私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

E. D. モレル (4) 死

2006-09-27 12:50:00 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 ヨーロッパの地図を見ると、ベルギーの西北に二つの大きな島、グレート・ブリテンとアイルランドがあります。グレート・ブリテンはイングランド、ウェールズ、スコットランドから成り、アイルランドには北アイルランドとアイルランド共和国とがあります。現在、日本で英国またはイギリスと呼ばれる國の正式称号は連合王国(United Kingdom)で、グレート・ブリテンと北アイルランドを含みます。アイルランド共和国は第一次世界大戦後に英国から独立しました。英国とアイルランドとの関係は歴史的に極めて複雑です。1800年以後、アイルランド全体が連合王国の一部になっていましたが、実質的には植民地として英帝国の圧政下にあり、かつての日本帝国と朝鮮半島との関係と似たようなものでした。ケースメント(1864-1916)が生きてそして死んだのはこの植民地時代です。
 ベルギー国王レオポルド二世のコンゴ支配をヨーロッパ白人文明の担い手である大英帝国の植民地支配から区別して指弾するという視野狭窄から一番はやく脱出したのはケースメントでした。彼がアイルランド人であったことがその最大の理由です。「コンゴの森の孤独の中で私はレオポルドを見出したが、また、のっぴきならぬアイルランド人としての私自身をも見出した」と友人に書き送り、「私がアイルランド人であったからこそ、コンゴで機能している悪業のシステムの全体像を把握することが出来た」とも書いています。コンゴの黒人に対する残虐行為はアフリカに渡ってきた白人たちの個人的頽廃の結果などではなく、その背後にあって彼らをドライブしている“システム”に由来することを、ケースメントは見抜いたのです。そのシステム?植民地主義、帝国主義的支配のシステムの本質において、ベルギーとイギリスを区別する理由は何もありません。
 1904年にケースメントの衝撃的なコンゴ報告書が世に出ると、彼は各方面から注目され、ロンドンの内外で脚光を浴びましたが、1906年には再び英国領事として遠く南米ブラジルの僻地サントスに向かいました。携えた手荷物はアイルランド関係の書物で一杯であったといいます。その時すでに、やがて祖国アイルランドの英国からの独立のために戦う決意を胸に秘めていたに違いありません。
 1909年南米ペルーのプツマヨ河流域でレオポルドのコンゴの場合に酷似した奴隷強制労働によって生ゴムの採取が行われているというニュースがロンドンで問題となり、1910年5月、英国外務省はケースメントにプツマヨの現地調査を命じました。翌年ケースメントのプツマヨ報告書は英国外務省に送られましたが、前回のコンゴ報告書と同じく、当局はその内容の過激さに当惑し、外交的考慮から出版を渋り、1912年になってから世に出ました。ケースメントはコンゴ報告書とコンゴ改革の功績を認められて、1911年7月ナイトの爵位を授けられて“サー”(Sir)と呼ばれる身分になったのですが、彼は病気を理由にその儀式を欠席し、英国国王ジョージ五世の前に跪くことを避けました。アイルランド人であるという自覚がそうさせたのでした。その翌年には英国外務省の職を辞して故郷ダブリンに戻っています。
  1914年第一次世界大戦が始まるとケースメントは米国経由でドイツに向かい、10月末ベルリンに到着しました。英国の敵国ドイツを足場にしてアイルランドの英国からの独立運動の推進を図ったのです。英国兵士として参戦し、ドイツ軍の捕虜となってドイツ領土内にあるアイルランド人に働きかけ、また独立運動のためにアイルランドに送る武器の調達などを進めました。1916年の春を期してアイルランド本国で英国に対する武装蜂起の計画があることを知ったケースメントは、それを時期尚早と考え、計画の暴走を阻止する目的もあって、ドイツの潜水艦に便乗してアイルランドの西岸に上陸しましたが、事が事前に洩れていて、英国軍に捕らえられて直ちにロンドン塔に幽閉されました。1916年4月24日いわゆるイースター叛乱が起り、アイルランド独立戦争が始まりました。1916年6月29日ケースメントは死刑の宣告を受け、爵位は剥奪、8月3日ペントンビル刑務所で絞首刑に処せられました。享年51歳。異例のスピードの裁判と死刑執行でした。英国政府はケースメントが同性愛者であることを暴露喧伝して彼の名を辱めることに躍起になりました。死刑執行人アルバート・エリスは「ケースメントは私の手に掛かった者のうちで最も雄々しく死に就いた」と言ってこの死刑囚を讃えました。
