私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

サンカラとブルキナ・ファッソ(2)

2012-07-25 11:32:17 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 今度またサンカラのことを書いてみようと思ったのは、6月20日にPambazuka News というウェブサイトに出た Amber Murrey という人の次の記事に刺激されてのことです。
『革命と女性の解放:サンカラの講演についての省察、25年後(The revolution and the emancipation of women: A reflection on Sankara’s speech, 25 years later)』
http://www.pambazuka.org/en/category/features/83074

 このサンカラという人物を知れば知るほど、今の我々(私と言った方が正確でしょうが)に取り憑いている、政治と政治家に対する絶望感(despair)とニヒリズムを振り払う力が湧いて来ます。そして、私は強く感じるのですが、この世界(文字通り全世界です)がどうやってもどうにもならないという底なしの無力感こそ、我々が、全世界的に、振り払わなければならない精神状況であると思います。そのことは、日本で見るより、アメリカで今まで社会的に進歩勢力と思われていた多くの人たちが総崩れになって右往左往している様子を見る方が余計にはっきり見て取れます。アメリカの心ある人々は閉塞感、絶望感を通り越してアメリカという自分の国に対する嫌悪感をすら生々しく感じ始めている筈です。集団的にも個人的にも自己欺瞞を続けて来たアメリカ人たちですから、なかなか表立って自国に対する嫌悪感を認めようとはしませんが、アメリカのあれこれのブログへの匿名コメントには既にアメリカ中に蔓延した自己嫌悪が吹き荒れています。
 サンカラに戻りましょう。サンカラのことなら尽きることなく話せそうな気がしますが、今回は上の記事の表題にある「革命と女性の解放」を主な話題にしましょう。以下はこの記事の荒っぽい抄訳です。随時、私のコメントも挿入します。
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 アッパー・ヴォルタからブルキナ・ファッソへの革命的変貌(1983年夏の革命として知られる)は一つ前のネオリベラル危機、つまり1980年代のアフリカの負債危機の期間中に起った。サンカラは猛然かつ公然と忌わしい負債の悪を告発し、アフリカの政治指導者たちに同様の行動を取らせようとした。

サンカラの政見と政治的指導性は、グローバルな資本主義システムは排除することは出来ないという考え方そのものに挑んだのだ。ブルキナ・ファッソの大統領としての4年間、人間の、社会の、環境の、地球全体の福祉安寧を目指す人間解放の政策を建設するために、彼は民衆と共に働いた。この民衆中心の革命はアフリカ大陸における新しい社会に向けてのシフトの回転軸を与えるものであった。

サンカラが他の多くの革命指導者とはっきり違うのは、1984年10月の国連総会での有名な発言どおり、彼は自分自身を救世者とも預言者とも考えていなかったことだ。159カ国からの代表を前にして行なった彼の発言は長い引用に値する。彼は言った。:
「私はここで何らかの教理を開陳するつもりはありません。私は救世者でも預言者でもありません。真理の保持者でもないのです。私は、ただ、二つのことをやり遂げたいと切望しているだけです。その第一は、私が属する人々、ブルキナ・ファッソの人々を代表して、単純な言葉、事実に基づいた言葉で発言することです。第二には、第三世界という皮肉な名で呼ばれる世界に属する“自らの然るべき国を失った世界中の多数の人々”に代わって、私なりの言葉で発言することです。それからまた、これは彼らの理解を得られないかも知れませんが、我々が反乱に立ち上がった理由をはっきり言明することです。」

