高等法院は、自らの名誉のためにも捜査の開始を避けることはできない。しかし捜査は進展しない。十分な証拠がないので、国王の名において、捜査を進めることを止めさせるべきだと言う者もいた。
1789年4月27~28日、サンタントワーヌ街の壁紙業者レヴェイヨンに対する暴動―レヴェイヨン事件
この様々な階層の結合、このすばらしい結合が生み出した人民の偉大なる出現は、宮廷を震え上がらせた。宮廷は国王に対して、国民との約束を破棄するように決意させようと、全精力を傾けた。ポリニャック委員会は、国王を二つの不安のなかに貶めるために、国王を脅すような不遜きわまりない手紙を王弟たちに書かせ、署名させようと企んだ。その手紙には、国王にたいする脅し、自分たちが特権階級の代表に名乗りを上げること、納税の拒否、国内の分裂、ほとんど内乱状態にあるといったことが書き連ねてあった。
第三身分の議席は多少とも多かったが、今のところは三身分の一つでしかない。すなわち2票に対する1票である。ネッケルは、過去の全国三部会において度々機能麻痺を引き起こした、身分ごとの投票を維持しようと考えている。
第1巻 1789年4月~7月
第1章 1789年の選挙(その1)
全ての人民が、選挙人を選出し、そして自分たちの不満や要求を陳情書に書くように求められた。人民の無知が当てにされたのである。変わることのない人民の本能、すなわち揺るぐことなく、決して異議を挟まない人民に拠り所を求めたのだ。全国三部会の招集は遅れた。パリの三部会選挙が遅れたからである。国民主権の初めての行使である。選挙人たちは、暴動によって動揺させられた。レヴェイヨン事件である。誰かがこの事件に利害を結びつけた。とにかくこうして選挙は完了した(1789年1月~4月)。
全国三部会の開催に至るまで
貴族と王権の対立
フランス王国の歴史は、王権が地方の有力諸侯の領地を統合していく歴史でした。統合後も各地方の法(南部ではローマ法、北部では慣習法)と特権を認めました。度量衡や税に関してもまちまちでした。その上で国王を頂点とする主従関係が成り立っていました。
17世紀に特権の侵害に反対する特権身分および貴族が起こし、それに重税に苦しむ民衆が加わった大規模なフロンドの乱が鎮圧されたのち、王権はルイ14世の絶対王政の下で強化されました。しかしルイ14世の死後、再び特権身分・貴族と王権のあいだに緊張がたかまり、とりわけ特権身分が根拠地としている高等法院は、回復した王令登録権を武器に王権に抵抗します(王令は高等法院が登録して初めて効力を発する)。
危機的な国家財政
ルイ15世の時代まで、うち続く対外戦争のための戦費は度重なる増税によってまかなってきました。イギリスに対する7年戦争の意趣返しとして、ルイ16世が始めたアメリカ独立戦争の支援の戦費は、もはや増税にたよることができず、公債発行でまかなわれました。その結果国家財政は、危機的な状態に追い込まれました。
財政危機からの脱出のために政府がとった政策は、身分や地域による税の不公正をなくそうとするものでした。国王はそれをのませるために、諮問機関である名士会を招集しました。特権身分からなる名士会は、これまでに国王の意志に反対することがなかったからです。予想に反して名士会の反対に遭った政府は、この法案を高等法院に登録させようとしました。
全国三部会の開催へ
高等法院は、税の審議であることを理由に、全国三部会の開催を要求しました。しかし本音は、身分別評決によって特権身分が有利になることを見越しながら、世論を引きつけることにありました。国王は王令の登記を迫りましたが拒否され、高等法院をパリから追放しました。しかし全国三部会の開催を望む声が日増しに大きくなり、ついに国王は全国三部会の招集とそのための選挙の実施を命じました。
<用語の説明>
高等法院
イギリスの議会parlementと同じ語源。フランスのparmentは、最高裁判所のような役割を持つ。高等法院は、国王の定めた法律もここに登記されない限りは法的効力をもたない。しかし国王が登録を迫った場合拒否できない。
三部会
地方三部会も全国三部会も14世紀に創設され、租税の審議を中心的におこなっていたが、絶対王政後は開催されなくなった。しかしフランス王国に統合されるのが遅かった地方は、地方三部会が残存した。聖職者、貴族、第三身分の三つの身分によって構成され、評決は身分ごとにおこなわれたので、つねに特権身分に有利であった。
次回から、いよいよ本文に入ります。
フランス革命はいつ始まったか?
