ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-12『ブリキの太鼓』ギュンター・グラス/池内紀訳

その時は笑って虹の彼方へ放つのさ

そのときどきの出来事が表面では貪欲にからみ合う糸となって物語をつくっていても、裏ではすでに歴史に編み込まれていたとしても、やむをえないことだろう。(p.388)

<<感想>>

なんとなくの設定は知っているけど読んでない小説ナンバー1。

主人公オスカルは、胎児の頃、羊水の中で、3歳になったら成長を止めることを決意する。彼は、声であらゆるガラスを割ることが出来るという特殊な能力を持っており、ブリキの太鼓を奏でながら、大戦期ポーランド・ドイツを生き抜いていく。

ほら、いかにもキャッチーでしょう?

ところが、文庫版では3巻本、池澤全集版でも二段組600頁の超ボリューム。そもそも読み始めるハードルが高い。これだけの分量があるからには、それ相応の傑作の期待がないと、誰も読み始めない。

そこで書評なんかを読んでみると、曰く醜悪、グロテスク、おぞましい、猥雑・・・。これでは読む気がしない。私の偏見に、「映画が有名になった小説の書評は精度は低い法則」というのがあるが、本作もその例に数えることにした。本作をまずもってオスカル譚として読んでいるものも多く、それではこの600頁は相当苦行だったに違いない。

そこで今回は、この傑作小説を少しでも読もうという気になって貰うべく、巷間流布しているイメージを覆してみたい。

・主人公は誰だ

まず、本作の語り手であるオスカルを、主人公であると捉えるのを辞めてみよう。彼はまずもって見る人であり、生来の覗き魔だ。スカートの下、テーブルの下、演説台の下。彼は大人たちの行動を下から覗き見る。その立ち位置は狂言まわしそのものである。

オスカルは、第二次世界大戦期のポーランド・ドイツという激動の時代・激動の地域に、作者によって送り込まれた目撃者である。三歳児の身体という仮面をまとったまま、ポグロムの現場に、開戦の現場に、上陸作戦の現場に送り込まれる。

だが、このぼく、オスカルと、わが看護人ブルーノの名においてはっきり言いたいのだ。われらはともに主人公、まるきり違った主人公、彼は覗き穴のあちら、ぼくは覗き穴のこちら。(p.12)

本作の登場人物はかなりの数に上るが、彼らこそが本当の主人公だ。

・すぐれた短編群として

本作は構成上、46の章に分かれている。各章間が一応繋がっているため、あくまで長編小説であることに疑いはない。しかし、それぞれに章に比較的独立性があるため、連作短編のように捉えることも出来る。長編小説家としてノーベル文学賞まで受賞した作家にいうべきではないかもしれないが、むしろグラスは本質的には短編の名手なのかもしれない。

例えば、「ヘルベルト・トゥルツィンスキーの背中」という章。

この章での主人公は、もちろんヘルベルト・トゥルツィンスキーだ。アパートで療養中の彼を、オスカルが訪ねていく。彼は「スウェーデン軒」で給仕の仕事をしているが、背中に無数の傷がある。これらの傷は、客の喧嘩の仲裁をしたときに刺されたものであり、話をせがむオスカルに、それぞれの傷の逸話を聞かせていく。復帰したヘルベルトは、懲りずに喧嘩の仲裁をするが・・・

というお話。もうこれだけで抜群に面白いのだが、これを「オスカルの長編」として読んでしまうと、冗長なサイドストーリーに過ぎなくなってしまう。

もう一つ紹介してみよう。「玉ねぎ酒場」という章。

戦後のデュッセルドルフ、「玉ねぎ酒場」は地下の高級酒場である。しかし、食事は出てこない。出てくるのは生の玉ねぎだけである。実はここの本当の商売は、「泣かせ屋」。客たちは、生の玉ねぎを包丁でカットした涙と、店の雰囲気に背中を押され、心情を吐露し、心ゆくまでむせび泣くことが出来るのだ・・・

どうです?もうなんか短編として面白そうでしょう?このように、本作はまずもって奇譚集として読み進めていくのが、余さずに味わう第一歩のように思える。

・一貫した長編として

もちろん、そうかといって本作はあくまで長編小説だ。そこで、長編として本作を貫くテーマ・モチーフについても言及したい*1。

1.女が一人に男が二人

本作は実は性描写が多い作品で、次から次へ、あっちでもこっちでもまぐわい始める。大抵は愛情の薄い関係であるのも興味深いところだが、特に注目したいのがコレ。

本作の女性の主要登場人物には、必ずと言っていいほど二人の男性が付き従うことになる。第一号はオスカルの祖母。オスカルの母となる娘の父が死んだ後、すぐにその兄弟と再婚する。第二号はそのオスカルの母。婚姻関係にある夫、マツェラートがありながら、いとこであるヤン・ブロンスキーと不倫関係にある。

