たとえば高校物理で音波を伝達する空気の密度を導出する際に微分が出てくる。
私はここで引っかかってしまう。
微分が使えるということはここでは密度の(関係)式がどんなスケールでも保存されるという前提があるはずだ。
微分というか極限はそういうフラクタル的な(稠密性の方がいいか?)性質を要請するものだ。
しかし空気はひとつながりの、一枚岩のような物体ではなく最小単位を持った物体であり、また一定スケール以下では量子的な世界の存在になってしまう。
だとするとあらゆるスケールで密度の式が同じとは無条件に言えるものではなく、証明を要する事実なのではないか。
端的に言えば、あるスケール以下では、たとえばその空気の分子と分子の間隔の平均を圧倒的に下回るスケールでは、質量÷体積の、質量の方が0になるのが当然という状況になっているのではないか。
ようするにある地点を中心として空気を囲った体積による平均密度の、その体積を連続的に小さくしていったときの変化のグラフに、原点以外でも不連続な箇所が生じてしまっているのではないかということだ。
もし本当にそうなら微分は使えない。
この「何も説明しない(暗黙とは違う?)」という形での天下り式での解説に、学習者はどう対峙すればいいのか。
何も説明しなくても自分でその妥当性が納得できるでしょうという期待をされていると楽観的にとるべきか。
そういう高校物理レベルのことが最先端だった時代の当時の科学者なら、自力で「ここは確かに微分でも構わない」と納得していたかもしれない。
つまり現代のカリキュラムとして物理を学んでいる人と、それが最先端だったときの科学者としては、積み上げているものが違うのだ。
たとえ昔の人でも当時の科学者はそれまでも演繹的に増やしていった知見をバックボーンとして備えたうえで臨んでいるわけだから、そういう判断に関して、現代の高校生にはない、ある種のセンスがあると思う。
良い意味でも「悪い意味でも」カリキュラムとして再構築されたものを勉強している学生の知識の積み重ねというのはある意味で不自然な(時系列として変な)積み重なり方をしていて、当時の学者と同レベルの事実の真偽を判断するのは難しいことがあると思う。
天下り式はよくないと思う
こういった問題は他の事にも言えて、ピタゴラスの定理に対する習いたてで証明を追わさたが「まあ別に難しくはなかった」とか言ってるような中学生と、当時のピタゴラス本人(正確にはピタゴラス学派の誰か)とでは、その定理に対する理解の深さが全然違うだろうとか思う。
0の概念すらないものの自然な学問的研鑽の帰結として自力でその定理にたどり着いた者と、再構築されたカリキュラムで小学生のころから近道を走らされその定理を知ったものとでは、やはりバックボーンの質の高さというものが違うから。
シコティッシュ纐纈