フランス語に、citoyennetéというのがあります。白水社の仏和大辞典を引くと、「市民としての資格」とあります。フランスの国語辞典プチ・ロベールはQualité de citoyen(市民の能力)と定義しています。フランス国籍をもつことにより与えられる市民的かつ政治的権利と書いてある本もあります。
図書館で、「小さな市民」という本を見つけました。対象は8歳から9歳の子どもだそうです。フランスの市民であることはどういうことか、実に丁寧に、かつ解りやすく教えています。順不同でピックアップしながら取り上げていこうと思います。
もはや不足しているのは銃だけである。パリには、巨大な銃保管庫があることを人びとは知っている。知事のベルチエは、3万丁の銃を取り寄せ、そして10万個の薬莢の製造を命じていた。市長は、州のこの大きな動向について知らないはずはなかった。保管庫の在り処を激しく迫られて、シャルルヴィルの工場が3万丁の銃を約束し、さらにそのうちの1万2千丁が直に届くことになっていると答えた。これが嘘であることを裏付けたのは、グレーヴェ広場を横切った数台の荷車である。そこには次の文字が貼り付けてあった、「大砲」。これは銃に違いない。市長は銃を箱につめて、保管庫に入れさせたのだ。しかし銃の分配は、フランス衛兵を使いたかったのだ。人びとは兵舎に走った。しかし人びとの渇望を察した士官たちは、一人の兵隊も渡さなかった。それで選挙人たちは自分たちの手で、分配しなければならなかった。彼らは箱を開けた!そこに見いだしたものは?ぼろ布だけだった。人びとの怒りは頂点に達した。裏切りだと叫んだ。返答に窮したフレッセルは、人びとをセレスタンとシャルトルーの僧院へ向かわせることを思いついた。「僧侶が、武器を隠し持っている」。そこで人びとを待っていたのは、新たな失望だった。シャルトルーでは、門をあけて全てを見せた。くまなく探したが、一丁の銃も出てこなかったのである。
食料の問題は、武器の問題と同様に、差し迫ったものになっている。選挙人に召喚された警察中尉は、食料の入荷については、自分は全くあずかり知らぬことだと言った。市は出来る限りの自給を考えなければならなかった。パリの周辺は、すべて軍隊が固めている。食料を運んでくる農民や商人は、危険に身をさらしながら、ドイツ語しか話さない傭兵が占拠する宿駅や野営地を通過する。そして無事に着いたと思っても、なお市門を通過する困難が彼らを待ち受けているのである。
7月13日月曜、ギヨタン議員が、ついで二人の選挙人がヴェルサイユに行き、議会に「市民衛兵の創設に力を合わせる」よう要請した。議会は二つの代表団を派遣することを決議した。ひとつは国王へ、もうひとつはパリへ。議会が国王から引き出した回答は、素っ気なく敵意すら感じるもので、流血が重なる現在の状況からして理解しがたい内容であった。曰く、「国王が講じた措置は、いかなる変更もできない。その必要性を判断するのは国王だけである。議員がパリにおいて影響力をもつことは、いかなる良い結果も生まない」。議会は憤慨し、次のことを決めた。1.ネッケル氏の追放は、国民に遺憾の念を引き起こしている。2.国民は軍隊を遠ざけることを強く求めている。3.大臣たちだけでなく国王の助言者たちも、現在の不幸な状況に個人的に責任がある。その地位がいかなるものであれ。4.どのような権力も、破綻というおぞましい言葉を使う権利はない―第3項はおそらく王妃と王弟たちを指したもので、最後の項は糾弾である―。議会はこのように威厳ある態度をとった。議会は軍隊の包囲の中で、丸腰で法のみに支えられて、夜に予想される解散あるいは排除の脅威にさらされながら、大胆にも敵の顔面に、彼らにふさわしい真の名を貼り付けた。破綻した者たちという名を。
「武器を取れ!」と訴えるカミーユ・デムーラン
デムーランの演説
7月12日の日曜日の朝の10時まで、パリではまだ誰もネッケルが追放されたことを知らなかった。そのことが洩れたのは、パレ・ロワイヤルにおいて貴族の扱いを受けていた者が、脅されて口にしたからである。これが確認されると人から人へと伝わり、同時に怒りも広がった。その時たまたま、正午を知らせるパレ・ロワイヤルの大砲が轟いた。「この轟音が、人々の心にもたらす不安と沈鬱な感情を言い表すことはできない」と、新聞「国王の友」が書いている。カッフェ・フォワから出てきたカミーユ・デムーランという青年が、いきなりテーブルの上に跳び乗り、そして剣を抜き、拳銃を高々と掲げながら叫んだ。「武器を取れ!シャン・ド・マルスのドイツ人兵が、今夜市民を虐殺するためパリに侵入しようとしているのだ!みんなリボンをつけよう!」デムーランは木から一葉をもぎ取り、それを帽子に付けた。そこにいたみんなも同じようにした。木はたちまちに裸になった。
第6章 パリの蜂起
危機にあるパリ。1789年7月12日、爆発するパリ。活動停止のヴェルサイユ。軍隊の挑発。パリは武器をとる。7月13日、国民議会が国王へ上奏するが無意味に終わる。パリ選挙人たちが、武装を許可。市民衛兵の組織化。選挙人たちの躊躇。火薬を手に入れた人民が、銃を探し求める。宮廷の保安。