 コンゴ改革運動に参加してケースメントとも交友したコナン・ドイルはケースメントの反英行動にも同性愛者であることにも反感を持ちましたが、それにも拘らず、ケースメントの法廷弁護のために700ポンドの大金を寄付し、バーナード・ショーを含む多数の知名人とともにケースメントを死刑から救おうとしたが駄目でした。しかし、コンラッドはその助命嘆願に加わりませんでした。ケースメントが大英帝国に弓を引いたのが許せなかったのです。その裁判の頃にコンラッドは一友人あての手紙に、ケースメントに就いて、こう書いています。「・・・彼はいい話し相手だった。しかしアフリカで会った時すでに私は、はっきり言ってしまえば、理性というものに全く欠けた男だと判断していた。間抜けだというのではない。感情だけの男という意味だ。感情的な力で(コンゴ報告とかプツマヨ報告とかで)世に出て成功してはみたものの、多情多感に溺れて自滅してしまった。感受性に振り回された男?まことに悲劇的な性格、しかも偉大さというものは、そのカケラも持ちあわせていなかった。あったのは虚栄心だけ。だが、コンゴではそこまでは未だ見えていなかった。」これが鋭敏犀利な文学者の人間観察というものでしょうか。コンラッドが「コンゴ日記」に書き付けた文章(前回引用)を読み返すと,冷え冷えとした風が心の中に吹き込んで来ます。
 モレルの父はフランス人、母は英国人、モレルが生涯抱き続けた英国への思い入れは、多分、母親ゆずりのもので、フランスを嫌い、英国と米国、つまりアングロ・サクソンをフランスの遥か上に置いていました。コンラッドは英国を最高の白人国家としてあこがれ、1886年英国市民となって、ポーランド名コンラッド・コルゼニオウスキーをコンラッドに変えました。モレルもモレル・ド・ビルというフランス名をモレルに変え、1896年フランス国籍を捨てて英国国籍を取得しました。しかし、二人の思想的遍歴は大いに異なる軌跡をたどったようです。
 モレルはアングロ・サクソン民族の文化的道徳的先進性とそれに伴う国際的責任をしきりに説いて、レオポルドのコンゴ自由国改革の運動に英米両国の支配層富裕層の人士の支持を求めて大きな成功を収めましたが、それは資金集めのための戦術というよりも、むしろ、彼自身の信念から出たものでした。しかし、そうした支配層の人間たちの耳に障る雑音もモレルの熱弁の中には含まれていました。モレルはアフリカ原住民の土地所有権を認めるべきであるという立場をとり、また、モレルの唱える自由貿易の概念も原住民が彼らの生産物の買い手を選ぶ“自由”を尊重する方向に傾いていて、ヨーロッパ列強が原住民を搾取する機会の均等を意味しなかったのです。モレルはコンゴの黒人に加えられた残虐非道を糺すという純粋な熱意から出発したのですが、その運動をあまたの苦難の末に成功にみちびく過程で、事の成否は単なる正義、不正義では片が付かず、ヨーロッパ列強間の外交的、経済的利害のバランスの問題に強くからまって来ることを学ばされました。コンゴ河をはさんで南はレオポルドのコンゴ、北はフランス領コンゴ、密林からの生ゴムの採集については強制労働のシステムの残酷さにおいて南と北で殆ど差異はなかったのですが、英国政府も英国の金融経済界もフランス領については敢えて取り上げようとはせず、もっぱらベルギー国王レオポルド二世の非を鳴らすばかりでした。
 1909年12月レオポルド死去。その前年にコンゴ自由国はベルギー国家所有の植民地となり、その内情にも改善のきざしが認められてきました。1913年6月16日、10年に及ぶ歴史的使命を終えたコンゴ改革協会(CRA)の閉会式がロンドンで行われ、英国国教教会の大主教をはじめとする各界の貴顕が出席し、サー・ロジャー・ケースメント、ジョーン・ハント、ハリス牧師夫妻などの旧友も名を連ねました。ベルギーの高名な社会主義者で第二インターナショナルの立役者の一人エミール・ヴァンデルベルデもその中にいました。彼はベルギー国内でモレルの改革運動を支持したのです。
 モレルの生涯の頂点であったCRA閉会の栄光の日から1年後の夏には第一次世界大戦がはじまり、モレルの人生はその悲劇的な第二段階に入ります。1914年8月4日ドイツ軍のベルギー侵攻を口実にして英国は対独宣戦に踏み切りました。英国とフランスの間には、英国の議会に、したがって、英国国民に知らされていない密約が存在し、それがコンゴ改革運動の足をたびたび引っぱっていると以前から考えていたモレルは、そうした英国政府の秘密外交が英国を不必要な戦争に引きずり込む日が来ることを予言していました。8月4日の対独開戦で自分の予言が的中したと考えたモレルは直ちに英国の参戦に反対の声を挙げたのです。時の自由党政府の内部からも、参戦を支持した野党労働党からも反戦を表明する数名の有力者が現われ、自由党の党員になっていたモレルもそれに加わって、新しい反戦運動組織「民主的コントロール同盟(DCU)」が結成されました。直情の人モレルはレオポルド糺弾の時をも凌ぐ熱情と不退転の決意を胸にして反戦運動にのめり込んで行きました。嘘で塗り固めた英国政府の戦争政策に反対し、戦争の惨害を少しでも食い止めようとしたのですが、戦争熱にあおられて逆上した世人の目には、モレルは愛国心を失った売国奴としか映りませんでした。幾つかの大衆日刊紙はモレルを敵国ドイツの回し者呼ばわりし、その煽動にのった暴徒は再三彼を襲いました。そうした情況の中で、1916年春、ケースメントの反逆罪逮捕のニュースをモレルは聞きます。1917年8月、モレル自身も家宅捜索を受け、当時スイスにあって反戦を唱えていた作家ロマン・ロランに反戦パンフレットを送ったという些細な行為を口実として逮捕され、ペントンビルの刑務所に投獄されて、ケースメントの絞首刑が執行されたその同じ刑務所で、6ヶ月の重い労働を強いられました。DCUの同志であったバートランド・ラッセルによれば、刑を終えて出獄してきたモレルは以前の黒髪が完全に白髪と化し、身も心も破壊された男に見えたといいます。獄中で損なわれた健康は二度と元には戻りませんでしたが、モレルの精神は不屈でした。出獄したモレルは自由党を脱党してDUCの同志たちと共に独立労働党に入党し、ここからモレルの人生の第三段階、最後の闘争が始まります。
