卒業研究展(
卒展)がはじまった。昨日は大変だったらしい。なにが大変かと言って、加藤家
屋根原寸模型の搬入が大変なんだ。学生が15人がかりで梨花ホールに運び込み、予定位置に展示したとのこと。けが人が出てもおかしくないぐらい大変な作業であったという。関係者一同、搬出のことで、今から頭を悩まされている。
今年度の卒業研究は2:1の割合で卒業制作に偏向している。換言するならば、卒業論文の数が少ないのだが、残念なことに、論文の質についても首をかしげざるをえない状況だ。まだ、完全に論文に目を通したわけではないが、パネルの出来からして相当問題がある。デザイン学科の卒業生としては、あまりにも低いレベルの紙面デザインが少なくなく、中にはパネルそのものがない卒論まであって、これでは一般市民に公開する意味がないように思われた。1・
2期生からあきらかにレベルダウンした現実を見逃すわけにはいかない。もちろん1・2期生と同レベルを維持し、よいパネル展示をしている学生もいないわけではないのだが。
午後から一度「卒展」の会場をざっとみて、加藤家に移動した。Mr.エアポートの笑顔のお迎え。今年度の工事も、最終の最終段階を迎えている。背面側の素屋根が外され始めたのである。ロフトは養生のコンパネが外されて、床板が露出し、越屋根と妻飾りも完成した。とりわけお寺の庫裏のような妻飾りに驚かされた。
大学に戻って、まもなく学科会議。一般入試Bの判定と卒業判定。けっこう長引いた。そして再び県民文化会館へ。2階で卒展のオープニング・パーティなんだが、うちのゼミの学生はほとんどいない。2期生とは全然ちがう。学年によってムードがこんなにも違うものか、と感じながら、まもなく1階におりて、また作品をみてまわった。評価は「制作」のほうが難しい。おそらく多くの教員が投票するだろうと思われる作品が二つあったが、あとはドングリの背比べで、今日はまだ○をつけるのを控えた。
明日、もう一度足を運んでみよう。
↓倉吉の「看板建築」(左)とその復原・修景後の姿(右)=秘密のアッコちゃん作=
↑2006年8月21日のブログ「
仮面の裏側」をご参照ください。ハンカチ王子が甲子園で優勝した日のことです。あの落ちるスライダーに手を出すだけぇなぁぁぁ・・・
- 2007/02/28(水) 23:44:24|
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試験監督が終わって、昼食がてら「漫画インターネット喫茶」にしけこんだ。店名は標記のとおり。これは便利だ。道理で、娘たちがよく使うわけだ。
長女が大阪にいたころ、深夜12時をすぎて終電がなくなると、よく「漫画喫茶行って泊まるから」と電話をかけてきて、翌日の早朝に帰宅することがしばしばあった(本当はどうだったかわからないが)。それにしても便利ではないか。昼食代を払うと、ネットは使い放題。漫画や雑誌はいくらでもあって、おまけにフリードリンク制。さきほど『ザ・ベスト』という艶っぽい雑誌をめくったら、アヒョッという写真ばっかりで、年甲斐もなくドキドキしていたところ、蕎麦飯定食をもってきてくれたバイト?のおねえさんが、その雑誌のグラビアにでているモデルによく似ていたので、さらにドキリとして・・・
こういう24時間営業の喫茶店が都会にはゴロゴロあるわけだから、ホテルは商売あがったりだね。東京や大阪などの大都会に出張する場合、ホテルの予約をしてないと不安なものだが、漫画ネット喫茶があるなら怖くないよね。ここで一晩中パソコンを操作していれば、ずいぶん仕事が進むし、リクライニングチェアーも大きいから、ジャケットを頭にかぶってしまえば熟睡できる。まさしく都市型のライフスタイルだ。
鳥取にはあるんだろうか。ないことはないだろうが、不便なところにあっても意味はないよね。駅前の便利なところにあれば、強力だわ。ビジネスホテルの部屋より、ずっと仕事が進むし、楽しめる。
おもしろい経験をさせていただいた。
さて、国立循環器病センターに移動です。
- 2007/02/27(火) 13:45:42|
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女房が出血すると、毎回わたしの血圧があがる。2日連続して頓服を飲むのが習慣化してしまった。アダラートという橙色のカプセルである。ふだんはアムロジンという弱い血圧調整剤を服用しているのだが(患者は血圧が低いのだけれども出血予防のためにアムロジンを服用している)、アダラートを飲むときは「やばい」状態だということを体が自覚している。もう10年ぐらい前になるだろうか、クリスマス・イブの夜にワインを飲んだあとソファで眠ってしまい、目覚めてから頭痛が止まらなくなって、奈良市の夜間診療所に担ぎこまれた。そのとき医師は、
「あんた、やばい(危ない)よ・・・」
と言って、わたしにアダラートを与えた。このとき以来のおつきあいである。あれは東院庭園を整備している真っ最中で、第一次大極殿の復元プロジェクトも大きく動き出していた。わたしは復元事業に殺されるのではないか、と本気で怯えはじめていた。
昨夜は早くから寝付いて、朝おきると昨日までのようなひどい症状を感じなかったが、アムロジンが切れていたので、ホームドクターのもとに向かった。血圧を測ってもらったら、やはり高い。体調がましになったにもかかわらず、こうなのだから、あとは推して知るべし。今日はアダラートは飲まなかったが、アムロジンをまとめて2錠飲んだ。病院に着いてしばらくすると、看護師さんが患者の血圧を測りにきたので、ついでにわたしも測ってもらった。下がっている。たぶん、アムロジンが効いてきたのだろう。
それで、研究費の決算をとぼとぼやり始めた。なんたって、年度末なんだから。今年度は昨年度・一昨年度にくらべ助成金が減った。いただいている研究助成についても、総経費の半額助成とか、代表者が別人とか、報告書完成後に支払い、だとか複雑なものばかりで、会計もややこしい。しかし、驚いたことに、簿記というのも、結構楽しいものだ。領収書とにらめっこしながら、どの項目の支出に納めたらいいか考えて、全体のバランスをはかる・・・なんて作業に熱中していたら、また血圧が少しあがってきた・・・
で、さきほど新大阪のビジネスホテルにチェックインした。明日、一般入試B方式(大阪会場)の試験監督を務めることになっていて、前泊しているのである。ここから国立循環器病センターは近い。明日、行ってみるかな。
- 2007/02/26(月) 23:46:32|
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今を去ること6日前、ヤケクソになって
エレガットを購入した際、
「この雑誌をおまけにつけてくれたらね・・・」
という条件闘争に挑み、勝利した。その雑誌というのは『jazz guitar book』12号(シンコーミュージック・エンターテイメント)。いちどは、「もういいや、この雑誌要らないから」と破談宣言をしたのだが、男女関係と同じで、追いかければ逃げるが、突き放せば追いかけられる。しばらくして、楽器店の若いマスターは「わかりました、つけましょう」とあっさりギブアップした。
どうも、『jazz guitar book』という雑誌はあまり売れていないようだ。売れているなら、おまけにつけたりしないだろうしね。その12号をみると、「ウェス・モンゴメリーの衝撃」を総力特集としている。ご存知のように、ウェス・モンゴメリーはチャーリー・クリスチャンに次ぐジャズ・ギター界の大御所だが、ジャズ界全体からみれば、そう重要な位置を占めるミュージシャンではない。そんなに多くの読者がこの雑誌を買うはずはない、と正直思った。わたし自身、ウェスはとくに好きなギタリストというわけでもない。個人的に好きなギタリストを3人をあげるとすれば、だれだろう。これは難しいな。一人はパット・メセニーでいいか。ジム・ホールも残るかな・・・あと一人・・・ほんと難しいな・・・コーネル・デュプリー???だったらクラプトンのほうがいいかな・・・バーデン・パウエルも捨てがたい・・・そう言えば、デレク・ベイリーという前衛ギタリストもいたぞ・・・
この雑誌が欲しかったのは、ウェスが得意とする「オクターブ奏法」を真似てみようと思ったからである。オクターブ奏法というのは、1オクターブ離れた同じ音を重ねて弾く奏法である。ギターの場合、単音ではホーンに敵わないから、リードの際の響きを強くするために、1オクターブはなれた同音を同時に弾くことで音の弱さをカバーしようとしたのであろう。もちろん、ウェスが独自に考え出したものである。たとえば、左手の人差し指でドの音を押さえたとすると、同じ左手の薬指で1オクターブ高いドの音を押さえて、中間の弦の音を人差し指の腹の部分でミュートしてしまう。右手はピックを使わず、親指だけで2つの弦をはじいていく。
技術としては、そんなに難しくないはずだ。ジム・ホールのように、メロディの一音一音すべてでコードが変わるような奏法は、いくらスローなバラードでも大変だが、オクターブ奏法なら常に二つの音しか押さえていないわけだし、その二つの音を押さえる左手の一差し指と薬指はほぼ平行関係を保っている。で、これを練習しようと思って、ウェスのレコードを一枚注文した。ネットで買える輸入盤である。届いたのは、名盤として名高い『インクレディブル・ジャズギター』(1960)でも、『フルハウス』(1962)でも、『ハーフノートのウェス・モンゴメリーとウィントン・ケリー・トリオ』(1965)でもない。
『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』(1967)
若いころなら絶対に買わないアルバムだ。クリード・テイラーがプロデュースし、ドン・セベスキーのストリングス・アレンジで売れに売れたアルバムだが、発売当時は「あれはジャズじゃない、ただのイージー・リスニングだ」と酷評された作品でもあるからだ。
今は、そんなことはどうでもいい。ジャズでなかったら、何がわるいのか。耳さわりのよいヒーリング・ミュージック全盛の時代である。レノン&マッカトニーの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」や「エレアノ・リグビー」が書斎の空気を柔らかくしてくれるではないか。それに、なによりオクターブ奏法のオンパレードなんだから。しかも、難しい曲はあんまりない。突っ張ってジャズっぽい難しい曲に挑戦したって、出来ないんだから。簡単な曲をたくさん練習するほうがいいんだ、絶対。素人なんだから、われわれは。
ちなみに、わたしがウェスのアルバムでいちばんよく聴いたのは『ライブ・イン・パリス』(1965)。あらら、車のなかでいつも聴いている
ダイアナ・クラールのアルバムと同じタイトルじゃないか。このライブに含まれる「
ラウンド・アバウト・ミッドナイト」は凄いから。
さて、輸入盤がもう一枚。ジョーパスがハーブ・エリスと競演した『ジョーズ・ブルース』(1965)。なんとも陽気なツイン・ギターのアルバムで、これは得したね。後年の偏執的なソロ・アルバムより、ずっと楽しめる。
さてさて、病院です。患者と二人、CTスキャンのネガをみながら、主治医の説明をうけた。たしかに、また別の場所から出血している。左脳の中心部からやや離れているので、大きな障害をおこさなかったようだ。それにしても、出血のスパンが短い。医師自身がこういう症例を治療した経験がないようで、断続的な出血に驚いている。わたしも主治医も、この連続する出血がガンマナイフ治療と相関する可能性があるように思っているのだが、問題は手術をおこなった吹田の医師がそれを認めていないことである。「ガンマナイフ手術と今回の出血は関係なく、ただ脳動静脈奇形の結果だ」というスタンスを崩さないとすれば、国立循環器病センターに患者をあずけることにも不安を覚える。そもそも、自ら手術した患者が3回出血をおこした段になって、ようやく面倒をみよう、という姿勢もいかがなものか。誠意ある医師ならば、すでに1~2度は奈良の病院に見舞いか往診に来てもよさそうなものである(吹田と奈良の病院は車で40~50分しか離れていない)。奈良の担当医師は「自分なら、自分が手術した患者の面倒は自分でみたいと思います」と言われた。たしかにそのとおりだ。
