土層断面の注記 スタート 9月25日(土)。この日は、24日と同様に断面の線引き&作図、、C区南側トレンチの掘り下げをおこないました。予定を大幅に遅れている断面実測ですが、徐々に図面が集まってきたので、この日、ついに先生が土層名称の注記(ネーミング)をはじめました(↑)。土層注記とは、土層の色調(土色)、土性、粗密、粘性、含有物など、層界の状況を観察した所見で、遺跡の性格を位置づける重要な作業です。この注記作業は先生以外だれもできません。先生の注記作業は、私たち学生が引いたチェック工程でもあり、「なに、これ?」とか「全然反対じゃん」とか「壁と図面で線の数がちがうやん」とかぶつぶつ唱えながら作業を進める先生の挙動にみなピリピリしています。
さて、断面の線引き&作図は、昨日から引き続き「② C区北壁」を部長さんが進めていきました。C区北壁には上層の礎石が噛んでいるので、この石が元位置から動いているかどうか、見極めが重要です。また、同区「① C区西壁断面」では、エアポートが追加の断面線引き&作図をおこないました。C区西壁は、断面の手前から上層の礎石が出ており、その真下には凝灰岩盤を穿った雨落溝状の遺構があります。今回、礎石(上層遺構)の断面と凝灰岩盤(下層遺構)との断面関係を確認するため、その周囲にL字トレンチを設置し、土層の検出と実測をおこないました。この日はタクオさんも参加し、担当断面「⑪ A区東壁」を線引きされました。
一方、昨日先生が掘り下げられたC区南側トレンチは、ナオキが掘り下げを受け継ぎました(↓)。表土から20センチほど下げると、凝灰岩の岩盤が! また、他のトレンチと同様に、凝灰岩盤は平坦地のほぼ中央で途切れ茶灰系の粘質土(下層基壇土?)に変わることが確認されました。やはり、この平坦地には南北方向に凝灰岩盤がひろがっているのです。さて、昨日も紹介したようにC区南側トレンチからは、下層から安山岩らしき石がたくさん出てきました。この日、茶灰土系の基壇土まで掘り下げることで、上層の礎石のような石や安山岩が元位置から動いているかどうかを確認できました。結果、残念ながらこれらの70%前後は底部に黒い表土系の土が噛んでおり、元位置から動いていることが明らかになりました。上層の遺構検出の際、この石列周辺には土坑とみられる窪みがいくつも確認されていたので、これらの石が正式に土坑に廃棄されたものだということがいえます。しかし、上層の礎石の中には、ベージュ色の土の上に座っているものもみられました。これら元位置から動いていない石をピックアップし、全体配置と照らし合わせていけば、上層の礎石配置を復元することができるかもしれません。
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- 2010/09/30(木) 23:49:30|
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後期ガイダンスの日に 9月23日(木)は雨のため現場での作業を中止しました。1日だけ参加予定だったN教授はひどく残念そう・・・翌24日(金)に作業再開です。この日は大学の後期ガイダンスのある日です。とうとう夏休みが終わり、新学期が始まりました、とほほ・・・全員がガイダンスに出席するため、午前は4年生組、午後は院生組と、交代で現場に上がることにしました。
午前に上がった4年生組ですが、13時のガイダンスに向けお昼の12時には作業を切り上げ、大学に戻らなければならないのですが、事件発生。なんと図面の入っている鞄を大学に忘れてしまい、作業開始時間が大幅に削られてしまったのです。手早く断面実測の作業をおこなわなければなりませんが、生憎の雨模様で作業が進みません。それでも武蔵くんが担当していた謎の安山岩盤を含む「⑨D区北壁」の実測図面が完成し、注記の作業に移れることとなりました。一方、轟は実測が遅れているため、急がねばなりません。
午後から現場に上がることになった院生組も自分の担当する断面の線引き及び実測をおこない、「⑬すり鉢風トレンチ」の実測が完成。こちらも注記の作業に移行できるようになりました。ここは土層が4層に分かれており、中央に穴が残っていて、その底部には平坦な石が見えます。礎石を据え付けたり、抜き取ったりした穴なのでしょうか。一方はじめて、部長さんが自分の担当である「②C区北壁」の断面に途中まで線引きし、次回に実測がおこなえるのでしょうか。
そして、N先生が担当される予定であったC区南側に並ぶ石列よりさらに南側の掘り下げを先生がはじめました。この石列は見事な並びをみせていますが、元位置のものがどれで、動いているものがどれなのかを確認する工程です。下層から安山岩のような石がゴロゴロ出てくるのですが、まだ完全に掘り下げたわけではないので、元位置にあるかどうか分かりません。(轟)
- 2010/09/29(水) 23:10:23|
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四苦八苦の断面実測 9月18~22日にかけて、土層断面の線引きと実測をおこないました。16、17日と先生が断面図線引きのお手本を見せてくださったので、見よう見真似で断面に線を引き、実測していきました。
さて、実測をおこなう際、断面に水平な水糸を張ります。これにはオートレベルとスタッフを使うため、基本2人一組で作業をおこないます。パートナーと担当断面は以下の通り(数字は上の図面と対応)。
エアポート&武蔵 :①、③、⑨、⑩、⑬
轟&部長 :②、⑥、⑦、⑧、⑭
きっかわ&タクオ :④、⑤、⑪、⑫
壁の線引きには、ガリ(マンジュウ)と五寸釘(または測量鋲)を使いました。作業初日、まずはこれらを使いこなすのに一苦労。マンジュウで壁を整えていくのですが、マンジュウが樹根に引っかかって周囲の壁が崩れたり、釘で壁に線を引くも、クッキリとした線が刻めなかったりと、散々・・・また、トレンチによっては壁がもろく、線を引くたびに壁土が落ちてくるところも。ようやく道具に慣れてきたかと思うと、今度は各々の手に持った五寸釘がピタリと止まって動きません。土層の境はいずこ。先生がおっしゃるには光の加減やその日の地面の含水量によって土層の見え方が変わるそうです。何度も断面に近づいたり離れたりして土層の境を探しました。ふと、先生が検出の手本をみせながらおっしゃられた一言があたまをよぎります。
「この作業が発掘調査で一番シビアなんだ」
そのときは単にそうなんだと思っていましたが、いざ実践してみるとその言葉が骨身にしみます・・・。
初めての断面線引きは想像以上にてこずりました。でも、一つひとつが勉強です。苦悩しながらも徐々に作業に慣れ、なんとか実測を進めていきました。崩れやすい壁には、試行錯誤の末、まずは釘で浅く線を引き、土層の変化があるところに(焼鳥の)竹串を打って識別することに。意外にもこの竹串作戦が学生の間で大ヒット。線を引いたあと実測をする際、土層の特徴が一目瞭然なのでスケッチがスムーズにおこなえるとか(↑)。気づけば、どこのトレンチにも竹串の山また山・・・
しかし、20~22日目と雨が降ったり止んだりの天気が続き、断面の線引き&実測作業は遅々として進まず、完成した実測図はわずか7箇所。23日までに完成するという目標が達成できなかったのはつらい結果です。夏休みも残りあとわずか、早急に完成させねば。(Mr.エアポート)
↑断面実測図(エアポート作) ※先生のチェック前
- 2010/09/28(火) 19:56:33|
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ホゾ穴付き凝灰岩発見か!? 9月17日(金)。A区とD区で検出された遺物の取り上げから作業が始まり、下層遺構の掘り下げと断面め線引きをおこないました。
16日にA区スリバチ状土抗を掘り下げ、礎石のような平たい石を発見した状態で作業を中断したため、引き続きその部分を掘り進めていきました。発見した石のレベルで掘り進めて行くと、すぐ近くにホゾ穴のような孔の開いた凝灰岩を発見。「ホゾ穴」の肩が半分崩れているため、穴の全体は確認できませんが、底部がしっかりと残っているうえに、長形大土抗の凝灰岩岩盤で発見されたホゾ穴とサイズや方位が近く、13日にみつかった2つのピットと前回、不幸中の幸いで見つかった畦上の礎石に加えて、下層に建物が建っていた蓋然性が一段と高まる証拠の発見です。
↑ホゾ穴付き凝灰岩(元位置からは動いているか?)
