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Blog を見直す

前回の更新からえらい間の空いた当 Blog 「rerofumiのつぶやき」だけれども、更新停止というわけではないのでときたま思い出したように書くことがあるかも知れない。いや実際書いたりするんだよ、というエントリー。

思ったことを書いたり反応を見たりするには Twitter みたいな即時性の高い SNS の方がやっぱり楽チンで、そうやって適当に放題しているだけでなんとなく人が集まったり離れたりするのは割と理想的な世界だったと思う。
けれども、タイムラインという形式は蓄積には向いておらずナレッジベースを残すにはどうしたら良いかというのが課題であった。
個人的なナレッジベースとして Blog を書いていたのだけれども、例えばプログラムのノウハウとかそういった技術的なことをここに書くのは適切かといったそんな疑問が自分の中にあった。もう一方の「コメを噛め」の方は電子工作を中心とした工作 Blog として始めたので、工作系ネタはそっちに書くことにしている。これはまあうまいこといってて、今でもなんか作ったら更新できる感じではあるかなと思う。

なにかというとアウトプットのドメインわけをしたがる性分なんだと思う。
Twitter (@rerofumi) のほか、自分で Mastodon サーバー (https://www.mofgao.space) を立ててそこにもいる ([email protected]) が、それぞれで投稿する内容は分けている。
ツールのレビューや動画作成のノウハウ、そして過去の作品の振り返りとしてニコニコチャンネルのブロマガを使ってみた。(http://ch.nicovideo.jp/fumi2kick)
プログラミングやサーバー構築関連のノウハウについては Qiita に集めるのが妥当だろうと思い投稿をしていた。(https://qiita.com/rerofumi)

技術系のアウトプットは Qiita でいいじゃんと思っていたのだけれども、2017年春にいくつかの著名な記事が削除されるという事件が起きた。
なんでもプログラミングに関係のない就職活動系とか純粋なポエム系とからしい。Qiita 自身が「プログラミング知識を共有しよう。」というサイトなのでまあわからなくはない。わからなくはないのだが、利用者として萎縮してしまうのだ。
自分が投稿していたのはサーバー構築記事が多く、要するにインストールしただけのものだ。設定ファイルや Dockerfile みたいなバッチは書くものの、プログラムは一行も書いていない記事が多かった。それらが「プログラミング知識を共有しよう。」に相応しいのかと考えるとどうしても投稿を萎縮してしまうのだ。
なので Qiita への投稿はストップして、自前のサイトで技術メモを残していこうかなと考え始めた。

Twitter も Twitter で流れていくことを是としたメディアなので、残しておきたいものについてはやはり Blog とか自分の手元への投稿に仕向けていった方が良いだろうなと思い始めた次第。
そんなこんなで、Blog を見直そうという気分になったのだけれども随分と間が空いてしまったので感覚が掴めずにおろおろと手探りしている状態だったりする。

とりあえず技術系メモについては別サイトというか別ページを用意してそこに書くことにしたのだけれども、それは次のお話として。



Blog を書くという目的について考えてみたり

すっかり放置のこの Blog 「rerofumiのつぶやき」。
一応メイン Blog &サイトという事になっているのですが、特に書くこともなくほったらかしていたら半年が経過していたのでなんか書いておこうかというとても後ろ向きなエントリー。

インターネットの主役というのはその時々で変化しており、ホームページ全盛から掲示板になったり Blog になったり SNS になったりショートブログからSNS内タイムラインになったりとめまぐるしい限り。
そんななか「かつて華々しかったBlogというメディアは今はもう色褪せている」のだそうだ。
それはあくまで「コミュニケーションメディア」としての Blog のことで、記事に対して活発なトラックバックやコメントといったものが沢山付き「議論」の場としての Blog に夢を馳せていた人達が場を変えたというにすぎないのではないだろうか。
元々日本ではインターネットが庶民の手にあり、WEB日記という物が存在していた。そしてそのWEB日記の延長という形で存在していた Blog が多いのでそう様子が変わったようには見えない。

システムの変容もある。
ホームページの時は設置者が HTML を作成する必要があった。それをブラウザからの更新だけで良くした Blog システムは(知らない人には)画期的とも言えるくらいの容易さだったに違いない。
それが SNS やソーシャルサービスといったものに河岸を変え、発言だけでなく反応を貰うのに必要な体力の閾値が駄々下がりしている。
わざわざ Blog という形態でアピールしなくても Twitter や Facebook に短文で書き込めば興味を持ってくれる人にすぐ見て貰え、短時間に沢山の反応を得ることができる。その様子を知ってしまったら止められなくなるに違いない。
だから Blog はもう必要が無いとも言われる。んが、そこまでは言い過ぎなのでは。

私も Twitter 上に居たりする。だからこの Blog をほったらかすようになったのか。
それはちょっと違ったりもする。
工作記事を中心とした「コメを噛め」はそれなりの幅で更新をしている。
最近は niconico のブロマガを借りてみたので、そこではニコニコ動画に投稿した動画を振り返った記事を週一で連載したり、気が向いたら製作環境にまつわる記事を書いたりしている。
Blog という枠組みで見たら今でも書き続けているのだ。
ではなぜ「rerofumiのつぶやき」は更新が止まってしまったのか。それは、いくつかある Blog の役割に理由がある。

