ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『パンタグリュエル ガルガンチュアとパンタグリュエル2』フランソワ・ラブレー/宮下志朗訳

共同条理の原理の嘘

・・・かの哲学者とアウルス・ゲッリウスが述べているごとく、われわれは常用の言語を話さなくてはいけないのだ。(6章、p.84)

<<感想>>

以前の記事をお読みいただけたからなら早速お気づきいただいたかと思うが、岩波版を箱付きで全巻買っておきながら、渡辺訳に挫折した。

というよりは、ちくま訳に対する欲望と興味が抑えきれずに、ついつい新訳(といっても2006年発売、そしてHSJM、そして訳者は1946年生まれ)を買いに走ってしまった。

ネット書店では残念ながら1巻を除いてほぼ品切れのようだ。しかし、運良く近所のLIBROに在庫があり、買い求めることができた。―3巻を除いて。

いったい、発売から10年も経っているのに、こんなマイナーな書籍の、しかも3巻だけ買っていくなんてどういう事態だろうかと、あちこち探してくれた売り場のお姉さんと苦笑した。

結局、必至の捜索の末、関東圏内ではTSUTAYA系の書店に唯一1冊実在庫があることが判明した*1。さっそく近所の店舗に送ってもらおうと電話をしてみた。

するとなんとびっくり、当該店舗では対面販売しかしていないとのことであった。仕方なく、1時間半ほどかけて電車を乗り継ぎ、ようやく全冊揃えることができた。

懸案だった奥さんは、怒りも呆れもせず、もう慣れっこといった態で、機嫌よく送り出してくれた。

 

ということで今回は、内容面の感想はほどほどにして、翻訳の差にも少し論及してみたい。

 

さて、今回の感想で取り上げたいラブレーの特徴は、その作品のメタフィクショナルな部分だ。

wikipediaでメタフィクションを調べると【参考リンク】、真っ先にスターンの『トリストラム・シャンディ』が挙げられている。いうまでもないが、文学史的には『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は、『トリストラム・シャンディ』の直系の祖先である。

 

では具体的に本作のどういうところがメタフィクショナルかといえば、描くこと、論ずること、書くこと、物語ることそれ自体に対して、作者ラブレーが極めて意識的な点である。

 

その第一の例が、冒頭の引用部分である。引用部分が登場する第6章は、「奇妙なラテン語」を鼻にかけて話す男がこき下ろされる筋立てになっている。そのオチとして語られるのが、「常用の言語」を用いるべしという先の引用箇所である。

この主題が最も珍妙な形で再登場するのが、第18章-第19章である。

ここでは、「イギリスの大学者」が、学識の誉れ高い主人公パンタグリュエルに対して、論戦を挑むという筋立てになっている。ここではこの「イギリスの大学者」が求める論戦の方法が実に珍妙なのだ。

当市ならびに他の土地の愚かなるソフィスト連中がしておりますような、<是々非々*2>という方式での討論は望んでおりません。・・・わたくしといたしましては、ことばを発することなく、ひたすら身ぶり手まねという記号(シーニュ)により討論したいのであります。と申しますのも、非常にやっかいなる主題を扱いますので、人間のことばでは、議論を思うぞんぶんに展開するのに不十分なのでありまする。(18章、p.227)

これはもちろん、ここで引き合いに出される「ソフィスト連中」のストア派的な方法論も、言語軽視の「大学者」も、どちらも笑い飛ばすのが狙いだ。

実際の論戦では、パンタグリュエルの腹心パニュルジュが、明らかに性的な含意を含んだジェスチャーをするのを、「大学者」が「学芸百科の真の井泉と深淵」と曲解するというオチがつく。この場面は本書屈指の笑いどころなので、ぜひご一読いただきたいと思う。

 

他にも、作者ラブレーが創造した作者であるアルコフリバス・ナジエ氏*3が物語に登場する箇所もある(第17章、第32章など)。作者を創造し、その作者をさらに物語に登場させるのだから、これも極めてメタフィクション的である。なお、冒頭句や第34章では、当のアルコフリバス・ナジエは故人であることになっており、作られた作者であることが意識させられる構造になっている。

あるいは、アルコフリバスの発言としてではなく、いわば本当の作者の発言と読める、次のような文章もある。

おお、わがムーサよ、・・・わたしに霊感を与えたまえ!これぞ、お話の筋道のロバの橋にして、ずっこけ場所!げに恐ろしき戦闘の実態をば、うまく描けるかどうかの瀬戸際なり!(28章、p.318)

 

読者に感情移入を求める騎士道物語などとは異なり、読者の感情移入を拒絶し、読者に相対的な視点を持つことを誘う効果がある。

 

とこのように、ラブレーの特徴の一つを考察してきた。

さりとて、これはやはり文学史の源流を辿る楽しみに過ぎず、同じ特徴一つとっても、その流れの河口付近の作品を読んだほうが魅力的のは間違いないだろう。

とはいえ、第一之書であるガルガンチュア*4より、処女作であるパンタグリュエルの方が読みどころが多く面白かった。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆

 

<<背景>>

第一之書の記事で取り上げたため今回は割愛する。

 

