21日午後3時から京都のD社大学で次女の卒業式があり、患者を連れて行ってきた。ワイフの体調は決してわるくはないけれども、
脳動静脈奇形が完全に壊死したわけではなく、依然、定期的に通院する「患者」であり続けており、軽度の身障者(杖歩行)に認定されている。だから、出発も移動もなかなか予定どおりに進まない。近鉄電車の切符売り場で身障者用の呼び出しボタンを押したのだが、窓から出てきた係員が不親切きわまりなく、いったいどこのボタンを押したら適切な切符が買えるのか分からずじまいで、結局、ボタンを押し間違え、再度係員を呼び出して、精算してもらったりしているうちに、京都国際会館直行の急行がでていってしまった。
今出川のD社大学に着いたら、午後3時半前。娘から「会場の栄光館は満杯だから、明徳館の教室でスクリーンを見て!」というメールが入った。これで3通め。しかししかし、D社大学のキャンパスはひろく、明徳館の場所がまた分からない。やっとのことで探し出し、前を向くと、二つのスクリーンに卒業式の様子が映し出されており、学長さんの式辞の真っ最中だった。なるほど、こういうお話をされるから、式中に3回もメールが送られてくるわけだ・・・
ところで、娘は商学部の学生でして、卒業生はなんと835名。商学部だけで、環境大学卒業生の3倍近くに達するわけだ。式場に入れない父兄が教室に溢れるのも無理からんわけです。ちなみに、この大学では卒業式を3日に分けておこなう。娘も前日は友人の卒業式に祝福に行き、この日は友人が駆けつけ、翌日はまた別の友人の卒業式にでかけていった。
キャンパスも賑やかだ。なにより学生の数が多い。重要文化財に指定された赤レンガの建物に囲まれ、若い学生たちたちが躍動する姿をみているだけで、過去と未来の融合を感じ取れる。そうそう、明徳館にはスターバックス似のカフェもあって、ワイフと二人、ラッテとシェイクを飲みながら娘を待った。いつか訪れた
TO大キャンパスのスタバを想い出したりしてね。TO大も明治建築が多くて、雰囲気のよいキャンパスだと思いましたが、D社大のキャンパスもほんと綺麗で、わたしが12年間過ごした百万遍のKY都大とはえらい違いです。このように、どんな大学でもキャンパスの一部にカフェぐらいおいているのですよ。わたしはこれまで何度も環境大のキャンパスに鳥取県初のスタバを誘致しようと提言してきたんですが、だれも相手にしてくれません・・・
娘は友だちと一緒にあらわれた。袴ではなく、振り袖を着ている。薄いピンクの振り袖。じつは母の振り袖なのです。長女は成人式の際、この振り袖を拒否し、緑の振り袖を新調したが、わたしは似合うとは思わなかった。安物なんだもの。母の振り袖のほうがずっと高級品です。次女は成人式でも、卒業式でも母の振り袖を着た。この点に関しては、親孝行だね。気品のあるよい着物だ、うん。袴ではなく、母の振り袖を選択したのは大正解だよ!
それから正門?にでて記念撮影。残念ながら、その写真は掲載できませんが、代わりに知らない女の子たちの記念写真を掲載しちゃおう。
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- 2009/03/29(日) 00:08:58|
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卒業式を終えた今、自分の4年間を振り返ってみた。
2005年、知り合いは政策の子一人しかおらず、知り合いが一人もいない(顔と名前だけ知っている人はいたけれど)デザイン学科に飛び込む。右も左も分からなかったけれど、分からないなりにどうにかすごした1年生。
2006年、少しずつ分かり始めたと同時に学校で過ごす時間が増え、政策の友達に体を心配される。が、本人はデザイン生と過ごす時間が増えたことで友達が増え、わいわい楽しくのんきに過ごす。CADに挫折しそうになり、逃亡を考えた2年生。
2007年、ゼミに分かれ、一人ひとりが高い能力を持った先輩方と会い、「自分はやっていけるのだろうか」という不安と「同じようになれるかな」という期待におののく。もちろん小中高と上級生がいたが、これまではそんなに先輩方と何かをするという機会がなかったので、初めて「こんな先輩になりたいなぁ」と感じた3年生。
2008年、文化的景観?限界集落?板井原?…と「?」から始まった卒業研究。分からないなりに現地を歩き回り、本を読んでみる。そしてゼミに3年生登場。サークルの後輩とはちょっと感覚が違ったけど、みんなステキな人たちで「みんながうちのゼミでよかったぁ」と感じた4年生。
このほかにも、もちろん書ききれないくらい様々なことがあった。高校は家政科だったので、理数系の授業はまったく分からず苦労した。好きなことはとことんするため、模型作りに凝りすぎて友達に「他(レイアウト)に進みなさい!」と怒られた。初めての文化系サークル活動に入って、今までにない体験を繰り返した。雪が積もれば、子供のように友達とはしゃいで遊んだ…。
この濃い経験は、必ずどこかで役に立つと信じています。
最後になりましたが、先生大変お世話になりました。いつものんびり構えていた私に、とても手を焼いたことでしょう。本当にありがとうございました。
※今の3年生は優秀な人たちばかりなので、公聴会前と展示前のエピソードは、きっと今回限りだと思います。ご安心を。
同じゼミ生の今城さんや岡垣くんは本当に能力が高くて、いつも隣にいていいんだろうかと不安でしたが、その能力の高さによって何度も窮地を助けてもらいました。また、福井くんのいつも礼儀正しい姿に頭が上がりません。見習わなきゃと毎回教えられていました。3人と同じゼミ生で本当によかったです。どうもありがとうございました。
そして3年生の宇田川くん、大給くん、門脇くん、森くん、いつも気軽に話しかけてくれてどうもありがとうございました。みんなと話するのとても楽しかったです。4月から来る新3年生と協力し合って活動していってくださいね。
・・・とまぁお別れの挨拶を書いてみましたが、私は4月からも同じところに暮らしています。どこかでばったり会ったときは、声を掛けてやってください。
あ、最後の最後にもう一言。何度かこのブログで「キム姉(私)の入れてくれたお茶はおいしかった」と書いていただきましたが・・・残念!
そのほとんどは今城さんが入れたお茶を配っているだけだったのでした。(ヒラ、キム姉こと木村歩)
- 2009/03/28(土) 00:00:44|
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先日、無事に卒業式を迎えた。大学生活の4年間を振り返ると、あっという間だったという気もするし、そうではない4年という時間の重みも感じる。
大学に入学した1年目は、初めて親元を離れ鳥取で生活することやこれまでと違う学習スタイルに慣れることで精一杯だった。生活面においても学習面においても、自分自身のことをこれまで以上に自己管理する必要があり、とにかく1年目は初めてのことがたくさんあったように思う。特にその冬は雪がよく降り、大雪の日にはどうやって大学にいこうかと悩んだことをよく覚えている。雪がほとんど積もらないところで生活していたので、雪の中を頑張って自転車で走ったり、雪が積もった夜中に歩いて大学に作業をしに行ったりと、今考えるとなんであんなことしたんだろうと、笑えることもたくさんしてきた。
2年目、3年目は所属するサークルの部長を務めたり、しゃんしゃん祭に参加するための踊りを教えるリーダーをしたり、委員会に所属したりと、勉強だけでなく課外活動も盛んにおこなっていた。しかし、なんといっても研究室で3年の後期におこなった加藤家住宅のパンフレット作りが、強く印象に残っている。冊子の編集作業にレイアウト、加藤家住宅に関わる人にインタビューをしたりと、初めてづくしでてんてこ舞いになった。苦労はしたけれども、無事にパンフレットとして手元に届いたときは、「頑張った甲斐があったなぁ・・・」という思いと、「多くの人に協力してもらっていいものが出来てありがたいなぁ・・・」という感謝の気持ちが湧き起こった。2年目、3年目は特に人と出会い、幅広い交友が持てた2年間だったと思う。
4年目はもちろん、卒業研究にいそしんだ。夏には調査に出かけ、その後は調査内容をまとめたり文化的景観について勉強して知識を深め、そして最終的になんとか論文として完成した。その課程では、研究室のメンバーにいろいろな面で支えられたり、時には他の研究室の友達にもアドバイスをもらったり、と様々な人に協力をもらった。特に先生には、時には温かく時には厳しく指導していただき、様々な面で多大な恩恵をいただきました。ほんとうにありがとうございました。
いろんな人の協力やアドバイスがあったからこそ、こうやって無事に卒業が迎えられました。さらには、卒業論文の銀賞を受賞し、また成績優秀で表彰をいただき、環境デザイン学科の代表として壇上で学位を受け取ることができました。(ちなみに新聞にも載りました!)
これらは自分ひとりの頑張りではなく、先生や研究室のメンバー、多くの友達や私に関わってくれた人に支えられて、つかむことができました。ほんとうにありがとうございます!