 1918年11月パリ郊外で休戦条約、つづいて1919年6月ドイツと連合国との間でベルサイユ講和条約が調印されました。モレルの人生の最後の5年間はこのベルサイユ条約の根本的改正に向けて捧げられました。その条約は敗戦国ドイツに対して余りにも苛酷なものでした。「ベルサイユ条約は必ずもう一つの大戦をもたらすであろう」とモレルは予言しました。1922年の国会選挙でモレルは労働党から立候補し、対立候補として自由党から立ったウィンストン・チャーチルを見事に打ち負かして当選しました。1924年11月12日、自宅の近くの森の中を散歩していたモレルは疲れを覚えて一本の木のもとに腰をおろし、そのまま死を迎えました。51歳、奇しくも盟友ケースメントと同じ享年でした。
 第一次世界大戦の戦死者約一千万、戦傷者二千万、今にして思えば、モレルが唱えた通り、必要性のない戦争でした。1933年、ドイツにヒトラー政権出現、1939年、第二次世界大戦勃発。モレルの予言は正しかったのです。全世界で四千万を超える人命が戦火で失われたと考えられています。
 1903年、コンラッドはケースメント宛にレオポルド糺弾の公開書簡を送り、モレルはその著書の中でコンラッドの『闇の奥』をコンゴ自由国指弾の書として讃えました。この時点で三人の人生軌跡は友好的に交差していた筈でしたが、それから15年、戦争中、英国政府から依頼を受けて戦争協力の文章をも筆にしたコンラッドはケースメントからもモレルからも遠く隔たった地点に立っていました。

藤永 茂  (2006年9月27日)



E. D. モレル (3)

2006-09-20 10:40:00 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 ケースメントはアイルランド出身、モレルより9歳年上で、19歳の時、モレルの雇い主でもあったエルダー・デムプスター社所属の商船のパーサーとしてコンゴを訪れて以来、例のコンゴ河下流の急流域の南をバイパスする鉄道工事のための測量に従事したり、現地で象牙など各種の交易をしたりもしましたが、交易商人としてのケースメントはとかく黒人原住民に甘く、成績は振るわなかったようです。1890年の夏、コンラッドは、コンゴ河口の政庁所在地マタディで奥地に向けての旅立ちを前にして、ケースメントと一つ部屋で十日間を過ごしています。コンラッドの「コンゴ日記」に「ロジャー・ケースメントさんと知り合いになった。どんな情況のもとで出会ったにしても喜びは大きかったと思う。・・・ 考えも深いし、話もうまい。実に聡明でとても感じが良い」と書き記しています。
 在コンゴ英国領事に任命された1900年にケースメントは次のような文章を外務省の知人に送っています。
悪の根源はコンゴの政府が何よりも先ず一つの商業的企業トラストであり、他のすべてのことが商業収益獲得に向けられているという事実にあります。・・・ ひどく邪悪なのはコンゴにいる白人たちではなく、彼らが奉仕しているシステムこそが邪悪なのです。彼らの第一の義務は利益を生み出す事であり・・・ 原住民の取り扱いは・・・どうしても残酷になるように仕組まれているのです。
ケースメントは悪の根源をあやまたず見抜いていました。個々の白人の病的な邪悪さや凶暴さなどが問題なのではなく、問題は現地徴用の奴隷制度というレオポルドが編み出したシステムにこそある。このシステムの下で行動する白人たちには、所詮、黒人を残酷に扱う以外には選択肢はなかったのです。モレルが達した見解と全く同じです。コンラッドの『闇の奥』のクルツも中央出張所の支配人も、このシステムから生まれた醜悪な怪物以上の何物でもありません。
 1903年6月、英国外務省から指令を受け取ったケースメントは早速コンゴ内陸の視察旅行に出ました。マタディからスタンリー・プールまでの約300余キロは既に敷設されていた鉄道を利用せずに徒歩で辿り、スタンリー・プールからのコンゴ河遡航にも、自腹を切って粗末な蒸気船を土地のキリスト教教会団体からチャーターしました。コンゴ自由国政府の息のかかった交通手段を避けて、視察行動の自由を確保するためでした。3ヶ月間コンゴ河沿いの内陸各部を巡視して回ったケースメントは、その年の暮れ近くロンドンに戻り、数週間を費やして綿密詳細な報告書を書き上げて外務省に提出したのですが、その内容の激しさに狼狽した当局は極力その衝撃を和らげようと試み、報告書の文中にあらわれる個人名はほとんどすべてが伏せられてしまいました。ぎっしりと印刷された(本文56頁と8つの長文の付録を含む)ケースメントのコンゴ報告書は1904年2月に世に出た。外交上の配慮や商社からの干渉で英国外務省が内容の改変を迫り、部分的にはそれを実行したことに、ケースメントはすっかり腹を立て、辞意をすら洩らしましたが、その水割りにされた報告書に対してすらも、レオポルド二世の側からの激しい反撃が浴びせられました。例えば、「切り落とされた腕先」について、ケースメントは次のような断言的な文章を書いています。
