向田邦子とは? わかりやすく解説

むこうだ‐くにこ〔むかふだ‐〕【向田邦子】

読み方:むこうだくにこ

[1929〜1981脚本家小説家東京生まれ脚本家として「七人の孫」「時間ですよ」など多数ヒット作世に送り出すその後エッセー集小説発表し人気集めた短編小説花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で直木賞受賞。他に「寺内貫太郎一家」「男(お)どき女(め)どき」、エッセー集父の詫び状」など。


向田邦子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/08 14:14 UTC 版)

向田むこうだ 邦子くにこ
1952 - 1960編集者時代
ペンネーム 向田邦子、幸田邦子
誕生 1929年11月28日
日本東京都世田谷区若林
死没 (1981-08-22) 1981年8月22日(51歳没)
台湾苗栗県三義郷
墓地 多磨霊園
職業 脚本家随筆家小説家
国籍 日本
最終学歴 実践女子専門学校(現在の実践女子大学国文科卒業
ジャンル 脚本
エッセイ
小説
代表作寺内貫太郎一家
主な受賞歴 第83回直木賞
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向田 邦子(むこうだ くにこ、1929年昭和4年〉11月28日 - 1981年〈昭和56年〉8月22日)は、日本のテレビドラマ脚本家エッセイスト小説家。第83回直木賞を受賞。

週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。

父親の転勤で全国を転々とするが、本人は鹿児島時代が文学の原点と語った。実践女専国語科を卒業後、映画雑誌の記者を経て、ラジオ・テレビの台本・脚本を書く。『七人の孫』『寺内貫太郎一家』等、自分の実感をもとに庶民の生活を温かくかつその暗部をも描いて「ホームドラマの旗手」といわれた。

1980年短編連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』(後に作品集『思い出トランプ』に収録)で直木賞を受賞した。

略歴

1929年(昭和4年)、東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現在の東京都世田谷区若林)に生まれる[1]。父親は石川県七尾市能登島出身[2]で、高等小学校卒業後に第一徴兵保険(東邦生命保険を経て、現在のジブラルタ生命保険)に給仕として入社し、たたき上げで幹部社員にまで登りつめた苦労人[3]。父が転勤族であったため一歳で宇都宮に転居したのを初めとして、幼少時から高等女学校時代まで日本全国を転々としながら育つ。高松市立四番丁小学校(香川県)、東京都立目黒高等女学校、実践女子専門学校(現在の実践女子大学)国語科を卒業した。

新卒で財政文化社に入社し、社長秘書として勤める。その後雄鶏社に転職し、「映画ストーリー」編集部に配属され、映画雑誌編集者として過ごす。そのころ市川三郎の元で脚本を学び、シナリオライターを目指した。雄鶏社を退社した後は脚本家、エッセイスト、小説家として活動する。

ホームドラマ作品の脚本家として現在も知名度は高く、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』といった人気作品を数多く送り出した。1970年代には倉本聰山田太一と並んで「シナリオライター御三家」と呼ばれた[4]

1981年(昭和56年)8月22日、取材旅行中の台湾苗栗県三義郷遠東航空機墜落事故で死去した。享年51。

法名は、芳章院釋清邦大姉。墓所は東京都府中市多磨霊園。墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る 久彌」。遺品はかごしま近代文学館に寄贈され、常設展示されている。寄贈を決めた時の母・せいの言葉は「鹿児島に嫁入りさせよう」[5]であった。

