2009年2月24日~25日、前回に続き展示会での組立です。
2日目(24日)は棟木と腕木を組立ていきます。この日は、午前中が展示会受付の担当の日だったので、間をみて黒帯君に手伝ってもらい作業を進めました。やはりこの日も朝9時にはお客さんはほとんどいませんでした。11時過ぎに組立開始。早速棟木を接合。いつものことですが、少し苦戦しました。棟木が上手く主柱にはまりません。悪戦苦闘を続け、ようやく接合完了。その後すぐに腕木を装着。
この後、池田社長が会場に来られたので、仮組を見ていただきました。「良いじゃないか」と言ってくださいました。私はその言葉に安堵しました。本当にありがとうございました。この日はこれにて完了です。
朗報です!
この日でなんと冊子が全部なくなりました。展示用の冊子までなくなっていました。感激です。
3日目(25日)は最後の組立の日です。桁を装着すれば完了です。他の研究室のI君にお手伝いをしてもらいました。企業説明会が「とりぎんホール」で開かれていたので、スーツに身を包んだ大学生が大勢いました。これはチャンスと早速組立開始。最終日なのでスムーズに出来るかなと思ったのですが、上手くいかず・・・。緊張したのか、ガードなんたる不覚。しかい、最後は気持ちを落ち着かせ、なんとか桁を装着しました。これで組立は完了です。今後、26日はこのまま展示、27日に解体をおこないます。
最後に、24日になくなった冊子をまた追加しました。どんどんお持ち帰り下さい。(ガード)
組立完了
- 2010/02/28(日) 00:00:31|
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24日、
シンポジウム「大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観」の特別講師、楊鴻先生(中国建築史学会理事長)が奥様の王秀蘭先生とともに無事来日されました。初日は午後の短い時間を利用して、平城宮跡の第一次大極殿、東院庭園、朱雀門を視察。4月下旬から5月下旬を思わせるうららかな日差しは夕方になっても衰えることなく史跡を照らし、広大な緑地のなかで緩やかな時間を過ごしました。どうやら、お気に召したのは東院庭園だったようです。夕暮れの陽光にくるまれた庭にご夫妻だけでなく、同行したみんなが癒されました。
お世話になった遺構研究室の皆様に感謝!
今日(25日)は鳥取へ移動します。このブログがアップするころ、おそらくわたしたちは蕎麦切り「たかや」で県教委Mさん&文化庁N調査官と遭遇しているはずですが、さて予定どおりスケジュールが運んでくれるかどうか・・・
余談ながら、ヨナと真央とロシェットの戦いに溜め息が漏れた一日でもありました。さんざん愚痴をこぼしたプルシェンコとは対照的に、不平不満を言わない真央に脱帽。見習わないといけませんね。
- 2010/02/26(金) 00:00:47|
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卒展1日目の組み立て 2010年2月23日、とうとう卒業研究展における公開の組立・解体をおこなう日がやってまいりました。
朝9時に会場入りし、やる気は満タン。「さあ、やるぞ」と行動をおこそうとした時、異変に気がついた。辺りを見まわしてみても、お客さんがまったくいない!? よく考えてみると、それもそのはず、時刻はまだ朝9時過ぎ。こんなに早くからお客さんが来ているはずもない・・・・。
こんな時間に組み立てをやっても目立たない。そこで、しばらく時間を置くことにしました。
午前11時。展示場にもちらほらとお客さんの姿が。それを見た私は早速改めて気合を注入! 本日のパートナーは、この日の受付当番で来ていたY君にお願いし、組み立て開始。久々の組み立てでもあり、人前で組み立てをおこなうということで、少し気合が空回りし、主柱と控柱を貫でつなぐ作業が上手くいかない。そのせいで、冷や汗がだらだら・・・ここで一呼吸し、気持ちを落ち着かせ再度トライ。ようやく貫が主柱と控柱に通り、第一段階完了。
そして、この日のメインイベント「さおびきどっこ」の登場。お客さんがチラチラとこちらの作業を見ていたので、ボルテージが最高と言えませんが、トップギアに入れ「さおびきどっこ」に挑戦です。やはり、はじめはブランクのせいか上手くいきません。その時、黒猫君が手伝いに名乗りをあげてくれました。そのおかげで何とか上手くはめることができました。これにて本日の公開組み立ては終わりです。作業終了後しばらく、お客さんが裏木戸に来て触ったりくぐってくれて感激です。しかも、急ピッチで作った冊子も何部かお持ち帰りいただいたので、これまた感激しました。
↑冊子の表紙
明日は棟木と腕木を取り付けます。多くの方に見ていただけたら嬉しいです。
最後になりましたが、Y君、お手伝いいただきありがとうございました。(ガード)
- 2010/02/25(木) 00:00:27|
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今日(2月23日)から「とりぎんホール」のフリースペースで、
鳥取環境大学 建築・環境デザイン学科
大学院環境デザイン領域 卒業・修了研究展が始まっています。展示期間は23日~27日の5日間。公開時間はAM9時~PM10時で、最終日のみPM5時までです。
展示のため、我々4年生はもちろん、サポートにあたっているゼミのみんな(特に3年生)も力を出し切り、身を削っパネルや模型を制作しました。昨夜まで、みんな死んだような顔をしていましたが、今はやや回復してきています。
さてさて、
卒業研究展示ですが、今年度は研究室ごとにまとまって展示しています。ASALABはエントランス正面の位置を陣取り、論文は中央側に、制作は窓側に展示しています。やはり、「さおびきどっこ」の実物の組立・解体が目立つでしょうが、他の3人のパネルも綺麗なデザインになりました。優劣つけがたい4作になったと自負しています。
多くの方がたのお越しをお待ちしております。
以下に卒業研究のタイトルとパネルを掲載しておきます。パネルはクリックすると拡大表示されますので、ぜひご活用ください。(黒猫)
2009年度卒業研究・宇田川 恭平(論文)「建具と内装の修復 -加藤家住宅修復プロジェクト The LAST-」
・大給 友樹(論文)「石窟寺院への憧憬 -岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流-」
・門脇 史知(制作)「さおびきどっこ-古民家裏木戸の復元-」
・森 吉宏(制作)「鳥取城三ノ丸高等学校 -史跡と共存する校舎の設計-」
[2010卒業研究展開幕]の続きを読む
- 2010/02/24(水) 00:00:12|
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吐含山 石窟庵 特別講義2日目(2月15日)、早朝の気温はマイナス5度。ベッドの中にいても冷気が体をなでてくる。ホテルの前にある庭園の池は全面が薄い氷に覆われていた。慶州は鳥取と似たような気候と聞いていたのだが、鳥取で池が凍ったのはとんと見たことがございません。軽装だったかなと少し後悔した一日であった。この日は午前中に石窟庵、仏国寺、高麗青磁窯元、天馬塚をめぐり、午後からは良洞民俗村、玉山書院を参観し、釜山に移動した。どれもこれも興味深いものばかりであったが、今回は黒帯くんの卒業研究に関係が深い「石窟庵」に焦点をあてておこう。
進硯洞吐含山の山麓に所在する石窟庵は、統一新羅の景徳王10年(751)、当時の宰相金大城によって創建された。建立当初は「石仏寺」と称されていたが、儒教の浸透や李氏朝鮮時代(1392~1910年)の仏教弾圧によって廃墟と化し、長きにわたってその存在が忘れ去られていた。日帝時代の1913年に解体修理がおこなわれ、1961年に更なる修復工事がなされ、1995年、仏国寺とともに世界文化遺産に登録された。
昨日に続き、本日も快晴で気持ちがいい。ガイドの李さんによると、進硯洞が慶州で一番空気が綺麗なところだそうだ。一昨日まで慶州は雪が降っていた。境内は15cmほど積雪しており、午前のやわらかな陽光が参道を美しく輝かせていた。一柱門から山肌に沿った参道を1kmほど進むと、少し開けたところに石窟庵がある。今は春節のためか提灯が吊るされ、境内はにぎやかな雰囲気に包まれている。時計の針は8時半をまわっただろうか、朝早くにもかかわらず境内には多くの参詣者が、手を合わせながら参道を歩む姿がみられた。
いよいよ石窟庵に入るわけだが、境内の石段を上がると、石窟の前には礼堂らしき木造建築が付随しているのがみえた。これを見て「しめた」と叫ばんばかりに、メモ帳にその形状をスケッチした。というのも、昨夏の中国山西巡礼の際に訪れた
雲岡石窟とよく似ているように思えたからだ。これは黒帯くんの卒業論文における石窟寺院の分類のうち、岩窟懸造複合型に分類される。さらに細かく分類すると、B-1型、つまりは「木造建築=礼堂(外陣)+石窟(内陣)」という役割分担の顕著なタイプに値する。ひと言で言うならば、「内陣礼堂造」である。
[慶州巡礼(Ⅱ)]の続きを読む
- 2010/02/23(火) 00:00:11|
