「小さなことを大きな愛でやろう」
リチャード・カールソン&ベンジャミン・シールド編著「小さなことを大きな愛でやろう」のご紹介。
誰にでも「人生の扉を閉める時」が、必ずやってきます。
その時あなたは、自分の人生をどんなふうに振り返ると思いますか。あるいは、どんなふうに“振り返りたい”ですか。
そんな問いかけから本書は始まります。
人は皆、人生の最後に、そんな質問を投げかけるのかもしれません。
よく言われることですが、年をとって死を目前にした人たちがこんなことを言うとは思えませんよね。「もっと仕事に時間を費やすべきだった」「ベンツをもう1台買えば良かった」「ゴルフでアベレージ80を切りたかった」。
もちろん人それぞれ色んな考え方や価値観があるので一概には言えませんが、それでも多くの人が行き着くところは「愛」なのではないでしょうか。
人生にどれだけ愛があったか、どうやってやすらぎを分かち合えたか、誰が自分を愛してくれたか、自分は誰を大切にしたか、誰の人生に影響を与えたか、といったようなことなのではと思います。
でも現実はどうかというと、大切な人からの褒め言葉を聞き流してテレビに見入ってしまったとか、子どもから遊ぼうって言われたのに、疲れているからまた今度ねって言ってしまったり、震災で苦しんでいる人たちに寄付しようって思いながら、「後で」って心の隅に押しやってしまったとか・・・。
心と心が結びつく大切な瞬間は、こんなふうにしょっちゅう無視されているんです。そうしているうちに、わたしたちの人生は少しずつ少しずつ縮んでいってしまうのです。
以前、あるセミナーで言われて、なるほどって心に残っている言葉があります。
どういうことかというと、「愛」というのは、漠然とした“感情”とか“思い”といったものではなく、「行動」することで表現する(表に出す)ものなんだってことです。
違う言い方をすると、相手のことを愛してるって「思ってる」だけでは相手に伝わらないし、伝わらないってことは存在していないのと同じことなんです。だから、愛してるって“言う”ことが、あるいは「愛」を持って相手のために何かを“してあげる”という行為こそが「愛」というものの実体なのです。
震災で苦しんでいる人たちのことをどれだけ心配しても、どれだけ憂いても、そこには「愛」はなくて、自分にできるどんな小さなことでも構わないので、行動するところに「愛」が存在するのです。
わたしたちは善意で何かを言っても、それと正反対のことをするかもしれません。「人生でいちばん大事なのは家族です」と言いながら、家族と過ごす時間をほとんど取らないかもしれません。
自分を後回しにすることの美徳とか、人助けに献身することを長年語りながら、実際にはまだ何もしていないかもしれません。
誰もが自分にこんなふうに問いかかけてみる必要があります。
「家族は人生で本当にいちばん大切なものだろうか?」
「自分は本当にボランティア活動に時間を費やしたいんだろうか?」
「震災で苦しむ人たちに、自分は本当に何かしてあげたいのだろうか?」
実際、わたしたちは行動でしか意思を表せないのです。でも、「行動」となると、話がいろいろと変わってくることに気がつきましたか?
「思い」は練習も必要なく、誰にでも、いつでもできますよね。それは“自己完結”してしまうからです。でも、「行動」となると話は別です。なぜなら、そこには行動の対象となる“相手”が存在してくるから。
何が言いたいかというと、「愛」とは「行動」であると捉えた時、人を上手に愛せるようになるには、練習と場数を踏むことが必要なんだってことです。
要はスポーツとか習い事と同じだってことです。練習して、習熟して、初めてうまく人を愛せるようになるのです。なんか不思議な感じがしますが、納得している自分もいます。
例えば、姑と同居することになったとします。お義母さんとの関係をもっとよくして優しくしてあげたいとき、どうすればいいか。
お義母さんが部屋に入ってきたら、愛しているように振るまえばいいのです。
これは人を騙すという事ではありません。姑であれ、妻であれ、子供であれ、誰であれ、みんなをもっと愛せるようになるための「練習」なんです。
誰かが自分の部屋に入ってきたとき、より愛情深い人間になる方法として、一瞬立ち止まって考えることを始めてみませんか。
繰り返しになりますが、「愛する人」になるためには練習と場数を踏むことが必要です。その練習をしていくに当り、お手本として打ってつけのなが犬です。
犬は無視されても、あなたの顔を祇めてくれます。繰り返し虐待されない限り、獣医に足を切断されても、これから安楽死させられようとしても、顔を祇めてくれます。
