画像生成AIが登場して、もう3年ほどになる。時間の流れは早い。
ここ最近、画像生成AIに対する批判の潮流が少しずつ変化してきているように感じている。
登場初期からしばらくの間、いわゆる「反AI」の主張の中心にあったのは、やはり「無断学習」の問題だった。
「インターネット上から許諾なく収集した画像データを学習に用いているのではないか」
「そのようなプロセスで作られた画像は、結局は他者の作品の模倣、パッチワークに過ぎない」
といった主張だ。これが、最も直接的で分かりやすい批判の論点だった。
現在でもこの種の主張は根強く、しばしば目にするところだ。
ただ、最近目立ってきたのは、その論点が微妙に変化している、あるいは主張の重心が移動しているように見えることだ。
例えば、OpenAIのサム・アルトマン氏がChatGPTの画像生成機能で「ジブリ風」の画像を生成し、それが少なからず批判された一件があった。
あの時の批判の多くは、「無断学習そのものが問題だ」という方向性よりも、「『ジブリ』という世界的に確立されたブランドを安易に模倣し、価値を毀損するべきではない」というニュアンスが強かった。
「AIが許諾なく学習すること」自体への批判から、「学習済みのAIを用いて、特定の作家や作品の『個性』や『ブランドイメージ』を侵害するようなアウトプットを行うこと」への批判へと、徐々にシフトしている。
この変化には理由がある。
一つはこれからの社会、「反AI」というスタンスを徹底することが現実的に難しくなっていくという認識が広まりつつあることだ。
画像生成AIについては様々な意見があるとしても文章生成AIであるChatGPTなどはどうだろうか。あれもまた、インターネット上の膨大なテキストデータをクロールし、「無断学習」している。しかしそれを根拠にChatGPTの利用を全面的に否定するには、あまりにも社会に浸透し、その利便性が広く認知されてしまった。
「学習プロセスそのものが悪である」と主張し続けることは、このダブスタに向き合うことを意味する。そうなると、「生成AIは一切利用しない」という厳格な立場を貫くか、「画像生成AIだけは特別である」という無理筋を押し通すかの選択を迫られる。内心ではこのあたりのスタンス変更タイミングを計っていた人も少なくないのかもしれない。
もう一つは、生成AIが登場した直後に見られた、一種のパニック状態がいくらか沈静化してきたことも影響しているだろう。
「AIによって人間の仕事が全て奪われる」「AIアートが文化を破壊する」といった、今振り返ればやや過剰な悲観論が、初期のAI批判の大きな原動力となっていた。
しかし、3年を経て、技術そのものへの理解が広がり、良くも悪くも「AIは結局のところツールの一つに過ぎない」という認識が浸透し始めてきた。神格化や悪魔化の時期が終わりを迎えつつある。
「そのAI技術を用いて、オリジナルの価値を毀損するような『出力』に対しては、社会として断固として向き合い、規制や倫理規範を議論していくべきだ」
という、AIが登場した初期に、むしろAI技術の推進派の一部が提唱していた折衷点に落ち着いていくのではと思う。
結構なことだ。