9月24日、2008年度鳥取環境大学大学院修士課程の
中間報告発表会がありました。今年の進行は、午前に情報システム領域、午後1時台から社会環境学領域、2時台から環境デザイン領域でした。持ち時間は一人20分で、発表が15分、質疑に5分。環境デザイン領域の発表者は6名で、うち制作(設計)が3名、論文が3名です。
諸事情により、私が中間報告について発表するのは
去年に続き、2度目になります。今年は修士論文での申請で、題目は「水上集落と文化的景観 -世界自然遺産ハロン湾の地理情報分析から-」としました。構成は以下の通りです。
1. 研究の背景
2. 世界遺産と日本にみる「文化的景観」
3. 研究の目的
4. 調査の経過
5. ハロン湾の概要
6. 調査と2次元の図化
7. 3次元の図化と景観のシミュレーション
8. 今後の課題

発表の目玉として、ハロン湾水上集落の未来景観シミュレーションCG動画を流させていただきました。CG制作にあたっては奔走し続けて出来た代物ですので、披露できたことはうれしく思います。そして、「自然景観」と「文化的景観」の印象の違いを説明するため、
ハルさんの水墨画を使わせていただきました。去年の中間報告から今日までの成果をまとめたはずですが、うまく説明できていたのかが不安です。
最後に、発表前夜だというのに手直し漏れがあり、今年も迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありません。これから、データーをきっちり整理して修士論文の執筆を進めていきます。(ホカノ)
- 2008/09/29(月) 00:51:34|
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飛石連休の最終日(23日)、子どもたちは家にいなかった。夕食はお好み焼き。鉄板の隙間を利用して、ピーマンとイカダ(白葱)も焼いた。そう言えば、
デブのためにゲソも焼いてやった。そうこうしているうちに、バレーボールの練習を終えた娘が帰ってきた。「そのネギ食べたい」と言って、イカダとお好み焼きにむしゃぶりつく。
報道ステーションが始まるころ、電話が鳴った。兄嫁からだった。母がまた倒れた、という。兄は中国に出張している。動かない母を救急車で病院に連れていくが、父を観るものがいない、と言ってうろたえ困り果てていた。わたしたちはただちに家をでた。バイト先まで行って息子を連れ出し、一家四人で一路西行。運転手は娘。深夜0時、兄の家に着いた。父はひとりソファに坐っている。母のことが心配で、眠れないようだ。家内と娘を父の世話役に残し、こんどはわたしが運転して息子とともに10キロばかり離れた病院へ向かう。病院に着くと、兄嫁と1階でばったり。母は熟睡していた。安定剤(軽い睡眠薬)を飲み過ぎてしまったらしい。MRIの結果は、「やや白い影が脳の外側にみえる」とのことだが、おそらく以前確認された脳梗塞の映像だろう。
いったん兄の家に戻り、しばらく話をして、奈良への帰途についた。車中、「一眠りしたあと、中国縦貫道をとんぼ返りで鳥取に向かわなければいけない。大学が始まるから。途中、もちろん、おばあちゃんを見舞う」なんて話をしていたら、助手席で眠そうにしている息子が囁いた。
「初任給が入ったから、ごちそうしたいんやけど・・・」
初任給とは、バイトの初任給である。息子は大学最初の夏休みに居酒屋でバイトし、その給料をもらって、よほど嬉しかったのだろう。家族みんなに昼食をごちそうしたい、と提案し、家族を驚かせた。
翌日の昼、4人で「
ペパーミント」に行った。全員が日替わりランチを注文。楽しい昼食会で、親として嬉しくないはずはなく、このことは必ずブログに書こう、と決めた。
この日は、わたし一人が西に向かった。夕方、病院に着いた。主治医にお話を伺いたいと願いでたのだが、アポをとっているわけではなく、面談することは叶わなかった。担当の看護師さんから、少しだけ事情をうかがった。
母は熟睡していた。わたしは売店で買い物をしたり、車にパソコンを取りにいったりして時間を潰した。病室に戻ると、母は看護師さんとリハビリをしている。手に力が入っていない。母は、わたしが側にいることを知らない。しばらくして、声をかけた。
彼女は覚醒し、わたしを視野に納めた。二人になって、母はぼつぼつ話を始めた。彼女が何を話したのかはもちろん言えないが、その話は初任給ランチの喜びを打ち消すほどの衝撃をわたしに与えた。戸倉峠はいつにも増して暗かった。
- 2008/09/28(日) 00:43:03|
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奈良ファミリーの6階におじさんたちが5人も集まりましてね。なにするんかって? 飲むんですよ・・・正直、わたしゃ飲みたくなんかありません。原稿たまってるし、家族ともすごしたい。・・・あぁぁ、でもさ、お誘いを頂戴しましてね。あいかわらず、みんな人事のお話が大好きですが、まぁ、人事なんて自分の思い通りになるはずはない。
10回チャンスがあって、なんとか1回モノにできれば幸運ってところでしょうかね。だから、飲んで話したって、なんにも変わらないんだけど、おじさんたちは飲むのね。人事(と高嶺の華たち)をサカナにして・・・気がつけば7時間も消費してしまい、帰宅したらワイフが一人リビングで待っていた。ゴメン。

翌22日、連休谷間の月曜日にワイフと二人で平城宮に足を運んだ。第一次
大極殿「最後の公開」ってことでして、どうしようか悩んだのだが、結果として言えば、4年ぶりに復元工事をみた。工事そのものについてはひとまずおくとして、そもそも気に入らないのは、この復元建物を「第一次大極殿正殿」と呼んでいること。そんな建物、どこにも存在しないぞ。この建物は「第一次大極殿」であって、「第一次大極殿正殿」では決してない。どうしても「正殿」という言葉を使いたいなら、「第一次大極殿院正殿」と呼ぶべきだ。たいした違いはないだろう、と思っている人は素人でしてね。この建物を「第一次大極殿正殿」と命名した人物は素人であり、その素人の仕事に研究所のプロたちが口を挟まなかったことがよく分かる。

さてさて、イベント会場で、ついにセントクンをみましたよ。瓦の桶巻き作りを実演している大きなプレハブを歩いていると、セントクンがあらわれた。またたくまに人だかりができて写真をパチパチ撮るのだが、撮った瞬間、お客さんはその場を去ってしまう。だから、最初は後ろのほうにいたのだが、すぐに前まで出ていけた。で、最後にセントクンと一緒に記念撮影するコーナーになると、もうまわりにほとんど人はいない。パンダなら、こうはいかないだろう。もう少し、じろじろパンダの動きをみて、「カワイイ~」とかなんとか囁きながら、名残惜しく、その場を去っていくだろうにね。セントクンは、1枚写真撮ったらバイバ~イなんて、淋しいよな。
わたしは3枚撮ったからね・・・サンマイダ~
- 2008/09/27(土) 00:00:46|
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出雲から戻った翌日(19日)、土曜日だというのに、鳥取城に呼び出された。発掘調査現場を見て欲しいとのことで、ちゃんと見に行きましたよ。わたしは国史跡鳥取城跡の調査委員と評価委員をやってるので、まぁ調査の指導はします。今回の現場はミスもなく、結構ではないか、と思うのですが、現地説明会の当日だというのに、復元平面すら出来てないのは残念でしたね。なんでも、チャックが就職した某協会に任せてるんだそうです。でもさ、調査した考古学者が建物跡の平面ぐらい復元できなくてどうすんだって。近い将来、立体復元しようとしている門の事前調査をやって、その平面復元まで業者さんに任せるのは如何なものでしょうかね。なお、わたしは復元に関与しておりません。だってさ、門なんか復元する必要ない、と思ってるんだもの。復元した門が、実質上、鳥取西高の表門になるわけでしょ。まったく復元する必要なんかありませんよ。だから、わたしは何度整備委員を委嘱されても固辞するんです。

そして、わたしは南に向かった。秋晴れのよい天気で、佐治の実家を経由して兵庫にいる父母を訪ね、奈良に戻るのだ。彼岸になって、稲刈りが始まっている。そして、畦のあちこちに
彼岸花が咲き乱れていて、その風景にアレックス・デ・グラッシの『ウォーター・ガーデン』が響きあった。少し前、そうだな、あの
雑魚釣りの記事を書いたころはオータさんの『
ウクレレ・ボッサ』がぴったりだったけれども、東南アジアから帰って季節は遷ろいでしまった。『ウォーター・ガーデン』に続くのは、トミー・エマニュエルのライブCDなんだが、こちらは初秋の風景にマッチしない。以前書いたように、
トミー・エマニュエルというアコギストは技巧の面で世界最強間違いなしと思うのだけれども、音楽性の面でわたしの触覚を震わせるところが多くない。きっと、DVD向きのミュージシャンなのだろう。ライブに接すれば、もう少し好きになるかもしれない。
[アレックス・デ・グラッシの風景]の続きを読む
- 2008/09/26(金) 00:41:55|
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夏休みに入ったばかりのころだっただろうか、出雲の高校から出張講義の依頼があると入試広報課から連絡をうけた。出雲大社に係わる講演を出雲の高校から依頼されるのは、まことに名誉あることなので、もちろんふたつ返事で受諾した。ちなみに、わたしの演題は、以下のとおり。
「天空の神殿 -出雲あるいは杵築の大社-」
正直なところ、気楽に構えていた。2年次の必修授業「建築と都市の歴史」の1コマ分をやや圧縮して、できるだけ分かりやすく話せばいいだろう、それで事足りるはずだ、と。どうやらムードがちがうと感じ始めたのは東南アジアから帰国した後で、講演は数日後に迫っている。
今回のイベントは高等学校が主催する大学講義の見本市というか、オリンピックのような催しであった。20以上の大学から49名の大学教員が招かれて講義をするのですよ。まぁ、次のリストをごらんください。招聘された大学と教員の数(カッコ内の数字)です。
9月17日(水): 11大学11名 岡山(1)・九州工業(1)・島根県立(1)・国際医療福祉(1)・法政(1)・早稲田(1)・近畿(1)・
岡山理科(1)・美作(1)・比治山(1)・広島国際(1)
9月18日(木): 12大学21名 北海道(1)・鳥取(1)・岡山(5)・広島(6)・島根県立(1)・専修(1)・京都女子(1)・
京都ノートルダム女子(1)・岡山商科(1)・広島経済(1)・徳山(1)・松山東雲女子(1)
9月19日(木): 5大学17名 岐阜(1)・島根(12)・岡山(1)・島根県立(2)・鳥取環境(1)
19日午後3時40分、17名の講師がいっせいに80分の講義を始めた。さらに質疑応答20分。さらにさらに、生徒諸君(1・2年生)には感想レポートが課された。こんなことなら、もっと周到に準備しておくのでした。ほかの大学の先生方よりも、魅力的で分かりやすく、進学の道筋を誘導するような講義。それはそれは難しいけれども、それぐらいの意気込みで臨むべき出張講義であったと今は深くふかく反省しております。