犬は敵意に執着できないのです。犬は愛し、愛されるために存在し、生きている間に私たちにいろいろなことを教えてくれるんですね。
でも、どうして練習してまで「愛する人」になる必要があるのでしょうか。
「大きな車が欲しい」とか、「もっと愛し合える関係が欲しい」、あるいは「子供に言うことを聞いてほしい」とか、いろんな欲求を私たちは持っています。
なぜこれらのことを欲しがるのかというと、それは「いい気持ちになれるから」です。
でも、この欲しいものが手に入ればいい気持ちになれる、というのは単なる神話に過ぎません。
欲しいと思っているものが手に入ると、喜びや内なる平穏や心のやすらぎを得ることは確かにできます。でも、それは一時的な経験に過ぎないのです。
そして、究極の「いい気持ち」を本当に手に入れるための方法こそが、自分を愛で満たすことなのです。
でも、どうやって「自分を愛で満たす」ことができるのでしょうか。
人は、「愛されるている」と感じる時が、一番の幸せなのだと思いませんか。そう、私たちは「愛されたい」んです。それはもう本能の世界です。だから、わたしたちは道ゆく人にコップを差し出して、自分を愛してくれるように頼みます。
「どうかわたしを愛してください」
しかし残念ながら、これは骨折り損に終わります。
なぜなら、わたしたちが本当に愛を経験できるのは、自分を愛で満たし、その愛をほかの人のコップに喜んで注いでやれるときだけだからです。
誰かを愛するためには、まず自分の心に愛の経験を与えてやらなければならないってことです。
いちばんたくさん愛せる人が勝ちです。これこそが愛の真理なのです。
だからこそ、練習して場数を踏んで、誰よりも上手な「愛する人」になる必要があるのです。
誰にでも「人生の扉を閉める時」が、必ずやってきます。
その時あなたは、自分の人生をどんなふうに振り返ると思いますか。あるいは、どんなふうに“振り返りたい”ですか。
そんな問いかけから本書は始まります。
人生の扉が閉まろうとする時、あなたは何を思うでしょうか?
自分の人生は何だったんだろう? 何をいちばん誇りに思えたんだろう? 時間とエネルギーをどう使ったんだろう? 私はみんなにどう思い出してもらえるんだろう?人は皆、人生の最後に、そんな質問を投げかけるのかもしれません。
よく言われることですが、年をとって死を目前にした人たちがこんなことを言うとは思えませんよね。「もっと仕事に時間を費やすべきだった」「ベンツをもう1台買えば良かった」「ゴルフでアベレージ80を切りたかった」。
もちろん人それぞれ色んな考え方や価値観があるので一概には言えませんが、それでも多くの人が行き着くところは「愛」なのではないでしょうか。
人生にどれだけ愛があったか、どうやってやすらぎを分かち合えたか、誰が自分を愛してくれたか、自分は誰を大切にしたか、誰の人生に影響を与えたか、といったようなことなのではと思います。
でも現実はどうかというと、大切な人からの褒め言葉を聞き流してテレビに見入ってしまったとか、子どもから遊ぼうって言われたのに、疲れているからまた今度ねって言ってしまったり、震災で苦しんでいる人たちに寄付しようって思いながら、「後で」って心の隅に押しやってしまったとか・・・。
心と心が結びつく大切な瞬間は、こんなふうにしょっちゅう無視されているんです。そうしているうちに、わたしたちの人生は少しずつ少しずつ縮んでいってしまうのです。
「愛」とは“状態”でなく“行為”なんです
本書の題名は、マザー・テレサの言葉から引用されています。わたしたちには偉大なことはできません。
小さなことを大きな愛を持って行うだけです。
この言葉の中で着目すべきは、「行う」という言葉なんだと思います。小さなことを大きな愛を持って行うだけです。
以前、あるセミナーで言われて、なるほどって心に残っている言葉があります。
愛とは“状態”ではなく、“行為”なんです。
どういうことかというと、「愛」というのは、漠然とした“感情”とか“思い”といったものではなく、「行動」することで表現する(表に出す)ものなんだってことです。
違う言い方をすると、相手のことを愛してるって「思ってる」だけでは相手に伝わらないし、伝わらないってことは存在していないのと同じことなんです。だから、愛してるって“言う”ことが、あるいは「愛」を持って相手のために何かを“してあげる”という行為こそが「愛」というものの実体なのです。
震災で苦しんでいる人たちのことをどれだけ心配しても、どれだけ憂いても、そこには「愛」はなくて、自分にできるどんな小さなことでも構わないので、行動するところに「愛」が存在するのです。
あなたの“行動”が表現しているのは何ですか?
