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小林正観著 「100%幸せな1%の人々」

小林正観著 「100%幸せな1%の人々」のご紹介。

小林正観さんの本は、以前「『き・く・あ』の実践」を紹介しました。残念ながら、既にお亡くなりになってしまいましたが、生前には講演会にも行ったことがあります。

執着の手を話して自由を手に入れる

100%幸せな「『100%幸せな1%の人々』とは、思いを持たず、今、恵まれていることに気づいて、感謝をしている人々です」という文章から始まります。

「思いを持たず」とは、「あれが欲しい、これが欲しい」「あれが足りない、これが足りない」と言わないということです。

「こうでなければイヤだ」と執着を強く持つのではなく、「そうならなくてもいいけど、なったら嬉しい、楽しい、幸せだ」と思ったとき、不思議な力(潜在能力)が助けてくれるのです。

アフリカで、どうやってチンパンジーやオラウータンを捕まえるか知っていますか。

物をつかんで拳を握った時には、それを引っ張り出せない程度の大きさの木のウロ(空洞になっているもの)にバナナを入れておくと、チンパンジーやオラウータンはその穴に手を入れて獲物を取り出そうとします。

そして生け捕りにされてしまうのです。手を離せばすぐに逃げ出せるのに、一度つかんだものを放そうとしない(執着している)彼らは逃げられないのです。

私たちも同じかもしれません。「こうでなければイヤだ」というその執着の手を放すだけで、私たちは自由になれるのに気がつかないでいるのかもしれません。

気がつきさえすれば、あなたの周りは幸せだらけなんです

正観さんは、幸せというのは、良いことが起きるとか、楽しいことが起きることではないと言います。そうではなく、「何も起きないことが幸せの絶対的な本質」なのだと。

この幸せの本質を知らないまま「どこかに幸せがあるに違いない」と言って、頑張る人がいますが、幸せと言うのは「努力したら手に入るもの」ではないのです。

目が見えること、耳が聞こえること、足を使って歩けること、物が持てること、息ができること、食事ができること、友人がいることなど、「今まで当たり前だと思っていたこと」に感謝することができれば、日常生活は「幸せ」に満ち溢れていることに気づくことでしょう。

「幸せ」は、目の前に山ほどあり、私たちは「幸せ」という海に浸かっているにも関わらず、それを認識していないだけなんです。「幸せ」は、どこかに行けば手に入るものではありません。気付くだけで手に入るのです。

わたしの身に起こることは、わたしにとって必要なこと

小林正観さんがいつも言うのは、「宇宙には、幸せも不幸も、そういう現象は存在しない」ということです。

どういうことかと言うと、ある現象が目の前を通り過ぎようとしたとき、「私」が何も関心を示さなければ、ただ通り過ぎただけですが、その現象について私が「おもしろい」と思ったならば、それは「私」にとって面白いことになります。

目の前の現象について私が「つらい」と思った瞬間、「私」にとってつらい現象になりますが、私が「幸せ」と思った瞬間、「私」にのみ帰属した幸せな現象になるのです。

事実や現象はひとつですが、それを受け止める側の「心」がその現象の価値を決めているのです。「とらえ方」の違いで、目の前の現象は「幸」にも「不幸」にもなる、ということのようです。

そしていつでも「幸せ」を認識できる「1%」の人々とは、「すべてを受け入れる」ことをしている人たちとのことです。

「すべてを受け入れる」とは、自分に起きたことやこれから起こることは、「すべて自分が成長するために必要だ(だった)」と、受け入れることです。

私たちが目の前の現象について悩んだり苦しんでいるのは、そのことを受け入れず、否定していることから始まるのです。

否定せずに、受け入れる。私にとって必要なことなのだから、と。

他人の価値観を変えようとした瞬間から、その人はあなたのストレスになります

小林正観さんのところにはいろんな人が相談にくるそうですが、「私の姉が・・・・・、息子が・・・・・」と言い始めると、もうそこで「やめにしましょう」と言って終わりにしてしまうそうです。