わたしは昨夜から動揺が隠せないのだが、息子のほうが案外冷静で、「お母さんが生命の危険に直面した場合、どちらの病院がそれを救う可能性が高いか」で判断すべきだとかれはいう。そのとおりだ。その点も訊いてみたが、大量に出血した場合の外科的手術はどちらもできるとのこと。ただ、「手術をおこなった病院が術後のケアをするのが自然」だとも言われた。
おそらく大阪にしばらく患者をあずけてみることになるだろう。しかし、場合によっては、話がこじれて奈良に戻ってくるかもしれない。
- 2007/02/24(土) 23:09:51|
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「史跡常呂遺跡整備専門委員を委嘱します」という委嘱状を頂戴した。続く文言が素晴らしい。
「委嘱期間は平成19年2月1日から平成19年3月31日までとします」
日付は平成19年2月1日となっているが、
委員会が開催されて委嘱状を頂戴したのは2月23日だから、委員を委嘱された実質の期間は約5週間ということになる。
こういう場合、常識的には「平成20年3月31日」までとするものだが、発行者の北見市教育委員会教育長は「平成19年3月31日」を下限と定めて譲らなかったらしい。
要するに、来年度、わたしを含む数名の「専門委員」は必ずしも委員ではなくなってしまう、ということである。これは、だれかをクビにしたい、ということではなく、委員会そのものの存続が不透明であることを自らあかしているようなものだ。
常呂入りする前から、不吉な兆候があった。「飛行機代の領収書を必ず提出してください」というメールがくどいように送信されてきたのである。常呂町が北見市に合併される以前、このようなことはなかった。今回は、
前回の屈辱を晴らすべく、1ヶ月前から「特割チケット」をばっちりネットで購入しておいた。ところが、その後、ワイフが倒れてしまい、本音をいうと、北海道入りをキャンセルしたかったのだけれども、「特割」をキャンセルしたら大損なので、予定どおり、鳥取から東京を経由して女満別まで飛んだのである。しかるに、「旅費は精算払いで、飛行機代については領収書が必要だ」と告げられ、「特割」をネット購入した意味はまったくなくなってしまった。東京から来た別の委員は、バースデイ割引でさらに
格安チケットを入手していたが、それも無駄になったといって、がっくりしていた。ただし、かれは「Jシート」というビジネスまがいの席に坐って嬉しそうにしていたが・・・
こういう場合、本学の内規はやや甘い(はずだ)。本学の教職員が出張する場合は「チケットの半券」か「領収書」の提出が必要だが、学外からお客さまを招く場合には「規定の旅費」をお支払いすることになっている。少なくとも昨年度(2005年度)はそうだった。その内規に基づき、某帝国大学の優秀な助手と大学院生を
池田家墓所修復整備検討会にお呼びした記憶がある。
というわけで、出発前には、
常呂町が北見市に合併されて、とうとう「常呂チャシ跡遺跡群」の整備も構想のまま終焉を迎えるのだろう・・・、ひょっとしたら、これが最後の常呂かもしれない、という予感すら働いていた。ところが、委員会前夜の懇親会では、「そうではなくて、市長も教育長もやる気満々」なのだという。ちょっと信じられなかったが、市側から参加したメンバーは口をそろえてそう語るのであった。しかし、冒頭に示したように、教育長から頂戴した専門委員の委嘱状は、今年度末までわずか5週間で有効期間が切れてしまう。
やっぱり駄目なんじゃないか。とても実施設計まで進まないんじゃないか、と委員のだれもが感じたことだろう・・・
暖冬の常呂町を離れ、女満別空港から羽田経由で伊丹空港まで戻り、リムジンにのって奈良市役所前で降りた。そこからタクシーにのって帰宅したら午後8時すぎ。息子と二人、大急ぎで県立奈良病院に向かった。
そこで、衝撃の事実を知らされた。
家内は3度目の出血をしていた。今日のCTスキャンで、滲み出るような出血が確認されたのだという。その範囲はこれまでの出血容積の半分ぐらいらしく、患者はいつもとそれほど変わらないようすだったが、やはり言語能力が低下している。事情がよくわからないので、担当の看護師さんに訊ねたところ、「また別の場所からの出血」程度のことしか知らないので、帰宅していた担当医に大急ぎで電話連絡してもらった。
みなさん、家内は3度目の脳内出血をおこしているのですよ。その事実を、病院がわたしに連絡して来ないのはおかしいとは思いませんか。入院時には、何枚も書類を書かされ、緊急の連絡先として、わたしの携帯電話の番号を教えているのですよ。しかも、患者は言語能力を大きく減じているのですよ。自分の症状を正確に伝達することなど出来るはずはないのです・・・
担当医は電話の向こうで、「こういう症例を知らない」と弱気になっていて、国立循環器病センターへの転院を検討中であることをわたしに打ち明けた。ガンマナイフ手術をおこなった
センターの医師と連絡をとりあった結果、センターのほうは病室をあけて受け入れる体制を作っておくと言い始めたらしい。入院中の病院は逃げ腰になり、手術をおこなった病院は責任を感じ始めている。患者は病院を変わりたくない、という。それは、もちろん家族が見舞いに行きづらくなるからだ。
しかし、これは患者の生命に関わる問題である。明日、まずは奈良の担当医と協議し、場合によっては、吹田まで足を運んで、大阪の担当医とも話を詰めることになるかもしれない。
底なし沼に足をとられてしまった。ずぶずぶと体が沈み始めている。
- 2007/02/23(金) 23:23:12|
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早朝7時過ぎの飛行機で鳥取に戻ってきた。5時半起床である。
9時半から鳥取城の会議。それから大学に移動し、昼の12時過ぎから学科会議が始まった。昼食もとらずに学科会議をするのは、いつものことだが、今日の会議は長かった。お開きになったら夕方の5時。それからただちに加藤家に向かった。また1週間ばかり現場に足を運んでいないので、問題が山積しており、いくつかの指示を出さなければならなかったのである。大工さんたちが仕事を終える間際になって、なんとか現場に滑りこんだ。木工時は、終わりそうで終わらない。次から次へと腐朽部材が発見される。
あぁ、またお金がかかる・・・
ロフトはイロリと越屋根をつなぐダクトが完成していた。破風の内側には、こげ茶色のアルミサッシ窓もおさまっている。軒先から鈑金工事も始まっていた。
ひとつ問題があきらかになった。ユニットハウスに移していた
大量の建具を建物に戻さなければならない。レンタル期間は4月10日まで。学生たちは里帰りして、あまり鳥取に残っていない。どうするべぇか。
もうひとつ、
倉吉で作っていた屋根の原寸模型を卒業研究展に陳列するのだが、少なくとも8人の学生が必要だということを知らされた。ものすごい重いんだそうである。しかし、学生たちは里帰りしてしまっている・・・
前日、東京にいた。訪問先は再び東京大学工学部一号館。キャンパスに少し早く着いたので、前回探しあてていた
スターバックスを冷やかしてみた。遠目からみると、とてもひろいカフェのように映るのだが、じつはスタバは工学部11号館の片隅を占める小さな一区画で、隣の「ラウンジ」とスタバがひとつのカフェのようにみえたのである。ラウンジでは、なにやらミーティングらしきことがおこなわれていた。スタバとラウンジのある工学部11号館はモダンな高層建築だが、その斜め向かいにある工学部1号館は重厚な様式建築である。ここでまたしても道に迷った。キャンパスで迷ったのではなく、建物のなかで迷ってしまった。
外側は様式建築だが、内側の半分はモダンな「
白い空間」に改装されている。この様式とモダンが廊下を境に接続する空間をだれがデザインしたのであろうか。槇文彦だろうか、それとも安藤忠雄だろうか。と思って、廊下をうろうろしていると、掲示板に「東大×東京芸大×東工大 卒業設計合同公開講評会」というポスターを発見した。
正直、ここは別次元の場所だ。さらに1階をうろうろしていると、大きなオブジェがドカンと置いてあり、それは透けた屏風のような役割を果たしていて、その奥がラウンジになっている。カフェではなく、ただのラウンジ。ソファや椅子、そしてカウンターもあるが店員はいない。学生たちが、そこで煙草をくゆらせて雑談していた。
なんか、とっても「おフランス」な感じ・・・
住む世界が違いますね。破れ障子に囲まれて、畳に炬燵の人生です。
[東大のスターバックス(Ⅱ)]の続きを読む
- 2007/02/22(木) 00:07:44|
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鳥取藩主池田家墓所で、初代藩主光仲墓の玉垣解体作業を見学したのは2年も前のこと。修復工事に着手してから3年めにして、ようやく光仲墓玉垣の修復工事はフィナーレに近づいている。解体当時は墓域に小型クレーン(通称カニクレーン)を持ち込むことができず、すべての作業は手仕事でおこなわれていたのだが、今では工事用の仮設スロープがつき、現場にカニクレーンが導入されて作業が進んでいる。そして、この2月19~20日、修復工事のクライマックスともいえる
光仲墓唐破風の取り付け工事がおこなわれ、玉垣はその雄姿を取り戻した。
↑光仲墓玉垣のようす(20日:控え柱設置後)
私は
前々日に行なわれた修復工事現地説明会の際に「作業の進行具合によるけれど、月曜日(19日)に唐破風の取り付けをやるかもしれない」という情報をえていて、初日は午後2時ころ現場に向かった。池田家墓所に着いてみると、駐車場では作業道具を片付ける最中、慌てて光仲墓まで駆け上がった。そこでは、唐破風がカニクレーンで吊るされてはいるが、無事に元の位置に戻されていました。お話を伺うと、「今日の作業はここまで」とのことで、唐破風は翌日まで吊るされた状態のまま置かれ、20日午前9時から、唐破風の台座を固定するための控え柱の設置を始めることを聞き、安堵した。
↑光仲墓唐破風のようす(19日)
20日の今日、工事開始の9時から時間をおいて、池田家墓所についてみると、今度は控え柱が据付けら、垂直に立てられているかを確認し、それを調整する作業に移しており、正直にいえば、もう少し早く着けばよかったと思っている。
さて、ここでいう控え柱というのは、棒状に立てられた柱ではなく、冂字状のステンレス製フレームのことで、唐破風の台座背面に設けた5つの爪(ブラケット)と控え柱をボルトで固定して災害時などの転落防止装置として設けるものである。控え柱自体は墓碑や玉垣の正面からみると、廟門の柱に隠れるように設計されており、景観に配慮されている。だから、控え柱は玉垣の内側に入らなければ目立たない。
今日の作業は柱2本を各4箇所、ブラケットを5箇所、計13箇所のボルトを締め、注意深く位置を調整することだけだから、昼前には作業を終えた。ただし、唐破風は調整を終えるまでカニクレーンで吊るして支えていたため、最後に唐破風を元の位置に降ろした後に、ブラケット部分のボルトを締めなおした。以上がこの2日間に行なわれた唐破風取り付け作業の内容である。
↑控え柱を取り付けるようす ↓玉垣内側、下から見上げた唐破風の台座と控え柱
唐破風につく棟飾りと小規模の修復工事を残すが、光仲墓玉垣の修復はほぼ完了して解体以前の姿に戻された。現在、光仲墓周辺は工事のため立ち入り禁止となっているが、修復された光仲墓の全景を遠望することは可能となった。 (某大学院生)
- 2007/02/21(水) 00:47:12|
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ムッシュ・ピエール
> 先日は「
なまずを囲む会」楽しませていただきました。
> 前回の打ち合わせ以降、模型の修正にあまり時間がとれず
> 今週は遅れを取り戻そうと思っています。
もう日程的には限界に近いところまで来ています。
急がないといけない。いくら仕事をたくさん抱えているとはいえ、
一つひとつの仕事を大切にして、〆切を守らないと、信頼ある
業者とみなしてもらえませんよ。これは君に対して、というよりも、