これに加えて、サンカラは女性のレジスタンス組織を革命の中心に置いた。彼は女性たちの男女同権の闘争をアフリカ大陸でのもっと平等的な政策の焦点であると見たのであった。革命の成功をジェンダー平等性の獲得に帰した点でサンカラは革命的指導者、特に一国の大統領としてユニークだった。サンカラは言っている。:「この革命と女性の自由解放は共に手をとって進む。女性の解放を、我々は、慈善心からの行為だとか人間の思いやりの高まりがもたらしたとは言わない。それは革命が勝利するためには基本的に必要なのである。」
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(藤永註)まだ話(抄訳)の途中ですが、言って置きたいことがあります。昔、私が若かった頃の日本では、フェミニストというカタコト英語が今の広辞苑に出ている2番目の意味でもっぱら使われていました。“女に甘い男。女性崇拝者。”少し女性の側の肩を持つ男に対して冷やかしの意味に使われていました。それで、1950年代の末にアメリカでの生活を経験した時には、アメリカの社会でフェミニストといえば、ほとんど決まって女性であって、男性ではないことに意外な感じを持ったのを憶えています。今ではこの言葉の意味を理解しているつもりですが、今の私の語感でいえば、サンカラほど見事なフェミニストはちょっとやそっとでは見つからないと思います。この男は慈悲心からでもなく、同情からでもなく、心底から男女の同権を願い、その故に、アフリカの女性たちの置かれている地位と状況を正確に把握し、それを糺すことに生命を賭したのだと思います。アフリカの女性問題についてのサンカラの思索と行動原理は、前回に紹介した著書、
*Thomas Sankara Speaks: The Burkina Faso Revolution, 1983-87, by Thomas Sankara, Pathfinder Press, 1988
に収められている彼の講演、
『女性の解放なしに革命の勝利なし。(The revolution cannot triumph without the emancipation of women; On International Women’s Day, March 8, 1987)』
に、詳しく出ていますが、英語ですし、長いので、もっと気軽にサンカラがどんなフェミニストであったかを知りたい人々には,前回のブログに戴いた岡村さんからのコメントで教えて頂いたYouTube の映画『トマ・サンカラ 清廉の士 その1、2、3、4』
http://www.youtube.com/watch?v=l8f3O7zJfu
を是非お勧めします。原画は2006年フランスで制作された記録映画でその英語タイトル版は私の前回のブログで紹介してありますが、日本語がついていると助かります。ごく最近(2012/06/25, 26)に mamo ru さんという方が公開して下さったそうで、心から感謝です。まだ再生回数は百のオーダーですが、これでサンカラの名が日本の若い人たちの間に爆発的にひろがって、アッというまに百万回再生なんてことにならないかなあ、などと夢想しています。チェ・ゲバラのほうが白人でイケメンでカッコいいでしょうが、我がサンカラもなかなかハンサムですし、中味も悲劇性もチェに劣りはしません。是非ともお取り立て御贔屓のほどを願い奉ります。
 今日はまず、『トマ・サンカラ 清廉の士 その1』の8:40 から 12:30 あたりまでの4分間をご覧下さい。前回には原版の映画で同じことをお勧めしました。3月8日の「女性の日」の機会をとらえてトマ・サンカラは「普段は女達が毎日市場に行くが今日は特別に女達が家に残り、男達が市場に行くように」というお布令を出します。それを語る若い女性は「あれはよかった。皆で笑いました」といいます。次の場面では広場の集会でマイクの前に立つ女性が「妻を拷問する夫を打倒せよ」と叫んで明るい笑い声を誘います。私のフランス語は初級レベルで、解説などする柄ではありませんが、映画の中で度々発せられる“打倒せよ”はフランス語で À bas (ア バ)と言い、“下へ”という意味です。話の続きは次回のブログで申し上げます。

藤永 茂 (2012年7月25日)



サンカラとブルキナ・ファッソ(1)

2012-07-18 10:42:01 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 田村秋生さんから、私の古いブログ
『ブリクモンとサンカラ』 (2007年11月7日)
に次のようなコメントを戴きました。
■「サンカラ」のことは以前に「キューバ」を紹介している吉田太郎さん(「キューバ円卓会議」の仲間)のブログでほんの少し知ってはいましたが、そのままでした。本日久しぶりに、我が敬愛するアンドレ・ジッドをyoutube検索していたら、アルジェの記憶(本では、『新しき糧』)という音楽映像が出てきて、更に検索する内に「サンカラ」の映像が出てきて、ここに辿り着いたという次第。小生は仏語はデビュタン程度なので「ブルキナファソ」情報含め”サンカラの4年”を詳しく知れないのが残念です。
今や、”革命”の希望がわずかに残ってると思えるのがキューバのみ、ただそれもカストロが死んだらどうなるか、、、キューバ情報だけは今でも耳を澄ませています。■
 早いものです。あの記事はサンカラの暗殺20周年(暗殺は1987年10月15日)に彼のことを思いながら書いたのでしたが、今年は25周年になります。私たちが思うより遥かに多数のアフリカ人たちが、暗い天空を明るく大きな彗星のようによぎったトーマス・サンカラの記憶を、今また、胸の中によみがえらせているのだと私は想像しています。
 サンカラをご存じない方のために、上の田村秋生さんのコメントにある吉田太郎さんのブログから写させてもらいます。 2006年に書かれたものですが、とても見事な要約なので拝借させて頂きました。