昔はただの WEB 日記とその延長で書いていた等サイトだったが、いつのころからか単なる日記ではなくその場その場で考えていることを綴った「コラム」的な記事になっていた。エッセイとはまた違うなあ、やっぱコラム?
そういった考えていることを記すという役割がこの「rerofumiのつぶやき」にはあった。
ある程度時代や事象を盛り込んでいるのは、後年見返したときに「ああこんな事があった時代だったなあ」とわかりやすくするためで、基本的には時事的なものは省いている。
工作記事とかは、誰かの役に立つかも知れないからナレッジベースとして残しておこうという目的があるし、ニコニコ動画の作品解説などは自叙伝的な小さな歴史を記録しておくといった目的がある。
ではコラムはどういった目的を持って書いていたのだろうか。
そう考えると、これはやはり「俺はこう考えているんだけれども、どうだろう?」という提言に対するみなさんの反応を見たくて書いているのではないかと思う。反応と言っても直接的なコメントばかりではない、はてなブックマークでのブックマーク数であったり、Twitterでの読んでいるよリンクであったり、どっかのサイトからリンクが張られていたり、そういった裏のアクション全てが反応である。
自分がこうじゃないかなと思ったことに対して記事を書く。読む人が多かったり、リンクが多かったりするとそれだけで記事の内容が肯定されていることになり、ああやっぱり正しかったんだという感触を得る。
逆にまったく反応がなく読む人も少なかったら、あら違ったのかしらんと思い謙虚な気持ちになる。
直接的に否定的なコメントはあまりないけど、否定的なはてなブックマークコメントがあったりすると「そうなのかー」とか「そう思う人も居るのかー」といった感じで勉強させてもらう。

ナレッジベース構築を目的とした記事ではなく、そういった反応を目的とする場合 Blog より Twitter とかの方が反応早いのでやっぱりそれで書かなくなったのだろうか。いや、やっぱり違う。
コラム的な文章というのは、自分の体験や思想を書き記して反応を見るものである。反応を貰う部分で Blog は直接的ではなくなったが、まだできないわけでない。どちらかというと「そのとき考えている事を書く」という部分に勢いがなくなってきたようだ。
「私はこう考えているんだけれどもどうだろう?」と問題提議して、皆の反応を見る。この問題提議の部分では「俺はこう思っているんだがどうだ!」という「どや顔」をする必要が多かれ少なかれある。
この「どや顔」をしてまで主張したい意見というのを最近はあまり持たなくなってきたようだ。というか「どや顔」しなくなったというか。

「どや顔」をしてまで世に問いたい事があるというのであれば、今でもこれからも Blog を書くのではないだろうか。少なくとも私自身は Blog というメディア、この「rerofumiのつぶやき」という場が不要だとは思っては居ない。
といっても文章を書くというのは体力と時間を使うものである。
そのめんどくささを乗り越えてまで「どや顔」をしたくなったときに、また何か文章を綴るのであろう。



誰でもクリエイター時代の終焉

AMDがハイパフォーマンス系CPUを作らなくなるかも知れないといった噂の記事があった。
これ自体は微細プロセス製造の行き詰まりとファブの取り合いといった複雑な状況が絡んでいるという見方だが、それ以前にキャンセルしても良いくらいにハイパフォーマンス系CPUは望まれていないんじゃないかと思う。
じゃあ、自前のファブで微細プロセス製造を引っ張っている Intel 独占の時代になるのかというとそういった雲行きでもなさそうで、Intelサイドの記事には微細プロセスをあくまで省電力化に使うような話しか沸いてきていない。
「ムーアの法則はまだ健在だよ!」とかみんな強がっていたけれども、これ以上のプロセスの微細化は毎度苦労している様だし、なにより大規模チップと大量電流でパワーコンピューティングをぶん回す様なプロセッサを求めなくなってきたのが市場を見ていても良くわかる。

私なんかは、コンピューターを使って「何か作る」ことが大好きなので PC でできるあらゆる事を体験したくて色々と手を出している。
3DCAD に 3DCG、動画編集にプラグインを山ほど刺したDTM。そういった負荷の高い作業を時たまやるのでパワフルなPCが欲しいと思うし、実際 6コア12スレッドの Core i7 を使って負荷100%で回すようなことを良くやっている。
しかし、そのことに対し「いいね!」という人は居なくなった。周囲の仲間やプログラマーを見ていても 4コア以上が必要だという人は見かけない。特にプログラマーは、よっぽど大規模演算が目的な人で無い限り「今あるPCで十分」と言うようになってしまった。
そのこと自体は良くわかる気がする。

PCはなんでもできる魔法の箱であった。
それ故、新しいことはPCからやってきたし、新しい流行っている事をやるのにPCが必要だった。
しかし、多くの人にとってはPCは大仰すぎる存在であったことも確かなのである。ゲームをするためにPCを導入する必要があったころ、電子メールをやるためにPCを導入する必要があったころ、WEBブラウズをするためにPCを導入する必要があったころ。そんな目的のために、複雑なOS設定やクラッシュするPCと辛抱強く向き合う必要性があった、そんな時代もあった。
今後はスマートフォンやタブレット端末と呼ばれるパーソナルデバイス(PD)が、それら多くの人の需要を満たしていくのだろうということを以前の記事で書いている。
あらかたそのように変容しているけれども、その時点でもそうだし今でも「PCが無くなることはない」と考えている。
単に、これまではPCを必要としてない人まで買っていたというだけで、PCが必要な領域というのはあるし必要としている人は居続ける。

ただし、必要としている人の数は今のPC出荷台数よりは遙かに少ない数字であることは想像に難くない。
なので、PC、特にハイパフォーマンスPCの類は今後どんどん出荷数が減っていくのと同時にとても高価なプロツールズとなっていくと見ている。