ちょっとした奇遇がありましてね。前日(18日)の午後、平田高校訪問の直前に某埋蔵文化財センターをひやかしたんです。そこで、二人の若い神主さんにおめにかかりましたよ。驚いたことに、二人ともわたしが講演する高校のOBだって言うから、さっそく二人の写真を撮影し、パワーポイントに流し込んで、その見出しに「■■高校OBの地元考古学者」と入れたんです。でも、講義ではさっぱり受けなかったな。最初から最後までシ~ンとしていて、二人の画像をみせても、なんにも反応がない。いや、結構つらい講義でしたね。静かに聞いてくれてはいるけれども、ほとんどリアクションがなくてね。だもんで、質疑応答の時間には、出席した生徒さん全員にひと言ずつコメントしていただきました。ところが、結構、スルドイ質問が連発されましてね。してみれば、あんまり興味がなかったわけでもなく、じつは静かに細々(こまごま)と鑑定されていたのかもしれない、という恐怖心が湧いてきたりして、やっぱり準備不足が否めなかったな・・・猛省が必要です。
[高等学校出張講義 -天空の神殿-]の続きを読む
- 2008/09/25(木) 00:55:19|
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17日ぶりに鳥取に帰ってきて入試面接を終えてから、まぁ忙しいのなんの。なにより学生の指導がたまっていて、例の
コンペやら、
修士研究中間報告の指導やら、まだ刊行していない
報告書の校正(とんでもないミスを発見!)やらあり、お客さまもあれば留守電にも追われ、水曜日(17日)は会議日でへなへなでした。それにね、わたしは
ハロン・プラザ・ホテルでの2日間をのぞいてギターをずっと弾いていなかったから、その反動の津波が押し寄せてきてしまい、またしても連夜の睡眠不足。
で、会議を終えたその足で松江にやってきました。半年ぶりです。今回はいつも使う1泊2食付きのUホテルではありません。TO横インにしたんです。なぜかというと、まず前提として全室ネットが完備されていること。そして、宿泊客へのレンタカーサービスが安いんです。カーナビ付きのデミオが24時間で5,200円。先月末、
沙流川流域の文化的景観を視察するにあたってレンタカーを使い、カーナビの便利さに舌をまいたわたしは今回もまたレンタカーを使うことに決めました。出雲入りの目的の一つは高校訪問でして、高校名か電話番号を入力すれば、自動的にそこにたどりつけるんだから、こんなにありがたいものはないでしょ。
これまでは公務にも自家用車を使いがちでしたが、やっぱりよくないね。減価償却とガソリンの問題が一気にクリアされ、レンタカーには保険も総合的に完備されている。おまけに、カーナビまでついてるんだから。それに、千歳で借りたヴィッツが8時間で8400円だったことを思い起こすと、デミオの24時間5200円は、だれがどうみてもお得ですよね。

それはさておき、わたくし、またしても「
ギターを抱いた渡り鳥」状態なんです。ともかく17日間もギターを弾けなかったことの後遺症は深刻でして、出張中また弾けないとなれば禁断症状がでるのは必至だから、恥も外聞もなくもってきちゃいました。ともかく弾きたい曲がいっぱいありましてね、この2日間で一曲アレンジを終わらせましたよ。でね、ここは松江だからね、
ちょいとそこまで出かけないわけにもいかない。ぐふふ・・・
えっ、原稿、どうしたかって。上のような状況だから、まだまったく書いてませんよ。でも、こうしてパソコン持ち歩いてるでしょ。昨夜、「弥生」に関するデータ、全部詰め込んできましたよ。書けばいいんでしょ、書けば・・・ブログに連載するしかありませんね。まもなく始まりますから、「居住の技術」という連載がね・・・おそらく。
- 2008/09/23(火) 00:06:08|
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高松 栗林公園 栗林公園は香川県高松市にある日本庭園で、1953年に国の特別名勝に指定されました。この公園は、1625年ごろ、当時の讃岐領主生駒高俊公が紫雲山を背景に南湖一帯を造園し、さらに1642年に入封した高松藩主松平頼重公(水戸光圀公の兄)に引き継がれました。以来100年余りの間、歴代藩主が修築を重ねて1745年に完成し、明治維新に至るまで松平家11代228年間にわたり、下屋敷として使用されました。公園の西側にある紫雲山を借景として、南庭と北庭にわかれ、6つの池と13の丘があります。南庭は江戸時代初期の回遊式大名庭園で、北庭は明治末から大正初期にかけて近代的に整備改修した庭園です。
早速入ってみると、インフォメーションのおばちゃんが見どころを教えてくれました。一つは南庭にある南湖に面する掬月亭からの眺め。しかし、入場料+抹茶代で中に入れたのですが、ちょっとお値段が高かったのでこっちの眺めはあきらめました。もう一つの見どころは、同じ南湖に面する飛来峰からの眺め。掬月亭の正反対に位置して、小高い丘なので一番眺めがいいところです。こっちを目指して、園内をくるっと回ってみることにしました。

パンフレットには推奨道順が描いてありましたが、人が多かったため最初から道順を外れてわが道をいきました。巨大な蓮の葉っぱを見つけたり、赤壁という赤い岩肌が露出したところがあったり、南湖の南側にある楓岸沿いの小道を歩いたり。思うままに歩き回っていろんな風景を楽しみました。目に入ってくる風景の全てが異なっていて、南湖のいろんな角度から見える掬月亭もいろんな表情を持っていました。そして、目的にしていた飛来峰に到着。
飛来峰は確かに高い築山になっていて、登るのがちょっとしんどかったです。でも、登りきって見た景色は見どころというにふさわしいと思いました。手前に南湖にかかる偃月橋、南湖の反対側の岸に掬月亭。その奥には紫雲山があり、南湖には周辺の緑が写り込んでいました。ちょうど天気も晴れて、緑がまぶしかったです。そこをおりて、今度は隣にある芙蓉峰に登りました。芙蓉峰は北湖に面していて、こちらは建物が北湖に面していないため、ほとんど緑一色でした。その中に梅林橋という赤い橋があるので、緑に反対色の赤が映えていました。こちらも飛来峰の眺めとは種類が違いますが、きれいな風景でした。

段畑から始まった今回の旅。宇和島、内子、松山、高松とその土地ならではの風景を見てきました。「遊子水荷浦の段畑」は重要文化的景観の選定を受けたけれども、まだまだ観光についての取り組みはこれからだったり、道後温泉では「坊っちゃん」をうまくカラクリ時計などに取り入れていたりと、写真とかではわからない現地の生の雰囲気を感じられてよかったです。(ヒラ・部長)
- 2008/09/22(月) 00:36:58|
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松山市 道後温泉 道後温泉は3000年の歴史をもつと言われる温泉で、一羽の傷ついた白鷺が湧き出るお湯で傷を癒したのが道後温泉の始まりだという伝説があります。そして、1994年に重要文化財に指定された道後温泉本館があります。明治時代に建築された温泉共同浴場で、別名は「坊っちゃん湯」といいます。これは夏目漱石の小説「坊っちゃん」の中で登場し、その印象が強いからだそうです。また、館内には夏目漱石ゆかりの「坊っちゃんの間」があり、見学可能になっています。
道後温泉本館の前から道後温泉駅までL字型に商店街が並び、多くのお土産物の店や飲食店があります。そして、道後温泉駅の前には放生園という小さな公園があり、ここにはカラクリ時計と足湯があります。カラクリ時計は午前8時から午後10時の間、一時間ごとに仕掛けが動きます。


内子町から道後温泉に移動し、まずは放生園にあるカラクリ時計へ。しかし、カラクリが動くまで若干の余裕があったため、隣にある足湯に入ることに。足湯は8人ほどが入れる大きさで、みんなで席を譲り合って仲良く浸かっていました。観光客ばかりでなく地元の方も使うようで、世間話に花を咲かせている方々もいました。そして、カラクリ時計が動く時間。周囲にはいつのまにか大勢の人が集まってきていて、カラクリが動くのを今か今かと待ち受けていました。カラクリ時計は何パターンかあるらしく、私たちが見たときにはマドンナと思われる女の子が、時計の文字盤のところにあらわれました。
時計のカラクリを見ていると次第に雨が降ってきました。アーケードで覆われた商店街に入って雨を避け、しばらくお土産などを見ていきました。その途中、愛媛らしいソフトクリーム「いよかんソフト」を発見したので、足湯で体が温まったこともあり、食べちゃうことにしました。他にも栗やでこポンを使ったジェラートもあり、ひとりずつ別の種類を買ってそれぞれ味見をしながらおいしくいただきました。そうこうしているうちに商店街を通り抜け、目の前には道後温泉本館がありました。