これからは大学院。鳥取で5度目の春を迎え、また新しいスタートを切ることになる。正直なところでは、卒業した実感がなかなか湧かないし、多くの時間を一緒に過ごした友達と離れ離れになる実感も湧かない。それでも新たな時間は始まる。これからの2年間は就職した友達に負けないよう研究に励み、そして後輩をサポートできるようになっていきたい。
2年後にまた振り返るときがきたら、この4年間よりもっと充実した思い出がたくさん残っているように、「充実しすぎて2年間があっという間だった」と言えるように。(部長こと今城愛)
- 2009/03/27(金) 00:03:49|
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「鶏口牛後」。この言葉を胸に刻んだのはいつだっただろうか・・・。
高校3年生の夏。建築の道へ進むことを決意したが、この時期になってもまだ志望大学を決定できずにいた。というのも、私が学びたいジャンルを扱っている大学は数少なく、当初目標としていた国立大学においては、ほんの一掴みしかない。そんななか某国立大学の助手から浅川教授の話を聞いた。これこそが環境大学に入学するきっかけであった。しかしながら高校3年の秋を間近に、急に私立大学に進路を変更したことは、周りのひんしゅくをひどく買った。高校の進路指導や担任は唖然としていたことを思い出す。何度も「考え直せ」という言葉を聞いた。そんなとき父にいわれたのが「鶏口牛後」だった。
寧為鶏口無為牛後 (むしろ鶏口となるも牛後となるなかれ)
大きな組織に付き従って軽んぜられるよりも小さな組織の長となって重んぜられるほうがよいという故事成語だ。「鶏口」は鶏のくちばしのことで、弱小なものの頭(かしら)のたとえをいい、「牛後」は牛の尻で、強大なものの末端を指す。
地元の小さな大学といわれているが、そこに本当に自分がやりたいことがある
のなら一所懸命やってみろ。そして、いつか「鶏口」となって周りを見返してこい。
この父の言葉を胸に、入学後は日々邁進してきた。
講義はもちろん、まだゼミ室に配属される前に念願のASALABに迎えてもらい、気付けばいつのまにか4年間が過ぎていた。尾崎家住宅の実測に始まり、加藤家住宅の修復、ベトナムの水上集落の調査、大学紀要の編集・刊行、復元コンペなど。大学の講義やASALABの活動を通して、今日の保存と修復をめぐる活動が複雑なものであることを知り、建築技術の習得にとどまらず、保存修復に関する理論や歴史、さらには景観について研究を深める必要があると感じた。これらひとつひとつの経験は、私を大きく成長させた。これらすべてが私の歩んだ軌跡であり、貴重な財産である。
私がこうして「鶏口」に近づくことが出来たのは、浅川滋男先生の厳しくも温かいご指導があったからである。さらには多くの仲間や後輩をはじめ、たくさんの方々が支えとなってくれたからだということを決して忘れてはならない。鶏に「口」があるのは、体があり、足があるからこそである。そうでなければ、動くことも羽ばたくことすら出来ない。
来年度からは、大学院に進学する。学部時代においては本当にいろんな方々にお世話になった。これから頑張っていく後輩を支える意味でも、今度は私が鳥の体となり、足になりたいと思う。そしてこの2年間は「牛後」から「牛口」にのし上がる力も身につけたい。
この4年間ご声援くださいました皆様、大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。修士研究においてもより一層精進いたしますので、今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
Mr.エアポート(環境デザイン学科 5期生 岡垣 頼和)
- 2009/03/26(木) 00:07:18|
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時が経つのは本当に早いですね。
振り返ると二年前、どうしようもない私を拾ってくださった浅川先生のご厚意で、研究室の一員になる事ができたのです。研究室での当初は、あまりのレベルの高さに私は凄く戸惑いを感じていました。「僕はとんでもないところに入ってしまった」と…。
今だから言えることですが、自分の不甲斐無さを感じ、怯え、時にはプレッシャーに押しつぶされ、気が狂って泣き出した夜もありました。本当に不安と焦りで一杯一杯だったな、と。そんな私に「福井さん」「福井君」「福井ちゃん」「福井」と最後まで、見捨てずに声をかけてくださった皆さんの言葉が、私は何より嬉しかったです。
私はこんなにも素晴らしい仲間に支えられ、恵まれていたのだとあらためて実感するのです…。浅川研究室5期生として、大学生活の終盤を過ごせた日々は私の財産となり、思い出になりました。同時に、自分自身で手一杯で無力な私は、皆さんの力になれなかった事を、本当に情けなく、申し訳ない気持ちで一杯です。皆さんは私を助けてくださったのに…。本当にありがとうございます、そしてごめんなさい…。
こんな私でしたが、皆さんの支えがあり、何とか卒業を迎える事ができました。また同期の3人、Mr.エアポート君(岡垣君)、部長さん(今城さん)、キム姉さん(木村さん)が輝かしい賞を手に、大学生活を飾れた事を凄く誇りにおもい、敬意を表します。こんな素晴らしい研究室のメンバーの一員として、共に過ごした日々は私にとって毎日が勉強でした。無知な私をいつもやさしく助けてくれた3人には心から「ありがとう」と言いたいです。
それから、4月から研究室を引っ張っていく事になる3年生の皆さん。皆ホントに優秀で、先輩でありながら私の方が学ばせてもらう事が多かったです。これからも浅川研究を盛り上げてくださいね。陰ながら応援しています。謝恩会で頂いた花束と寄せ書きは嬉しかった…。ありがとう。
ホカノさん(岡野さん)。私が困っているときにはやさしく相談に乗ってくださり助けて頂きました。ホント頼ってばかりで…。ありがとうございます。
そして、浅川先生。研究室始まって以来の「ならず者」であったであろう私を、最後の最後まで見捨てずにお付き合いくださり、ありがとうございました。こうして私が卒業を迎えられる事も先生の熱いご指導あっての事です。お世話になりました。
これから各々の生活をスタートされる事になりますが、皆様のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。
またお会いしましょう(鳥取にいますのでまたすぐヒョッコリ現れたいとおもいます 笑)。
お世話になりました。浅川研究室に幸あれ…。
ピヴォ(福井浩人)
- 2009/03/25(水) 00:57:09|
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院生には学部生の学科表彰みたいなものはありません。式典では修了書を貰うのみでしたから、参加者のなかで一番冷ややかだったかもしれません。修了書の授与は院生から、しかも学籍番号の若い順からということで、私は最初に学位記をいただくことになってしまいました。名前を呼ばれたとき、かなり動揺しました。段取りなんて聞いてないので、一連の動作が不審だったと思います。もっと胸はって出ればよかったのですが、授与の際は猫背になっていたそうです。やはり私は小心者です。
式典後、とりぎん文化会館のフリースペースで3年生から花束を頂きました。花束のなかに寄せ書きが添えられていましたが、まだ読んでいません。ところで、3年生は胸に一眼レフのデジカメをかけていました。例の「
最終講義」で使い方を教えたので、ここで実践してくれたみたいです。このカメラを使い、毎年恒例行事の2階ホワイエで記念撮影を行ないました。たしか、3年前は座禅をしたり、2年前は片腕を突き出したりと趣向をこらしたはずですが、今年は無難な構図で撮り終えました。
私は2期生であり、学部に4年、修士課程で3年の7年間、鳥取環境大学に籍を置いていました。古狸です。それでも修了・卒業式では学部の同期の顔も何人か見かけました。挨拶をして、お互い「なんか恥ずかしいよね」と言葉を交わしました。やはり知った人が少ないとアウェーの雰囲気を感じます。加えて、学生証とデジカメを忘れてしまい、式典を充分に満喫できた覚えがないです。それでも楽しかったですし、最後によい想い出ができました。
私の勤務地は関東に決まり、頻繁に鳥取に来ることは叶わない距離になってしまいました。研究室では便利屋稼業みたいなことをしてきましたが、もう出来ません。それを少し淋しく思います。至らない部分が多く、そして、それを就職後に残してしまうかも知れませんが、お許しください。最後となりますが、私は先生方をはじめ、先輩・後輩などの仲間やいろいろな人に恵まれていた7年間だったと思います。ありがとうございます。(某大学院生、ホカノこと岡野 泰之)
- 2009/03/24(火) 00:09:22|
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「目が覚めて、窓外に映るチャオプラヤ川の流れに目を奪われた。浮遊する植物の
固まりが泥河の流れにのって下流に動いている。その水草は蓮であった。仏教の
象徴であるロータスが、群れをなして流れて行く。諸行無常の蓮の華。」
(
タイ王国仏教紀行Ⅴ)
上は2005年の年末にバンコクのホテルで著した紀行文の抜粋である。卒業式を迎えると、わたしはチャオプラヤ川を流れていく蓮の固まりを想い出す。デッキで朝食を摂りながら、目の前にあらわれては消える蓮にみとれていた。卒業していく学生たちは、あの蓮のようなものだ。教師たちの前を足早に通りすぎていく。かれらにとって、教師たちは一種の「定点」にみえるかもしれない。しかし、じつは、教師もまた動いている。その点では、教師自身が船に乗っているようなものだ。ゆったりとした船に腰をおろして川下に向かう教員を、高速船に乗った学生たちが追い越していく。そして、二つの船は二度と交わることはない・・・
というわけで、少々遅れてしまいましたが、3月20日10時半よりおこなわれた2008年度鳥取環境大学卒業式(学位授与式)について報告します。ゼミ生では、福井君が就職活動の2次試験と重なり、卒業式に出席できなかったことがなにより残念でした。
しかし、まずは祝辞ですね。
卒業生のみなさん、大学院修士課程修了生のみなさん、おめでとうございます!