インターネットをするのに必要ですよ、年賀状も作成できますよ、みたいな半分嘘っぽい広告が乱舞してPCという高性能計算機が各家庭に入っていったのは素晴らしいことだと思う。ふとしたときに、当初の目的以外でPCを使ってそれがとても便利だということに気がつくことができた。
PCで文庫1冊分の小説を書くことも容易になったし、音楽や映像のクリエイターとして作品を作りデビューすることもできるようになった。
それら色々な「個人の手で創作する」ことを後押ししたのが、個人に普及したPCの存在とそのPCの高性能化が生み出した現象だと思う。
作って、公開し、評価を得る、といった一連の流れをPCとインターネットが生み出してきた。

プログラミングの世界ではもはや特殊なプロツールズは存在せず、アマチュアでも第一線と同じツールや環境が手に入れられる様になっていると言うことについては以前の記事で書いた。
PCが作ってきたのはそういった「誰でも製作側に立てる」という夢のような環境なのではないだろうか。
個人が MAKER になって小規模市場を構成する、といった未来絵図もPCの存在が前提になっていることが多い。

そのようにPCは「作る」側に非常に便利な道具となっている。
一方対抗勢力であるPDは「作る」方向にはあまり向いていない。消費に特化したデバイスである。
わかりやすいところでは、iPhone/iPad のアプリを開発するのに Mac が必要というあたりだろうか。Android ではAndroid機の上でプログラムの作成&コンパイルができるAIDEなる環境が存在はするが、あくまでできるといった範囲でひとつのアプリを完成させるには少々辛いところである。
現時点のPDはその上でプログラムを創造し配布するというアクションには向いていないと思う。

今の若者は恵まれていると思う。プロが手にする製作ツールであるところのPCと同じものが手元にあるのだから。
プロが使うアプリそのものは高価で入手しづらいかもしれないけれども同等のことができるフリーウェアに出会えるだろうし、何よりお金を出しさえすればプロと同じアプリを入手することができる。どんなにお金があっても入手することができないプロワークスと、お金さえあれば入手することができるの違いは意外と大きい。
本気で目指したいところがあるのならばPCがその近くまで連れて行ってくれる。あとは努力か才能か。

だがそういったPCのアシストを期待できるのは今のうちだけである。PDが定着し、多くの人にとって十分なサイズのコンピューティングにダウンサイジングした後はPCとPDで「作る人」と「使う人」に明確に分離する。PDの上での作成は今以上にしぼんでいくのでは無いかと考えている。
おそらくはPDに移行しきってPCが一般の人のものじゃ無くなったとしても、アマチュアは何かを創造しつづけるだろう。だが、そのときはプロと同じツールではなく、ユーザーサイドとして制限されたPDの上で表現できる範囲での新しい形のコンテンツとなっている。
携帯電話という限られたツールで、その中に特化した「携帯小説」なる表現方法を生んだ様に。

いずれはPDでの表現がこれまでのメディアや製造を凌駕し、既存のプロダクトが不要になっていくのかもしれない。そのときは、文化の変わり目なのでPD上の新しい分野に適合していくのだろう。
だがそれまでは。プロがPC上で製造開発をしてアマチュアがPDで消費をするといった構造が続く限り、生産をする側であるプロを新しく生み出し続けなくてはいけない。PCが入手困難になっていき若者がPCに触れることが困難になっていくのならば、プロの数も減っていき構造は崩れ去る。

プロやクリエイターを目指すのにいまほど適した時代はない。



とあるアニオタのテレビ録画環境 2012年度版

これは「とあるアニオタのテレビ鑑賞環境、2009年度版」
の最新記事、みたいなもんです。

最近は深夜アニメの類いが減ってきたといわれているが、それでもまだ1シーズンに20本以上のタイトルが存在していたりする。
そして、10月を目の前に秋のアニメ新番組ラッシュが迫ってきておりそれを捌くためにちと環境を考え直そうかと思ったのであった。

2009年度版のときに DTCP-IP 上の DLNA 経由でチューナーとストレージを分離する形のスカパー!HD録画を紹介した。
開始当初は不安定なところもあったけれども、ソニーのBDレコーダーでバージョンを積み上げたのと、IO-DATA の録画用 LAN接続ハードディスク HVL-AVR の使い勝手がなかなか良くスカパー!HD の録画はこれでだいたい決まりといった風情になっている。
まあ IO-DATA の方はネットワークの都合で録り落とすことがたまにあるっぽいけど、それでもカセット式 HDD にざくざくストアしていけるのは便利この上ないしライブラリの体積がものすごい小さくてすむ。
この HVL-AVR での経験から来期のアニメエアチェック体制を検討していくことになる。
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長時間ゲームをする理由を考える


『圧倒的遊戯ムゲンソウルズ』というゲームを久々に遊び込んでいる。
個人的な感覚では総プレイ時間が100時間を超えると「あ~遊びこんだな~」という手応えを得るようだ。それは多分、他の途中で投げ出したゲームが大体 20時間未満とかだから 100時間も行けたら存分に何かを超えていると判断できるからなんじゃないかと思っている。