君の会社に対しての警告なんだがね・・・
> そこで、基礎的なことかもしれませんがご質問があります。
> 現在、梁(桁)上に出桁を組む方法で修正を進めています(SI-23)。
> 添付している画像1~3は、短軸にのみ出桁を組んだものです。
> また、画像4~5は短軸、長軸ともに出桁を組んだ場合の垂木尻の様子です。
> 垂木尻の位置としては後者のほうが良いようにも思われますが、
> いくつか図面を見たところ、短軸・長軸ともに出桁を組んだものは
> ないようです。この場合隅サスも納まりにくいようですが、
> 出桁の組み方としてはどちらが妥当でしょうか。
> ご教示ください。
この模型写真をみるだけでは、どちらが良いとも言えないね。
部材寸法も継手仕口もあいまいなままだから、
どちらをとるべきか判断しかねる。
だから、両案の寸法と細部を定めてCADで図面をおこして
みるしかないんじゃないだろうか。そのうえで、もういちど
模型を作るのが最善です。
> 追伸
> 奥様の入院、うちの母親も心配しておりました。
> その後のご経過はいかがでしょうか。
> お見舞い申しあげます。
> 早く退院されることお祈りしております。
> また、先生もくれぐれもご自愛のほど
> お祈り申し上げます。
ご心配、恐縮です。彼女はずいぶんよくなりました。
脳のほうは順調だと思うんですが、右手が不自由で、とくに肩にかるい脱臼の
症状がみとめられ、これをリハビリで治していかなきゃなりません。
彼女は、病院にいくと、いつもあかるく振る舞ってくれます。
家に帰ると残りの家族はばらばらなのに、彼女の元ではみんなが一つになれる。
「母」の存在とはすごいものだ。
女性の「母性」は偉大だ(なんて書くと、
フェミニストから攻撃されるけど)。
正直、わたしのほうが精神的にまいっていたんですが、
やけくそで
2台めのギターを買ったら、すこしウサが晴れました。
そういえば、宮本がふらりと加藤家にあらわれたらしい。
「倭文日誌」をみてください。
草々
12345↑いずれの画像もクリックすると拡大表示されます。
- 2007/02/20(火) 02:13:26|
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ラオス行きを断念するメールを旅行社に送信した。
3月に短期間だがラオスに行って、世界遺産のルアンプランバンを彷徨しようと思っていた。スケジュールが固まり、フライトもホテルも予約完了。そろそろ出張計画書を提出しようと思っていたら、ワイフが倒れてしまった。
昨年とよく似ている。
マカオ行きの旅程を固めて、手付け金を振り込んだ直後にワイフが倒れてしまった。その後の顛末は
大晦日イブに書いたとおり、大手旅行社のフリーツアーを使ったばかりに、キャンセル料が途方もない額になってしまうので、退院後まもない時期であったにも拘わらずマカオに行き、そこそこの収穫はあったものの、帰国した関空で携帯電話をなくすというアクシデントに見舞われた。
今回も、わたしがラオスに出発するころには、家内は退院して自宅で生活を送っているだろう。でも、やめた。これは東南アジアに行くな、と神仏がわたしを諫めているのだ。今回はフリーツアーではなく、馴染みの旅行社を使ったおかげで、キャンセル料は微々たる額(学生と飲んだら、これぐらいの額はすぐ消える)だったから、そんなに悩む必要もない。ラオス行きをあきらめた。
で、いつものように、病院に向かった。しかし、少しだけ回り道をした。まず、白髪染めを買うために薬局に寄った。じつは、もう染めるのをやめようか、とも思っているのである。3年ほど前からやめよう、と思うことがしばしばあって、ワイフに相談するのだが、返ってくる答えはいつも同じ。
「もう少し黒いままのほうがいいわね。白髪は50になってからでいいわよ。」
ところが、わたしは50歳になってしまった。だから、もう白髪を世に晒そうとも思うのだが、ワイフに相談すると、答えはやはり「もう少し待ったほうがいいわね」。まぁ、このあたりはパートナーの意見に従うことにして、だから、薬局に行って髪染めを買ったのだが、わたしにもちょっとした色気が湧いてきている。ちょっと遊んでみようかな、と密かに思っているのだ。もちろん、茶髪や金髪じゃありませんよ。なんたって、ネクタイ締めなきゃ教員じゃない、という大学なんだから(締めたことないけど)、茶髪や金髪で教壇にたったら懲罰委員会に呼ばれること間違いなし。ほんとに恐怖政治が吹き荒れる今日このごろなんだから、そんな馬鹿なマネはしません。目立たない程度の遊びを思案中なんです。
薬局からミドリ電化に移動。小さな携帯ラヂオを買った。患者は「テレビはなくていいけど、ラヂオが聴きたい」という。家にある愛用の古いラヂカセを持って行ってもいいんだが、少し大きすぎるのと、イヤホンがないのが問題なもんで、小さいラヂオを買うことにしたのである。そして、テレビ放送も聴ける白い小さなラヂオをみつけた。とても安い。ローコスト!です。
さて、ここからが問題。ミドリ電化の向かいには天理楽器があるんです。
1月29日に小振りのフォークギターを買った楽器店。驚かないでください。わたしは、また1台ギターを買ってしまいました。
これはですね、わたしの神経がそうとういかれてきている証拠です。滅入っている精神の裏返しでして、いわゆる「自棄買い」に近い行動ですね。衝動買いではありません。自棄糞だぁ! ラオス行きもやめたことだし、旅行に使う小遣い銭が浮いてしまった。もう3月はギターで遊ぶしかない。自分を癒せない、と思ったわけです。
値段は前回の半額以下。前回も、このギターにしようか迷ったんですが、ともかく小振りのフォークギターは鳴りが素晴らしい。それで、前回は高いほうのギターにしたんですが、ビニール弦のエレアコも頭から消えなかった。で、もう心境としては、繰り返しますが、自棄糞で2台めを買おうと決めてしまったのであります。
病院から戻って、二つのギターを弾き分けてみたんですがね、曲によってギターを替えるべきだってことがよくわかりました。たとえば、「
アローン・アゲイン」ならフォークギターが断然合うんだけれども、グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」はビニール弦がしっくりくる。音質もそうだけれど、コードの握りやすさとも関係していますね。エレアコはクラシックギターだからネックが太い(こういうタイプをエレガットという)。当然、コードは押さえにくいだろうと思っていたんですが、「ムーンライト・セレナーデ」のボサノバ風のコードはこちらのほうが押さえやすいんで、驚きました。
というわけで、年度末はギターです。だいぶレパートリーが増えそうだね・・・
[白いラヂオと]の続きを読む
- 2007/02/19(月) 03:38:00|
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小雨が降りしきるなか、池田家墓所光仲墓玉垣修復工事の現地説明会が17日に「雨天決行」された。開始30分前を目安に現地に到着した。その時点では来訪者は疎らであったが、説明がはじまるころには約40名までに膨れており、池田家墓所の保存修復工事に対する関心の高さが伺えた。
さて、本日の現地説明会は、初代藩主・光仲墓の玉垣・廟門を組み上げる作業の過程等を公開することを目的としている。説明は、もちろん光仲公の墓碑前ではじまった。まずは事務局長より挨拶があり、つぎに幹事のハマダバダさんによって、光仲墓玉垣の修復のプロセスが詳細に解説された。その概要は、以下のとおり。
①初代藩主池田光仲墓の特徴
池田光仲公の略歴/池田家墓所の創設期/墓碑・玉垣の特徴
②平成16年度 玉垣・廟門の解体
玉垣・廟門の解体作業の進め方
③平成17年度 玉垣部材の修復
分裂した玉垣の構成石材(地覆、柱、貫、笠石、唐破風)の接合方法
古材と欠損部分に補填した新材との区別する意義
④平成18年度 玉垣・廟門の復原と構造補強
玉垣の金属による補強方法/分裂していた唐破風の固定・補強方法
⑤修復工事による新発見
地覆石にホゾがあるのもと、ないものの2種類が用いられている。
地覆石が2種あることから、江戸時代に修復がなされたこと示している。
光仲墓周辺の土地造成手法。
このあとビニールハウスへ移動して、説明が続いた。そこには、分裂した唐破風が接合を終え、ステンレスの台座に据え付けられた状態で置かれており、唐破風の修復方法について、「唐破風はステンレスの台座で支え、台座は背後の控え柱で固定させる」とか「ガッチリとした接着はおこなわず、緩やかな接着により今後の解体修理を容易に行なえるものとしている」などの説明を受けた。
説明終了後には質疑がおこなわれた。唐破風については
「唐破風と台座の間を埋めている接着剤は何か?」
という質問があり、
「エポキシ系の樹脂だが、封入材として使用しており、雨水の浸入を抑えるために施している」
との回答があった。
「唐破風に固定されていない棟飾はこれからどうするのか?」
という質問に対しては、
「唐破風を玉垣に据え付け直した後、固定位置を見極め、モルタルで接着する。」
とのこと。さらに、全体の保存修復計画に関わる質問として、
「廟所建物の復元はされないのか?」
と問われたが、
「廟所建物の復元は今のところでは計画にあがっていない。」
と返答された。
この後、池田家墓所管理人の方によって、光仲墓周辺に位置する墓碑の解説が行なわれて、光仲墓玉垣・廟門の修復についての現地説明会は終了した。光仲墓玉垣修復の細部の写真については、追記に紹介しておく。
ところで、唐破風の設置作業は、次週から始まるそうで、これについては、微妙な調整が伴うので作業状況次第で19日~20日のどのあたりにあるかはっきりしないらしい。この作業工程も抜からず見学しようと思っている。そして、唐破風の設置後にも現地説明会が再び催されるとのことだが、日程は今のところは詳しく聞いてはいない。(某大学院生)
↑唐破風背面
唐破風はステンレスの台座で支えられる。切断部分を埋めるモルタルのようなは「エルパテ」と呼ばれるもの。ステンレスの台座と唐破風の隙間にはエラスグラウドを充填する。
[池田家墓所修復工事現地説明会]の続きを読む
- 2007/02/18(日) 00:06:23|
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手元にある三角スケールで計ったら、厚さが4.3㎝もある。本の厚さである。サイズはB5版。総ページ数は780ページで、参考文献や注釈をのぞく本文だけでも580ページもある。おまけに体裁は単純な縦書の一段組。図版はすべて巻頭の口絵にもっていっているから、本文との対照が大変だ。まるで、「読むな!」と言わんばかりの装幀ではないか。わたしだったら下に余白を設けて、図版や参考文献を納めていくところだが、たぶんそうしなかったのは、余計な紙面デザインをすると、さらにページ数が増えると編集者が判断したのだろう。無骨なごつい本で、値段は4万円以上する。
読みたくて、この本を読んでいるのではない。仕事で読まされているのである。「査読」に近い仕事だ。学会誌に投稿された10ページばかりのへなへな論文を査読するのだって、結構時間とエネルギーを使うのに、厚さ4.3㎝の本ですよ。しかも、内容がもうひとつよくわからない。「東アジア」という範囲で括れるフィールドではあるけれども、わたしが得意とする中国でもなければ、なんとかこなせる日本でもない。でも、まったく無縁な地域というわけでもなくて、そこに行って実測調査したこともあるし、旅して遊んだこともある。
でもやはり、専門の地域ではないから、もう膨大な民俗語彙に接するだけで頭が痛くなる。知らない史料も原文でいっぱい引用されている。正直、ついて行けない。でも、仕事がまわってくるということは、わたし以外の研究者だと、さらに手こずる内容だと判断されたからであろう。
それにしても、「読め!」という割に元締めはケチだ。本を読み終えたら、返さなければならないのである。だから、線も引けないし、書き込みもできない。付箋を貼るのが精一杯なんだから、これで講評を書けというのは、あまりに酷ではありませんかね。で、ギャラがあるかと言えば、ないんです。
ならば、どうしてそんな仕事を受けたかって!?