エピソード

  • 小学生のころには、父の赴任にともない鹿児島県鹿児島市鹿児島市立山下小学校で数年を過ごした。この多感な時期に鹿児島の温暖な気候や地元の風習、文化、食べ物、家族や先生、同級生との間に様々な体験をし、忘れ得ない思い出として、代表作エッセイ父の詫び状』に詳しく綴っている。なお、この作品のモチーフは、鹿児島時代の家族団欒であると言われている[誰によって?]。飛行機事故の直前には、雑誌の企画で鹿児島を訪問し、「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい「故郷もどき」なのであろう」と締めくくっている。
  • 戦後の混乱期には、一家は父の度重なる転勤により仙台に居を構えていた。最初の社宅は、現在の住居表示で仙台市青葉区国分町二丁目(現在は仙台市都心部の歓楽街だが、当時はオフィス街の裏道)、後に同市同区大手町(旧・琵琶首丁。広瀬川沿いの住宅地)に引っ越した。邦子は実践女子への通学のため、東京・麻布市兵衛町の母方の祖父母宅に下宿し、夏冬の休みだけ仙台に帰省していた。「当時は東京が極度の食糧不足にあえいでいたが、仙台は別天地のように豊かであった」と語っている。1950年に父親が東京本社勤務となり、杉並区久我山の社宅に住み、邦子もまた両親と一緒に暮らし、定年退職の後は杉並区天沼に転居する[3]
  • 雄鶏社という出版社に就職したばかりのころは、黒いニットのトップスに黒いロングスカートという服装が多かったため、同僚からは「黒ちゃん」と呼ばれていた。後に妹の向田和子が自著の文中で「その黒いロングスカート姿で仙台へ帰省してきた姉が、当時は黒い服を礼服以外の目的で着ていた人が少なかったこともあり、町へ出るととても目立った」と当時を回想している。
  • 洋裁が得意であり、一時はコートまで仕立てていた。戦中から戦後の物資の乏しい時期には弟妹たちの手袋、マフラーも手編みで用意し、2人の妹にはセーラー服まで作った。生地の入手自体が困難だったため、古着を仕立て直すなど工夫していた。
  • 愛猫家としても知られ、実家暮らしのころから亡くなるまで、常に複数の猫を飼っていた。その中でもコラット種のオス「マミオ」はタイ旅行した際に一目惚れした種であり、エッセイにも度々登場させている。邦子の没後は、母・せいと妹・和子が引き取り、16歳で癌によって死ぬまで愛育していた。
  • 赤旗新聞の愛読者であることを自ら明かした[6]
  • 精力的に海外旅行をしていたが、実は飛行機嫌いであった。1981年5月に「ヒコーキ」(『霊長類ヒト科動物図鑑』)というエッセイで、「私はいまでも離着陸のときは平静ではいられない」と書き、あまり片付けて出発すると「やっぱりムシが知らせたんだね」などと言われそうで、縁起を担いで汚いままで旅行に出ると述懐していた。しかしながら、験担ぎも虚しくこの僅か3か月後には飛行機事故で命を落とすこととなった。
  • 当時珍しかった留守番電話を早い時期に導入していた。機械に慣れない人々が面白いメッセージを多く残したが、中でも秀逸は黒柳徹子で、一分/一通話のシステムでは足りなかったらしく、特有の早口で九通話連続で吹き込まれていたというものであった。しかし用件には全く触れられておらず「後で直に会って話すわね。」という滑稽な伝言であったため、消去せずに保存して来客に聞かせて、もてなしの一つとしていた。
  • 幼少時より虫が大嫌いだった。虫偏の漢字も嫌いだったが、唯一「」だけは好きだった(『クイズダービー』でこのエピソードが出題された)。
  • グルメとしても有名であった。料理も得意で自炊したが、著述活動の傍ら「女性が一人でも気軽に寄れるお店を作ろう」と、妹の和子と東京都港区赤坂で小料理屋「ままや」を開店した。「ままや」は邦子の没後も妹の和子によって営業が続けられたが、1998年(平成10年)に閉店した。その経緯は和子著の「かけがえのない贈り物」に詳しい。気取った食べ物が嫌いで、海外から帰宅して最初に作る料理は海苔弁当にしていたという。また、エッセイ『夜中の薔薇』に書いてある、レシピを自分好みに改変した常夜鍋(彼女の作り方では昆布を入れず、にんにくとしょうがを加える)が好物であったという。
  • 手料理のレパートリーの1つであった「若布の油いため」をいしだあゆみに御馳走したところ、いたく気に入られたので、作り方を伝授したことがある[7]
  • 遅筆、乱筆で有名であり、切羽詰まると「四」の字を横棒4本で済ましたという逸話がある[8]
  • あまりの遅筆に痺れを切らした樹木希林が「話の筋だけ考えてくれたら、後は現場で何とかする」と電話を掛けて喧嘩になったことがある[9][10]
  • 現在(令和6年)では中学校の国語の教科書に、「眠る盃」から出典された「字のない葉書」が載っている[11]
  • 向田の命日となった8月22日は木槿と呼ばれるが、これは向田と親交があった山口瞳が、向田の死を受けて記した小説『木槿の花』で提唱された忌日である。
  • 2021年時点で向田を二度演じた美村里江(ミムラ)は、向田のエッセイの方面で敬愛する人に挙げている[12]。また、爆笑問題太田光も向田作品の愛読者である。

年表

受賞歴

代表作

  • 『向田邦子全集』(全3巻、文藝春秋、1987年)
  • 『向田邦子全集〈新版〉』(全11巻、別巻2巻、文藝春秋、2009年 - 2010年)
  • 『向田邦子シナリオ集』(全6巻、岩波現代文庫、2009年)

テレビドラマ

向田邦子新春シリーズ(原案)
  • 『夜中の薔薇』(1985年)
  • 『眠る盃』  (1985年)
  • 『冬の家族』 (1985年)
  • 『女の人差し指』(1986年)
  • 『麗子の足』(1987年)
  • 『男どき女どき』(1988年)
  • 『わが母の教えたまいし』(1989年)
  • 『隣の神様』(1990年)
  • 『女正月』(1991年)
  • 『華燭』(1992年)
  • 『家族の肖像』(1993年)
  • 『いとこ同志』(1994年)
  • 『風を聴く日』(1995年)
  • 『響子』(1996年)
  • 『空の羊』(1997年)
  • 『終わりのない童話』(1998年)
  • 『小鳥のくる日』(1999年)
  • 『あ・うん』(2000年)
  • 『風立ちぬ』(2001年)
向田邦子終戦特別企画シリーズ(原案)
  • 『いつか見た青い空』(1995年)
  • 『言うなかれ、君よ、別れを』(1996年)
  • 『蛍の宿』(1997年)
  • 『昭和のいのち』(1998年)
  • 『あさき夢みし』(1999年)