商店街を通っているときからちらちらと目に入っていましたが、浴衣姿で手荷物を籠に入れた人たちが道後温泉本館前には多く見受けられました。また、記念撮影をしている人も多く、たくさんの人がいました。そんな道後温泉本館を写真に収めようとしてみましたが、かなり大きくて歩道からすべてをフレームに納めるのは不可能でした。正面からは2階建てのようにみえましたが、正面から左手のほうに回ってみると3階建てになっている部分が望めました。付近の道にはポールが立ててあって、「商店街方向へは自転車は押して歩いてください」と書いてありました。実際、こどもがすごいスピードで自転車を漕いできていましたが、大きなブレーキ音を響かせて止まり、商店街へ押して歩いていきました。小さな気配りですが、こうして快適な歩行空間が生まれているのでしょう。
今回は足湯でしか道後温泉に入れなかったので、次に行く機会があったら、道後温泉本館で温泉にしっかりつかってみたいですね。(部長)
- 2008/09/21(日) 00:36:28|
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内子町「八日市・護国の町並み」 全国各地には、その地域独特の産物と技術を背景とした産業と結びついた町が数多く存在しています。その町並みの随所に産業との結びつきが残されているのです。それらは「産業と結びついた町並み」という分類で伝統的建造物群保存地区として選定され、住民と市町村が協力し合い主体的に保存に取り組んでいます。
ここ内子町の「八日市・護国の町並み」も和紙や木蝋の町として、江戸時代後半から明治にかけて栄えた産業の景観を示す町並みです。当時の面影を残す商家群が約600mにわたって残っており、1982年に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。

「遊子水荷浦の段畑」を離れて、同じ愛媛県内の内子町に移動。到着後、早速町並みを散策。八日市・護国の町並みには浅黄色と白漆喰で塗りこめられた蔵造の町家が軒を連ねています。壁には鏝絵(こてえ)が施してあります。たとえば、亀や鳥の図柄が立体的に作られているのです。他にも、なまこ壁や出格子などがあり、それぞれ表情が違う細かなディテールも見どころだと思います。特に重要文化財になっている本芳我(ほんはが)家住宅には、随所に鏝絵などの意匠が見られ、木蝋生産で財をなしていた豪商の家としての歴史をアピールしています。本芳我家住宅は外観と庭園は見学可能で、住宅内は非公開だそうです。他の建物も一緒になって美しい町並みの雰囲気を醸し出していましたが、私たちが訪れたときにはいくつかの建物が修理工事中でした。修理工事が終わった風景はどんなふうになるのだろうかと思いをはせながら、散策していきました。

通りを歩いていくと、多くのお店が目に入りました。喫茶店やお土産を売るお店などがありました。その中の一つに入ってみると、喫茶店をしながらお土産も売ってあり、さらに資料館のようになっていて古い貨幣・紙幣や道具などを展示していました。お店でない家に目を向けてみると、玄関に「無断で立ち入り禁止」と書かれていたり、「非公開です」と立て札をしてある家がいくつかありました。それぞれの家がお店をしたり非公開にしたりすることで、なんとかバランスをとりながら観光客に対応しているように感じました。しかし、外国人の方が「非公開」の家に入ってしまっているのを見て、日本人ばかりでなく外国の方にもわかるように意思表示をすることが必要なのではないかと思いました。
ゆったりと歩いていったためか、約600mの町並みがとても長く感じられました。ゆるやかに上り坂となっていたためかもしれません。平日で他の観光客も少なかったので、本当にのんびりと静かな時間を過ごせました。観光案内所でもらった内子町のパンフレットには「八日市・護国の町並み」以外にも町全体の見どころマップがのっていて、山や村の風景を紹介していました。また機会があったら訪れたい場所だと思いました。(部長)
- 2008/09/20(土) 00:46:10|
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遊子水荷浦: 段畑の歴史 麓で出会った方から、段畑の歴史を教えていただきました。段畑が開拓されたのは、伊達家文書にみえる「山勝手次第開くべし」に従うならば、約300~350年前からと推定されます。それまではマイワシ漁が盛んだったのですが、しばらくして、サツマイモなどの栽培が始まりました。その後、不漁期にともなって段畑開墾が進み、1850年頃までには斜面のほとんどが畑地となったのです。近代になって一旦豊漁期を迎えますが、再び不漁期となり、養蚕が開始され、耕地の半ばが桑畑へと姿を変えました。しかし、恐慌により繭価が暴落、そして戦争に突入し、サツマイモの増産政策(国策)により再び耕作が主流となったのです。ところが、1950年以降、サツマイモから早堀りのジャガイモの栽培に変わり、現在に至るそうです。
1999年、段畑を文化財として保護しようという話がもちあがったそうです。しかし、「段畑や文化財だけじゃ飯は食えねぇんだ!」と住民に猛反対され、話は立ち消えになってしまいました。ところが、年々段畑の耕作放棄が進み、「段畑を守っていかなくては」という意識が芽生え始め、2002年から文化財にしようという取り組みが再開したとのことです。段畑を保護する上で一番大切なことは、住民がその価値を認識することであるとして、当時の市長が住民のお宅を一軒一軒訪問し、価値を理解していただけるよう話をしてまわったというエピソードを教えていただきました。そのとき、「生活の安定」についても深く議論され、この地で収穫されたジャガイモは業者がすべて高額で購入することが決まりました。これで、保存にブレーキをかけていた不安が解消されたのです。
遊子水荷浦の段畑は、およそ幅110m、高さ80mの範囲に残存しており、その斜度は46°という急勾配です。斜面は南向きにひろがっており、日当たりの良さによって夜になっても土の中が暖かいため、良質のジャガイモが収穫されます。さらに海から吹く潮風が、みかんと同様にイモを甘くする作用をもたらしているとのこと。また、土がさらさらで水捌けは良いのですが、その分土地はやや痩せ気味だそうです。このため、ジャガイモ以外に栄養を取られないよう、ジャガイモの栽培時期以外は何も植えず、畑を休ませて次の栽培期に備えているとのことでした。だから、イモの栽培をしない今は、ほとんどの畑に何も植わってない状態なのです。こういうこだわりによって段畑のジャガイモはブランド化されたのです。

(左)段畑と養殖場 (中)湾を見渡せる「魚見の丘」。養殖業を営む上で、死んでいった貝や魚などを供養するために設けられた慰霊塔。 (右)急斜面にできた溝。ここを荷物を持って歩いた。その溝の一部にレールが走っている。
[段畑をたずねて(Ⅱ)]の続きを読む
- 2008/09/19(金) 00:49:19|
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重要文化的景観「遊子水荷浦の段畑」 これまでは教授自ら、
近江、
岩手、
北海道の重要文化的景観を訪ね、レポートを書いてくださいましたが、今回はわたしたちが愛媛県宇和島市の「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑」を視察に行きました。メンバーは、部長、ヒラに加え、助っ人のリラックマさん(環境デザイン学科4年)です。女3人の道中、はていかに・・・
愛媛県宇和島市遊子の水荷浦は、戸数40戸、160人余りの集落です。陸では岸辺の急斜面を活かした段畑で芋類を栽培、海ではイワシ漁やハマチ・真珠母貝の養殖など、古くから半農半漁の生活を営んできました。宇和海沿岸の急峻な地形と強い季節風などの風土と調和して、近世から現代に至るまで継続的に営まれてきた半農半漁の土地利用のあり方を示す独特の文化であるという価値が認められ、2007年7月26日、「アイヌの伝統と開拓による沙流川流域の文化的景観」とともに、国内で3番目の重要文化的景観として選定されました。
さて、宇和島市街地から出発し、三浦半島に入ったところで向こう岸(半島の先の方)の、緑が途切れている部分を発見。
「あそこだー!!」
と興奮しながら向かいました。

