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山本周五郎著 「かあちゃん」

「時代小説が好きだ!」って記事を書くために、本棚から昔の本を引っ張り出してきて読んでいたら、山本周五郎の世界から抜け出せなくなってしまいました。

もう、次から次へと読みたくなって、片っぱしから読み返している毎日。

考えてみると、以前はあんなに読んでいた山周の本、最近はとんと御無沙汰でした。山周の本って、以前も書いた通り、一般的には大衆文学、娯楽小説とみなされているんだと思いますが、実はこれが本当に奥が深いんです。

山周「かあちゃん」それだけに、読み返すにはちゃんとした“心構えを持って”なんて気持ちがあったのかもしれません。

でも、一旦手にとって読み始めると、もうダメです。抜けられなくなってしまいました。山周の本は短編が多いのですが、一つ読み終わり、次のを読まないようにするのにかなりの意志の力が必要です。

一つひとつ読んでいくと、もう随分と昔に読んだ本たちなのに、深く印象に残っているものがたくさんありました。いや、ほとんどの小説が(断片的だったとしても)記憶の中にあり、読み出すと大体のストーリーが思い出されてきます。

中には、強烈に印象に残っている小説も少なくありません。そんな中から、個人的にはベスト5には入るだろうと思っている名作「かあちゃん」(短編集「葦は見ていた」に収録)を紹介したいと思います。

居酒屋での噂話

下町のごくありふれた小さな居酒屋の場面から話は始まる。時刻は夜の十時近く。五、六人の常連が近所の噂話に花を咲かせている。

噂話というのは、お勝(かつ)一家についてのもので、どうやらすこぶる評判が悪いようだ。お勝は、亭主に死なれ、女手一つで五人の子供を育ててきた。

五人の子供は、大工の長男市太、左官の二男次郎、三男三郎は魚河岸で働き、一人娘のおさんは針仕事、そして末っ子の七之助はまだ七歳の子供。

お勝も針仕事をし、七之助でさえ道端の折れ釘や真鍮を拾って屑物屋に売ってというように、一家全員で稼いでいる。そして、毎月、中日と月末には一家そろって銭勘定をし、ケチの限りを尽くしながらこの二年半、せっせと貯め込んできたようだ。

「仮におめえが、首をくくらなくちゃならねえほどせっぱ詰まったって、一文の融通をしてくれる望みもありゃしねえ、あの一家の吝嗇はもうお厨子にへえったようなもんだ」って一人の男が云う。

そして今日はその銭勘定をする月末でもあり、噂話にも力が入っている。

そんな常連から少し離れた席で、陰気に塩辛を舐めながら酒を飲んでいた二十二、三のみすぼらしい身なりの、無気力そうな青年が、小女を呼んで勘定をする。肴は塩辛だけ、酒は一本。そしてその払いをすると、後には十二文しか残らなかったのを小女は見た。

お勝一家の煤ぼけた四畳半で

場面は変わって長屋の一角、お勝一家の煤ぼけた四畳半。ものの煮えるうまそうな匂い。おさんは六畳間で四人分の寝床を敷いてい、四人の子供たちはかあちゃんが銭を数える手元を見ている。勘定が終わってかあちゃんが云う。

「初めに決めたのにちょっと足りないけれども、来月の十七日までだったら充分、間に合うよ。足掛け三年、やる気になれば案外できるもんだね。さあうどんにしようか」

うどんを食べ終わり、子供たちを寝かせてから、お勝は行燈の片方に蔽いを掛けて、仕立て物を広げ、針仕事を始める。

泥棒が入ってきて

午前零時を過ぎ、居眠りをはじめたお勝が頭をがくりとさせて目をさました。そのとき、勝手口のほうでごとっという音が聞こえた。しばらくしてまた勝手口で音がし、路地のどぶ板のぎっと軋むのが聞こえた。

お勝はそっと立ち上がり、足音を忍ばせて障子のところまで行き、息を殺して待つ。

障子の向こうで「はっ、はっ」と喘ぐような荒い呼吸が聞こえた。ためらっているらしい。だが間もなく障子がすっと五分ばかり開き、少しして二寸、さらに五寸というふうに、ひどくおずおずと開いていき、やがて一人の男が、用心深く抜き足で入って来た。

居酒屋にいたあの青年だった。

「静かにしておくれ、大きな倅が三人いるんだから静かにしておくれ」とお勝が云った、「目をさますといけないからね、わかったかい」

飛び上がりそうになった男は、「静かにしろ、騒ぐとためにならねえぞ」と、ひどく吃りながら云った。そして「金を出せ」とふるえ声で云う。

お金はあるよ、少しくらいならあげるから、ともかくそこに座りなね。男はためらい、それからしぶしぶ座ったが、膝はまだ見えるほどふるえていた。お勝は気が付いて、ああそうだ、おまえさんお腹が空いているんだろうと云った。残りものだけどうどんがあるから温めてあげようね。