<<概要>>

全34章構成。第一章の前に「作者の前口上」が、さらにその前に十行詩が置かれている。そして、原本の扉に書かれていた文章までもがきっちりと訳出されている。

章の上下に区切りはなく、各章には題が付される。

この題が、あらすじが把握できるほどに長い題であることも、第一之書「ガルガンチュア」と同様である。

分量自体は、「ガルガンチュア」58章に対して、「パンタグリュエル」34章であり、この点からも「パンタグリュエル」の方が読みやすいといえる。

なお、ちくま版の本冊では、おまけに本作のパロディ元である『ガルガンチュア大年代記』が訳出されている。

本編が385頁まで、これに続く「年代記」が445頁までの分量比であるから、本作がネタ元を完全に食っていることがわかる。

 

<<本のつくり>>

さて今回は岩波版(渡辺訳=伝統訳)からちくま版(宮下訳=新訳)に乗り換えたわけだから、せっかくなので両者の翻訳を少し比較してみたい。

まず最初に明らかにしたいのが、新訳の宮下訳とはいえ、決してすらすら読めるようにはなっていない点である。これはそもそも作品自体が、膨大な前提知識を必要とするところや、いわゆる「奇書」である点に由来するから致し方ない。

そのため、宮下訳も、渡辺訳同様、膨大な注釈が付されている。

しかし、その注釈の質には大きな差がある。

まずは、配置の問題だ。

渡辺訳は、注釈が巻末に置かれている上、通し番号ではなく、各章ごとに注1から付番されているため、お目当ての注の位置が非常に見つけづらい。さらに、せっかく見つけたとしても、注の内容が原本の各版異同の指摘であるケースが多く、一般読者には不要な中であることも多い。

これに対し宮下訳では、大よそ注は各ページの末尾に置かれているため、注を参照しやすい。各版異同の指摘もなくはないが、大半が読者の理解を助けるのに資する内容であり、参照がしやすい。

このため、注の付け方は、明らかに宮下訳に軍配が上がる。

ここで一つ、本文から皮肉な引用をしておく。

でも、その縁飾り、つまりだね、アコルソの注釈という代物は、実にきたなくて不潔で、悪臭ふんぷんとして、これすなわち、汚穢かつ卑賤そのものだと思うよ。(5章、p.75)

 

では本文はどうか。

渡辺訳について、先の記事では「古典落語調」であると書いた。

他方の宮下訳は、コント調や漫才調までは身近にはなっていないが、新作落語調か漫談調くらいにはわかりやすくなっている。

少し長いが、一か所具体例を挙げてみよう。

こういう有様なので、父ガルガンチュワは、愛児に怪我があっては一大事と、パタグリュエルを縛りつけるために四本の太い鉄の鎖を作らせ、揺籠をしっかりと台座に据え、これに扶壁拱[せりもちびかえ]を何本もつけさせた。さて、これなる鎖の一本は、ラ・ロシェールの町にあるが、夕刻になると港口の二棟の太い塔の間に張られるし、もう一本は、リヨン、もう一本はアンジェにあり、第四番目のは、堕天使リュシフェールを縛るために悪魔どもに持ちさられてしまったが、その頃リュシフェールは、朝飯に一人の執達吏の生霊を煮込み料理にして食べたばかりに、異常な下痢に悩まされ、七転八倒して暴れ出したからであった。(4章、岩波版p.43、強調は引用者による)

そこでガルガンチュアは、息子がけがでもしたら一大事と、パンタグリュエルを縛る鉄の太い鎖を四本作らせて、それで台座の上にしっかりと固定したのであった。この鎖のうち一本は、現在、ラ・ロシェルの町にございまして、夕刻ともなれば、港の両側にそびえる二つの大きな塔のあいだに張られております。もう一本はリヨンに、もう一本はアンジェにありますが、四本目は、悪魔たちに持っていかれてしまいました。堕天使のルシフェルが朝食に、とある執達吏の霊魂をホワイトソースの煮込みにして食べたせいで、ものすごい疝痛に身もだえして、手のつけられないほど暴れだしたので、この鎖で縛りつけたという次第。(4章、ちくま版p.63、強調は引用者による)

まず明らかな違いが、渡辺訳が「である調」であるのに対し、宮下訳が「ございまして」などの調子を用いて、語り調子にしている点である。

また、渡辺訳が、強調した部分以下、文末まで一息で行くのに対し、宮下訳が3文に区切っている点である。おそらく、古典訳である渡辺訳のが原文に忠実なのだろう。

私は基本的に、原文に忠実に訳すのが好みである。それは、原文の美的な調子を味わいたいからだ。しかし、本作に限ってはその原理主義はいったん脇に置いておきたいと思う。

特に、四番目の鎖に論及する部分は、複文構造になっており、渡辺訳では何が何だか理解するのも一苦労である。この点、宮下訳は、「縛りつけたとうい次第」という目的節を文末に持ってくることにより、読解を容易にしている。

この他、フランス固有の人名・地名などが、人名・地名とわかるように工夫されている箇所も見受けられた。

 

これらの点から、当ブログとしては、研究者を志望されているか、箱マニア*5でもない限り、宮下訳を推奨したいと思う。

 

*1:あまり教えたくないけれど、私の本探し(新本)の必殺技が次のサイト。サイト表示上はあっても、実在庫がないといったケースもあるので、出向く前に確認して貰うのが安心。http://www.tokyo-shoten.or.jp/kumiaimap_utf8.htm

*2:「プロとコントラ」、である。

*3:フランソワ・ラブレーのアナグラムである。『アーダ』に出てくるヴィヴィアン・ダークブルーム氏と同じ仕掛けだ。

*4:紛らわしいが、出版順的にはこちらが第二作

*5:岩波版では箱付き全巻セットが売られている。箱万歳。