小説・エッセイ

東京書籍発行の中学校3年生の国語の教科書に『ごはん』[注 2]教育出版光村図書発行の中学校2年生の国語の教科書及び学校図書発行の中学校1年生の国語の教科書に『字のないはがき』が掲載されている。また、東京書籍の平成18年度から21年度採用の教科書(中学校3年生)の資料偏にも『字のないはがき』[注 3]が掲載されている。

関連書籍

電子版

  • 現存する主なテレビ脚本を電子書籍「TVガイド文庫」として、株式会社ニュース企画より刊行中。

その他

  • 向田邦子作品集「隣りの女」より~『隣りの女』『胡桃の部屋』~CD3枚組 (日本音声保存)

出演

テレビ番組

演じた女優

脚注

注釈

  1. ^ 『愛という字』から『家族熱』までは、向田邦子の放送台本を中野玲子が小説化したものである。
  2. ^ 『ごはん』が所収されている資料は、次の5つである。資料1:浅田次郎 奥泉光 川村湊編集委員『コレクション戦争と文学 14 女性たちの戦争』集英社, 2012,資料2:『少年少女日本文学館 30』講談社, 1988,資料3:『ふるさと文学館 第15巻』ぎょうせい, 1995,資料4:相庭泰志 構成『向田邦子をめぐる17の物語』KKベストセラーズ, 2002,資料5:向田邦子『父の詫び状』文芸春秋, 1981
  3. ^ 『眠る盃』(講談社、 1979年)に収録されている『字のない葉書』が原作。
  4. ^ 第45回紀伊國屋演劇賞個人賞受賞。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as 「年譜」『向田邦子の本棚』河出書房新社、2019年、pp.156-161
  2. ^ 「父の故郷」に深い思い 向田邦子 さんと能登島ルーツ訪ね安どと寂しさ「研究会」メンバーゆかりの 人々訪問 『北國新聞2000年3月9日付朝刊、第27面。
  3. ^ a b c 川本三郎「向田邦子ー祐天寺の郊外住宅地で育った『昭和の娘』」(『それぞれの東京-昭和の町に生きた作家たち』淡交社 2011年pp.146-155)
  4. ^ 【作家、脚本家、エッセイスト】生誕90周年・向田邦子を知るための作品4選 | P+D MAGAZINE(2019年9月28日)2021年8月22日閲覧
  5. ^ 向田和子 『向田邦子の恋文』 91頁。新潮社、2002年(平成14年)。ISBN 4104554014
  6. ^ (赤旗の匿名コラム『潮流2009年(平成21年)10月6日)
  7. ^ 野村麻里 編『作家の手料理』平凡社、2021年2月25日、47頁。
  8. ^ 春秋”. 日本経済新聞. 日本経済新聞社 (2016年2月23日). 2019年12月25日閲覧。
  9. ^ 樹木希林さんが道徳ドラマ「星野君の二塁打」を読んだら?”. 牧太郎の青い空白い雲. サンデー毎日 (2018年10月7日). 2018年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月15日閲覧。
  10. ^ “太田光、希林さんの“男気”語る 向田邦子さんとの関係性「お互い尊敬していた」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2018年9月20日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/09/20/kiji/20180920s00041000127000c.html 2019年12月25日閲覧。 
  11. ^ 中学国語教科書を読む(1)「大人になれなかった弟たちに…」(米倉斉加年) 「字のないはがき」(向田邦子)”. 国立国会図書館. 2021年3月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月17日閲覧。
  12. ^ ヒイラギの甘い香り”. 産経ニュース (2021年11月4日). 2021年11月4日閲覧。
  13. ^ 第17回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
  14. ^ 向田邦子文庫(特設サイト) | 実践女子大学・実践女子大学短期大学部図書館(2021年8月7日閲覧)
  15. ^ 第17回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
  16. ^ 番組エピソード NHKが放送した向田邦子ドラマ-NHKアーカイブス

関連項目

外部リンク


向田邦子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 14:25 UTC 版)

山口瞳」の記事における「向田邦子」の解説

晩年の向田邦子の、最も近くにいた作家一人でもある。その随筆短編小説惚れ込み第83回直木賞では向田強く推薦して受賞に至らしめた。仕事の上での交友関係続いたが、1981年8月22日向田突然の事故死には大きなショックを受け、「アル中寸前」にまで陥ったという。こうした向田とのエピソード多くは、自身エッセイ男性自身 木槿の花』に収められている。この作品から、向田命日は「木槿忌」と呼ばれることとなった。 なお、山口向田死後、「向田邦子は八方美人的なところがあり、誰もが自分が一番愛されている』と思わせる天才だった。それゆえ嘘つきだった」と評した[要出典]。競馬を介して交流があった色川武大死去した際も、同趣旨の追悼文書いた

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