今月27日、ようやく平成19年度鳥取県環境学術研究費助成研究の正式な
採択通知が総務課に届いた。今年度申請した研究は、昨年度の継続であり、加藤家住宅修復プロジェクト第1期の最終年度にあたる。
研究申請題目は以下のとおり(研究費1,799千円)。
ローコストによる古民家修復手法の開発(Ⅱ)
-住むことと修理することの実践をとおして- ところで、今年度の採択通知は例年より2ヶ月ばかり遅かった。通常は5月末、遅くても6月初旬には通知があり、前期のプロジェクト研究に絡ませることができたのだが、今年は発表会が終わってからの通達のため、まったくこの予算を使えなかった。昨年までは、「予算執行が遅い」という注意メールが飛び交っていたが、今年は出発の時点ですでに2ヶ月の遅れがあり、残された時間は8ヶ月しかない。まことに頭の痛いことである。
ちなみに、わたしたちのプロジェクトに限っていうと、昨年度も予算執行は早く、そして経費不足に悩んでおり、
HOWTECからの助成をうけてなんとか年間の工程をクリアした経緯がある。この実情を県には強く訴えておきたい。
今年度の加藤家住宅の修復プロジェクトでは、施主負担の工事費を敷地境界の石垣工事に集中させることになったため、主屋の内装ついては、教員・学生のセルフビルド体制によりリフォームを進めている。また、今年度の大きな目標は、以下の2種類の印刷物の刊行と配布である。
1)平成18年度修復工事の報告書
昨年度助成をうけた県環境学術研究費とHOWTEC助成研究費の成果を複合した報告書。詳細な工事記録に基づきながら、ローコスト修復のエッセンスを抽出している。大城卒論を浅川研究室で再編集し、浅川も加筆して入稿済み。現在、第2稿の校正を終えた段階。
2)一般市民向けパンフレットの刊行
平成18~19年度の修復工事成果を一般市民向けにわかりやすくまとめたカラーパンフレットを年度内に編集、刊行する。
加藤家修復工事をベースにする本研究は、当初、他の民家にも応用可能な「ローコスト修復マニュアル」の作成を目標に掲げていたが、現在はその「エッセンス」の抽出にとどめている。それは、いうまでもなく、各地に残る古民家の状況に応じて修復手法は一定ではなく、マニュアル化することが現段階では大きな意味をもたないと考えたからである。
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- 2007/07/31(火) 01:14:22|
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鳥取のみなさん、奈良は猛烈に熱いですよぉ!
ほんとね、奈良と京都の夏は熱いんだから。「暑い」んじゃなくて「熱い」んだからね。これは地球温暖化なんか関係ありません。ずっと昔から「熱い」んだから。鳥取の夏は涼しいんですよ。
けしからんのは次女でしてね、元自分の部屋であった1階の6畳に籠もって、ずっと冷房かけっぱなし。今、そこは患者の寝室になっているのに、今夜は足の悪い患者を2階の部屋(元は母の部屋→今は次女の部屋)においやってぐぅぐぅ寝てるんだから。患者のほうは、冷房のない生活に慣れていて、文句も言わず、かつての自室であった2階の部屋にあがって休んでいる。

選挙のあった猛暑の日曜日、わたしたちは熱さにくじけず外出しました。それというのも、某院生が週末に帰省するというので、理由を聞くと、「倉吉の報告書に使えるようなアーケードの写真撮って来ようと思ってまして」。
そんな、バナナ・・・報告書に必要なアーケードの写真が尾道に存在するのであろうか。
いま
わたしたちが一番欲しい写真は、みなさん!、尾道ではありません。
横浜の馬車道と伊勢佐木の商店街の写真です。かつてアーケードが隆盛していた昭和50年代(だったかな?)、馬車道と伊勢佐木では、アーケードを思い切って取っ払うことで、衰退していた商店街の活気が一気によみがえった。

倉吉の
本町通り商店街では、すでに
アーケードの撤去工事が始まっているらしい。撤去に反対する住民の声も多かったと聞いている。わたしたちは、まもなく刊行予定の報告書の結論として、基本的にアーケードを撤去し、アーケードとともに発展してきた「看板建築」を町家の外観に戻すことで「打吹玉川重要伝統的建造物群保存地区」の拡張区をめざす方針に賛同している。しかし、アーケードの全面撤去には賛成できない。わたしたちが慣れ親しんできた昭和の建築ファサード、昭和の看板などを大量に残しているアーケード商店街の一部を圧縮的に保存することを主張している。商店街の大半ではアーケードを撤去し、町並みを旧状に復しながらも、アーケードを一部だけ残し、そこに昭和のレトロ・グッズを集め、既存の重伝建地区との差別化を図ろうという提案をしている。だから、仮に解体するにしても、
長さ20メートル分だけでも鉄骨部材を保存しておいてほしいのである。それがあれば、いつの日かアーケードを再現できるではないか。
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- 2007/07/30(月) 04:21:45|
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6人めの日本側PKキッカーとして羽生がゴール前にあらわれたとき、「外す」と直感した。
今大会における千葉の選手(というか、オシム・チルドレン)の働きは芳しいものではなかった。羽生の動きそのものは悪くない。しかし、昨日の3位決定戦を含めて決定機を外し続けた。羽生はラストパスをうけると、思い切り足を振り抜く。で、そのシュートはGKの正面に飛んだり、ゴールの枠を外したり。サイドキックで冷静にボールをゴールの両サイドに散らしていれば、昨日を含めて少なくとも2試合は勝ちきっていた。運をもっていない選手がサドンデスのトップにでてきてしまった。そして、胸騒ぎは的中。
先発の
山岸(もちろん千葉の選手)についても、初戦でコメントしたとおり。なぜ、かれが攻撃的な左サイドハーフとして先発するのか、まったく意味がわからない。今野を左サイドバックの位置におき、駒野を一つ前(アレックスの位置)に配しておくほうが良かった。今野を入れておくと便利だ。いつでも3バックにチェンジできる。敵は後半12分から10人になって、事実上1トップになってしまったのだから、4バックにしておく必要はない。後ろには中澤、阿部、今野の3人だけ配し、不調の加治は攻撃的な選手と入れ替えるべきだった。最後は中澤をトップにあげて、阿部と今野の2バックでパワープレーを仕掛けることもできた。
高原に代えて矢野を投入したベンチワークにも失望した。パワープレーの時間になると、矢野をピッチに送り込むのがパターン化しているけれども、これまで機能したためしはない。昨日だって、最後にどうしても点が欲しいなら、高原は残して加治と交替させるべきだった。そうでなければ、「リスクを負って点を取りに行く」ことにならないではないか。
オシムの掲げた理想は「考えて走るサッカー」であったはずだ。しかし、現状では「つなぐサッカー」になってしまっている。「つなぐサッカー」と言えば、ジーコではないか。ジーコ時代の「中田-中村-小野(小笠原)」の3人が「遠藤-中村-中村」に変わっただけ。もちろん走力に関して言えば、今のほうが上だ。しかし、サッカーの質は似たようなものだろう。
トーナメントを勝ち抜くのは「堅守速攻」のチームである。まずはディフェンスを強くしなければならない。もちろんジーコ時代に比べれば、今のディフェンスのほうが強くなっている。しかし、アジアカップでの失点は多かった。これを韓国レベルに近づけるためには、鈴木と組むダブルボランチの一方を守備的能力の高い選手に替えざるをえない。トゥーリオがストッパーに戻ってくれば、阿部がボランチの一番手になるだろうが、さらに今野、稲本、中田浩司がいる。
守備が強く、得点力のあるボランチが欲しい。ビエラのような選手がね。
- 2007/07/29(日) 01:44:26|
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年度が変わり、ブログへのアクセスがしばらく凹んでいたのだが、7月になって通常の1.3倍ぐらいまで一気に増加し、驚いていた。なぜだろう、と不思議に思っていたところ、患者(家内)のするどい指摘。
「サッカーでしょ・・・あなたの
コメント読んでる人、多いのよ。」
んだ、んだ。ボケているようで、見事な推察ではないか。たしかにアジアカップが始まって、「
ハノイの・・・」を連載していたんだ。アクセスを確認してみると、(Ⅰ)を書いた10日(火)の
ユニークアクセス(UA)=192、
トータルアクセス(TA)=448、(Ⅱ)を書いた17日(火)のUA=194、TA=416と大きく跳ね上がっている。(Ⅲ)の21日(土)はUA=137、TA=321とやや数を減らしているが、通常の土・日のアクセスがUA=80~100だからやはり約1.3倍の数値を示している。
サウジ戦敗北後、(Ⅳ)をアップしたのが26日(木)の午後4時ころ。ここから大きくアクセスが伸び始め、午後6時段階でUA=130 、TA=215 に達していた。このままいけばひょっとしたら、UAは200を突破するかもしれないと期待しはじめたその時、サーバーに異変が生じた。同日午後7時代から翌27日午前4時代までUA、TAとも「0」を記録したのである。あきらかなトラブルだ。サーバー側のトラブルである。わたし個人はもちろん、ゼミ生もなんどかアクセスしているのだから、アクセス数「0」などということがありえるはずはない。翌日確認すると、27日午前5時代からアクセス数の記録が回復していた。いや、まことに残念なことである。これまでこういうトラブルは一度も経験していない。ひょっとしたら、サウジ戦の敗北コメントに対するアクセスが多かったことに原因があるのかもしれないな(ありえないか?)
さてさて、慣例に従い、3ヶ月分まとめてアクセス状況を報告する。まずはユニークアクセス(UA)とトータルアクセス(TA)の変化から。以下の表記は、月総数(1日平均)をあらわす。
4月 UA=3338(111) TA=6670(222)
5月 UA=4072(131) TA=9672(312)
6月 UA=3848(128) TA=8624(287)
というわけで、4月は若干落ち込んだものの、5月以降、
昨年度後半のアクセス数にほぼ回復しつつある(先述のとおり7月はさらに増加している)。
つぎに、ヤフーやグーグルなど検索エンジンによるアクセス総数の推移をみると、
4月:1222 5月:1485 6月:1482
となっている。4月まではヤフー検索が圧倒的に多かったが、5月以降、グーグル検索がヤフーに接近してきている。
検索エンジンによるアクセス総数を都道府県別にみておこう。左から4月→5月→6月のパーセンテージを示している。
1位 鳥取43.32% →鳥取36.63% →鳥取39.34%
2位 島根12.83% →東京11.88% →東京10.10%
3位 大阪07.82% →島根08.58% →大阪09.10%
4位 東京07.12% →大阪07.84% →島根08.56%
5位 京都04.71% →神奈川04.29% →神奈川03.82%
6位 兵庫03.91% →福岡03.96% →京都・愛知03.00%
7位 福岡03.41% →兵庫03.38% →
8位 神奈川02.70% →京都・愛知02.64% →岡山02.27%
9位 愛知02.20% →兵庫02.09%
10位 広島01.80% →岡山01.98% →北海道01.63%
4月は1~3月と同じく、鳥取、島根、大阪、東京が定位置ともいうべき1~4位を占めていたが、5月以降、東京がアクセスをのばす一方で、島根のアクセス数が減少している。島根での仕事が減っている証だね。逆に、最近とくに多くなってきた「音楽」の話題は、東京や神奈川などの大都市圏でうけているのかもしれない。ともかく、この5月を境にして、アクセス地域の分布構造が大きく変わり始めた。
続いて、検索エンジン使用のサーチワード順位をみてみよう。左から4月(5月)[6月]のパーセンテージを示している。
1位 浅川研究室 4.83% (lablog 3.64% ) [lablog 8.58%]
2位 カルシウムハウス 3.93% (浅川研究室 3.37%) [六弦倶楽部 5.00%]
3位 浅川研 2.45% (浅川研2.69%) [浅川研究室 2.97%]
4位 lablog 2.45% (塩崎綾1.48%) [塩崎綾 2.90%]
5位 鳥取西高 1.22% (浅川滋男ブログ 1.28%)[浅川研 0.94%]
ごらんのとおり、「浅川研究室」「浅川研」「lablog」「浅川滋男ブログ」など、研究室関係での検索が圧倒的に多くなっている。かつてのように、「けんびき」「自在鉤」「カイヤン」など個性的なキーワードでの検索が減ってしまったのは残念だ。そんななかで、6月には「
六弦倶楽部」が2位に輝いた。じつは7月も同じく2位につけている。わたし自身、次に
練習会に参加できる機会を楽しみにしている。なお、
塩崎綾さんは、例の
催涙スプレー事件をおこしたディレクターとともに「廃材でつくる茶室」を取材にきたタレントさん。お元気にされてますかね。
- 2007/07/28(土) 05:02:44|
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生きている石、死んでいる石、そしてまた虫
今年もまた夏季オープンキャンパスの時期が来た。今年は8月4日(土)・5日(日)の2日間。我らがASALABでは、前回のパネル展示(ベトナム水上集落)に加え、例年どおり、「盃彩亭」(廃材でつくった茶室)も公開する。また、浅川先生は得意の
「サシガネを使って大工さんになろう!」というミニ講義をされるとのことです。