ふもとの広場まで到着すると、「段畑を守ろう会」のテントと「だんだん屋」という小さなショップが視界に納まりました。残念ながら営業は「土日・祝日および予約日」と書いてあったので、入ることはできないとあきらめましたが、広場から段畑に向かって石段を上がっていったところ、下から男性に声を掛けられました。なんとこの「だんだん屋」を経営している「NPO法人 段畑を守ろう会」の方でした。どうやら、うろうろしていた私たちを見つけてわざわざ来てくださったようです。
「この道をずっと上がったら畑の上に行くことができるから行っておいで。
そこが1番良い景色を見ることができる場所だよ。」
と丁寧に教えていただきました。正直下からでは石垣しか見えず、段になっているのが分かりにくかったので、早速上がることに。
↑下から見た段畑。石垣しか見えず。 段畑の頂上まで上がり俯瞰すれば、下から見あげるよりも迫力があり、圧巻の一言。真下を見るのではなく、少し横からのぞき込むようにして見ると、石垣の石に加えて畑の土の茶色やサツマイモの葉の緑色が段々の状態を分かりやすくしています。ところどころには、育てた作物(主にジャガイモ)を運ぶために使う滑車のレールが走っており、今なお段畑が機能していることが伺えました。また、段畑の先には宇和海が広がっており、真珠母貝などの養殖場が見え、半農半漁の生活を実感することができました。畑は雑草ひとつ生えていないほど丁寧に手入れされているのが印象的でしたが、端のほうはみかんの木が植わっており、やや石垣が崩れているところもありました。段畑だけでは生活していけないという一面も見たように思います。
[段畑をたずねて(Ⅰ)]の続きを読む
- 2008/09/18(木) 00:39:54|
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集落奥の調査とインタビュー その2
9月7日(日)。朝から怪しい雲行き・・・。そして雨。そんな本日のメンバーはホカノさん、Mr.エアポート、部長、そしてヒラです。以下に調査内容を示します。
①まだ行ったことがない、炭焼き小屋の奥と南の方向に伸びる道を調査・・・ホカノさん&Mr.エアポート
②前回に引き続きインタビュー・・・部長&ヒラ
①は今まで集落の中心部、人の気配があるところを歩き回っていましたが、そこより奥の炭焼き小屋の先と中心部付近より南の方向に伸びている道の先には足を踏み入れてなかったので、地図上の表記と比較しながら、変化のあるところをチェックしてもらいました。また、そのほかにも特徴的なものや、何か意味を持っているのではないかと思われるものなども見つけたら、チェックし、カメラにおさめてもらいました。

見てまわって分かったことは、地図に記してある田畑には杉などの樹木が植えてあり
(上部写真)、地図に載っているほぼ全ての田畑が今は田畑としては使われていないということでした。しかしそれらをよく観察してみると、それらの植わっている地面は段々になっているものも多かったそうで、元々は棚田か段畑であったのではないかという名残も見られたとのことでした。
←杉皮の採取場所?
②は前回と同様、空家調査を兼ねたインタビュー。訪問をしていらっしゃった場合はインタビュー、いらっしゃらなかった場合は前回と変わったところがないかチェックをして、全く住んでいない空き家なのか、時々いらっしゃるのかを見てまわりました。
集落内を歩いていると、前回インタビューをさせていただいた方が自宅前で風呂用の薪を割っていらっしゃったので、また話を伺いました。この方はお正月の間だけここを離れるそうで、1年のほとんどをここで過ごすそうです。
↑薪割り、のち風呂にくべている 昼に聞いたホカノさんとMr.エアポートの調査結果(炭焼き小屋方面の奥)をもとに、集落の田んぼ事情についてヒアリングしました。そこで分かったことは、この集落内のものだけでなく、用瀬へ通じる道沿いにある田んぼも板井原の方が所有する田んぼであるということです。板井原に関するものは、あの集落部分だけだと思っていたので、思っていたよりも集落が広がりを感じることができました。
また他にも、つい先日までここの生活を体験しようという企画によって、こちらのお宅に東京から子ども2人が2泊3日で来ていたという話も伺いました。何もかも初めてという体験をさせてあげたとのことです。2泊3日という短い期間なので、集落の本質はまだ見えなかったかもしれませんが、このような体験は都会の子どもたちと集落の人びとを結ぶ良いきっかけになるのではないかと思いました。
今回はインタビューを集落内にとどまらず、集落の少し先にあるレストラン「モルジュ」のご主人にもお話を伺いました。板井原に暮らしたり訪問したりした方々と少し違う視点の話を聞くことができたのです。これからは少しずつではありますが、集落内からだけでなく、広い範囲から見ていけるようにしたいと思います。(ヒラ)
- 2008/09/17(水) 00:41:24|
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植物の分布調査とインタビュー その1
8月31日(日)、板井原集落の調査2回目。今回のメンバーはホカノさん、Mくん、部長さん、そして私ヒラです。今回の調査内容は以下の通りです。
①集落まわりの植物分布を地図に色分けしながら書き込んでいく
②住人や集落に来た方々にインタビューをさせてもらう
ホカノさん・Mくんペアに①を、部長さん・私ペアは②をおこないました。
集落周辺の森林生態は、ムラの成り立ちや人々の生活を表すものもあるので、①は文化的景観として集落を見るために必要不可欠の調査です。例えば、ここ板井原集落のある智頭町は杉林が多く見られるのですが、ここから「杉のまち」と呼ばれるくらい林業が盛んであり、人々の暮らしに密接であると感じられるのではないかと思います。しかし、山の樹木は杉だけではありません。栗や竹やなど他にもたくさんあるので、それらがどのように分布しているのかを、広葉樹・針葉樹・照葉樹・竹に分別して書き込んでもらいました。
街中ではなく集落のまわりだけなので、この作業は簡単に終わってしまうのではないかと思っていましたが、実際は私が想像していたよりもはるかに大変で、まずきっちりと分かれて生えているわけではないのだから、種類別にチェックしていくことがとても困難だったそうです。またどのくらい奥まで生えているのか見えないから、どこまで書けばいいのか分からなかったとの感想をいただきました。このときのホカノさんからの話にもありましたが、これはやはり集落全体の航空写真が必要になるみたいです。それをどうにか手に入れないと、この分布調査は完結しないだろうと実感しました。

