2011年3月11日に発生した東日本大震災。記憶に新しいだけでなく、いまだにその余波は日本中をのみこんでいます。被災された方々には、謹んでお見舞い申し上げます。また、これからが復興の本番となりますので御苦労が多いかと思いますが、ぜひともめげずに立ち向かっていただければと思います。私もエンジニアとして、協力できることは惜しまず協力していく考えです。
震災当日、私は東京都千代田区でセミナーを開催していました。セミナーも後半戦に入り、和やかな雰囲気で受講生の皆さんと歓談しているときでした。ご存じのように、最初は緩やかな横揺れから始まり、瞬く間に激しい揺れに変わりました。
道路の反対側のビルの屋上に取り付けられた避雷針はゴムの棒を揺らしたかのように振動し、ビルそのものもねじれるように揺れていました。道路では車がすべて停止し、ビルにいた人たちが道路に溢れかえっていました(写真1)。
その後いったん揺れは収まりましたが、電車などを含め交通はすでに麻痺状態となっていました。私は、直後から携帯電話のワンセグやTwitterなどで溢れるように伝えられる情報を見ていました。伝えられてくるのはいかにこの震災の被害が激しかったかというものでした。
この地震が発生したとき、Twitterでは様々な情報が交換されました。その中から一つの形になっていったものがあります。私のTwitterアカウントで得られた情報のうち、発生直後から活躍されていた方々の様子を一部紹介したいと思います。
携帯電話事業者のエンジニアが立ち上がった
地震発生当日、多くの方が経験されたように帰宅は困難を極めました。私は何とか家にたどりつき、そのまま寝てしまいました。翌3月12日、残っている仕事を片付けるためニュースに気を配りながらもパソコンに向かいました。
仕事をしつつ、気になっていた東北方面のネットワークの状況について、Twitterやそのほかのメディアを使い情報を集めました。やはり、日本のインターネットにも影響が出ていました。東北方面のネットワークはすでに一部がつながらなくなっており、インターネットの経路数も多少減少していたようです。
Twitterを眺めていると、「これから東北に行く」とメッセージを残した方が現れました。ソフトバンクモバイルのエンジニアである高橋真さんです。その時の経緯を高橋さんはこう語っています。
「震災直後に東北のトラフィックなどを確認し、これは今まで経験のないレベルの非常事態の始まりだと直感しました。交通機関がマヒしていたので、いったん川崎の自宅まで歩いて帰り、何日か泊まり込む準備をして会社へ戻ろうと決めました。会社へ戻った深夜、直後に移動基地局の運用サポートの募集がありましたが、どこへでも行く用意があったので迷わず手を挙げました」
私の周りではこれをきっかけに様々な動きが始まったように思えます。