さて、裏山の茶室「盃彩亭」だが、昨年の11月7日に一度修理し、雪対策のために屋根にブルーシートをかけてから、すでに9ヶ月あまり過ぎてしまった。気温の高まりとともに草木も成長し、裏山は虫達の楽園と化している。茶室修理の現場監督Mr.エアポートと、殺虫剤片手に木の枝を振りまわしながら「盃彩亭」へと向かった。事態は前回の修理時よりも悪化していた。修復前の加藤家の縮小版と言っても過言ではないほどである。Mr.エアポートは構造屋さんの顔で次々に問題点を発見し、改善案を出してゆく。私はしたり顔でそれをメモしていく。
30分もいただろうか、我々は茶室を後にした。以下は監督エアポートがホワイトボードに記した問題点と修理計画である。

〈問題点〉
1.全体が傾いている
2.そのせいで礎石がスカスカ(効いている部分もある)
3.仕口が浮いている
4.継手がはずれかかっている
5.すべての要因が重なり、柱Aが悲鳴をあげている
〈修理計画〉
1.通路の枝打ちなど、作業環境を整える
2.Aの柱をワイヤー(ロープ)でB,D方向に引き、固定する(倒壊を防ぐため)
3.AD・CDの桁の継手仕口を修理し、カスガイ等で補強する
4.DA間の板壁を修理し、固定しているワイヤー(ロープ)をさらに締める
5.すべての柱がすいちょくになったことを確認し、DA間を「長押」で固定する
6.BA間の折れた垂木を交換する
7.雨漏の補修
8.畳の拭き掃除など内装をきちんとする
今週は修復に必要なものの下準備をし、本格的な修理は来週からになる。できるだけゼミ生のみなさんは修復に協力してください。修復の経過については随時報告します。(チャック)
- 2007/07/27(金) 03:14:03|
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試合後の川口能活のコメントが、試合の全体像を最もよく言いあらわしていた。
「セカンドボールがね・・・みんな向こう(サウジアラビア)に拾われて、(ルーズ)ボールに対する寄せも気迫も向こうのほうがまさっていました。」
オシムは「運が悪かった。エース格の選手の疲労が激しかった」と感想を述べ、TVの解説者も「日本代表は悪いサッカーをしたわけではない」とコメントしていた。
わたしの率直な感想は「走り負けた」ということである。オシムのサッカーの基本コンセプトは「考えて走る」ことであり、オシムは「走れない選手は使わない」という発言を繰り返してきた。しかし、日本選手は走れなかった。というか、サウジアラビアの選手に完全に走り負けていた。運動量、瞬発力の両面において、サウジは日本にまさっていたのである。川口が指摘するように、デフェンスからのクリア・ボールが日本側に納まらない。ルーズなセカンドボールの6割以上がサウジ選手の足下に転がり込んでいった。サウジの選手が中盤でよく動いていることの証明である。
昨日の日本は基本中の基本である
トライアングルさえまともに作れていなかった。ボールをキープする選手に対して、最低2方向にパスコースをつくることを「トライアングル」という。トライアングルを形成し続けることによって、後方から前線まで攻撃を紡ぎあげることができる。また、ボールがカットされた場合でも、カットした敵選手に対して、トライアングルを構成する選手が一斉に襲いかかる「集中守備」が可能になる。昨日の日本は、そういうサッカーができていなかった。
昨夜は9時半から「飛鳥」で、ある高校の先生と親交を深めていた。エアポートの出身校の先生で、某プロジェクトの紹介を兼ねていたのだが、しばらくすると、サッカーが始まってしまい、あまり本題が進まなくなってしまった。前半に先取点を奪われた直後、中澤がボンバーヘッドでただちに同点にした。これは勝ちパターンである。後半開始早々サウジに2点めを許した。これはいけない。もっとも危険な時間帯であり、どうしても失点を防がなければならなかった。しかし、まもなく阿部のダイビング・ボレーで同点においついた。これも勝ちパターンである。追い上げているほうが有利に決まっている。
しかし、日本は3点めを失った。しかも、個人技から阿部と中澤のダブル・ストッパーが振り切られての失点である。これはいけない。そもそも3点も失点するチームは何かがおかしい。敵のチームに研究され尽くされているか、4バック2ボランチシステムに破綻が生じている証拠である。
わたしは飛鳥のカウンターで「今野を投入しろ!」と声を出し続けていた。サウジのマルコス・パケタ監督(伯)は、日本の4バックの2ストッパーに2トップをはりつけてきた。すれば、カバリングの選手がいない。鈴木一人では苦しい。中村憲剛は疲れている。早く憲剛をさげて今野を投入して、阿部をリベロにまわし、2トップのマンマークを中澤と今野にすべきだった。マルコス・パケタはサイド攻撃を執拗にしかけてきた。後半2分の得点は、その戦術がみごとに奏効したものである。
サウジアラビアのサッカーは変わった。以前はもっと個人技に頼る前近代的なサッカーで、日本の「お得意様」だった(イランやイラクのパワーサッカーのほうが日本は苦手だ)。それをマルコス・パケタが改革した。昨日のサウジアラビアは、日本がやろうとしている組織的なサッカーを実践してみせた。豊富な運動量、速い球回し、左右からのサイド攻撃。すべての面で日本のほうが劣っていた。
どこかで再戦し、いちどは倒しておかなければならない相手だろう。(完)
- 2007/07/26(木) 16:35:21|
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久しぶりに池田家墓所に行ってきた。池田家墓所を訪問する日は、どういうわけか猛暑で、説明を聞いていても、ただただ日陰に逃れたくなる。
ピエールと社長が光仲墓唐破風を実測した、あの真夏日を思い出した。
じつは、金曜日に委員会があるのだけれども、先週奈良に帰っていないので、今週末は奈良ですごすことに決めた。だから、まことに申し訳ないが、委員会は欠席。かわりに、担当のハマダバダ君(1号)に修復現場を案内していただいた。
池田家墓所玉垣の修復は、すでに軌道にのっている。これまで3年間にわたって試みてきた修復パターンを基本形とすれば、他の70基の墓碑周辺玉垣は基本形の応用パターンで処理できるであろう。今年度も池田定興墓ほか数基の修復が進んでいる。昨年度修復を終えた光仲墓も雄姿をみせている。

細かいことを言うと、唐破風をおさめたH型鋼の隙間に充填したエラスグラウドという緩衝材がふくれあがり、上端のシリコンを押し出してしまっているが、そう目立つわけではない。
なにより重さ1トンの唐破風が宙に浮いている姿は壮観だ。玉垣を構成する古い石材と新しい石材も馴染んできている。まだ、3・4年生にはみせていないので、早いうちに見学させないとね。「材料のオーセンティシティ」を考えるには絶好のモニュメントだから。

↑福部産の南田石(のうだいし)は枯渇してしまい、島根県温泉津産の「福光(ふくみつ)」という凝灰岩を用いて修復中。
- 2007/07/25(水) 17:36:20|
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加藤家での発表と打ち上げが終わった。打ち上げに参加したメンバーは少なかったが、結局午後4時から深夜2時近くまで宴会は続いた。疲れたので、今日のブログは写真のみ。