断面の線引きについては、まず先生がお手本とばかりにB区L字トレンチの南壁と北壁の断面に線を引かれました。このトレンチの北壁と南壁は掘り下げる段階で黒灰土の層が西にいくにつれて厚くなっていることが分かっており、そこから下に何層かに分かれています。基本は表土があり、その下には黒灰土、タタキ(上層基壇)と上層遺構に関する土層があり、それより下の凝灰岩が混じった土(下層基壇)や整地土は下層に伴う土層と推定されます。
さて、B区L字トレンチ南壁と北壁は土層が非常に複雑であるため、発掘調査を十数年経験された先生でさえ線引きに苦労されていました。先生が「難しい」と嘆息されているのに、ぼくたち学生は自分の担当部分を無事に線引きすることができるのでしょうか。おそらくできないでしょうが、どの断面も先生がチェックし、修正されることになっています。これから時間がかかるでしょうね・・・
学生では、まず武蔵くんがC区西壁の線引きにチャレンジしました(←)。はじめて挑む線引きに戸惑いつつも、太く綺麗な線を引いていきました。これだけ太ければ、ちょっとやそっとの雨で線が消えることはなさそうですね。C区西壁は崖から流れこんできた表土が厚く堆積しており、その下が黒灰土、上層基壇を覆う盛り土となっており、下層基壇は凝灰岩盤であり、その上には、それを隠すための「凝灰岩を含むゼリー状のパック層」があり、それらを見極めなければならないのですが、果たして無事に断面線を引くことができるのでしょうか。
D区谷側トレンチの残りの掘り下げは進み、遺物も検出され、落ち込み底部にある土抗(炭混じりの埋土)の範囲を特定することができました。この土抗は今後、半割りして断面を観察しながら掘り下げる予定です。(轟)
↑D区で発見した土器
- 2010/09/27(月) 21:31:20|
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すり鉢状土坑から礎石発見!? 9月16日(木)。ついに土層断面の線引きが始まりました。昨晩、先生と協議し、断面実測をおこなう箇所を選んだ後、それぞれ担当する学生を決めました。実測する断面は大きく分けて14箇所で、必要に応じて周辺の土層断面も実測していきます。
さて、まずは断面線引きができるように、各トレンチの下げ切れていない部分をマンジュウで丁寧にかき、壁面を整えていきました。また、この作業と平行して、すり鉢状土坑中央に東西方向のトレンチを設定しました(↑)。発掘当初、この土坑は「昭和の盗掘話」から盗掘土坑とみなしてきましたが、調査序盤、土坑の表土をはぐと底を除く表面全体をタタキが覆っており、底部に黒い土が溜まっていることが判明。どうやら盗掘によるものではなさそうということで、その後は保留にしていましたが、今回トレンチを入れ、断面を確認することで改めてその正体を明らかにしようと試みました。
仮に盗掘土坑であれば、V字状の土坑が平行に連なった土層を切り込むわけですが、実際に掘って断面をみると、土坑の表面をタタキ(第1層)が覆い、第2層、第3層(下層基壇土か)が中央に向かって落ち込んでいることがわかりました。また、土坑底部では第1層から第3層を切り込むように黒い土が溜まっており、その底から安山岩と思われる平坦面を持つ石が出てきました(↓)。これには一同仰天。これが礎石だとすると、ここだけ長い柱が建ちあがって上部構造を支持していたことになります。ただ、下層の礎石なのか、上層の礎石なのかは分かりません。下層の礎石をそのまま上層の礎石に転用した結果、すり鉢状の面ができたのかもしれない、と先生は指摘されました。まだこのトレンチ全体を下げ切れていないので、明日以降この石の周辺を掘り下げれば何かわかるかもしれません。
[摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅩⅩⅤ)]の続きを読む
- 2010/09/26(日) 13:09:30|
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崖際の遺構と遺物 9月15日(水)。朝から雨が降っており、前日と同じく、雨脚が強まったり弱まったり。しばらく麓の駐車場で待機していると、雨が弱まったため、現場を目指しました。現場では、前日の雨で溜まった雨水を抜き取るのですが、また強い雨が降り出しました。天気が回復しそうにないため下山し、一時大学に戻ることに。
大学に戻ってからしばらく内業をしていたのですが、徐々に天候が回復していき、午後から再び現場に上がることにしました。
さて、午後からの僅かな時間ですが、下層遺構の堀り下げに着手し、前日発見されたD区の安山岩盤の部分と、谷側の落ち込み、武蔵が担当していたA区の谷側のトレンチの残りを掘り下げることにしました。
安山岩盤の部分を半割りし掘り下げていくと、2つの安山岩はつながっていることが分かり、担当していたエアポートさんによると、この安山岩はさらに伸びているかもしれないとのこと。どの方向に向かって伸びているかは分かりませんが、次回に少しひろい範囲を掘り下げることになりました。
安山岩盤のすぐ近くのD区崖側は以前部長さんが担当されており、土器が数点出土した場所でありますが、ここはまだ黒灰土が多く残っており、東壁に沿って掘り下げることにしました。この場所は平坦地内でもっともレベルが低い場所であり、固い整地土が続き掘り下げに時間がかかる畦近くで地山が確認できていないため、地山を確認できる場所となるかもしれないと期待をもっているのですが・・・
D区崖側を掘り進めるとお盆過ぎにチャックさんが発見された安山岩(当時は凝灰岩と判断していた)は浮いていることが分かり、上から転がり落ちてきたものと判断しました。この辺りには転がり落ちた石が多く、中には抜き取られた礎石が混じっている可能性があります。また落ち込みが始まる辺りで、今までより比較的大きな土器片が発見されました。黒灰土の中から検出されたものですが、ここは表土と下層基壇度の境であり、掘り下げているほかのトレンチと比べてレベル差がかなりあるため上層に伴うものか下層に伴うものかはまだ分かりません。最後の土層観察であきらかになるでしょう。
↑つながる安山岩 ↑D区の転がり落ちた石 ↑D区の落ち込みで発見された土器片
また落ち込みの一番下に一つ石が黒灰土に埋まっており、硬い面と軟らかい土の面が分かれているため一番下の部分は土抗があるようです。黒灰土をはぎ終わり次第、この土抗らしきものの範囲も見つけていかなくてはならないでしょう。
A区の谷側トレンチの残りを北に向かって掘り進めると、検出されていた黄灰土が途切れ、再び黒灰土が姿を現しました。このトレンチの先には大きな木があり、これ以上掘り進むことができません。黒灰土を黄灰土の面まで掘り下げていると、黄灰土が再び見つかるのですが、一部黒灰土が残っていることに気が付き、取り除こうとすると、円形に近い形で穴が開いている様でした。もしかすると下層遺構に伴うホゾ穴かもしれませんが、このあたりは木の根が多い場所であるため、根っこによる撹乱の可能性もあります。(轟)
↑A区谷側トレンチで発見された穴
- 2010/09/25(土) 21:59:48|
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謎の安山岩盤 9月14日(火)。水抜きが終わると同時に、実測・レベル測量に移行し、下層遺構の掘り下げをおこないました。
実測・測量終了後まずC区の西に向かって延びる畦に沿って、新たなトレンチを50cm幅で設定し、凝灰岩の石敷がどこまで伸びているのか確かめたたところ、30cm程度掘り進んだところで、凝灰岩が途切れてしまいました。やはりB区L字トレンチと同じように、いきなり垂直に岩盤が消えていきます。B区L字トレンチでは一度岩盤が消えてから、少し掘り進むとまた凝灰岩が発見されたのですが、C区で設定した新たなトレンチでは凝灰岩の面的な広がりはないようです。岩盤が消えてからは凝灰岩混りの整地土が続きますが、この辺りは黒灰土が厚く堆積しており、崩れやすい土のため、断面を観察する際に気をつけなければなりませんね。
またこのトレンチでは畦の上に残した礎石も含んでいます。掘り下げた段階で礎石の下に根石のような石が発見されました。この礎石は断面観察により生きているか死んでいるかがわかることでしょう。
↑C区畦沿いに設定したトレンチ