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新羅の王城と仏教寺院 2月14日~16日の2泊3日、学部の特別講義1(修学旅行)に便乗して、韓国・慶州に行ってきました。ASALABから参加したのは、3年の轟くん、武内くんと院生2名の計4名です。今回、先生はお留守番でした。14日は早朝5時すぎに大学に集合、バスに揺られて関空へ。そこから、約1時間半の空の旅を経て、釜山空港に降り立ちました。3日間お世話になるガイドの李さんと合流して、早速バスで慶州へと向かいました。・・・しかし、韓国はちょうどお正月(春節)を迎えていて、高速道路は大渋滞。そこで運転手さんが機転を利かし、(途中寝てしまってよく知らないですが・・・)一般道を走って、無事慶州に到着しました。
慶州は紀元前57年の新羅建国から三国時代を経て935年の統一新羅滅亡までのおよそ千年間、新羅王朝の都として栄えました。三国時代~統一新羅時代の古墳や仏教関連の遺跡が多数残っている地域で、「屋根のない博物館」とも呼ばれており、「慶州歴史地域」として2000年に世界文化遺産に登録されています。慶州歴史地域は、南山地区、月城地区、山城地区、皇龍寺跡地区、大陵苑地区に分かれています。今回の特別講義では、残念ながら、南山地区と山城地区を訪れる時間がありませんでした。月城地区では雁鴨池、皇龍寺跡地区では皇龍寺跡、大陵苑地区では天馬塚を、それぞれ見学しました。
1日目の見学先は、国立慶州博物館、皇龍寺跡、雁鴨池(臨海殿跡)です。最初の目的地「国立慶州博物館」は、もっとも印象に残った場所です。ここは、新羅の文化遺産を総覧できる韓国の代表的な博物館です。私たちは正門を入ってすぐにみえる鐘閣と考古館だけを見学しましたが、この博物館には他にも、仏教美術品や金石文などの文字資料などを展示している美術館、雁鴨池の代表的な遺物を展示している雁鴨池館、野外展示場など多くの施設があります。
鐘閣には聖徳大王神鐘という、高さ約3.6m、直径約2.2mの巨大な鐘が吊り下げられています。新羅の景徳王が先代の聖徳王追善のためにつくられ始めたもので、志半ばで景徳王が亡くなったので、息子の恵恭王が即位7年目の771年に完成させたとのことです。日本の梵鐘とは違って、鐘の上部には煙突状の筒があり、また、鐘と地面との隙間は50cmばかりしか離れておらず、鐘の真下の地面は半円状にへこんでいました。筒も地面のへこみも音響と関係していますが、韓国の国宝であり、実際に叩いて音を聞いてみることはできません。ちなみに、鐘を突く回数は日本では108回ですが、韓国では33回だそうです。
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- 2010/02/22(月) 00:00:23|
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19日(金)、大阪府立N高校の教員3名が建築・環境デザイン学科を訪問されました。訪問の目的は「環境」の研修で、木造実験棟と木工室の見学のほか、ASALABにもいらっしいました。引率のN教授からの依頼で、15分ばかり推定「卑弥呼の館」の講演をおこなうことになり、前夜、韓国から帰国したばかりの院生が演習室を整理整頓、講演会場に早変わりしたのです。15分のミニ講演と聞けば、2月5日(金)の大学院修士課程1年次
中間発表会でその院生が発表したパワポがどんぴしゃ15分なので、これをそのまま使うことに・・・
ごらんのとおり、わずか4名の聴衆のための小さな講演会でしたが、ライブハウスのような雰囲気で、短いながらも楽しい時間を過ごせました。スペースは小さく、講演時間は短い。スクリーンは壁です。関西の先生方なので、演題には興味があるようで、講演後、話が弾みました。接客には、わるくないあり方だと実感した次第です。
「出雲大社の建築考古学」講演のお知らせ(予報1) さて、次の講演が決まりました。出雲大社境内遺跡で宇豆柱が発見されたのが2000年4月5日。今年は発見十周年となります。じつは環境大学も開学十周年でして、記念事業がいろいろ予定されていますが、それに先んじて出雲で十周年記念講演をおこなうことになりました。概要は下記のとおりです。
1.日時 2010年4月3日(土) 13:30~15:00
2.会場 島根県立古代出雲歴史博物館 講義室(定員100名)
3.講演者 浅川 滋男
4.演題 「出雲大社の建築考古学 -掘立柱建物からみた神社本殿」
鳥取に赴任した十年前、故郷での「建築考古学」は出雲大社境内遺跡と妻木晩田で始まり、青谷上寺地を経由して、原点たる出雲大社に回帰してきました。そして、おかしな縁ですが、纒向遺跡大型建物の復元に挑んだことが、古代出雲大社本殿の理解に膨らみを与えてくれつつあります。日本書紀に言うところの「天之御舎(アメノミアラカ)」とは何なのか。「庇」の省略形としての「縁」のもつ意味をじっくり考えなおし、大社造だけでなく、春日造・住吉造・流造・神明造などの代表的な神社本殿形式の成立について、掘立柱建物研究の蓄積から独自の視点を示そうとする講演です。
とり急ぎ初報まで。
- 2010/02/21(日) 00:00:33|
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天球丸グラウンド構想!? 大学院修士課程の
修士研究発表会が終わりました。今年はM2を抱えていないので、研究室としては無関係なのですが、全研究発表を聴かなければならない立場になってしまいまして・・・とにもかくにも、例年の3倍以上忙しい。前夜、またしても教員室で一夜を過ごすはめになってしまいました。もちろん、一夜というほどではなくて、3時間ばかりの睡眠ですが、やはり不摂生の反動は大きかった。昼食後から猛烈な睡魔に襲われ、体調は最悪。まともに研究発表が聴ける状態ではありませんでしたが、立場上、退席はできず、体力との戦いに苦しんだ1日でした。考えてみれば、12日の学部公聴会以来、これで3度目です。1週間のうち、3度教員室で眠ったということ。風呂にも入らず、髭も剃らず・・・
発表会終了後、ただちに部屋に戻って、ソファで仮眠を取り、目覚めたら夜です。そして、わたしは毎晩「すきや」に出かける。大学の近くにはなにもないから、車でレストランをさがすのですが、「すきや」がいちばん速いんです。待ち時間がない。納豆定食、焼き鮭・豚汁定食、牛皿おろしポン酢定食をローテしながら、それぞれに冷や奴をつける。年寄り向けの低カロリー健康メニューですが、今日は珍しく温玉カレーセット(豚汁・冷や奴付)にしました。すると、目の前に野郎があらわれた。教育文化財団の発掘調査技師くんであります。いまはハマダバダ1号の部下になるのかな?? 近くに住んでいるのだそうです。久しぶりに会えて雑談に花が咲き、100円のホットコーヒーをおごっちゃいました。
大学に戻って、修復建築スタジオに。いまいちばん心配なのは、「鳥取城三ノ丸高等学校」の模型制作です。公聴会に間に合わなかったんですから、卒業設計展に間に合わないなら落第だ・・・ちょっと、不機嫌なんです。大学院の公聴会でも、若干1名の指導教員が不機嫌でしたが、こんどはわたしでございます。原因は体育館の配置と断面図。建築になってないんだもの。先週の公聴会では、副査を務めた他研究室の女子学生の木造建築設計に対して、「あとで恨まれるから言いたくないだけど、でもやっぱり言っちゃいますと、これ、建築になりませんね・・・」と批評した自分の足下で、「建築にならない設計案」が進行している現実をこんな段階になって知り、いま何人かを集めて対策を練りました。結局、某院生(ホカノじゃないですよ)が尻ぬぐいをしております。
[鳥取城三ノ丸高等学校プロジェクト(Ⅶ)]の続きを読む
- 2010/02/20(土) 00:00:32|
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環境大学HP(学外)のTUESニュース 「
建築・環境デザイン学科卒業論文(作品)の公聴会を実施しました」をご覧ください。ガードが裏木戸模型とともに、どアップで映っております。なんか、あいつ、運のめぐりが良くなってる感じですね。
閑話休題。
asaさんのランキング学校・教育 27位 (昨日:29位) / 13083人中
学校 8位 (昨日:7位) / 1227人中
更新日時:2010/02/17 04:21
これが昨日のランキングです。あらら、まんだ
20位代に低迷しているの、と憐れんでくださってますでしょうか。じつは、これ、上昇の兆しでございます。これまで、どれだけ凹んでいたか。正月休みあけからアクセスは急増し、たとえば、15日はUA=293、TA=691、翌16日はUA=296、TA=540というアクセスを集めたにも拘わらず、上にみるように、それぞれ29位、27位という低位を徘徊するありさま・・・
その前はもっとひどかった。30~40位代が定位置でして、最も順位を下げたのは、
asaさんのランキング学校・教育 31位 (昨日:56位) / 12706人中
学校 7位 (昨日:8位) / 1129人中
更新日時:2010/01/26 04:21