同業者なら、たぶんわかるでしょうね、「査読」に近い仕事だっていってるんだから。この本以外にも、あと2冊読んだんですがね、最後の厚さ4.3㎝にはめげました。病院のベッドに寝転がって、ふてくされながら文字の羅列を追って、半日過ごしましたよ。
なんで研究者の書く本はこんなに読みにくいんだろう。
ユン・チアンの『マオ』なんか学術書に近い内容だし、とんでもなく分厚いのに、引き込まれるように読んでしまった。でも、大半の研究者の書く本は苦痛だ。わざと読みにくく書いているのか、文才がないのかわからないが、退屈だったり、読みにくかったり・・・きっと自分の書いた本も他人はそう思っているんだろうな。
わたしも、書き散らかしてきた論文・雑文をまとめなければならない時期が来ている。どうせ出版するなら、売れる本にしないとね。家計を助けないと。
- 2007/02/17(土) 04:08:06|
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さきほど「すきや」でテイクアウトしてきた丼ものを息子と二人食べていたら、テレビで「国立循環器病センター」のニュースが流れ始めた。麻酔薬盗難事件が内部犯行だったというお粗末な顛末に、責任者一同お詫びするという映像である。
ことの発端は1月29日。センター3階の麻酔科の金庫に保管していた麻薬系鎮痛薬「フェンタニル」のアンプル30本がなくなっていたことが判明した。モルヒネの200倍もの鎮痛効果があるという麻薬である。金庫内にあったアンプル50箱(1箱10本入り)のうち、3箱がなくなっていることに麻酔科の医師が気付き、警察に通報したという。金庫を開けるためには鍵と暗証番号が必要で、鍵は同じフロアの麻酔科別室で保管しており、暗証番号は麻酔科の医師13人が知っていた。
その13人のなかに犯人がいたのである。ニュースによると、犯人は別の医師の名前で書類を偽造し、フェンタニルを持ち出そうとして、足がついたらしい。この麻薬には依存性があり、体が耐えきれなくなったのだろうか、あっけない幕切れであった。
じつは、今日の午後、吹田の国立循環器病センターに電話をしていた。ガンマナイフ手術をおこなった医師と話がしたかったからである。その医師は、家内が再び倒れたことを知らなかった。奈良の担当医と吹田の医師はべつの病院で同僚だったことがあり、患者の病状に関する情報を交換していたので、再発のことを知らないはずはないと思っていたのだが、彼女は知らなかった。
つい先日、患者は3ヶ月ぶりに吹田まで出かけてMRIを撮影し、その数日後に問診を受けていた。わたしは撮影時に吹田までついていったのだが、問診の日は大学の仕事が忙しく付き添えなかった。そして、その直後に脳内出血を再発させ、入院してしまった。
「脳動静脈奇形はあきらかに小さくなっているんです」
と、その医師は言った。
「先生は、たしか脳動静脈奇形から出血する可能性は数パーセントとおっしゃいましたね?」
「いえ、2~3%です。」
つまり、ガンマナイフの手術を受けなくとも、100人に97~98人の患者は脳内出血を発症しないということである。
「こういうふうに、断続的に出血を繰り返すということは、奇形部分が萎縮する際に血管が切れてしまうんじゃないでしょうか?」
と訊ねてみた。吹田の医師は断言した。
「いえ、そういうことはありません。」
強い否定の口調であった。しかし、奈良の医師の見解とはニュアンスがちがう。昨日記したように、奈良の医師は「そういう可能性もあるが、それを科学的に実証できるわけではない」という言い方をした。
大阪の医師の見解はこうだ。
「脳動静脈奇形のある部分で出血をおこすと、そこで出血を繰り返す可能性は高くなるんです」
「今回の出血場所は、前回とはまったく違うところでして、だから大きな障害がおきていない、と奈良の先生はおっしゃってますが。」
「えぇ、でも、いちど出血をおこした脳動静脈奇形が再出血をおこすパーセンテージは高いんです・・・」
大阪のドクターの言を信じるならば、家内はガンマナイフ手術をうけなくとも、出血をおこした可能性が高いことになる。100人のうちの2~3人のなかに含まれるわけだ。その可能性はもちろんある。
ただ、わたしは、どうしても言っておきたいことがあった。
「昨年十月の問診の際、わたしが付き添って行って、患者の症状が非常に悪化していることを強く訴えましたよね。坂道を下れないほど右足が麻痺していることをお伝えしたはずです。にも拘わらず、その次の定期検診は3ヶ月後の1月末のままでした。わたしは、どうしてもっと短いスパンで検査を繰り返してくださらないのか、不満でした。そう思っていたら、一ヶ月もしないうちに出血をみたんです。」
これには「えぇ」としか答えてくれない。
「ガンマナイフの放射線で奇形が完全に消えるまで、どれくらいかかるのでしょうか?」
「完全に消えるのは3年ですね、5年ぐらいかかる場合もあります」
「家内の奇形は大きいですけれども、完全に消えない場合もありますよね?」
「あります」
「そうなると、もういちどガンマナイフの手術を受けなければなりませんね?」
「そうなります」
「もういちど手術をするかどうかは、どのあたりで見切るんでしょうか?」
「いちおう2年が目途になります」
なんてことだろう。とんでもない持久戦に巻き込まれつつある。
- 2007/02/16(金) 00:44:17|
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奈良は大雨。雨は鳥取のほうがよく似合う。
どうもへたっていて、昼過ぎまで家で休んでいた。そういえば、
バレンタインなんだな。今年はゼロだと諦めていたところ、昨夜、病室で患者に知らされた。
「チョコレート買ってあるよ、あなたとしゅんちゃん(息子)の分・・・」
たしかに電子レンジの下の棚をあけると、ラッピングされた箱入りの物体が2個確認された。昼食後にチョコレートを二つ食べて、インスタントのエスプレッソを飲んだ。
さて、出発。病室に着いたら午後3時。佐治の両親はすでに奈良を離れ、娘がひとり明日の試験勉強をしながら患者の相手をしていた。それから、付き添いを交替したのだが、患者よりもわたしの体調が芳しくない。今日もまた高血圧の頓服を一錠飲んだ。
患者の病状は好転している。点滴は外され、ポータブルトイレからも解放されていた。ただし歯磨きは病室でおこなう。今日は急患時に診察していただいたドクターともとの主治医がべつべつに来室され、べつべつにお話をうかがった。
年配のドクターの見解によると、出血量は前回と変わらない程度だが、出血部位が頭皮側だったので、大きな障害がおこらなかったのだという。今回の出血部位ならば、ストロー状のパイプを使って血液を吸い出すことも不可能ではないらしい。ただし、血液を吸い出すことによって、さらに出血を招く危険性があるという。脳動静脈奇形とはそういう病気なのである。結局、前回と同じく、安静にして血液の吸収を待つ以外にない。
その後、本来の主治医であるK先生があらわれた。なんか、申し訳なさそうな顔をしている。出血が血圧とは関係ないことがあきらかになったので、今回は血管を強くする薬を使ってみるのだという。K先生は、わたしの疑問を見抜いている。
「ガンマナイフの治療が奇形部分から出血を引き起こした可能性はもちろんあるんですが、それを科学的に証明するデータはないんですね。かりにガンマナイフによって出血をおこしたとしても、奇形を取り除く方法はほかにありませんしね・・・」
たしかに、そのとおりだ。べつにわたしはガンマナイフの手術をした大阪の医師を相手に訴訟をおこすつもりなどない。ただし、こういう断続的な出血が、放射能照射による奇形部分の萎縮時におきている可能性が高いように思われてならないのである。そういう意見を述べたところ、K先生は「それはあるかもしれません」と答えた。
とても難しい問題だ。ガンマナイフ手術をしない場合、脳動静脈奇形からの出血は数パーセント程度の確率だと言われる。しかし、死ぬまで脳のなかに奇形を持ち続けなければならない。ガンマナイフをすると、2~3年で奇形は壊死してしまうが、成功率は70~80%とされる。このように、ガンマナイフによって発症率は高くなるのだけれども、ガンマナイフをしないと奇形が脳から消えることはない。どちらをとるべきか。
山陰から情報が集まってきている。いちばんみたかったのは、加藤家のトチ葺き軒付(↑↑)だが
、「倭文日誌」を読むと、二重軒付の上段2枚の打ち付けに移行しているから、こんど鳥取に戻るころには木工事はほぼ終わっているだろう。すると、残りは屋根の鈑金工事だけか・・・
池田家墓所では、光仲墓玉垣の組み直しが進んでいる。すでに玉垣の仮組と調整が終わり、玉垣の本組にとりかかって、今は写真のような状態(↑)。そして、いよいよ唐破風の設置が近づいてきた。
重さ1トンの石の唐破風(↓)である。設置工事の日程が今月20日午前11時からに決まったという。残念だ。20日は東京に出張することが決まっている。21日にしてくれたらありがたいのだが、駄目なら某大学院生を派遣するしかない。
そう言えば池田家墓所は、唐破風設置に先立つ
今月17日の14:00~15:00に光仲墓玉垣修復工事の現地説明会をおこなうことになっている。是非とも、多くの方々に修復工事をご覧いただきたいのだが、マスコミ関係者なら20日に行くほうがいいだろう。この日の工事は見物ですよ!
もう一ヶ所。田和山で設計中の
「蟻桟」付き扉板の設計図が送られてきた。もちろん、まだOKを出していない。いちばんの問題は、青谷上寺地での出土品が柾目の板になっているところで、学術的にはこれに倣いたいところだが、柾目の板は割れやすい。割れやすいから蟻桟を使ったのだろうが、復元事業ではメインテナンスも無視できないから、柾目にしないほうが良いような気がしている。
- 2007/02/15(木) 01:19:58|
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朝9時から公聴会。某助手からのメール情報では、みんな上々の出来映えに仕上がりつつあるとのことだったので、楽しみにしていた。
すでにお伝えしたとおり、午前は論文組で、午後は設計制作組。たしかに良い発表だった。いちばん心配していた西山も、なんとかパフォーマンスで切り抜けた。3期生の卒業研究は1・2期生のレベルに追いついたね。これはすごいことだ。正直、春には予想だにしていなかったもの。
親バカ?だと白い眼でみられるのを承知で発言しよう。うちのゼミはレベルが高い。ゼミ内部で指導していると、「今年はひどいなぁ」とか「あぁ、もっと質の高い学生を教えたい」とか、いつもいつでもいらついているのだが、こうして外に出すとなかなか強力だ。一次資料(調査データや文献史料等)をふんだんに使ってオリジナリティの高い考察を展開しているし、パワーポイントやCADのスキルも学内では最上級だろう。裏返してみると、わたしの指導が抜きんでてスパルタなんだな。東大で言えば、
上野ゼミみたいなもんかな、ははは。だから、人気がないんだ。人気がなくても、レベルは下げない。下げたら、わたし自身のモチベーションが低下する。
ここで宣言しておきましょう。どんなに少子化が進んで在校生が減っても、わたしはゼミのレベルを下げません。それで、ゼミに学生が一人も来なくなったら仕方ありませんね。うちのゼミの卒業研究のレベルは、地方の国公立大学に決して劣らない。それはこれからも変わりません。
さて、打ち上げはいつもの通り、駅前シャミネの「
服部珈琲」。みんなへとへとに疲れている。わたしも車でシャミネの駐車場に乗りつけはしたものの、あまりの疲弊度に判断を躊躇していた。このままJRに乗ってしまおうか、それとも、いちど下宿に帰って仮眠をとろうか・・・・
しかし、「服部珈琲」でカフェオレを飲み、レアチーズケーキを食べ、学生たちとだべっていたら、少しずつ疲れがとれてきた。やはり、学生諸君の公聴会の出来映えが素晴らしかったからだろう。ほんとうにみんなよくがんばった!