前回、凝灰岩混りの黄灰土が検出されたD区の北側は、トレンチの半分を掘り下げることにし、作業を進めていると安山岩と思われる大きな石が2つ発見されました。これはどうやら自然石であり、凝灰岩混りの整地土にくい込んでいる状態でした。この安山岩の上部が平らであれば、礎石の可能性もあります。問題はこの安山岩が凝灰岩の岩盤のように伸びて広がっているかどうかであり、その場合どの方向に向かって伸びているかです。この日は作業時間が残り少なかったため、安山岩付近の掘り下げ調査は次回に持ち越しとなりました。
B区L字トレンチの断面を精査していたところ、この日に掘り下げていたC区と同じように黒い土(黒灰土)が厚く堆積しており、先生によれば、黒灰土の上に乗っているB区内の礎石はほとんどが死んでいる可能性があるとのことです。しかし現段階ではB区内のすべての石が死んでいるとはいえないため、いずれ黒灰土とそれ以外の範囲を特定し、生きている石を見極めなければなりません。(轟)
↑D区北側のトレンチで検出された安山岩
- 2010/09/24(金) 21:31:22|
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岩盤に穿たれた二つのピット 9月13日(月)。12日に続き下層遺構の検出をおこないました。昨晩、実測図の縮図を用いて上層の柱配置を検討しましたが、なかなかまとまりません。表土上からみえていた石が動いている可能性ももちろんありますが、実測図のほうにも問題があり、隣り合う実測図のトレンチのラインがずれていたりして、手ばかりの誤差を無視できない状態です。先生とも協議の結果、後日トータルステーションで、礎石等重要遺構の正確な座標を計測しなおすことになりました。
まずは気になる柱配置を確定するため、昨晩検討した結果にもとづき、礎石がありそうなところを掘り下げていきました。この日は、いまのところ礎石列として最も注目しているC区の礎石列に狙いを定め、その延長線上を調べました。この礎石列は、3石が1.9mスパンで東西軸線上(正確には5度ほど北にふれる)に並んでおり、山側斜面にあるタタキ上の礎石とも対応しています。連続する礎石をもとめて、平坦地中央(C区とA区の境)の茶褐土層を少しずつ慎重に下げていきました。しかし、礎石らしいものはまったくみつかりません。この近くに大きな切り株があるので、この切り株によって礎石やその痕跡が撹乱されてしまった可能性が考えられます。タタキそのものはさらに東にのびているので、柱がこのあたりでとまっていたはずはありません。上層の礎石は平坦で軽いものばかりでして、抜き取られてしまったとみるほうが妥当と思われます。
また、C区では昨日みつかった雨落ち溝風の凝灰岩盤を追って掘り下げました。すると、溝の底と段の上から柱穴のようなピットを発見(↑)。両方とも凝灰岩盤をくりぬいたもので、段の上の柱穴と溝の底の柱穴は隣り合うような位置関係(50センチほど離れている)にあります。溝の底の穴は直径15センチ、深さ10センチほどの円形。段の上の柱穴は楕円形で、長手が30センチ、短手が20センチ、深さ15センチほどで、柱穴の中から黒色土器(断面はベージュ色)の破片が出てきました(↓)。ここに下層に係わる柱が立っていたとすれば、この土器は柱を抜き取ったあとの埋土に含まれるものであり、下層の廃絶年代を示唆する遺物として注目されます。いわゆる瓦器ならば、下層の廃絶は中世初期までくだることになるでしょう。下層岩盤に掘り込まれたホゾ穴もしくは柱穴のようなピットの相次ぐ発見は、岩盤を整形した下層建物の存在を強く示すものであり、B区L字トレンチの下層整地土と目される凝灰岩混赤褐色土から出土した厚めの須恵器から考えて、平安時代に建物が建っていた蓋然性が一気に高まってきました。
さて、段上の楕円形ピット周辺を探っていくと、粗く整形された凝灰岩盤をパックする薄いゼリーのような層を確認しました(↑写真左側奥)。この層には細かい凝灰岩粒が大量に混ざっており、一見岩盤そのものにみえます。しかし、ガリでこすると層が剥がれていき、本物の岩盤が顔を出します。おそらく、岩盤そのものの整形が粗っぽいので、それをパックして化粧したものと想像されます。上記のピットはこのパック土層の上から平面をとらえることができました。したがって、建物が存在したとするならば、柱はピット内に納まり、ゼリー状のパック層で四方を固められていたことになります。ですから、基壇化粧に相当するのは岩盤そのものではなく、このパック層だということができます。
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- 2010/09/23(木) 23:07:55|
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昨夕、松江・出雲地域での高校訪問を終え、県教委を訪れた。わたしはまだ実物をみていなかったのだが、一足早く文化財課に届いているとの連絡をうけていて、挨拶がてら完成した『出雲大社の建築考古学』を手にしてみようと思ったのである。まったくアポなしで訪問したため、M課長と境内遺跡の巨大本殿を掘ったMさんは不在だったが、近世史を専門とされる世界遺産室のMさんが在室されていて、御礼を言い、本をみせていただいた。
重い。B5版箱入り660頁の重みをずしりと感じた。『先史日本の住居とその周辺』(1998)が540頁、『埋もれた中近世の住まい』(2001)は450頁だった。『出雲大社の建築考古学』は前2書に比べ、だんぜん厚く、重かった。
一夜あけて、今日は大学院修士課程の中間発表会から始まり、午後には4つの会議が続く。そのあいまにメールボックスに行くと、本が届いていた。いや、ほんとうに厚くて重い。苦節5年におよぶ編集工程の重みである。中身の評価は他人に任せるしかないが、とにもかくにも安堵した。大勢の方にご執筆いただきながら、この日まで出版が遅れてしまったのは、ただただ主編者であるわたしの怠慢であり、皆様方に深くお詫び申し上げます。
まずは、内容見本から「編者のことば」と「推薦のことば」をはりつけておく(↑)。推薦文は町田章先生(元奈良文化財研究所所長)と川上貢先生(京都大学名誉教授)に書いていただいた。お二人から推薦文が送られてきたときの喜びといったら、そりゃ大変なもんでした。わるい部下、わるい学生でしかなかった私のようなろくでなしのためにこんなにも素晴らしい推薦文を書いていただけて、ほんと、飛び跳ねたいほど嬉しかった。どうか画像をクリックして、両先生の推薦文を読んでください。
さて、図書情報を記しておきましょう。
書 名: 出雲大社の建築考古学
編 者: 浅川滋男&島根県古代文化センター
発行日: 2010年9月20日
発行所: 同成社
東京都千代田区飯田橋4-4-8
東京中央ビル内 03-3239-1467
ISBN:978-4-88621-519-2 C3021
定 価: 本体18,000円(+税)
というわけで、税込18,900円という高価な本になってしまった。しかし、内容と660頁という分量を考えるならば、決して高価というわけではないと思っている。もちろん著書割引(×0.8)が可能ですので、購入ご希望の方はブログにコメントいただくか、メール等でご連絡ください。
下に目次と注文書もはりつけておきます。
[『出雲大社の建築考古学』刊行!]の続きを読む
- 2010/09/22(水) 21:46:03|
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2006年9月19日に「
白い出雲」という記事を書いている。田和山遺跡で初めて建設される土屋根竪穴住居の材料検査をおこなってから、開館を間近に控える古代出雲歴史博物館を訪問した記録である。
あれからまる4年が経ち、まるで時計のねじを巻き戻したような行程をすごした。燻蒸で焼けてしまった土屋根の竪穴住居の再建が動き出したからである。午前から熊野大社近くの材木置き場でクリ材をみた。前回の建物よりもやや木柄を太くすることに決めて、さっそく出雲に向かおうとしたのだが、あの地域を走っていると、どうしても、神魂神社(↑)と
八雲立つ風土記の丘を訪れたくなる。
風土記の丘の復元建物(奈良時代)の内部には、ストーブ型のイロリが設けてあった。燻蒸よる火災を避けるためなのか、内部での活用に供するためなのかよくわからないが、まぁ、わたしが口出しすることのできない問題である。
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- 2010/09/21(火) 00:10:09|