ムゲンソウルズはジャンルとしてはRPGで、美少女絶対神『シュシュ』が8つの萌え属性を表現する姿に変化して世界各地を萌え落として全てを下僕にしていく、といった割とアレな感じの設定。シュシュのピンク色したちっこい姿は「わがまま」属性で、その他7つの属性に変化していく。そんな設定なので登場人物が全てアレな感じの性癖や性格を持っていてドタバタギャグとして結構楽しい。
実のところあまり情報を得ないで買ったので、そんな内容だったのかとプレイを始めてびっくりした経緯がある。これはこれでかなり楽しいので個人的に当たりではあったのだが。
そんなゲームをなんで買ったのかというと、キャラとかストーリーとかの前にゲームシステムが超ヤリ込み系でツボりそうだったからなんですな。
私をよく知る人は、日本一ソフトウェアのゲームが大好きで『魔界戦記ディスガイア』を良くプレイしていることをわかっていると思う。そのディスガイアシリーズとは関係がなく、制作会社も違うのだけれどもだいたい同じような路線で作られているシステムというあたりに興味を持ったのである。
佐藤天平氏が楽曲提供をしていたりするのでディスガイアとスタッフがかぶっているようなことを言われているようだけれども、実際は一部にゲスト参加的なニュアンスっぽい。佐藤天平氏の楽曲も OP/ED 以外は10曲と2割ぐらいの参加率となっている。
正直完成度とかお勧めしにくいところはあるのだけれども、そういったバランスの歪みってのは逆にゲームの魅力だったりするのでこれはこれで良いのです。後は自分が気に入るかどうか。

そんなこんなで始めたムゲンソウルズだけれども、ヤリ込みインフレゲーとしては割と期待通りでダラダラと遊ぶことができる内容になってる。
大体 50時間くらいかけて Lv100~200に達したところでストーリーモードを終えることができて通常EDで1周終了なのだが、ここまでがチュートリアルで本番はこれからといったディスガイア的な遊び方ができるようになっていく。
ゲームシステムやボーナス要素は正直複雑で全然理解できないし、それらを使わなくても1周クリアできるのだけれども、その先稼ぎや育成といったターンに入るとこれら無駄に見えたシステムやパラメータが全て必要になってくる。そして、おーそういうことかとか言いつつ新しい稼ぎルートを見いだして更なる高見へと上っていくのだ。
この手のヤリ込みゲーにはおなじみの汎用キャラクターと育成のための転生もあって、これがまた蟻地獄的な要素だったりする。転生はキャラクターを鍛えるために転職やパラメータ引き継ぎを行うのだけれども、そのときに育てたキャラクターのレベルが 1 に戻ってしまう。ヤリ込みに慣れていないと「レベルが1に戻るなんてとんでもない!」と思うかもしれないけれど、慣れた者にとってはレベル1からのやり直しなんて日常の行為である。
最初の1周のときは 50時間かけて Lv100 まで育てているけれども、それを超えて Lv1000 に達した頃には、Lv1からLv100まで育て直すのには 5分くらいしかかからないようになっている。そういった効率的な稼ぎや育てパターンが次々に確立していってガンガン転生してパラメータがずんどこ上がっていく作業を楽しむようになっていくのだ。ディスガイア3の時は最終的にカンストする Lv9999 のキャラをLv1から作るのに30分くらいしかかからない位になっていたしなあ。

そういう意味でヤリ込みゲーにおけるストーリーモードというのは幾分邪魔な存在である。
多くのRPGのストーリーはテイストが決まっているので、口に合わない時は結構つらい。しかし、汎用キャラクターを育てるというのはそういった枠から外れたところで楽しめるので全く別の存在である。
そしてその汎用キャラクター育成が楽しいのがヤリ込みゲーの良いところなのでは無いだろうか。
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ニコニコ動画との出逢いを教えて下さい

ザ・インタビューズに質問が来ていたので返答を書いたのだけれども、どうやら絨毯爆撃なテンプレインタビューだった様なのでBlogにも掲載。
ちょっと気合い入れて書いてしまいもったいないので。

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お話としてはずずずーーっと遡って 2003/08/23 の事になります。
「ふぁふぁファクトリー」というアニメレビューをメインとしたサイトを日記のようにやっていたのですが、そこと「Linux萌え萌え大作戦」というLinux系開発サイトの間で “VirtualSynchroChat” というWEBチャットページを開発し公開していました。
アニメ視聴の際に実況チャットをすると楽しいというのはパソコン通信時代からの定番であり、その楽しさをとてもよく知っていました。ですが、深夜アニメが主流になっていくに伴って実況チャットがやりずらい状況となっていきます。まず第一に、地方局では放送の日時が異なります。第二に、レコーダーに録画してみるタイムシフト視聴が当たり前になってきたこと。この二点から実況チャットがやりづらい状況であることを問題視していました。
そこで “VirtualSynchroChat” という時間軸をずらせるチャットルームを作成しました。
アニメが始まるタイミングでポンとスタートを押すと、以後時間が経つごとにログが表示されます。自分が発言をするとスタートボタンを押してから何秒の地点での発言かというのを時刻付きでログに記録し、それ以降の人が同様にチャットを始めるとコメントが発言時間に表れるというものです。このようにみんなで時間差でコメントを重ねていくことであたかもリアルタイムで実況をしている様な状況が作り出せるのです。
感の良い人はもうお気づきですね。「ニコニコDVD」とほぼ同じシステムです。

インターネットの発達で、情報の蓄積ができるようになった、距離を超越することができるようになった。じゃあ今度はサーバーへの蓄積に因る『時間の超越』が行われる時代だろうと当時は考えていたのです。
流石に私の様な名も無い人間がインターネットの端っこでひっそりと公開していたサービスなど日の目をみるわけがなく、VirtualSynchroChat は2004年末以降特にメンテナンスをすることもなく埋もれていきました。
しかし、VirtualSynchroChat のアイディアや疑似タイムシフトによるエモーションの同期という時代は絶対やってくると確信だけはし続けていました。