そして、わたしは
志戸坂峠に向かって車を発進させた。JRではなく、自分の車を運転して奈良に帰ろうと決心したのである。途中、加東市社町の父母の家に立ち寄り、父母と兄夫婦に病状を報告し、少し休ませてもらってから、また車を走らせ、夜の十時すぎに県立奈良病院に到着した。6階はすでに真っ暗だったが、4人部屋のカーテンをあけると、患者はまだ起きていた。寝付けないようだった。
患者の言語能力は大きく回復していた。しゃべりたいことの70~80%は言葉にできる。点滴は腕から外れていないが、今日から食事も摂るようになった。2日めのCTスキャンの結果、脳内出血の範囲は昨日から変化してないことがわかったという。出血はひろがっていない、ということだ。これからしばらく、症状に振幅があるだろうが、前回と同じように、安定期に移行してくれることをただ祈るばかりだ。
自宅に戻ると、佐治の両親が待っていてくれたが、長女はすでに東京に戻ってしまっていた。佐治の両親も明日帰るという。だから、しばらくは、わたしが主婦です。
とても、とても疲れたので、「
ゆららの湯」に行くことにした。すると、次女も行くという。ほんの4ヶ月前まで、週末になると、いつも患者とわたしは二人で「ゆらら」に通っていた。患者はもう「ゆらら」に行けないだろうか。もういちど、風呂上がりの爽やかな笑顔をみてみたい。二人の娘がいつか必ず連れていってくれるだろう。
↑暖冬の小春日和。BDFバスと風車がみえるエコ風景? エコ・プロダクツに関する学生の発表に対して「二酸化炭素と地球温暖化の相関性は科学的に立証できていないのではないか?」と質問した。
- 2007/02/14(水) 04:24:35|
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昨日は朝9時に起こされた。家内に起こされたのである。
昨日のブログをアップしたのが午前5時だから、実質4時間も寝ていない。公聴会のための練習会を午後2時からセットしていて、京都発10時51分(大阪発11時22分)のスーパーはくと5号に乗れば、午後1時50分に郡家(こうげ)駅に着く。連休にタクオが鳥取に戻っていて、郡家まで迎えにきてくれるというので、午後2時ジャストに大学に入ることができるだろうと計画していたのである。
次女が運転するワゴンRで高の原駅か西大寺駅まで送ってもらうことになっていて、急がなければならないのだけれども、家内の様子がおかしい。じつは、この連休の3日間、彼女は寝込んでいた。麻痺している右半身と腰に痛みを抱えていて、まともに歩けないぐらいの状態になっていたのである。それで、一度は県立病院に行こうとしたらしいのだが、リハビリ担当の医師に電話したところ、「リハビリのやり過ぎ」で筋肉が悲鳴をあげているのだと諭され、病院に行くのをやめたのだという。
わたしが帰宅した週末の状況がそうだった。体は次第に回復の兆しをみせはじめ、昨夜は息子と3人で「丹永亭」という近くのうどん屋さんに夕食にでかけた。もう大丈夫だ、と思っていた。
とこらが一夜あけて、家内の行動がおかしい。わたしがあせって出発しようとするのに、ご飯を食べ始めるのだ。朝ご飯を食べないと、食後の薬を飲んではいけないと思ったのだろうか。ところが箸がまともに扱えなくなっている。ご飯をぼろぼろこぼしまわるから、次女に何度も叱られていて、変だなと思い始めた。
わたしは「どうしたの?」と質問した。しかし、ちゃんとした日本語が返ってこない。呂律がまわらない。言語能力が大きく低下している。
しかも、彼女は出かける準備をし始めた。
「どこに行くの?」
と訊ねると、どうやら「病院に行く」決意を固めていることがわかってきた。なんとかかんとか聞き取りを続けていくと、早朝、歯磨きをしているときに、5分ばかり頭痛が走ったのだという。その後、ふだんは右手でもてる本がもてなくなっていることが分かった。麻痺している右手の握力がさらに弱くなっているのである。医者と薬を異常に敬遠する家内が、病院に行く決意を固めている、ということは、よほど体調に異変を感じているということだ。
わたしは鳥取に戻るのをあきらめた。次女とともに、県立奈良病院に同行することにした。病院は連休の最終日。急患でごったがえしている。さいわい脳神経外科の先生が当直で、診断を待つほかなかった。その年配のドクターはかつての主治医ではなかったが、家内の症状をよく知っていた。ただちにCTスキャンを撮ることが決まった。
その控え室で、わたしは予感していた。
「再出血した可能性が高いね・・・麻痺がひどくなっているんだから・・・」
果たして予感はあたっていた。CTスキャンのネガをみると、前回とは異なる部分で出血がみとめられる。範囲は3㎝×2.5㎝程度。前回ほど危険な部位ではないそうだが、家内はあきらかに言語能力を大きく減じていた。血圧は低く抑えられていて、出血の原因はやはり脳動静脈奇形以外に考えられないという。もちろん即刻入院である。
わたしも娘も頭を抱えてしまった。ありえないことではないけれども、一度めの発症からわずか3ヶ月しかたっていない。また一から治療と療養と看病のやり直しだ・・・気が遠くなりそうだった。
通いなれた3階の脳神経外科は病室が満杯で、6階の整形外科の4人部屋にまわされた。すでに腕には2本の点滴が打ち込まれている。ベッドに横たわった患者は昏睡状態に陥った。もちろん意識はある。呼べば答えが返ってくる。しかし、また娘の名前を間違えるようになってしまった。ただし、前回のように吐き気や微熱はない。
わたしは疲れていた。看護師さんに補助ベッドを出してもらったら爆睡してしまい、
「大鼾をかいてましたよ、お疲れなんですね」
と言われて、同じ看護師さんに起こされた。佐治の実家と東京に戻ったばかりの長女に電話をした。みんな来るという。とんぼ帰りする長女とは対面できたが、佐治の両親とは入れ違いになって、わたしは夕方6時、最終のスーパーはくとに乗るために病院を離れた。
公聴会の練習については、某助手に電話して指導を代行していただくことにした。また、某助教授にも連絡をとり、今後の対応を相談した。練習会はどうだった、とメールで訊ねたら、じつに5時間にも及んだという。
明日の発表を楽しみにしている。そのあとは、トンボ帰りだ。
- 2007/02/13(火) 00:54:26|
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ようやく北海道考古学会誌の仕事を片づけた。おなじようなことを
2月2日のブログにも書いているのだが、あのときは原稿のみ。昨日からその図版を揃えるのに骨を折っていて、それとともに原稿の書き直しもしたから手間取った。2004年4月にお招きいただきた
北海道考古学会40周年の記念講演の記録に手を加えたものなのだが、やはり時間がかかる。講演から3年も過ぎると、いろいろ新しいデータも増えているし、整備事業も進んでいる。そういう成果を無視できないから、ついつい修正・加筆が増えてしまうのだ。
こうしてブログを書いたり、ギターを弾いたりしなければ、もう少し早く原稿が捌けるのだろうが、これはもう病気なので、どうしようもない。割り切れない。
前にも述べたように、今回の原稿のタイトルは、
「木造建築遺産の保存と復元 -日本の可能性」
とした。これまで何篇か文化遺産の修復・復元・整備に関する論考をあらわしてきたが、今回の論文では、とくに日本の遺跡を「木造建築遺産」としてとらえながら、西欧の原理・原則と対比させ、「遺跡と地形と景観」の全体にオ-センティシテイがあることを強調した。一方、1%のオ-センティシテイもない復元建物は遺跡整備において「脇役」に徹するべきだが、良好な遺跡景観を生む添景たり得る素材ではある、という認識を示している。これは最近の
田和山や
山田上ノ台の仕事で痛感したところであり、遺跡の主役となる復元建物のあり方には断固反対すべきだが、遺跡の風景を向上させる媒体としての復元建物なら存在意義があるだろう、と結論づけた。これまでは、ずっと復元建物に否定的なスタンスをとってきたわたしだが、少しだけ軸足をずらしつつある。そういう自分を自覚している。
さて、今日は大変だ。 明日はバレンタイン・イブだから、今日はイブイブで、卒論公聴会の練習日なのである。じつは公聴会よりも、ずっとハードなんです。開始は午後2時から。だから9時半にはおきて、大阪発11時22分のスーパーはくとに乗らなきゃならない。
すると、郡家(こうげ)着13:50。どういうわけか、タクオが迎えに来てくれることになっていて、どういうわけか、さきほどから斉藤哲夫の二つの古い歌がごっちゃになって頭を駆けめぐりはじめた・・・
もう、どうでもいいのさ。
つまらぬことは、考えないで。
そこからの道を急ぐのさ。
それがなにより肝心さ。
まわる、まわる、人生が。
まわって、それでお終いさ。
されど、わたしの人生は。
されど、わたしの人生は。
悩み多き者よ。
時代は変わっている。
すべてのことが、あらゆることが。
あぁ、人生は一片の木の葉のように。
あぁ、風が吹けば、
何もかもが終わりなのさ・・・
- 2007/02/12(月) 05:08:56|
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2週間前に
ギターを買ったついでにスコアも買っておいた。関口祐二というギタリストが編曲しているスコア集で、本人が演奏しているCDもついている。
巻末の「編曲者紹介」によると、関口さんは「小学生の頃から、独学でギターを始め、後に宮之上貴昭氏に師事。アコースティック・ソロ・ギターパフォーマンス、自己のジャズ・ギター・トリオなどの演奏をしている。(略)モリダイラ楽器フィンガー・ピッキング・コンテスト2003において、最優秀賞及びオリジナル・アレンジ賞受賞」とあり、どんな演奏をするのか気になったから、アマゾンで検索したところ、たしかに1枚のCDを発見したのだが、値段が高いので買うのをあきらめた。
小学生のころからギターを始めた点はわたしも同じで、小六~中学時代は
フォークルや高田渡などの元祖日本フォーク系、高校時代は
ニール・ヤングやジェームズ・テイラーなどの西海岸シンガーソングライター系をもっぱらコピーしていた。大学になってジャズを聴き始めたのだが、和声もスケール(音階)もわけがわからなくて、ともかくスコアを買ってみようと決意し、渡辺香津美の採譜によるスコア集を買ったのだが、これがどえらく難しい。
かつてある音楽評論家が、ジョン・コルトレーンに対して「この譜面をテナーで吹いてみてください」と頼んだところ、コルトレーンは「わたしには吹けません」と答えた。ところが、その評論家は、「これはあなたの演奏したアドリブを採譜したものなんすよ」とコルトレーンに伝えた逸話は、とても有名だ。こういうふうに、天性のジャズメンは譜面など読めない。和声と音階の理論的基礎がしっかりしていれば、コード進行さえ決めておくだけで、あとは自分のごつい技をみせるだけ・・・
というわけで、本人でさえプレイできない譜面を、わたしたち素人が弾くのはキチガイじみた行為なのである。それでも、ジム・ホールの「酒とバラの日々」とか、ウェス・モンゴメリーの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」などをなんとか弾けるようになった。しかし、コード進行やアドリブの本質はさっぱりわからないままだった。
それから20年ほどたって、ウクレレ・ブームが到来した。きっかけは高木ブーではない。ハーブ・オータという日系2世のウクレレ演奏家が、朝鮮戦争時代、米軍の通訳として長く横浜に滞在していた。1950年代に開かれたお別れパーティの演奏を知人の一人が録音していて、それが90年代にCD化され、日本の音楽シーンを震撼させたのであった。オータさんは、ウクレレ1本でハワイアンはもちろん、ジャズもフラメンコもバッハもショパンもストラビンスキーもなんでも演奏してしまう。ジェイク島袋が活躍する現在のことではない。1950年代の録音である。あのCDには仰天して、以来、オータさんのCDを買いあさった。そして、ウクレレも計4台買った(↑は1台め。いちばん愛用しているのはネックの長い「高木ブー」モデルだが、これではない)。オータさんの演奏をビデオに納めた教則本も3本ばかり買ったし、大阪公演はワイフと一緒に聴きにいった(↓近鉄小劇場、99年7月19日)。
ウクレレという楽器には、ともかく驚かされた。4本の弦だけで、ジャズっぽい不協和音を表現するのは大変なはずだが、それは決して不可能ではない。コードを展開させていくプロセスでの開放弦の使い方も絶妙。こういうウクレレの奏法からギターの演奏を考え直したギタリストも少なくなかったことだろう。ギターの弦は6本あるけれども、すべての弦を使う必要はまったくない、という、じつに単純な事実にわたしもようやく気がついた。