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凝灰岩盤はどこへ続くのか? 9月12日(日)。この日の作業は、主に以下のトレンチの深掘りをおこないました。
A区:L字トレンチ東側
B区:L字トレンチ北側・西側
C区:西側トレンチ
D区:西側台形トレンチ(本日設定)
先日、L字トレンチの実測とレベル測量が完了したので、この日から各L字トレンチの深掘りを開始しました。現在A区・B区のL字トレンチは、幅1mで表土から25cmほど掘り下げている状態です。今回は、現在検出している面を縦方向に割り、幅を50cmにしてさらに掘り下げました。このように掘り下げ前の遺構を半分残すことによって、遺跡の保護にもなりますし、それが現に存在したことの証拠にもなります。基本的に表土が残っている畦側のトレンチを深掘りし、凝灰岩の岩盤(地山)確認を目標とした作業です。
A区L字トレンチ東側は、深さが40cmほどとなり、端の方で黄灰土の上に茶褐土がかぶさる形で検出されました。この黄灰土は、下層遺構の凝灰岩を覆っている土で、ところどころに凝灰岩の粒が混ざっているのが特徴です。この日もこのエリアから土器がいくつも出てきました。
B区L字トレンチ北側は、さらに30cmほど掘り下げましたが、凝灰岩の岩盤らしい石は出てきません(↑)。岩盤を基礎とする斜面を整形して加工段(平坦地)をつくったのであれば、当然、深掘りすれば地山として凝灰岩の岩盤が出てくるはずなのですが・・・。今回深掘りした土層からも土器が出ているので、これが無遺物層の地山とも考えられません。いったい凝灰岩盤はどのようにつながっているのでしょうか。
試しに先生がB区のL字トレンチ西側の凝灰岩際を掘り下げ、凝灰岩の終わりを追っていかれました(↓)。しかし、いけどもいけども凝灰岩は途切れることなくつながっており、かなり深いとこまでのびています。掘り下げる土もかたく締まっていることから、これらは加工壇を形成する分厚い整地土と考えられます。ということは、B区L字トレンチ北側の掘り下げ部分はまだまだ整地土層ということになりますから、明日以降もう少し下げる必要があるでしょう。果たして岩盤は出るのでしょうか!?
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- 2010/09/20(月) 00:11:05|
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為人民服務 -毛沢東の人間ユンボ 9月11日(土)。この日はレベル測量から作業を開始。轟は長形大土抗の平面実測が一部できていなかったので、先にそちらの作業をおこないました。下層で検出された遺構は上層とくらべて少ないのですが、レベル測量がテンポ良く進まず、結局、14時過ぎにレベル測量が終了し、やっと下層遺構の堀下げに入ることができました。
まずは、ナオキさんが掘られていたA区の新トレンチを受け継いだ轟ですが、レベル測量中に先生が試し掘りをされており、現在掘り下げて到達したタタキより下に黒くサクサクした土が出てきて、さらに下に凝灰岩混じりの層が出てきました。ここでレベル測量を終了させた学生に先生からの質問が投げかけられました。
「今ここで検出されたタタキと黒くパサパサした土と
凝灰岩交じりの土これの順番が分かるか?」
凝灰岩交じりの土が一番下なのは分かるのですが、タタキと黒くパサパサし土が上なのか下なのか、首をかしげながら悩んでしまいましたが、先生は、断面を観察した結果、A区の土層は、上から表土→タタキ→黒くパサパサした土→凝灰岩混じりの硬い整地層の順(上→下)となると説明されました。下の凝灰岩混じりの整地層は下層に係わる可能性があるのですが、それを証明できる遺物はなかなかみつかりません。
その後、C区を担当しておられた先生は、西壁セクションの線引きをする予定だったのですが、以前武蔵くんが検出した礎石風の石の付近を軽く掘ってみたところ、周りがまだ黒い表土系の土だと判明したため、それを取り除きはじめました。まるでユンボの如く、すごい勢いで先生が土を掻いていきます。すると、さらにいくつか石が発見され、C区の集石とつながるような状態となりました。ここには礎石のような平たい石も検出されているため、抜き取られた礎石を集中廃棄した部分ではないか、ということです。ただし、土抗状の穴はなくて、石を廃棄した後に盛土をかぶせてパックしたようです。一定の方位でつながった縁石のような集石ではありますが、先生によりますと、生きている石は3割程度かもしれないとのことです。
↑A区の凝灰岩交じりの土
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- 2010/09/19(日) 00:40:35|
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敦煌紀行9月5日 天水→敦煌 莫高窟、楡林窟
9月6日 鳴沙山、月牙泉、西晋墓 敦煌→北京
天水を後にして、敦煌行きの列車(K591次)に乗り込んだのは15時頃だっただろう。食料と啤酒(ビール)をたっぷり買い込んで30時間の「硬臥」での列車旅に備えた。到着は翌朝の9時30分だ。硬臥は、寝台と通路に仕切りがない。日本ならば会話も控えめになるところだが、ここでは日本語の雑談を誰も聞き取れない。持ち込んだ啤酒と、車内販売で買った白酒を嗜みながら、男3人旅の会話は大いに盛り上がった(内容はヒミツ・・・)。消灯時間(22時)になると、読書灯がなく本も読めないため、一行は早々にそれぞれの寝台で横になった。だが、通路では2人の中国人が周りを気にせずに話している。聞き取ることのできない中国語は雑音でしかない。それでも教授は早々と熟睡。会話をかき消すような鼾を奏でていた。私も、異国の地での疲労もあって、寝付くのにそう時間はかからなかった。目覚めると、車窓からは黄色い朝日が差し込んでいた。黄土高原にわずかに見られた低木や山の緑は薄れ、セピア色の世界がひろがっている。砂漠である。敦煌駅に到着すると、車窓からの景色とは裏腹に、乾いた冷たい風が私たちを出迎えた。
敦煌はシルクロードの分岐点として栄えた砂漠の中のオアシス都市である。「砂漠」と聞くと、荒涼とした景色とともに灼熱の太陽を想像する人もいるだろう。しかし、実際は海抜1000mを越える高地に位置しているため、夏でも気温は25度前後。日本の孟夏と比べれば寒いくらいだ。
さて、敦煌に来た第一の目的は、言うまでもなく中国3大石窟のひとつ莫高窟だ。ちなみに、3大石窟は雲岡・龍門・敦煌莫高窟で、4大石窟になると、麦積山が含まれる。加えて、甘粛は中国で石窟寺院がもっとも多い
省であり、敦煌周辺にも点在するが、わけても安西県の楡林窟は有名であり、今回はこの秘境の石窟に絞込んで旅程を計画した。駅に着くや、まずは移動の足を確保しなければない。この辺りは、旅を通じて教授にお世話になりっぱなし・・・すぐに、いかつい風貌の女性ドライバーと交渉成立! 一路、莫高窟を目指した。
莫高窟外観 それぞれの窟はアルミ製建具で仕切られ、岩壁は補修されている
莫高窟は、国家重点文物保護単位であると同時に、世界複合遺産である。開削は前秦の366年とされており、以来、歴代の王朝によって支配されるものの、絶え間なく開削と修復が続いた。現在確認されている石窟の数は700を超えるという。敦煌では天水と違い、見学の際に厳格な規定が定められていた。まず、場内は撮影禁止。そしてガイドの帯同による集団行動。おまけに、内部を参観できる石窟はガイドのさじ加減でセレクトされるという。遺跡を守るためとはいえ、なんとも調査泣かせの決まりである。しかし、われわれの今回の目的は「窟櫓」である。そこで、ガイドに許可を取って団体から離れ、唐代・宋代の窟櫓とその痕跡を集中的に見てまわった。間近で確認することのできた窟櫓は宋代のもので、間口はすべて三間。土台建の大面取り(八角形?)の柱は、頂部に頭貫を通す。組物は三手先で肘木には水繰りがみられた。軒は地円飛角の二重で、隅のみ扇垂木としている。本来ならば、写真をバシャバシャと撮りたいところだが、禁止されている。そこで、場外に出て柵外からの写真撮影を試みた。もちろん望遠レンズが大活躍した。
莫高窟はこれまで見た石窟に比べ、整備が行き届いていた。それぞれの石窟には、厳重にアルミ製の建具が取り付けられ、岩壁は風化を防ぐためにパックされている。遺跡保護のためには仕方のないところではあるが、やはり人為的な介入がなされてしまうと、その迫力に翳りをもたらす。
左:現存する宋代の窟櫓(437窟) 中:莫高窟のシンボル九層楼(96窟) 右:各所に見られる痕跡(206・207窟)