2006年12月末、当時はまだ2ちゃんねる管理人として名が通っていたひろゆき氏が自身のブログで「このサイトちょっと面白いんだけれども」という大胆なステマを行い話題となりました。「ニコニコ動画(仮)」が初めて世間の目に触れた瞬間です。
当時は Youtube にコメントを重ねるというシステムでしたが、VirtualSynchroChat 開発者として何をやりたいかはすぐに理解ができました。そして、同期のためのタイムラインソースを Youtube から持ってくるというアイディアに感服し凄く悔しい思いもしました。そしてこれは絶対に面白いぞと目をつけます。
ですが私もひねくれ者ですので、自分が成せなかった事を成功させたニコニコ動画に軽く嫉妬してしばらくは寄りつきませんでした(笑)。
そうこうしているうちに流行に敏感なサイトの人たちの間でニコニコ動画が定着していきます。2007年2月あたりになると「レッツゴー!陰陽師」と「テニミュ」がヒットコンテンツとして確立していました。あまりにも盛り上がっているので「そんなに話題ならみてみるかな」とそれら話題のコンテンツをニコニコ動画で視聴したのが実質初めての体験です。
そのとき初めてみた「弾幕」にいたく感心し、エモーショナルの時間軸共有というものがどれだけ面白いかを再認識しました。

さてそうこうしているうちにニコニコ動画が Youtube から閉め出され、smilevideo を自前で立ち上げます。
ここでようやく日本の投稿動画サイトが誕生します。
全然関係がないのですが、このとき私は「コメを噛め」という電子工作ブログの方で半田付け実演ビデオというものを作成していました。電子工作を再開して色々わかったのですが、最近は半田付けのしかたを知らない人も多かったのです。そこで、入門者に『半田付けはこうやるんだよ』ということを知ってもらううまい方法としてショートビデオが使えないかと考えての事です。
まあ自分のブログに張る事はできたので目的は達成できたのですが、じゃあこのような自作解説ビデオのようなものを投稿できるベストな場所は無いかと探し始めました。権利的に問題の無い自作ビデオを久々に手にしたので、その頃いくつか立ち上がり始めていた Youtube 後追いの動画投稿サイトを試してやろうと思いついたのですね。
結果、ニコニコ動画以外はあり得ませんでした。
まあ、パナソニックやソニーのビデオカメラCMを見てるとわかるのですが、通常個人が撮影するものは家族のビデオだったり友達同士で撮影するといった『仲間内の記念撮影』であると定義されちゃっているのですね。それが有象無象の動画投稿サイトでも同じだったというと伝わるでしょうか。自分が取った身内の動画を、ネットで知り合いに見せるといったユースケースで閉じてしまっている。
私が目指すのはそこじゃ無かった。エンタテイメントコンテンツを自作して不特定多数に見てもらいたかった。
それに適した『場』がニコニコ動画しかなかったのです。

こうして投稿した初めての動画が
「スクロールクロックキットの作成」 (https://www.nicovideo.jp/watch/sm65811)
になります。
前述の通り、この動画は前もって自分のブログ「コメを噛め」で公開していたものの転載となります。

こうしてニコニコ動画に初投稿をしたわけですが、同時に一つ大きな野望を持っていました。
ニコニコ動画、ひいてはすべての動画投稿サイトが成功するのに一つ必要な条件がありました。それはテレビや映画からの不正転載ではないオリジナルな動画コンテンツを必要としているところにつきます。当時はニコニコ動画も Youtube もほとんど既存メディアの不正転載ばっかりでみなそれをお目当てにアクセスしているという状況でした。
Youtube はまだホームビデオが良く投稿されていたので新しいメディアの形を見せていましたが「日本人は顔出ししたがらないので動画投稿は成功しないだろう」というのが当時の定説となっていました。
かつて VirtualSynchroChat を思いついた身としてニコニコ動画はイケると思っていたというのは書きましたがそれ故思い入れもあります。このサイトが大成し、健全かつ新しいメディアの道を歩むためにはアマチュアが自主製作したコンテンツが必要であり、それが評価されるようにならなくてはいけない。そう考えていました。
そこで「動画投稿サイトにおいて素人の自作動画は受け入れられるのか」を自身の手で検証していこうと、権利的に問題のない自作動画を作って投稿を始めることになります。まあ、当時でも『描いてみた』は人気のジャンルだったのですが、そこは踏み込めないので自分の得意な分野でオリジナルな面白い動画を作れないかと日々考えを巡らせていたといった案配です。

後は大体ごらんの通りというか、なるようになっていきました。
今でこそ、ボカロオリジナル曲や動画、ニコニコ技術部動画などそこでしか見れない自作動画が沢山投稿され、当たり前の様に皆でそれを評価していますが、これこそまさにあの頃夢見ていた光景だったのだと思います。

ニコニコ動画上で「不在通知P」というP名をもらいある程度認知されたところでブログを書いたところ、ドワンゴの戀塚さんに「不在通知Pって VirtualSynchroChat の作者だったのか」というコメントをもらいました。
ああ、ニコニコ動画スタッフはあれを知っていてくれたのか、とちょっぴり幸せな気分になった次第です。