また、ちょうど同じころ、NHK教育TVの「趣味悠々」という番組で、山下洋輔が「ジャズの掟」という素人向けの講座をやっていて、それを毎週みていたら、和声とスケールの関係がうっすらと理解できるような気がしてきて、自分のアドリブが、少しだけジャジーな匂いを漂わせはじめた(気がした)・・・
で、最近は気分転換を兼ねて、少しずつ関口編曲本を練習している。とりあえず1曲めの「アローン・アゲイン」から。ご存知、ギルバート・オサリバンの名曲である。綺麗な曲はコードを弾いているだけで気持ちいい。クリシェを多用した滑らかなコード進行に驚かされる。
Amaj7→A6→C#m7→Em→C#m7(onG)→F#7→Bm7→Bm7-5→
A→Aaug→A6→G#7→C#m7→Em→F#7→Bm7→Bm7-5→Amaj7
→A6→C#m7→F#7(-13add9)→Aadd9
が一般部。ここからのサビもすごい展開。キーはAの曲だが、いきなりCに転調する。
Cmai7→G→Bm7-5→E7-9→Am7→F#m7-5→Emaj7→Bm7→E7
となって、元のAキーに戻るわけだ。「アローン・アゲイン」は、アドリブのリード部分をのぞいて、だいたい弾けるようになった。結構、時間がかかった。で、レベルはどうなのか、というと、決して「初級」ということはない。おそらく「中級」の初歩レベルではないだろうか。
それで、昨日から次の練習曲を探して弾き始めた。選んだのは「ウィア・オール・アローン」。ボズ・スキャッグスの大ヒット曲である。ボズ・スキャッグスのバラードというのは、わたしたちが若い頃の「こましの曲」であった。
「宍道湖畔の夕暮れの道をドライブするんだよ、ボズ・スキャッグスのバラードを流して夕焼けを眺めていたらさ、まぁ、軽く落とせるから・・・」
なんて偉そうなことを後輩に語っている時代が、たしかにありましたね・・・こちらもコード進行はやはり素晴らしいが、もうくどいから転載は控えよう。
ところで、たまたま選んだ二つの曲のタイトルには、いずれもアローン(alone)という言葉が使われている。aloneは「ひとりぼっち」を意味する形容詞だが、lonelyやlonesomeなどの類語と異なるのは、必ずしも「寂しいことを含意しない」ところだという。
「また、ひとりぼっち」。そして、「みんな、ひとりぼっち」。
[アローン・アゲイン]の続きを読む
- 2007/02/11(日) 19:12:56|
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「どうしよう・・・。何からはじめたらいいのだろうか?」と、不安を抱きながら手付かずの状態で始まった『倭文日誌』の「加藤家住宅修復工事録」も気がつけば86日目を迎えている。記録をとりだした当初の01号は、写真の撮影方法や文章の構成など、多くのことに困惑し、なかなかうまく作業を進めることができなかった。しかし、今思えば、そのような経験があったからこそ、自分自身の実力のなさに気づくことができ、またそれを改めようと決心することができた。これも
『倭文日誌』やLABLOGをご覧になっている皆様の支えがあってこその結果だと思っている。
このように、多くの人に支えられて進められてきた修復工事であるが、本日はいよいよ大屋根軒付の木工事に入ることになった。加藤家住宅は建立当初、茅葺き屋根であったのだが、現在は鉄板葺きの屋根に変わっている。その理由は茅葺き屋根の維持・修理に関わる負担が大きすぎることにあるのは自明であろう。現在、茅葺き屋根の全面葺き替えには1500~2000万円の経費が必要であり、当然のごとくその費用は住民に大きな負担を与えており、茅葺き民家の空き家化を促す主因となっている。そこで、「茅葺き」屋根に鉄板(トタン)を被せた屋根の外観を継承させた「トチ葺き風鉄板被覆屋根」を研究室で開発することになり、O1号もその
部分CGを制作した。この屋根は、社寺建築に常用される「トチ葺き銅板被覆屋根」を応用したもので、実質的には「板葺き鉄板被覆」であり、軒付のみトチを積み上げる。材料は地域産のスギ材である。すでに倉吉で部分的な
原寸模型も完成している。
トチ葺きの軒付を応用させることにより、茅葺き屋根独特の厚みを継承し、中空層を利用して断熱の便をはかり、鉄板の下にはゴムアスというシートを張って防水機能を強化している。加藤家住宅の修復で開発され、施工されたこの屋根が、今後、周辺の茅葺き民家に波及していくかどうか、注目されるところである。
<↑軒付詳細図 ↓コアを葺く大工さん>
これまでの工事で、軒には木負・裏甲・裏板が取り付けられている。本日、とうとう
コア(杉材)を3枚ずつ裏板の上に葺き重ねていく作業が始まった。ところが、以前紹介した日野のコア職人さんは、現在休業中。池田住研の社長さんのお話によると、島根県や岡山県、京都府の職人を当たってみても、コア職人がいなかったそうである。結局、兵庫県豊岡市に1ヵ所だけ工場があり、地域産材でないのは残念だが、加藤家住宅修復工事に豊岡のコアを採用することになった。葺き終わったコアの上には地域産材のトチ(スギ材)を葺き重ねていく。軒に空気を通すため、トチは台形に加工している。また、修復後の加藤家住宅の屋根は2重軒付で、1段目に4枚、前に突き出た2段目に2枚のトチを重ねる。鉄板を被せるのは2段目だけであり、2段目の軒付が外からみえる仕組である。来週以降もこの作業が続いていく。
<↑トチを葺く大工さん ↓現在の軒付(茅葺き屋根の厚みが表現されている)>
最後になったのだが、ここで1つお知らせしなければいけないことがある。01号は、「ローコストによる文化財古民家の修復」というテーマで卒業論文を執筆しているのだが、その量が200ページにも及ぶ。公聴会を控えた現在も、レイアウト作業に追われている。正直なところ、工事記録をとりながらレイアウト作業もこなすというのは困難な状況にある。そこで、『倭文日誌』を後輩へと引き継ぐことを決心した。01号が思うに彼は大変優秀な学生であり、まちがいなく01号以上の成果を本研究にもたらしてくれるであろう。01号がそうであったように、修復工事の現場に立ち会うことにより、大学の授業で学ぶことのできない経験や知識をふんだんに吸収してもらいたい。それでは、これから『倭文日誌』を引き継ぐ学生を紹介したい。こういうわけで、本日が01号の最後の工事記録となりました。これまで『倭文日誌』をご愛読いただいた皆様には改めて感謝申し上げます。
「本当にありがとうございました。」 (01号)
本日より『倭文日誌』を引き継ぐことになりましたMr.エアポートです。現在2回生で昨年より加藤家の修復プロジェクトに参加しています。特にイロリ・自在鍵の復原ではリーダーを務め、無事加藤家にイロリと自在鍵を設置することができました。今回この『倭文日誌』の引き継ぎを命ぜられたことを大変光栄に思います。またその反面、ここまで『倭文日誌』を綴ってこられた01号さんのようにできるかどうか不安を感じます。まだまだ未熟な自分を鍛える意味で、この『倭文日誌』を綴っていきたいと思います。今後多くの方々にお世話になると思いますが、教授や01号さん、先輩方、工務店さんとともに頑張っていきたいと思います。どうか暖かく見守ってください。また何かありましたら遠慮なくコメントをよろしくお願いします。(Mr.エアポート)
- 2007/02/10(土) 17:32:27|
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1週間前の金曜日、大雪のなか、ひさしぶりに加藤家を訪問したら、だれもいなかった。今日は大工さんが勢揃い。あの
発表会の日(1月23日)以来、じつに17日ぶりに加藤家の修復工事をみた。監理者として恥ずかしいことだと思う。屋根の木工事も、あと一息。イロリの煙抜から立ち上がるダクトと越屋根(↑左上)、妻飾りを現在工事中。まもなく、
コアと
トチを使った軒付の作業に移行する。そういえば、イロリの自在鉤と火棚を吊す藁縄がダクト内部で腐朽した場合、取り替え難くなるから、途中まで鎖で吊して、鎖の先端から藁縄を下げるように修正する作業も進んでいた(↑左下)。
昼前に現場に到着すると、卒業論文の最終工程で修復建築スタジオに缶詰状態であるはずの居住者O君がいた。かれも好きなんだな、加藤家の工事が。大工さんたちの木工事をみて、それを記録化することが半分趣味になっている。だから、どうしても加藤家に足を運んでしまうんだろう。こういうふうに早起きをして、卒論以外の作業をこなしている4年生もいれば、
米子から帰ってまる一日爆睡し、尾崎家の仕事をほとんど前進させない某大学院生もいる。わたしは、最近、真剣に悩んでいる。いったいどうしたら、ああいうタイプの学生の生産性を高めることができるのか。叱っても、無視しても、発表中に退席しても、「単位を出さない」と言っても、効果がない。翌日には元のペースに戻っている。それで、また同じ説教をしなければならない。あとで、そういう自分が猛烈にいやになって自己嫌悪に陥り、夜は眠りが悪くなる。ところが、当の本人は一日8時間睡眠のペースを崩さない。飯もよく食らう。
大学院の博士課程だったころ、指導教官からもの凄く怒鳴られて、3日間お粥しか食べられなくなったことがある。すでに結婚していて、小さな子どももいた。ほんとうに、家内の作るお粥以外食べれなくなった。そういうことはないのだろうか、と思うのだが、食欲はいたって旺盛なのである、かれは・・・
あぁ、こういうことを書いている自分がまた厭になってきた。
↑軒付を待つ屋根 ↓建築は「隅」だ、「隅の納まり」だ!
話をポジティブな方向に戻そう。
O君の卒業論文は、なんと200ページの大作になるようで、この編集は大変な作業だ。だから、
加藤家ホームページのブログ
「倭文日誌」のほうは、そろそろだれかに受け継いでもらわなければならない。ということで、白羽の矢がたったのは、かのMr.エアポートである。まだ、2年生だが、適任者はだれかと言えば、この人しかいないであろう。昨夜、かれは彼女をつれて、わたしの研究室にあらわれ、さっそく受け継ぎについてミーティングした。そして、今日は居住者O君ともメールでやりとりし、明日、加藤家の現場で受け継ぎをおこなうとのこと。指示を出してからの展開が、じつにスピーディだ。
こうでなければいけないんだよ。
↑↓妻飾りの裏と表。ここに窓をつける。外側には格子を嵌めることになりそう・・・
- 2007/02/09(金) 23:00:46|
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また今年も
卒業研究公聴会のスケジュールをお知らせする季節となりました。今年度の公聴会は2月13・14日の両日開催されますが、うちの研究室は
バレンタイン・イヴの13日に割り当てられています。論文が3本、設計制作が3作、あわせて6名が発表します。論文と設計制作で発表時間と会場が異なりますので、ご注意ください。
中間発表会以後、6名の卒業研究がどのように展開していったのか、指導者として楽しみでもあり、不安でもあります。なお、翌14日、すなわちバレンタインが成績提出の〆切日。公聴会の出来が大きく評点を左右しそうですよ。不安な学生は、ちゃんとチョコレート用意しておきなさい。
卒業論文 第14講義室 09:00-09:20 1022024 北野 紗恵
・尾崎家住宅の建造物と屋敷景観の復原 -湯梨浜町宇野の古民家調査
09:20-09:40 1032015 大城 智章
・ローコストによる文化財古民家の修復 -登録文化財加藤家住宅での実体験
を通して
09:40-10:00 1032067 森川 佳央里
・倉吉本町通アーケード商店街の町並み調査と再生計画
卒業制作 学生センター6212室13:00-13:20 1022057 西山 宜英
・動く水屋 -神戸市M家所蔵茶器の分類整理と置水屋の設計制作
13:20-13:40 1032069 安田 典史
・
Re-Cover 地域産材を活用した屋根とロフトの設計 -茅葺き風「鉄板被覆
屋根」の開発
13:40-14:00 1032074 吉村 明子
・ふるきかぜ あたらしきかぜ -倉吉本町通商店街<看板建築>の復原と修景
また、
卒業研究の展示会は2月28日~3月3日に開催されます。本日、DMが刷り上がってきましたので、下に掲載いたします。会場はいつものとおり県民文化会館のフリースペースです。ぜひともご来場ください。