↑展示を終えたアトリエ ↓発表風景


↑取材風景 ↓1階仏壇の真上に作られた新しい仏壇
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- 2007/07/24(火) 23:46:55|
- 講演・研究会|
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カインズホームで買い出しし、加藤家へ。学生はだれもいない。一人で荷物を畳間に運びこんだ。加藤家ではちょっとした問題が発生していて、今日は管理人さんに結構長い時間お付き合いした。なんとか良い方向で収束させなければならない。これまで同じような苦労を何度もしてきたので、まぁ、なんとかなると信じよう!
いちど大学に戻った。
環謝祭(学祭)準備のための打ち合わせ会が開かれ、教員のわたしも学生と一緒に出席しなければならなかったのである。なんともバツが悪い。さっそくアンケートを書かされた(というか、その場を逃れたかったので、早く書かせてくれとせがんだ)。アンケートには、またしても「バンド名」という項目があって、「
フルハウス」と書いても良かったのだが、今回わたしはあくまでソロなので「ソロ」と記入した。ただ、(特別ゲストの参加あり)という注記も付け加えておいた。
それから不在者投票へ。喫茶店や蕎麦屋で読む新聞の情報を信じる限り、どうやら「奢る平家は久しからず」の情勢のようですねぇ。しかし、源氏も弱いからなぁ、蓋をあけてみないことには分かりませんね。それにしても、こういう与野党逆転が見込まれる選挙だけに、マスコミはそちらに視線が集中していて、どうやら加藤家どこらじゃないみたいだ。すでに記者クラブには2度もFAXを送信しているのだが、今のところ「あたり」はまったくない。
ただ、マスコミのみなさんたちには強く言っておきたい。
環境大学定員割れの問題をこれまでずいぶんネガティブに(ときには悪意をもって)報道してきたマスコミ関係のみなさん。あなたたちの記事のおかげで、学生や父兄は動揺している。受験生やその父兄も同じだ。これまでの報道は、環境大学の入試状況をさらに悪化させるネガティブ・キャンペーンに近いものだとわたしは感じている。どうして、もう少しポジティブな書き方ができないのだろうか。環境大学は苦戦しているが、教員や学生は思いきり頑張っている、というような書き方がなぜできないのか。
どうか、もういちど環境大学を応援してください。そのためにも、加藤家での学生のがんばりを取材してほしいんです。
一人でも多くの人に見てもらえるとうれしい! いよいよ明日が今回のプロ研(1&3)の発表会。いま振り返れば思えばいろいろ問題があって、不安ばかりだった。しかし、後半の団結力のおかげで無事(?)発表を迎えれそうだ。アトリエ班と家具製作班は家具の補強や色塗りなどの改良も無事終わり、パネル作製も間に合った。反省点も多々あるが、とりあえず形になった。
明日、一人でも多くの人に見てもらえるとうれしい。(環境政策学科2年M.Y)
- 2007/07/23(月) 23:03:49|
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とうとうビアンキを修理に出した。ギアがどうにもこうにも調子が悪い。最近は雨が多く、また加藤家との往復でしばしば車を使うため、ビアンキは裏のベランダに放置されたままどんどん湿気にくるまれ、急速に劣化を進めていたのだ。
中古のビアンキを買ってから、もう4年めになるんだな。傷みもするわね。荷台を跨ぐオストリッチのバッグなんか退色がひどくて、中に入れている雨具やタオルや手袋はかびていた。もちろん、即洗濯です。
わたしが4年前、中古のビアンキを買ったのは駅裏の「ピオ」という店。空気圧の緩いタイヤのままピオまで漕いでいったのだが、マスターはお出かけ中だったので、ビアンキをあずけることにした。ずらりと並ぶ新しい自転車をみて、やはり今年のビアンキ・モデルが気になった。なんとロードタイプのボディがグレーに変わっている。いけませんね、ビアンキにはビアンキの色があるでしょ! ビアンキはライトグリーンを保守しなきゃだめですよ(マウンテンだけはこの色を守っていた)。
正直なところ、もう買い換えたいんですよね、ビアンキも。でも、グレーはヤだな。グレーのビアンキなら、もうルイガノにしちゃうぞ!
なんて偉そうなこと言ってますが、ビアンキを買い換えると8~9万円するからね。この半年で楽器を4台も衝動買いしたわたしとしては、手がでません・・・
自転車をピオにあずけたものだから、もう歩くしかなくなった。で、駅前の楽器屋さんをめざすことにした。着くと、若者でごったがえしている。マスターらしき人物に訊いた。
「なんなんですか、この賑わいは?」
「ライブがあるんですよ。」
「有名な人?」
「いえいえ、高校生たちのライブです。」
「そうなんだ・・・、ところでクラッシックギターおいてます?」
「いえ、ないんです。本店のほうに行けばありますけどね、・・・ただ数は少ないですが・・・」
わたしは智頭街道を北上し、本店に足を踏み入れた。クラシックの楽器がいっぱい並んでいる。
「クラシックギター、弾かせていただけませんか?」
「はい、こちらにあります。」
「えっ、4本だけ・・・でも、高いんだろうな・・・ほらほら4本とも30万円前後の値札が付いてる・・・???」
「いえいえ・・・桁が・・・」
「あれっ、3万円なんだ。」
4本とも弦にカバーの紙がかけてあって、申し訳ないとは思ったが、いちばん手前にあるヤマハを弾かしていただいた。悪くはない。結構、弾きやすいし、良い音がしている。レギュラーから始めて、ダブル・ドロップD、そしてDADGAD、さらにオープンDmに
チューニングを変えていった。DADGADのGをFに下げると、オープンDmになる。ペンタングルのバート・ヤンシュとジョン・レンバーンがイギリスの古典楽曲をカバーするときにしばしばオープンDmを使うらしいが、開放弦でDmの和音を響かせても、あまりおもしろくないことが分かった。それにひきかえ、DADGADのDsus4は素晴らしい響きだよね。
[ビアンキ修復 -続・駅前の楽器屋さん]の続きを読む
- 2007/07/23(月) 05:39:59|
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来たる7月24日(水)、プロジェクト研究1&3の発表会にあわせて、今年度最初の加藤家住宅公開をおこないます。
今年度前期の学生による主要な活動は、以下のとおりです。
1.「アトリエを作ろう-古民家ロフトの改修計画」 1・2年生対象のプロジェクト研究1&3を浅川研究室の3・4年生が指導する形式で、昨年度修復・改修を終えた「屋根裏=ロフト」をアトリエとして再生するプロジェクトを進めてきました。廃棄されていた古家具を修復してロフトに配列し、見事なアトリエに変身しています。
また、加藤家の縁の下に隠されていた古い壊れた
梯子をリサイクルして手すりを制作しています。
2.1階土間の「菱格子欄間」修復 破損していた大黒柱筋の「菱格子欄間」を2年生&3年生の2名で見事修復しました。
3.1階座敷の畳敷と縁側「障子欄間」の修復 昨年度の工事以後、作業と収納スペースに化していた表側の座敷に畳を敷きなおし(1~3年男子)、庭に接する縁側の障子欄間の障子をすべ貼り替えました(3・4年女子)。座敷と庭が明るく美しい欄間で一体化した姿を取り戻しました。
4.イロリ板間の公開 イロリを復原したイロリノマは、畳敷から当初の状態に近い板間に復旧しました。これまでは養 生のためブルーシートで覆っていましたが、
今回初めてイロリノマ板敷を公開します!5.敷地「裏木戸」の復原 石垣の修復に伴い、学生自ら裏木戸の位置を発掘調査したところ、礎石・側石などがみつかり、現在、平面の復原を終えています。現在、上部構造の復原設計を進めています。
★ポスター展示および住宅公開のスケジュールは以下のとおりです!
7月24日(火) ①10:20~10:50 環境大学本部棟1階ギャラリーでパネル展示説明(展示は1日中)
②14:00~: 加藤家住宅現地説明会 環境大学からBDFカー「ラルゴ」での送迎(2往復)あります。第1便 12:30本学発予定、第2便13:30本学発予定。
みなさまのご来場をお待ちしております。
- 2007/07/22(日) 05:09:02|
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まるでフランス対イングランドの試合をみているようだった。
青いユニフォームの日本がフランスで、黄色いユニフォームのオーストラリアがイングランドである。もちろんイングランドのユニフォームは、ホームが白で、アウェーが濃紺であることぐらい知っている。フランスはトリコロールだ。ユニフォームの色ではなく、サッカーの質がフランスとイングランドほど違うと言いたいのである(えっ、分かってるって!?)。
監督が変われば、サッカーはこれほど変わるんだ。それを、この試合ほどつよく感じたことはない。ヒディングによって「組織化」された脅威のオーストラリア代表チームの姿は、どこにもなかった。前線にばかでかい二人のトップ(昔はツー・スピア・ヘッドと呼んだ)をおいて、バックラインからぼが~んとロビングを放り込む。そのこぼれ球を中盤から駆け上がってきた選手が奪ってシューット!
まことに、前近代的なサッカースタイルにオーストラリアは戻ってしまった。かつてベッケンバウアーが現役で代表キャプテンだったころ、たいてい2-0ぐらいのスコアでイングランドを破っていたが、試合後のドイツ選手のコメントは
「イングランドのサッカーは20年遅れている・・・」
今日のオーストラリアのサッカーは、そういう時代遅れのサッカーだった。ヒディングならこんな攻め方はしない。かれは日本の弱点をよく知っていた。両サイドに守備の穴があり、宮本は1対1と空中戦に弱くて、攻められるとラインをずるずる下げていく。だから、ヒディングは執拗にサイド攻撃を繰り返した。驚いたことに、守備を知らない左のアレックスの方ではなく、右の加地のサイドを徹底的に攻め、宮本の上空にクロスをあげ続けた。それは、ボディブローのように日本の守備陣を麻痺させていった。
今日の日本はフランスだった。フランスはラグビーもサッカーも「シャンパン・フットボール」さ。次から次にパスを繋いで、シャンパンの泡が沸き立つように、うしろの選手がどんどん前に上がってくる。かれらは疲れを知らない。球離れが早い。日本はフランスのような球つなぎで、完全に中盤を支配した。一年前のドイツでは、スタミナがあると言われていた日本のほうが先に足がとまった。カイザースラウテルンでの日本代表はなぜ、あれほど走れなかったのだろうか。逆に、今日の日本代表は、摂氏35度の猛暑のなかで、なぜあんなに走れたのだろうか。
日本がオーストラリアに負ける危険性がなかったわけではない。しかし、サッカーの質において、日本はオーストラリアをはるかに上回っていた。ビドカの高さも怖くない。リバプールのスター、キューウェルは「落ち武者」のような風貌をしている。だれかがどこかでとどめを刺してやらなければならなかった。
それがPK戦の5人めにまでもつれこんだ。中澤のシュートがゴール右上隅に突き刺さったとき、恥ずかしいことだけれども、わたしは胸にじーんとこみ上げてくるものがあった。ジーコJAPANを批判し続け、W杯のはるか前から「勝点1」の予選敗退を予測していたにも拘わらず、その負け方のあまりの酷さに悔しさがこみあげてこないはずはなかった。その
オーストラリア戦の最後の10分の屈辱が記憶の彼方から蘇ってきたのである。だれが日本代表をあんなに弱くしたのか。ヒディングがああいうカードの切り方をしてくるのは分かっていたはずなのに、なぜジーコは何もしなかったのか。そのジーコを神格化し、擁護し続けた張本人はだれなのか。
1年前のW杯で、日本代表の監督がオシムだったら。あるいは、オシムだったとしても、日本がグループリーグを突破したという保証はない。しかし、少なくとも、予選1試合めで事実上の敗退が決まるという為体はなかったであろう。
- 2007/07/21(土) 23:49:36|
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<手摺り取り付け前のロフト上がり口>
「土曜はハンドンだで!」
の大工さんの一声から今日の工事はスタートした。先週の日曜日、社長自ら加藤家の
縁の下の隠されていた「古い梯子」をトラックに積んで倉吉まで持ち帰り、手摺りへのリサイクル工事が動きはじめた。現在、ロフトの上がり口は吹き抜けとなっており、土間からは伸縮自在のスティール梯子がかかっているのみである。ロフトの上がり口でちょっと気を抜くと転落してしまう。そこで落下防止のために、本日「梯子をリサイクルしたアトリエの手摺り」の工事をおこなった。