会場は昨年同様、とりぎん文化会館改修中のため、全学の学位授与式が市民会館でおこなわれた後、環境デザイン学科と情報システム学科がとりぎん文化会館の小ホールに移動しました。
全学の学位授与式では、今城さんが環境デザイン学科首席、岡垣くんが「安土城見寺学生復元設計競技受賞をはじめとする建築史学に関する一連の功績」を評価され、課外活動部門で個人表彰をうけました。
学科の学位授与式では、全員に学位記が手渡され、その後、表彰に移りました。すでに報告したように、卒業研究は作品部門で岡垣が金賞、論文部門で木村が金賞、今城が銀賞を受賞し、さながらASALABのための表彰式のような感もありましたが、学部生・院生一同、これからも奢ることなく、気持ちをまっさらにリセットして、学外にも通用する学業活動を進めていただきたいと願っています。
じつは、翌21日にもうひとつの卒業式を控えていました。5期生と同い年の次女が京都のD社大学を卒業するのです。娘は母親に卒業式にきてほしいと頼んでいて、母親も参列を希望しており、わたしは身障者の付き添いとしてD社大学に行くことになったのです。ですから、20日中に奈良に帰らなければなりませんでした。謝恩会は花束贈呈まで出席して退席し、今年は「
西」ではなく、「南」へ向かうことを決めていたのです。学科の学位授与式後、ゼミ生全員で記念撮影し、3年生を引き連れて「
道」へ移動。5人で昼ご飯を食べながら、4戦めのWBC日韓戦の9回裏をみとどけました。謝恩会まではまだ時間があり、いったん対面の下宿に戻って荷物整理し、花束贈呈の時間を電話でエアポートに確認したところ、「今年から花束贈呈はなくなった」そうで、謝恩会に出席する必要はなくなりました。卒業式を欠席した福井君が謝恩会から顔をだすことになっていて、ひとめ会いたかったのですが、あとで電話したところ、かれが謝恩会に到着したのは午後4時を過ぎていたとのことで、すれ違いは決定的だったようです。
というわけで、鳥取の卒業式は終わりました。卒業生のみなさん、卒業式は終わったのですよ。いつまでも節目に酔いしれていてはいけません。新しい戦いが目前に迫っています。
[2009卒業式(Ⅰ)]の続きを読む
- 2009/03/23(月) 00:00:40|
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春の風が心地よく桜が咲き乱れそうな今日この頃みなさまいかがお過ごしでしょうか。
お久しぶりのガードです。
私ガードが
奈良時代後期の住居を復元した『野田Ⅱ遺跡』(一戸町文化財報告書第63集)の報告書が1週間ばかり前に届きましたので、ご報告させていただきます。報告書の構成は下に示すとおりです。教授とわたしが担当したのは、Ⅴ章「古代の竪穴住居跡の建物復元」です。全頁カラー刷りの美しい仕上がりになっております。
以下、基本的な図書情報です。
野田Ⅱ遺跡 目次
Ⅰ.調査の経過
Ⅱ.遺跡の位置と環境
1.遺跡の位置と周辺の地形
2.基本層序
Ⅲ.調査結果
1.竪穴住居跡・竪穴状遺構
2.陥穴土坑
3.土坑
4.柱穴
5.出土遺物
Ⅳ.炭化樹種鑑定
Ⅴ.古代の竪穴住居跡の建物復元(浅川・門脇)Ⅵ.まとめ
編集・発行: 一戸町教育委員会
印刷: 川口印刷工業株式会社
発行日: 平成21年2月18日
V章の抜刷を入手ご希望の方はご連絡ください。最後に、この報告書が多くの人に見ていただけることを願って、本日の報告を終わらさせていただきます。(3年ガード/別名Mr.カドックス)
- 2009/03/22(日) 11:21:39|
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卒業式とWBCは因縁がふかい。3月開催なんだから当たり前だろう、と言われればそれまでだが、3年前と状況がよく似ている。3年前は
2期生の卒業で、ASALABは3冠を達成した。初代キムが首席(学業成績1位)、社長(宮本)が卒業研究作品1位(当時は「金賞」とは呼ばなかった)、ピエールが卒業研究論文1位(こちらは当時から「金賞」だった)。この時期を、わたしはASALABの「最盛期」と呼んでます。ところが、3年経った今年もまた3冠を達成してしまった。首席が部長、卒業研究作品1位(金賞)がエアポート、卒業研究論文1位(金賞)がキム姉。ひょっとしたらと思ってはいたのだが、3冠達成が再現されたことを嬉しく思う。参考までに述べておきますが、他に3冠を達成した研究室はありません。2冠どまりです。作品1位と首席は獲れるでしょうが、論文1位は獲れない。
3年前に3冠を達成した卒業式の日、WBCの決勝と時間が重なっていた。わたしは式が終わるやいなや疾風のごとく田園町の下宿に舞い戻り、日本対キューバの放送画面に釘付けになった。しばらくして、社長とピエールがあらわれた。謝恩会の花束贈呈に間に合うようにと迎えにきてくれたのだが、二人は木津高校野球部のOBでありまして、WBC決勝に興味がないはずはない。2人もまた画面に吸い寄せられ、3人仲良く炬燵を囲んでテレビをみたのが遙か3年前か。今年の卒業式は
WBC第2次ラウンドの決勝と時間が重なった。それほど重要な試合ではない。両チームとも準決勝、決勝のために好投手を温存した。勝てば開催国アメリカ、負ければベネズエラということもあり、勝つが良いのか負けるが良いのか分からない試合ではあった。ただ、日韓戦は特別ですよね。日本の場合、負ければ3連敗という屈辱にまみれることになるので、国民はみな緊張してこの試合を見守っていたわけです・・・
卒業式の真っ最中にどうやって試合を見守るのかって? 時は流れ、ワンセグというものが登場したではないですか。えっ、ワンセグ携帯もってるのかって?? もってませんよ、エアポート君に借りたんです。こういうことを正直に書いてはいけませんね。厳粛な卒業式でワンセグを視るとはけしからん、とお叱りを頂戴しますもんね。お叱りを頂戴したって仕方ありませんが、あれだけワンパターンのスピーチを毎年くりかえされると、(またおんなじことしゃべってる)とただ呆れはて、神経はワンセグ画面にむかってしまうのです。いちど授業評価ならぬ祝辞評価を学生にしてもらったらどうでしょうかね。1・2・3・4・5のどこに○がつくでしょうか。それにひきかえ、学生の送辞と答辞は良かったですよ。学生のスピーチにはハートが籠もっている。文面もよく練られていて、感心したり、笑えたり・・・大人たちには奢りがあるけれども、学生たちは謙虚で夢がある。われわれが学生たちに教えを受けているようなものです。
さて、その前夜。卒業生と修了生だけを対象に送別会を開きました(予算の関係上、3年生が呼べなくて・・・ゴメン!)。会場は「
アフターアワーズ」。カントリーブルースギターの雄、打田十紀夫のライブがあって、学生諸君を無理矢理つきあわせちゃった。申し訳ありません。これについては、打田さんもお見通しでして、
「男のお客さんはギター弾かれるんですよね、同席してらっしゃる女性は
だいたいおつきあいの方でして、ほんとはギターなんか興味ない・・・」
半分は当たってます。同席していた女子学生はみんなギターを弾かないし、たぶん興味もないでしょう。しかし、半分は間違っています。同席していた男子学生(およびOB1匹)もまたギターを弾かない(興味があるかどうかは人によって違うでしょう)。
[ココナッツ・クラッシュ]の続きを読む
- 2009/03/21(土) 11:05:46|
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知識と情と炎と 一夜あけて14日。ポカラの靄は晴れない。ホテルの出発は午前8時と決まっていたが、シュリさんから電話が入り、9時出発に変更になった。
「靄で飛行機が飛ばないんですよ。昨日は5時間遅れの便もあったそうです」
・・・9時15分ころ、空港に着いたが、ロビーはウェイティングの客で溢れている。飛行機はいつ飛び立つのか、まったく検討もつかない。
2階の屋上にあがり、しばらく景色を眺めていたが、靄の状況に変わりはなく、状況が激変するとは思えなかったので、レストランに入ってミルクティーを注文し、ラップトップに携帯をつないだ。ネットは好調。仕事はいくらでもある。
さて、キーボードを叩くか、という段になって、シュリさんが食堂に駆け込んできた。
「急いでください。今なら乗れる飛行機があります!」
カップにミルクティーを残したまま、ラップトップを休止モードにしてリュックに放り込み、急ぎ検閲所へ。わたしたちが乗り込んだ飛行機は、小さなプロペラ機だった。シュリさんは「インチキをした」のだと懺悔した。
「チケットをもっている大きな飛行機はいつ飛ぶか分からないから、
チケットを替えてもらって割り込んだんです」
そうとうな「顔」なんだ。小さな飛行機は遅かったが、1時間ばかりでカトマンズ空港に無事着陸した。元の飛行機に乗っていたら、カトマンズ到着は午後3時半まで遅れたことが、あとで分かった。シュリさんの判断は絶妙だったのだ。
昼食はチベットの鍋料理。前日、ポカラではチベットの難民キャンプを視察した。いまやテントなどどこにもなく、立派な避難住宅が軒をつらね、難民たちは絨毯織りに精を出していた。平和なキャンプだった。昼食後、喧噪の都市空間へと足を踏み入れた。
カトマンズはネパールの首都であり、最大の都市である。旧王宮地区(ダルバール広場)はもちろん世界文化遺産で、中世マッラ王朝期の建築が群をなしている。建築の質がバクダプルやパタンに劣るはずはない。しかし、空気が靄で煙り、塵埃が建築に降り積もり、清浄さを翳らせている。街の通りや小路は人と車とバイクとシクロとゴミで埋め尽くされている。こういう都会の喧噪を好む人も少なくないだろうが、わたしは駄目だ。ルムレが恋しく、ポカラに帰りたくなった。
ただ、美人が多いとも思った。化粧して着飾った都市の若い女性たちにしばしば目を奪われる。カップルももちろんあちこちにいる。そういえば、女装したオカマさんらしい二人連れもみた。シュリさんに確認したところ、たしかにカトマンズにはそういう人たちがいるとのこと。旧王宮にはデモ隊まであらわれた。一部の少数民族が共産主義政権の政策を批判しているらしい。シュリさんは、共産主義者、とりわけその支配者を「
毛沢東」と呼ぶ。しばらく意味が分からなかったのだが、シュリさんの言う「毛沢東」とはマオイストを指すようだ。ネパールは近年、王政から共産主義国家に変わったばかりで、庶民たちはいま動向を見守っている状況だという。
「マオイストたちの後には中国がいたんでしょ?」
「いえ、違います」
「でも、中国が支援しなきゃ革命が成功するわけない・・・」
「インドなんです。インドが裏でマオイストたちを支援していた。インドは表面的
にはマオイストたちを批判していたのですが、裏では武器を供与し続けていた
ことが分かったいます」
「なんでインドが?」
「インドは周辺の国家をコントロールしたいんです。ブータンなどは従順で、
早くから属国化していましたが、ネパールは独立国家としての自尊心が高い
から、言うことを聞かない。だから、マオイストたちを介してネパールを支配
しようとしたのです」
[ヒマラヤ山麓を往く -ネパール紀行(Ⅸ)]の続きを読む
- 2009/03/20(金) 12:22:44|
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サランコットの丘 13日も朝からトレッキング。もちろんただのトレッキングではなく、ヒマラヤを遙拝できる展望台をめざすものなのだが、ごらんのとおり、この日からポカラ周辺の靄がひどくなった。不思議な靄だ。晴れているのに、視界が狭い。湿った靄ではなく、黄砂のように乾いた靄。翌日、フライトに重大な影響を与える気候現象であることを知った。
サランコットの道は険しかった。ルムレは等高線と平行に石畳の道が通り、道と集落もまた平行関係にあったが、サランコットの道は等高線と直交し集落を貫く。サランコットの展望台からはマナスルが見えるはずだった。しかし、マナスルをはじめとするヒマラヤの連邦を靄のスクリーンが遮蔽してしまった。
サランコットの道沿いには土産物屋が軒を連ねていた。観光客ずれした人たちと接しても、若いころの自分に戻れない。ルムレとは少なからず趣きがちがった。ヒマラヤはみえないし、民家集落もいまひとつ。いつしか植生に目を凝らしていた。
「民族建築」に没頭していた1980~90年代前半、日本人の高名な地理学者や植物学者が「照葉樹林文化論」を提唱し一世を風靡していた。西日本の原生林ともいうべき照葉樹林帯は、植生分布図をみる限り、長江流域以南から雲南・アッサム方面にまでひろがりをもっている。ここに共通の文化圏がある、という発想で、中尾佐助が最初にこの仮説を唱えたのは1960年代の終盤だったはずである。その後、佐々木高明が中尾の理論を実証的に裏付けようと、論著を連発する。かれらの仮説は単純きわまりない。稲作も稲作以前の雑穀栽培も、みな雲南・アッサム地域の「東亜半月弧」に起源すると言いたいのである。
1982年の夏から中国に留学し、いま帝国大学の大教授になってしまった博士課程の考古青年と何度か旅をした。かれはよく口にしたものだ。
「照葉樹林文化なんてことは言えない。考古学の物証とまったく一致しない」
後にかれの指導教官になる北京大学考古系の厳文明教授は、その前年に中国全土で出土した新石器時代の栽培イネの痕跡を丁寧にひろい集め、東アジアにおける栽培イネは長江中下流域に起源し、それが雲南方面に向かって漣(さざなみ)のように拡散していくプロセスをあきらかにしていた。照葉樹林文化論の全盛期に、中国の考古学者は照葉樹林文化論を根底から揺るがす大論文を発表していたのである。
おもしろかったのは、中尾・佐々木の兄貴分にあたる今西錦司が、晩年に「混合樹林考」という論文を著して照葉樹林文化論を痛烈に批判したこと。たしか80年代の終わりごろだったと思う。西日本にも、江南にも、雲南にも、アッサムにも「照葉樹林帯」などという植生域は存在しない。あるのは「混合樹林」だと今西は説いた。その舌鋒は鋭く、「照葉樹林帯が存在しないのだから、照葉樹林文化などというものは架空の産物」だと結論づけた。痛快だった!