政府軍兵士によって繰り返し行われているこの種の人体切断について、私は、個々の具体的な供述や一般的な申し立てなど多数の報告を受け取った。この人体切断とそれを生ぜしめた原因については、全く明らかで疑う余地はない。それは、白人がやってくる以前からあった原住民の間の習慣ではなく、また、間の争いで野蛮人たちの原始的本能が発揮された結果でもない。それは、一つのヨーロッパ行政機関に属する兵士たちによってなされた意図のはっきりした行為であった。こうした行為を犯した場合、兵士たちは上官からの命令に従って行ったということを決して隠そうとしなかった。
この報告に対してレオポルド側は、手を失うことになったのは「不幸な人々であり、手にガンを患って、そのため簡単な外科手術として手を切り落とさなければならなかったのだ」などと苦しまぎれの虚偽をすら申し立てる始末でした。ケースメントのコンゴ報告書はコンゴ自由国内で黒人たちに加えられている残虐行為についてのモレルの主張を全面的に裏付け、支持する内容であり、それまでモレルが押し進めてきたレオポルド二世糺弾の孤独な戦いに力強い追い風を与えることになったのです。
 モレルとケースメント、二人が初めて会ったのは1903年12月のことでした。ロンドンの友人宅でコンゴ報告書の清書をしていたケースメントに会いにモレルの方から出掛けて行きました。英国領事としてコンゴに着任していたケースメントはモレルが英国内で発表する出版物を熱心に読み、その活動を追っていましたし、モレルはモレルで、ケースメントの前々からの評判と彼が外務省に送ってくるコンゴ情報などを通じて、ケースメントに大きな期待を寄せ、会合の日を待ち望んでいたのです。モレルとケースメントの最初の劇的な出会いを作家コナン・ドイルは「現代史で最もドラマティックな場面」とまで書いていますし、モレル自身も「永久に消えやらぬ印象を残す稀有の経験の一つとなった」と記し、さらに、「手をしっかりと握り合い、お互いの目が会ったその瞬間から、相互の固い信頼が生れ、私のそれまでの孤独感はまるで着ていたマントが肩から滑り落ちるように消えてしまった。目の前にまことの男が立っていた。この男こそ、寄る辺のない人種に対して犯された罪業の悪辣さを上層部の人士たちに確信させ、その同情の心をかき立てることを、他の誰よりも良くやってのけると思われた。」と喜びと信頼を述べています。ここで二人の間に生まれた固い友情の絆は1916年のケースメントの非業の死まで続きます。二人は朝の2時まで時を忘れて語り合い、モレルはそのままケースメントの友人宅の書斎で眠り込み、翌朝、食事をともにしてから家路に就きました。
 それから暫くして、今度はケースメントがモレルの自宅に足を運び、またまた夜が明け白むまで語り合いました。それまで、モレルはジャーナリストとしての文筆活動を軸にして、原住民保護協会、奴隷制度反対運動組織、宗教団体などに働きかけて、レオポルド二世のコンゴ自由国糺弾の世論を盛り上げてきたのですが、コンゴの奴隷労働システムから莫大な利潤を吸い上げてきた勢力は、その権力と金力を動員してモレルの声を扼殺しようと執拗に襲いかかっていました。ケースメントのコンゴ報告書は3年このかたのモレルの主張を全面的に裏付け、支持する内容のものであり、強力な助っ人にはなったのですが、コンゴ自由国を糺して、そこに人権的正義をもたらすためには、それだけ目指す新しい組織を立ち上げることが必要であることを、ケースメントは熱心にモレルに説きました。
 しかしモレルはためらいました。週刊誌『西アフリカ通信』の編集者兼発行人として生活費をはじき出しながら、各界の人士に働きかけて次々に抗議集会、講演会を組織する仕事だけで全く手一杯だったのです。ケースメントが提唱するコンゴ改革協会(Congo Reform Association, CRA) という新しい組織は、もし立ち上げるとすれば、他の団体との兼ね合いもあって非営利団体でなければならず、その設立に当てる資金などモレルには一文の持ち合わせもなかったし、その資金を今から集めるとなれば、他の慈善団体との競合にならざるを得ません。ケースメントの提言が正論であるだけにモレルは大いに迷ったのです。モレルの気持の踏み切りがつかないままにケースメントは故国のアイルランドに帰りました。しきりにためらうモレルをアイルランド海峡の彼方のケースメントの許に送ったのは、モレルの妻メアリーでした。メアリーは育児と火の車の家計をやりくりしながら、懸命に夫を支え、夫の志の実現を誰よりも熱く願いました。
 モレルにコンゴ改革協会の設立を勧めたものの、ケースメントは依然として英国外務省に職を持つ身でしたから、協会の役員として直接参加することは出来ませんでしたが、側面からのあらゆるサポートを約束し、協会立ち上げの資金として100ポンドの小切手を切ってモレルに手渡した。ケースメントの年俸の三分の一にも及ぶ金額です。それを聞いたリバプールの実業家ハントは即座に同じく100ポンドの寄付を申し出ました。それから三週間後、モレルを協会の事務長として「コンゴ改革協会」(CRA)が誕生します。CRA の初会合は1904年3月23日リバプールのフィルハーモニック・ホールに千人以上の参加者を得て開かれました。その後も資金面でCRA の支持を続けて協会の目的達成のために大きく貢献したハントは、モレルの妻メアリーの果たした役割を高く評価して「コンゴ改革のモレルといえば二人組のことだ」と語ったといいます。1904年はモレルにとってまことに英雄的な一年となりました。アメリカ合衆国にも渡ってコンゴ自由国改革の運動を拡大する一方、ロンドンでは『レオポルド王のアフリカ支配』、『コンゴ奴隷国家』の2著を出版し、連日十数時間働き続けて睡眠の時間もない有り様でした。レオポルド二世の側もあらゆる手段に訴えて、例えば、アメリカの大富豪トーマス・ライアンやグッゲンハイム家などをも巻き込んで、モレルの声を圧殺しようとしましたが、遂にダビデ(モレル)の投じたつぶてはゴリアテ(レオポルド)の額を見事に撃ち割ります。1908年ベルギーの国会はコンゴ自由国をベルギー国家所有の植民地として、国王の個人支配に終止符を打ち、続いて、1909年12月、「ヨーロッパの心」が生んだ恐るべき怪物の一人レオポルド二世は74年余の生涯を閉じました。

