大量虐殺の執行 1920年生まれのポーランドのユダヤ人で、SonderkommandoであったSzlama Dragonの、1945年5月11日のアウシュヴィッツにおけるナチスの犯罪を調査する委員会での証言。
私は第5焼却炉で働いていました。[…] この焼却炉は、第4焼却炉と同じ型です。二つの焼却炉の両側にはそれぞれ4つの釜がついていていました。ひとつの釜に三つの死体を入れることができます。脱衣所とガス室(Bunker)は地下にありました。[…]
人びとはトラックで連れてこられました。ビルケナウに通ずる引き込み線が開通した後では、第4と第5の焼却炉までの急坂を走らされました。[…] 初めの頃は三つのガス室がありました。最後の方になると四つ目のガス室が稼働するようになりました。第1ガス室は1,500人、第2が800人、第3が600人、第4が150人を収容できました。
到着した収容者の選別写真は、1944年5~6月頃ハンガリーのユダヤ人の収容者が到着した模様を、親衛隊SSが撮影した。後ろのように、ビルケナウ収容所の入り口が見える(内部から)。この引き込み線は1944年当時は設置されていたが、現在は破壊されている。以前は収容所の外部、アウシュヴィッツとビルケナウの間に線路が設置されていた。
収容所での残虐行為と向き合うドイツ人たち(1945年4月)解放されたとき、連合軍はドイツ人に収容所の死体を埋葬することを強制した。ここブーヘンバルト収容所は、ワイマール市の近くに位置する。
なぜナチスの強制収容所における犯罪は、歴史上前例のない規模でおこなわれたのであろうか?
奴隷に貶められた収容者―強制収容所(KZ) 戦争中の抑圧の増大は、
強制収容所に収容された人数の多さに現れている。1939年には21,000人であった収容者数は、1945年1月には700,000人に増加した。約20カ所に建設された主要な収容所、および1,000を超える付属の収容所に、あらゆる種類の「第三帝国の敵」(政治、人種、「社会非適用」、同性愛などを理由とした)が収容された。
虐殺の機動作戦―「Jäger報告」
1941年6月にKarl Jägerは、特別行動部隊Einsatzgruppe Aの出動分遺隊Einsatzkommando第3部隊EK3を指揮していた。1941年末から1943年9月までは、リトアニア地域の保安警察とSD[情報機関]を指揮した。1945年以降は、ハイデルベルグ地方で農業労働者として働いた。1959年4月に逮捕され、6月22日に独房内で首つり自殺をした。
管理された餓死
ワルシャワのゲットーの路上に放置された子供の死体
不吉な予言―ヒトラーとユダヤ人種の根絶
ポーランドにおける反ユダヤ主義による迫害
「第三帝国」の指導者たちによる、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を絶滅する決定は、いつどこでおこなわれたか?
ラインハルト・ハイドリッヒ
保安(ゲシュタポと刑事警察)と情報活動(SD)の責任者であるラインハルト・ハイドリッヒは、ヒムラーの片腕として「ユダヤ問題の最終解決」の責任者のひとりであった。1942年6月、チェコのレジスタンスが組織したテロ攻撃で、プラハで死亡した。
Wolfsschanze(狼の城塞)の中の会議室、事件のあとヒトラーの総司令部となった。カトリックの名門貴族の出身であるクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクは(写真)、1944年7月20日のヒトラー暗殺計画の首謀者であった。1944年7月1日に参謀本部に勤務を命じられた彼は、ヒトラーが会議に使った部屋の中に爆破装置を置くことに成功した。しかし最期の瞬間に一人の将校が、仕掛け爆弾の入った書類カバンを移動した。爆弾の威力にもかかわらず、ヒトラーは軽傷を負っただけであった。シュタウフェンベルクは、その夜に銃殺された。
[訳注] Wolfsschanze(狼の要塞)は、ヒトラーが東部戦線での作戦を指導するためにつくらせた要塞。
1933年以降抑圧されつづけた左派政党は、広範なレジスタンス運動を統率するにはあまりにも弱体であった。共産党のレジスタンスは、1942年末に潰滅した。トーマス・マンといった知識人や、1933年プラハでSOPADE社会民主党を旗揚げした社会民主主義者の活動家たちがナチズムに反対する闘いを組織したのは、外国の地においてであった。