フランス革命は、1917年のロシア革命のように、直後に体制の転覆をもたらすような暴力行為によって始まったわけではありません。フランス人が君主制をアンシャン・レジーム(旧体制)と呼び、革命について語り始めたのは、パリ民衆によるバスティーユ奪取の2ヶ月後の1789年の9月から10月にかけてです。そしてルイ16世の治世の終焉は、立法議会が王制を廃止した1792年を待たねばなりませんでした。それに先立つ1791年9月14日には、国王は、国が国王と議会によって統治される立憲君主制を内容とする憲法(1年を超えて練り上げられた)を受け入れていました。
ミシュレは、「フランス革命史」を全国三部会の選挙から始めています。この選挙で人民が初めて主権を行使したこと、また人々の意識を大きく変えていった出発点となったことを考えると、ミシュレが選挙をフランス革命の始点としたことは理にかなっていると思います。そして彼は、ジャコバン(山岳派)独裁が終焉した1794年7月のテルミドールのクーデタをもって、この本を終えています。
フランス革命の担い手
パリ大学のフランス革命講座の教授であったジョルジュ・ルフェーブルは、著書「1789年―フランス革命序論」のなかで、フランス革命を、アリストクラート(貴族・高位聖職者などの特権階級)の革命、ブルジョアの革命、民衆の革命、農民の革命と、革命の担い手が変わっていったことを詳しく論じています。そして前の二つを法律革命、後の二つを社会革命であると規定しています。フランスでは貴族が革命を始め、平民が革命を完成したといわれます。
filio histoire版の「フランス革命史」
ミシュレはどんな人?
まず中公文庫の「フランス革命史」にそって、ジュール・ミシュレはどういう人だったのかを見ていきたいと思います。
ジュール・ミシュレ Jules Micheletは1798年、つまりフランス革命が始まって9年後、ナポレオンが実質的な権力をにぎるブリュメール18日のクーデタの前年にパリで生まれました。幼いジュールは印刷工であった父親の助手をしながら、ナポレオンに反発する父が語る革命時代の良さに耳を傾けました。「本をつくる前に私は物的に本をこしらえていた。私は思想を集める前に活字を集めていた」と後に回顧しています。
1812年の印刷統制令によって印刷所が廃業、困窮がミシュレ一家を襲います。祖父や叔母たちが、幼いときから神童ぶりを発揮するジュールを学校に通わせます。1814年に母を失ったジュールは、その強靱な意志力で悲しみを乗り越え、意気消沈することがなかったといいます。
18歳には、全国学力コンクールにおいて、国語およびラテン語で三つの賞を獲得しました。さらに19歳でバカロレアに合格、20歳で学士号を、21歳で文学博士となり、23歳で大学教授資格試験に第3位で合格、ただちに歴史科の教授に任命されました。多少の余裕ができたミシュレは、古典の知識をさらに充実させ、近代思想にも親しみました。
26歳で時結婚、二人の子どもをもうけたミシュレは、勉強に没頭するあまり家庭を顧みなくなります。15年後に妻が結核でなくなると、良心の呵責に悩んだ彼は、妻の遺骸を発掘し対面した上で、ふたたび改葬する行動をとります。また息子シャルルが身を持ち崩し、33歳で夭折します。
ミシュレの日常生活は、必ず日の出前に起床、十時に就寝。これは晩年まで続きます。講義に出かける以外は勉強一本でした。社交は好まず、仕事以外の外出はほとんどなかったといいます。