それと同時進行で、部長さんと私は「出会ったら突撃」を合言葉に②のインタビューを開始。早速集落の方が家の前で休んでいらっしゃったのを発見したので、準備したシートに沿いながら、また伺った話から生まれた新たな疑問を質問しつつ進めました。伺った話によると、集落にずっと暮らしているのはたった2~3軒だけであり、あとは町の方で暮らしつつ畑仕事のために何日かおきに来る方がほとんどだそうです。なかには毎日来るけれど、暮らしてはいないという方もいらっしゃいました。
そして、この日板井原を訪問されていた方がたにも話を伺いました。「ここに来る人は季節を問わず結構多いですよ」という村人のお話どおり、そして日曜日ということもあり、気が付けば、次から次へと人が・・・。今まで来たときはそんなに注意をしていなかったので気付きませんでしたが、結構な人数が見学に来ていたのではないかと思います。しかも、どこから来たのかというと、鳥取県内だけにとどまらず、兵庫県からも何組か、さらにはななんと東京からという方も!!東京から来たという2人組のうち1人は、3年前初めて来たときに「火間土」のご飯が気に入ったので、それ以来毎年来ているんだとか。想像の範囲外からの訪問者に2人そろって驚きっぱなしでインタビューを終えました。
今回は訪問されていた方に比べ、集落の方があまりいらっしゃらず話を伺うことができなかったので、この作業は次回も続きます。集落で出会った、写真を撮りに通って5~8年の方の「集落の方と馴染むまでずいぶんと時間が掛かった」というコメントのように、なかなかぐぐっと懐に飛び込むことは難しいかもしれませんが、前回より今回、今回より次回楽しく和気藹々と話が伺えるようになれたらなと思いました。(ヒラ)
- 2008/09/16(火) 00:00:04|
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みなさん、17日ぶりに鳥取に帰ってきましたよ。今日は早くも入試でしてね。まぁまぁのスタートを切っております、学科も、大学も。
昨日までは「けんびき」症状に悩み、2日連続ホームドクターに診てもらいました。オホーツクからハノイにワープするような旅を続けてきたわけだから、疲れもたまるわね。それよりなにより、諸悪の根源は某出版社からの原稿の催促であります。縄文の校正(大直し)と図版揃えをようやく終えたと思ったら、
「で、弥生の原稿はいついただけますか?」
だって。少しは休ませろってんだ!!
じつは、わたしはベトナム滞在中、正式に「
辞退」を申し出たんですよ。「縄文も弥生も辞退したい」とお願いしたの。その返信は「必死の慰留」でして、「じつはまだ原稿の集まり具合は7割程度ですので、猶予があります」なんて書きながら、縄文を仕上げた瞬間に「弥生はいつ?」だかんね。
こういう編集者では書く気にならんわ。そもそも考古系の文章ってのは書いてて楽しくないんだ(薬研堀慕情は楽しかったな!)。で、週明けにはもう一つ催促がくるんですよ。それもまた弥生で、そのあともう一つ弥生がある。あぁぁぁぁ、生まれてくるんじゃなかった・・・・おれは弥生のために生まれてきたんじゃないぞ。
弥生のことは、ハマダバダが書けばいいんだ。やつは弥生しか書けないんだから、弥生だけ書けばいいのであって、わたしのように他に書くものがいろいろ溜まっている人間は他の原稿に専念させとくれ・・・
さてさて、愚痴もいい加減にしておいて、17日間も留守をしていたもので、郵便物はたんとたまっておりました。郵便物の処理に昨夜は時間を費やしましたが、そのなかに二つの学位請求論文が含まれています。一つは『水上人と呼ばれる人々-広東珠江デルタの漢族エスニシティとその変容-』、もう一つは『アイヌ文化成立期から近世期末におけるアイヌ民族の建築に関する研究』という論文。本ブログの熱心な愛読者なら前者の執筆がどなたかおわかりでしょうね。ヒントはわたしの学生だったことがある人で、ここ3年ばかり続けているハロン湾水上集落の調査研究とも間接的に係わっている方です。
後者の執筆者とは面識がありません。ただ、まったくつながりがないか、といえば、そうでもない。研究者同士は、赤い糸、じゃなかった、細い糸で結ばれてますからね。それにしても、この論文は絶妙のタイミングで送られてきたというほかありません。なんたって、今年度はオホーツク文化住居の基本設計を委託されており、当然のことながら、北海道アイヌの住居を避けて通れるはずはないからです。建築物や絵画資料だけでなく、近世アイヌ住居の発掘調査遺構についても1章を割いており、後期の復元設計におおいに貢献してくれるでしょう。
さっそくお二人には御礼のメールを送信しました。ここで、もういちど感謝もうしあげます。ありがとうございました!
こうして若い世代がどんどん新しい研究を発表してくれると、わたしたちにも刺激になりますね。正直、「研究なんか、もうや~めた」と捨鉢になることもしばしばありますけれども、まぁしばらくふんばらないといけません。
でも、頭をよぎるよな、老子の言葉が・・・「学を絶てば憂いなし」。
- 2008/09/15(月) 00:26:57|
- 文化史・民族学|
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御所野インターンシップ報告: 8月28日(木) 最終日 最終日のインターシップは1日、一戸周辺の建築を見学させていただきました。
一戸周辺には、岩手県指定文化財の朴舘住宅や世界的に有名な建築家が建てたRC造の小学校、それと大きく異なる木造の小学校など面白い建物がたくさんあり、それらを見ることができ、とても良い刺激になりました。とくに面白かったのが、二つの対照的な小学校です。
RC造の小学校は外観がコンクリートのうちっぱなしの壁、曲線を取り入れた現代的な建物で、もう一つの木造の小学校は校舎の中に暖かみがあり、木の匂いがする気持ちのいい感じがしました。この二つの小学校は対照的な建物ですが、それぞれに面白い箇所があり勉強になりました。
この日は、ほかにも漆塗りの器のお店に行ったり、二戸駅のお土産屋さんに行ったりと色々楽しませていただきました。その後、午後7時ころ、次の日からはじまるお祭りの山車を見に連れてってもらったりと、インターシップ最終日は一戸を「これでもか!」というぐらい満喫しました!
最後になりましたが博物館のみなさん、そしてお世話になったみなさん本当にありがとうございました。このインターシップで色々な発見、出会いがあり、とても勉強になりました。この経験を無駄にしないように頑張ります。(ガード)
- 2008/09/14(日) 00:28:47|
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9月10日、鳥取県生活環境部景観まちづくり課が主催する「まちづくりに関する意見交換会」が加藤家住宅で開催されました。研究室以外の
外部機関が加藤家住宅で主催する初のイベントであり、研究室としても嬉しい限りです。
「まちづくりに関する意見交換会」は、まちづくりに関心のある活動団体と県市町村の職員が、景観形成に限らず、まちづくり全般について語り合い、その相互の意見を新しい施策や事業に繋げていくことを目的としています。今回は7つのNPOから10名程度と県職員が参加し、研究室の学生もオブザーバーとして同席させていただきました。詳細は以下のとおりです。
【参加者】
○まちづくり団体 7団体8名
NPO法人 鳥取・賀露みなとオアシス
NPO法人 We garden our city
河原ふるさと塾
いなばの里山を守る会
昭和まつり委員会
NPO法人 ラーバンマネージメント
NPO法人 鳥取環境市民会議
○景観まちづくり課 4名
○鳥取環境大学浅川研究室 3名(ホカノ、部長、ヒラ)
加藤家住宅の表の座敷であるナカノマとオクノマで円座し、意見が交換されました。各団体の自己紹介などを済ませ、会場となった加藤家住宅の説明をさせていただきました。時間がおしていたため、説明は簡単に済ませてしまいましたが、参加者のかたから加藤家住宅での取組みに非常に興味を持っていただきました。
意見交換会の議題は、県として各NPO団体に何ができるのかということです。NPO団体からは、何かしらの助成金を受けて活動しているが、その資金を得てどういった活動成果がなせることを吟味していただき、助成金を的確に配分してほしいという意見がだされました。この辺の話を聞くと、やりたい事はあるが、思うようには活動できていないNPO団体のもどかしい現状が垣間みえてきます。その後、どう活動するのか、ということで、現状の良い景観を保全できるのか。また、その景観を現地の住民が価値を理解してくるのかが議論されました。
県から送信されてきた意見の要約をここに転載させていただきます。
1 ここ3年くらいで古い建物がばたばたと倒され、このままでは古い街並みが崩壊
する。いま立ち上がらなければという思いがある。しかし、活動がなかなか広が
らない。仕事が終わってからまちづくり活動にかかることになり大変なのに加えて、
活動費などの持ち出しがあり、参加する人が増えない。
2 活動の初期では、悩みを話し合える団体交流会(今回のような)の開催が
うれしい。
3 活動するには結構お金がかかる。そこあたりの支援がないため継続が
むずかしい。
4 大井手川は村中を流れている雰囲気がよい。河原から賀露まで流れている
ので、河原から賀露まで、それと亀井氏が掘ったので、鹿野も連携して何か
できないか。
などなど
こうした意見会で加藤家住宅を活用していただけたのはうれしく思います。加藤家での修復活動などを理解していただき、これをまちづくりやNPO活動のヒントにしていていただけたら、なおさら幸いです。(ホカノ)
- 2008/09/13(土) 00:00:56|
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インターンシップの報告② 9月2日、インターンシップが終わりました。期間の後半は、オホーツク文化の竪穴住居を中心とした資料の収集、復元に伴う問題・課題を考え、今後の参考にできるようにしました。北方の諸文化の理解を深めることは、オホーツク文化の理解にもつながるということで、ひろく資料を集めることにしました。

その一環として、「オホーツクミュージアムえさし」という竪穴住居が室内に復元してある博物館にTO大の先生のご好意で連れて行っていただきました。そこで、先生と見解を話し合いながら見学できたのは、復元のイメージを思い浮かべるうえでとても有意義な時間になりました。
インターンシップの期間中はTO大の先生方、ところ埋蔵文化財センターの職員の方々に資料収集を本当に助けていただきました。そのおかげで、たくさんの資料を集めることができました。感謝の気持ちが湧いているとともに、しっかり勉強しなければという責任も感じています。
この13日間は、今まで体験したことのない環境で、非常に濃い生活ができました。このインターンシップは私の大学生活に大きな厚みを持たしてくれたと思います。常呂で出会った皆さん、ありがとうございました。
オホーツク文化住居の復元設計、がんばります! (黒帯)
- 2008/09/12(金) 00:32:12|
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昨年の
11月18日(日)、鳥取市役所青谷町総合支所でおこなった講演「弥生時代『最長の垂木』をめぐって-山陰地方の大型掘立柱建物-」の講演記録が表記のように改題され、鳥取県埋蔵文化財センターより刊行されました。昨年の『「楼観」再考』に続く講演の記録集です。ウソかホントか知りませんが、『「楼観」再考』は県埋蔵文化財センターが編集した刊行物のなかでもっともよく売れたのだそうです。今回の記録集も、またみなさんにご購入いただければ嬉しい限りです。頒布価格は、なんと350円という超安価ですよ。よろしくお願いいたします!
以下に図書の基本情報をお知らせしておきます。
書名: 弥生時代「最長の垂木」の発見と復元
-山陰地方の大型掘立柱建物-
発行: 2008年8月28日
編集・発行者: 鳥取県埋蔵文化財センター
http://www.pref.tottori.lg.jp/maibun
印刷: 山本印刷株式会社
県埋蔵文化財センターのホームページでは
こちらの頁 をご参照ください。
- 2008/09/11(木) 00:00:46|
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9月6日、朝からいいお天気で、絶好の調査日和。この日のメンバーはホカノさん、Mr.エアポート、ヒラ、部長の4名。今回は今まで調査してきた若桜から少し北にある、屋堂羅地区の調査です。Mr.エアポートには浄善寺の門の立面図の実測をお願いして、ホカノさん・ヒラ・部長の3名は屋堂羅の棚田の状況などをチェックしていきました。
まずは、今日お世話になる浄善寺へ。門をくぐると奥さんと黒猫が出迎えてくれました。調査の件を快諾していただき、少しお話を伺うことができました。話によると、もともと草葺のお寺でしたが、お寺の下の家の火事が燃え移ってしまい、門だけが残ったそうです。また、地名の「屋堂羅」は、元は「矢堂羅」といわれていて、それは鬼ヶ城から見て真正面にあるこのお寺に矢を放って、ささったことからきているそうです。
Mr.エアポートと別れて、残り3名は屋堂羅の奥へ。持ってきていた地図の範囲外までいったため、簡単なスケッチをしながら更に奥へ。棚田の並ぶ道を歩き、その行き止まりまで行って振り返ると、鶴尾山の頂上付近が小さく見えました。棚田の稲はたわわに実り、もう収穫を始めているところさえありました。田んぼの上には赤とんぼも飛びまわり、そこはもうすっかり秋の風景でした。

昼休憩をはさみ、Mr.エアポートは引き続き浄善寺の実測、ヒラと部長も引き続き屋堂羅調査。ホカノさんには、八東川の様子や鶴尾山の東側にある三倉地区を視察してもらいました。屋堂羅調査も二手に別れてひたすら歩いて調べました。地図を見ながら歩き回ってみると、稲がなく草が生えている状態になっている田んぼがいくつか目に入りました。また、屋堂羅地区では災害対策の護岸工事や砂防ダム工事が2~3ヶ所おこなわれていて、屋堂羅川の水は濁ってしまっていました(←写真中央)。ちょっと残念な気もしましたが、一番奥からの眺めなど気に入った風景がたくさんありました。