<手摺りの束の加工>
朝9時より池田住研の大工さんが来られ、倉吉で加工した梯子の側桁、束、柱が運び込まれた。ここで取り付け案を簡単に説明しよう。手摺りはロフトの床から高さ900mmの間に取り付ける。吹き抜けの長手には梯子の側桁を手摺りの上下にし、その間に短ホゾと長ホゾの加工をした束を交互に立てていく。長ホゾは側桁を貫き、両端を鼻栓留めで固定する。この束の取り付け間隔は梯子の踏板が取り付けてあったホゾ穴をそのまま利用する。つまり、手摺りのため700mmとちょっと幅広だが、もとの梯子と同じ構造の梯子が復原されるわけだ。そして手摺りの一方をロフトのサスに取り付け、もう一方は新たに床から天井まで柱を立てそれに取り付ける。短手には幅1mの上がり口を設け、梯子の側桁に近い形に加工された新材の手摺りを、長手と同様に一方をサスに取り付け一方を新たに柱を立てて取り付けるという予定である。
ご存知かと思うが、現在のロフトの壁は古材サスと新材サスが交互に組まれている。そこで問題が起きた。ロフトの床と吹き抜けとの境の壁には長手も短手も古材サスがある。このまま床の際に手摺りを設置するとダイレクトに古材サスに手摺りを取り付けなければならない。そこで古材サスを傷めぬためにも、短手の手摺りは450mm程度ロフトの内側にある新材サスに取り付けることとなった。一方長手は、古材サスの手前にある妻側の梁とロフト床面の間に新たに柱を立て、手摺りの両端を柱に取り付けた。

<手摺りの組み立て>
できあがると背筋がゾクゾクした。なんとも見事な手摺りが目の前にある。プロジェクト研究1&3で家具を置いても何処か寂しかったロフトは手摺りが付くことで、より一層ロフトらしくなった。古い梯子の側桁を使った手摺りは、その朽ち具合といいなんともいい感じを出している。さわり心地も文句なしだ。やはり大工さんはすごい。完成度も高い上、どんな問題が現場で起きようとも、それに対して臨機応変である。しかも動きに無駄がない。長年培われた職人わざなのだろう。
手摺りの取り付けが終わると、近くの中学校の昼休みのチャイムが鳴った。つまり9時からスタートして、木材の加工、組み立て、取り付け、仕上げの一通りの作業工程が3時間ほどで完了したのだ。そこで大工さんが一言、
「やっぱり土曜はハンドンだで」。
ハンドンとは鳥取の方言で、「半日仕事」と言うこと。つまり朝の一声は「今日は午前中で仕事を済ますぞ!」という目標だったわけだ。なんともスピーディ! (Mr.エアポート)

<完成したロフト上がり口>

<手摺りとして復原された幅広な梯子>

<家具とのつりあいもなかなかである>
- 2007/07/21(土) 16:38:40|
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充電しておいたデジカメが不調で、仕方なく置いてきたんですが、そこからなんとなく嫌な予感がしたような・・・
と、いうわけで今日の3・4年生ゼミ(プロ研5&7)は市内行徳にある常忍寺の視察(+α)をおこないました。なぜ常忍寺なのか、というと、鳥取市が本堂の登録文化財申請を準備しており、浅川研究室で夏休みに調査をおこなうことが決まり、その下見を兼ねているのです。
序盤、ご住職のご厚意で客殿を使わせていただけることになり、3年生3名のデザイン演習成果の発表を聞きました。ご住職や市のSさんにも聞いていただきました。

↑客殿での演習風景 ↓数奇屋造の客殿2階。

客殿は本堂とほぼ同年の幕末の数寄屋造。面皮の柱や長押が多用されています。2階の小壁には貝殻が埋め込まれていました。住職さんのお話によれば、半間階段や荷運びのための滑車が備え付けられていたといいます。隠し階段もあるそうな。なんと言っても目をひくのが板戸や天井などに描かれた鳥獣画。わたしの記憶が正しいならば、藩お抱え絵師の作品だそうです。こんな所にまで?といった場所にさりげなく描かれていました。こういう芸術に囲まれて生活していたことを考えると羨ましい限りです。
「墨で描かれた動物たちは、何故かいい顔をしているように見える」というのはSさんの弁です。

↑客殿の板絵 ↓本堂内部

行徳の常忍寺は、徳川家康の側室・お万(養珠院)の遺志で、法華宗の日常上人の生誕地に建立されたという由緒の寺院です。実際に建立に当たったのは、芳心寺住職・日潤で、寺院としての成立は寛保元年(1742)。芳心寺はお万の孫で徳川頼宣の子・芳心院(池田光仲室)の鳥取における菩提寺でした。
現在の本堂は、天井の墨書から天保2年(1831)の再建と知られます。浅川先生のお話では、本堂内部の虹梁の絵様は幕末~明治初期の様式だが、向拝(↓)に関しては18世紀に遡る可能性があるとのことです。

本堂、とりわけ柱の重厚感はやはり年代のなせる技でしょうか。再び浅川先生のお話によると、柱は埋木や風蝕からみて、虹梁よりも古い年代のものの可能性が高いそうです。とすれば、寛保の材でしょうか。太い柱は「ミズメザクラ」の木が使われており、建築形式全体は「和様」ながら、柱の上端には「禅宗様」特有のつよい「粽」(ちまき)がみとめられます。
また、須弥壇上部の天蓋部だけは建築の様式が異なっているということです。吊束上に長押・頭貫・台輪をまわして、台和上を詰組にしています。台輪と詰組といえば「禅宗様」ですが、組物自体は「和様」で統一しています。また、おもしろいことに台輪上の大斗には削出しの皿斗がついています。皿斗といえば「大仏様」ですから、天蓋部分は禅宗様・和様・大仏様の折衷になっているのです。本堂本体には台輪・詰組。皿斗は使われていません。本堂本体と天蓋の様式が異なる理由としては、①建築年代が違う ②大工の流派が違う ③建築の過程で何十年と経過しているので大工の仕事の仕方に変化が生じた 等の原因が想定されるようですが、いまのところよくわかりません。

↑天蓋(部分) ↓同脇天井板にみえる天保二年の落款

夏休み(8月10~11日)には平面図、配置図、写真撮影、拓本調査、小屋裏調査などをおこなうことになりました。民家とはまた違った発見があるのでしょうね。(とまと)
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- 2007/07/20(金) 22:51:27|
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アマゾンのアカウント・サービスで確認すると、6月20日にジョン・ウィリアムスの『スピリット・オブ・ギター』とアンドリュー・ヨークの『パーフェクト・スカイ』を注文している。発注先は、いずれもマイアミのcaiman_america。 caiman_americaは安くて上質の輸入盤が入手できるので大変結構なのだが、商品によっては発送がえらく遅れるので時々心配になる。上2枚の場合、『スピリット・オブ・ギター』は七夕前に届いていたのだが、『パーフェクト・スカイ』はつい最近ようやく手にした。
この2枚の出来は素晴らしく、入手以来ずっと車の6連奏チェンジャーに納まったまま。わたしの人生では、家で音楽を聴く余裕などない。音楽が聴けるのは車の中だけ。だから、鳥取と奈良を往復する長距離運転は辛いんだけれども、買いためたCDを聴き通す貴重な時間でもある。『スピリット・オブ・ギター』と『パーフェクト・スカイ』は、ともに「サンバースト」をトップに配している。車に乗っていて、二つの「サンバースト」を交互に鳴らしてみる。甲乙つけがたい。二人とも凄いギタリストだというしかない。
ジョン・ウィリアムスの演奏は精密機械のようだ。木村大やヨークが弾くとジャジーな「サンバースト」が、ウィリアムスの手にかかると、ちゃんとクラッシックに聞こえる。かといって、作者であるヨークの演奏がウィリアムスに劣っているわけではない。わたしの車のCDプレーヤーやスピーカーはおんぼろだから、間違っているかもしれないけれども、ヨークは『パーフェクト・スカイ』の「サンバースト」をスチール弦で弾いている。嘘だろっと思って、ウィリアウムスの演奏と聴き比べるのだが、聴けば聴くほどスチール弦にしか聞こえない。ついでに、ヨークの楽譜集についているCDも聴いてみたのだが、こちらはナイロン弦だった。
『パーフェクト・スカイ』での「サンバースト」はスチール弦ですよね? 間違っているとしたら、どなたか教えてください。クラシック・ギターにスチール弦を張ったのか、フォークギターを使ったのかわからないけれども、これはスチール弦でしょ? 『パーフェクト・スカイ』はずいぶん実験的なアルバムで、ポップな曲をふんだんに取り入れている。いちばん驚くのはエレキ・ギターのソロまで含んでいること。ヨークはエレキで「星に願いを」を弾いている(かれはジャズ・ギタリストでもあるから不思議ではないが)。典型的なスロー・バラードだけど、この曲が難しいのは
自分が演奏した経験からよく分かる。
結局、「サンバースト」については、木村大→村治香織→木村&ヨーク→ウィリアムス→ヨークの順で聴いたのだけど、この曲がいちばん似合わないのは村治だと思った。逆に、木村の若々しい荒々しさに「サンバースト」はよくフィットしている。
ジョン・ウィリアムスとアンドリュー・ヨークが定位置を占める6連奏チェンジャーに、そっとマイケル・ヘッジスの代表作を2枚忍ばせてみた。あえてタイトルは伏せておくが、アコースティックギターに革命をもたらしたとされる2枚のアルバムである。やはり駄目だ。役者がちがう。ウィリアムスやヨークとは比べようもない。いま、なんとか辛うじてクラシック・ギタリストに対抗できるのは、ピエール・ベンスーザンと・・・トミー・エマニュエルぐらいかなぁ・・・、というのが、現状におけるわたしの認識である。
高速道路や峠超えの運転にとって、マイケル・ヘッジスは退屈だ。すぐに眠くなる。先日の境港→奈良の深夜ドライブでは、途中からマイケル・ヘッジスに替えて「ツェッペリンⅢ」と「ベスト・オブ・
ジミ・ヘンドリックス」を投入した。ハード・ロックが好きなわけではないのだが、睡魔を振り払うには良い薬になる。「ツェッペリンⅢ」はツェッペリンのファンから散々ブーイングをくらったアコーステッィク色の強いアルバムだが、しかし、それでも演奏は強烈きわまりない。レッド・ツェッペリンはレッド・ツェッペリンであって、いくらアコースティックギターを多用しようとも、決してペンタングルではないし、CSN&Yでもない。ただ、おもしろいなと思ったのは、ジミー・ペイジとマイケル・ヘッジスのストーローク・プレーが非常に似ていること。ジミー・ペイジは変則チューニングの使い手としてもよく知られているが、最も愛用したのは
DADGADで、このチューニングはケルト系の音楽によくあう(日本民謡にもね)。常識的にはマイケルがペイジから影響を受けたとしか考えられない。
ちなみに、とても驚いたんですがね、マイケル・ヘッジスはわたしのまるまる3歳上。誕生日が同じなんですよ。大晦日。12月31日の山羊座。山羊座はね、根暗でしてね、・・・おまけにスケベなんだよね。どぉしよぉもありません。
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- 2007/07/20(金) 00:10:29|
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今回をもって、プロジェクト研究1&3は発表会を残すのみとなったんですけど、やばいやばいと思いながらも、何とか形になりましたね。最初はなかなか話が進まなく、激が飛ばされることもしばしばだったのが、いざ作業が始まると、皆さん熱心に案を形にしていってました。その形となったものを、今回加藤家に運び込んだのですが、なんともサマになっているじゃありませんか。教授の部屋から持ってきた、書籍を棚に飾ると、ちゃんとした事務所のようですが、黄色い照明のおかげで、なんともジャズが似合いそうな空間になっています。