とあるように、1月24日の56位でした。その日だって、そんなに悪いアクセスじゃありません。日曜日にも拘わらず、UA=207、TA=531を記録しています。
受験なのですよ。12月中旬以降、世の中は受験シーズンに突入してしまった。夏から秋にかけて全国で
6~
8位を記録したLABLOGを50位代まで落としめたのは受験サイトへの猛烈なアクセスなのだろうと思うのです。ようやく20位代まで回復してきた今日このごろ、アクセス増加の背景として注目を集めている項目はなにか。「拍手」の数で、この1ヶ月のベスト10をお示ししましょう。
[久しぶりにアクセス・ランキング]の続きを読む
- 2010/02/19(金) 00:00:05|
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第1回基礎工事 2月15日(月)、加藤家住宅
裏木戸の基礎工事をおこないました。本日はガード、ナオキさんに加え、池田住研のMさん(某有名コメディアンと同姓同名です)がご指導をして下さいました。
はじめに池田住研の社長さんとMさん、ガード、ナオキさんでどのようにして基礎工事を進めていくかを話し合いました。話し合いを終え、すぐに作業を開始。まず、コンクリートを打つ位置を掘削することから始めました。最初はスコップによる手掘りをしたのですが、地下には小さい石から大きい石までわんさか詰まっており、なかなか掘削スピードがあがりません。そこでMさんは工事現場で使う電動ドリルをもってかられました。この機具はすごい! 手掘りとは違って、どんどん土を掘り起こしていきます。すかさず私とナオキさんが掘削尾土を外に出していきます。掘削のスピードはおおきくアップしました。ここで、私も機具を使わさせていただきました。Mさんの見よう見まねでチャレンジしてみるのですが、Mさんのように上手く掘削ができません。その後ナオキさんが挑戦すると、掘削はスムーズに進みました。さすがナオキさんです。私は機具が上手く使えないので、スコップでザクザク土を外にかき出していきました。掘削は完了し、すぐさま次の工程に移行。次は主柱、控柱を立てる位置に円筒を配置し粗骨材を敷いていきます。円筒は寸切りボルトを配置するためのものです。掘削時に水が少し出てきたので少し大きめの石を入れ、その後に粗骨材を入れます。この作業でも思いのほか作業がスムーズに進み、昼には完了しました。
[さおびきどっこ(Ⅴ)]の続きを読む
- 2010/02/18(木) 00:00:32|
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公聴会が終わって、昨日(15日)は大学院のⅡ期入試がありました。今年の受験者は多かったんですよ。わたしは本部席にずっとおりましたが、ときどき鼻から音をたてていた、とだれかに嗤われました。疲れているのね・・しかし、時間は容赦しません。来たる23日(火)~27日(土)、とりぎんホールのフリースペースで、
鳥取環境大学 建築・環境デザイン学科 大学院環境デザイン領域
卒業・修了研究展 が開催されます。4年生は休むまもなく、パネル作りに移行しました。とりあえず、卒業研究のタイトルをここでも掲載しておきます。
・宇田川(論文)「建具と内装の修復 -加藤家住宅修復プロジェクト The LAST-」
・大給(論文)「石窟寺院への憧憬 -岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流-」
・門脇(制作)「さおびきどっこ-古民家裏木戸の復元」
・森(制作)「鳥取城三ノ丸高等学校 -史跡と共存する校舎の設計-」
恥ずかしながら、懺悔してしまいますと、今年の4年生は「谷間」だと感じていましたが、なんのなんの・・・みなこつこつと卒業研究に取り組んで、平均的にみるならば、例年に優るとも劣らない出来映えに仕上がっています。あとは4人が、展示にどのような工夫を凝らすかが見物ですね。
おそらく最も衆目をあつめるのは「さおびきどっこ」でしょう。とりぎんホールで古民家の裏門を組立・解体する、という離れ技を演じるわけですから、来場者の目を釘付けにしないはずはありません(近々、大学HPの広報記事にもなるようです)。また、公聴会ではパワポのプレゼンにとどまった「鳥取城三ノ丸高等学校」も、今度こそ模型が展示されるはずです。公聴会に取材にきた記者さんたちも、模型の完成を心待ちにしていましたからね。
以上2名の制作組に対抗して、論文組の2名がどんな展示をみせるのかも興味深いところです。ただ、展示はたんなる見せ物ではありませんから、プロの教員たちを唸らせるだけの内容を伴う必要がありますよね。あとは、昨年の反省として、展示場所によってパネルを覆うアクリル板の反射がきつく、せっかくのパネル展示を台無しにしていました。会場での光のコントロールに十分注意してほしいですね。場合によっては、パネルの上に傘をかけるような演出が必要かもしれません。
1週間ばかり前にDMも完成しておりまして、ここに掲示しておきます。
↑クリックすると拡大表示されます
- 2010/02/17(水) 00:00:14|
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「学校全体を史跡公園に」報道 『季刊邪馬台国』なる雑誌が大学に届いた。104号の22ページに附箋が貼ってあり、そこに挨拶文もはさまっていた。21~22頁に朝日新聞(東京)1面の記事が転載されている。纒向遺跡で大型建物が発見されたことを報じる昨年
11月11日(水)の記事を書き写しているのだが、わたしたちの復元CGまで掲載しているのである。そう言えば、たしか12月に転載依頼の電話があり、きちんとクレジットをつけることを条件に許可した覚えがある。
こういう雑誌ならば掲載をお断りすべきでしたね。『季刊邪馬台国』104号では「卑弥呼の墓・宮殿を、捏造するな!-おかしいぞ、マスコミ便乗考古学者- 日本古代史を、勝手に作って行くな!」という特集が組まれている。べつにこういう特集を組むのはわるいことではない。しかし、それならば、編集部は中立の立場を貫き、畿内派・九州派の論客を公平に配してバランスをとるべきであろうに、編集長以下、九州派の論客ばかり名を連ね、いっせいに纒向攻撃をしかけている。こういう内容だということを予め知らせずに、ただ掲載を求めるという手続きに対して、わたしは不快感を抱いている。少なくとも、目次を添付した掲載依頼書を正式に送付すべきではないか。内容を曖昧にしたまま電話だけで転載を依頼され、「あれっ」とは思ったが、「朝日新聞側が同意した」という説明をされたので、「それなら」と気楽に許可したことをいまは後悔している。
わたしは、べつに邪馬台国がどこにあったって構わない。わたしたちは、纒向遺跡で出土した大型建物群を青谷上寺地の部材で復元しただけのことである。われわれの関心は「建築考古学」にあるのであって、「邪馬台国の位置」にあるのではない。講演の題目として、
推定「卑弥呼の館」という表現をいちど使ったことはあるけれども、「推定」抜きで報道した新聞記事に対してはブログ上で異議申し立てをしている。われわれにとってこの復元研究はあくまで推定「卑弥呼の館」を対象としているのであって、「卑弥呼の館」を対象としていない。
それにしても感情的な特集ではないか。文面のあちこちに正義をふりかざしているが、文章から冷静さが失われている。これを自戒としなければならない。いま編集している出雲大社の大著にしても、わたしの意見と真っ向から対立する論考が含まれている。論理には論理で対抗するしかない。
正義をふりかざすと感情的になる・・・同じことが鳥取城跡にも言えるのではないでしょうかね。第3者からの情報によると、
タウン・ミーティングは却って両派の亀裂を深めただけだとか。わたしがブログ上からデリートした「
地上げ屋」とか、「ヤクザと変わらない」とかいう感想も聞こえてきたそうです・・・一方、ああいう席に高校生を坐らせた学校側の気が知れない、という意見も耳にしています。
さて、アシガルの卒業設計が新聞記事になりました。県教委が県立高校の現状変更申請を8月まで延長することを決めたという記事とペアになっていて、表面上、じつにタイムリーですね。申請を延長するということは、計画変更を含めてすべてが「保留」という前提に立ち戻ったかと思えばそうではなくて、教育環境課は「計画を変更する予定はない」と語気を強めている模様。籾蔵跡地にRC杭のための
深掘りトレンチを穿つのはこの強硬方針に従った行為であり、然らば、なんのためのタウン・ミーティングで、なんのための申請延長なのであろうか。
アシガルがコメントしているように、わたしたちの「鳥取城三ノ丸高等学校プロジェクト-史跡と共存する校舎の設計-」は、たまたま結果としてこの時期に発表することになり、まるで両派の折衷案のようにみえるけれども、両派の対立が表面化する半年前からスタートしている。わたしたちは移転派にも4階建校舎再建派にも与しない。両派とも、自分たちの主張を冷静に見つめ直してほしいと願っている。
- 2010/02/16(火) 00:00:17|
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1日遅れですが、ハッピー・ヴァレンタイン!