このため、オスカルは出自からして曖昧で、民法用語にいうところの父性の混同が起こっている。

2.歴史のうねり

なんかつまらん見出しになっちゃったけど、これ以外どう書けばいいというのだ。ダンツィヒ、ポーランド、ドイツ、そしてロシア。世界史で勉強しただけでは理解しきれないうねりを伝えてくれるのも文学の魅力だ。

オスカルの母—祖母はもともとはカシューブ人という少数民族。ところが今、ダンツィヒはポーランド影響下の自由都市だ。父がナチスに入党、ダンツィヒはドイツが占領し、ブリキの太鼓を売っていたユダヤ人のおもちゃ屋さんは打ち壊される。戦後、オスカルの一家は、住んだこともない「祖国」である、戦後国境線下のドイツに移送されることになる。

作品の背後には時折ポーランド国歌「ポーランドは未だ滅びず」が流れ、ポーランド国旗の赤白がチラつく。つい一民族、一言語、一国家のように物を見てしまう我々日本人には、良い刺激になる。

3.加害と被害の倒錯

最後に指摘したいとのが、加害と被害の構図あるいは善と悪との倒錯・逆転だ。

例えばマインという近所に住む音楽家。彼は落ちぶれて飲み暮らしているが、ナチスに心を奪われ、更生して軍楽隊に入隊する。ところが、猫の虐待を同じアパートの住人に通報され、隊を放逐されてしまう。彼はなんとか名誉を挽回すべく、ユダヤ人の虐待に精を出すのだ。これを倒錯といわずしてなんというのか。

あるいはもう一つ。先にも書いたとおり、戦前、近所のおもちゃ屋はポグロムで破壊される。ところが終戦間際、ソ連兵がやってくると、近所の八百屋のグレッフ夫人はソ連兵に犯され、オスカルの自宅はユダヤ人に宛がわれることになる。ここでも、善とか悪とか論じるのが馬鹿馬鹿しくなるような逆転が生じている。

・オスカル悪漢論

冒頭で、本作をオスカル譚として読んでいる書評を批判したが、その中でも特にオスカルをピカロ(悪漢)と評したり、ビルドゥングスロマンの反対形象だと評しているものが目に付く。実は、巻末の解説も、投げ込みの池澤解説も共通してそうした見方を取り上げている。

しかし、ゴーゴリやカフカが、かつて立派な批評家によって、今では振り返りもされない「正統的」解釈を下されていたように、この解釈も打ち捨てられるべきと私は考えている。

確かに、オスカルが原因となって死に至らしめられた登場人物は複数出てくる。しかし、いずれも間接的な原因になっただけで、直接手を下しているわけではもちろんない。果たして、そのオスカルの行状は「悪」なのか?

ここまで繰り返し善悪の彼岸を描いた作家が、彼の主人公をそんなにシンプルな「悪」として描出するのか?あるいは、これを教養小説の反対形象と捉えたとき、「正しく」成長した大人たちは、調和的な人格を形成し、幸福な社会を実現させたのか?

成長しないオスカルは、本来、ナチスの論理ではユダヤ人と同様、排除されるべき存在だったはずだ*2。

ナチスの論理を踏まえれば、きっとこれは作者からの問いかけだ。死ぬとわかっていて、戦場に送り込むことは悪ではないのか?死という結果を迎えると薄々気づきつつも通報する行為は悪ではないのか?見て見ぬふりは、時として悪に加担しているのではないのか?

私は、オスカルは単純に「悪」なのではなく、善とか悪とかのその対立構造自体に対する作者からの問いかけなのではないかと考える。

・文体

最後になったが、手短に文体についても触れたい。

全体として性描写が多め*3だが、エロティックというよりは動物的で露悪的だ*4。臭いが一つ描写上の重要モチーフとなっていて、次の文なんかが典型的な本作の雰囲気だ。

左右の腋の下からブロンドで汗のためよれ合って塩気をふいている腋毛がもえ出ていた。・・・テラテラした黒いタフタのスカートにつつまれた脂肪が前を通っていったとき、ぼくはその臭いをかいだ。アンモニア、酢づけキャベツ、カーバイドの混合臭、メンスの最中にちがいなかった。(p.149)