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â–  http://pub.ne.jp/cubaorganic/?entry_id=269353
アフリカのチェ・ゲバラ
 サハラ沙漠の南端にブルキナファソという人口1100万人ほどの貧しい国がある。2002年現在、一人当たりの国民所得が208ケ国中193位という最貧国である。国土は27万平方kmだが、地下資源もなく、大半が乾燥地で耕作可能な土地は全体の25%しかない(3)。
 ブルキナファソは、1960年に共和国オートポルタとして独立したが、世界の中でも最も貧しい国だった。非識字率は、90%以上。乳児死亡率は1000人あたり280人と世界の最高で、基本的な福祉サービスとインフラに欠け、医師は5万人に1人しかいなかった。1人あたりの平均年収は150ドルにすぎず、新植民地主義と搾取的な封建制度が残り、人民を搾取することに一片の恥じを感じない寄生官僚が満ち溢れていた(1)。
 以前の宗主国だったフランスに事実上管理され、軍事政権による政治腐敗がはびこり、3万8000人いる役人が国家予算の70%を自分たちの給与にあて、10月に予算を使い果たすと外国の援助に頼り切るというありさまだった。役人たちはたいした仕事をせず、全住民には人頭税がかけられていたため、支払いができない世帯には、村の徴税係が容赦なく家財や牛、ヤギ、農産物などを取り立てた。差し出すものがないと強制労働に従事させられたり、女性が未納税のツケとして要求されたりしていた(3)。
 ここで、トーマス・サンカラ(Thomas Sankara・1949年12月21日~1987年10月15日)という名の青年が登場する。