不況のおり、義理チョコの数は減っているのでしょうか、増えているのでしょうか?
わたしは母親が特養生活となり、義理チョコ一つ減でございます。
楊鴻先生の来日スケジュールとレセプション さて、シンポジウム「大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観-」が近づいてきました。シンポジウムは27日ですが、楊鴻先生(中国建築史学会理事長)が奥様の王秀蘭先生を同伴されて24日に来日されます。滞日スケジュールの概要は以下に示すとおりです。とくにご後援いただくメディアの皆様にお伝えしたいのですが、取材は25日の午後~夕方ならば鳥取、26日午後以降は倉吉でお受けいたします。とくに、26日夕方「清水庵」で開催するレセプションにはシンポジウムの講演者・司会者が勢揃いしますので、ぜひこの機会を利用し、親交を深めてください。
2月24日(水)CA927便(北京09:20→関空13:20)で来日
奈良文化財研究所・平城宮跡
25日(木) 13:15~鳥取県教育委員会教育長表敬訪問
14:30~不動院岩屋堂、
環境大学建築・環境デザイン学科卒業設計展
26日(金) 午前:青谷上寺地建築部材視察(秋里分室・青谷支所・展示館)
午後:打吹玉川重要伝統的建造物群保存地区
15:00~交流プラザ研修室でシンポ打ち合わせ
17:30~「清水庵」でレセプション
27日(土) シンポジウム「大山・隠岐・三徳山-山岳信仰と文化的景観-」
(10:00~17:00@倉吉未来中心セミナールーム3)
28日(日) 奈良/大阪に移動
3月 1日(月) CA928便(関空14:20発→北京16:35着)で帰国
↑予稿集(左)表紙 (右)裏表紙
↑同上p.2-3「
楊鴻先生と語る」
*クリックすると、画像が拡大表示されます。
*シンポジウムの正式な情報は「続き」に転載しています。
[国際シンポ「大山・隠岐・三徳山 -山岳信仰と文化的景観」予報(その5)]の続きを読む
- 2010/02/15(月) 00:00:13|
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12日(金)、6期生の卒業研究
公聴会が開催されました。前夜未明、「すきや」で納豆定食を食べて一旦帰宅し、シャワーまで浴びたんですが、覚悟を決め大学に戻りました。教授室のベッドで寝ることにしたのです。3時間半の睡眠をとることができました。昨年よりは少しだけマシでしたね。公聴会は順調でした。4人ともレベルの高い発表をしてくれたと思います。途中、主査と副査の担当時間の合間を使って仮眠をとろうと思ったのですが、メディア対応で時間を消費し、結局休めませんでしたね。でも、某大手紙が本日の朝刊に掲載してくださるそうです。三ノ丸プロジェクトを支えたスタッフも少しは報われるでしょう。
以下、卒業予定者の感想と反省です。
慎始敬終 公聴会が終わりました。2月も半ばをむかえ、卒業までカウントダウンが始まっています。中間発表があった10月からもう4ヶ月たち、そのときにはどういった結論になるのかわからなかったのですが、うまくまとめることができたと思っています。副査の先生からは「誠実で良い発表だった」と評価していただきました。本当にうれしかった。努力が実を結ぶときほどうれしいことはありません。この研究室に入ってもっとも感激する瞬間だと思います。
中間発表に比べ、すらすらと進むことができ、時間もちょうど15分でしゃべりきることができました。満足いく発表でした。質疑応答では少し戸惑うこともありましたが、今は澄んだ気持ちになっています。それもこれも、2度3度と続いたパワーポイント発表練習のおかげですね。この練習を乗りこえたからこそ、自信をもって本番に挑めるわけです。
でも、これで終わりではない。環境デザイン学科では毎年、鳥銀ホールで展示がある。それにむけて、展示用パネルを作らなきゃ・・・。卒業式は意外と遠い。気を引き締めて、手抜きをせずに最後までやり遂げるぞ!(黒猫)
ラストスパート 大きなミスもなく、発表することができてホッとしました。パワーポイントを15分に凝縮することに、とても苦労してしまいましたが、ギリギリ許容範囲内の時間におさめることができました。中間発表に比べると、研究への理解も深まり、人前で発表しても緊張しなくなったような気がします。これは毎週、先生に発表練習を指導していただいた成果だと思っています。研究室の皆さんの力を借りながら、なんとかやってきた卒業研究もラストスパートですが、気を緩めることなく質疑応答で上手に答えられなかった内容をおさらいするなど、きたるべき展示会や倉吉でのシンポジウムにむけて頑張ります! (黒帯)
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- 2010/02/14(日) 00:00:52|
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先週、「大山・隠岐・三徳山」シンポジウムの関係者から資料を送ったという連絡があったのですが、いつまで経っても届かないし、催促のメールを出しても返事がないので、携帯に電話したんです。えらく賑やかな音がするので、どこですか、と訊ねたところ、
「はい、いまカンコクです」
「えっ・・監獄??」
「いやいや・・・韓国です」
あらら、携帯は韓国までつながっちゃうんですね。それからしばらくして、今度は加藤家住宅裏木戸の基礎と板金の件で某工務店の社長に電話したところ、やっぱり賑やかな雰囲気で楽しそうにされている。
「いま、**さんと焼肉食べてます。資料が届いとらんっちゅうこって、
先生に叱られるってこぼしとられますよ・・・」
そんなぁ・・・大先輩を叱ったりはしませんが、なんと、携帯恐るべし。二人は韓国で一緒にプルゴキ食べてるわけでして、なんたるっちゃ!? でも、そう言えば、わたしも昨夜、轟くんと二人だけで焼肉食べたんだ、鳥取の太平門で。マッコリも飲みましてね、少々体力回復しました。
設計方針の三角形 さて、この記事がアップされるころ、大学は卒業研究
公聴会の真っ最中です。若干1名をのぞいては準備完了。昨年の二の舞になりそうな気配なきにしもあらず・・・
その1名が「鳥取城三ノ丸高等学校プロジェクト-史跡と共存する校舎の設計-」の担当者です。かれはここ2週間ばかり体調を崩していて、公聴会の場に立てるのかどうか危ぶまれていたのですが、なんとか復帰し、今夜(11日深夜~12日未明)パワポの最終チェックをすることになっています。また眠らせてもらえそうにありません。教員室のソファで仮眠をとる毎日でございます、とほほ。
これまで「鳥取城三ノ丸高等学校プロジェクト」の基本コンセプトについては、何度か述べてきましたが、それを図化したのが上に示す「設計方針の三角形」です。「続き」に具体的な設計コンセプトを示しましょう。
[鳥取城三ノ丸高等学校プロジェクト(Ⅴ)]の続きを読む
- 2010/02/13(土) 00:00:09|
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第17章 孔雀の外套p.102-107:小山訳
1.晴雯の母親の病状が重く、彼女は家に帰り、世話をするほかなかった。宝玉の日常
生活の世話は、女中の晴雯と麝月が責任を負っていた。この日の夜、麝月は宝玉に
湯冷ましの水を飲ませた後で外を見た。月が明るく綺麗だったにで、すぐに出て
行った。
2.晴雯は、ちょっとした羽織ものを着て出て行くと、麝月を脅かそうと思いついた。
宝玉は「用心しなさい。風邪をひくと冗談じゃ済みませんよ」と言った。
3.晴雯が、麝月を脅かそうと出て行ったときに、宝玉が部屋の中から
「麝月、晴雯が出て行ったよ」と叫ぶ声が聞こえた。
4.晴雯は身を翻し、部屋に入って来て、「何も彼女が死んでしまうほど脅かすわけ