従ってナチズムにたいするドイツ人のレジスタンスは、おもに保守の政治家であった。彼らの大半はヒトラーの対外政策を支持したのであるが、ドイツの救済[ヒトラー 訳注]はこれから自分たちを追い出しにかかると判断した。「白バラ」の学生たちはナチス体制に対して、彼らの精神的、市民的レジスタンスを体現した。
ハンス・ショールとソフィ・ショール、レジスタンス組織「白バラ」の指導者。ミュンヘン1942年。
もう一つの戦線―「全面戦争」下のドイツ人「あらゆる力を動員しよう!全面戦争、それは戦争を最も早く集結させる!」1943年ナチスのプロパガンダ用ポスター
ヒトラーの人気が、ドイツ国民の大多数のなかに戦争の終わりまで衰えなかったこと、そしてナチス体制に対するレジスタンスが微弱なものでしかなかったことを、どう説明するのか?武器産業における女性の仕事
ハインケル航空機製造工場に徴用された女性労働者
*しばらくお休みしていた仏独共同歴史教科書を再開します。第二次世界大戦下のドイツおよびフランス、大戦の記憶などを取り上げます。
組合活動の「見習い」は、高校からはじまる・・・そして大学に引き継がれる。
これは、フランスのlycée(高校)3年(経済・社会コース)の「社会・政治の科学」という教科書の目次。バカロレア試験(高校終了と大学入学許可を兼ねる)のための手引きもしています。おそらくこういう問題が出るのでしょう。
フランスでは、鉛筆・消しゴムの試用は不許可。修正はできないので、頭の中で回答文を一度完成させて、ボールペンで誤字がないように注意をしながら書き込みます。日頃からの訓練がものをいいます。
ひとつの国会、二つの議会
誰が立法権をもつのか?
どのようにして、立法権と行政権はともに統治するのか?
フランス大統領選挙は、17年ぶりに左派が奪還しました。投票率81.5%は、フランス民主主義の健全さを示しています。
フランソワ・オランド候補 51.67%
ニコラ・サルコジ候補 48.33% 投票率81.5%、棄権率18.5%
オランド当選を報じる左派系の新聞 Libérationの一面「普通の男!」
*Normalを「当然」と訳していましたが、「普通の男」が適切であると思い、訂正します。
フランスの行政権について見てみましょう。日本人の感覚からすると、ちょっと引いてしまうところ(大統領の核兵器を作動する権利など)もありますが、大統領、政府、議会の権力関係がすこし解るのではないかと思います。次回は立法権をとりあげます。中学4年の公民教科書「明日、市民になる」(2000年版)に載っています。
行政権
・共和国大統領の権限はどのようなものか?
・政府の権限はどのようなものか?
閣議は毎週水曜日の午前中に、エリゼ宮でおこなわれます。写真は1997年の、ジョスパン政権最初の閣議
パリジャン紙の5月3日付けに、「オランド―サルコジ討論を解読する」という記事がありましたので、あらましを紹介します。
今年は横断幕があまり撮れなくて残念でした。
「雇用、賃金、社会的保護」「彼らの危機のツケを支払うのは我々ではない」
統一労働組合連合(FSU)イル・ドゥ・フランス地域圏組織
大統領選挙を5日後に控えた今年のメーデーは、サルコジ批判一色でした。とくに労働組合を敵視した大統領の言葉「真の労働(者)」は、多くのプラカードで皮肉を込めて活用されていました。
「5月1日―スズランの花 5月6日―箒(ほうき)!」
フランスでは5月1日に、親しい人、愛する人にすずらんの花を贈る習慣があります。
まずはこの写真。撮らせてくださいとお願いすると、「いいよ!」と気軽に応じてくれました。胸には「フランス共産党」のワッペンをつけています。歴戦のミリタン(闘士)でしょうか・・・まなざしにも、強靱ななにかを感じます。お礼を言って握手をしたとき、分厚い労働者の手でした。
CGTのメーデーポスター「2012メーデーの位置づけは、社会正義」「賃金、雇用、社会保障、年金支給開始年齢60歳」
2012年メーデーに向けての、危機を抜け出すためのCGTの10の要求
1.賃金、年金、社会保障の限度額を引き上げること(最低賃金は1,700ユーロ)。
2.企業にたいする政府援助を抑制すること。
3.企業に、解雇に替わる解決策を迫ること。
4.残業にたいする税金および社会保険掛け金の免除を廃止すること。
5.雇用の削減にストップをかけること。
6.公共政策および公共サービスの能力を発展させること。
7.税制を根本的に改革すること。
8.財務部を創設し、生産性のある投資に低利の貸し付けをするシステムを打ち立てること。
9.投機的な資本の移動に課税し、税金天国を廃止すること。
10.社会的連帯と経済発展のためのヨーロッパ基金を設けること。