そうして調査を終えたのは、16時前。三倉地区を見てきたホカノさんが何かを発見したため、また、若桜弁財天にて弁天大祭がおこなわれるため、見に行こうということになり、一路三倉地区へ。ホカノさんが発見したものは弁財天へと続く山道沿いにある、(写真ではわかりにくいですが)石垣の段々畑のようなものでした。かなり昔のものらしく、草が全体を覆い、かなり成長したスギの木がにょきにょきと伸びていました。そこからさらに奥にある若桜弁財天に向かうと、いきなりの大雨!少し前から雲行きは怪しくなっていましたが、突然の豪雨には驚きました。傘も何も持っていなかったため、残念ながら着いたと同時にUターンして帰路につきました。今度は雨の降っていない時に訪れたいと思います。(部長)
- 2008/09/10(水) 00:33:04|
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5日の夜、ハノイ空港を飛びたったVN便がシェムレアップに着陸する直前、窓外に黒い海がみえた。恐怖を覚えるような迫力がある。その周辺にはひろい範囲に湿原が確認され、その湿原に建物のようなシルエットが映しだされているのだが、灯りはみえない。
シェムレアップは大変りしていた。なにより空港が新しくなっている。あれは6年前になるのだろうか、はじめてシェムレアップ空港に降り立ったとき、手荷物受け取り場でスーツケースがあらわれず、いったんホテルにチェックインした後、連絡を待って翌日スーツケースを取りに行った。いまはもうそんなトラブルがありえないような(実際にはありえるだろうが)新しい施設が出現し、おびただしい数の役人がそこにいた。
タクシー代も高くなった。5年前は1日キープしても20ドルだったが、今回は40ドル。それでも安い方だとジャイアンは言う。ジャイアンとは某院生くんのことではない。シェムレアップにおいては、わたしたちのタクシードライバーが自ら「ジャイアンと呼んでくれ」と言うのだ。以前、日本人を案内したとき「ジャイアンに似ている」と言われたので、以来、ニックネームにしてしまったらしい。たしかによく似ている。

9月6日(土)。まずはアンコール遺跡群のパスを買いにいった。3日間で一人40ドル。その場で顔写真を撮影し、写真データをパスにプリントするシステムを採用している。その後、今回の目的地であるトンレサップ湖へ。今度は船のチケットを買わなければならない。5年前、埠頭に着くと、何人もの船頭が声をかけてきた。船代はたしか10ドルだったと記憶する。いまは船を政府が管理するようになっている。なんでも船遊びで死人がでたからだとか。そのオフィスに行って驚いた。船代は1時間半なら一人30ドル。2時間だと一人40ドル。ドル紙幣が飛ぶように財布から消えていく。不安になってきた。
まず、プロンクロムに登った。トンレサップの湖畔に聳える山の頂にある寺院跡。この寺院跡もまた世界遺産アンコール遺跡群のひとつであり、パスをもっていないと上にあがれない。寺院跡にももちろん興味はあるが、この山を最初の訪問地にしたのはトンレサップ湖を俯瞰したかったからである。プロンクロムの麓に、チョンクニアスという水上の大集落がある。

トンレサップは東南アジア最大の淡水湖だ。しかし、その面積は一定しない。乾期と雨期で水位が増減する。水位の差は最大10mに達すると言われる。いまは増水期に入っている。チョンクニアスでは、すでに沖合の道路は水に沈み、樹木は梢を残して水没している。梢のまわりにホテイアオイが群生している。ベトナムでは薄紫の花を咲かせていたが、こちらのホテイアオイは開花期ではないようだ。ベトナムや日本のそれとは違って、格段と茎が太く、食用の重要な栽培植物だという。
船にのって遊覧し、すぐに気がついた。家船が減っている。5年前には、家船と筏住居が半々で、沖合に近くなればなるほど家船が増えていった。原始的な苫編みの屋根を被せる素朴な家船から、舳先と艫に板を張り出して面積をひろくする改造型の家船までいくつかのタイプの家船を確認できた。それで論文を1本書いたのだが、いまはところどころに改造型の家船をみる程度で、あとはすべて筏住居になっている。
[クメールの海]の続きを読む
- 2008/09/09(火) 00:16:46|
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いや、暑いのなんの。で、すっさまじい距離を毎日歩いてます。初日(プロンクロム→トンレサップ→バイヨン→バプン→王のテラス→プレアカーン)は7~8キロ、二日目(プレアコー→バコン→ロレイ→アンコール・ワット→タプロム)も4~5キロは歩いたでしょうね。おかげさまで、背中に汗疹がでちゃいましたよ。リュックサックとベストのあいだが蒸れて赤くなってまして、痒いんです、これが・・・

それで、昼も夜もこのお店に退避し、休むんです。「ブルーパンプキン」というお店は、ごらんのとおり、壁際が全面ソファになっていて、靴をぬいでくつろぎながら、パソコンをネットに接続できるんで、全世界の旅客を集めております。靴を脱ぐということが、こんなに素晴らしいとは知りませんでしたね。いんや、
若桜の水場で経験済みか・・・棒のようになっている足に血が通い始め、生物に戻っていくからね。
ここシェムレアップでは、ブルーパンプキン以外にネット無料のお店がないようでね。ホテルでも有料(5ドル/時)でして、もっぱらブルーパンプキン通いが続いております。

アンコール遺跡群を訪れたのは5年ぶり3度め。ブログに書きたいテーマを3つばかりみつけたんですが、いまはちょっとそれを掲載するだけの余裕がありません。というわけで今日のサービスショットはバイヨンを2枚。鎌倉時代ころの都市、アンコール・トムの中心聖域です。仏教とヒンドゥ教の要素が融合してるんじゃなかったかな、たしか・・・多宗教の国民を統治する苦労が映しだされてるとかなんとか、そんな話を聞いた記憶があります。
さて、このブログがアップされるころ、すでにわたしたちはバンコクに移動しています。1泊後、帰国の予定。
- 2008/09/08(月) 20:26:28|
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常呂の埋蔵文化財センター収蔵庫で、樺太アイヌの板船をみせていただいた。担当官もわたしも、オホーツク文化住居の六角形平面を
舟のメタファ(暗喩)だととらえており、担当官は樺太アイヌの板船を前にして、オホーツク文化の船もこういうタイプじゃなかったかという。
わたしは少し細長すぎるな、と思いながら、板船の上に載せてあった弦楽器に目が釘付けになった。トンコリと呼ばれる樺太アイヌの五弦琴である。北海道では、常呂に限らず、各地の博物館でトンコリの制作や演奏の講習会がしばしば開かれており、すでにトンコリを取り入れたバンドまで出現している。担当官自身、制作も演奏もできるというのだ。
トンコリのボディは女体を象っている。すなわち、女のメタファだ。わたしの記憶が正しいならば、昔むかし、樺太アイヌのある女性の死を悼んで、残された家族がその体を模して制作したことに起源するという伝承が残っているはずだ。各部位の名称は人体になぞらえている。その点、ギターのヘッド(頭)やネック(首)も同じだが、トンコリの場合、「頭」や「首」だけでなく、弦巻を「耳」、ボディ先端の尖った部位は「足」、足にある弦の付け根は動物の毛皮を貼り付け「陰毛」と呼び、その裏側を「尻」と呼ぶ。さらに、ボディの中心には「へそ」という閃光形の穴があいていて、そこにラマトフ(魂)と呼ばれるガラス玉を入れる。
うまくいけば、近い将来、試作されたトンコリ1台と演奏のためのDVDが手に入るかもしれない。まぁ、期待しないで待っておきましょう。
もし、わたしの手元にトンコリが届いた場合、六弦倶楽部の練習会で披露する機会もあるかもしれませんね。ちなみに、代表的な調弦はFCGDAとのことです。
- 2008/09/07(日) 00:09:19|
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東アジアの全域で雨が降っているのではないか。ホテルの部屋でBSの天気予報をみると、中国も日本も東南アジアもみんな雨だ。恵みの雨です、アーメン・・・
そう言えば、昨年の調査の
最終日も雨だった。海は荒れていて、よせばいいのに外洋近くまで出てしまい、学生たちは船酔いでふらふらになってしまった。今回も同じような行程を考えていた。今日(9月4日)は補足調査の2日目だが、これで補足調査は終わり。補足調査が終わるということは、すべての調査が終わるということである。3年にわたって続けてきたハロン湾水上集落調査の最終日になってしまった。

午前、船はバーハン村とホアクン村を経由してクアバン村に向かった。雨で外に出れないので、WBCの先発メンバーを考えたり、原稿を校正したり。DS社の縄文シリーズの校正が出発前に送られてきていて、いちど読んだら悲惨なレベルだったので、もう今回の執筆は辞退すべきだとまで思い詰めたのだが、とりあえず校正原稿をベトナムまでもっていって決めようと考えなおした。縄文シリーズは校正だからまだマシけれど、弥生シリーズに至ってはまだ一文字も書いていない。2008年は駄目ですね。だってさ、ユーロとオリンピックが両方あったんだから、原稿書いている場合ではないわね・・・と言いつつ、船のなかで神経を集中させ、校正を始めると、結構おもしろくなってきた。あぁぁぁ、このまま雨が降ればいい。外で写真を撮り始めるときりがなくなる。おれに校正をさせとくれ、なんちゃって・・・


クアバン村に着くころ、雨はあがった。今日はチョーさんを船に招いて昼食会を開くことになっていたのだが、時刻はまだ11時過ぎだったので、新装オープンしたカラオケ店を冷やかしてみることにした。もちろん、これも重要な調査である。
朝からビールというわけにもいかないので、ソフトドリンクを注文した。店の旦那がセメント船の床下から取り出してきたファンタオレンジのケースにミリンダが混ざっていた。なんとなく懐かしく思い注文したのだが、その味はまさに人工甘味料&着色料100%で、飲んだら体に悪いだろうなぁ、と不安にかられながらも結局飲み干してしまった。