じゃありませんよ。宝玉さまは、なんでもないことで大げさに騒ぎすぎですよ」
と言った。すると、麝月も部屋に入って来た。
5.翌日、晴雯は頭痛と鼻づまりになった。宝玉は、王夫人がこのことを知って彼女が追
い出され家に帰されてしまうことを恐れ、すぐに、こっそりと医者を呼び彼女の看病
をさせた。
6.宝玉は賈母のお供をして食事をした後、戻ってきて晴雯の看病をした。彼女が炕
(ベッド状のオンドル)の上に臥せっているのを見ると、顔が真っ赤で、部屋の中
には誰一人としていなかった。
7.「麝月はどこに行ったの?」と宝玉は尋ねた。晴雯は「女中の平児が彼女を探しに
出て行きましたよ。私のことを追い出そうかとでも話しているんでしょうよ」と
答えた
8.宝玉はこれを聴いて、すぐに窓の傍へ行って、平児と麝月が会話しているのを盗み
聞きした。彼女たちは、平児がなくした腕輪のことについて話していたのだ。
9.平児は、「私のあの腕輪は、あなたたちの部屋の女中の墜児が盗んでいたようです。
あなたはくれぐれも言いふらさないように、宝玉さまのメンツをつぶさないように
ね」と言っていた。
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- 2010/02/12(金) 00:00:18|
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第16章 蘆雪庵の詩会p.96-101:小山訳
1. ある日、栄国府執事である頼氏の、年をとった祖母、つまり頼おばあさんが、鳳姐
(王煕鳳)に会って言った。
「旦那さまにとっても大きな幸福になりますように、私の孫を役人として
あずけたい。そのためにも三日三晩、舞台と酒宴を設けることを謹んで
お願い申し上げたい。未婚の女子たちにとっても気晴らしになるでしょう」
鳳姐王はそれを聞き入れた。
2.頼府がこの日、宴席を設け、薛おばさまの一家も来た。薛蟠は、相手の令息である
柳湘蓬を気に入り、すぐにつきまとった。
3.柳湘蓬は薛蟠を城壁の外に連れ出して立ち止まり、徹底的に殴った。
召使いがやってきて、なんとか薛蟠を運んで連れ戻った。
4.まだ幾日も経たないのに、薛蟠は商売を口実にして、薛家のある店の番頭について
故郷へ帰っていき、この一連の事件に終止符を打った。
5.この日、賈府にはとても多くの来客があり、その中に、李絹の兄嫁とその娘二人、
そして薛蟠の従弟の薛蝌と、同じく従妹の薛宝琴がいた。
6.探春は会って大喜びし、賈宝玉を探し出した。賈母にこれらの人たちをみなこのまま
残し、何人かの子女を海棠社という詩の会に参加できるようお願いができないか、
という相談をもちかけた。
7.賈母の甥っ子たちは、家族をもって、よその土地で役人になっていた。
賈母の家は、湘云を家で引き取って薛宝釵を同居させてはならないとした。
(気性の荒い者も多いし、頼る人は他にもいるので、別の所で同居させましょう)
8.翌日、雪が降り、李絹は皆を集めて、「今日は雪が降っていることだし、海棠社の
メンバーで集まって、姪っ子たちの歓迎会を開きませんか」と持ちかけた。
9.皆はその提案に賛成した。翌日、宝玉は王煕鳳について蘆雪庵へ行き、鹿肉を貰い
受けて、湘云と炙り焼き、皆にふるまった。
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- 2010/02/11(木) 00:00:41|
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昨夜、「
鳥取城三の丸高等学校プロジェクト(Ⅲ)」に対して「反論」と題するコメントを頂戴した。大変真摯なコメントであり、ご指示にしたがって、(Ⅲ)の本文を改めた部分もある。また、わたし自身、長文のリプライを書いて自分の意見を補足している。以上については(Ⅲ)のコメントを読んでいただければよいのだが、見逃される危険性もあるので、ここに再録しておきたい。なお、わたしのリプライに関しては若干加筆修正している。
--------
objection拝啓。いくつかご意見に疑問を感じる点があり、コメントさせていただきます。
鳥取城跡の西高は、平城宮跡の北辺あたりにある民家や商業施設と同列に対比できるでしょうか。むしろ、大極殿や朝堂院跡にそれらがある場合と比較すべきではないでしょうか。史跡の中枢部、世界遺産の中枢部に無関係の施設があったら、移転した方がよいと思うのが普通の感覚と思います。そうでなければ、オーセンティシティ―に重大な影響がある、と思われませんか?
仁風閣が移転する必要がないのは、鳥取城跡の歴史的意義や魅力を増す建物だからですよ。西高も、鳥取一中時代の建築を大事に残してきて、史跡との調和を大切にしてきたのなら、歴史的正当性を主張できたかもしれません。つまり、史跡の構成要素として外せない、という位置づけを獲得できたかも。しかし、あくまで現代建築の増改築、新築ですよね。過去もそうしてきた。保存管理計画も無視して。常に大きな声や感情論で保存の論理を封じてきた、というのが実態ではないでしょうかね。だから説得力がなく、「エゴだ」と感じる人も出てくる。
「文化財至上主義者」や「地上げ屋」のような穏やかでないレッテルを貼って非難することは、賢くないやり方です。感情的になりやすい話なだけに、もっと冷静な議論を展開しないと。先生はその道の専門家ですから、いろんな人がご意見を参照するわけですよ。保存とか、活用とかもきちんとした定義もないまま個々人の勝手な解釈や用法で議論しているのが実情だと思います。皆が共有できる定点のような論理を示していただきたい、と思っています。
長文失礼しました。 2010/02/07(日) 23:55:30 | URL | sanukiya
sanukiyaさんへ コメント、ありがとうございます。滅多にコメントの入らないLABLOGに正面切って長文のコメントをいただいたことに深く御礼申し上げます。
さて、まず「オーセンティシティ」という用語の使い方がおかしいですね。ベニス憲章や世界遺産条約を読んでいただければただちにご理解いただけるはずですが、オーセンティシティとはその文化遺産が歩んできた歴史の蓄積の総体をさすものであり、当初(オリジナル)の状態をさすものではありません。したがって、鳥取城跡の場合、近世城郭廃絶後に建設された仁風閣や一中~西高を含むすべての資産がオーセンティシティを構成します。ですから、仁風閣や西高は史跡内にあっても問題はないはずで、ただ前者はその存在が史跡景観の質を高めているのに対して、後者はそれを低めているという違いがあるだけのことです。ですから、わたしは西高を移転すべきだとは「全く」思っていません。今回の建て替えにあたって、史跡の質を高めるような校舎として生まれ変わらせればよいという認識のもとにプロジェクトを内々に進めているのです。
次に平城宮跡の問題ですが、仮に史跡指定前に佐紀町や法華寺町の集落が内裏から大極殿・朝堂院にまで及んでいたとしても、国はその集落の居住者に転居を求めたりはしなかったでしょう。県内だと・・・そうですね、青谷上寺地遺跡を例にとるならば、その北半には住居・団地・工場が集中していますが、その所有者に転居を求めたとすれば、国史跡の指定は実現しなかったでしょう。
[鳥取城三ノ丸高等学校プロジェクト(Ⅳ)]の続きを読む
- 2010/02/10(水) 00:00:31|
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昨夜作った金柑ジャム第2弾は好評でございました。前回に比べると、苦みがやや強くなりましたが、それは金柑の風味というべきものです。パンにもクラッカーにもよくあいます。
で、家族の一人が言うのです。
「こっちは、マーマレードにするんでしょ?」
(はぁっ!?)