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- 2009/03/19(木) 13:19:36|
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ルムレ村の民族誌(下) 1980年代から90年代にかけて、中国の貴州省、雲南省、黒龍江省によく足を運んだ。とりわけ、雲南と貴州の農村地帯は感動的だった。高山の棚田や段畑に囲まれるようにして、少数民族の集落が点在する。どの集落に行っても、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定できるほどの民家建築群が残っていた。わたしたちは夢中になって民家を実測し、集落を測量し、ヒアリングを続けていった。あれからずいぶん時間が流れてしまったけれども、ルムレというカス族の集落をゆっくりゆっくり歩き、休む暇なくシャッターを押しながら、心だけ懐かしい30代に戻っていくような錯覚をおぼえた。
-わたしの居るべき場所はここだ。
なんていうと大袈裟だが、自分らしい自分がルムレにいる。鳥取で「限界集落」に惹かれるのも無理はないのかもしれない。
ルムレのような村落にいると、「建築」が人を圧して疎外することはない。建築は自然や田畑と一体化した日常の「環境」になりきっている。屋根は頁岩の板石葺き、壁は板石の平積み。軸部と小屋組は木造で、軒の出をネパール特有の筋交状持ち送りが支える。この持ち送り技法を除けば、貴州プイ族の「石の家」が最も近く(目を遠くにひろげればオークニーともそっくり)、さらに屋根は対馬、壁は済州島とも似ている。済州島といえば、閂をつかう屋敷の門もよく似ている。これには驚いた。ただし、閂の数がちがう。済州島は3本、ルムレは2本である。
シュリさんは、これまで案内してくれた海外のガイドのなかで、最も聡明な男だった。33歳のかれはなんでも知っている。
「この村に住むカス民族はちょっと複雑でしてね・・・ブラーミンと呼ばれる人たちが
自分たちを偉いと思っています。それから、チェトリという人たちがいます。かれらは
戦士です。いちばん身分が低いのはダマイという人たちでして、衣服を縫ったりする
職人さんたちです」
シュリさんはカーストについて触れたかったのだろう。道を歩いていくと、制服を着た中学生と何人もすれ違った。みな、インド・アーリア系の美しい顔をしている。しかし、そのなかにモンゴルかツングースではないか、と思わせる少女も混じっていた。インド・アーリア系とチベット・ビルマ系が入り乱れており、それがカーストを反映しているのか、という憶測を働かせていたところ、シュリさんはミニバスのなかで付け加えた。
「民家の形に階層があらわれています」
民家にそれほど大きなバリエーションがあるようにはみえなかったが、午後訪問した山岳博物館の野外(↓)に民家が展示してあり、そこでの説明にしたがうならば、どうやら裳階(もこし)状の四面庇をもつ建物がブラーミンの住まいであり、庇のない素朴な平屋の建物が下層階級の住まいであるらしい。(続)
- 2009/03/18(水) 14:34:09|
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ルムレ村の民族誌(上) チャンドラコットから下る林道がY字に枝分かれする三叉路を左に折れると、骨董品のような艶光のする石畳の道がのびている。しばらく進むと、上下の段畑でサンドイッチ状に挟まれた石壁・石屋根の民家集落が視界に納まり、まもなくその内部にわたしたちは入り込んでいった。
上りはつらかったトレッキングが、一転、極楽に変わった。苦しさは微塵も感じない。それは重力に逆らうことのない下り道だから、という理由にもよるのだろうが、そこに懐かしいの自分を発見したからだ。
京都の大学にいた4年間、わたしは建築学科にいることをずっと後悔していた。理学部を志望していたはずなのに、6歳年上の兄が何気なく口から漏らした「理学部なんか行っても就職はない。行くなら工学部」というアドバイスに惑わされた。兄が悪いわけではない。惑わされた自分が悪いのだ。工学部が向いていないことぐらい百も承知していたはずなのに、「建築」には芸術の匂いがする。これに騙されてしまった。入学してまもなく文学部への転学を考えたが、入試の点が思いの外よくなく、叶わなかった。そのまま4年が過ぎてしまい、時は流れて、いま「建築」を生業にしているけれども、「建築を専門にするのではなかった」という思いはずっと消えない。できれば自分の人生を18歳にリセットしたいとしばしば思う。
転機が訪れたのは修士課程1年次の夏。南太平洋ミクロネシアのトラック環礁で2ヶ月間のフィールドワークをほぼ一人でおこなうことになった。トルという島の頂に500年ばかり前の山城跡が残っていて、その整備にともない伝統的な集会所を復元建設するという計画がもちあがった。その記録をとってこい、と教官に命じられた。これがわたしの研究人生における処女航海であり、不思議なことに、その後の方向を決定づける「民族学」と「考古学」という二つの要素が含まれている。もっとも、後者については、好きな学問分野であったわけではない。平城宮で14年間発掘調査に携わったけれども「楽しい」と感じたことはほとんどなく、発掘調査の技術に至っては下手くそを絵に描いたようなもので、こういう自分が各地の遺跡調査の指導をしていることをとても恥ずかしく思っている。
だから再び宣言します。しばらく遺跡の調査や整備に係わる仕事を控えますので。とくに「復元」については慎重に構えざるをえません。以前からそうなんだけど、復元「研究」を否定するつもりはないけれども、復元「事業」に係わる自分にしばしば嫌悪を覚えるので、少しく距離をおきたいと。しばらくわたしに時間をください。
もうひとつ付け加えておくと、わたしの正真正銘の専門分野は「建築史」ではない。日本建築史でもないし、中国建築史でもない。「民族建築」がわたしの専門分野である。「建築史」と「民族建築」はいったい何がちがうのか。前者は時間軸とモノを重視するのに対して、後者はいわゆる民族誌的「現在」を対象とし、モノの背後にある「知識」を記述するものである。
B.マリノフスキーやE.プリチャードの仕事を思い起こしていただければよいだろう。辞書もない未開民族の地に入り、何年もそこに滞在して言葉を覚え、かれらの文化を記述していく。ここにいう「文化」とはモノではない。モノの背後にある「知識」の総体である。「民族誌」を書くという作業は、すなわち、この「知識」の総体たる文化を記述することにほかならない。こういう仕事にあこがれていた。やはり理学部か農学部が向いていたのだ。「辺境」にある「未開」社会は豊かな生態系を背景に素朴な農耕や遊牧や狩猟を生業としている。生物学・生態学や農学の知識が必要不可欠であり、これに言語学の基礎が伴えばなおよいだろう。しかし、わたしの専門は「建築」だ。だから、「建築」というモノを通して文化を見通す、というスタンスをとるしかない。そういう学問領域が「民族建築」なのだけれども、残念なことに、未だほとんど認知されていない分野だという自覚はもちろんある。
- 2009/03/17(火) 17:59:05|
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世界文化遺産パタンの建築群 11日、ナガルコットからパタンへ移動し、パタンの世界遺産建築群に圧倒された。その後、午後2時半の飛行機(国内便)でポカラに移動し、夕方、ホテル近くのネットショップでケーブル線経由の接続に成功し、ブログをアップした。ただ、その店のインターネットは動作がものすごく遅く、作業は遅々として進まない。翌12日、ガイドのシュリさんがUSBケーブルでかれの携帯(携帯を2台もっている)をわたしのパソコンに接続し、セットアップした。シュリさん自身、初めての体験だったそうで、うまくいくかどうか心配だったのだが、二人でセットアップに挑み、成功した。おかげで、ネットのスピードは倍速化した。パソコン端末として機能する携帯電話か。携帯電話ギライのわたしではあるけれども、この能力を目の前にして、「買い換えるか、それとも買い足すか」と思うほど心を動かされている。
毎夜の仕事はネット作業だけではない。デジカメ写真のデータを整理するだけでもたいへんなエネルギーと時間を浪費する。それだけ、ヒマラヤ連峰とネパールの世界遺産が脅威的で、時と我を忘れてシャッターを押し続けているということなのだろう。
さて、旅の順序からして、いま書かなければならないテーマは「パタン」である。「パタン」という言葉を聞くだけで気が重くなる。
パタンの世界遺産たちも凄かった。バクダプルを上回る質と量の建築の集合体がそこにある。それについて本気で書こうとすれば、いったいどれだけの文字が必要なのか。考えるだけでもうんざりする。
それだけレベルが高いのですよ、みなさん。アジア諸国の世界遺産のレベルは日本人が思っている以上にハイレベルなのです。ユネスコが石見銀山にイエローカード、平泉にはついにレッドカードを突きつけたのは無理もない。その判定を受け入れざるをえない、と納得できます。だから、都道府県の世界遺産登録推進担当者にお願いしたい。1年に1~2度でいいから、なんとか機会をつくって、近隣アジア諸国の世界遺産を実際にみてまわっていただきたい。ヨーロッパや中南米にまで飛ぶ必要はありません。アジアで十分です。そうして、まずは彼我の差を実感するところから始めなければ、いま自分たちが世界遺産に登録申請しようとしているものが、どれほどの価値をもつものなのか、相対視できないではありませんか。
マッラ王朝が分裂した後の三国の都のなかで、パタンはラリトプル(サンスクリット語で「美の都」)とも呼ばれる中世の古都である。いま長い文章を書いている余裕はないので、感想を要約的に述べるにとどめる。
パタンはバクタプルではみられなかった上級レベルの仏教寺院が存在する。二つの代表的寺院をみた。一つは石造のマハブッダ寺院。16世紀にパタンの建築職人がインドのブッダガヤに巡礼し、シカラ様式の仏塔に感銘をうけ、パタンに戻ってそれを模倣し建築したのだという。ちなみに、ブッダガヤのシカラ様式の塔は中国まで影響が及んでいる。北京の正覚寺などにみられる金剛宝座塔はその代表例。仏教説話のレリーフで四面を彩る高い基壇の上に5つの塔が並びたつ。基壇も塔も石造である。
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- 2009/03/15(日) 00:37:48|
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【頼りになるMr.カドックス】
こんにちは、アシガルです。
教授が癒しの旅に行かれている間、鳥取でお留守番をしている3年達は何をしているのかといえば、ホカノさんの指導による測量機械の状態、在庫のチェックや測量のノウハウを学ぶため、わざわざ島根から帰ってきたガードくん、狩人くん、そして、私の3人が学校に集まりました。ホカノ先輩秘伝の技の引継ぎの儀です。ちなみに、黒帯君は、北海道で女の子にフラれた
キズがあまりにも大きくて、松江で一人シクシク泣いているので今日は欠席です。(笑)
最初に、修復建築スタジオに置いてある機材チェックからなのですが、ボクは今まで測量の経験がなく、機材も初めて見るものばかり。しかも、どれも高級機材であるため、うかつに触れず、横で大人しくしていることしか出来ませんでした。(面目ない…)
そんな、怖気づいたボクを横目でガードくんは機材をどんどん組み立ててゆく。ガードくんは高校時代に測量を経験したようで、機材の使いかたなど知っており、頼りになります!!