インタビューには、もっぱらマダムが答えてくれた。クアバンに来て開店したのは2~3ヶ月前とのこと。陸地でやる仕事がないから、この村に来てカラオケ店を開くことにしたのだという。いまのところ、店は繁盛している。開店時間は夕方から深夜11時まで。旅客ではなく、村の若者がよく利用する。一月の収入はおよそ300ドル。同行していた通訳のハン女史(公務員)の月給が150ドル前後だというから、稼ぎは決して悪くない。漁民たちが「うるさい」と苦情を言ってこないか、と訊けば「こない」とマダムは答えた。しかし、あとでチョーさんに確認したところ、一度苦情があって、停泊地を変えたらしい。とりあえず、村の若者はこの店を歓迎しているようだ。しかし、大人たちはだいたい7~8時に眠りにつくので煩わしい施設ができたと感じている。インタビューの間中、マダムは不安気な表情をしていた。わたしたちの調査したデータが公表されると、この村から立ち退かなければなるのではないか、と心配していたのかもしれない。


昼になって、チョーさんの家の前に移動し、船を停めた。チョーさんは養魚槽の通路ですでにわたしたちを待っていた。昨日居なかった娘さんも今日はベランダで髪をといており、しばらくして、その髪をポニーテールに結び、学校にでかけていった。昨年、わたしたちの調査隊を出迎えてくれた人だけに、わたしたちもよく覚えているし、彼女もわたしたちをよく覚えてくれている。互いになんども手を振り合った。食事会にはロックさんにも参加してほしかったのだが、かれは町に行ったままで、まだ村に帰ってきていない。通訳を交えて4名の食事は、ヒアリングの続きになってしまった。もう少しリラックスして、雑談めいた会話ができれば、と思ったりしたが、まぁ成り行きに任せるしかない。
船の窓から、チョーさん一族の筏住居がみえる。お孫さんの数は20人以上。みんな楽しそうに暮らしている。どうしてあんなに楽しそうにみえるのだろうか。どう贔屓めにみても、自分はかれらほど幸福ではないように思えてならなかった。
チョーさんは別れ際に「来年また来る機会があれば・・・」と挨拶した。わたしは言葉を濁すことなく、「来年戻ってくることはないと思います。体をいたわってください」と述べた。チョーさんは少し落胆したかもしれない。あぁ、この学者たちも同じか・・・さんざん調査して、結局、この村のために何もしてくれなかった・・・そう思われても仕方ない自分が情けなかった。
[越南慕情(Ⅱ)]の続きを読む
- 2008/09/06(土) 00:57:25|
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みなさん、ハロン湾に戻ってきましたよ。ここまでの道のりは長かった。2日の深夜1時半の便がバンコクに着いたのは現地時間の4時半(日本時間の6時半)。それから4時間も飛行機を待ったんです。このあたりで、すでに体はへろへろ。バンコクで乗り換えた飛行機がハノイに着いたのは十時半で、出国手続きをして、そのまま大型タクシーに乗り込み、ハロン湾に着いたのは午後2時半すぎでした。今回は完全にハノイをショートカットしているのです。
しばらくホテルで休みたかったのですが、さっそく遺産管理局のハオさんと新通訳のハンさんがホテルのラウンジにやってきて打ち合わせ。この日は建国記念日で、みなさんお休み。ハオさんはすでにご機嫌な顔色をしていました。ワインをたくさん飲んだみたいです。

一夜あけて、3日の八時半に出発。小型船「天宮10号」に乗り込んで、クア・ヴァン村に向かいました。どういうわけかこの小型船が結構速く、11時前にはクア・ヴァン村に到着。前日が建国記念日だけあって、どの筏住居でも掲揚された国旗が風にたなびいています。
例年そうなのですが、とりあえず、コミュニティ・センターに足を運びました。一つの収穫は新しいセメント構造の筏住居についてのパネルが追加されていたことです。
わたしは、さっそく通訳のハン女史に、説明文の英訳を依頼しました。以下に、その英訳を和訳しておきます。
未来の漁民のための筏住居 これはソーラーシステムで電気を生み出すようにした筏住居のタイプの一つです。
屋根から雨水を得て、トイレは家の中にあります。新鮮な水を含む救命ブイとトイレで使われた汚水の両方が家を浮かせるシステムの床下におかれるでしょう。
台風などの嵐がくる場合には、簡単に安全な地域に移動できます。
家の建材は人工的な材料で、劣化後に元の状態に戻すことが可能です。
このパネルに描かれた筏住居は、昨年、実験住宅として建設された
インスペクティブ・オフィスとよく似てますね。某院生くんは、この実験住宅とコミュニティセンターに展示されていた
建築家設計の近来住宅案(パース)を組み合わせて、クアヴァン村の近未来像をシミュレートしました。そのCGアニメーションが、今回持参したいちばんのお土産です。

そして、昨年まで村長だったチョーさん宅を表敬訪問しました。村長の任期は3年で、今年から村長は別の人に変わっていたのです。チョーさん宅では、大歓迎!
昨年撮影した記念写真が表彰状の額の中に飾られていました。その後、院生くんが制作した村の過去・現在・未来のCGアニメーションをおみせしたところ、これが大変な人気で、またたくまに人だかりができました。みんな眼が点になってましたよ。

チョーさんの感想を求めたところ、「未来案はとてもよい。悪天候に強そうだ」と評価してくれました。わたしたちは、この近未来案を実現しようとしてCGを制作したのではありません。むしろ、いまベトナム政府が推進しようとしている未来住宅によって、ハロン湾の文化的景観に乱れが生じることを示そうとしたのです。一言でいえば、新しい住宅は自然地形に対してスケールアウトなんですね。しかし、住民にしてみれば、「文化的景観」という概念などどうでもよいことで、願うはただただ住宅の性能向上です。実際、チョーさんはCGをみた瞬間、「この住宅を建ててくれるのか?」と問うてきました。同行した某準教授は、CGが逆効果になるのではないか、と心配することしきり。このCGによって、村の未来の姿が焼き付いてしまうと大変だというわけです。われわれの課題は、水上集落の住居性能の向上をめざしながら文化的景観を保全する方途をさぐることですが、いまのところ景観変化のシミュレートにとどまっています。今後、院生くんがどのように修士論文をまとめるのか、に課題の解決は委ねられていると言えるでしょう。
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- 2008/09/05(金) 00:50:04|
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ギタリスト、門脇康一先生のリサイタルについてのお知らせです。駅前の楽器屋さんによれば、門脇先生は2年に1度のペースでリサイタルを開催されてきたはずです。今年は、その第8回なんでしょうか、「スペインの風 Guitar Recital vol.8」と銘打ったリサイタルのようです。コンサートは9月23日(火)~10月5日(日)に以下の5つの会場で開催されます。
9月23日(火)15:00~ 松江市 スティックビル
25日(木)19:00~ 米子市 文化ホール
27日(土)19:00~ 鳥取市 文化ホール
10月1日(水)19:00~ 広島市 東区民文化センター
5日(日)15:00~ 神戸市 ロッコーマンホール

詳細は左のチラシをクリックして見てください。曲目や共演者(バイオリン)が紹介されておりますが、わたしにはさっぱり知識がありません。でも、なんとか時間をつくって、どこかの会場に駆けつけたいと思っております。みなさんも、是非!
余談ながら、今日の記事、ずいぶん前に「下書」を終えてスタンバイ状態にあったのですが、後からライブ系の記事が続々と持ち込まれ、今日までずれこんでしまいました。で、わたしはすでに日本におりません。1日の深夜25時半(2日1時半)の便で、バンコック経由ハノイ入りし、空港からハロンに直行して1泊後、ハロン湾水上集落の第4次調査(補足調査)に入っているはずですが、ネットに接続しているかどうかは分かりません。
正直、ブログの執筆は小休止したいですね。研究室に残っているみなさん、なにとぞよろしく!
- 2008/09/04(木) 00:14:49|
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その翌日、千歳空港のトヨタ・レンタリースでヴィッツを借りた。慣れないカーナビも、慣れてしまえば便利なことこの上なく、「二風谷アイヌ文化博物館」と入力するだけで、画面と音声で最短距離の行程を案内してくれる。二風谷アイヌ文化博物館は平取町にある。平取はビラトリ、二風谷はニブダニと読む。いずれもアイヌの言葉を語源とする地名だ。この町はアイヌ民俗文化と義経神社、すずらん群生地などで知られた観光地である。

町を沙流(さる)川が貫く。文字通り、大量の砂を河口に向かって押し流す氾濫源で、北海道の清流渓谷をイメージしてはいけない。ただし、サル(サラ)というアイヌ語は「ヨシ原」もしくは「湿地」を意味するらしい。この暴れる川の流域に近世アイヌの文化が花開き、それを覆い尽くすように近代の開拓地や牧場・牧野林がひろがりをみせる。昨年5月、文化庁は「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」を日本で3番目の重要文化的景観に選定した。その前提として、平取は町の全域を景観法の景観計画区域としている。
重要文化的景観にあたるエリアは、以下の5ヶ所に分かれている。
A: ビラウトゥルナイ区域(ペンケ・パンケ) 北海道日高地方における里山的景観 19,287,600㎡
B: 二風谷区域(ニブタニ) アイヌの伝統を伝える山野と集落の景観 13,022,927㎡
C: 芽生区域(メム) 峡谷との対照が際だつ戦後開拓地の景観 102,494㎡
D: 宿主別区域(シュクシペッ) 牧野・牧野林とスズラン群生地の景観 3,104,855㎡
E: 額平川区域(ヌカ・ビラ) 自然とアイヌの伝統、開拓の営為が織り成す多文化な河川景観 2,207,824㎡
F: 沙流川区域(シシリムカ) 自然とアイヌの伝統、開拓の営為が織り成す多文化な河川景観 6,084,550㎡