過去の関連記事: https://www.fumi2kick.com/rrtalk/archives/953



小ロットの時代を先行する専業同人

『専業同人』という言葉がある。
出版社契約せずに同人誌を売るだけで生活しているマンガ家の類の事を指している。時たま商業誌に書いているけれども、同人誌の方が活発だという人も多い。
そういった人たちは大衆人気というわけじゃないから部数も収入も大手出版会社の人気作家とは比べるべくもないんじゃないかと思うのだけれども、それなりに暮らしていける程度には回っているのだろう。

青年向け漫画とかだと数万部とかそんな数字になってきておりずいぶんと苦しい業界になっている様だ。
話を聞くとやっぱり、連載で描いてもたいした収入にはならないので同人誌を作って行くしか無いとかいう。まあ、ずいぶんと前からずっとそんな話をしているので、やっぱりそうだよなーといった感じである。

はて?ここは「そういうものだ」で済ませるところなのだろうか?
論点は『売れない作家』とかそういうところではない。「雑誌に書いていると儲からなくて、同人誌を作って売った方が儲かる」というところである。
携帯向けコミック配信も言うに及ばずで、パイが小さくなりつつあるので薄利多売になってきており原稿料も驚くほど安くなってきているとか。
まあ売れないならそのまま市場が消えていくだけなんだろうけれども、漫画業界には『同人誌即売会』という場と風習がたまたま存在していた。そして、セルフリスクで本を製作し、売ることができる。また、同人誌を中継ぎしてくれる流通業者も(善し悪しはともかく)存在している。
製本と流通が作家個人の責任で行える『小さな市場』がもう既に存在しているのである。

ここで注目すべきなのは旧来の出版流通システムより、小ロット個人生産のほうが『まだ儲かる』と断言している人が既にいるところなのではないだろうか。
もちろん日本全国の大衆に向けて生産、配送、販売するという従来の出版システムは必要だし無くなりはしない。販売数も商売としての規模も大きいため、個人がそれにかなうことは無いだろう。
しかし、大衆を顧客とする必要が無い場合。300人から1000人程度を相手すれば暮らしていけるという、小さな規模で良い場合もあるだろう。マニアうけだったり、特殊嗜好だったり、あくまで作家個人のテイストを好いてくれるファンであったり。
そういった小さな市場でうまいことやっていくというのは有りだと考えている。
チェーン店ではなくて、個人経営の定食屋といった業種形態である。

漫画の世界は既に『小さな市場』の可能性というか、実際にそこで暮らしている人がいると表現できるのではないだろうか。
これまでも語ってきたように、大量生産の工業製品だけに因らない、個人工場の小さな市場も取り入れた生活になっていくと考えている。
この同人誌を軸にした漫画業界の広がりは、他の娯楽産業でも起こりうる。
東方アレンジやボカロブームは音楽出版会社に因らない音楽市場を垣間見せてくれている。
ゲームも実は市場が小さくなったジャンル(STGとか)から徐々に同人業界へとシフトしてきている。

ソフトウェア全般も実はそんな感じで、パッケージソフトは激減している反面オンラインソフトは作られ続けている。
これまで流通そのものはオンラインで飛躍したものの、購入や資金の移動がうまく行かなかった。
そこをエイヤっと乗せてしまったのが Apple Store であり Android Store である。
小売りソフトという土壌を作ってくれたのはありがたいけど、プロもアマも同じ土俵にドン!というのと、小さなソフトが小さなクラスタを形成する仕組みが今ひとつ整っていない。

そんなこんなで、超一流しか従来の産業ルートとして成り立たないというのは今後もますます加速していくと思う。
その反対で二流三流が身の丈に合った市場規模を形成するために、小さな市場と小さな流通を形成していくのだろう。
そのときに小さな市場と流通を支えるのが、ネットの力であり情報の力なのだと思う。

そしてその『小さな市場』がハードウェアのほうにも広がっていくのだろう。



コンテクストレベルとテキストのあり方

THE INTERVIEWS というソーシャルっぽいテキストSNSサイトが話題になっていた。
誰かからの質問に答えてその回答をテキストと1枚の画像で表現するという情報ロギングタイプのサイト。特徴としては応答者を知っている誰かからの質問のみで構成されているところと、誰が質問したかは絶対に明かされないところ。これによって質問者は相手が著名人であっても気軽に質問することができるし、応答者にとっては質問に答えるという心地よいアクションのみを得ることができるという仕掛けらしい。

最初にそのサイトを知ったのは2011年9月に入ってすぐの事だったと思う。Twitter上で質問に答えたよとか質問をくださいとかいったtweetが散見されるようになってきた。
主にネタ系クラスタが最初に飛びついて使っていて、(知らない人から見たら中傷にしか見えないような)ボケた質問とそれをうまく受け流すとぼけた回答をしているというのがそれなりに楽しそうに見えたのである。
このネタクラスタの使い方、遊び方を最初に見てしまったのが私の中でのTHE INTERVIEWS評に繋がっているのである。
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キャラクターイラスト絵師のような声

ダウンロード音楽販売のサイトをうろうろしていたら「電車で電車でGO!GO!GO!れぼりゅ~しょん」なるアルバムが売られているのを見つけた。
寡聞にも知らなかったのだが、2008年秋頃に「電車で電車でGO!GO!GO!」の萌えポップカバーとして発売されたアルバムらしい。UFO子(うほこ)の「スペースインベーダーエクストリーム2」が2009年なのであのころのタイトーはそういった路線だったのだろう。
「電車で電車でGO!GO!GO!れぼりゅ~しょん」聞いてみるとなんだか癖になって気に入ってしまった。いかにもな萌え声なので受け付けない人も多そうだけれども、エクストリーム2の InvaderGIRL! と同じくよくできた楽曲にリズミカルサンプルなキュートボイスが心地よい感じ。