彼女の目線は籠に入った伊予柑の皮に向いている。たしかに、昨夜、校正をしながら、伊予柑をたくさん食べたんだけど、剥いた皮をマーマレードにするつもりなどまったくありませんで・・・なぜ、わたしが平福の「道の駅」で伊予柑10個ばかりの袋を買ったのかと言うと、「
四国の文化的景観」シリーズの(Ⅱ)を書こうと思っていたからです。その書き出しのフレーズはずいぶん前から次のように決めておりました。
「伊予柑を食べると(宇和島の)三浦半島を想い出す・・・」
しかし、このシリーズ第2作を書けないまま時が過ぎ、この週末もまた断念せざるをえませんでした。奈良の家に帰ると、某大著の校正がどさっと届いておりましてね。しかも、今回はわたし自身の執筆担当部分で、どうにもこうにも逃げられません。毎夜、朝まで校正マシーンと化しております。老眼鏡なくして仕事が進まなくなった今日このごろ・・・
と言いながら、籠にたまった大量の伊予柑の皮をみていると、たしかに捨てるのがもったいなくなってしまいましてね。まず、この皮を煮込みます。湯通しというレベルではなくて、しっかり熱と水分を通さなければいけません。こうしないと、皮の裏側にくっついている白い「綿」がきっちり取れないのです。ご存じのように、「綿」は苦い。この苦さは「風味」などという良質のものではありません。
「綿」を包丁で剥ぐ作業はやっかいですね。そのあとの千切りもしんどい。正直、ちょっと皮が多すぎた。食べないまま残しておいた伊予柑は2つしかなくて、その実を袋から取り出し、千切りにした皮の一部とあわせてフードプロセッサで攪拌。千切りした皮はたくさん残っていますが、ゲル状のものとあわせて鍋で煮込みます。われらがホカノのグラッパはすでに使い切ってしまったので、今日は白ワインでぐつぐつと。途中、試食したのですが・・・うぅぅぅ、苦いぞ、これは・・・それに千切りした皮の形が崩れなくて、外観は人参の細切り煮込みのようではないか。
いったん火をとめた。しばらくテレビをみてました。龍馬から行列法律相談所。外務省を辞めてスーダンで働く日本人医師の話には胸を動かされましたね。やればできるんだ、やればできるんだぞ、おい!
そうこうしているうちに、鍋が冷えたので、鍋の中の7割の具を再度プロセッサに。そして、また鍋に戻し、煮込みを開始。でも、苦みは消えない。ここで良いものをみつけました。息子が買い込んでいたカシスのリキュールがあるではないの。これを惜しげもなく投入して、またとろ火で攪拌しつつアルコールを飛ばしていった。おかげで、ずいぶん苦みは薄らいだ。
でも、まだ苦いな・・・いや、塩味のクラッカーにつけたらなかなか美味い。
明日の朝、カリカリのパンとの相性が楽しみだね。
さて、今夜も校正マシーンです。おやすみなさい。
↑煮込み攪拌中。完成品ではありません。
- 2010/02/09(火) 00:00:01|
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正月明けに、どこかで一袋100円の金柑をゲットし、衝動的に金柑ジャムをつくった。その数日前、ダウラでP2&P4「修験道トレッキング」の
打ち上げをした際、毎度のことなのだけれども、
ジャムを一つ買って帰りまして、今回はたまたま金柑ジャムだったのですが、家族にすこぶる評判が良く、ならば私もジャムにしてみるべ・・・とネットでレシピを調べて試作した次第です。
できたジャムはなかなか美味しい。処女作にしてはよくできている、と自信満々に家族に食べてもらったところ、娘は言った。
「これ、マーマレードじゃん・・・普通に美味しいけど」
正直、少々ショックだったので、ダウラの金柑ジャムの蓋をあけた。はれっ・・・金柑が半割にして形を残しておるではないの。その味は・・・ほんとだ、あの独特の薬草のような風味が残っている。正月料理の金柑煮を思い出した。あの雅な苦みがほのかに口内に残るではないの。
ネットのレシピでは、フードプロセッサで皮ごとゲル状態にしてしまうとあったので、そうしたのですが、すると、柑橘系のジャムにはなるけれど、金柑本来の味覚が失われてしまうということを知ったのでした。
昨日、スーパーで金柑を発見し、ちょっと値が張っておりましたが、リベンジを決意し購入。今回は半分だけゲル状にして、残りの半分を半割状態で残すことに決めた。まぁ、ここだけの秘密ですが、わたしのレシピを紹介しましょう。
1)金柑のヘタをとって軽く湯通しする。
2)柔らかくなった金柑を真ん中で木口切りして、中の種を包丁で取り出す。これがいちばんしんどい作業です。
3)木口切りした半割状態の金柑のうち、50~60%をフードプロセッサで攪拌(水を少々入れる)。
4)鍋にゲル状の金柑と半割金柑の両方を入れて弱火でぐつぐつ煮込み始める。
5)ここでホカノのお中元
グラッパを惜しげもなく投入。
6)グラニュー糖をジャムが適度の甘さになるまで投入。
7)約20分攪拌しつつ超弱火で煮込み、アルコールを飛ばす。
8)最後にレモン汁を絞るとネットのレシピにあったのですが、わたしはシークワサの汁を蓋一杯添えます。
これで、完成。あとは冷めるのを待つだけです。暖かいジャムを試食した限りでは、前回より金柑の味がよく残っているのだれど、プロの味には遠いかな・・・一夜明けて冷たくなったら味が変わっているかもしれません。
トースターでカリカリに焼いたパンに塗って食べるのは目が覚めてから。
では、おやすみなさい。
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- 2010/02/08(月) 00:00:16|
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大学院修士課程1年次中間発表会を終えて 2月5日(金)、2009年度大学院修士課程1年次中間発表会がおこなわれました。
大学院研究科長の挨拶を皮切りに発表会がスタート。今年の修士1年生は、環境デザイン領域3名のみなのですが、うち1名が体調不良のため欠席し、結局、ASALAB2名の発表となりました。発表者と演題は、
節分にお知らせしたとおりです。
以下、発表者2名の感想と反省です。
やっぱりフリーザー この一年間に集めてきた資料や調査で分かったことなどを盛り込んで、年明けからちょこちょことパワーポイントを作ってきました。しかし、まとまらない。黒帯くんにも山岳信仰について助言をいただきながら、なんとか今日の発表にこぎつけたというのが、正直なところです。そんな状態だったため、自分でも内容がよく消化できていないところが多々あり、「ここぞ!」という重要なところで声が小さくなってしまったりと、分かりにくい発表になってしまって反省中です・・・
そして、私の場合、とくに問題なのは発表後の質疑応答です。昨年の卒業研究の公聴会でも、質疑応答の際にフリーズしてしまいましたが、今回もまた・・・次回、2年次の中間発表の時までには、なんとかこの苦手な質疑応答を克服したいです。
今度は、27日に国際シンポジウムがあるので、それに向けてパワーポイントの修正などをおこなっていきたいと思います。パソコンも、私も、フリーズしませんように・・・(部長)
この一年をふりかえって 発表を終えると、外はホワイト・ブリザード。15分という限られた時間を早口で捲し立てたためか、はたまた達成感にともなう高揚感なのか、凍てつく寒さも今のほてった体にはちょうどいい。
なんとか中間発表をのりこえたことに、まずは一安心。マキムク・タイフーンもようやく落ち着きはじめた。それにしても、この一年はなんと早かったことだろう。中間発表会の冒頭にも、先生が「はや1年が過ぎようとしています。修士課程の2年間なんてあっと言う間です」と挨拶をされた。いい意味で捉えれば、それだけ充実した一年であったし、悪い意味で捉えれば、研究活動の忙しさに流されていたのかもしれない。いずれにせよ、今年度の成果を着実に吸収し消化しなければ、本当に忙しさに流された一年となってしまう。今日の中間発表をケジメに、兜の緒を締めて来年度に望みたい。
来週には4年生が公聴会を控えている。毎夜かれらは遅くまで大学に残り、発表練習をしたり、模型を作っている。一生懸命頑張っている後輩を見ていると、昨年、自分がその当事者だったのをつい最近のことのようにに思う。この一年で、自分はどれだけ成長したのだろうか。
一つ一つのステップを確実に歩まなければならない。流されてはダメだ。すべてがあっと言う間なのだから。(Mr.エアポート)
[フリーズ&ブリザード]の続きを読む
- 2010/02/07(日) 00:00:39|
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某審議会を終えて、Sマートに寄り、1500円ばかり買い物をしました。うどんの玉が28円。豆腐もモヤシも白菜も安かった。それらをビニール袋にいれて学内を持ち歩いていたら、「鍋ですか?」と某女性職員が問う。
(えっ、なんでわかるのん?)