二風谷アイヌ文化博物館はB区域の中核施設であると同時に、町教委文化課の所在地でもある。おかげでカウンターの女性に「重要文化的景観」のことを聞くと、文化的景観専用の大きなビニールファイル(上右)に入った地図兼パンフレットを頂戴した。ただし、その女性は専門家ではなく、担当者が昼休憩でいないとの理由で、訪問者がどこに行くべきなのか、うまく説明できない。少々、途方にくれた。なにぶん町の面積はひろく、各区域間の距離も相当ある。いったいどこに行けばよいのか。どこがビューポイントなのか、皆目見当がつかない。まぁ、仕方ない。とりあえず、屋外に復元されているアイヌ・コタン(村)の写真をとり、お土産屋さんに入って休憩することにした。

そこでブルーベリー・ソフトを食べていると、店の奥さんが茹でたてのトウモロコシをサービスしてくれた。こちらの奥さんも、重要文化的景観のことをよく知っているとは言えない。二つばかり質問した。まず第1に、「重要文化的景観に選定されたことで観光客は増えましたか」と問うと、あからさまに「No!」。
「昔は多かったんだけど、今はさっぱりだわ。北海道全体では観光客が増えて
いるっていうんだけど、平取は駄目ねぇ・・・」
次に義経のことを聞いてみた。北海道の人は、ほんとうに義経が蝦夷に落ちのびてきたと信じているのですか、と訊ねると、「そのとおり。だって、あちこちに伝承やら遺跡やら残っているもの」とのこと。平泉で義経は死んだことになっているのですが、という質問に対しては、
「平泉で死んだのかどうか知らないけれど、仮に平泉で死んだとしても、
いったん蝦夷に入っているのは間違いないわよ」
[アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観]の続きを読む
- 2008/09/03(水) 00:03:42|
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世界遺産暫定一覧表記載資産候補 一夜あけた29日、午前から会議が開かれた。もちろんオホーツク文化住居復元基本設計のためのミーティングだが、それは黒帯くんのためのレクチュアを兼ねている。まずTO大の准教授がパワーポイントを使って、北海道の先史文化と常呂遺跡群に関するとても分かりやすいプレゼンテーションをしてくれた。黒帯くんには良いオリエンテーションになったと思う。そのパワーポイントは以前、整備委員会でみせていただいた記憶があるのだが、わたしにとっても、常呂先史文化の記憶を呼び覚ますよい刺激になった。
だから、黒帯くんではなく、わたしが何度も質問をした。復元の対象となる10号住居の壁、床、柱、竪穴の深さなどに関する情報をできるだけ詳しく知りたかった。また、10号では失われた情報が他の住居跡で残っている場合がもちろんあるので、どれぐらいの類例、参考例があるのかを確かめたかった。黒帯くんは、その問答をずっとメモし続けている。わたしはかれに何度か質問するよう促した。
「わたしたちはプロ同士で話し合っているが、君はまだ3年になった
ばかりだから、基本的な用語でもなんでも訊けばいいのだよ」
と言うのだが、かれは恥ずかしげに黙ったままだった。

しかし、このミーティングはとても意義深いものであった。なにより残された時間でなすべき作業が鮮明になったからだ。一つは文献のコピーである。オホーツク文化住居の復元に係わるできるだけ多くの文字資料をコピーし、ファイルする。いまひとつは視察すべき復元先行例があきらかになり、それを北見市の担当官とTO大の教授が分担して案内してくださるというのだ。この日の「座講」が「情報収集」と「視察」の途を開けてくれたのである。TO大の先生方は、来年2月に正式な委員会を開催するので、その場で黒帯くんに復元研究の成果を披露してもらおうと言ってくださった。ちょうど流氷の季節。かれをもう一度連れてくることができれば、わたしも本望だ。

昨日のブログでは、市を批判しすぎてしまったかもしれない。今日は自己批判もしておこう。わたしはもっと早くTK町に入らなければならなかったし、それができないわけでもなかった。思い起こせば、8月20日、わたしは
仙台にいた。仙台から札幌経由で飛べば、遅くとも21日には町に入ることができたのだ。そうすれば、当方の意図を直接伝えることも容易だったし、インターンシップ当初から黒帯くんのメニューを細かく調整することもできた。恥ずかしながら、東北からいったん帰鳥したのは、
六弦倶楽部第8回練習会のための「練習」をしたかったからで、それが黒帯くんを9日間も現場に縛り付けた遠因になったかと思うと、まことに情けない限りである。そうなんだ、わたしは東北で「
ギターを抱いた渡り鳥」だったんだ。あのまんま常呂入りしても練習はできたし、22日の夜には鳥取に戻ることも不可能ではなかった。もっとも、わたしが21日に常呂入りしていた場合、TO大以外の学生は参加してほしくない、と発言した人物との間で一悶着あったかもしれない。
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- 2008/09/02(火) 01:31:49|
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苦境と忍耐 TK町から送られてきた黒帯くんの
レポートを読み、不安な気持ちが宿りはじめた。みなさんはあの記事をどう読まれただろうか。「こんなに充実した一週間は、これまで経験したことがないかもしれません」という冒頭の一文はなんとも感動的だが、「私は今、考古学漬けの毎日です・・・」と続く段落を読むにつけ、早くも「えっ??」という違和感を教師は覚えた。そして、第3段落に「最初の頃は、・・・少し気まずかったし、考古学の分野も初めてで戸惑いもおおいにありました」とあって、さらに第4段落には「TO大の先生や学生皆さんの前で進行状況の発表や、発掘日誌をアドバイスを受けながら毎日提出していくうちに、必死で、先生・学生の話をメモにとって頭に叩き込んだり、博物館で勉強したりと、がむしゃらに頑張っています」とある。

わたしはますます「おかしい」と思い始めた。さらに読んでいくと、「夜の宴会がめちゃくちゃ楽しい」としながらも、「・・・少し寂しいです。知っている顔が恋しいので、浅川先生が来られるのを楽しみに待ってます」で文章が終わる。
このレポートは「充実している」「頑張っている」という表現を前面に出しながらも、その行間に「不安」や「孤独感」を暗号のように散りばめたメッセージだと思えてならなかった。心配になったわたしは、KT市の担当官に対してクレームに近いメールを深夜送信した。鳥取空港から飛行機が飛びたつ7時間ばかり前のことである。
この夏、黒帯くんをTK町に派遣したのは遺跡整備の目玉として復元予定のオホーツク文化10号住居の基本設計が研究室に委託されてきたからだ。後期、黒帯くんにこの復元設計と模型作りを担当してもらおうと考えたわたしは、毎夏TO大がおこなう発掘調査演習の期間に黒帯くんを派遣して、KT市の文化財関係者やTO大の先生たちと交流を深め、オホーツク文化の基礎を学び、住居遺構から得られる情報を最大限収集してくるのがよいと思っていた。
KT市はあきらかに勘違いしている。わたしは7月までに何度もメールで相手方の無理解を修正しようと試みた。その結果、あれだけメールを流したのだから、すでにこちらの思惑は十分通じているはずだと判断するに至った。これが甘かった。考古屋さんたちは、どんな学生でも発掘調査現場に放り込んでおけばよいと思っている。あとは、土日に近隣の博物館や復元建物に連れていってやれば満足して帰っていくだろう。それで、復元設計ができると思っているのだから、始末に終えない。
わたしはあらかじめ、以下のお願いをしていた。
1.黒帯くんの派遣は、オホーツク文化住居復元の前提段階にあたるものなのだから、復元に必要な基礎知識を学び、必要な情報を収集することを第1の目的とします。
2.発掘調査実習への参加は不必要ではないけれども、それは全日程の50%以下にしてください。
3.したがって、考古学を専攻するTO大の学生と黒帯くんのカリキュラムは別メニューにください。黒帯くんの場合、「座講」と「視察」が重要です。

女満別空港から現場に向かう車中、不安は現実であることを確信した。昨夜わたしが発信したメールすら読まれていないのだ。はたして、チャシの現場につくと、黒帯くんはトレンチの脇で断面図を実測している。久しぶりにかれの笑顔に接し、心底安堵する一方で、不信感はますます増幅していった。
黒帯くんがTK町入りしたのは8月20日。わたしが現場を訪れたのは8月28日である。すでに9日という長い時間が過ぎているのに、かれはまだ現場にでているではないか。残された時間は移動日を含めても5日しかない。過ぎ去った9日の間に若干の「視察」はなされているようだが、ただのいちども「座講」はおこなわれていなかった。
わたしは、現場にいた関係者全員(もちろん学生は含まない)にクレームを発した。考古屋全員が「復元」を舐めている。遺構図一枚渡せば、あとは適当にちょいちょいとCADで図面を仕上げ、模型も作ってしまうと思いこんでいるのだ。その程度の認識だから、これだけの扱いになるのだろう。鳥取から学生を派遣して、その指導教員までやってきているというのに、関係者全員での建物復元に関する会議を開くという発想さえない。わたしは飲会のためにやってきわけではないのだ。
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- 2008/09/01(月) 00:03:47|
- 研究室|
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