何年もの拷問の犠牲を、この単調な灼熱の中でみじめな一生を終える犠牲をささげていたのだ、無条件に、取引きなしに、善良な心の喜び以外の利益を考えずに。その遠くへだたった小さな女の子ために、世界全体をも改造できるほどの愛情を捧げていたのだ。しかも表には出さずに。」人間の、人間の世界の救済不能の醜悪さをとことん描き尽くした黙示録的ニヒリストとされる作家セリーヌが、こんなセンチメンタルな文章も書いていたのか、と驚く人があるでしょう。訳者の生田耕作さんの解説には「いくぶん不自然な、調子はずれな二つの挿話(植民地軍下士官アルシイドと、アメリカの娼婦モリイの物語)をのぞいては、この長大な作品の中には一条の光もさし込まない。」とあります。モリイの物語については又のおりにお話ししましょう。
 「ポマードでかためたちょび髭」というアルシイドの描写は、『闇の奥』のマーロウが港町マタディで出会う「頭髪は真ん中で分けて、よくブラシをかけ、油でテカテカ」のおしゃれ会計士を想起させますが、この二人は別種の人間です。それはともかくとして、『闇の奥』と『夜の果てへの旅』とを比較しながら読むと面白いことが山ほど見付かりそうです。私が気付いた文献としては Regelind Farn というドイツ人の「Colonial and Postcolonial Rewritings of “Heart of Darkness”」という学位論文が出版されていて、その中で7頁にわたって『闇の奥』と『夜の果てへの旅』との対比が論じられていますが、この二つの小説の比較研究はコンラッド論(そして同時にセリーヌ論)の一つの穴場であると思われます。

藤永 茂 (2007年2月14日)