研究室に戻り、パソコンの画面に向かった。今度は電話のベルが鳴る。別の女性職員が言う。
「あっ、先生、まだ卒業アルバムの写真とられてないですよね?
研究室メンバーの写真、未提出は先生のところだけに
なっちゃいまして・・・」
「えっ、そうなの??」
「今夜、撮影できないんですか? 鍋やられるんなら、みんな
揃うんじゃないですか?」
(はぁっ・・・なんでわかるのん???)
「それと、寄せ書きもまだなんですよ、先生のところだけ」
「
さんまとハバネロ」取り寄せたんです。1缶150円の1箱=24缶3600円です(送料なし)。やはり学生諸君には評判が良く、しばし鍋を囲みました。大学の近所にレストランなどありません。冬は寒くて外に出る気にならないので、自ずと鍋が恋しくなる。ジャンケンで負けた買い出し係がジャスコに走る。ただし、規則あり。
1)わたしは千円札を2枚だす。
2)この金額を超えて具材を買ってはいけない。
(おつりはだいたい5円ですね)
3)肉を買ってはいけない。
(ベジタリアンじゃなくて、肉を買うと高くつくから買ってはいけない)
当然のことながら、モヤシと豆腐とうどんが多くなります。あとはダンゴとか餃子とか・・・そうそう、ウィンナーが結構あうことを黒猫に教えられました。黒猫はながく「吉鳥」でバイトしてきたこともあり、すっかりASALABの鍋奉行に君臨しております。でも、見事な手つきだ。味付けも上手いし、具のわけ方が綺麗です。その点、エアポートはガサツなので、鍋には触らせません(よく食うけど)。味付けのベースは「牡蠣しょうゆ」でして、これに「さんまとハバネロ」の煮汁を加えると、コクのあるピリ辛鍋に早変わり・・・
それにしても、なんで職員のお姉さんたちは知ってるんだろう?
「秘密の鍋」を知っているのはなぜなんだ。まさか、このブログを読んでるんじゃないでしょうね??
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- 2010/02/06(土) 00:00:06|
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同窓Wからの再信 2月1日の記事にコメントを頂戴した同窓W氏が、今度はメールで意見を送ってきてくれたので以下に引用しておきたい。
私は、熱烈に鳥取西高を愛する卒業生の一人ですが、個人的には、何としても、
今の県の計画は変更して貰いたいです。鳥取西高の改築は、史跡整備の一環
として、復元建物や史跡にともなう展示施設以外の施設を大規模に整備するという、
これまでの紋切型の史跡整備に一石を投じるものです。従って、鳥取の事例を
全国の人々が、羨ましがるようなものになってほしいと思います。
やや語気を強めて言えば、これまで史跡外に母校の移転を強制された人たちを
後悔させるような整備であって欲しいのです。史跡との共存を日本で初めて
実現した学校改築事例にするには、やはり、遺跡の公開活用を積極的に取り入れ、
景観にも格別に配慮したものでなければならないでしょう。
アシガル君、最後のラストスパート、頑張って下さい!
いつだったか、ある新聞記者氏と酒席で論争になったことがある。わたしが「西高は移転する必要などない」と主張すると、記者氏は「それはOBの感情論」だと切って捨てた。わたしはたしかに西高のOBではあるけれども、「熱烈に鳥取西高を愛する卒業生の一人」というほどではない。卒業生かどうかなんて、どうでもよいことです、わたしにとっては。問題は「史跡」という対象のとらえ方であって、文化財専門家のわたしよりも、記者氏のほうが保守的なのではないか・・・
世界遺産の例をまずは紹介した。カンボジアのアンコール遺跡群やタイのスコータイ、アユタヤなどではモニュメントや遺跡の敷地に集落が入り込んでいて、場合によっては、そこに校舎をふくむ場合がある。そういう場合でも、ユネスコは「集落」を史跡から排除して転居を強制するようなことをしていない。史跡と集落の共存を維持している。史跡に住む人びとは、史跡が世界遺産に登録される前からそこに住んでいる。そういう人たちには、当然のことながら「先住権」がある。国の特別史跡にして世界文化遺産の「平城宮跡」にしても、佐紀町や法華寺町の集落が浸食していて、そのなかには店舗施設を含んでいる。文化庁や奈良県教委は、そこに住む人々の住居や店舗の移転を求めたりしていない。
西高の場合も、鳥取一中時代から三ノ丸の跡地に校舎があった。敷地を発掘調査すれば、一中時代の遺跡もでてくる。今の校舎はデザインに難があるのは間違いないけれども、一中以来の歴史を受け継いだものであり、これを「鳥取城とは無関係」だから「悪」だとして排除しようとする考えかたがそもそもおかしい。文化財至上主義者は、自らのイデオロギー以外に正当なものはない、と思っているのだろうか。このイデオロギーに従うならば、重要文化財「仁風閣」もまた鳥取城の跡地から移転せざるをえないであろう。しかし、かれらは決して「仁風閣を移築せよ」とは言わない。なぜ西高だけが移転しなければならないのか。
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- 2010/02/05(金) 00:00:38|
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大中遺跡と兵庫県立博物館 一月晦日。黒猫さんが鳥取城三の丸高等学校の
タウン・ミーティングに出席しているころ、わたしたちは兵庫県立考古博物館まで出かけていました。明石高専主催のフォーラム「地域一帯で実践する集落復元を考える」で、また先生が講演されたのです。
会場となったのは兵庫県立考古博物館は、2007年に開館したばかりのできたてほやほやの博物館です。ホームページ上の写真を見てもわかる通り、モダンな印象、館内は綺麗でピカピカ。そんななかでも、いたるところに壷や甕などの土器や埴輪を模したレプリカが置かれたり、展示内容も見るだけでなく手に取ったり遊んだりできるブースが多いなど、「体験」重視のあたらしいかたちの博物館です。
博物館の敷地は加古郡播磨町の大中遺跡(おおなかいせき、弥生時代中期~古墳時代中期)と隣接しており、そのガイダンス施設を兼ねています。博物館の隣に建っている竪穴住居は最近復元されたもので、今回のフォーラムの主題の一つです。
出張メンバーは、以前の講演会と同じく、先生、タクオさん、エアポートさん、部長さん、そして私。移動手段は車。タクオさんに運転をお願いし(おつかれさまです…)、往きはなんと2時間ほどで会場へ着きました。
博物館に到着後、すこし時間があったので、みんなで館内のカフェにてお茶を飲むことに。
そのカフェはミュージアムショップも兼ねており、お茶がテーブルにとどくまでグッズを見てまわっていました。商品棚には考古学のシリーズ本や、卑弥呼関連の本も。先生たちが書籍の方に注目するかたわら、私はひっくり返すと湯呑みとして使える埴輪や、脱力感あふれる埴輪キーホルダーや、もはやキューピーと言えるのかわからない怪しい顔をしたご当地「古代人キューピー」や(竪穴住居キューピーもありましたが……)……もちろんそれ以外の研究に関係しそうなものも見てましたよ。模型制作キットで「楼観」や「竪穴住居」をつくれるキットが売られていて、「これ、模型制作のときに使えるかも…」などと話しておりました。
さて、カフェで一服したあと、館内を案内していただきました。さきほど紹介したとおり、「参加体験」を重視しておられ、発掘を体験できるコーナーや、古代人の格好ができるコーナーなど、小さなお子さんでも楽しんで考古学に触れられるような展示内容でした。また、アクリル板の下に住居遺構のレプリカを展示するなど、アシガルさんの三の丸高等学校の設計に役立ちそうな素材がいっぱい詰まっていました。また、先生やエアポートさんは行者塚遺跡の家形埴輪(5世紀?)レプリカをじろじろと観察されていました。