で、前にも紹介したように、このロフトにはレトロな蓄音機まで装備されていているんです。教授は自宅にジャズのLPをいっぱいもっているそうでして、ということはですよ、あと、当初案にあった、ワインセラーなどがあれば、ここはジャズバー的空間になってしまうじゃありませんか!!・・・・・本来の趣旨と違いますけど。照明一つでかなり雰囲気が変わるものです。
あと必要なものは、空調です。このロフトは両妻に窓があるのですが、とても湿度が高く、蒸し暑いのです。そこで、発表会までに扇風機を手に入れて、空気を循環させようという計画が持ち上がりました!! これで、このロフトはジャズバー風・事務所へと変貌するはずです。去年からかかわってきた、加藤家の新しい空間の第一弾として、とても楽しみなことこの上ないです。(けんボー)

↑修復したリファーレン購入のパソコンデスクと加藤家所蔵のレトロ蓄音機。今日はショパンを聴いた。 ↓仏壇(仏具がまだおいてない)

↓修復された
家具をロフトに持ち上げる
[アトリエにはジャズを]の続きを読む
- 2007/07/19(木) 21:17:33|
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七夕イヴのこと。エコで知られるY研究室の学生たちが裏山から笹竹を伐採して演習室に七夕飾りを設え、大量の色紙をカットして山のように短冊をつくり、全研究室に配ってきたのです。
七夕の短冊といえば、ノビタではありませんか。今を去ること2年前、ノビタの就職内定祝いをダシにして弥生町にくりだした記事を覚えていらっしゃる方もいるでしょう。2次会の
MOMでは、若くて綺麗な厚化粧のおねえさんたちが短冊を用意して待ちかまえていました。そして、ノビタは書いたのです。
「彼女と幸せになれますように!」
一同、どっちらっけ・・・。いや、冗談ではなく、厚化粧の美女たちはみんな引いてしまい、呆れてしまい、よほど我慢ならなかったようで、まもなく反撃に転じてきたのでありました。
「なに、これっ・・・ここ、どおゆうとこだかわかってんの??」
あれほど純情だったノビタも、いまではすっかりスレてしまい、まれにMOMのカウンターでスコッチをすこっちだけ付き合うと、恩師を前にしながら平気で二十歳のホステスさんを口説くようになってしまいました。
「まぁ、とりあえず二人で
ウォーターボーイズにでも行って遊んできたら? あそこなかなかおもしろいから。」
「あっ、ほんとおもしろいって友達がいってました。行きたいな・・・」
すると、ノビタは耳元で囁くのです。
「いや、ホテルに直行したほうがいいですよ、ぐふふふ・・・」
かつてダシにしていたノビタに、いまではダシ扱いされるようになったわたしは、一人淋しく席を立ち、田園町に帰って行く今日このごろであります。
話を今年の七夕に戻しましょうかね。わたしも緑の短冊に願いを込めたんです。
「弾け! サンバースト」
いつだったか、ブログにも書いたはずですが、ひそかに練習している
クラシック・ギターの曲というのは、
アンドリュー・ヨークの「サンバースト」なんですね。これは難しい曲です。一筋縄ではいかない。
ちょうど願いを書き終えたころ、Y研の二人の四年生女子が短冊を集めにきたので、「おぉ~い、おれも書いたぜ」って短冊をわたしたところ、ぽっちゃりした方の1名が即反応して訊ねてきました。
「サンバーストって何ですか?」
「あっ、これね、クラシック・ギターのムッツカシイ曲なんだぞ。アンドリュー・ヨークって知らんかな。最近のギタリストは、みんなこの曲を取り上げて、どのアルバムでも1曲めにもってくるんだから・・・」
「へぇ・・・で、先生、弾けるんですか?」
「アホ、弾けるわけないやろ、おまえ。こんな難しいのな、いま楽譜取り寄せて少しずつ練習しとるとこなんや。」
「楽譜、あります?」
「ある、あるよ。」
と言って、わたしはスコア集からコピーしてビニールファイルに納めた楽譜を部屋からもってきた。それをみた彼女は言うのです。
「これ、そんなに難しくないんじゃないですか?」
「えっ・・・」と絶句。
全国のアマチュア・ギタリストのみなさん、ヨークの「サンバースト」が「難しくない」って言われたんですよ。どれだけショックだったか、分かるでしょ? 「サンバースト」ですよ、「サンバースト」・・・
「おまえね、これ、ほんとに難しいんだからね。この楽譜、全部で5ページあるだろ、おれはね、いまようやく1ページめが弾けるようになったところでね、なんとか正月までには5ページまでカッコだけでも弾き通せるようになりたいと・・・」
「そうですか、わたしたちの卒業式までに弾けたらいいですけどね。」
再び絶句。
聞けば、そのポッチャリさんは高校から吹奏楽をやっていて、いまもブラバンの現役部員。担当はチューバ。いやっ、この手の連中はたしかに楽譜に強いから、「サンバースト」の譜面をみても別段難しいとは思わないんだろう。ただ、ギターは管楽器とはちがって、メロディと伴奏の両方をやらなきゃいけないから、そんなに簡単じゃないんだ、とかなんとか、冷や汗たらたらで言い訳しているところに、救いの神があらわれた。
かれは同じブラスバンド部でサキソフォンを吹く《好青年》!
「先生、これサントリーのCMで村治が弾いている曲でしょ?」
「そうそう、おまえ分かってんね・・・」
「あの曲はたしかに難しそうですね。」
「んだ、んだ、おまえ、いいヤツだな・・・」
「おれが最初に聞いたのは
木村大でね、次に村治香織、それから
ジョン・ウィリアムス。ウィリアムスがクラッシックではいちばん有名なギタリストでね、ウィリアムスが取り上げたから、サンバーストはあれだけ有名になったんだって言われているんだけど、じつはまだヨーク自身の演奏を聴いてないんだわ。」(続)
- 2007/07/18(水) 02:39:25|
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あれは
ブルージーンズのコンサートがあった夜だから13日か。雨の河原町中央公民館を後にして、大学に近い環状道路沿いのCOCO壱にしけ込み、アスパラとトマトのカレーを食べていたのが午後十時ころ。そのまま大学に戻って授業の準備をしようと決めていたのだが、COCO壱で新聞を読み、
アジアカップのグループリーグ第2戦(対UAE)がBS2で十時半から放送されることを知った。当然のことながら、予定を変更。田園町の宿舎に戻って座椅子に坐り、衛星放送にチャンネルをまわした。で、高原が1点めを決めたところまで記憶がある。まもなく眠りに落ち、いちど目覚めたら、前半終了間際ですでに3-0。勝負はついていた。再び熟睡。次に目が覚めたときは深夜2時前。試合などとっくの昔に終わっている(録画はしていた)。睡魔を振り払い、再び大学へ。
週は変わり、はやくも第3戦を迎えた。グループリーグ最終戦の相手は地元のベトナム。初戦でUAEを破り、第2戦ではカタールと引き分けている。もちろんアドレナリン、じゃなかった、侮れない。
キックオフ直後、ベトナムの動きは非常によかった。小柄ながら俊敏。少し前の日本のようなチームだな、なんて考えながら、違うちがう、これはタイ代表とよく似たチームだぞ。だとすれば、ほんとにアドレナリン・・・
日本は今でこそアジアで大きな顔をしているが、ほんの10年ばかり前までタイ代表とも互角レベルのチームであった。加茂ジャパンのころなんか、キングス・カップで1-3だったか0-3の惨敗を喫している。あのころタイとホーム・アンド・アウェーで戦えば、良くて1勝1分。1勝すると言っても、毎度1-0の辛勝であった。タイ代表の特徴は、ともかく小柄ながら俊敏で、トラップやドリブルなどの技巧に優れていること。目の前で日本と戦っているベトナムは、まさにそういうタイプのサッカーをしている。
そして開始早々、日本代表は失点してしまう。ゴールを割られた瞬間、ベトナムの選手がヒール気味のアクロバッティックなキックでシュートを決めたかにみえたが、じつは鈴木のオウンゴールだった。オウンゴールだったのは幸運というほかない。ディフェンス網を敵が蹂躙したわけではないから、チーム全体に与える心理的な影響がさほど大きくないのである。そうこうしているうちに、俊輔が抜群のフェイクからセンタリング。巻があっさり胸で押し込んで同点にした。この時点でほとんど勝負がみえてしまった。
いまの日本は、少なくともアジアという地域においては、紛れもない強豪に成長した。アジアカップの試合で青色のユニフォームをみていると、まるでフランス代表チームのように映る。一方、小兵で俊敏なタイやベトナムは、世界に出たときの日本のようだ。だから、今日の試合は、フランス代表対日本代表のアジア・バージョンのようにもみえた。いくら俊敏でも、肉弾戦でぶつかりあえば体の大きなほうが勝つ。ゴール前の制空権も完全に支配できる。日本が世界に出て苦しむことを、昨日はベトナムが経験した。
ベトナム戦は1-0か0-0で良いだろう、とわたしは思っていた。予選を1位通過した場合、日本はハノイに残って準々決勝と準決勝を戦う。その試合を有利に導くためには、地元ベトナム国民のサポートを得る必要がある。大量点を奪ってベトナムが予選敗退した場合、ハノイで日本代表の人気は暴落し、ブーイングの的になるかもしれない。だから、ベトナムを2位通過させる程度の結果で十分だと思ったのである。結果は4-1。順当な実力差ではあるが、やはりベトナムの命運も尽きたか・・・ハノイでの日本の戦いもシビアになるな、と思っていたら、UAEがカタールに逆転勝利をおさめ、ベトナムは無事決勝トーナメントに進出した。
日本に追い風が吹いている。
準決勝の相手はオーストラリアに決まった。べつに恐れることはない。オーストラリアはすでにドイツW杯とは別のチームになっている。なによりヒディングがいない。対して、日本にはオシムがいる。オシムのサッカーはオーストラリアを粉砕するだろう。
[ハノイのアジアカップ(Ⅱ)]の続きを読む
- 2007/07/17(火) 00:53:36|
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台風4号は関東方面に去っていったというのに、山陰地方は雨足がおさまらない。前夜も2冊の報告書の校正に苦しんで帰宅したら午前3時、それからフラットマンドリンの練習をしたのだが、やっぱり一人ではつまらなくなって、ギターに持ち替えた。ギターで発表予定曲を弾いたのは大正解。コード進行が体に染みこんでくるから、フラマンでアドリブしやすくなる(と勝手に思った)。
目覚めたら午後。急ぎシャワーを浴び、真っ黒なTシャツを身に纏った。左胸の位置に「TBJ YOKOHAMA 2007」と書いてある。TBJとは、
寺内タケシ&ブルージーンズの略称。寺内のオヤジのパワーを頂戴して演奏に臨もうという魂胆である(
六弦倶楽部の練習会ではヒノテルのTシャツを着ていた)。それから旅支度を始め、最後の最後にいちばん大事なフラマン(セミハードケースに収納)と貴重品の入ったリュックを玄関に運んだ。そして、出発。
何も食べていなかったので、湖山のスキヤでオクラ入りネバネバ丼を平らげ、車は雨の9号線を一路西へ。白兎海岸を過ぎて、青谷から山陰道にのる直前のこと。
「あれっ、フラマンとリュック、車に載せたかな?」
一旦車を停め、後ろの座席をみると二つともみあたらない。冗談だろっ!
一路田園町の宿舎に逆戻り。ドアをあけると、狭い玄関にセミハードケースとリュックがごろりと転がっている。まぁ、あって良かった。ただちにUターン。スタッフは午後5時集合と聞いていたので、その時間をめざしていたのだが、会場に着いたら6時20分。おかげでリハーサル抜きになっちゃったのです・・・