それは、本人の問題であれば聞くことができるけど、周りの人をどうしたいという話は相談ごとではないからです。ただ「自分の思い通りにしたい」だけだからです。

「夫が酒を飲んで夜12時以降にしか帰ってこない。どうしたらいいか」
「子供が不登校になってしまった。どうしたらいいか」
「叔父と叔母がケンカばかりしている。どうしたらいいか」

いずれの相談も、「自分がどう生きるか」ではなくて、「自分以外の人をいかに自分の思い通りにするか」ということが、自分の「悩み」だと思っているのです。

「自分以外のものを自分の思い通りにする」という考え方を全部やめる。自分の価値観、自分の考え、自分の生き方とは違うということを認め、まるごと受けいれてしまうのです。

その人がそういう人であることを認めてしまった方が、自分にとって一番ラクなんです。

他人の価値観を否定せず、自分の価値観を拡張していく

自分の心の広さを仮に「扇」に例えます。その扇の広さ90度が平均的寛容度だとします。そして、その90度の外側に、自分にとって許せない、あるいは我慢できない人が存在するとしましょう。

その外側にいる人を、自分の90度の枠内に連れてこようとします。その人が自分の価値観や許容範囲の中に入ってきてくれれば何の問題もないのですが、そうそう簡単には入ってきてくれません。

そこで悩み、苦しみ、ストレスを感じるわけです。

もし、自分の90度の許容度・寛容度を広げることができ、相手を受け入れることができたならば、そこで問題は消滅します。

イライラも腹立ちもなく、相手を受け入れたのですから、相手が自分の許容範囲に入っていることになります。

仮に許容範囲が120度になったとき、130度のところに、また人が現れたとします。その人を私が認め、受け入れてしまえば、私の心の領域が広がり、またイライラがなくなります。

「そういう価値観の人も確かにいるよね」というふうに、自分の心の許容範囲を広げることで、楽になるのは相手ではありません。自分自身がラクになるのです。

だから、その現われてくれた人は、常に心の許容範囲を広げて下さる方だと思ってみたらどうでしょうか。その人のおかげで、やがて180度のきれいな扇の広がりを持つことができるようになります。

心の「扇」を広げること。これこそがまさに、自分がラクに生きるための「奥儀」なのかもしれません。

価値観に良いも悪いもなく、その価値観によって自己完結する

「人生というのは、一人の人間において『自己完結』するものです」という一文がありました。

ある女性の話です。彼女には、23~24歳の後輩のOLが3人いました。その会社では、春と秋にバーベキュー大会を開催するのが恒例でした。

いつもその3人のOLは、焼いている時は遠くでおしゃべりをし、食べる段になると最前列まで来て食べるそうです。そして片付けのころになると「用事があるので失礼します」と言って帰っていきます。何の手伝いもしたことがないとのことです。

その女性は、「あの3人に対しては、どうしてもイライラと腹が立つのです。どのように解決したらいいでしょう」と小林正観さんに聞いたそうです。

小林正観さんの答えは、自分がバーベキューを手伝いたくないのなら、やらなくていい。やりたければやればいいし、やりたくなければ、やらなければいい。

その結果が自分に返ってきます。それが「自己完結」です。要領よく立ち回っているその3人とも、それぞれの人生で「自己完結」するはず、というものです。

だから、自分の持っている価値観と他の人(この場合は、3人のOL)のそれが違っても、論評する必要はないのです。その3人には、その生き方に見合った結果が返ってくるのですから。

「思いを持たない」とは、目標も持ってはダメなの?

久しぶりに読み返してみたら、「7つの習慣」の第一の習慣「主体性を発揮する」とほぼ同じことを言っています。やっぱり、「原理原則」ということなのでしょう。

一方で、小林正観さんや斉藤一人さんの本を読むと、いわゆる成功の王道として語られる「人生の目的を決め、目標を持って生きる」といった考えとのギャップをいつも感じます。

例えば本書で言えば、「思いを持たない」、「執着の手を離す」といったことです。「目標を持つ」ことは、「思いを持たない」ことと相反するのじゃないかと。

私の理解が浅いだけで、もっと深いところでは同じ方向を向いているのかなって、そんな風にも感じるのですが。




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