↓2月3日「民家に学ぶ」講演の記事。ちょっとニュアンスが違うんだな。わたしは「文化」を学べば「環境」が見通せると言っているのであって、「民家」を学べば「風土」や「文化」がみえると言っているのではない。後者だとすれば、あたりまえすぎるではないか・・・(画像をクリックすると拡大します)
- 2007/02/08(木) 00:15:44|
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一夜あけた2月5日(月)、再び妻木晩田事務所の体験学習室に足を運んだ。鳥取県が主催する2006年度
「課題対応スキル向上事業」として、「考古遺跡発掘調査担当職員に対する古建築講座」のためである。事前情報では、28名もの文化財主事(考古学)が参加申し入れくださったとのことで、まことにありがたいと思いつつ、模型制作にはひろいスペースが必要だから、会場にみんな入り切れるのだろうか、と心配していた(当日、欠席と早退が4名あった)。
すでに広報したとおり、講座の研修目的は、「遺跡から出土する建築部材や焼失住居等の調査に必要な建築学的知識を習得し、研究成果を高めるための能力を養うこと」である。今回は、鳥取の発掘調査現場で毎年出土する「焼失竪穴住居跡」の理解を深めるために、その遺構の出土状況から、住居の上部構造を1/20模型として復元することにした。講座では、まずわたしが「土屋根住居とは何か」という短いレクチュアをして、竪穴住居構造復元の基礎を参加者に伝えた。福島市の宮畑遺跡でおこなわれた焼失住居跡シンポジウムのパワーポイントに、
利蔵が復元した富山市打出遺跡のデータを付け足した「手抜き」の資料で、主催者や講演者には大変申し訳ないと思っている。ただ、大切なことは、講演を早く切り上げることだと割り切っていた。模型制作をできるだけ早くスタートさせないと、閉講時間までに模型が完成しない。予定では、午後から模型制作の段取りとなっていたのだが、11時20分ころから地形復元模型の制作が始まった。
地形復元では4班(妻木晩田グループ)が圧倒的に手際よく、他の班をリードしていた。ところがところが、そこからなかなかおもしろい展開になって行ったのです。作業は午後3時半で終了。その後、各班の代表者から遺構と復元について説明していただき、わたしが講評をおこなった。以下、班ごとに成果を報告しておきましょう。
1班 妻木晩田遺跡妻木山SI161 弥生後期 河合 加藤 祝原 (坂本 高橋浩)
遺構図をみて1/40スケールではないか、と思うほどの小型住居。地形も平坦で、要するに、労働量がそんなに大きくないから、制作をつねにリードした。長方形平面の2本主柱で、遺構をみて「両面切妻」のタイプだと直感したが、一方の妻側に放射状の部材が残っており、そちら側の棟持柱も壁面からやや離れていることから、一方のみ寄棟構造とした。片方が切妻、他方が寄棟のカマクラ型である。これで妥当な理解だと思う。この焼失住居では、サス、モヤ、板垂木、焼土がみつかっており、板垂木の中には幅40㎝程度のものまで含まれている。
2班 南谷大山遺跡BSI01 弥生終末期 岸本 家塚 大野 原田 鳥羽
わたしが1992年に指導した懐かしい焼失住居跡。焼失竪穴住居の研究の始めるきっかけになった遺構である。遺構は隅丸方形の4本主柱。その4本主柱が壁から離れて中央に寄っている。炭化材は主柱より外側に多く残っており、垂木は板材と棒材を併用している。このグループはまず弥生人の人形(ひとがた)を作った。弥生人の身長を150㎝?とみて、その手をあげたポイントを桁の位置とみたのである。あとでも述べるが、主柱が内寄りにある場合、柱をやや高めにしないと必要な屋根勾配を確保できない。地形との関係、および炭化材の分布から平入と判断している。良くできていると思う。
3班 下味野童子山遺跡SI-01 弥生中期中葉 谷口 坂田 濱 西河 石田
美女と野獣の軍団。それはどうでもよいのだが、遺構に驚いた。中央に土壙をもち、その両側に2本柱をもつ円形平面。いわゆる「松菊里型住居」である。県西部では、これまでも「松菊里型住居」がみつかっていたが、県東部の事例は知られていなかった。しかも、焼けて炭化部材と焼土を残す「松菊里型住居」であり、全国的にみても珍しい、というか唯一の例かもしれない。このほか、竪穴内部に大量の土器を残し、外側では周堤溝まで検出されており、「松菊里型住居」に関する情報量の多さでは群を抜いている遺構であろう。
同じ2本主柱でも、1班のそれとは違って、平面は円形を呈している。これは難しいだろうと思って、わたしが構造についてアドバイスした。
アイヌのケツンニ(三脚構造)を採用することにしたのである。ケツンニは狩猟採集民の
円錐形テント構造に起源すると言われており、縄文早期の竪穴住居にみられる3本主柱はこの3脚を支えるものとみて間違いない。アイヌの住居チセでは、梁・桁上の両側にケツンニを立ち上げ、その頂点に棟木をわたして小屋組を作る。「松菊里型住居」でも2本柱の直上もしくは近隣に三脚構造を立ち上げ棟木をわたせば楕円形に近い円形平面を覆う屋根構造ができあがる。
「松菊里型住居」は渡来系の環濠集落や水田稲作農耕との相関性が強く、「新しいタイプの草葺き住居」というイメージを抱いていたが、少なくとも鳥取県東部の場合、土に覆われていたことがあきらかになった。「松菊里型住居」は九州北部に伝来した当初から土被覆のものがあったのか、鳥取方面に伝播してきた後に土被覆に変容したのか、非常に興味をそそる問題である。
追記: 今回はケツンニを2本使って棟をつないだが、平面はほぼ完全な円形を呈しており、2本使うべきかどうかについて考え直していた。おそらく、ケツニンは1つでその頂点は円形平面の中心に位置する。その頂点から竪穴の全周をめぐるように垂木が配列する。これは円錐形テントの構造と同じである。2本の棟持柱は煙出(越屋根)の棟木をうけるために配置されたもので、棟木は円錐構造の頂点と2本の柱で支持されていたのではないか。こういう構造は草屋根には適しているが、土を被せていたとしたら垂木が撓んできたであろう。いちど模型をつくりなおしてみるほかなさそうだ。(2月10日記)4班 妻木晩田遺跡妻木山4区SI150 弥生後期後葉 松井 馬路 牧本 野口 (岡野)
妻木晩田整備で基本設計を進めている遺構。前日、業者としてピエールが模型をもってきたが、悩みが多く、復元について相当なぶれがみられた。まず重要な点は、この住居跡が傾斜面に立地し、上方側にテラス遺構をもつこと。この手の住居を復元するときのポイントは、テラス状遺構とレベルをあわせて、周堤を下方側にめぐらせること。そして、テラス状遺構の内側にサスを納めることである。このグループは4本の主柱をかけ、長軸側で中間のサスを納めるところまでは出来たのだが、妻側で作業が中座してしまった。中間のサスがどうしても、テラスの内側に納まらなくなってしまったのである。この原因については、5班との対比から説明したので、次項を参照。
5班 笠見第3遺跡SI40 弥生後期後葉 恩田 浜本 大川 浅田 前田 柚垣
4班とよく似た遺構で、斜面に立地しテラス状遺構をともなう。隅丸方形の4本主柱である点は3・4・5班で共通しているが、3班は主柱が内寄りにあり、4・5班はそれが壁際にある。一定の屋根勾配を確保しようとする場合、前者では柱を高めに、後者では柱を低めに設定する必要がある。5班は最初、柱高を200㎝としていたが、構造が大きくなりすぎてサスがテラス内に納まらなかった。その後、わたしの指示により、柱高を160㎝まで切り縮めて組み直したところ、サスはテラスの内側にぴたりと納まった。この状態での屋根勾配は8/10である。構造をまとめ切れなかった4班に問うたところ、柱高は180㎝、屋根勾配は9/10だという。結論を述べるならば、4班は思い切って柱を切り縮め、勾配を緩くして構造を組み直すべきであった。そうすれば、5班のように遺構にあう小屋組を作ることができたであろう。4班の失敗と5班の成功は、わたしにとっても非常に良い教訓となった。模型は何度も作り直さなければならない。駄目だと思ったら、ただちに解体して寸法と勾配を再検討すべきなんだな。何度も作りなおすことによって、整合性のある模型ができあがる。そうすることによって、ようやく基本設計図に着手できる、ということだ。
このワークショップ、大変楽しく指導させていただいた。わたし個人は、少々「焼失竪穴住居跡」の研究に飽きてきているところもあるのだが、こうして大勢の技師さんを指導することによって、また新しい発見があり、興味が湧いてきた。このような機会を与えてくださった県教委文化課に深く御礼申し上げたい。
ただ、ひとつ残念だったことがある。ピエールとホカノを参加させるべきだった。前夜まで二人は米子にいたのに、気楽に帰してしまったのは大失敗だった。技師さんたちと一緒に模型を作って、竪穴住居復元の基礎を再確認させるべきだった。そうしておけば、妻木晩田復元事業の前進にもつながったと思い、悔やんでいる。
↑研修後の記念撮影(クリックすると画像が大きくなります)
- 2007/02/07(水) 13:27:46|
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田和山から妻木晩田に移動した。2月4日の午後2時、わたしは妻木晩田の体験学習室に入室した。ほったらかしにしていた指導を再開する決心を、ついに固めたのである。そこでピエールと再会した。タクオ、宮本、ホカノ、ピエールの4人がそろい、ピエールは業者側としてもちろん協議に参加するが、ホカノも残ることになった。タクオと宮本は美保神社をめざした。
事態は深刻だった。ピエールは復元建物に苦しんでいた。わたしはピエールをもっと早い段階から指導しなければならなかった。やはり基本の理解が不十分だ。ちょっとしたコツを教えれば、いくつもの矛盾を解消できるのだが、初心者にはそのコツがわからない。昨年、
利蔵を一年がかりで育てあげた。焼失竪穴住居跡の復元手法をたたき込むのに一年を要したのである。その利蔵はディーラーに就職した。じつは、昨年の3月、県教委に対して、利蔵を嘱託のような立場で雇えないか、打診した経緯がある。もしも利蔵が妻木晩田事務所にいたならば、県教委はこれほど復元建物に苦しむことはなかったであろう。あのころピエールは池田家墓所の玉垣構造補強の研究に没頭していた。それはみごとな研究であった。しかし、ピエールには竪穴住居復元のイロハを教えていない。
竪穴住居の復元は難しい。わたしのやっていることがだれにでも出来ると思ったら大間違い。竪穴住居復元には訓練と経験が必要だ。あと2ヶ月でピエールが5棟の模型と設計図を完成させることができるのかどうか、心配でならない。
それでも復元建物はまだましだった。覆屋と中央ガイダンスの設計案は救いがたい(ピエールの担当ではない)。「建築以前」のレベルだと言ったら言い過ぎかもしれないが、「県の青少年建築コンペで設計案を競いあわせるほうがまだましだよ・・・」ともコメントした。冗談ではなく、本気でそう思った。わたしは、昨年の検討会で、史跡範囲上に建てる現代建築の設計方針として、
・エコロジー/ランドスケープ/地域産材
という3つのキーワードを設定することを提唱した。事務所側は、この3つの目標をクリアするよう業者に要求しているらしい。しかし、事務所に届いた設計図は、その思想からあまりにもかけ離れている。史跡上に建築を建てることの恐ろしさが微塵もわかっていない。
妻木晩田はなぜこれほどまで苦境に追い込まれたのか。いったい何が悪いのか。他人を悪者にせず、冷静に考えるしかない。関係者全体で乗り越えていかなければならない。
夜は「庄屋」で「ナマズを囲む会」。「吉田を囲む会」のはずだったが、主役の吉田は「用事がある」とのことで遅刻してやってきた。吉田があらわれた時には、すでに「ナマズの活きづくり」はテーブルから消えていた。参加者は結局、吉田のほか、ピエール、宮本、ホカノ、タクオとわたし。さらに県教委から2名が加わった。計8名。賑やかな会になった。
1・2期生は、みんな職場のことで悩んでいる。そりゃ学生と社会人とのギャップは途方もなく大きい。最初の1~2年は苦しむだろう。給料も安いだろう。ところが、そんななかで、お菓子屋さんに就職した吉田の月給が最も高く、ボーナスもちゃんとあり、おまけに彼女まで出来ていることが判明して、一同驚愕! 大学の3~4年次を思い起こすと、どうひっくり返っても、同級生の宮本やピエールに及ばなかった男が今はいちばん余裕の表情をしている。どうやら「用事」というのも「彼女としっぽり」だったみたい!?