1830年の七月革命に啓示を受け、フランスの使命を明らかにすることこそ自分の転職ではないかと思い至ったミシュレは、それまで研究していたローマ史を中断して、「フランス史」の構想を練ります。それは国家の歴史ではなく、そこに生きたフランス人民の歴史でした。構想に十分な時間をかけ、ひとたび執筆に取りかかると一気に書き上げました。1833年には「フランス史」の第一巻、第二巻を出版、そして67年に第十七巻が完成します。そして「十九世紀史」(三巻)を死の直前(1874年)に書き上げます。26冊をおよそ40年かけて書いたことになります。
1841年頃からフランス革命に関する史料を集めていたミシュレは、第六巻(ルイ11世)まで書き上げたあと第七巻(ルネッサンス)にとりかからず、「フランス革命史」(第二十一巻、6冊)を1847年から6年かけて書き上げます。そこには、当時カトリックの教育への干渉の強まりに反発し、カトリック反動に対する抵抗運動を始めた、戦闘的共和主義者、人民主義者としてのミシュレを見いだすことができます。
1848年に講義内容を理由に講義停止処分を受けたミシュレは、二月革命によってこの処分を解かれ、革命後の総選挙において、ミシュレはアルデンヌ県から立候補することを勧められます。ミシュレは固持し、研究活動の道を選びました。
愛読者であったアテナイスと再婚したミシュレは、妻の協力もあり、いっそう執筆に専念します。1870年、彼は普仏戦争でフランスがメッスで降伏した報に接し卒中の発作を起こし、さらにパリ・コミューンの挫折を知り再び発作を起こしました。以後三年の引退静養生活を送ったあと、1974年2月9日にプロバンスのイエールで75歳6ヶ月の生涯を閉じました。遺骸はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。
「私は、パリの二枚の敷石のあいだに生えた雑草のように成長した。しかし、この草はアルプスの草のように、その養液を失わなかった」というミシュレの言葉は、逆境のなかで育ったにもかかわらず、その強靱な意志力とたゆまぬ努力によって、感性あふれる歴史を語り続けた、この大歴史家の生涯を言い表しています。
これからミシュレの「フランス革命史」第1巻を読んでいこうと思います。全体は序文と21巻の大部です。使用したのは、Filio histoire版です。
現在邦訳されている本は、当時フランス文学、フランス史の重鎮であった桑原 武夫, 多田 道太郎,樋口 謹一が共訳した中公文庫だけです。この本は抄訳ですが、重要なところは全文訳出されています。
桑原武夫は冒頭の「人民史家ミシュレ」のなかで、この本を訳出した理由として、次の二つの理由を挙げています。
第一には、フランス革命は人類史上の最も重要な事件の一つであって、その歴史を知ることが私たち日本人にとって必要だからである。
第二には、本書はそのフランス革命を最も生き生きと伝える名作であるが、同時に、歴史叙述の模範として推奨する価値があるからである。
そしてそれは、「あらゆる『近代的なるもの』の源泉となった歴史的一大変革と流血を生き抜いた『人民』を主人公とするフランス革命史の名著」であり、「ミシュレの歴史叙述がいかにすぐれているかを感得してもらいたいためにこそ、この訳書がつくられたのである」と述べています。
中公文庫の訳本は、まさに躍動感あふれ感動を呼び起こすミシュレの文を、最大限に感得できる名訳となっています。
「イル・サンジェルマンの散歩道」は5月をもって終了しましたが、このたび新たな装いで再開することになりました。「ミシュレの『フランス革命史』を読む」を中心に、フランスに関する記事を掲載していきたいと思います。更新の間隔はすこし長めになりますが、今後ともよろしくお願いします。
jeanvaljean