大学生となった今でも楽しく体験できて、あまりに興味深かったためみんなに遅れがちになっていましたが、子供のころにこういう博物館へ来ることができていたら、もっと考古学に興味を持っていただろうなあ…なんて。博物館の外では子供たちが火起こし体験をしているところも垣間見たりして、さらに「いいなあ…」と。こんな博物館が身近にあったら素敵ですね。
この館内見学は御所野縄文博物館(岩手県一戸町)の高田館長と一緒に回っていたのですが、見学の終わるころ、館長の体調が良くないことが分かり、薬博士の先生がさっそく2種類の薬を用意されたのですが、昼食を食べられないほどの状態でして、先生はタクオさんにユンケルを2本買ってくるよう指示されました。なんで2本なのかというと、じつは先生も睡眠時間が2時間だったそうで、体力に不安をもたれていたようです。なんでもユンケルの効用は2時間で切れるそうでして、お二人とも飲むタイミングを慎重にはかっておられました。
↑アシガルはこのページの写真をよくみて、校舎の設計に活かしてください(教師)
[兵庫県立考古博物館と集落遺跡復元フォーラム]の続きを読む
- 2010/02/04(木) 00:00:25|
- 講演・研究会|
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1年なんて、ほんと、あっというまですね。今年もとうとうバレンタイン、じゃなかった、卒業研究公聴会のシーズンとなってしまいました。いやまぁ、みんな悪戦苦闘して、わたしもご覧のとおり、最後の最後まで、いや節分まで校正マシーンと化している今日このごろ。4年生との別れの日が一歩一歩近づいてきております。また、公聴会より一歩早く、大学院修士課程1年次の中間発表会も開催されます。
卒業研究公聴会のスケジュール 2009年度卒業研究公聴会は2月12日(金)で、会場は論文組が13講義室、制作組は学生センター多目的室です。
10:40-11:00 宇田川恭平(論文)
13講義室 「建具と内装の修復 -加藤家住宅修復プロジェクト The LAST-」
Renovation of fixtures and interiors
- Kato family's residence restoration project THE LAST -
11:00-11:20 大給 友樹(論文)
13講義室 「石窟寺院への憧憬 -岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流-」
Dream for Stone Cave Temple
-Typology and origin of Buddhism hall constructed at cave or cliff-
13:20-13:40 門脇 史知(制作)
多目的室 「さおびきどっこ -古民家裏木戸の復元-」
SAOBIKIDOKKO -Reconstruction of the Back Gate in Traditional Houses-
13:40-14:00 森 吉宏(制作)
多目的室 「鳥取城三ノ丸高等学校 -史跡と共存する校舎の設計-」
High School of Tottori Castle Third Dungeon
-Design for School Buildings Co-existed with The Historic Site-
ご来場をお待ちしております。
なお、卒業研究の概要は「中間発表会のお知らせ」の<
続き>に掲載していますので、ご参照いただければ幸いです。ただし、研究の進展にともない、タイトルと内容が若干変わってきております。
[2009年度卒業研究公聴会・大学院中間発表会のお知らせ]の続きを読む
- 2010/02/03(水) 00:00:34|
- 講演・研究会|
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タウンミーティングに参加して 一月晦日。先生ほか4名の学生は兵庫県立考古博物館の講演にでかけていったが、鳥取県立図書館大研究室では「史跡鳥取城と鳥取西高等学校のあり方を考えるタウンミーティング」が開催された。このテーマは、もちろんアシガル君の卒業研究「鳥取城三の丸高等学校」と深く関わっているのですが、彼は卒業研究が切羽詰まった状態にあり、彼のサポートも兼ねて、私(黒猫)が代理参加し、記録を取ってきました。以下は、その報告です。
大まかな流れは以下の通りです。
1.開会
2.これまでの経緯などの説明
教育委員会側 改修計画の説明(地下遺構や景観への配慮を含めて)
文化財保護審議会 遺跡整備、復元の計画(文化財保護法との関連について)
タウンミーティングの主旨と開催の経緯、平成13年度からの鳥取城整備と
鳥取西高の併存許容の経緯学校関係者の意見など
3.一般参加者との意見交換
4.閉会
いうまでもなく、ここでの問題は、西高を移転するか、現在の敷地に建て替えるかということです。
[鳥取城三ノ丸高等学校プロジェクト(Ⅱ)]の続きを読む
- 2010/02/02(火) 00:00:25|
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われらがトリオ・ザ・コロコッポクルの主要メンバーが来春より、故郷に近い北陸の某国立大学に編入学することになり、その送別会を挙行しました。2008年度前期のP1&P3「
魔法の山」で活躍したMさんです。
2年前の4月、「魔法の山」のオリエンテーションに彼女が初めて姿をあらわしたとき、まるで「天空の城ラピュタ」の主人公のような少女だと感じ入り、恥ずかしながら、しばし魅入ってしまいました。まわりにいた男子学生も同じような印象をもったようで、もう時効だから告白してしまいますが、オノコたちはみな「木曜日が待ち遠しい」と言っておりました。
「魔法の山」プロジェクトを通して、Mさんには大親友ができました。同じコロポックルに住むIさんです。二人はとても仲が良く、Mさんは森林、Iさんは動物に興味があるというので、それぞれ久松山の植物と動物を担当してもらうことにしたのです。あのころ、ホカノが留年を決めM3になったばかりで、精神的にやや落ち込んでいたのですが、Mさん、Iさんたちの指導係兼運転手として週末になると
久松山にでかけ、一緒に昆虫・植物採集をやっているうちに元気を取り戻していきましたね。ダウラという紅茶専門の喫茶店の存在を知ったのも、あのころです。捕獲したばかりの
カスミサンショウウオの幼生をみつめながら、スリランカの紅茶を啜ったのが1年半前か・・・
その後期、P2「限界集落アンソロポロジー」に参加してきたのがNさん。彼女もまたコロポックルの住人で、「限界集落アンソロポロジー」の
発表会にはMさん、Iさんも駆けつけました。以来、わたしは独断で、この3名を「トリオ・ザ・コロポックル」と命名したのです。
じつは、長いあいだ「パスタを食べに行こう」という約束を履行できませんでね。マキムクで瀕死の状態に陥っていた昨秋、わたしは約束を破ってドタキャンしてしまい、以来、音信不通の日々が続いていました。そんななか、Iさんから連絡があり、急遽、送別会が決まりました。土曜の昼下がりということで、会場はそば切り「たかや」にしました。日本版のパスタです。わたしは冬季限定「
牡蠣なんばん」の大盛、少女たちは「梅かけ蕎麦」と「つけとろ蕎麦」を注文。Iさんがテーブルにおいてあった唐辛子をみつけて、大きな声をあげたの。
「あっ、磯五郎だ!」
ほんとだ、たかやのテーブルには善光寺名物「一味唐辛子(大辛)」がおいてあって、その販元は八幡屋磯五郎となっています。Mさんの故郷の一味唐辛子なんですが、缶のデザインが大正~昭和戦前の匂いをぷんぷん漂わせていて、壁に貼り付けてある戦前映画のポスターとずばりマッチしている。マスターはこんなところまで気を配られているのだと感心しきりです。
[さよなら、シータ]の続きを読む
- 2010/02/01(月) 00:00:11|
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