藤永 茂  (2006年9月20日)



E. D. モレル (2)

2006-09-13 10:13:00 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
  モレル(E.D. Morel)は1873年パリで生まれました。父はフランス人、母はイギリス人。平凡な官吏であった父はモレルが4歳の時に死亡、母親は亡夫の実家を出て独立し、英語と音楽の個人教授の内職をしながら女手ひとつで一人息子を育てました。モレルが8歳になると、母親は貧困生活に耐えながらモレルをイギリスに送り、それから7年間、息子はイギリスで学校生活を続けたのですが、母親の健康が目に見えて衰えたため、パリに戻りました。母親は母国イギリスへの帰郷の思いを募らせていましたが、幸いにも、モレルは2年後にイギリス西海岸の海港都市リバプールの有力な海運会社エルダー・デムプスターの事務員の職に就くことが出来、1891年、母と子はリバプールに移り住みました。リバプールはアフリカ西海岸と北、中、南米を結ぶ奴隷貿易でその繁栄を築き、大西洋をまたぐ奴隷の取引が衰退してからも、アフリカとヨーロッパを結ぶ海運業の一大中心になっていました。ベルギーは商船団を持たず、本国とコンゴの間の交通、コンゴとヨーロッパとの間の交易はイギリスやフランスの海運業者の商船が受け持っていました。若いモレルが就職したデムプスター社の最大の顧客の一つはレオポルド二世のコンゴ自由国だったのです。
 船会社の平の事務員の収入では病弱の母を抱えての生活を支えきれないので、フランス語と英語の両方に堪能なことを活かそうと考えたモレルは、アフリカ西海岸のフランスの植民地経営についての調査リポートを書いてリバプールの一新聞社に送り、1893年末、採用されて紙面を飾ったのがきっかけで、ジャーナリスト・モレルが誕生しました。彼が1893年から1900年の間に執筆したアフリカ事情関係の記事や論考の数は数百編にのぼります。この疲れることを知らぬ若き調査ジャーナリストの一本の筆の力が、やがて、レオポルド二世のコンゴ圧政を見事に打倒することになるのです。
 モレルのコンゴ自由国の内情暴露とその告発は1900年の後半に発表された一連の記事に始まりますが、コンゴに就いての彼の認識の深化は1898年からのほんの2年余りの間の出来事でした。それ以前のモレルはリバプールの海運業界の利益と大英帝国の植民地経営の成功を追求し弁護する立場をとっていました。アメリカの黒人ジャーナリスト、ウィリアムズがレオポルド二世に宛てて抗議の公開書簡を発表した1890年以来、間欠的にはコンゴ自由国内の惨状が漏洩し報告されていたこともあって、1897年、イギリス国内の原住民保護協会(Aborigine Protection Society, APS)が英国議会にレオポルド二世への抗議を要請したのですが、この時点では、モレルは、むしろ、自由貿易の立場からレオポルドの弁護をすら試みています。そのモレルがどのような契機から、どのようにして、レオポルド打倒の孤独な戦いを敢然と始めることになったのか。その重要な理由の一つに一人の異色な女性メアリー・キングスリーとの出会いがありますが、モレルのコンゴ開眼の決定的理由はベルギーの代表的海港アントワープで彼自身が行き当たった一つの“発見”でした。
 モレルはフランス語と英語に達者で、その上、アフリカ事情一般についても健筆を振るっていることから、雇い主のエルダー・デムプスター社の幹部の覚えも目出たく、同社の主任連絡員としてリバプールからベルギーの主要貿易港アントワープと首都ブリュッセルに頻繁に出張するようになりました。その役柄上、モレルは自社の商船が司っているベルギー本国とコンゴ自由国との間の交易業務文書の詳細に目を通す機会が多く、そこで彼は異様な事実に気が付きます。要約すれば、次の通りです。
 まず、コンゴ自由国からヨーロッパへの輸出。主な品目はゴム、象牙、椰子油。中でも大量の原料ゴムは、需要の急激な増大による世界的な価格高騰で、そのコンゴからの輸出は金額的に巨大な額に昇っていました。次に、コンゴ自由国のヨーロッパからの輸入。ゴム、象牙、椰子油などの現地産物は現地住民の肉体労働によって収集されるものですが、その代償をヨーロッパの通貨で支払うことは意味をなさず、彼らが欲しがるあれこれの物品との交易(物々交換)が原則でした。ところが、コンゴから持ち出されるゴムなどの物資の見返りとしてベルギーからコンゴに送られる交易品と思われる物の量は僅少で、金額的に見れば、コンゴからの輸出品の価格にくらべて全く問題にならず、その上、コンゴ自由国に持ち込まれる主要物資として目立っているのは、建設資材などではなく、多量の小銃その他の銃火器とその弾薬だったのです。