「この20世紀末にあり、いまだに人類が苦しめられているあらゆる弊害の小宇宙だ」
 サンカラは、かつて祖国をこう記述したことがある(1)。サンカラは、モシ族とフルベ族との混血で聡明で快活な人物で、国民を養うための食料を生産するには、社会的公正が不可欠である、と考えた(3)。
 サンカラは1949年12月21日にカソリック教徒の家庭に生まれた。父親は軍人で、第二次世界大戦中にはフランス軍としてナチに拘留されたことがある。だが、家族は、サンカラが軍人ではなく、カトリックの牧師になることを望んでいた。サンカラは、マルクス主義を信奉していたが、カトリックも信じていた。同時にイスラム教徒が多い国柄だけあり、コーランにも精通していた。
 だが、1966年に中学校で基礎的な軍事教練を受けた後、サンカラは19歳から軍人としての道を歩み始める(1)。彼と同じ世代のアフリカ人の多くがそうであったように、1年後に仕官としての訓練を受けるため、マダガスカルの首都アンチラベ(Antsirabe)に派遣される(2)。だが、23歳のサンカラがマダガスカルに到着した数カ月後、1972年にマダガスカルでは学生と労働者からなる大規模な暴動が発生し、マダガスカル大統領は打倒される。サンカラは、大衆運動に興味をそそられた(1)。サンカラは1972年にオートボルタに帰国し、1974年にはマリとの国境紛争を戦った。そして、パラシュート部隊としての訓練を受けるため、フランスに行ったが、そこで、サンカラはフランスと旧植民地との矛盾を目のあたりにすることになる(2) 。
 1976年、サンカラはコマンド・トレイニング・センターの指揮者となり、後に革命の同士となるブレーズ・コンパオレ(Blaise Compaore)とともにモロッコにいた。そして、仲間の若手将校とともに、秘密組織「共産主義将校団」を結成。その中には、アンリ・ゾンゴ(Henri Zongo)、ジーン=バプティスト(Jean-Baptiste Boukary Lingani)といった人物もいた。
 サンカラは軍の大尉だったが、仲間の若手将校団とともに1982年11月7日のクーデターを起こし、1983年1月に首相になった。だが、フランス大統領の息子であり、アフリカの事務アドバイザー、ジーン=クリストフ・ミッテラン(Jean-Christophe Mitterrand)の訪を受けた後に自宅監禁。アンリ・ゾンゴやジーン=バプティストらも逮捕されてしまう。これが大衆暴動を引き起こした。ここで、ブレーズ・コンパオレが再びクーデターを起こす。このクーデターは、チャドでフランスと戦う寸前であったリビアに支援された。チャドはリビアと交戦しており、フランスはチャドに空軍を提供していたのだ(2)。こうして1983年8月3日に政権を掌握したサンカラは大統領になる。まだ、33歳の若さだった(1)。
 1983年10月2日のスピーチで、サンカラは、自らを革命家とし、祖国の革命を「反帝国主義」と定義し、腐敗と戦い、森林を再生し、飢饉を防ぎ、教育や医療の普及を再優先課題として掲げた(2)。以来、サンカラが突き進めた革命には目覚しいものがあった。
 例えば、サンカラの就任後、大規模なワクチン接種キャンペーンを実施するアフリカの最初の国家となった。その年、キューバからのボランティアの援助により、250万人の子どもが伝染病から免れることができた。乳児死亡率は2年もたたずして1000人あたり145人と急減した。? サンカラは、サハラ砂漠の進行を抑えるため、最初の年に1000万本の植林による森林再生プログラムも始めた。?また、教育にも力を入れた。入学率は、わずか2年で12%から22%に高まり、卒業し読み書きができるようになった人々は、他のものに読み書きを教えることが奨励された。? また、それまで歴史的に乏しかった愛国心を高めるため、サンカラは、徴兵制度を設け、同時に大衆組織として武装CDR(革命防衛委員会)を結成した(1)。
 1984年、革命1周年を記念し、サンカラは国名を「高貴なる人々の土地」を意味するブルキナファソに変え、新たな国旗を制定し、新たな国歌(Une Seule Nuit)も書いた(2)。
 女性地位向上は、サンカラが目指した目標のひとつで、サンカラ政権には女性も多く含まれていた。これは、西アフリカでは先例がない政策だった(2)。家長的で古風な封建的な文化のくびきから女性を解放し、女性の地位を向上させ、社会の中で女性が果たす役割を認識させるキャンペーンも展開した(1)。一夫多妻を禁止し、避妊を促進。さらに、エイズがアフリカにとり脅威であることを公に認めた最初のアフリカの政府にもなった(2)。
 サンカラは、PRセンスも優れていた。ブルキナファソ革命に国際的な報道機関の関心を寄せるため、象徴的な政策を展開してみせた。例えば、サンカラは政府が所有していた高級車メルセデスのほとんどを売却し、大臣の公用車には、ブルキナファソで最も安いルノーにした。また、全員女性からなるオートバイ警戒隊を結成した。また、軍の店舗を国民に開放したが、それが最初の国営スーパーマーケットとなった(2)。