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- 2010/09/18(土) 00:45:28|
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天水紀行9月2日 西安→天水 伏義廟、玉泉観
9月3日 麦積山石窟、仙人崖、自治巷保護院落
9月4日 南宅子(天水民俗博物館)、南郭寺 天水→敦煌
西安から天水に向かう列車に乗り、3段ベッドの連なる「硬臥」席に横たわること4時間、車窓には黄土高原特有の景色がひろがっていた。日本を出発する直前、鉄道会社の都合で、急きょ「軟臥」席から「硬臥」席に変更が告げられた。どんなしんどい寝台車なのか、と心配していたが、「硬臥」席の旅も思いのほか悪くない。文字通り「硬いベッド」なのだが、畳に硬めの布団を敷いた感覚と似ており、慣れれば快適だ。
既報のように、現在、ASALABは摩尼寺「奥の院」の発掘調査をおこなっている。今回の甘粛巡礼は、中国の石窟寺院をめぐり、絶壁に穿たれた石窟とそれを庇う木造の窟檐(くつえん)の関係性を探ることを目的としている。それは岩窟・岩陰を仏堂とし、その正面に懸造の木造建築を配する日本式の岩窟/絶壁型仏堂と系譜関係をもつのかどうか。それは、摩尼寺「奥の院」の復元研究に直結した課題である。
日程の前半は天水の麦積山石窟(↑)を、後半は敦煌の莫高窟・楡林窟を中心に多くの文化遺産を訪れた。
↑仙人崖 文革時に破壊された堂宇が岩陰に再建されている
「天」に「水」と書いて「天水」。武帝の時代に天が裂け、天の河から水が流れ込んで土地を潤したという伝説に地名は由来する。現に、市内には多くの泉が湧き出ており、そこで汲み取られる水はこの地域の特産物にもなっている。また、そこが中国であることを忘れるぐらい空が青く澄んでおり、土地だけではなく気候にも恵まれていて、とても過ごしやすいところだ。地理学的にも興味深い。黄河の上流域と長江の上流域が交錯する分水嶺にあたり、華北の針葉樹を中心とする植生と華南の広葉樹・杉を中心とする植生が標高1,000m以上の高原に混交している。このような自然環境が土地の人びとを育んでいくのか、みな穏やかで、見ず知らずの私たちを暖かく迎えてくれた。ちなみに、天水は美女の産地としても名高い。
天水到着後、駅を出ると各名所の方向を示した道路標識が目に飛び込んだ。なんと、天水の郊外域には麦積山石窟以外にも石窟寺院がいくつもある。一同、愕然とした。旅の後半、時間をかけてわざわざ敦煌まで行かずとも、天水を拠点とすれば、甘粛の無名の石窟寺院をつぶさに巡れるではないか。しかし、今回の天水の滞在時間では、とても、それだけの余裕はなかった。
「のんびりとした旅もいいじゃないか・・・」
先生は残念そうにつぶやかれた。
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- 2010/09/17(金) 00:09:51|
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波うつ下層の凝灰岩整形地盤 9月10日(金)。台風の爪あとは鋭く、引き続き遺跡の掃除をしていくのですが、掃除ばかりしていては工程が進まないので、下層遺構の実測も併行しておこなうことにしました。上層の下からでてきた下層に伴う遺構は実測図には赤色で示していきます。
実測はエアポートさんと轟の2人で手分けして進めていきました。作業自体は上層の実測をしたときよりも少ないため、エアポートさんはすぐに終わると思っていたのですが、轟が担当していたB区とC区の凝灰岩の石敷の表現が上手くいかずてこずっていました。長形大土抗の底全体に凝灰岩がひろがっており、凝灰岩の抜き取られているところなど、ただ石を書くのと違い、非常に複雑で、何枚か描き直していました。実測が終わらなければレベル測量に移行できないため、轟はあせるばかり・・・
さて、B区長形大土抗底の凝灰岩は泥がかなり沈殿していたため、掃除には苦労しましたが、泥を取り除くと今まで泥に隠れていた凝灰岩の表情があきらかになりました。写真(↑)を見ていただきたいのですが、凝灰岩はマクロにみれば平坦に整形されていますが、その表面はギザギザに波打っており、すでに先生が予想されていたように、下層の「基壇」ではなく、自然地形の地盤を整形したものである可能性が一気に高まりました。凝灰岩は西側の崖(山側)に近いB区とC区で集中的かつ広範囲にみつかっていますが、東側の崖(谷側)に近いA区とD区では、ごくわずかに礎石風の凝灰岩が点在するものです。これについて、加工段の西半分(山側)では凝灰岩層を整形し、東半分では斜めの凝灰岩層の上に整地して平坦面を形成しており、その整地層の上にところどころ柱を立てる礎石として小振りの凝灰岩を配しているものと理解されています。今後はさらにL字トレンチや壁際トレンチを深掘りし、地盤の掘削・整形・整地の状況をあきらかにしていきたいと考えています。
この日で実測はほぼ終了しました。次回は検出されている下層遺構のレベル測量をおこない、さらにトレンチ内を深堀りし、凝灰岩が見つかっていないところを中心に凝灰岩もしくは地山の検出に力を注ぎます。もちろん途中で礎石などが発見された場合はそのレベルで止めなければなりません。掘り下げの作業を急ぎ、下層遺構の検出を済ませなければならいのですが、掘り下げの作業は、体力がいるためマンジュウではなく大きな道具を慎重に使いながら進めていくことになるでしょう。(轟)
- 2010/09/16(木) 00:43:26|
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台風との戦い 9月9日(木)。7~8日と鳥取に台風8号が接近し、大地に恵みの雨をもたらせた。おそらく現場のブルーシートには大量の雨水がたまっていることだろう、ドラム缶用の電動ポンプ片手に、中国甘粛にんだわたしは、一週間ぶりに現場に入った。
このドラム缶用の電動ポンプは単一電池4本で動き、毎分10L排水する優れものだ。近所のホームセンターで見つけ、価格も3,000円と安価であったので、ためしに自費で購入してみた。使い物にならなかったら自宅で使おう。
片道20分の道のりも、久しぶりのためか汗がよく出る。あいかわらず日差しは強いけれども、8月に比べれば、いくらか涼しくなった。風が心地よい。
現場に到着すると、不思議なことに、あまり雨水がたまっていなかった。よく見ると、ところどころブルーシートを止めていた土嚢がトレンチ内にずり落ちている。どうやらたまった雨水の重みに耐えられなかったのか、土嚢がずり落ちたところからトレンチ内に雨水が流れ入ってしまったようだ。おかげで長形大土坑やL字トレンチには泥やごみ、落葉が大量に堆積していた。この日は、雨水を抜いたあと長形大土坑やL字トレンチの実測をおこなう予定であったが、この状況ではとてもじゃないが実測はできない。急きょ作業を、実測から現場復旧に切り替えた。
もちろん電気ポンプは大活躍! 順調に土坑の水を吸い出し、シートをはったA区のすり鉢状土坑に雨水をためていく。長形大土坑に溜めて凝灰岩を洗いたいのだが、凝灰岩が泥に埋まっているのだから洗う以前の問題だ。なぜここまで水にこだわるかと言うと、発掘現場は山頂に近い林の中なので、遺構を洗浄する水はふもとの小川から汲み上げるか、大学でペットボトルに水を入れて現場までもってあがるかしかないからだ。だから、雨水をできるだけ貯めなければならない。土坑にたまった泥水もせっかくなので上澄みをすくって貯水することにした。
それにしても、トレンチ内に溜まったごみや泥の量は半端ではない。たった一週間現場を離れていただけなのに、掘り下げた面に1~2センチほど堆積している。なるほどこうやって遺跡は埋まっていくんだな・・・しかも、発掘序盤に草刈をして以降まったく草が生えてこなかったのに、人がいなくなると「しめた!」といわんばかりに草木が芽を出していた。生物の生命力は凄いものだ。
この日は少人数だったので、掃除に丸一日かかってしまった。とりあえず、L字トレンチは片付いた。明日から実測ができる。あとは長形大土坑がまだドロドロなので、併行して掃除もおこなう予定である。(Mr.エアポート)
- 2010/09/15(水) 00:45:39|
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出会いに感謝! こんにちは。武蔵(たけぞう)です!