機材チェックも終り続いて測量実習へ。今日の鳥取は、急な突風が吹き荒れる中、野外での作業が厳しく立っているのがやっとな感じでした。実際にトータルステーションを組み立てて、測量してみました(↓)。
う~ん、なかなか難しい。何回かの練習が必要です。
ボクはこのような機械をそつなく使いこなせるホカノさんの偉大さを再認識していました。そっと、手伝っていただいたり、冗談を言って和ませてくれる親戚のおじさんのような存在のホカノさん…。卒業式まで一週間をきりました。名残惜しいですね。
でも、新しい世代へ研究室の技術を伝授するのはすばらしいことですよね。建築でも、古から受け継がれた建築技術を後世へと伝え、さらに次の後世と伝えていきます。ホカノさんから兄弟達へと引き継ぐこととも同じだとに思います。
ホカノさんが居なくなるのは寂しいですが、多くのことを任されたように感じます。そして、来年はボクら兄弟が次の世代へと受け継ぐことになるのでしょう。[アシガル]
- 2009/03/14(土) 01:01:02|
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ナガルコットの朝焼け バクダプルから段畑をぬけて標高2100mのナガルコットまでやってきたのは、ひとえにエベレストを遠望するためであった。電気も水もないダマン族の村は、エベレストの眺望地点として人気を誇っている。
3月11日早朝5時起床(日本との時間差3時間15分)。ロビーの集合時間は5時15分なんだけど、いつまでまってもツアー同行者の2名があらわれない(以後、毎朝同じパターン)。今回のJツアーは、なんと申しましょうか、馬場抜きの全日本プロレスに高山善廣が参戦してるって感じかなぁ・・・3年前の
スリランカとはえらい違いや、ホカノ、助けてくれぇ・・・
5時半すぎ、バスは展望台に向かって出発した。車窓に映るは満月のみ。満月は人の心を刺激するのだとヒンドゥー教徒たちは言う。
10分ばかりで展望台に着いた。みるみる夜があけていく。月は白みはじめ、その真反対にヒマラヤの雪嶺が朝焼けとともに姿をあらわした。感動的な風景である。
「Mの字をした山頂がみえるでしょ?」
とガイドのシュリさんが説明を始めた。たしかに、Mの字の形をした頂がみえる。
「その左横にちょっとだけ雲がまきついた頂があるでしょ?」
「はい」
「あれが、エベレストです」
もちろんシャッターを押し続けた。わたしはエベレストの頂をみたのだ。もう思い残すことはない。なんちゃって大袈裟にしても、人間とは欲深い動物でございますよ。
「19人乗りの小型飛行機でエベレストを上空からみるツアーがあるのよ、
参加しなさいよ」
と人生の先輩が命令してくるのです。
「えっ、200ドルもするんですか。もったいないなぁ・・・」
「なに言ってんの、昨夜はワインをがぶ飲みしてたでしょ? あぁいう酒代を
飛行機代にすればいいのよ」
前日知り合ったばかりなのに、なんでこんなに馬場さんは馴れなれしく、しつこいのだろうか。宝塚の方だと自己紹介されたが、ほんとは「大阪のおばちゃん」じゃないのかな??
わたしはまだ死にたくないので、最終的には「高所恐怖症ですから」と言って飛行機ツアーのお誘いを丁重にお断りした。
朝焼けのヒマラヤのなかにエベレストの頂をみた。それだけで十分だ。
わたしは朝焼けのエベレストを遙拝したのだ。
- 2009/03/13(金) 13:24:03|
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段畑をぬけて カトマンドゥに到着した10日は、ヒンドゥ教の「オリ」というお祭りの日であった。カトマンドゥ空港からバクタプルへ向かう車中から、真っ赤な塗料を顔中にぬった若者たちがあちこちに群をなしていて、袋に入った水を投げあっている姿を何度もみた。プロ野球優勝チームのビールかけにも似た水かけ祭りなら、中国雲南省シーサンパンナ・タイ族の「溌水節」が有名だが、ネパールでは水をかけるだけではなく、顔や体や衣服に赤色の塗料をぬりつける。
自主的にもぬるのかもしれないが、わたしたちがみた限りでは、嫌がる若者の顔や衣服に無理矢理塗料をのしつけている。あとで述べるように、わたし自身がその被害にあった。一種の無礼講を許す非日常の時間にわたしたちは遭遇してしまったのだ。ガイドのシュリさんの説明をいい加減にしか聞いていなかったので、ここに書く内容もいい加減だけれども、なんでも、ヒンドゥ教の「鬼」の妹オリゴを殺した日にちなんでいるらしい。その様は、バクタプル旧王宮の石彫にもみることもできた(←抱かれてひっくり返っているほうがオリゴ。腹から臓物が吹き出している)。赤は「神聖」の象徴たる色で、祭の名称「オリ」はオリゴに由来するという。
無礼講の1日であるとはいえ、嫌がる大人や旅行客に水をかけたり、塗料をぬりつけてはいけない。これを取り締まる警察官が各所に配備されていた。J社ガイドのシュリさんも、旅行者に向かって水をかけようとする子どもや若者をみかけると、厳しい顔をして注意を促した。しかし、同行していた一人の女性が「あれ、危ない」と危険を察知し始めた。小路の前方で、ネパール人の若者10名以上とサッカーシャツを着たヨーロッパ人男女がじゃれ合い、水をかけ、赤や紫の塗料をぬりあっている。その騒ぎに接し、わたしはトゥールーズとマルセイユでみたフーリガンを思い起こしていた。
ガイドを含むわたしたち4名は、ヨーグルト屋さんに退避することにした。シュリさんによれば、バクタプルでは一、二を争うヨーグルト屋さんだそうで、たしかに美味しかった。よっしゃ、そろそろ大丈夫だと腰をあげ、バスに向かって歩を進めていったところ、次のチョークで見事捕まってしまった。さすがにネパール人は手をださないが、フーリガンと化したヨーロッパの男女は遠慮を知らない。おかげさまで写真のとおり。車に戻って、ウェットティッシュで懸命にこすったところ、
魔法のベストと染めたばかりの髪は黒に戻った。しかし、リュックには紫と朱の染みが残って消えない。まぁ、いいか。ひとつ勲章が増えたようなものだ。
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- 2009/03/12(木) 12:56:32|
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世界文化遺産バクダプルの建築群 世界遺産とはこういうものだ。昨秋
平泉を訪れ、出国直前に標津と常呂に立ち寄ったからだろうが、バクダプルの王宮や寺院や町並をみて「世界遺産かくあるべし」という意を強くした。世界に類をみない木造建築群がここに残っている。その芸術性は
アンコール遺跡群、
シーギリヤ・ロックに代表されるスリランカの世界遺産群、そして、
ハロン湾や
オークニーを思い出させてくれる。日本がいま世界遺産にしようとしている平泉や彦根城や北東北の縄文遺跡群などが、上に列した正真正銘の世界遺産たちと肩を並べることなどありえない、と素直に思った。ただ、われらが
三徳山三仏寺については、その超俗性という点において、わたしは上の世界遺産群にひけをとらないと思うに至っている。しかし、なにぶん文化庁の評価は低く、昨年の暫定リスト掲載申請では常呂・標津とともに三徳山も「カテゴリーⅡ」という最低の評価に甘んじた。
おかしな評価ではないか。あの、世俗化の極みというべき
高野山の寺院群に比べれば、三徳山は平安時代以来、依然、強烈な超俗性を示し続けており、建築年代も平安後期に遡ることは確実である。高野山にも比叡山にも、平安時代の建物は1棟もない。平泉を代表する中尊寺にしても、以前述べたように、境内に残る大半の建物は幕末以降の再建にかかり、かの金色堂にしても、オリジナルの主要部材は東文研の収蔵庫に保管されているはずであり、「材料のオーセンティシティ」という点でどれだけの価値を認めうるのか疑わしい。おまけに中尊寺の境内には飲食店やコンクリートの建物が浸食している。平泉や高野山の為体をみるにつけ、わたしは、平安仏教を理解する上で三徳山ほど重要な場所はないだろうとさえ思い始めているのだが、文化庁の評価が低いのは、県の説明不足か、はたまた文化庁の目が節穴なのか。
ネパールの中世(13~18世紀)を支配したマッラ王朝は、1484年、カトマンドゥ、パタン、バクタプルの3王国に分裂した。バクタプルの旧市街地は、チョークと呼ばれる広場(中庭)を建物群が囲み、チョークとチョークを小路がつなぐ。四囲を画する旧王宮は別格として、ニャタポラやダッタオラヤに代表されるヒンドゥ寺院の境内と町並みには隔絶性が乏しく、チョークを介して世俗と超俗が連続している点がなにより独特な空間構造と言えるだろう。旧市街地の建築はマッラ王朝時代のものがほとんどで、いちばん古い寺院は12世紀まで遡るとガイドは言った。三角破風や窓に施された木彫は絶品この上なく、日光東照宮も脱帽というところだろうか。
[ヒマラヤ山麓を往く -ネパール紀行(Ⅰ)]の続きを読む
- 2009/03/11(水) 20:56:07|
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おはようございます。
いま朝の5時を過ぎたところです。バンコク時間の5時は、日本時間の7時でして、昨夜とほぼ同じ時間に目覚めました。昨日は完全にトランジットのための1日でした。バンコクは摂氏39度。なんとかジム・トンプソン邸を再訪したかったのですが、ホテルのチェック・イン時刻が遅れて、昨夏に続き、かないませんでした。
Siam City Hotelのブロードバンド使用料は7000バーツ/日。まぁ、仕方ありません。テレビはマルチ・チャンネルですが、日本の放送はNHKの海外向けBSだけ。これ、つまらないんですよ。ずっと英語でしてね、同じ番組を何度もくりかえし放送してる。
もちろんWBCの1次リーグ決勝なんかやってくれるわけありません。だから、ネットの同時配信を「手動更新」して試合の行方を追ってました。ネットでは「一球配信」というのがありまして、各打者にピッチャーがどのコースにどの球種を投げてきたか、すぐ分かるようになってます。
ブロードバンドにつないだのは0-1でリードを許した直後から。
山は8回裏だった。1アウトからイチローがヒットで出塁。イチローはここまでノーヒット。しかし、2日前の日韓戦では、3回出塁してすべてホームに戻っている。出塁=得点という恐怖のイメージが韓国にはあったはず。しかし、原監督は中島に1球めから送りバントのサインをだす。2球めでバントが決まり、イチローは2塁へ。しかし、青木は凡退で、あっさりチェンジ。
ここは、もっとじっくり攻めてほしかった。中島には、できるだけ粘らせる。粘らせて、イチローを走らせる。イチローが盗塁で2塁を陥れたとすると、韓国の恐怖はさらにひろがる。イチローを2塁において、中島と青木の二人で勝負するという展開にしたかった。どうしても1点が欲しい終盤とはいえ、送りバントをさせるために中島を2番においているわけではない。打撃絶好調の中島の打力を活かすならば、バントではなくラン・エンド・ヒットを仕掛けるべきだった。イチローの足なら封殺の可能性は低く、空振りしても2塁を陥れることはできたし、ヒットがでればチャンスは大きくひろがった。逆転の可能性すら生まれただろう。
1球目からバントをさせるのなら、中島を川崎に替えるべきだったとも思う。
2アウトになって、イチローは2塁にいる。しかし、2アウトは2アウトであり、韓国の投手は打者の青木にだけ集中すれば良くなった。結果、青木のピッチャー・ゴロで終わり。
もうひとつ不可解だったのは、9回表の投手交替で山口を使ったこと。星野の岩瀬使いを思い起こした。原は巨人の試合で山口をこういうふうに使ってきたのだろうが、国際経験皆無の投手に9回のクローザーを任せるか? 結果は4ボールで、藤川と交替。藤川が後続をおさえた。
2日前に14-2でコールド勝ちしたチームが0-1で敗北。接戦の場合は、もっと小技の効くメンバーに替えるべきではないか。頭に浮かぶのは川崎だ。しぶとく出塁し、盗塁できる選手。今回のメンバーで盗塁できるのは、イチロー、青木、岩村ぐらいか。川崎とやはり西岡がほしい。それに井口も。巨人の選手を排除してしまえば、西岡、井口、松中、和田を加えられるのにな。