グラスの文体は変幻自在で、各章ごとに応じて、実験的かつ特徴的な文体を繰り出してくることがある。

例えば、「奇蹟は起こらず」の章では、厚塗り繰り返し風。「キリストの血」が10回くらい繰り返し使用されたと思ったら、「十字架」が20回くらい使われる。そんな文体。「信仰 希望 愛」の章は変奏曲風。冒頭の昔話風の語りが、少しずつ形を変えて繰り返される。

本書でも特に素晴らしいのが、「コンクリート視察―あるいは神秘・野蛮・退屈」という章だ。この章だけ突然戯曲風に書かれ、間に詩まで挟まる。

是非この章か、「玉ねぎ酒場」あたりをちょっと読んでみて、本書に興味をもっていただきたい。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆(長いけど、良い本です。)

 

<<背景>>

1959年刊行。作中年代は、オスカルが生まれた1924年9月から、30歳の誕生日となる1954年までとなる。いわゆる全権委任法の成立は1933年、ナチスによるポーランド侵攻が1939年9月だ。

作者はオスカルより3つ下の1927年生まれ。ポーランド郵便局のエピソードなど、作中には作者自身の自伝的要素もちりばめられている。

いわゆる影響関係というべきはおくとして、ゲーテ『親和力』(1809)と『ラスプーチンの女たち』*5の二冊が主要モチーフとして登場する。オスカル少年はこの二冊を教科書として字を学ぶことになる。

先日引用に焦点を当てた記事を書いたが、本作にもゲーテの他、シェイクスピア、トルストイ、ドストエフスキー、ホメロスなどが登場する。

<<概要>>

三部構成。部の下に章の区切りがある。

本文でも紹介したとおり、章番号方式ではなく章題方式である。各章間に話の連続はありつつも、独立した短編としての読みに耐える特異なエピソードが続く。

各部はそれぞれ16章、18章、12章の構成。第1部がWWIIの開戦前夜、第2部が戦時下、第3部が戦後に充てられている。オスカルが主体的に動き出す第3部からぐっと読みやすくなるが、魅力が若干減退している。

<<本のつくり>>

申し訳ないが、もうこの訳者のことは20年も前から苦手*6である。

当然、カフカで読んだのが、幸いカフカは翻訳が沢山出ており、読み比べがしやすい。別段、全体が古臭いわけではないんだけれど、時折突然こなれていない表現を入れ込んできて、「マイ格調」アピールが鼻につく。句読点の打ち方や、漢字・ひらがなの使い分け、文の区切り方も好みではない。

というかこれ、別に私に限ったことではなく、特にカフカ好きを中心に、この訳者には一定数のアンチが付いていたイメージがある。

気になって集中できないくらい指摘したい箇所があるのだが、少しだけ。

・・・もはやせんないことである。(p.44)

え!?別に意味はわかるけど、なんで突然こんな古めかしい表現使った?意味あった?

ぼくは太鼓の撥を壁と、塔の扉の鉄の出っぱりのあいだに・・・(p.94)

Wordに怒られそうな日本語。

ときおりぼくはビット通りのコルフのところで墓石に彫字をした。(p.561)

この人物の名前は「コルネフ」である。この全集で校正ミスを見るのは記憶の限り初めて。

 

で、感想本文でも指摘したが、解説も疑問だ。『カフカのかなたへ』のカフカ論もがっかりだったが、今日はカフカの話ではない。

訳者解説の大半は、作家の来歴と、ポーランド・ドイツ史の解説に割かれる。一部で作品論に触れられるが、感想で批判したピカレスク的読みに触れられるのみで、まったく不満足だ。

挟み込みの池澤氏の解説はまだしも、本作の民話集的な側面や、視点位置の取り方の妙を指摘していて、さすがである。ただ、全体としてはお好みのエロスの話に比重を置きがちだし、やはりオスカルをピカロと断じている点で不満が残る。それともう一点、

・・・父性の不確定というテーマがこの小説の通奏低音となっている。

通奏低音警察がくるぞー!!

私は読んでいないので、そちらを勧めることはできないが、集英社文庫からは別の訳者の文庫版が出ているようだ。

*1:プロテスタント/カトリックというドイツらしい対立構造も重要モチーフと思われるが、私にこれを論じる力量はない。

*2:本作には、オスカル以外にも、欠損や障がいを抱えた人物が複数登場する。ナチスの障がい者排除についてはT4作戦で検索してみよう!

*3:ちなみにオスカル君は看護婦フェチ。ウィーンの代表団が喜びそうなモチーフも揃っている。

*4:唯一、マリーアのへそに沸騰酸をかけて唾を落とすシーンはエロティックだった。

*5:原典、作者不明。実在も不明。

*6:大人の婉曲表現