AK-47 as WMD

2007-02-07 16:24:04 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
この見出しは一つの英語クイズのつもりです。アフリカの戦乱や世界平和に深い関心をお持ちの人々には易しいクイズでしょうが、私は、つい先頃、その全体の意味を読むことが出来るようになりました。
 映画『ダーウィンの悪夢』で、ナイルパーチの白身のヒレ肉をタンザニアからヨーロッパに毎日大量に空輸する旧ソ連製の大型輸送機のロシヤ人パイロットたちは、タンザニアには空っぽで飛んでくるのだと繰り返し話しますが、しつこく聞き糺されて、「小銃やその弾薬などを積んでやってくることもある」ことを渋々認めます。ビクトリア湖の自然の富である魚肉を猛烈な勢いでアフリカの外に運び出す見返りに大型輸送機がアフリカに持ち込んでくるのは、湖畔の住民たちの生活物資でも土木建設資材でもなく、ライフルの大束とその弾薬-これは、前にどこかで耳に挟んだ話に酷似しています。そうです、100年も前、イギリスはリバプールの大海運会社エルダー・デムプスターの若い社員モレルが出張先のベルギーの貿易港アントワープで発見したのと同じ、輸出入の異常な不均衡の話です。
「 まず、コンゴ自由国からヨーロッパへの輸出。主な品目はゴム、象牙、椰子油。中でも大量の原料ゴムは、需要の急激な増大による世界的な価格高騰で、そのコンゴからの輸出は金額的に巨大な額に昇っていた。次に、コンゴ自由国のヨーロッパからの輸入。ゴム、象牙、椰子油などの現地産物は現地住民の肉体労働によって収集されるものだが、その代償をヨーロッパの通貨で支払うことは意味をなさず、彼らが欲しがるあれこれの物品との交易(物々交換)が原則だった。ところが、コンゴから持ち出されるゴムなどの物資の見返りとしてベルギーからコンゴに送られる交易品と思われる物の量は僅少で、金額的に見れば、コンゴからの輸出品の価格にくらべて全く問題にならなかった。その上、コンゴ自由国に持ち込まれる主要物資として目立っているのは、建設資材などではなく、多量の小銃その他の銃火器とその弾薬だった。」(『闇の奥』の奥、p97-8)
これらの小型銃火器の行く先はレオポルド二世の私設軍隊「公安軍」に限られず、レオポルドのコンゴの富の収奪の実務を現地で担当して自らも暴利をむさぼる民間会社群も含まれていました。彼らもそれぞれに傭兵を抱えていたのです。いまイラクで跳梁跋扈するアメリカの私企業群と変わるところはありません。
 映画『ダーウィンの悪夢』の白人パイロットたちがアフリカに搬入する小型銃火器の行方については語られていませんし、恐らく、彼らもよくは知らないのでしょう。しかし、全体の構図は100年前も今も同じで、容赦なく収奪搬出されるアフリカの富(それが魚肉であれ、ダイヤモンド、石油、ウランであれ)の見返りに、アフリカに持ち込まれるアフリカの住民たちの生活基盤のインフラ整備に役立つ資材や資本は微々たるもので、目に見えて大量に流入しているのは小型銃火器とその弾薬というわけです。
 アフリカ問題で健筆を揮っている Hugh McCullum というカナダ人のジャーナリストがいます。私が勤めていたアルバータ大学所属のシンクタンクであるパークランド研究所の一員でもあります。彼の最近の論説(2007年1月)「 SMALL ARM:THE WORLD’S FAVORITE WEAPONS OF MASS DESTRUCTION」( africafiles というウェブサイトに出ています)によれば、アフリカ大陸には1億以上もの小型銃火器が分布し、とりわけコンゴにはそれが溢れているようです。その中で数的にダントツなのがAK-47という小銃で、この略号は「1947年型カラシュニコフ自動小銃」を意味します。旧ソ連の一技術者Mikhail Kalashnikov が1947年に開発した逸品で、砂や泥水にまみれても簡単な手入れで直ぐに使え、少年少女にも容易に取り扱えるのだそうです。その「長所」がアフリカの少年少女に大きな悲劇をもたらしています。アフリカでは30万以上の少年少女たちがいたいけな「兵士」に仕立てられて内戦に狩り出され、その結果、4百万人の子供たちが殺され、8百万人が不具者となり、千五百万人が家を失ったというユニセフの報告があります。子供たちの中には、AK-47の魔力に取り憑かれて、肉親の大人たちでさえ、気に食わなければ、平気で射殺するような心の荒廃を示すものも少なくありません。この2007年2月に入ってからも、ソマリアの内戦だけで20万のchild soldiers が政府軍と反政府軍の双方から強制的に戦いに投ぜられて、日々その多数が命をうしなっていると報じられています。
 アフリカの住民の大多数は、私たちの収入水準からみれば、極貧の状態にあり、AK-47の中古品は1万円程度という驚くべき安値で売買されているとは言え、彼らが自前でAK-47とその弾薬を購入できる筈はありません。直接にしろ間接にしろ、彼らにAK-47と弾薬を買って与えている者たちが存在しなければなりません。では、誰が、何故に、アフリカの老若男女にかわって数千万挺のAK-47のお代を払ってアフリカ中にばらまくのか?この世の中、採算がとれないと分かっていれば金は動きません。間違わないで下さい。小説や映画でお目にかかる悪魔的な国際武器輸出入業者(死の商人)たちの懐に転がり込んでいる巨利のことを問題にしているのではないのです。アフリカから何が持ち出され、何がアフリカに持ち込まれているか。このトータルなマクロな収支構造にこそ私たちの視線が凝集されなければなりません。アフリカに関する世界の列強諸国のソロバン勘定は、この200年間、構造的には何も変わってはいないのです。2006年10月のロンドンのタイムズ紙に、南アフリカの大司教デスモンド・トゥトゥ(ノーベル平和賞受賞者)は、アフィリカでの小型銃火器交易の現状を“the modern day slave trade which is out of control”と書いています。彼にすれば、200年ではなく、過去500年間同じことが続いていると言いたいのでしょう。
 イギリスのケンブリッヂ大学のアマルディア・セン教授(ノーベル経済学賞受賞者)によれば、世界に何億と溢れている小型銃火器の86パーセントは、国連の安全保障理事会の常任理事国であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシヤ、中国で生産されたものだそうです。これでは国連の決議によって小型銃火器の製造交易をコントロールし、その氾濫を取り締まるのは絶望です。2006年はそれが如実に示された年として記憶される年になりました。
 さて、冒頭の英語クイズに戻ります。WMDは「weapons of mass destruction」、WMDがサダム・フセインのイラク国内にあると主張してアメリカ合衆国がイラクに侵攻したことで、すっかり世界政治のキーワードになってしまった言葉ですが、何よりも先ず、瞬時大量破壊兵器である核兵器を意味します。しかし、ポスト・ヒロシマナガサキの世界で何百万人にものぼる大量殺戮を現実に続けているのはAK-47に象徴される小型銃火器にほかなりません。前国連事務総長コフィ・アナンはこれらの呪うべき小型銃火器を、いみじくも、「weapons of mass destruction in slow motion」と呼びました。

藤永 茂 (2007年2月7日)