昨日の日本は4番打者ばかり並べた打線が沈黙し、足でかきまわす選手がいなかった。14-2、0-1という2試合をみる限り、強打者を並べる「巨人型」オーダーの長所と短所が浮き彫りになった気がする。川崎=2番のバージョンも頭にいれておいたほうがよいのではないだろうか。
- 2009/03/10(火) 07:43:04|
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というわけで、
予報のとおり、ネパールに向かっております。順調にタイ航空のフライトに乗っていれば、いまごろ経由地バンコクのパップンかスクンヴィットあたりではらほろひれはれ・・・・なんちゃって冗談ですが、北海道でひどいめにあった直後でして、ちょっと不安だったりして・・・・・それとWBC1次リーグの決勝がみれないのが残念ですねぇ・・・韓国は台湾戦で好投した左ピッチャーを先発にもってくるらしいけど、一昨日のように、選球眼の力をみせて欲しいものです。ボールを見切って球数をたくさん投げさせれば崩せるでしょう。日本は岩隈→渡辺俊→ダルビッシュあたりで納めたい。松坂まで登板するようだと危ないな・・・
明日はバンコクからカトマンズに飛び、ただちに陸路でナガルコットに移動。途中、古都バクタブルでニャタポラ寺院、ダットラヤ寺院、旧王宮を訪問する予定です。バンコクもネパールもネットに接続できる保証はありません。最近、ウィルスバスターが強力になったからなのか、空港などのオープンアクセス無線LANにも接続しにくくなっていて、紀行文をアップできないかもしれません。
鳥取に残った学生諸君、なにかおもしろい記事があればアップしてください。それと、アダルト・サイトからコメントが入った場合、できるだけ早く削除してください。
ではまたいずれ。
- 2009/03/09(月) 20:40:16|
- 研究室|
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5日の夕方、女満別空港で北海道の寒さを感じたとたん、「ついに、来ちゃったな」と発表の前少し緊張しました。最初に向かった先は地元の居酒屋。そこには、たくさんの先生方を始め、常呂遺跡に関わる方がたがいらっしゃいました。いや~正直ビビリました。しかし、話をすると、皆さんとても気さくな方ばかりでした。うちの先生にバラされた情報で、いろんな先生にいじられるし、
インターンシップで知り合った女性にはフラれるし・・・。本当に照れましたね!
でも、これで緊張は吹っ飛びました。
今回、宿泊させていただいた
リゾート・ホテルは超豪華でした。学生身分にはもったいないくらいです。先生にも「20年早い」と言われちゃいました。部屋からサロマ湖を望む景色は絶景、露天風呂はあるし、ビュッフェ形式の朝食も素晴らしかったです。手伝ってくれた3年生の3人にはちょっと怒られちゃうかもしれないな・・・
そして、いよいよ当日(6日)。会場に向かうと、なんだか厳かな雰囲気。市の教育長などの教育委員会の人などから名刺をいただいたりなんかしちゃって。「明らかに、場違いだよな」と私は恐縮しきりでした。会議では、史跡常呂遺跡・標津遺跡群の世界遺産暫定一覧表記載に向けての活発な意見交換がなされていました。その中で、大学の授業で教わった「ベニス憲章」や「世界遺産条約」について、先生(A教授)が力説されている内容を聞いて、改めて学んだことの重要性を感じました。会議も後半になり、オホーツク文化住居の復元検討の議題へ。私は、資料を用いて何とか発表しました。発表題目は、
オホーツク文化の「船形」住居 -常呂チャシ遺跡9c号住居の復元設計-です。
オホーツク文化住居の模型については、すでにTO大の先生方が亀甲形寄棟屋根の復元模型を制作されています。今回のわたしたちの制作した
復元模型は船形切妻屋根をしています。これはオホーツク文化の住居跡が正六角形ではなく、正面側の出っ張りが強く、背面側が出っ張りの緩い不整六角形をしており、それが船の舳先(へさき)と艫(とも)の関係に似ていること、そして、竪穴の両端にあるピットが棟持柱である可能性が高いことによります。結果が述べると、標津のポー川史跡公園に復元されているトビニタイ文化の住居と近い形状なのですが、わたしたちの復元案には周堤を設けています。これは竪穴を掘った土で屋根の木組の基礎を固めるためという考えを示すためです。
TO大の先生方が以前に復元した模型とは異なる復元案なので、それほど積極的には受け入れられないようでした。意見交換の後、これからも検討を進めていかれることになりました。しかし会議終了後、模型や発表について、「面白かった」と声をかけてくださる方もいてホッとしました。
私は、今回の研究に関わったおかげで本当に貴重な経験ができました。たくさんの人に出会えたし、会議で専門家を前に発表もすることができた。こんなにワクワクする機会はそう得られないと思います。来年度もこんな刺激的な一年にしたいです。この復元ではいろんな人にお世話になりました。皆さん、ありがとうございました!! (黒帯)
- 2009/03/08(日) 23:15:04|
- 史跡|
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北海道の委員会では、黒帯くんが見事な発表をしてくれました。これについては、明日、くわしい報告があるのでおいといて、そのあとがいかんのね。
出発前から不穏な動きがありましてね。その対処で、なんかもうヤになるくらい電話がかかってきたりしてたんですが、一つ良いこともあったんです。発表の前夜に
オードリーに再会しちゃったの。でも、オードリーはがっくりしていた。だって、黒帯くんのマドンナはオードリーではなく、別の女子学生であることが判明し、居酒屋からその院生に某教員が電話して、告白してしまったのです。そのとき黒帯くんはホカノのようにモジモジしていて、わたしが「付き合ってくれませんか」と代弁したのですが、「心に決めた人がいますから」と一刀両断。これにオードリーははがっくりした、のではなくて、がっくりしたふりをしていただけなんです。なぜなら、オードリーの隣の隣には彼氏が坐っていたんだもん。で、彼氏に「どんなところでデートしてんの?」とか訊いたら、オードリーはヤな顔をした。
翌日(6日)、黒帯くんの発表が終わって、みんなで昼ご飯を食べにいったんです。わたしは牡蠣どんぶりをたいらげた。じつはそんなことしてる場合ではなくて、わたしの乗る飛行機は午後1時発のJAL便だったんです。そういえば、JALを予約したような記憶もある・・・でもJALは搭乗日前日のメールをくれないんで、記憶の彼方に飛んでしまっていたんですね。で、飛行機も飛んでいってしまった・・・ちなみに、ANAはちゃんと搭乗日前日のメールをくれます。わたしは、そのメールを必ず携帯メールに転送するようにしていて、昨日も出発時間が15:05であることを確認していたのですが、その出発空港は「千歳」だったんですよ。
ひっくりかえった。キャンセル料をJALとANAの両方に払って、結局、ANA4774便、同35便と乗り継いで、羽田経由で伊丹まで戻り、いま奈良なんです。
遺失物に気付いたのは、ANA35便の機上でした。携帯の電池が切れたのが原因だったんですが、ブルーのメッシュバックがみつからない。3種類の電源から充電可能な優れもの充電器のほか、お気に入りの小物をいれている小さなバックがリュックサックから消えている。スカイブルーのメッシュバッグそのものももお気に入りの品でして・・・ホテルをでるとき、たしかにリュックに納めた記憶がある(ホテルには何度も電話して探してもらいましたよ)。そのあと、リュックを開いたのは女満別空港のANAとJALのカウンター前とX線チェックのときだけで、しかも前者ではリュックを黒帯くんに管理してもらっていたから、モノがなくなるはずはないのだけれど、ないのです。どこを探しても、どこに電話しても、ない。
ひとつ、不思議な事件が途中でおきたんです。この日の午後はまさにブラックホールに吸い込まれたようだった。わたしは物忘れが激しいので、黒帯くんのお土産とわたしのお土産を同じ棚に納め、決して取り忘れないよう二人で確認したのです。客席は満席に近い。離陸後、伊丹に近づくにつれ、天候が悪くなって4774便は揺れが激しく、伊丹空港着が15分近く遅れることがあきらかになった。着陸時から35便の離陸まで20分しかなく、「伊丹行き35便に乗り換えのお客さまはドアの外に地上アテンダントがお待ちしておりますので、誘導に従ってください」という機内放送があり、気持ちに焦りが生まれたんだな・・・
飛行機が停まり、安全ベルトを外して、棚をあけるとパンパン状態になっている。いちばん前にあった白い紙袋をとりおろし、前の席に坐っている黒帯くんに「君のか?」と確認すると、「違います」という。その奥にあったオレンジ色の紙袋を示すと「それです」とのことで、わたしは最初の紙袋をもって機外にでた。そのまま地上アテンダントの近くで、35便乗り換え客が集まるのを待っていたら、若い男性客がわたしのところにやってきて、「あっ、その土産物はわたしのです」と言ってもっていかれちゃった。わたしは飛行機のドア前まで戻り、客室乗務員に事情を伝えたのだが、6C席の棚に土産物はない、と言われ、呆然。そのまま地上アテンダントのもとに戻り、放心状態に陥っていたんですが、しばらくして客室乗務員が脱兎のごとく駆け寄ってきた。「座席におろしてありました」と言って、お土産袋をもってきたのです。
その後、最短路を通って、トランジットのチェックをうけ、35便にボーディング。その後、まもなくブルーのメッシュバックがないことに気付いた次第。ほんと、わたしはブラックホールに吸い込まれていたような心境でした。
思い出すのは、2006年の年末にマカオから帰国したとき、
携帯電話を自動販売機の天井の上においたままにしたときのこと。家から自分の携帯に電話すると、ベルがリンリンなるのに、携帯はどこにあるのか分からない。1週間後に「みつかりました」という電話連絡をうけたとき、ほんと、自分に呆れてしまった。今回もそうであればよいですがね・・・
まぁ、気持ちを切り替えるしかない。明後日からネパール出張でして、足りないものを買いにでかけようとしたら、電話あり。やった、遺失物発見!の報せかと一瞬喜んだわたしがバカでした。守山のキウリさんがやってくるそうです。最近、わたしにとってなにより「遺跡」がブラックホールになりつつあるので、またヤな予感がするのですが、仏のように接しませう。
- 2009/03/07(土) 23:11:30|
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まだ、春の到来が感じられず冬の寒さが残る今日この頃。雨も続き、こういう日は、不思議とジャズが聴きたくなります。 どうも、こんにちはアシガルです。
さて、皆様もご存知の通り、我らがASALABの先輩3名(エアポートさん、部長さん、キム姉さん)が2008年度鳥取環境大学環境デザイン学科卒業研究受賞作に選ばれ、エアポートさんが制作部門で金!キム姉さんが論文部門で金!同部門で部長さんが銀!!という快挙を成し遂げられました。おめでとうございます。
そこで、受賞祝賀会を開きたいと教授が申し出たところ、あいにく、先輩方はスノーボード旅行に行かれてしまったようです。教授は空いている日が今月の4日しかない。
よし!それなら大学に残った教授、ホカノさん、黒帯くん、そして私の4人で「受賞祝賀会」を開き、受賞した先輩たちを祝おうじゃないかという結論に至りました。幸いにも、4日は黒帯くんが北海道入りする前日、黒帯くんの激励会でもあります。
祝賀会場は、大学近くの焼肉屋さんです。え~、先輩の代役ということなので以下のキャストとあいなりました。
エアポートさん⇒黒帯くん 部長さん⇒アシガル キム姉さん⇒ホカノさん
そして、「受賞おめでとー」という乾杯を皮切りに以下のような会話がなされたのでした。
教授: いや~、みなさん。受賞おめでとうございます!!