 この異常な輸出入の不均衡の意味をモレルは明敏に読み解いたのでしたが、念のため、アフリカ大陸に植民地を持つイギリス、フランス、ドイツのアフリカ貿易の輸出輸入のバランスを具体的に調べてみて、レオポルドのコンゴ自由国の場合が際立った異例であることを数値的に確かめました。つまり、コンゴ自由国から持ち出されてくる物資は然るべき見返りの支払いを伴わない強奪品であり、それは現地で奴隷労働を強制しなければ出来ない事でした。黒人奴隷を現地で徴用するシステムを維持するためには、絶え間なく暴力をふるう必要があり、小型銃火器とその弾薬の多量の流入はその事情をはっきりと反映していたのです。納入先にはレオポルド二世の私設軍隊「公安軍」だけではなく、レオポルドのコンゴ収奪に荷担して利益をむさぼる一群の民間会社の名も含まれていました。彼らもプライベートな傭兵たちを養っていたのです。この忌まわしい現実を見据えたモレルの目には、時おり洩れ出てくる個々の残虐行為の風聞の検証などは、もはや些細なことにしか映らなくなりました。コンゴの黒人たちの受難の問題はヨーロッパから侵入して来た個々の白人たちの性格異常者的な残忍性などにあるのではない。問題はレオポルドが編み出した現地黒人奴隷制度というシステムにある。モレルはそれを「赤いゴムのシステム」と呼びました。血まみれのゴムのことです。レオポルド二世の懐に巨万の富が流入することを可能にするこのシステムが続く限り、白人たちと、白人たちに「教化」されてシステムに組み込まれた黒人たちによる残虐行為も果てしなく続くことを、モレルは明白に把握したのでした。
 1900年7月から『コンゴ・スキャンダル』と題する論考が6編のシリーズ物として雑誌に連載されました。モレルの命を賭けたレオポルド二世糺弾の始まりです。無署名の形をとったとは言え、筆者が誰かは始めから明らかであり、モレルもそれを隠そうとはしませんでした。レオポルド二世を最上の顧客の一人とするエルダー・デムプスター社の上司は賄賂を提供してモレルの筆を封じようとしましたが、モレルは屈せず、職を失ってしまいます。28歳、養うべき家族を持ち、資金源もなく、ただ一本の筆と不正を憎んで燃えたぎるエネルギーがあるだけでした。もともとリバプールの繁栄は、奴隷貿易からこのかた、主にアフリカ貿易に支えられてきました。モレルは、今や、そのリバプールの繁栄を脅かす人物として敵視される情況になっていったのですが、思いがけなくも、リバプールの有力な海運業者の一人であるジョーン・ハントなる人物が、既に言及した異色の女性キングスリーを介してモレルの親友となり、資金的にも精神的にもモレルを最後まで支持することになります。
 アフリカの黒人に対する白人の残虐行為を非難する声は、原住民保護協会やキリスト教団体など英国内の団体組織の人々からも上がっていましたが、そうした人々とモレルとの間には一つの際立った相違がありました。それはアフリカの黒人とその人間的現状についての考え方の相違です。モレルの時代の?それはコンラッドの時代でもあります?ヨーロッパの白人たちの基本的な見解は、ハナ・アーレントの言葉にある通り、アフリカ大陸にひしめく黒人たちは「人間」ではあるが、このような「人間」は断じて自分たちと同類ではない、というものでした。未開野蛮な黒人たちは文明以前の暗黒邪悪の力に支配された状態にあり、そこから彼らを救い上げることがヨーロッパ白人に課せられた重荷(white man’s burden)であり、努力に値する善行であるとは思っていても、黒人たちが人間として意味のある歴史と生活を持つ人間集団であると考える者は稀でした。メアリー・キングスリー(Mary Kingsley, 1862-1900)はそうした例外者の一人で、モレルに強い影響をあたえることになります。
 メアリー・キングスリーは1862年ロンドンで富裕な医師を父として生まれますが、身障者の母の介護のために家庭内に留まり、学校教育を受ける機会も与えられず、多数の海外旅行記を含む父親の大きな蔵書が彼女の家庭教師でした。1892年両親が相次いで世を去り、自由の身となった30歳のキングスリーはアフリカ西海岸への旅行を思い立ち、1893年の夏、一人でリバプールの港を旅立ちます。翌年の始めに一旦帰国し、その年の暮れにはまた西アフリカに向かいました。この二回のアフリカ旅行の見聞に基づいた彼女の著書『西アフリカ紀行』(1897年)は英国でたちまちベストセラーとなりました。次に出版された『西アフリカ研究』(1899年)ではアフリカの原住民たちの生活社会習慣の観察とそれを考慮した植民地経営についての提言が述べられていました。メアリー・キングスリーのこの二冊の本はモレルに深甚な影響を与えました。コンラッドも彼女の本を読んだことが知られています。彼女の考え方の第一の重要点は、アフリカの黒人を積極的に人間として認める立場にあり、第二の点は、キリスト教の押しつけではなく、自由貿易(フリートレード)に黒人たちを主体的に参加させることが彼らの生活情況の真の改善をもたらすであろうという主張でした。この主張の革命性はいくら強調しても過ぎることはありません。自由貿易とは、何よりも先ず、物資の生産者がその物資の価格のコントロールを持ち、最も望ましい買い手を選ぶ自由が保証されることであるとメアリー・キングスリーは考えました。この考えをモレルは受け継いだのです。いま米国大資本主導の“貿易自由化”の波が全世界を被っていますが、この200年間、アフリカの黒人には一度たりともメアリー・キングスリーが主張した意味での貿易の自由が与えられたことはなく、現在も与えられてはいません。メアリー・キングスリーが自著『西アフリカ研究』を賞賛したモレルの書評を読んで文通したことに始まって、二人の間には深い交友関係が育ったのですが、それは僅か一年ほどしか続きませんでした。メアリー・キングスリーは1899年ボーア戦争開戦直後の南アフリカに行って、従軍看護婦を志願し、ボーア人捕虜の看護を担当し、捕虜収容所で流行していた腸チフスに感染して死亡しました。1990年6月、37歳。