いやー、晴れてよかった。
台風で一日休んでしまいましたが、9月9日調査再開です。
本日は前回に続き、連続立面図作成のための撮影です。まずは前回終わらせられなかった本町通り商店街の連続写真を撮り終え、そこから調査エリアの拡大を目指します。
今回調査したのは東岩倉町・瀬崎町。谷口ジロー『遥かな町へ』の主人公、中原博史の実家のモデルとなった松島洋服店さんがある町です。前回と同様、アルミスタッフをもち、連続立面図作成のために写真を撮っていきます。9月とは思えない暑さに襲われながらも、昭和レトロ街構想のための大事な基礎的調査。ただ黙々と撮影を進めていき、今回は一日で目標のエリアを完了させることができました。
そして、調査後「カフェ&ジェラードnevica」へ。休息をとらずに作業を続けたので、今日は少しリッチに「りんごサイダーinラムレーズン」「ラズベリーサイダーinミルク」を。ドリンクに浮かぶジェラードを美味しくいただきました。
すると、Mさんという地元の方が声をかけてこられました。倉吉の調査&昭和レトロ街の構想を進めていることをお話したところ「今度、写真展があるんだよ。昭和の頃の」と、驚きのサジェスチョンが!
しかも、展覧会を開くメンバーの方がたに私達の研究に合った写真があるか聞いいていただけるとのこと。さらにビックリです! Mさんの優しさと出会いに感謝しながら連絡先を交換させていただき、深くお礼を申し上げました。
今回の調査では、Mさんとの出会いという素晴らしい成果を得ることができました。やはり、情報は足で稼ぐものですね。机に坐っているだけでは何も進みません。次回は東仲町・魚町の写真撮影、写真展のチラシ入手、博物館での資料探しをおこなう予定です。(武蔵)
- 2010/09/14(火) 00:45:04|
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台風迫るなかでのミッション 9月7日(火)。これまで、<風景データベース ※1>、<レトログッズデータベース ※2>のデータをこつこつ集めてきたわたしたちですが、この日は新たに建築物の写真撮影にステップを進めることにしました。
今回撮る写真は、おもにまちなみの連続立面図を作成するためのものです。建物と一緒にアルミスタッフを映し、図面作成時、スケールの参考にします。連続立面図については2006年度のY先輩による卒業研究時、当時の本町通商店街が図面化されていますので、今回新たに変化したまちなみを再度図面化することで、倉吉のまちなみがどのように変わったかを示したいと考えています。また同時に、看板建築・町家の分布調査も兼ね、<建築物データベース>作成にも関ってくるため、当然ながら気を抜けません。
重伝建地区を含めたまちづくり全体をひろく構想することを目指し、本町通り以外の建物についても撮影をおこなう心積もりのわたしたちでしたが、初日としてはひとまず本町通商店街(東仲町~西町)の写真撮影をミッションとすることに。しがしながら、途中、台風9号の影響で降りだした雨により作業を中断したこともあり、そのミッションは達成できませんでした……
明日の調査に持ち越し、完遂したいと思います。
※1…倉吉を舞台にした谷口ジローの漫画『遥かな町へ』に描かれた風景と現在の風景を比較する
※2…『遥かな町へ』のなかで描かれたような懐かしさを感じさせる”昭和レトログッズ”をさがす
[遥かなまち、くらよし探訪(Ⅴ)]の続きを読む
- 2010/09/13(月) 00:16:00|
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五輪塔の実測 -空風輪・火輪- 土日は埋文Cがお休み。9月6~7日に引き続き、五輪塔を実測しました。現場から持ち込んだ五輪塔には一石で作られたものと複数の石を組み合わせたものに分かれます。後者は江戸時代あたりの比較的新しい作で、前者は棒五輪ともよばれ室町時代後半ごろ~江戸時代初期の作だそうです。今回実測した空風輪は五輪塔の一番上の部分のものでありますが、正しくは空輪と風輪に分かれ、発見されたものは2つが一体になっています。空風輪は前回実測した水輪よりも複雑な形をしているうえに底面が平らで安定せず、ちゃんと固定しないと傾いた状態で図面化されてしまうため、真っ直ぐ立たせる必要があります。
さらに複雑なのは火輪とよばれる五輪塔の笠の部分です。底面は安定しているのですが変化が非常に多く、正面から見ても奥行があり、見通しを取るのが難しく、測定する場所がズレれば正面から見た図ではなくなってしまします。火輪には空風輪を据え付けるホゾ穴があいており、断面図にはそこもしっかり側点を取り、表現していきます。
これら五輪塔のパーツを一通り実測したことで、遺物の実測の基本は学べたと思います。実測の方法や道具の使い方はさまざまであり、遺物に応じて実測の仕方や道具の使い方を変えていかなくはなりません。一石五輪や土器の実測はさらに難しいようなのですが、基本を守りながら、実測しやすい方法をみつけ、しっかり正面から観察できれば、効率よく実測できるようになるそうです。
さて、本来なら翌日に一旦遺物整理作業を中断し、現場での作業を再開するつもりでしたが、台風9号の影響で、現場に行くことができなくなったため、翌8日も引き続き、県埋文センターで指導を受けました。
[摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅩⅦ)]の続きを読む
- 2010/09/12(日) 00:01:05|
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五輪塔の洗浄 9月2日(木)。県埋文センターでの作業2日目、五輪塔を洗浄しました。五輪塔は土器とは違って丈夫なため、筆などは使わずにタワシやブラシで洗っていきます。表面に付着した泥を落としていくだけなのですが、注意しなければならばいのは、五輪塔の表面に墨書がある場合です。墨書を含む場合は、土器のように慎重に洗浄し、文字が消えないようにしなければなりません。あるていど泥を落としてから、何か書かれていないか入念にチェックし、何も書かれていないならそのまま洗浄を続けていきます。
幸か不幸か、今回持ち込んだ五輪塔の中に墨書を含むものはありませんでした。だから、ただ泥を落とすだけでよかったのですが、一人でやるにはなかなかの量だったため、まる一日かけて丁寧に洗浄しました。
洗い終わった五輪塔ですが、石の材種が違うものがあり、形も似通っていますが、微妙に違う形状のものがあり、これらはみな五輪塔の作り手の癖なのだそうです。この微妙な違いを実測で表現しなければなりません。
↑洗浄された五輪塔
五輪塔の実測 -水輪- 9月3日(金)。この日は持ち込んだ遺物の洗浄が大方終了したため、本来なら土器の注記という作業になるのですが、県埋文センターと私たちの遺物用のラベルの表記が若干違うため、土器に関しては注記以降の作業を一時延期とし、洗い終わった五輪塔の実測をおこなうことになりました。
五輪塔は正面からみた見通しの立面図と上から見た平面図、断面図を実測していきました。五輪塔は正面から見なければなりません。墨書があれば分かりやすいですが、ない場合は正面を捉えるのが困難になります。また各図面を描くときに、見通しの立面・平面図と断面図の違いに注意しなければなりません。
はじめに五輪塔の中の水輪を実測しました。水輪は正面から見れば、変化や特長も少なく、図面にしてもパッとしませんが、まず実測する五輪塔の大まかな全体の長さと大きさを定規などで略測し、センターを捉えてから方眼紙に寸法を書き込みます。そして縦に定規又は三角定規を据付け、五輪塔の高さ(Y)を測ります。そこから別の定規で、X方向を測り、測点を方眼紙に打っていきます。ここで重要なのは、一度据え付けた五輪塔は極力動かさないということです。実測中に間違って動かしてしまうと、図面とズレが生じてしまうため特に注意が必要です。