7月14日、夕方6時半より境港の夢みなとタワー4Fライブスポット「ミラージュ」で以下の催しが開かれた。
<ゆかた de 歌おう なつかしのフォーク> 主催者は境港の呉服屋さんでありまして、参加条件に「浴衣・きもの姿でおでかけください」の但し書きがある。わたしは家内に頼んで、作務衣を宅配で送ってもらった。父の古着をリフォームした作務衣である(リフォーム代は高かった)。
当初、この会に参加する予定はまったくなかった。何か弾き語りでもせよ、と言われればできなくはないのだが、そんな要請もなく、ただ
六弦倶楽部の練習会で知り合った県東部在住のMOさんとメールをやりとりしているうちに、フラマン伴奏が決まったのである。正直なところ、参加すべきかどうか真剣に悩んでいた。ひとつは家内(患者)の問題、二つめに過密スケジュールと疲労の問題、そして、三つめには・・・これまで黙っていたのだけれど、「音楽」そのものの問題があった。わたしはフォークが嫌いではない。好きな歌手やバンドはいっぱいいる。日本では高田渡(だけかも?)、イギリスではペンタングル(ぐらいかな?)、アメリカではニール・ヤング(他多数!)・・・

ただ、かぐや姫は苦手だ。拓郎も陽水も好みではない。こういう系列のフォーク・シンガーは、いわゆる反戦派・社会派フォークを駆逐するようにして、ポップにのし上がっていった歌謡曲系フォーク(ニューミュージック)の一派であり、心情的には相当の抵抗感がある。どこに問題があるのかというと、まず歌詞。
遠藤賢司の詞ですら十分恥ずかしいのに、「神田川」や「なごり雪」などの詞になると、甘すぎて、とても口ずさめない(と言いながら、じつは「スタレビ歌って、歌って!」と一群の女性たちからせがまれ、甘ぁいラブソングをカラオケの十八番にしていた時期もあった → 嘘じゃないぜ!)。つぎに、メロディ。まぁメロディックでないとは言えないけれど、大きく分類するならばあきらかに「演歌系列」であり、コード進行もじつに単純。いちおうジャズもロックもフォークもブルースも、そして一部のクラシックや民族音楽や歌謡曲も、ともかくなんでも聞いてきたわたしなんだが、歌謡フォークはそのなかで最も苦手な分野であり、ために気持ちを前に進めることができなかったのである。
[「フルハウス」見参!]の続きを読む
- 2007/07/16(月) 05:09:23|
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米子からのお客さまを加藤家にお迎えすることになっていたのだが、7月最強といわれる台風4号の接近でスケジュールがずれ、おまけに自分の携帯電話をどこにおいたのか分からなくなって時間を浪費してしまい、池田住研の社長を加藤家で小一時間お待たせてしまった。前日、報告書2冊分の校正で忙しく、エアポートを連絡係にしたのだが、やはり本人が直接話しておかないといけないと痛感した。
わたしは、「1時過ぎから夕方まで加藤家にいるので、その間に来てください」と伝言したつもりだったのだが、社長のほうは「1時に」というふうに理解されたようで、まぁ、ともかくお待たせしたわたしが悪いのであります。
まことに申し訳ありませんでした。

今年度前期のプロジェクト研究1&3もフィーナーレが迫ってきたのだが、ロフトの手摺りの製作については学生たちでは不可能であり、以前から池田住研にお願いしようと決めていた。ただし、ただ大工さんに木工事をしていただくのではつまらないので、古材を再利用した手摺りにしようと考えていた。そして、社長自ら「古い梯子を手摺りに変えてみよう」と提案されたのであった。
これにはわたしも大賛成で、解体される古民家などの廃材として出る梯子を探しておいていただくことになっていたのだが、結局、「良い梯子」がみつからなかったとのこと。そこで、加藤家の
縁の下に保管されている梯子の側桁を使うことにした。加藤家の場合、残念ながら「梯子」そのものは残っていないが、踏板をはずした状態の左右の側桁が2本残っている。木目をみると「杉」だと思うのだが、実際に手にもった感触では非常に重く、別の材のように感じられる。残長は左右とも4mあまり。手摺りとして十分再利用可能である。さっそくお持ち帰りいただき、工場で加工を始めることになった。
プロジェクト研究の発表会は今月24日(火)に迫っている。それまでには古い梯子をリサイクルした見事な手摺りがロフトに完成するだろう。
[梯子をリサイクルしたアトリエの手摺り]の続きを読む
- 2007/07/15(日) 00:02:12|
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ハッピ・バースデー、みよちゃん!
昨年の11月に病院に運びこまれたときは、もう次の誕生日のお祝いをすることなんてできないかもしれないと思ったものです。あれからもう7ヶ月も過ぎてしまったんだね。今日は奈良に帰れなくて、ごめんなさい。ほんとは一緒に
ブルージーンズのコンサートに行きたかったんだけど、まだ無理はさせられないよね・・・

昼から授業がいっぱいあって、あまりに時間が足りないので演習の時間を使って、学生と一緒に校正の仕事をこなして、それから河原町の公民館に向かったんだ。予想した通り、公民館のステージは狭すぎて、寺内タケシご自慢のPAは納まらないから、急遽張り出し部分を大工仕事して作ったらしい。いつもはメンバー6名が横一直線に並んで演奏するのに、今日はそれすらできなくてジグザグ配列。緞帳もないし、ステージ裏では雨漏りがひどく、ずらりとバケツが並んでいるんだそうです。それでも、昭和の鄙びたインチキ・コンクリートの建物とブルージーンズの演奏する曲の時代性はよくあっていて、おもしろかった。
「こういう場所でやるのもな、バンドの使命なんだぞ!」
と若いメンバー6人を叱咤激励。