一同: ありがとうございます。
エアポート; アイ、銀賞受賞おめでとう。すばらしい。おまえがいたから
おれもここまで出来た。ありがとう!
部長: ヨリ、ありがとう。私もヨリがいたからここまで出来たわ、
ありがとう!! このお肉、美味しいよ、あぁぁぁぁん・・・・
エアポート: 阿呆、そんなことするけぇ、また先生に叱られるがなぁ
教授: ・・・・あぁぁぁ、あと2年間、このべたべたにお付き合いかいな。
ヒラ:・・・・・(なぜか、ほっとした表情)
教授: いや~、それにしても、ヒラさん,金賞おめでとう!
ブログでは「部長が金賞に値する」なんて書いてごめんなさい。
君の論文は高く評価しているんですが、完成が遅すぎたから、
凄く心配してたのよ。
ヒラ: ありがとうございます
教授: マッコリって美味しいでしょ。カルピスとあんまり
変わらないもんね?
ヒラ: ほんと美味しいですね。いやぁ~ん、もう、飲めませ~ん。
(と言いながら盃をうける)
教授: 初代のキム(別名タイガー戸口)がよく言っていたものだよ。
マッコリでモッ●リ、なーんちゃって。だっははははは。
エアポート・部長・ヒラ: だっははははは・・・
といったような会話がなされたかもしれませんが、教授の命令とはいえ、これ以上ふざけると、先輩方に恨まれますので、このあたりで。ほんとすみません。
そんな、余興も交えつつ、マッコリも無くなろうとしていた時、教授が「やっぱり、キム姉さんには大学院に残ってほしかったな~」と呟く。ボクも、本心をうちあけると、キム姉さんに残ってほしかった。ホカノさん、黒帯くんも同じ心境のようだ。キム姉さんは研究室の雰囲気を和ませてくれるお姉さん的存在、癒しの存在なのだ。姉さんがみんなにお茶をいれてくれるときのあのムードがなんともいえません。それを聞いて、教授は、キム姉さんに残ってもらいたい3・4年生で署名活動したらどうか、とおっしゃいました。
11月に安土城見寺復元コンペの帰りの車中で、ボクは「あ~、もうしばらくしたら先輩達ともお別れか…」と感慨にふけっていたのを思い出した。
3月という月は、寂しさもあり、喜びもあり、そして、新たな出会いがある。なんとも切ない月ですね。ほんとに署名活動しようかな・・・・[アシガル]
- 2009/03/06(金) 21:07:41|
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「やっと終わった~」模型が完成した瞬間、3年生4人で喜びを分かち合いました。何故4人かというと、私がどうにも予定通りに模型を完成させることに苦労しまして・・・・・連日、深夜まで「兄弟」たちが手伝ってくれました。本当に感謝しています。ありがとう!
思えば、夏のインターンシップを機会にオホーツク文化住居の復元をすることになってから本当に生活拠点が修復スタジオだけになっちゃって、完全に私の家になってましたね。あまりにもスタジオにこもっているものだから、ストレス発散に隣の駐車場でサッカーを皆でしていたのが良い思い出です。
北海道と岩手の住居復元が同時進行で行われていたため、人口密度が高かったスタジオも今は私一人。模型二つと人間が減ればこれほどまでに、散らかっていた部屋が寂しい雰囲気に包まれるのかと複雑な気分です。
模型も完成し、少しホッとしましたが、まだやることが残っています。北海道で今回の成果を発表しなければいけません。じつは、このブログがアップされる今日(5日)に常呂入りし、明日の委員会で発表することになっているのです。
人前で発表した経験が少ないので、とても緊張しています。また、いつも先生に「ぼっこい」と言われ続けた「元ぼっこい」模型への皆さんの反応も気になります。ドキドキして落ち着きませんが、北海道では頑張るぞ~!! (黒帯)
- 2009/03/05(木) 13:19:31|
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3月1日、卒業研究・修了研究展を見終えたわたしは、タクオの車にのせてもらって一路、松江へ。
さて、『出雲大社の建築考古学 -山陰地方の掘立柱建物-』という本の
企画があることをお伝えしたのは、もう3年近く前になるだろうか。2003~04年度の科学研究費補助金基盤研究(C)「大社造の起源と変容に関する歴史考古学的研究」(代表者・浅川)の一環として開催した2回のシンポジウムの成果報告書で、2005年度から編集作業を始め、
2007年6月22日に約70%を入稿したのだが、残りの原稿がなかなか集まらず心を痛めていた。年度があけて、まったく原稿に手をつけていない執筆者は2名だけとなった。二人とも出雲に住んでいる。なんとかしなくてはいけない、と9月にアポなしのまま出雲を訪れた。そして、二人のうち一人にだけ会うことができた。わたしは若くて優秀なその研究者に訊ねた。書くのが億劫なので書かないのか、書きたいけれども書けないのか、そのどちらなのか、と。かれは、後者だと答えた。
その論文が年初に届いた。大変な労作であった。わたしは、論文が届いた日の夜、一気に通読し、この4年の間に研究が格段と進展していることに驚かされた。青谷上寺地などに集中していたこの3年間あまりが、わたしにとって出雲研究の空白期であることを思い知らされたのである。かれの新鮮な論文を読んで、わたしは勉強しなおさないといけない、と思った。これは一人でシンポジウムの結論をこねくりまわしても生産的ではなく、舌足らずになるだろうとも思った。そこで、報告書としての「結論」を紡ぎ出すために、少人数での「座談会」を開くことを提案した。出雲の重鎮たちも、出版社もこの提案を快諾してくださった。そうこうしているうちに、もう1本の論文が別の若手研究者から送られてきた。年初にうけとった論文は「古代」、先週うけとった論文は「中世」をテーマにしている。「起源と変容」を論じるにはうってつけであり、若い二人の執筆者を交えた6名の座談会となった。
悪いとは思ったけれども、若い二人の書いた論文を「叩き台」にして議論を進めさせていただいた。最も新しい知見や解釈が充満しているのだから、こうなるのも仕方ない。お二人はいやだっただろうけれども、おかげさまで、大著の結論にふさわしい座談会になったと思っている。
ありがとうございました!