うどんを温めながら、お勝は金の入った箱を取り出し、そこからいくらかの銭を紙に包んで、箱を片付けようとした。すると男が「箱ごとよこせ」といって立ちあがった。

お勝は男を屹と見て、「おまえさんがどうしても欲しいというんなら、これをそっくりあげてもいいよ。でもその前に、これがどんな金かってことを話すから聞いておくれ」と云った。

お勝一家が吝嗇になったのは

お勝一家が吝嗇になったのには理由があった。今から三年前、長男市太の大工仲間の源さんが金に困ってつい盗みをした。嫁をもらって一年半。子供が生れかかっていた。いろんな不都合も重なり、どうしても入用な二両ばかりの金を帳場の金箱から持ち出し、たちまち露見して牢に入れられた。

刑期は二年半。牢から出てきても、元の職に源さんはかえれない。同業の世界は狭いからと市太が言った。

同情したお勝は二た晩かんがえて子供たちにいった。私は源さんに直接会ったことはないが、聞けば気の毒な身の上だ。牢から出てきたとき困らないように、仕事の元手をつくってやろうじゃないか。あたしは「おでん燗酒」の店がいいと思うがみんなはどうか。元手はこれからみんなで稼ぐのさ。

そらから一家で稼いだ。喰うもの、着るもの、小遣い、そして長屋の近所付き合いまで詰めた。近所の評判はしぜん悪くなる。「けちんぼ一家」と噂され、路地の出入りにも、子供たちなどが「やあいけちんぼ」などと悪口を云う。だがみんなよくがまんして、何を云われても相手にならず、辛抱づよく稼いだ。

「これがそのお金だよ」とお勝は箱を膝から降ろし、男のほうに押しやりながら云った、「いまの話を聞いても、それでも持ってゆくというなら持っておいで」

うなだれたまま、出ていこうとする男に、どうするの、とお勝が立ちながら訊いた。男は「帰るんだよ」と云った。

「帰るって、帰るうちがあるのかい」
男は不決断に立ち止まった。
「帰るあてもないのに、ただここを出ていってどうするつもりさ」

うどんを食べる男。固くなったままうどんを食べる男を眺めていたお勝が、前掛けで顔を覆って嗚咽する。男の眼からも涙がこぼれ落ちた。食べていた手を膝に降ろし、深く頭を垂れて、そしてくっくっと喉を詰まらせた。

「あたしが頼むよ」とお勝が云った、「なんにも云わないで今夜からうちにいておくれ、お願いだよ」

こうして男は、お勝を頼って江戸に出てきた遠い親類の“勇さん”だと子供たちに紹介され、お勝一家と一緒に暮らすことになる。

あたしは親を悪く云う人間は大嫌いだ

勇さんは、市太の帳場で仕事口が見つかり、みんなと一緒に弁当を持って働きに出るようになる。居ついてから六七目のある夜、みんなもう寝てしまって、お勝ひとりが繕い物をしているところに、男がそっとやってきた。

「どうしたの」とお勝が囁き声で訊いた。

男は座って、「云いにくいんだけど、約束だから云うんだけれどね、おばさん、・・・・・おれのこと、みんなと同じようにしてくれないか」
「おや、同じようにしないことでもあるのかい」
「弁当のことなんだけれど」
「勇さん」とお勝が云った。「あたしは初めに断った筈だよ、不足なこともあるだろうがこんな貧乏所帯だから」
「ちがうんだちがうんだ」と男は首を振って遮った。

男が云いたかったのは、一緒に働いている市太の弁当と比べて、自分の弁当だけ特別になっている、飯も多いし、おかずも多い。客扱いはしない、みんなと同じにするからって云ってくれたのに、弁当をあけるたびに、やっぱりおらあ他人なんだな、って気がするってことだった。

「ああ悪かった、堪忍しておくれ」とお勝が云った。それは客扱いでも他人行儀でもない、勇さんが痩せていて元気がないからって、おさんが心配してやってることなんだよと、お勝は男に謝りながら云う。

「もうちっと肉が付いたら同じようにするからね、それまでのことだから辛抱しておくれ」

「よくわかった、おばさん、済まねえ」と男は腕で眼を覆った、「おらあ、・・・・・こんな思いをしたのは、初めてだ、・・・・・生みの親にもこんなにされたこたあなかった」

この言葉を聞いてお勝が怒る。「生みの親だどうしたって、勇さん、それだけはあたしゃ聞き捨てがならないよ」
「だっておばさん」
「だってもくそもないよ、あたしは親を悪く云う人間は大嫌いだ」

この最後の一行を書きたいがために、山本周五郎はこの「かあちゃん」を書いたそうです。

物語の最後、朝みんなで仕事にでかけるのに、いちばん後から出ようとした男は、ふとお勝のほうへ振り返った。

この後の七行が、私にとってはこの本を忘れられないものにしてくれました。

物思わせぶりな終わり方で申し訳ありませんが、気になる方は是非、ご自身で本を手にとって読んで頂ければと思います。




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