 サンカラはブルキナファソの人々の意識を変えた。それまで、国内には公的機関以外には働き口がなかったが、国内を各地域の持つ文化や歴史に配慮して30の行政区に区分し、各地域で住民たちが地域を治めていく「自主管理政策」を導入した。住民自身が役人たちを雇い、道路、建設、水道、保険・医療事業など本当に自分たちの暮らしに必要な公共サービスを実施していくやり方を導入したのである。
 また、評判の悪かった人頭税を廃止し、開墾可能な土地を国有化した。村の運営責任者が自分たちの判断で各戸に土地を割り当て、農業指導者がいつ何を作付けすれば良いのかを指導する。そして一人ひとりの作業量に応じて金銭や収穫物、人的サービスという形で支払いを行なった。各戸の必要に応じて土地が配分され、強制的な徴収に脅かされることがなくなった農民たちは安心して農作業に汗を流していく。
 改革がはじまって4年も経たないうちに、農業生産は急増し、国家支出は大幅に削減され、産み出された資金は、道路建設、小規模水道敷設、農業教育の普及、地域ごとでの手工業の促進など、住民に密着したプログラムに投資された。わずか4年で自給自足農業への転換が図られ、人々は人間としての生きる誇りを回復。雄大な希望に燃えて、例えば、サンカラが呼びかけた鉄道敷設事業には金銭的な報酬がないにもかかわらず、自発的にボランティアで住民が参加し、灼熱の太陽の下で数千の人々がレールを敷き、鉄道建設に汗を流していった(3)。
 サンカラは、若く、美男で、雄弁で勇敢で、かつ情熱的もあるカリスマだった(1)。優れたギタリストで、モーターバイクが好きだったことも人気を呼んだ。おまけに暮らしぶりはつつましく、自分の利益のために壮大な屋敷を建設するそれまでのアフリカのリーダーとは著しい対照的だった(2)。
 サンカラは、アフリカ諸国が歴史的な事情や自然環境によって経済発展が遅れているとしても、正しい経済政策と人民の努力によって経済発展は可能だと考えていた。
 1984年10月、ニューヨークで開催された第39回国連総会では「黒い肌をしているだけで、あるいは文化が異なるというだけでほとんど動物と変わらない扱いしか受けていないこの数百万人のゲットーにいる人々を代表してわたしは語りたい」で始まる劇的な演説行っている(4)。
 同84年にサンカラはキューバも訪ねている。サンカラは、キューバ人以外のリーダーに与えられるキューバの最高栄誉、ホセ・マルティ賞を受けた。サンカラはスペイン語に堪能ではなかった。だが、飛行機でキューバにいくわずかの間にも、スペイン語での受賞演説を準備した。翻訳でよいと語るキューバ人に対し、サンカラはこう答えた。
「翻訳は反逆者です。私が愛し、感動するキューバ人民とその革命に私のメッセージを生で伝えたいと思うのです」
 人間としての尊厳や全アフリカ人の自治を守り、教育を普及し、アフリカが連帯する。サンカラの描く未来のビジョンは、国境を越え、多くのアフリカの若者の心を鼓舞した(1)。サンカラの改革とブルキナファソの名は、西アフリカはもとより、中部アフリカ地域に至るまで広まった。このサンカラの改革は、困ったことだった。政治的に腐敗していた近隣諸国にも影響を及ぼしかねなかったからである。事実、象牙共和国、ガボン、トーゴ等の各政権は多いに揺さぶりをかけられた。サンカラの改革をそのまま見逃しておくわけにはいかなかった(3)。
 1985年にひとつの不幸な事件が起きる。ブルキナファソは国勢調査を実施していたが、その調査の間に、マリのいくつかの部族のキャンプが、誤って訪問を受けた。それが契機となり、1985年のクリスマスに、マリで緊張が高まり、5日間の戦闘で約100人が死んだ。ほとんどの犠牲者は、マリの爆撃機で殺された民間人だった。この隣国との関係悪化を契機に、1987年10月15日、サンカラは、右腕としてもっとも信頼を寄せていたブレーズ・コンパオレが組織した反革命クーデターにより、12人の他の仲間とともに暗殺された。サンカラの遺体は、すぐさま無名墓地に埋められた。クーデター後、サンカラの死が伝えられたが、いくつかの革命防衛委員会は数日間、国軍に対し武力抵抗した(2)。
 暗殺は80年代のアフリカでは一般的だった。サンカラは、暗殺の危険性を予知していたのであろう。死の1週間前、サンカラは国民に向かってこう述べていた。「個人として革命家を殺すことはできても、その思想までは殺すことができない」(1)。
 だが、サンカラの死とともに、ブルキナファソは、政治腐敗、それと表裏一体の外国の支配、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、慢性的飢餓、絶望する農民たちという普通のアフリカの状態に戻った(3)。?トーマス・サンカラ。享年38歳。アフリカの「チェ・ゲバラ」と呼ばれたサンカラの死は、本物のゲバラのものよりもさらに短かった。
(引用文献)?(1)Kangsen Feka Wakai, A Warrior's Tale.?(2) thomas-sankara biography?(3) ジャン・ジグレール『世界の半分が餓えるのはなぜか』(2003)合同出版?(4) アフリカの改革者 トーマス・サンカラ■
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以上が、吉田太郎さんのブログから写させて戴いたトーマス・サンカラ物語です。