いや、寺内タケシという人物はど迫力ですよ。関東学院大学空手部主将!
「押忍!」
コンサートは懐かしい「涙のギター」「夜空の星」「君といつまでも」「ダイヤモンドヘッド」から始まり、日本民謡と童謡を数曲やって、とりあえず第1部は終わり。第2部はサンプリング・キーボード2台をフル活用した映画音楽のオーケストイレーションから始まり、あゆみちゃんという可愛い歌手が登場して「可愛いベイビー」ほか数曲を披露。
わたしは歌手のバッキングをするときの寺内タケシの演奏にみとれていた。どういうコード・ワークで、どうリズムを刻むのか、歌伴としてのリードのメロディはどんな風でどの程度いれるのか。いや、みごとなものです。じつに抑制が効いている。それにね、姿勢がいい。まるで、ジダンやベッケンバウアーのように背筋がピンと立っている。歌手がトークするときのバックでは、
チェット・アトキンス風のフィンガーピッキングを小さな音でずっと奏でていましたね。これはゴキゲンです。
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- 2007/07/14(土) 04:05:36|
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プロ研残り2週間!!今回の作業で、ついに私たちは残り最後の本棚を完成させ、すべての家具が完成しました~ヽ(*>u<*)/☆パチパチパチ~♪
前回の作業で本棚の補強となる板が出来上がっていたので、今回はその板を取り付けるだけで完成でした。だけどその取り付け作業も、本棚の幅が狭くてドライバーが使えないなどの予想外のハプニングが発生し大変でした。しかしそんなハプニングも、みんなで相談してどう取り付けるか考えたり、S君の腕にすべてをたくして、みんなが「ストップストップ!ヤバイヤバイ!!」と澤君を攻めながらも何とか完成させることができました(о^□^о)!!
そんな汗と笑いありの今回の作業でしたが、来週ついに、家具を加藤家に持って行きます!最後の最後です!!ホントに最初は自分でもどうなるのかなぁと思ったけど…ってまだこの言葉を言うのは早すぎか(´U‘;)\(‐Ц‐)汗笑” では、加藤家完成を楽しみにしていてくださいッッ☆☆
デザイン一年 (・y・)(・m・)
[家具完成~ヽ(*>u<*)/☆パチパチパチ~♪]の続きを読む
- 2007/07/13(金) 00:39:48|
- リサイクル|
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倉吉報告書の原稿(森川卒論)を校閲していくなかで、『遥かな町へ』という漫画作品の存在を知った。鳥取出身の漫画家・谷口ジローが昭和38年の倉吉を描いた名作であるという(同年、本町通り商店街にアーケードが架設された)。倉吉市観光協会は今年4月1日から「遥かなまち倉吉創造プロジェクト」の第一弾として、漫画作品に描かれたスポットをめぐるツアーを始めている。「谷口ジローさんの漫画と観光をコラボレーションさせ、倉吉市内に残る白壁土蔵群と昭和30年代の町並みを探訪する観光ツアー」で、「漫画に描かれた風景がそのまま現存する」ことに着目したツアーとして脚光を浴びているとのこと。
さっそくネットで『遥かな町へ』の古本を注文した。アマゾンのカスタマーレビューは5つ星満点。ほかにも鳥取をテーマにした作品がないものか、と探したところ、大火後の鳥取を描いた『父の暦』という作品があることを知り、こちらもただちに注文した。
どういうわけか、1日遅れで発注した『父の暦』のほうが先に手元に届いた。午前から会議と来客の嵐で、漫画に目を通す暇などなかったのだが、夕方6時からの会議では、もう開きなおって会場の後のほうで『父の暦』を読み始めた。おかげで時計の針が早く進んだ(審議内容は午前中の委員会で熟知していた)。計4つの会議もようやく終わり、久しぶりに回転寿司へ。バイトの政策学科4年生が運んでくれる寿司をつまみながら、『父の暦』を読み終えた。
深い、深い、作品だった。胸を打たれた、というよりも、胸が痛んだ。「父」という存在の重さ。葬儀の後の酒席で主人公の伯父は言う。
「・・・親の事考えん子がおっても子の事を考えとらん親はおらんちゅう事だ」
その言葉は、杜氏をしていた若いころの伯父の言葉に重なって、走馬燈のように主人公の頭をかけめぐる。
「酒は生きものだけえ、・・・・いつも気をくばってやらにゃいけないんだ。麹室や樽の癖みたいなもんをよう見てなあ。こっちが気持ちを込めて語りかけてやりゃあむこうだってちゃんとこたえてええ酒になるだ。」
午後3時から、休学希望の学生の父親と面談した。片道5時間半かけて、その父親は大学までやってきた。明日は仕事があるから今日中に帰らなければならない、という。片道だけでも十分疲れ果てた表情にみえる。話を進めていくなかで、その父親は断言した。
「わたしはこの娘を信じとりますけぇ。」
娘は目を真っ赤にして泣いていた・・・・羨ましい、と思った。
『父の暦』には、倉吉の町並みが1ヶ所でてくる。父と離婚し、別の男性と暮らし始めた母親を慕って、小学5年生の主人公はひとり列車に乗り、倉吉の街にやってくる。なんとか「松本」という表札の家を探しあて、その門前で母親とばったり。しかし、母親は乳飲み子を抱きかかえていた。
その悲しい出会いの舞台が、今の「打吹玉川重伝建地区」である。
- 2007/07/12(木) 00:31:03|
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正直なところ体がパンクしていて、高血圧症状に悩まされている。2日連続で頓服を服用し、ホームドクターにも診てもらった。ふらふらの状態でなんとか大阪からスーパーはくとに乗りこみ、レポートの採点を始めたが、すぐに眠ってしまった。目覚めれば、智頭。体が少しだけ軽くなっている。郡家駅の駐車場に停めた自家用車で大学に戻ってきた。
院生に2つばかり課題を課していた。ひとつはベトナムにもっていく測量器材の購入手続き。月曜日に発注を完了させようと約束していたのに、事務方が何度連絡しても携帯の電源が切れたまま。聞けば、午後4時起床だったそうだ。もう一つは、ある大手の文化財系コンサルの就活準備。わたしはこれまで何度も社長と連絡を取り合っていて、ようやく面接が決まり、当然のことながら、履歴書・業績一覧・ポートフォリオ等の準備を指示しておいたのだが、帰学しても、ほとんど手つかずの状態。ファイルに納まった成果物を見れるものとばかり思っていたのに・・・血圧がまた上がった。急上昇。昨日のオシムどころじゃありませんよ・・・
いまようやく少し落ち着いてきた。こんなイントロを書く予定はまったくなかったのに、「貝殻節起源考」の執筆者にはまことに申し訳ない。以下は「イタヤ貝漁」以前から、因幡の海岸域にはたくさん海女がいてアワビやサザエを捕採していたはずで、そういう海民文化と貝殻節には関係がないのか、という質問に対する回答。
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貝殻節で歌われている漁法を確認すると、これはジョレンという底引き網の一種で船曳きするというものです。貝殻節自体は、歌詞から見ても、この重労働(船漕ぎ、底引き)の慰めとして歌われた労務歌、船漕ぎ歌と考えられます。現在、夏泊などでみられる海女漁は全く異なる漁法です。また、『民俗学辞典』等をみる限りでは、海女漁は船の出入りの悪い荒磯などを中心に行われるので、漁獲対象はサザエやアワビ、カキなどが中心で、網漁で大量に捕獲できるイタヤ貝はおそらく主たる漁獲対象ではないのではないかと思われます。ジョレンの実物はあおや郷土館に収蔵されていますが、歯のついた骨組みに網を設置し、海底を掻くようにして船曳きするもののようです。
以上のことから、少なくとも現在残されている「貝殻節」は、海女歌とはいえないようです(もちろん、先行する民謡や、貝殻節として定着する前の歌が海女歌だった可能性を否定するものではありません)。かけ声の「ホーエンヤ」も、賀露神社の祭礼に見られるように、基本的には船漕ぎのかけ声のようです。ちなみに、賀露神社は『三代実録』貞観3年10月16日条に名前が見えるほどの古社ですが、祭礼の船漕ぎがいつごろから今のようになったのかは分かりませんでした。それでも、貝殻節よりは古いのではないかと考えられているようです。
ちなみに夏泊の海女漁は、江戸時代の地誌「因幡志」や地元伝来の「當浦居村之儀」という古文書によると、朝鮮出兵に際して亀井茲矩が雇用した筑前の漁夫の妻が導入したということになっているそうです(現文書未確認、二次資料からの引用です)。ちなみに福部村には海士(あもう)という地名がありますが、ここに海女漁があったかどうかはよく分かりません。
- 2007/07/11(水) 00:26:01|
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アジアカップが始まった。タイ、ベトナム、マレーシア、インドネシアの4ヶ国共催という記念すべき大会である。
日本はハノイでカタールとグループリーグの初戦を戦い、1-1で引き分けた。後半途中から追いつかれそうな予感がし始め、そのとおりになった。1点先取されたカタールは、3トップにして波状攻撃をしかけてきた。しかし、慌てる必要はない。日本は加地、中沢、阿部、今野の4バックを組んでいるのだから、きちんと一人カバリング役が余っている。敵が前がかりになってきている分だけ、カウンターを狙いやすい。追加点を取るチャンスは十分あった。
わたしはオシムの支持者である。オフト以来、ファルカン、加茂、岡田、トルシェ、ジーコと続いてきた歴代代表監督にはすべて失望してきたが、オシムについては、いまのところ十分満足している。間違いなく、歴代最高の代表監督だと思う。リッピやヒディングのチームと対戦させても、互角のベンチワークをみせてくれるのではないか、と期待しているほどだ。
ただ、カタール戦に限っていうと、二つ疑問点があった。
まず第一に山岸の先発起用について。日本のフォーメーションは4-2-3-1。山岸は左サイドハーフを任されていた。なぜ山岸なのか、さっぱりわからない。左からのサイドアタックに長けているとはとても思えないし、決定力があるとも、運動量が多いとも言えない。「千葉」の選手だからだろうか。そうなると、ジーコが鈴木、柳沢、小笠原ら「鹿島」勢を重用したのと似ていて、いやだな。まぁ、オシムはそんな馬鹿じゃないのだけれども、山岸の先発起用についてはどうにも納得できなかった。なぜかれが日本代表の先発を張る選手なのか、理解に苦しむ(羽生を切札にとっておいた気持ちはよく分かる)。先発を2トップにして、なにかまずいことがあったのだろうか。
第二は中村憲剛を橋本に替えた点。攻撃的なボランチから守備的なボランチへの交替である。まぁ、悪くはない。前がかりになっているカタールの攻撃に対して、4バックラインの前にも防御スクリーンを張ってしまおう、というわけだ。理に叶っている。しかし、結果からみると、この守備的戦術が失点を招いたと言えなくもない。フィールドに橋本が入った時点で、選手全員が「守備」態勢を強めた。選手交替は一種のサインなんだから。それに、橋本は代表での経験が不足している。わたしなら、遠藤をボランチに下げた。だれを入れるかとなると難しいけれど、巻あたりで良かったんじゃないだろうか。高原と巻と羽生の3人で敵の守備陣を引っ掻きまわしてほしかったな。
[ハノイのアジアカップ(Ⅰ)]の続きを読む
- 2007/07/10(火) 02:09:02|
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フラットマンドリンという楽器は、よほどマイナーなのだろう、教則本や楽譜集がほとんど手に入らない。いままで手にしたのは、高橋純さんの『いちばんやさしいフラットマンドリンレッスン <キミのはじめての音をつくる本>』のみ。これはですね、ほんとに本物の初心者向けで、まぁ数時間あれば全ページ終わります。いちおう高校時代に6000円のフラマンもってたんだから、基礎はあるわけでして、これぐらいはできますよね。わたしとしては、高田渡のバッキングするときの坂庭省吾とか佐久間順平とか高田漣とかが弾くようなブルーグラスっぽいマンドリンが弾きたいわけなんだけど、あのレベルはなかなか大変でしてね。
で、教則本や楽譜を探すんですが、ほんとうにないんですよ。ようやくhttp://www.flatmandolin.com/item/books.htmlというサイトで、教則本1冊と教則DVD1枚を探しあてたんですが、値も張るし洋物だし、購入を躊躇しているところなんです。
さて、この週末には
六弦倶楽部第2回練習会で知り合ったMOさんからメールを頂戴しました。
「六弦倶楽部の第2回の演奏会では私も上がりまくり、右足の震えが止まらず演奏どころではなくなりました。終わってからもしばらく頭が真っ白で、asaxさんにねぎらいの言葉をかけていただいたとき、ろくな返事が出来なかったと記憶しております。」
とあるんですが、わたしにしてみれば、自分が頂点までアガッテしまって、他人を「ねぎらう」余裕なんかなかったと思うんですが、第2報によりますと、
「ねぎらいの言葉は、私が演奏を終え、ギターをケースにしまっていたとき、(たぶん)トイレから帰ってこられ、私の後ろを通りながら『お疲れ様でした!』と一言声をかけていただいたと記憶しております。」
とのことです。
わたし、なかなか良い人じゃありませんか?
で、一度MOさんに返信した直後、わたしは考え直したように、追伸のメールを送ったのでありました。
「もしも、次回以降の練習会でも、ああいう曲を歌われるのでしたら、わたしがフラットマンドリンで伴奏をつけさしていただければ嬉しいかな、なんて、思って連絡させていただきました。あくまでも、もしも可能なら・・・です。あらかじめ、歌われる曲をお教えいただいておけば練習しておきます。もちろん、歌を台無しにするような派手な演奏はしませんので。余計なお世話かもしれませんが、交流が計れたら嬉しく思う次第です。」
ここからトントン拍子に話は進んで行く。
「フラットマンドリン、いいですね。私の友人が東京へ出張し、『フォーク酒場』に立ち寄った際、店のオーナーが客が弾く歌に合わせてフラットマンドリンを弾いていたそうです。彼曰く、どんな歌でも合わせて弾いていたそうで、とても良かったと言っておりました。先生にやっていただけるなら、私でよければ是非お願いします。(略)70年前後のかぐや姫、小椋佳、井上陽水もちろん拓郎あたりりなら何とかなると思います(略)」
高田渡のバッキングは無理にしても、かぐや姫、小椋佳、陽水、拓郎ならば、もちろん対応できる(陽水は演歌のようで、じつはジャズっぽいコード進行を使っているから結構難物かな?)。で、ともかく話はトントントントンと進んでいき、MOさんが候補となる曲をリストアップしてくださることになった。
ただ一つ残念なのは、8月下旬に予定されている六弦倶楽部の第3回練習会とベトナム出張がどんぴしゃで重なりそうなことで、次に参加できるのは10月になるんじゃないだろうか。でもまぁ、二人で音合わせするだけでも楽しいんじゃないか、と思っています。というか、わくわくしますね。あぁ・・・はやくフラマンで歌の伴奏してみたい。
- 2007/07/09(月) 05:14:20|
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じつは相当くたびれていて、奈良に帰ろうかどうか迷ったのだが、郡家(こうげ)駅に電話してみると
駐車場がキープできるというので、スーパーはくとで往復することにした。その途すがら知人に3人もあった。珍しいことである。
まずは蕎麦きり「たかや」で。車を下りると、煙草を吸っている中年男性がこちらを向いてニヤニヤ笑っている。かれは小学校と高校の同級生で、本学環境デザイン学科の某教授と同姓同名。
2006年1月17日の「匠の会」以来の再会。同姓同名氏は、いまは保険屋さんだが、かつて桑名正博の敏腕マネージャーだったという男。
桑名が使っていたギターについて気になったので、訊ねてみた。
「テレキャス、ストラト、レスポール・・・」
「いやいや、アコースティックのほうさ?」
「・・・あのころはみんなピックアップつけてたな。そうそう、いちばん使ってたのはオベイションだわ。あれがいちばん便利でね。」
「そういえば、オベイションの時代があったよね。」
六弦倶楽部に誘えないものかと情報を提供したのだが、同姓同名氏本人はまったくギターをやらない、とのこと。逆に、わたしがこういうギター活動を再開したことについて、ちょっとうすら笑いを浮かべて小馬鹿にしたような仕草が感じられないわけではなかった。こういうリアクションをするのは、かれ一人だけではない。結構いるんですね、まわりには。「おれはそんなに下手じゃないよ」と言えば言うほど、見下したような態度をとるんだな、この手の輩は・・・
まぁ、たしかに馬鹿なことやり始めましたよ、わたしは。でも、おもしろいからね。必ず良い音楽を作ってみせるから。嘘じゃありません!