ともかく吉田の表情は明るかった。こちらに突っ込みまでいれてきた。
「あの、茶室のパンフレットはどうなったんですか?」
「(しばし息を詰まらせ)・・・あのな、もう茶室どころじゃないんだわ・・・加藤家の修復プロジェクトで大変なんだから・・・」
とは弁解したが、じつはわたし自身、あのパンフのことが気になっている。コルビジェの
『小さな家』のようなしゃれた本にする予定で原稿を書き進め
ブログに連載していたのだが、途中で頓挫したまま。なんとも情けない。
吉田に宿題を突きつけられた夜であった。
- 2007/02/06(火) 00:20:49|
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昨年の
10月16日以来、およそ4ヶ月ぶりに田和山を訪れた。大型竪穴住居の竣工検査である。
11月10日の事件のために、途中から現場指導ができなくなっていた大型円形住居の完成した姿を、昨日(2月4日)はじめてみた。これまで送信されてきた写真をみる限り、越屋根がやや大きく感じられて心配だったのだが、やはり少し大きいと思った。前にも書いたかもしれないが、1/10模型を作り、原寸で骨組を組み上げて、ちょうど良いバランスだと判断していたのだが、茅を被せると越屋根が膨れてみえるから不思議だ。このプロポーションの責任はわたしにある。だから、もちろん修正など要求できるわけはない。唯一気になったのは、突き上げ窓と突き上げ戸のディテールである。板を2~3枚横繋ぎにしているのだが、その繋ぎ方がよくない。板の端にたくさん孔をあけて丸太の横桟で繋いでいる。孔に縄を通して左右の板を繋ぐ手法は、たしかに青谷上寺地で確認されているが、はっきり言って孔が多すぎるのである。
これには悩んだ。さんざん悩んだあげくでた答えは
「蟻桟」である。田和山の大型竪穴住居は弥生中期、青谷上寺地の蟻桟の板も弥生中期であり、田和山は青谷に倣うのが最善の選択であろうと思うに至ったのである。蟻桟の寸法等のデータなら、ネット上の
青谷上寺地建築部材データベースですぐに引き出せる。鳥取には悪いけれど、島根で日本初の蟻桟の杉板扉を復元しよう。否、青谷のデータベースをネット上で公開したのは、こういうふうに、全国の整備事業で青谷のデータを自在に活用していただくことを目指してのことなのだから、田和山が青谷のデータを活用するのはきわめて意義深いことである。全国で初めて復元整備事業に青谷上寺地建築部材データベースを活用した例として、田和山は歴史に名を刻むことになるであろう。
山頂にあがって、2棟の復元建物を含む景観をしばらくじっと眺めていた。昨年は、景観の大きな変化に驚きを隠せなかった。掘立柱建物が1棟建つだけで、宍道湖畔の茫洋としていた景観がぐっと引き締まったからである。さて、今回はどうなのだろう。昨年ほどの景観の変化を強く感じるわけではない。掘立柱建物の横に大型の竪穴住居を建てたことが良かったのか悪かったのか。心配になったので、建築デザインの途を歩む宮本に訊いてみた。
「竪穴住居建てて、よかったのかな? それとも建てないないほうがよかったのだろうか?」
宮本はしばらく考えてから、
「・・・建てて良かったんじゃないですか。」
と答えた。復元建物は、建物そのものの出来映えだけが重要なのではない。遺跡の中にある添景として、どれだけ史跡公園の景観の質を向上させているのか。わたしは、そちらのほうがむしろ重要だと思っている。昨年の眺望景観と見比べてみると、やはり建てたことは間違いではなかったようにも思うのだが、読者諸兄には、
昨年3月3日のブログに掲載した眺望写真とみくらべて自ら評価していただきたい。
3年前に竣工した土屋根の竪穴住居は、酸性の強い赤土で覆われたせいか、草がなかなか繁茂しなかったが、ようやくイネ科の植物が越屋根まで埴えひろがってきた。ただし、段々畑のような植栽で、アイヌの段葺きに似ているからおもしろい。竪穴住居の形態は、昨年竣工した茅葺きの大型円形住居よりも土屋根住居のほうが上だと思う。ボランティアの方がたが週に3回燻蒸してくださることで、内部の部材も黒光りし始めている。屋根の防水シートや周堤下の防水壁も確実に効果を発揮している。
田和山の整備に関わって5年がすぎた。わたしの仕事は終わった。嬉しくもあり、淋しくもある。いつか
患者を田和山に連れていきたい。あの急傾斜の階段をトボトボあがるんだ。杖をつきながら、少しずつ少しずつ頂上をめざす。そして、山頂から復元建物と宍道湖畔の景観をぐるっと眺める。右目の視力を半分失った彼女はどんな感想をわたしに漏らすだろうか。
「あなたは良い仕事をしたわね」
と言ってくれるだろうか。
[田和山 竣工検査]の続きを読む
- 2007/02/05(月) 22:35:28|
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10:30開演は早すぎると思う。土曜日の午前10:30に催し物をおこなうというのは、「来てくださらなくて結構です」と言っているようなものだ。
文化財の分野に限ってみても、講演だとか現地説明会は、基本的に13:00か13:30スタートにするのが常識である。昼ご飯を食べてひと休憩し、行事に参加していただくという時間設定である。
10:30スタートの場合、まず休日であるにも拘わらず、早起きしなければならない。だれしものんびりしたい土曜日の朝。それが、また今日も早起きだ。つきあっていられない。おまけに2日前から鳥取は大雪。今朝は晴れていたが、雪はまだたっぷり残っている。道路は雪かきしてあるから、まだ動きやすいけれども、駐車場は残雪の山。おまけに、どういうわけか朝から車は満杯で、駐車スペースに車を納めるのにひと苦労した。そして、降り積もった雪をブーツで踏みしめながら、重いカバンをもって会場(県立図書館大研修室)にたどり着いたら、10:10になっていた。予定では10:00集合としていたのだが、雪のため、わたしは10分遅刻。学生たちは20分近く遅刻してしまった。
大学側の関係者でさえ、こうなのだから、来聴者のほうはさらに遅れ気味で、10:30になっても会場は半分ぐらいしか席が埋まっていなかった。ここは事務方と協議し、開始を5分だけ遅らせることした。その5分のあいだに、続々と来聴者が増えていった。講演がはじまっても、来聴者は増え続けた。最終的には、記帳者が47名。学生たちが数えたところ、来客の総計は55名であったという。用意する資料は「多めにみつもって40部」と研究交流センターより指示されていたので、かなりの方に資料をお渡しできなかったことになる。
昨日の講演は「2006年度鳥取環境大学公開講座」の第8回。講演のタイトルと内容は、以下のとおりである。
民家に学ぶ -「環境」と「文化」の一側面- 1.
「環境」と「文化」 2.古民家をめぐる調査と研究
・神護古民家群の保存運動
・保木本家住宅(八頭町)の調査と再生計画
・河本家住宅(琴浦町)の調査研究
・尾崎家住宅(湯梨浜町)の建造物と屋敷景観の復原
3.ローコストによる古民家修復
・民家に住む
・加藤家住宅(鳥取市倭文)の実験
このうち1と2を浅川、3を加藤家居住者の0君が分担して講演した。11:50に講演が終了し、活発な質疑応答が交わされた。挙手して質問された来聴者は10名近くに達した。講演側にとっては嬉しい悲鳴であった。司会者からは、「これまでで最も来聴者が多く、最も活発な講演会でした」との評価を頂戴した。もしも、この講演会が午後1時半スタートであったならば、もっと多くの・・・いや、これ以上のコメントは差し控えよう。
来聴者のなかには、県市の重要部局の長クラスも顔を揃えられており、これには驚かされた。県立博物館長、県教委文化課長、倉吉市教委文化課長のみなさまで、一部の質問については、調子にのって県の課長にお答えいただいた。この場を借りてお礼申し上げます。
手前味噌になるけれども、今回の講演は大成功だったとわたしは思っている。前回、
米子ですべってしまっただけに、とりあえず安堵した。
↑↓一般来聴者からの質問に対して、来場している関係者にも答えていただいた。
午後から、来場していたタクオと大学院生の3人で松江に向かった。途中、久しぶりに琴浦町の河本家住宅に立ち寄った。タクオが年始の挨拶をしていないので、どうしても寄っておきたいというのである。律儀な男だ。
河本家では、最近発見された嘉永の家相図が県史編纂室から戻っていて、ゲンカンの畳間にひろげてみせていただいた。この絵図については、いずれじっくり分析することになるだろう。ともかく大きくて精緻な絵図である。絵図鑑賞後は、茶の間でご夫婦と談笑した。話題はもっぱら大学院生の件である。
「えっ、先生が経費出すって言ってるのに、ベトナム行きたくないの? どうしてぇ、行ってきんさいな。そりゃ、行かんといけんわ!」
「・・・・・」
というような具合で話が弾み、気がついたら夜の7時をまわっていた。
松江についたら、8時すぎ。ホテルに車を停めて、東本町にくりだした。東本町には馴染みの蕎麦屋があり、そこで蕎麦焼酎とわりごを楽しみながら、宮本の合流をまった。宮本合流後、4人で「木星」へ。じつは、「
木星」は伊勢宮から東本町に引っ越していたのである。ここで、ついさきほどまでカラオケ三昧の時間を過ごしていた。もちろんサカナは「大学院生の問題」なのだが、途中、最近彼氏と別れたという2期生にメールを入れて、みんなで事情聴取した。もう一人、の2期生にもメールをいれたのだが、こちらは返事なし。タクオは動揺を隠せなかった・・・
あぁ、疲れた。もう寝ます。
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- 2007/02/04(日) 03:28:04|
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鳥取は大雪の節分を迎えた。一昨日の夜から雪はこんこんと降り続けている。ようやく
『雪の夜』がやってきた。いつもの鳥取の冬である。
昨日は雪道をおたおたと運転し、久しぶりに加藤家に行ってきたのだが、だれもいなかった。大雪のせいで、大工さんたちも今日は倉吉からの移動を控えたようだ。ひとりロフトに上がり、妻側の仕上がりを確認して帰ってきた。
で、大学前のジャスコに寄って、節分のお豆さんと柊を買って研究室に戻った。あとは、ごらんのとおりです。
4410演習室には3・4年生女子が集まっていたので、次つぎに
鬼のお面をつけてもらい、「鬼はぁ、外」とわめきながら豆を3粒ほど投げつけて、一人ずつ記念写真を撮った。みんなキャァキャァ厭がっているわりには、結局、すっぽり写真におさまってくれる。
「いやよ、いやよも、好きのうち・・・」
なんちゃって。
卒業旅行でイタリアに行くモリさんは、このお面を気にいってしまったらしく、鬼面をつけてフィレンツェの街を闊歩したいとか、したくないとか・・・??
男子学生とちがって、女子学生とは卒業後、再会する機会がほとんどなくなるから、節分鬼面の写真は貴重な想い出となるだろう。卒業アルバムは高すぎるので、買わない学生も少なくないと聞いています。これを卒アルの代わりと思ってくださいな。なんたって、タダですからね。
ところで、下の写真、だれがだれなのか、わかりますか?
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- 2007/02/03(土) 00:13:19|
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さきほど
後期の大学院授業を終えた。ユッカ・ヨキレット『建築遺産の保存 その歴史と現在』(アルヒーフ、2005)をなんとか読破した。本文444頁の大著を修士課程1年次の院生7名で輪読したわけだが、ほんとうに難解な著作で、院生諸君には大きな負担を強いてしまった。訳者の方も翻訳に大変な労力を注ぎ込まれたことがよくわかったが、それにしても、読みにくい本であった。
前にも述べたように、西洋建築史の専門家でないと分からない術語や固有名詞が頻出するだけでなく、もうひとつ「こなれた日本語」になっていない、という印象を全員がもったのも事実である。
それは、今日、最終章(第10章)の内容でもあきらかになった。431~432ページに平城宮跡のことがでてくるので、ここに転載しておきたい。
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奈良平城京の考古学的遺跡の場合、遺跡担当機関は、賢明に準備された長期にわたる発掘計画を作成した-この計画によれば、将来の世代は未だ手のつけられていない土地を研究のために「実査」することができるうえ、可能であればより進んだ技術を用いて検査と実態分析を行なうことができる。この遺跡では、公開を行なうために、いくつかの異なる方法が用いられている。例えば原初の断片は地下に残し、見学する人々には合成の鋳造物を見せることや、原初の構造を覆い屋の下で見せること、などがなされている。これと同時に、宮殿・住居・神社・門などいくつかの歴史的建造物を選び、それらを復元しているが、これは主に観光を目的としたものである-それはこのような建物のかつての様相を示し、比較的「平坦」なこの土地に、より多くの建物を配置するためである。このような復元を行なおうとする努力に関連していま一度問題となるのは、単体の建造物を正しく造るだけでなく、公開される遺跡全体のバランスを考慮し、歴史的インテグリティが保たれるよう配慮することであろう。
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いちいち訳語が気になってしまう。例えば「平城京」は「平城宮」、「実査」は「発掘調査」、「原初の断片」「原初の構造」は「当時の遺構」、「合成の鋳造物」は「復元建物」もしくは「遺構標示」と訳すべきであり、また、宮跡内に「神社」の復元建物は存在しない。正直いって、こういう日本語としての翻訳の問題は、訳者よりも監修者の責任に帰すべきものであろう。
文句ばっかり言ってはいけない。本書を読んで、まことに勉強になりました。本書を読みこなせないのは、わたし自身の不勉強のせいだということも重々承知しております。じつは、昨日未明、北海道考古学会からの依頼原稿を書き終えた。そのタイトルは「木造建築遺産の保存と復元 -日本の可能性-」でして、ヨキレットの著作からもたくさん引用させていただきました。謹んで感謝申し上げます。
- 2007/02/02(金) 00:05:17|
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というわけで、卒業研究の〆切日を迎えた。
1月末日24:00が〆切時刻である。今年、卒業研究に取り組んだ6名はいちおう全員成果物をもってきた。◎はなし、○は2名、△が3名、限りなく×に近い△が1名である。
このブログをご覧になっているご父兄が結構いらっしゃるので、ご心配でしょうから、ちょっと説明しておきましょうか。
◎: 受け取った。もう修正の必要なし。ご苦労さま!
○: 受け取った。けれど、もう少し修正してほしい。そうすれば、一段レベルアップした論文・作品に仕上がる。
△: 完成していないが、まぁ半分受け取ったことにしよう。大急ぎで残りを片づけなさい。
×: 受け取るに値しない・・・
というランク付けであります。
さて、昨日の事件に関わった学生に対しては事情聴取をおこなった。ほとんど一様に罪悪感がないのに驚いてしまう。3名の学生は卒業研究に苦しんでいる首謀者を助けようとした善意からおこなっただけという感覚で、制作グループに対する気遣いがほとんど感じられない。自分が作ったものでもなければ、首謀者が作ったものでもないのに、なぜかれらは他人の作品を勝手に持ち出して撮影し、それを破損しても自主的に修復しようとしないのか、なんど考えても理解に苦しむ。
関係者のなかで制作グループの2年生に会いに行き謝罪した学生は2名だけであり、そのうち1名はわたしが謝罪に行くように命じた学生である。そういう指示をしなければたぶん水屋を放置し、謝罪も挨拶もしなかったであろう。
どうしてこうなのだろう。日本の若者は狂ってしまったのだろうか。ただ、うちの男子学生だけがモラルを欠いているのか、若者全体の問題なのか、わたしにはよくわからない。
理解を超えている。
- 2007/02/01(木) 04:20:08|
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