これは街のショー・ウインドウで見つけたサンタさんです。モンローではありません。
今朝、散歩の帰りに新聞・雑誌の販売店に寄った時のことです。
雑誌を買って、会計のところに並んでいたら、
一人のムッシューが私の前に割り込んできました。
パリにとって不安なのは、国民議会の無気力さである。7月11日、国民議会は上奏に対する国王の回答を受け取ったが、それで満足した。しかし一体、どのような回答だったのか?それは、軍隊は議会の自由を保障するためにそこにいるのであって、もし猜疑心を抱かせるのであれば、国王はノワイヨンかソワソンに軍隊を移動させる、つまり2部隊か3部隊の配置に留めるというものであった。ミラボーは、軍隊の退去を強く求めるというところまでしか行きつけなかった。聖職者と貴族の500名の議員の結束が、議会を苛立たせたのは明らかである。議会はこの大問題をひとまず脇において、ラファイエットが提起した人権宣言に耳を傾け始めた。
朝の早い時間、ヴェルサイユの議会の扉の前に若者たちがいた。そこで彼らが目にしたものは、寒々とした光景ばかりである。兵士の反抗、破られた監獄、ヴェルサイユにいるとどれも緊迫した事態に感じられる。ミラボーはこの問題には触れず、パリ市民に節度をもたせるためにひとつの上奏文を書いた。人びとは、これは国王にのみに関係する問題であり、国王に寛大な措置を嘆願するしかないことを表明するという考えに落ち着いた(議会にとりなしを求めようとする者を納得させることにはならない)。
しかし宮廷も、パリも、妥協を欲しない。全てが公然と暴力に向かっている。宮廷の軍人たちも、行動を起こしたくてうずうずしているのである。すでにフランス衛兵隊の大佐であるドュ・シャトレが、部下の兵士のうち、議会に背くいかなる命令も拒否すると誓った11名を修道院に移した。しかし彼はそれで満足しなかった。兵士たちをこの軍の檻房から引きずり出し、窃盗犯を収容する監獄に送り込もうとしているのである。そこはおぞましい掃きだめのようなところで、徒刑囚と性病患者を集め、同じ鞭で服従させる病院を兼ねた監獄である。そこに埋もれ死を待つだけだったというラチュード*1 の恐ろしい体験は、ビセートル監獄の実体を暴露し、はじめて闇の部分に微光を投げかけた。そしてミラボーが最近出した本は、読む者に吐き気を催させ、怯えさせた。そこへ、ひたすら法のための兵士でありたいと望む者を囚人として収監しようというのである。
その夜、人民の友である貴族の合流を知って、パリは喜びに沸いた。そしてカッフェ・ドゥ・フォワでおこなわれている議会へ殺到した。大急ぎで、その大部分は読みもしないで声明文に署名した数は、3,000名に達した。文はなかなか達者に書かれていたが、次のようなオルレアン公についての風変わりな言葉も交じっていた。「この公衆より敬愛されし大公」。まさにこの男にしてこの言葉であり、物笑いの種になりそうだが、かといって政敵がよりましな言い方をするわけでもない。どうやらオルレアン公の不器用な事務屋は、思い切った讃辞ほど酬われるものも大きいと信じている様子である。
あの窓を見てみよう。私には、そこに白い女と黒い男がはっきりと見える。オルレアン公の相談役、徳と悪徳、すなわちジャンリス夫人とコデルロス・ドゥ・ラクロである。二人の役割は、明確に分かれる。すべてが虚偽であるこの館では、徳はジャンリス夫人によって体現される。すなわち冷淡さとセンチメンタリズム、涙とインクのほとばしり、まやかしの模範教育*1、可愛いパメラ*2 の常設展示場など。館のこちら側には慈善活動の事務所があり、選挙の前日には慈善活動が騒がしく準備される。
この時期、イギリスの農業学者アーサー・ヤングが、物好きにも農業を調査するためにフランスに滞在していた。この活動的だが風変わりなイギリス人は、パリが深い静寂に包まれているのに驚いた。馬車は一台も走っておらず、人もほとんど見かけることはなかった。しかし一歩屋内に踏み入れば、そこは凄まじい喧噪の渦であった。それが屋外の人の気配を奪っていたのである。ヤングは、その騒がしさに度肝を抜かれた。彼は驚愕しながら、騒音の首都を歩いた。そしてこの熱気の中心であり、煮えたぎる大釜のようなパレ・ロワイヤルに案内された。そこでは1万の人間が同時にしゃべり、1万の知性が行き交っていた。この日は人民にとって勝利の日だったのである。花火が上がり、祝賀のかがり火が焚かれた。さながら揺れ動くバベルの塔のような光景を前に目が眩んで呆然となったヤングは、足早にそこから立ち去った。しかし一つの思想に団結したこの人民の、あまりにも巨大で活気に満ちた興奮は、やがてこの旅行者の心を捉える。ヤングは自分の変化を意識することなく、少しずつ自由の希求に同化していった。イギリス人は、フランスのために祈った!
6月25日、選挙人集会。フランス衛兵隊の動き。パレ・ロワイヤルの喧噪。オルレアン派の陰謀。6月27日、国王、諸身分の合同を命じる。6月30日、人民がフランス衛兵を救出。宮廷、戦争の準備をする。パリは武装を欲する。1789年7月11日、ネッケルの更迭。