んでまあ、個人的にこの電Goれぼりゅ~しょん、InvaderGIRL! とセットで見てしまうんだけれども、どっちもひじょーにクセのあるキュートボイスが耳について離れないあたりに色々と感心しつつ聞いてしまう。
なんというか、いかにもな「可愛い萌えボイス」といった風情なんだけれども、それがサンプルとして連打されていると特徴点が際立って見えてくるとかそんな感じ。
とにかく『ごぉー↑』だの『えくすとりぃむぅ~↑』だの語尾がどこまでも上がりまくる。ほとんど通常の発音ではないくらい。でもその特殊な語尾の上がりがとてつもないかわいい系といった雰囲気を作りだしている。
こういった輪郭や特徴点を抽出してなぞることができれば、萌え系ボイスのテンプレートができあがるのではないかと考えてしまう。そのへんは過去記事「音のデフォルメについての考察」も参照していただきたい。

「電車で電車でGO!GO!GO!れぼりゅ~しょん」の方は『歌・枕木三姉妹』とあって「誰やねん」と思ったが、中の人は民安ともえ、成瀬未亜、壱智村小真といったメンバー。あー、なるほどねと思った。
ちょびっと言葉を選ぶけれども、いわゆるゲーム系の声優さんというのは最近独特な芸風をもった役者さんになってきていると思う。ある意味最先端。
良く『アニメ声』なんて表現があるけれども、アニメーションってのは割と幅広い演技が必要で本当に『役者』として広い範囲をカバーする必要があると思っている。くぎみーだのゆかりんだの萌えキャラ声が有名な人でも「そういう役もできる」という手広い範囲の一角。なんでかというとアニメはそういった続いた時間を演技するので通常の舞台と様式が似通ってくるからじゃないかなあ。
一方ゲーム系はアニメとは違った密度を持ち始めている。本当に濃い部分、おいしい部分、特徴的な部分をさらにこってりと煮詰めて『そこだけ』を提供することが可能である。なので、それに特化した演技というのが発展できる可能性がある。
なので『萌え声』というキャラクター性をもった声質というのがゲーム声優によって形作られつつあるという論を語ってみたい。

キャラクター性のある声というのはどう言うものかという定義からする必要があるかもしれない。
声を聞いただけで誰かわかるとか、声の演技で雰囲気を作り出すとか。通常ストーリーのあるアニメやドラマを超えでやると状況の中で声を出すけれども、声があるだけで存在感がある声優さんというのが居る。八奈見乗児とか、若本規夫とか。あまりにも存在がたちすぎていて、声のフォルムが形作られるとギャグっぽくなってくる。逆にギャグものをやるには、声がある程度のフォルムを持っていないといけない。これが声におけるデフォルメなんだと思う。
それと同じように『萌え』ものをやるにも、声をデフォルメしてある程度の非リアルさに持って行く必要があるのではないだろうか。単純に声が高くてキャピキャピしてればよいというのではなくて、存在感のある非現実的な演技を伴った声でなくてはならない。色々な演技もできてそれもできるというのは一流の仕事だが、そのデフォルメ声に特化した演技が得意というのも世界としては在りかもしれない。それがゲーム系の声優さんなんじゃないかと思う。

で、そんな萌えだのなんだのといったデフォルメ演技に特化できる役者さんは何かというと、絵師と呼ばれるキャラクターイラストレーターみたいなものじゃないかと思うのだ。
昔は漫画やアニメが第一線でそこからすべてが生み出されてきていた。キャラクターとか絵柄とかも。
しかし、80年代以降『イラストレーター』と呼ばれるキャラクター絵をメインとした絵描きがもてはやされるようになる。キャラクター絵は皆が注視するところだし、背景や中割といった実力を必要とする作業をせずにそこに注力するだけでよいので多くの人が志望したくさんのクリエイターが生まれた。
とすると、今度はそのイラストレーターが生み出すキャラクターや絵柄が最先端になってきたのである。
漫画はさほどではないけれども、アニメはその人気絵師の絵柄を取り入れるまでに2クッションくらいの時間を要する感じになってきている。というのも、大勢で作るものだから、みんなで描けるレベルの絵に抽出できないといけないんだよね。そのうち流行の絵柄を取り入れて近づいていくんだけれども、ちょっと時間がかかる。
それに比べるとゲームはダイレクトに流行の絵師を起用できるジャンル。または、ゲームで絵師がブレイクしてその絵柄が流行になったりとかいった側面も持っている。これはキャラ絵だけ抜き出して特化しても作れるジャンルをゲームは持っているからなんだろうと思う。
まあ、そんな感じにゲームと絵師はなんだか独自に先端を走って、その先端がたくさんあって、いくつも消えていくけれどもいくつかの先端は確実に時代の流れを作っているとか、まあそんな風にみている。
で、同じくゲーム声優というジャンルも、キャラクターイラスト絵師と同じく特定のフォルムだけに特化してそれを先鋭化していく分野なんじゃないかなと思った。

キャラクターイラストと同じようにキャラクターボイスも流行の声質や演技というものを次々に生み出して、そしてそれは非リアルなものだけれどもなんだか可愛いくて良いものとして確立していくのだろう。
そしてそういった先に次世代のキャラクターが存在しているのだ。