 英語版のウィキペディアも大変参考になります。そこにサンカラの著作として挙げられている
? Thomas Sankara Speaks: The Burkina Faso Revolution, 1983-87, by Thomas Sankara, Pathfinder Press, 1988, ISBN 0-87348-527-0
はサンカラの講演とインタヴューの内容を集めた450頁の本で、多数の写真や地図や年表などが含まれています。サンカラのウェブサイトもあります。
http://thomassankara.net/spip.php?article876&lang=en

 YouTube で観ることのできる52分の極めて興味深いドキュメンタリー映画もあります。この映画の内容に就いては、次回にコメントするつもりですが、特に、女性問題に関心をお持ちの方には、この映画の9分あたりから14分までの5分間を覗いてみて下さい。きっとサンカラという男が好きになる筈です。またこのYouTube 映画には多数のコメントが寄せられていますが、サンカラを讃えるものばかりです。
http://www.youtube.com/watch?v=HvBC7tmgFFM

藤永 茂 (2012年7月18日)



Add Women and Stir (4)

2012-07-11 11:05:50 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 このシリーズは収斂せず、発散しそうなので今回で打ち切ります。(少し数学の心得のある読者はせめて私のまずいジョークをお読み取り下さい。)
 「Add Women and Stir」というやや不謹慎なタイトルで、私は、女性が権力機構に数多く組み込まれるようになっても、その国家、あるいは社会が、女性を尊重していることを必ずしも意味しないと言いたかったのです。黒人あるいは有色人についても同じです。米国の政府高官、最高裁判所判事、議会議員,企業幹部、どこを見回しても同じことです。支配機構に組み込まれた人々はその機構が目指す線に沿って働きます。現米国大統領バラク・オバマはこの現象の極端な例であり象徴です。この“黒人”大統領の下で、一般国民全体としての白人と黒人の社会的、経済的格差は大きくなりました。
 このシリーズを書き始めた時点では、一般教育と女性の地位という二つの問題について、米国とエリトリアとの比較を行なうつもりでした。しかし、私が入手できる情報が余りにも二極に分裂しているので、十分信頼の出来る統計的数字を詳細に掲げることが出来ません。私自身の(自分としては可成り信頼している)読み取りカンを使って得た推定値はありますが、もう少し裏付けが必要です。米国とエリトリアとの比較に踏み出す前に、米国内のデータも信頼性が疑われるものがいくらもあることを指摘しなければなりません。驚くべき高投票率でストライキ権を確立したシカゴの教員組合側とそれを破壊扼殺しようとする保守勢力側では、シカゴの教育環境についてのデータや主張点がひどく食い違います。George Will (1941年生)という練達(老獪)の保守的ジャーナリストがいます。さる7月4日のワシントン・ポストに、
『In Chicago, a battle over schools’ future』と題する論説を発表しましたが、

http://www.washingtonpost.com/opinions/george-will-in-chicago-a-battle-over-schools-future/2012/07/04/gJQABTu7NW_story.html?wpisrc=nl_opinions