また実測図を描くときは、描く線は点の集合体となるため、細かく点を取るほど繊細な図を描くことが可能となりますが、点と点を繋ぐ際にグラフのようにカクカクしないようにスラっと描いていきます。また、真弧と呼ばれる道具があり、これで輪郭をとることができます。しかし真弧に使われている竹の性質上、どうして計りきれないとこがあるため、基本は手ばかりで側点をとっていくことになります。
↑実測に使用した道具の一部
初めての五輪塔の実測ですが予想以上に苦労し、一枚の図面を完成させるのに半日かかってしまいました。実測の際の理屈が分かり、コツさえつかむことができれば、スラスラと書けるようになるそうですが、僕の場合は練習が必要でした。しかしながら、所長さんから「線が綺麗だね」とお誉めの言葉をいただきました。それでも満足はできず、微妙な表現や、もっと複雑なものもすばやく綺麗に描けるようにしばらく練習を積んでいきましょう。(轟)
- 2010/09/11(土) 01:26:28|
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土器の洗浄 9月1日(水)。私轟は、先生たちが中国出張に行っている間、鳥取県埋蔵文化財センターで「奥の院」発掘調査で遺物の洗浄・実測など整の理作業のご指導を受けさせていただくことなりました。県埋蔵文化財センターは、昨夏、どんべえさんがインターンシップでお世話になった組織です。
初日は県埋文センターにすべての遺物を搬入しなければならないため、武蔵くんにも手助けをしてもらいました。搬入を終え、武蔵くんが埋文Cを去ったあと、ついに遺物整理の訓練がはじまりました。この日の主な作業は土器の洗浄です。土器洗浄は、表面をブラシ(スポンジでも可)で、断面ややわらかい部分は筆などで丁寧に洗っていきます。叩くようにというのは土器に付着した泥や土などの汚れのみを落とすためで、こすってしまうと、土器が磨り減って形が変わってしまったり、割れてしまうことがあります。また、表面に色が塗ってあったり、ススが付着している場合、それまで剥いでしまわないようにしなければなりません。
今回持ち込んだ土器の中に粘土を濾して作られたものがありました。このような土器は長いあいだ水につけておくと、溶け出してしまうおそれがあり、他の土器と比べても脆いため手早く慎重に洗浄しなければなりません。
断面の土は確実に落とすようにします。これは土器の破片同士を接合するときに断面に土が付着したままだと、土が残っている部分に接着剤が付けにくく、そこからはがれていく可能性がたかいためです。そして、土器の断面が汚れにより見えにくくなると、実測の際に観察しにくかったり、写真撮影の際に見栄えが悪くなってしまいます。洗い切れていない土器は次の作業ができず、また洗い直さなければなりません。このように土器の洗浄は次の作業を効率よくおこなうためにとても重要な工程です。また、遺物の洗浄をおこなう際に、異物とその取り上げのときに作成したラベルが離ればなれにならないようにしなければなりません。これを防ぐために今回は土器を洗浄するときに、ラベル(耐水紙)も一緒に洗うようにしました。
↑土器の洗浄に使用した道具
所長さんの見解によれば、今回持ち込んだ土器は非常に年代幅が広いものだそうです。瓦器(がき)として取り上げた土器については、瓦器ではなく、「内黒土器」と呼ばれるものであり、年代的には古いもので、10世紀に多く見られるものだそうです。また中国の青磁香炉の欠片も含まれていますが、後世から導入されることが多いそうです(16世紀~)。現在の遺物の状況からみると、上層は中世の遺構であるのは間違いないが鎌倉時代まで遡るかはまだ定かではなく、南北朝時代あたりの可能性があるとご意見をいただきました。また土器の中には平安時代のものと思われるものがありましたが、土器のほんの一部の破片しか発見されていないため、全体の形が分かるようなカタワレが検出されるまで真実は分かりません。このような所長さんの話を聞かせていただくだけで、遺物の年代の幅広さが十分に伝わってきました。
↑内黒土器(洗浄後) ↑中国青磁香炉(洗浄後)
初日は土器の洗浄で作業を終えましたが、洗浄しながらも遺物を観察し情報を読み取れるようにならなければなりません。この作業がいかに重要かということを指導を受けながら痛感させられました。次回は五輪塔の洗浄となります。一人で洗うにはなかなか量が多いですので、手早くこなさなければなりませんね。(轟)
- 2010/09/10(金) 01:16:19|
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下層凝灰岩は岩盤の整形か!? 8月31日(火)。昨日は急な夕立に襲われましたが、今日は一転して良いお天気。そして、現場にあがると、昨日の雨で地面がしっとりと水分を蓄えていました。また、必要なところだけブルーシートをかけていたので、まるでプールのような水たまりができていました。そのため今日の作業は、ブルーシートを一部はずして、その雨水をA区のすり鉢状土坑にためるところから始まりました。そして、雨のせいで昨日取り上げられなかった遺物を、レベルで高さを確認しながら取り上げていきました。
その後、A区南壁トレンチ、同L字トレンチ東側、D区北・東壁トレンチを、それぞれ5~10センチ掘り下げる作業に移行しました。昨日の続きです。私はD区を担当しましたが、木が集中しているところだったため、根っこと悪戦苦闘しながらの掘り下げになりました。縦横無尽に地中を走る根っこを避けたり、切ったりしつつ、土を掻いていきました。雨で土がしっとりとしてやわらかいので、普段より掘りやすいのがせめてもの救いでした。すると、昨日同様、A区もD区も少し掘り下げると土器が数点出てきました。崖側で多く出土しているのがこの現場の特徴なのかな、と思いました。
先生は下層の凝灰岩を「基壇」ではなく、「岩盤」を平らに掘削・整形されたものだろうと推測されるようになっています。摩尼山では地皮が薄く、地皮の内側にある凝灰岩の岩盤が今でも立岩・岩窟・岩陰として露出しているのですが、他の部分でも薄い土の下に凝灰岩の岩盤があったことが想像されます。C区の少し上の崖に露出している凝灰岩はその岩盤の元の状態であると思われます。その岩盤を基礎とする斜面を整形して加工段(平坦地)をつくると、上側の半分では岩盤が平らになって露出しますが、下側半分では斜めの岩盤に地層を積み上げる必要があります。岩盤は地山(無遺物層)でもあるので遺物は出ませんが、下側の地層、すなわち整地層や基壇土からは遺物がでるのです。こう理解すると、下の崖側に遺物が集中する点が説明できるでしょう。問題は、整形した岩盤が建物の基礎になるかどうかです。これについては、柱の下端を差し込むホゾ穴が岩盤上で一ヶ所確認されているので、やはり建物が建っていた可能性が高いでしょう。これについては、三仏寺投入堂の基礎がそうなっています(中国甘粛省での調査でも興味深いデータが得られたようなので、いずれエアポートさんが詳しくレポートしてくださるはずです)。
左:こちらも根っこと格闘のA区 右:D区北側で発見された石
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- 2010/09/09(木) 13:59:15|