プログラマーを超えるプログラム

http://twitter.com/ruripeco
自作の乱作文生成bot の「るりぺこさん。」が稼働して1年半近くにもなる。ここ半年はプログラムの更新を行っておらず特に目立ったアルゴリズムの更新もないため、ほとんど放置状態なのだけれどもそれでも毎日『おっ、これはなかなか』と思わせる珍文章をつぶやいているため作った本人が割と楽しく眺めている。
まあ、乱数作文なので意味が通らない文章ばかりなのだけれども、それでもなんとなく意味があるようでないようなところとか面白いと感じる部分はあるように思う。
しかし、この「作者が見て面白い」というのはずいぶんと奇妙な構図にも思える。
プログラマーがプログラムを作った以上、それを作ったプログラマが意図する範囲でしかコードは動けないものなのではないだろうか。作者が作成して意図しない動きをした場合それはバグと呼ばれる物なのではないか。
本当にプログラムがプログラマーの意図を超えて動作するなんてことはあるのだろうか。

作成したプログラムがプログラマーの意図通りに動かない、予想を超えて動くという状況にはどのようなものがあるだろう。

    ・意図した動作をする様なコードが書けていなかった(コードのバグ)
    ・仕様に不備があり、特定のパターンが策定できていなかった(ロジックのバグ)
    ・仕様を超えた範囲で動作した(仕様の不具合)
    ・動作そのものは規定だが、入力と出力が任意である

上の3つはバグなりミスの範疇だが、最後のひとつはそうではなくソフトウェアとして正しい挙動となる。
例えばコンパイラなどでアプリケーションをコンパイルする作業はプログラムとして正しく動作しているものとなる。ただし、その結果できた素晴らしいアプリケーションはコンパイラのプログラマが意図したものではない。コンパイラのプログラマの成果でもないし、コンパイラに不備があったわけでもないが、ユーザーはコンパイラを使ってコンパイラの作者の想定を遥かにこえたアプリケーションを生みだすことができるだろう。
同じようにワープロソフトを使って直木賞作品が書かれたとしても、それはワープロソフトのプログラマの意図とは違ったものであろう。
これを全部ひっくるめてプログラムが引き起こした物と定義できるのなら、プログラムが作者の意図したとおりに動きつつ意図しない成果を世界に影響することができると言えるかもしれない。

プログラマーはしばしば、コンピューターやコードの中で自分が神にでもなったかのような幻想に酔いしれることがある。というかありがちな気がする。
問題をモデリングし、演算解決の道具であるコンピューター記述言語に落とし込み、おおよその事象を演算にまで分解して自分が意図した結果を表現してみせる。コンピューターはプログラムで記述した通りに動くから、プログラム自体がプログラマーの力量を表した物であり結果を導き出したのはプログラマーのおかげであるという。
まあそれは問題をモデリングした範疇では正しいかもしれない。
だからといってプログラマーが絶対かというとそういうわけではないだろう。あくまで限定された観測範囲でのお話で、そのへんは問題モデリングの専門である数学屋さんや物理屋さんと似通ったようなものかもしれない。

でもプログラムはミスひとつで経済を崩壊にまで追いやることができるし、死者を出す可能性もある。そこまで範囲が広がる可能性があるのなら、世界を変えることもできるかもしれない。
しかし、それにはプログラムが動作する仕様範囲と「それ以外」の認識が必要なのではないだろうか。
コンパイラの例がたぶん一番わかりやすいように思う。
プログラマーが作製したプログラム自体は規定の動作をするのだけれども、それに何をさせるかというソースを与えて結果を生み出すのがプログラマーではない他者であるという構図。プログラマー以外のものがソース提供をするといった関係性。それこそが、プログラマーを超える動作をさせるということの注視点なのだと思う。
なぜそのような事になるのかというと、コンピューターやプログラムが動いて成果を出すという流れがずいぶんと複雑になっていて関与する物がアルゴリズムやプログラムコードだけでなくなっているからである。
プログラミングも構造化して、オブジェクト指向化して、データ指向化して、今やコードはデータやデザインのおまけみたいになってしまった。アプリケーションという箱物が売れなくなり、大量の情報とネットワークがお金を生みプログラムはそれを支える仕様のひとつになってしまっている。

だからどうという悲観論とかそういった話ではなく、そのような沢山の人とデータを上手く取り入れるようにすることでプログラマーの技量以上の成果を出すプログラムを作れる様になるのではないかという見解を示したかった。
成長するプログラムというとなんだかまだSFの世界のお話みたいだけれども、SNSとかいったソーシャルアプリケーションサイトの発展というのはだいたいそういった視点なんじゃないかと思う。サイトデザインそのものは仕様のままなのだけれども、そこに集まった人たちが思い思いに利用を始めて驚くような展開と成長を始めたりする。
そこに自己成長といった視点を持ち込めば十分に人工知能的な世界を見いだせるのではないかと思う。いかにして人工知能的なスフィア空間を拡大させていくか、昨今のモノ作りにはそういった環境全てを包括した視点が必須となる。
別な見方をすれば、ネットワークと莫大なデータを与え続けることで大なり小なり成長するプログラムを作れるだろうし、それがやりやすい時代になってきている。
自分で作ったプログラムが成長して作者を楽しませてくれる、それはおしゃべり型botが見せてくれる本当に小さな成果だけれどもプログラマーを超えた何かに変貌したということを見せてくれる瞬間。
「るりぺこ。」さんはそんな世界をほんのちょっとだけ垣間見るための手習いなのです。




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