その終りの方に、次のように書いてあります。:
■ In the past 50 years, real per pupil spending nationwide has tripled and the number of pupils per teacher has declined by a third, yet educational attainments have fallen. Abundant data demonstrate that the vast majority of differences in schools’ performances can be explained by qualities of the families from which the children come to school: the amount of homework done at home, the quantity and quality of reading material in the home, the amount of television watched in the home and, the most important variable, the number of parents in the home. In Chicago, 84 percent of African American children and 57 percent of Hispanic children are born to unmarried women. The city is experiencing an epidemic of youth violence ? a 38 percent surge in the homicide rate, 53 people shot on a recent weekend, random attacks by roving youth mobs. Social regression, driven by family disintegration, means schools where teaching is necessarily subordinated to the arduous task of maintaining minimal order. 「過去50年間に、生徒一人当たりの実質的教育費は全国的に見て三倍になり、教師一人当たりの生徒数は三分の一だけ減少したが、教育的達成度は落ちてしまった。有り余るデータが次のことははっきり示している。学校ごとの教育の出来栄えの差異の圧倒的大部分は学校に通う子供たちが育つ家庭の質の善し悪しによって説明がつく。:家でする宿題の量とか、家庭で読むものの量と質、家庭でどれだけテレビを観るかとか、そして一番重要なのは、両親がいるか片親かということだ。シカゴでは、84パーセントのアフリカ系アメリカ人の子供、57%のスペイン系の子供が未婚の女性から生まれている。シカゴ市には若者の暴力が疫病のように蔓延している ¬¬-- 殺人率38%上昇、つい先程のウィークエンドには、徘徊する若者ギャングたちに気まぐれ的に襲われて、53人が銃撃された。家庭崩壊に押された社会的退歩は、学校で教える行為がぎりぎりの社会秩序を保つ険しい仕事に必然的に従属させられることを意味する。」■
 このGeorge Will の巧みな筆致の論説は不注意に読めば教員側とラーム・エマニュエル市長の両方を適当に批判するかのように見えますが、本質はしたたかな反組合教師論であり、いやそれを超えて、シカゴの下層有色市民への責任転嫁論であります。シカゴの教員の約7割が女性であることを考えると、上に訳出した部分は反女性論でもあります。既に指摘した通り、米国で学校教師を叩くのは、そのまま勤労女性のバッシングを意味します。米国の支配層に進出する女性の数だけを見ていては、米国での女性の地位を正しく見定めることは出来ません。シカゴ教員組合の現組合長カレン・ルイス(58歳)はずっと化学を教えて来た先生だそうです。この不屈の相貌をもつ黒人女性の視野にあるものは、単に組合員たちの待遇改善だけではなく、教育政策を軸とする一つの社会的闘争であるに違いありません。
 エリトリアでの学校教育の現状と女性の地位はどうでしょうか。前回のこのブログで「Human Rights Watch は2009年にエリトリアの人権抑圧侵害について95頁にわたる厳しい批判リポートを公式に発表しています。」と書きました。実際、この95頁の報告書の内容は凄まじいものです。これが本当ならば、“人道的見地から”エリトリアの人々を悪魔的な独裁者から直ぐにも救出しなければ、と思う人たちが出て来ても不思議ではありません。この報告書が自ら選んだ要約は“Eritrea's government is turning the country into a giant prison (エリトリア政府は国を一つの巨大な監獄に化しつつある)”の一行です。2頁ほどに短くまとめたものもありますから、覗いてみて下さい。

http://www.hrw.org/node/82284
http://www.hrw.org/en/news/2009/04/16/eritrea-repression-creating-human-rights-crisis

 ところで、エリトリア政府とその代弁者たちの言う事は、HRWの主張するところと大いに違います。売り言葉に買い言葉、と言うことに尽きるかもしれませんが、ご参考までに、エリトリア側の主張の一例を掲げましょう。それは『Add Women and Stir (2)』(2012年6月27日)に既に紹介した TesfaNews というインターネットサイトに出た記事の一つで、“ERITREA CELEBRATES ITS 21ST INDEPENDENCE ANNIVERSARY(エリトリアは第21回目の独立記念日を祝賀している)”というタイトルです。この記事には、エリトリアが独立から今日までに成し遂げた進歩についての具体的数字の多くが並べられていて、有り難いことにデータの出所がWorld Data Bank とか、WHO とか、MDG Indicators とか、明記してあります。これで見る限り、教育も女性の地位も保健状態も、アフリカの小国としては決して悪くない進歩を示しています。
 国連は、米国の強引なマニピュレーションの下で、もはや公正な情報が得られる場所ではありませんが、ある場合には利用の価値のある情報源として機能します。例えば、ユニセフは世界各国の社会的なデータを集めて報告する仕事をやっています。そうした国連関係の情報源から判断して、独立以来、エリトリアの女性の高等教育進学率も3倍に増えていますし、一党独裁下とはいえ、選挙による選出国会議員数でも女性が22%を占め、17の閣僚の内、4名が女性です。日本よりましではありませんか。