 モレルの『コンゴ・スキャンダル』の連載はキングスリーの死の直後から始まりました。僅か3年前の1897年にはデムプスター社の大切な顧客レオポルド二世の自由貿易政策を褒め上げていたモレルの自由貿易観と黒人観を180度転換させたのはメアリー・キングスリーであったといえます。モレルのレオポルド糺弾の孤独な戦いを最後まで一貫して支えたリバプールの商人ジョーン・ハントをモレルに引き合わせたのもメアリー・キングスリーでした。
  船会社デムプスター社の職を失ったモレルは雑誌「西アフリカ」の副編集長として苦しい生活を支えていましたが、やがて、ハントから資金援助を得て独立して週刊誌「西アフリカ通信」を発行し、その記事のほとんどを自筆で埋め、しかもこれとは別にコンゴ問題関係の本を3冊出版するという健筆ぶりを発揮しました。それに加えて、財界、政界に顔の広いハントに助けられてレオポルド非難の声の輪を次第に拡げて行くうちに、モレルは、人々を説得し、動員し、組織する才能にも自分が結構恵まれていることを発見して、レオポルド二世を追い詰める自信を深めていったのです。メアリー・キングスリーの死から3年後の1903年、モレルの疲れを知らぬ渾身の努力は、初めて、目に見える形に実を結びます。その年の5月英国議会下院でコンゴ自由国に関する公式の討論が行われる所まで事を運ぶことに遂に成功したのです。1884年11月のベルリン会議では、コンゴの原住民の福祉とヨーロッパ諸国との自由貿易を約束することでレオポルドはコンゴ地方の支配権を手に入れましたが、原住民虐待の噂は絶えず、貿易はレオポルドにコントロールされた幾つかの民間会社に独占された形になっていて、始めの二つの約束のどちらもが破られている事態に対して、英国政府が正式に抗議を表明することを要求することが、1903年5月20日、下院満場一致で議決されました。議決内容の草案は、実は、モレルの筆になるものでした。これに対する英国政府の反応は及び腰の煮え切らないものでしたが、とにかく、外務省からコンゴの英国領事に指令を送って、その国内事情を調査の上、報告書を提出させることが決定されました。時の在コンゴ英国領事がケースメント(R. Casement, 1864-1916)、これを機縁にモレルとケースメントの間に固い友情が生まれます。

藤永 茂  (2006年9月13日)



E. D. モレル (1)プロローグ

2006-09-06 04:10:24 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 先頃Nicholas Harrisonの『Postcolonial Criticism』(2003年)を読んでいて引っかかる部分がありました。p143で、コンラッドの『闇の奥』は文学として優れているので、これまで絶え間なく読み続けられ、問題とされてきたが、文学的に駄作である『相続者』の方は今では殆ど読む人もないとハリソンは言います。ここで文学的に優れているという意味は、そのテキストが物語(narrative)的に複雑な多層構造になっており、意味的な(semantic)不確定性に富んでいる-といったことのようです。デリダは、優れた文学は創意に富んだ不確定性というもので接地(grounded)されているので、外的なセンサーシップから安全に保護されている、というような考えを持っていましたが、ハリソンは、このデリダ的な考えの線にそって、コンラッドの『闇の奥』を、優れた文学として、アチェベ風の「いちゃもん」から擁護しようと試みています。この立場は「 makes Achebe’s charge seem not wrong, perhaps, but misplaced」と書いています。このハリソンの『闇の奥』擁護論は他の多くの安手の弁護論よりは傾聴に値するように思われますが、私が引っかかったのはハリソンのE. D.モレルについての言及です。