「たかや」で辛みおろしの大盛りをたいらげ、郡家駅に移動。無事、往復割引券と駐車場を確保した。少しだけ時間があったので、駅前をぶらぶらしていると、「昇龍軒」という小さな
看板建築の店舗を発見した。子どもがカウンター越しに窓の中を覗いてマスターらしき人物と話をしている。大阪の下町でみる
立ち飲み居酒屋のような雰囲気があって、おもしろいので写真をいっぱい撮った。そして、窓をあけ、カウンター越しにマスターと話をした。聞けば、「串揚げ」の店であるという。地元の方ではないらしく、あちこちを転々として、数年前にこの店を立ち上げた。店名から分かるように、かつては中華料理店を経営されていて、その店名もいまも使っているのだという。
「お酒はないのですか?」と訊くと、
「置きたいんですけどね、子どもや高校生相手の店でしてね、持ち帰りなんですよ。ここで1~2本買って、駅前で食べてる子が多いんです・・・」
「そうか、子ども相手の店なんだ・・・」
よくみると、カウンターはスヌーピーの絵柄、照明その他も若者向けの小物を使っている。内部の写真は許してもらえなかったが、窓際にぶらさげてある「春夏冬中」のお札は撮影させていただいた。わかりますか、みなさん。「春夏冬」だと「秋がない」でしょ。だから、「春夏冬中」は「秋ない中」。つまり「あきないちゅう」、だから「商い中」であります。
こんどゼミのみんなで、缶ビールもって立ち食いにくるか!?
立ち食いでも横田、なんちゃって・・・
[小さな看板建築 -郡家駅の駐車場(Ⅲ)]の続きを読む
- 2007/07/08(日) 03:18:28|
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加藤家の土間では、欄間の修復が完了した。
左SHは木曜日のプロジェクト研究で新しい組子に古色塗りを施した。所属するサッカーチームの後輩(2年GK)にサポートされながら、その仕事を終えて、完成した組子をもって加藤家にやってきた。
他の男子メンバーが裏木戸の発掘調査に没頭するなか、左SHは欄間の組子を取り付けはじめた。そして、取り付け完成。これまではなんども仮組してきたが、今日は本組である。綺麗におさまった。ただし、相欠の仕口にはまったく接着剤を用いていないので、茶室のステンドグラスでも採用したテグスで組子の安定をはかるようにしようと考えている。

その後、左SHは裏木戸の発掘調査に加わった。ホカノのコンビを組み、トータル・ステーションの目盛りを読む大役を務めた。
わたしはまもなく英語の補講に出席するけんボーを大学に送り届けるため、一足先に現場を離れたのだが、完成した土間の欄間をみた管理人さんはえらくご機嫌で、左SHのことをずいぶん誉めてくださったのだそうだ。左SHに「達成感はあるか?」と訊ねたところ、かれはニヤリと笑い、「ありますねぇ」。
良かった、良かった。
次なる課題は、裏木戸の設計にしようかな。エアポートと組めば、なんとかなるだろう。

↑ビフォー ↓アフター
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- 2007/07/07(土) 00:17:33|
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先週の
予告通り、今日は、以前「裏木戸」があったとされる加藤家の南側石垣(修復中)で発掘調査をおこなった。持ち物は以下の16点。
・デジカメ ・コンベックス(5m) ・スコップ ・巻尺(30m) ・3色ボールペン
・レベル ・お茶 ・配置図 ・トータルステーションとその周辺機器一式 ・画版
・軍手 ・方眼紙 ・糸 ・三脚 ・スタッフ ・5寸釘
他に、ホカノさんが「あったらいいかも」的なものを選んで持っていった。

授業の関係で、研究室男子を2班に分け出発。ちなみに女子たちは、演習室で来週入稿予定の「倉吉アーケード街町並み報告書」編集作業に従事した。
現場に着いてまず機器の準備。調査チーム本体が到着するまでに動作確認などをおこなった。本体が着いてからの作業は以下の通り。
1.柔らかい土の層をスコップなどで丁寧に掘る
※この時出土する遺構とは関係ない石・瓦・木・木の根っこなどは、
そのつど分別してまとめておく
2.石、または昔の地層と思われる固い(粘土質の)土が出てきたら、
先生を呼び、生死判定をしてもらう
3.ある程度出てきたら、そこから予測される石垣のエッジ(端)
に沿って掘り進める。
ここで言う「生死」判定とは、掘りかえしたところから出てきた石の、生死を判別することである。
「生きている石」=当時(おそらく江戸~明治時代)のままの状態にある石のこと
「死んでいる石」=当初の位置から動いていたり、廃棄された石のこと
石にとっては迷惑な話だが、これも裏木戸復元のためとこらえていただいた。しばらく掘ると様々なものが出てきた。古い剪定バサミやナタの刃の部分。歴史を感じさせる遺物が礎石以外にもたくさんあった。番外編として、なんとかミミズやトカゲ、ダンゴ虫、卵を守るムカデやとかげなど、加藤家の自然を形作るもの達とも出会った。こういうものが出てくると、気分が高揚するのだが、そう簡単にお宝は出てきちゃくれない。ただひたすら掘り、土やら石やらを片付ける。いやはやなんとも、根気のいる作業だった。

復元平面を作成するのに申し分ないほど掘り進み、次は測量作業に入っていった。Mr.エアポートが遺構平面をスケッチ&実測し、ホカノ&左SHの測量コンビはレンズを覗く。また、けんボーと私は遺構撮影及び片付けに奔走した。なお、復元に関する測量や復元案に関しては
加藤家HPのブログ「
倭文日誌」を参照していただきたい。Mr.エアポートが立派な復元平面図を作成している(→
こちら をクリックしてください)。
皆さんどうもお疲れ様でした。(チャック)
[加藤家住宅裏木戸の発掘調査 ―生きている石、死んでいる石、そして虫]の続きを読む
- 2007/07/06(金) 23:03:10|
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プロ研1&3開始当初は、1・2年生の進行状況が思わしくなかったり、教授が怒って何名かを大学に帰らせたりと、このプロジェクトは成功するのかと本気で心配したものだが、気が付けばみんな楽しみながら作業を進めている。というよりも、自主的に活動をしているのだ。すばらしい成長である。

本日、4点の家具のうち3点が完成した。ここで1・2年生の製作している家具の経過報告をしておこう。5月25日のプロ研で「リファーレンいなば」から8種9点の激安家具を購入した。そのうち壊れているものや補強の必要のあるものとして本棚2点とパソコンディスク1点の計3点を改修し、新たに仏具を飾る「仏壇」を製作することとなった。
それぞれの家具のイメージを彼らにたずねてみた。

↑「違い棚風本棚」
これは本棚の真ん中に板を取り付けて補強したものである。当初の予定では真ん中一列に板を取り付けるはずであったが、作業を進めていくうちに、上手くいくと思っていた自分達の設計では取り付けられないことが判明し、「違い棚」風の本棚になったようだ。本来、違い棚は巻物や典籍を置く棚なであり、なかなか良い感じの出来である。

↑「パソコンデスク」
デスクの一部が破損しており、通常ならゴミとなりそうなものだが、学生達が足りない部品を作り、ロフトの雰囲気にマッチする様に色をぬった。木質とスティールの調和や色彩にこだわったとのこと。

↑「仏壇」
形は東大寺の近くにある「頭塔」という日本の方形段台型仏塔(分からない方はボロブドールを思い出して!)をイメージし、方形3段で設計した。東南アジアっぽいエスニックさを出すため竹を使い、天板には解体した土蔵の年季の入った板を使った。
[気が付けば… プロジェクト研究1&3]の続きを読む
- 2007/07/05(木) 21:53:00|
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