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突然の恵みの雨 8月30日(月)。この日の作業は、以下の3点です。
1)新たに縄張りして設定したA区とD区の壁際トレンチの掘り下げ
2)これまで検出した下層遺構の実測
3)前回視察した一段下の加工段の地形測量
1)の掘り下げは5~10cmまでとし、途中で遺物が検出された場合、それ以上は下げないようにしました。A区の掘り下げは新たに設定した壁際トレンチをナオキさんが担当し、従来のL字トレンチは轟の担当です。壁際トレンチでは土器片と鎹のような遺物が出土しました。特に注目すべきは、柱穴1の中から発見された土器です。柱穴で遺物が発見されると、建物の年代判定に大きく係わります。もし、柱穴1が上層建物の礎石抜取穴である場合、上層建築の廃絶年代と関係する遺物となります。土層断面の調査と土器の鑑定結果で左右されますが、おおよその廃絶年代を推定できる貴重な遺物であるのは間違いありません。
一方、L字トレンチでは、消えた凝灰岩を追って掘り進みましたが、凝灰岩はおろか、タタキと見れる層もなく、柔らかい土層がしばらくつづいている状態でした。
↑柱穴1から発見された2つの土器の破片
一方、一段下の加工段の地形測量を進めている部長さんとどんべえさん。午前中は測量のための基準点=ベンチマーク(BM)を上の加工段のBM1から移動させ、午後から地形測量を開始しました。時折、エアポートさんもサポートに周りながら、加工段の地形を測量していくと、徐々に形が把握できてきました。前回のメジャーによる略測が長さ17m×幅4mでしたが、トータルステーションで測量し作成した図面によれば長さ19m×幅5mとなりました。礎石のように並ぶ石がここまで建築があったことを彷彿とさせていますが、これが生きているのか死んでいるのかは発掘してみないことには分かりません。また、ここを試掘した場合、上の平坦地と同じように凝灰岩層が見つかれば、下層もこの加工段まで伸びていたことになるでしょう。
午後の作業を開始して2時間ほど経ったときでした。加工段測量の終了間際、雷がいつものようにゴロゴロと鳴り響き始めました。この日も雷だけで雨は降らないだろうと思っていたのですが、ふと気が付くと、雨雲のせいか、A区・D区の東側は土の色が分からないほど暗くなっていき、次第に小粒の雨がふりはじめました。それでも作業を進めていくのですが、徐々に雨足は強まり、夕立になってしまいました。急いで遺跡の重要な部分にブルーシートをかぶせ、調査員は一時テントに待避。1時間近く降りつづけ、とても作業できる状態ではないため、この日は下山しました。また帰り道が雨でひどくなり、全員ビショビショで泥だらけになったのは言うまでもありません。
でも、やっと降った恵みの雨です。乾燥していない遺構を見るのははじめてですから、次回の検出では遺構が見えやすくなるかもしれませんね。(轟)
- 2010/09/08(水) 23:32:51|
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摩尼山の現場にあがる際、ペットボトルを少なくとも3本もっていく。1本は水出し麦茶か自家製どくだみ茶をいれた1リットルのボトル。残りの2本は凍らせた水道水をいれた500ミリリットルのボトルである。下宿の冷蔵庫の冷凍庫には、いつでも5本ばかり水道水入りペットボトルが凍らせてある。前にも述べたように、ペットボトルだけではなく、ゼリーやヨーグルトも凍らせていて、それらもまた山にもって上がる。どのタイミングで食べるのが美味しいのか。そこが難しいところだが、シャリウマの味覚を一度味わってしまえば、だれしも病みつきになるだろう。
この熱い夏に気付いたことがふたつある。
その一。ペットボトルのリサイクルなどというありふれた話題にわざとらしい解を求める必要などなく、そのままボトルとして再利用し、家でつくった麦茶やどくだみ茶、あるいはまた凍らせた水道水をいれる容器として使えばいい。凍らせた水道水の効果は抜群だ。少しずつ溶けてくる冷水を飲むだけでも熱中症対策になるが、溶けた水を飲み干して、小さくなった氷の残るボトルにぬるくなったお茶やジュースをいれて飲むとまた美味しい。熱い山では水分が命だ。おそらく女子学生は、厠の問題を抱えていて、あまり水分をとりたくないと、当初は思っていただろう。しかし、それは杞憂だった。発汗量が尋常ではないので、男女に拘わらず、用を足す必要はない(唯一の例外が私で、たまに雉を撃つため山林に消える)。いくら水分を摂っても、その水分は汗となって消えてゆくのである。
その二。鳥取の水は美味しい。このことは鳥取にいても分からない。じじつ、水道水を凍らせて山にもってあがると述べたら、
「水道水飲んで、大丈夫?」
と問われた。問い手はもちろん地元の方である。
「子どものころ、運動場にある水道の水、がぶのみしただろ!?」
「した、した。いまの子どももおんなじだわ・・・」
2日前、凍らせたペットボトルを1本だけ車に積んで奈良に戻ってきた。4時間ばかり運転して、家に着いた。ペットボトルの氷は5割方溶けていたが、その水をのむと、えらく美味しい。家内に飲ませた。やはり、「美味しい!」と驚嘆した。関西で飲む鳥取の水は美味しい。清涼な水とはこういう水だと思うほどの爽やかな味がする。
次の機会には、鳥取の水を凍らせたペットボトルを数本もって帰ってこようと思う。「特養にいるおばあちゃんにもっていこうか?」と提案すると、「それがいい、おばあちゃん、ものすごく喜ぶと思うよ」と家内は答えた。
母ももちろん鳥取生まれの人である。
- 2010/09/02(木) 00:00:44|
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いまごろでてきた上層の礎石 8月29日(日)。遺構の掘り下げを引き続きおこないました。午前は西側の崖に接するC区とB区に集中して作業を進めました。昨日武蔵くんが担当していたC区には轟が加わり、しばらく凝灰岩の高さまで掘り進めていくと、凝灰岩面よりも高い位置で平たい礎石が検出されました。石の形状から上層の礎石であることは間違いなく、以後は上層礎石の面の高さで掘り下げをとめました。西側の崖と接する部分で、わたしたちがタタキと思っていた表面30㎝ばかりの堆積層は、上層建物が廃絶後に上層基壇を覆うように盛られた土だったのです。おそらく崖面からの土砂流出を防ぐための盛土だったのでしょう。ということは、昨日C区で取り上げた土器の土層は「タタキ」として取り上げましたが、ひょっとすると、上層基壇を覆う「盛土」に包含されるものだったのかもしれません。要注意です。盛土の下からでてきた礎石は17日に検出された礎石とレベルが近く、方位も東西方向で一致し、さらにその向こうの礎石とも方位を揃えています。この結果、東西方向の柱間の復元が可能になりました。いまのところ、柱間は7尺前後と推定しています。
B区の長形大土抗も掘り下げましたが、凝灰岩は土抗の底全体にひろがっており、崖面の下にくい込んでいます。C区の武蔵トレンチの凝灰岩石敷が崖面の直前でとぎれ、崖のエッジと平行に並んでいるのとは対照的な状況が確認されました。さらに午後には、C区掘り下げトレンチの南端から平たい石がさらに2つ検出されました。C区西端ではすでに基壇もしくは亀腹の縁石のように並ぶ石列を確認していますが、その延長線上に並んでいます。
↑C区上層礎石 ↑C区 縁石風の石列
↑B区長形大土抗の底にひろがる凝灰岩石敷
[摩尼寺「奥の院」発掘調査日誌(ⅩⅩⅡ)]の続きを読む
- 2010/09/01(水) 00:00:10|
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