 『闇の奥』弁護論者の何人もがカニンガム・グラハムとモレルを引き合いに出して、この二人が『闇の奥』を高く評価したから、この小説は反帝国主義小説だと主張しています。グラハムはコンラッドの生涯の友人で、先駆的な社会主義者、反帝国主義者として知られた人物です。モレルはレオポルドのコンゴ自由国に終焉をもたらすことに最も大きく貢献した文筆家として知られ、結局、社会党議員として短い生涯を閉じました。私はコンラッドとグラハムとの関係に甚大な興味を持っていますが、それはまた日を改めて論じるつもりです。今から4回ほどは、ハリソンの発言に刺激されて、モレルの話をしてみたいと思います。ところで、ノールズとムーアの『OXFORD READER’S COMPANION TO CONRAD』(2000年)はコンラッドについての「なんでも帳」のような便利な本ですが、グラハムの方はたっぷり一頁と大きな肖像写真で紹介されているのに、モレル(Morel)の項はありません。コンラッドとバートランド・ラッセルの間を取り持ったという例のレディー・モレル(Morrell)の方は出ていますが。この事はこの本のミスだと思われますが、『闇の奥』論の軌跡を示す一つの道標とも考えられます。ノートン版の『闇の奥』の付録文献の内容的変遷については以前のブログでも取り上げましたが、2006年出版の第4版になって初めてモレルの『King Leopold’s Rule in Africa』(1905年)から長い引用文が掲載されました。
 ハリソンが上記の著作(2003年)でモレルのことを本格的に言及したことは買いますが、問題はその内容にあります。「Morel’s Red Rubber, a non-literary text that made determinate claims about the Congo Free State, was far more important politically in its day than was Conrad’s story, but few people read it now, and few, for that matter, read The Inheritors. Among those who do, moreover, a good proportion must come to those texts, and come to know anything at all of the Congo’s colonial history, via Heart of Darkness.」    ここで述べられている事は確かに事実でしょう。レオポルドのコンゴで何が起っていたかについては、この10年間に、一般の人々の意識が高まり、それにつれてモレルの名も次第に知られるようになり、それには『闇の奥』をめぐるあれこれの議論が貢献したのは事実です。しかし、それがこの小説の文学的な優秀性の一つの証しであるかのように言うのは余りにも粗雑な主張です。それではノールズとムーアの本に「モレル」の名がもれている理由すら説明出来ないではありませんか。私たちはこの注目すべき義人モレルのことをもっともっと深く正確に理解しなければなりません。
 モレルはコンラッドと同時代人として同じ世相を眺め、同じような新聞記事や書物を読んで自分の政治的思想を形成していったわけですから、コンラッドを考える場合に一つの有用なreference pointを与えます。モレルが『闇の奥』を高く評価したから、この小説は反帝国主義の優れた文学書だなどと安直なことは言っておれないことが、モレルの生涯の全スパンを知れば分かってきます。ハリソンは、『闇の奥』が現在も依然として盛んに読まれる一方でモレルの『赤いゴム』が全く忘れ去られていたのは、『闇の奥』が内蔵する優れた文学性にその主な理由があるとでも言いたげな口振りですが、私はそうは思いません。現代の大多数の白人にとって、『闇の奥』は読んでいて辛い痛みを感じさせるような読み物ではありませんが、モレルの著作の方はそうはいきません。モレルの『赤いゴム』がさっぱり読まれないのは、本気で読むととても読みづらいからだと思います。政治的動物としての私たちには、自分が忘れたいと思う事を選択的にサッパリ忘れてしまう一種の自己防衛本能が備わっています。モレルは英米人が忘れたいと思う人物の一人です。
 この数年来、世界貿易機構(World Trade Organization)の会合が世界の何処かで開かれる度に、その会場に集まってきて抗議デモを展開する若者たちがいます。今、英米の大学の英文学の先生たちで、こうした無頼の若者たちを、内心、にがにがしい想いで眺めている人が結構多いのではありますまいか。モレルはその生涯を通じて次第次第に自らの蒙を啓き、ラディカルになっていった人ですが、その生涯の各時点で正しいと思った事を歯に衣着せず、はっきりと述べました。文学的なsemantic uncertaintyという避雷針を立てたりはしませんでした。そのため彼は投獄される憂き目にすら逢いました。ハリソンが言及している『赤いゴム』は1906年の出版ですが、これは現在唱えられている貿易自由化(フリートレード)や「グローバリゼーション」を支持する心情の人々にとっては甚だ読みづらい内容の本です。「フリートレード」という今も昔も変わらぬ掛け声の裏に隠されている大きな嘘を、100年も前に、モレルが見事にあばいているからです。この100年前のモレルの著作ほど明確に痛切にコロニアル時代が綿々と続いていることを私たちに実感させてくれる本は他にあまり見付かりますまい。また、モレルが出獄の直後から執筆したと思われる『黒人の重荷(THE BLACK MAN’S BURDEN)』(1920年)では、現在アフリカが陥っている悲劇的状態が的確に予言されています。このタイトルは、勿論、キプリングの有名な詩『白人の重荷(THE WHITE MAN’S BURDEN)』(1899年)に由来しています。
 次回からE. D.モレルの見事な一生を辿ります。

藤永 茂  (2006年9月6日)