本書の中で、この言葉も印象に残ります。わたしたちの本心は、わたしたちの行動にあらわれる。
これも同じようなことですよね。わたしたちは善意で何かを言っても、それと正反対のことをするかもしれません。「人生でいちばん大事なのは家族です」と言いながら、家族と過ごす時間をほとんど取らないかもしれません。
自分を後回しにすることの美徳とか、人助けに献身することを長年語りながら、実際にはまだ何もしていないかもしれません。
誰もが自分にこんなふうに問いかかけてみる必要があります。
「家族は人生で本当にいちばん大切なものだろうか?」
「自分は本当にボランティア活動に時間を費やしたいんだろうか?」
「震災で苦しむ人たちに、自分は本当に何かしてあげたいのだろうか?」
実際、わたしたちは行動でしか意思を表せないのです。でも、「行動」となると、話がいろいろと変わってくることに気がつきましたか?
「思い」は練習も必要なく、誰にでも、いつでもできますよね。それは“自己完結”してしまうからです。でも、「行動」となると話は別です。なぜなら、そこには行動の対象となる“相手”が存在してくるから。
何が言いたいかというと、「愛」とは「行動」であると捉えた時、人を上手に愛せるようになるには、練習と場数を踏むことが必要なんだってことです。
要はスポーツとか習い事と同じだってことです。練習して、習熟して、初めてうまく人を愛せるようになるのです。なんか不思議な感じがしますが、納得している自分もいます。
犬を手本に、「愛する人」になるための練習をしてみませんか
本書に紹介されている一つの練習手段に、「愛しているように振るまう」というものがあります。例えば、姑と同居することになったとします。お義母さんとの関係をもっとよくして優しくしてあげたいとき、どうすればいいか。
お義母さんが部屋に入ってきたら、愛しているように振るまえばいいのです。
これは人を騙すという事ではありません。姑であれ、妻であれ、子供であれ、誰であれ、みんなをもっと愛せるようになるための「練習」なんです。
誰かが自分の部屋に入ってきたとき、より愛情深い人間になる方法として、一瞬立ち止まって考えることを始めてみませんか。
この人を愛していたら、僕はどう振るまうだろう?
この態度を取れば取るほど、自分がもっとやさしく繊細になれることに気がつくと同時に、周りの人は愛されるだけで変わるので、ますます愛し易くなっていくんです。繰り返しになりますが、「愛する人」になるためには練習と場数を踏むことが必要です。その練習をしていくに当り、お手本として打ってつけのなが犬です。
犬は無視されても、あなたの顔を祇めてくれます。繰り返し虐待されない限り、獣医に足を切断されても、これから安楽死させられようとしても、顔を祇めてくれます。
犬は敵意に執着できないのです。犬は愛し、愛されるために存在し、生きている間に私たちにいろいろなことを教えてくれるんですね。
あなたが欲しいものは何?
あなたが生きているこの世界は劇場であり、そこでどう演技するかは、あなた次第です。与えられたこの一生をかけて練習を積み、なりたいだけ上手になれるのです。でも、どうして練習してまで「愛する人」になる必要があるのでしょうか。
「大きな車が欲しい」とか、「もっと愛し合える関係が欲しい」、あるいは「子供に言うことを聞いてほしい」とか、いろんな欲求を私たちは持っています。
なぜこれらのことを欲しがるのかというと、それは「いい気持ちになれるから」です。
でも、この欲しいものが手に入ればいい気持ちになれる、というのは単なる神話に過ぎません。
欲しいと思っているものが手に入ると、喜びや内なる平穏や心のやすらぎを得ることは確かにできます。でも、それは一時的な経験に過ぎないのです。
そして、究極の「いい気持ち」を本当に手に入れるための方法こそが、自分を愛で満たすことなのです。
でも、どうやって「自分を愛で満たす」ことができるのでしょうか。
人は、「愛されるている」と感じる時が、一番の幸せなのだと思いませんか。そう、私たちは「愛されたい」んです。それはもう本能の世界です。だから、わたしたちは道ゆく人にコップを差し出して、自分を愛してくれるように頼みます。
「どうかわたしを愛してください」
しかし残念ながら、これは骨折り損に終わります。
なぜなら、わたしたちが本当に愛を経験できるのは、自分を愛で満たし、その愛をほかの人のコップに喜んで注いでやれるときだけだからです。
誰かを愛するためには、まず自分の心に愛の経験を与えてやらなければならないってことです。
いちばんたくさん愛せる人が勝ちです。これこそが愛の真理なのです。
だからこそ、練習して場数を踏んで、誰よりも上手な「愛する人」になる必要があるのです。
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