http://www.unicef.org/infobycountry/
http://www.tesfanews.net/?p=7948

 繰り返しになりますが、Human Rights Watch も Amnesty International も、末端でボランティアとして働いている善意の支持会員たちは別として、中核的な幹部たちは自分たちが何をしているかを十分に承知している筈です。They know what they are doing! 前回のこのブログで Suzanne Nossel という新入りのAmnesty International 幹部を取り上げました。この女性の最近のシリア発言をお確かめ下さい。この女性の、AI 幹部としての、パレスチナの反政府勢力とシリアの反政府勢力との差別論を検討して下さい。こうした人々は確信犯です。こうした人々が引き回すAI も HRW も彼ら彼女らが勝利を目指す世界戦略の道具に成り果てたのだと私は結論せざるを得ません。

藤永 茂 (2012年7月11日)



Add Women and Stir (3)

2012-07-04 11:22:35 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 前回私が自家製の新語と称した“ソフト・マニピュレーション”の意味が分からないというメールを頂きました。これがアメリカの攻撃的な外交政策に関連して時折使われる“ソフト・パワー”の真似、あるいは、もじりであることをお気づきの方も多いでしょう。前回に取り上げた『チェンジ・ドット・オーグ』が私のいう“ソフト・マニピュレーション”に該当する非常に微妙な形での大衆の世論誘導の意図を秘めた組織であるかどうかは、私のカンはそう告げていますが、確証があるわけではありません。もし私のカンが間違っていたことが将来はっきりした時には謝罪します。それは事が良い方に外れるわけですから、喜んでお詫びします。しかし、世間のノルムから偏向した私のブログを何時もフェアに読んで下さっている方から“ソフト・マニピュレーション”の意味が取れないという感想を頂いた今、もうこの辺りで私の判断をはっきり述べておきたいと考えます。それは「Amnesty International も Human Rights Watch も“ソフト・マニピュレーション”の手段あるいは道具として意識的に使われている場合がある」という事です。アムネスティ・インターナショナルの紹介記事をコピーします。
■ アムネスティ・インターナショナルは、すべての人が世界人権宣言やその他の国際人権基準に定められた人権を享受する社会の実現を目指しています。現在、130ヵ国に、300万人以上の会員・サポーターがいます。1961年、英国で設立されました。1977年には、拷問の廃止を求める世界規模のキャンペーンを始めるが評価され、ノーベル平和賞を受賞しました。■
アムネスティ日本の会員数は7000人超、多数の善意の人々がこの巨大な国際的NGOの事業に参加貢献していることは周知のことです。沢山の日本人がイーデス・ハンソンさんのファンでしょうが、私も、1960年代からの50年間、一貫してのファンの一人です。私が日本人の多くと違うのは、アムネスティ・インターナショナルやそれに類似のNGOを見守る観測地点です。ハイチ、キューバ、ボリビア、ヴェネズエラ、ホンヂュラス、コンゴ、ルワンダ、リビア、エリトリア、つまり、日本人の目から見れば世界の辺境の地ばかりです。そこで何が見えるか? この国際的大NGO が過去に良心的で善意に満ちた日本人たちの賛同と支持に値する多数の事業を行なって来たことに否定の余地はなく、その様相は、大筋のところ、現在も変わってはいないでしょう。それはHuman Rights Watch や 「国境なき医師団」や「国境なき記者団」などのNGO組織についても言えることでしょう。しかし、ここに大きな問題があります。多くの人々の信頼を獲得しているこれらの組織が、もし、嘘をついた場合にはどうなるか。まことに自然な成り行きとして、人々はその嘘を真実と思うでしょう。そして、この状況を意識的に利用しようとする政治権力が出現したらどうなるでしょう。私が世界の辺境の地に観測点を設定して可成り長いあいだ観測を続けた結果として、今ではほぼ確信をもってお伝えできる結論は、アメリカ、イギリス、フランス、NATO軍などはこれらのNGO 組織に嘘をつかせて世界の大衆世論の操作を巧みに行なっているということです。歪曲した虚偽の報道に加えて、これらの人権監視団体が犯す不作為の罪、砕いて言えば、見て見ない振りをきめこむ場合もよく注意しなければなりません。私がここで言っていることを試してみる例題として、ホンジュラスの現代史と現在の国内事情を少しお調べになることを皆さんに勧めます。私はこの種の作為不作為をまとめて“ソフト・マニピュレーション”と呼びたいのです。subtle and evil manipulations です。
 世界のマスコミの現状では、この“ソフト・マニピュレーション”が作動しているかどうかの判断を下すまでにはなかなか時間と手間がかかります。色々なところから情報を得てくる必要があります。やや間接的なニュースも役立てなければなりません。その一つはこうしたNGO団体の人事のニュースです。ここでまた、アメリカの政治風景の中で際立つもう一人の才女、Suzanne Nossel に登場を願いましょう。彼女の方が前回に紹介したMichelle Rhee さんより遥かに大物のようです。オバマ政権の国務大臣ヒラリー・クリントンの側近であった Suzanne Nossel は本年2012年1月2日からAmnesty International USA (AIUSA) のExecutive Director に就任しました。その以前には、国連の人権委員会で活躍し、Human Rights WatchのChief Operating Officer であったこと(2007年~2009年)もあります。ハーヴァード大学法学部出身で、ウォール・ストリート・ジャーナルの副社長や民間企業の経営コンサルタントの経験もありますが、まだ40歳そこそこの女性です。彼女を一躍有名にしたのは高名な外交評論雑誌「フォーリン・アフェヤーズ」の2004年3月/4月号に掲載された『Smart Power』と題する彼女の論文でした。このスマート・パワーのしゃれた解説が雑誌ニューヨーカーに出ていますがし、ウィキペディアにも真っ当な解説がありますから参考になさって下さい。対テロ戦争のやり方に就いて、共和党好戦派ブッシュ/チェイニーの強引な武力行使を“ハード・パワー”と呼ぶとすれば、これに対して、映画、書籍、宣伝報道、外交交渉、などの“ソフト・パワー”をもっと有効に使うべしという意見が民主党系のリベラル文化人から出されていました。Suzanne Nossel の“スマート・パワー”はハードとソフトの賢明な合わせ技を使うべきだというアイディアです。北風か太陽かという議論に、北風の暴力と太陽のじわじわ熱の両方をうまく使えば良いと持ち出すようなものです。オバマ政権の国務大臣ヒラリー・クリントンはこの“スマート・パワー”のアイディアが凄く気に入って、この硬軟両様の考え方を外交政策に採用することを公言して、ノッセルを国務省に引き入れて側近の一人にしました。ノッセルの考えはクリントンのもう一人の側近サマンサ・パワーのそれと極めて近く、これにスーザン・ライスを加えれば、今のオバマ政権内での外交政策はこれらの切れ者の女性たちが牛耳っていると言ってもあまり過言ではありますまい。ノッセルがAIUSAに出向してもこの女性陣容が変わる筈もなく、AIUSA がこれまでに獲得した一般的信用を隠れ蓑にして世界世論のマニピュレーションを試みるに違いありません。
 前2回のブログで、『チェンジ・ドット・オーグ』が“ソフト・マニピュレーション”の手段として使われる可能性を示唆しましたが、この場合もパターンは同じで、この世の中をより良いものにしようとする善意の人々の多数が「問題提起と活動呼びかけ(petitions, 陳情請願)を専門」とする進歩的な「ピープルパワーサイト」として信用するこの営利組織が ノッセル流のソフト・パワー政策に組み込まれることを私は強く危惧します。私が持ち出した意味不明瞭の新造語“ソフト・マニピュレーション”は“スマート・マニピュレーション”と変更すれば通りが良くなるかも知れません。
 Suzanne Nossel がAmnesty International USA (AIUSA) のExecutive Director に就任したことについては、これぞ将に適材適所という讃辞が多い中に、辛辣な批判も見つかります。その中には「これでアムネスティ・インターナショナルも終り」とする極論もあります。
 Human Rights Watch は2009年にエリトリアの人権抑圧侵害について95頁にわたる厳しい批判リポートを公式に発表しています。ノッセルは2007年から2009年までHuman Rights Watch の主要メンバーでしたから、この報告書には彼女の影響があっただろうと思われます。これに対する長い反論がSophia Tesfamariamという人によって出されています。この米国在住の女性は明らかに現エリトリア政府の代弁者ですが、この女性に対するエチオピア/米国連携の人身攻撃の声の甲高さと汚さもエリトリア問題の全面像の把握の一助になります。今回もエリトリアの女性問題と教育問題に踏み込むことが出来ませんでしたが、次回にはこれを果たします。
 なお、現代アメリカの代表的女性の一人、Suzanne Nossel については多量の情報が ネット上にあります。英語を聞くのが嫌でなければ、YouTube で彼女が語る多数の感動ストーリーを,彼女の表情を見ながら、聞くことが出来ます。最近のことでいえば、彼女のシリア物語やイラン物語を聞くことが出来ます。

http://www.amnestyusa.org/news/press-releases/amnesty-international-usa-announces-leadership-transition-suzanne-nossel-selected-as-new-executive-d

http://www.newyorker.com/talk/2009/01/26/090126ta_talk_hertzberg

http://en.wikipedia.org/wiki/Smart_power

http://mondoweiss.net/2012/06/amnesty-intl-collapse-new-head-is-former-state-dept-official-who-rationalized-iran-sanctions-gaza-onslaught.html

http://original.antiwar.com/colleen-rowley/2012/06/21/amnestys-shilling-for-us-wars/


藤永 茂 (2012年7月4日)