[4年越しの座談会]の続きを読む
- 2009/03/04(水) 14:37:03|
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3月1日(日)の朝9時、鳥取に帰っているタクオが寺町の下宿にあらわれた。この日、梨花ホールの卒業研究展をみて、二人で松江に移動することになっていた。
卒業研究展は最終日。じつは、ここだけの話なんですけどね、キム姉の卒論は製本されて並んではいるものの、オープンニング段階では文章だけで、図・写真が挿入されていなかったんです。要するに未完成作品を陳列していたわけで、オープニング・パーティの夜、「急いで図・写真をレイアウトしなきゃ駄目だぞ」と忠告しにいったところ、ああいう
顛末になってしまったんですが、そのときの答弁は「毎日少しずつ差し替えていこうと思ってる」ってことでした。
ところが、最終日に論文をみると、やはり図・写真が入っていない。タクオにも、その状態をみせて、「こりゃ受賞は危ないね・・・」と互いに言葉を交わし、説教のメールを入れざるをえないな、と思案にくれながら、他の作品や論文パネルをみてわまっておりました。
タクオはやはりエアポートの「仏を超えた信長」に見入ってました。「よく調べている」との誉め言葉を頂戴しましたよ。まだ朝早くて、客足が少なかったんですが、他のお客さまもいったん「仏を超えた信長」で立ち止まる。隣の「続・加藤家住宅修復プロジェクト」(ピヴォ)や対面の「水上集落と文化的景観」(ホカノ)は素通り状態ですね。ふたりの研究はたいしたものなんです。指導した者にしか分からないのかな・・・「水上集落と文化的景観」はパネルもスマートだと思います。水色と薄黄色の枠が「水上集落」のイメージとよく溶け合っており、単純な3段組のレイアウトは非常に読みやすい。レイアウトの凝り方から言えば、部長やキム姉のほうが上だけれども、読みやすさと爽やかさではホカノが勝っている。それにしても、
北京の国際学会であれほどうけた世界自然遺産ハロン湾の研究が、鳥取に戻ると反応がもう一つなのは残念なことです。
半時間ばかり作品と論文パネルをみてまわり、一周してキム姉のところに戻って論文をめくり、驚いた。図と写真が全ページに納まっているんだもの。あたりをみまわしても、影はない。受付に坐っている4名の男子学生に訊ねたのだが、「知りません、見ませんでしたよ」とかれらも呆気にとられている。
キム姉は「くのいち」だったのかな・・・梨花ホールの天井から、ピアノ線に釣り針をつけて古い論文をもちあげ、新しい論文に差し替えたのか。それとも、事務員かだれかに変装して、だれにも気づかれないように論文を差し替えたのか。いや、恐るべし・・・
時は流れて、いまは3日の昼下がり。さきほど学科会議が終わりまして、今年度の受賞作が決まりました。
まず作品部門。なんど展示をみなおしても、岡垣の「仏を超えた信長」は突出していて、ほかに対抗できる作品があるとすれば、
リラックマさんの「フリースクール計画」だけだろうと思っていたところ、11名の教員のうち10名が両者に投票をしており、同点1位でした。だから、どっちが1位でどっちが2位ということはないのですが、金賞は日本建築学会卒業設計展全国巡回展に出陳、銀賞は『近代建築』誌の卒業設計特集に掲載という役割分担がありまして、「仏を超えた信長」が近代建築なわけはなく、学会むけだということで、岡垣が金賞とあいなりました。ピヴォ(福井)の作品は素晴らしいのですが、いかんせん、作品をホールに運べなかったのが無念だね・・・でも、福井の仕事は作品部門の3位ぐらいにあたるレベルだとわたしは確信しています。
一方、論文部門はキム姉(木村)の「限界集落と文化的景観」が8票で1位、部長(今城)の「文化的景観としての中世山城と城下の町並み」が6票で2位でしたが、6票は3名いて、大混戦。まず8票を獲得した木村の論文について講評を求められたので、指導教員としての感想を述べました。展示された論文に図・写真が含まれていなかったことはもちろん黙っておいたんですが、「木村は就職活動が響いてラスト・スパートの伸びがなく、今城の論文のほうが密度が濃い」と評価しました(キム姉さん、ごめんなさい!)。しかし、「2票差は大きい」として跳ね返されました。どの先生も、テーブルの上においてあった論文をめくってないんだな・・・展示パネルをみると、両者に大きな差はなく、どちらが1位でもよいのですが、今城の場合、やはり
公聴会の質疑でフリーズしてしまったことがマイナスに働いたのかもしれません。
それから6票を獲得した3名をどうするかで、しばし議論が続いたのですが、3人の指導教員が一人ひとり応援演説をすることになり、「今城が金賞だと思っていたのに、なんでこんなに票がのびなかったのか、指導不足を痛感してます」と反省の弁を述べると、T准教授が「わたしも、今城さんが金賞だと思います」とサポートしてくれて、なんとか銀賞に落ち着いた次第です。
とにもかくにも、論文部門は
4連覇をなしとげ、制作部門は
宮本(2期生)以来、3年ぶりに金賞を獲得しました。受賞した3人だけでなく、ピヴォを含めて4人全員に感謝の気持ちをあらわしたいと思います。
2008年度鳥取環境大学環境デザイン学科卒業研究受賞作1.作品部門
金賞: 岡垣頼和「仏を超えた信長 -中世城郭関係遺構の解釈と復元:安土城
見寺本堂の設計を通して-」
2.論文部門
金賞: 木村 歩「限界集落と文化的景観-三朝町中津と智頭町板井原の
ケーススタディ-」
銀賞: 今城 愛「文化的景観としての中世山城と城下の町並み-若桜鬼ヶ城と
その周辺環境を中心に-」
- 2009/03/03(火) 18:26:56|
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春一番もふき、春の訪れがささやきはじめています。皆様いかがお過ごしでしょうか。就職活動に勤しんでいるお久しぶりのガードです!
ついに、ついに完成した野田Ⅱ遺跡復元模型を岩手県の御所野縄文博物館におくることができました。その時のわたしの心と共に報告させていただきます。
わたくしガードが3年後期を全て費やしたともいえる集大成、その名も「野田Ⅱ遺跡焼失住居復元」!(asalabでも何度か
中間報告をさせていただいたので以前のものを読んでくださった方は知っていると思います) このたび無事すべての作業を完了することができました。皆様がたのお力添えなくしてできることではなく、とても感謝しています。
図面や模型ですが、今まで竪穴住居という分野で作った事、考えた事がありませんでした。はじめはジャングルの草木を手でかき分けるように、時には猛獣に遭遇して遠回りをし、時には河を渡るために船を作り、幾度もの困難をしりぞけ、ようやく「完成」という名のゴールに辿り着いたのです。そして2年生諸君と狩人君が手伝ってくれた模型を、2月27日に無事宅配便に預けることができました。
模型を箱詰めにしている間、私はなんともいえない思いに心が落ち着きをなくしていました。
「これはなぜだ!?」
このときわたしは、きっとわかれるのが寂しいからだと思い始めていました。そして、無事、箱詰めも終え、宅配会社を待つだけとなりました。このとき、修復建築スタジオは、朝早い事もあり、わたし一人でした。刻々と迫りくる3年後期の集大成の別れ、いや我が愛しき模型との別れ。箱詰めの時よりも心がそわそわする。
そして、「ブーン、ブーン」、携帯電話のバイブ音がスタジオに鳴る。どうやら我が愛しき模型との別れの音楽のようだ。わたしはふと立ち上がり、愛しき模型を荷台に乗せスタジオの扉を開け進んだ。そのときわたしは宅配の車に別れの手を振るのは照れくさいと感じ、スタジオの前で愛しき模型にそっと告げた。
そして、またわたしは歩き始めた。宅配会社の方に愛しき模型を預け、車が私の目の前から消えるまで見送る。その時なぜかすっきりした気持ちになった。きっとわたしはこの時を待ち望んでいたのであろう。そのために心が落ち着かなかったのだとわたしは核心した。子の旅立ちを喜ぶ親の気持ちに違いない。
御所野縄文博物館の皆様わたくしガードの子とも言ってよい愛しき模型をどうぞよろしくお願いします。
これで野田Ⅱ遺跡の報告を終わらさせていただきます。ご視聴ありがとうございました。(3年ガード)
- 2009/03/02(月) 21:38:54|
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30分の休憩をはさんでセットが変わり、ポロシャツ姿のクラプトンがマーチンをひっさげてひとりでステージにあらわれました。なんでもカツ丼が大好物だそうですが、そこいらの大衆食堂に入ってくオジサンみたいにカジュアルないでたちです。で、クラプトンは椅子に坐った。1曲めは「ドリフティン」という有名なブルースの弾き語りです。3フィンガーというよりも4フィンガーっぽい肉弾きで、親指がすごく跳ね上がっているのが印象的でした。たぶんEキーのレギュラー・チューニングだと思うのだけど、間違ってたらごめんなさい。
アコギ1本の泥臭いブルースの弾き語りからスタートってのは大正解ですね。なにせ第1部でベックが強烈なエレクトリック・プレイを聴かせた直後なんだから、そのままエレクトリックで受けてたつには勇気がいります。ベックの余韻が残っている状態だったので、アコギ1本の弾き語りは非常に新鮮に聞こえました。ベックの進化したフュージョンっぽいサウンドに対して、ブルースのルーツに立ち戻った姿勢がよくあらわれていて流石だなと感心しきり。2曲めは「レイラ」のアコースティック・バージョンで拍手喝采。ここでバンドのメンバーもそろいまして、その次の3曲めだったと思うんですが、ギターを替えた。3フレットだったか5フレットにカポタストをはめて、いきなり開放弦でジャカジャカとストロークし始めたんで、たぶんオープンGチューニングだったんだと思います。アコギは4曲目までで、5曲めからエレキに持ち替えて「テル・ザ・トゥルース」。うぅぅ~ん、もう少しアンプラグドを続けたほうが良かったんじゃないかな。
くどいけれども、ベックの演奏が凄かったんで、エレクトリック・バンドの比較になると、クラプトンの分が悪いんです。これにはリズム隊も関係してますね。正直、スティーヴ・ガッド(dr)とネイザン・イースト(b)のセットがみたかった。ガッドとイーストを従えたクラプトンなら、ベックと張り合えた。それで「ティアズ・イン・ヘヴン」と「チェインジ・ザ・ワールド」をやってくれたら言うことなかったんだけどなぁ・・・やってくれなかったんですよ、この2曲を。残念無念! もう一言付け加えておくと、女性コーラス隊2名の見栄えがね・・・この点でもベック・バンドのタル・ウィルケンフェルドに軍配があがりました。
クラプトンの演奏場面でも、わたしはほとんどステージではなく、スクリーンを注視してましたが、正直、これならコピーできる。フレーズは素晴らしいですよ。2流のギタリストでは弾けないメロディアスなフレーズを弾いている。だけども、それをコピーできないことはない。コード進行の分かる楽譜と画像があれば、十分ついていけます。ローラン・ディアンスを弾くほうがはるかに難しい。ただ、昨日も述べたように、クラプトンは作曲と歌とギターを総合的に評価すべき大音楽家だから、ギターだけであれこれ言ってはいけません。ギターだけ上手くても、グラミー賞をとれるはずはないのだからね。クラプトンの場合、何回もグラミー賞をとってるんだから、そんじょそこいらのカツ丼好きじゃないわけです。
クラプトンは10曲演って、ただちに第3部に移行しました。クラプトンのバンドにベックが加わって、さぁさぁ大喝采。二人はマディ・ウォーターズの「ユー・ニード・ラブ」を始め、古典的なブルースを7曲続けて演りました。並のギタリストなら飽きてしまうところでしょうが、まったく飽きないのは二人の腕が尋常ではないから、と言えば当たり前。はっきり言うと、クラプトンはボーカルになっちゃいましたね。クラプトン・バンドにベックがゲスト・ギタリストとして迎えられたというよりも、ジェフ・ベック・グループのボーカリストをクラプトンが務めてるって感じがしました。それだけベックのギター・フレーズが凄いのです。ブルーノート・スケールの曲ばかりだから、アドリブで使う音は限られている。にも拘わらず、ベックのフレーズは変化に冨み、決してマンネリに陥らない。
わたしは密かに「
虹の彼方に Somewhere over the Rainbow」の共演を期待していたのです。ふたりとも独自のアレンジでこのスタンダードをカバーしているんですが、ムードは全然違う。でも、なんとかそれをクロスさせてくれないものか、と祈っていたのですが、あえなく空振り・・・二人とも自分たちのルーツであるブルースのギグに終始しました。それは二人が話し合った結果であり、わたしたちの入っていける世界ではないのでしょう。
[ア・デイ・イン・ザ・ライフ(Ⅲ)]の続きを読む
- 2009/03/01(日) 00:03:18|
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