ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

「四季四部作」アリ・スミス/木原善彦訳

この記事はアリ・スミスの「四季四部作」全作の感想を書いた記事になる――予定である。いまのところ、完成次第順次書き足していく方針だが、途中で修正するかもしれない。あるいは、進行中の読書の感想が残っているのもまた一興として修正せずに書き連ねるかもしれない。

『秋』

単語は芽生えたりしない、とエリサベスは言った。

いいや、芽生える、とダニエルは言った。

だって言葉は植物じゃないもん、とエリサベスは言った。

言葉は生き物だ、とダニエルは言った。

生き物は息をする、とエリサベスは言った。

言葉は"言の葉"なんだ、とダニエルは言った。(p.68)

上手い登場人物を思いついたものである。

ダニエル・グルック、101歳、昏睡状態。本作の主人公の一人である。

もう一人の主人公は、ダニエルの歳の離れた異性の友人、エリサベス・デマンド32歳。表面的なこの物語のスジは、この二人の過去と現在お話である。しかし、実質的なこの物語の要諦は、ヨーロッパと、そしてイギリスの過去と現在にある。本作が書かれたのは2016年。イギリスで歴史的な(?)国民投票が行われ、いわゆるブレクジットが決定された直後である。

ダニエルを上手いと評した理由の一つ目、それは101歳という設定である。誕生日が来ていないと仮定すれば、彼の生まれ年は1914年。すなわち、WWIが開戦された年である。従って、彼の人生はそのままヨーロッパの歴史を体現していることになる。

ちなみに二つ目の理由は、姓名そのものだ。この『秋』の段階では明示されていないと思われるが、その姓名はドイツ系ユダヤ人の出自*1を示すものだろう。従って、読者は本作では殆ど明かされないダニエルの過去を推測したり、あるいはそれが意味するヨーロッパの歴史に思いを馳せたりしながら読み進めることになる。

三つ目の理由については、ダニエルを昏睡状態にしておいた点である。これによって、生成途上であった物語に可塑性を与えることに成功している。これについてはまたあとで触れたい。

コラージュのような文章

さて、本作を語る上でまず触れておかなければならないのは、その書かれ方である。エリサベスの現在、エリサベスとダニエルが出会った過去、そしてダニエルの夢の中など、それぞれ数ページからなる断片が次々と繋ぎ合わされている。すなわち、まるで絵画でいうところのコラージュのような作品に仕上がっているのだ。

20世紀の歴史、そしてコラージュというと、過去に当ブログでも紹介した『エウロペアナ』【過去記事】が思い浮かぶ。『エウロペアナ』では、一つ一つの断片が数行と短いこと、そして本作よりも抽象度が高いのが特徴だ。

これに対し『秋』では、各断片はあくまでも登場人物の体験として描かれている。そのため、同じ歴史的事象を扱うにしても、より具体的に、そしてより生活や感覚に根差した出来事と感じられるのが特徴だ。

そして、あとでけなす分だけ今精一杯褒めておくと、このコラージュの有りようがべらぼうに上手い。同じ作者の『五月』【過去記事】にも感じられたことだが、長編である本作では、その上手さが遺憾なく発揮されている。

例えば、次の場面はそれぞれエリサベス8歳の場面と、エリサベス20歳の場面からの引用だ。ページ数にして200頁近く離れていることに注目して欲しい。

何の話をするの?と母は言った。あの人が家に集めているアートなアートの話をするわけ?

うちにも絵がある、とエリサベスは言った。うちの絵もアートなアート?

彼女は母の後ろの壁を見た。川と小さな家が描かれた絵。・・・(p.44)

彼女は実際に書いていた言葉を見返した。このようなアートは事物の外見を別物に変えることによって、それを精査し、再評価を可能にする。

彼女は笑った。

そして鉛筆を持って、先についている消しゴムで”このよう”を消し、新たな単語を書き加えたので、書き出しは次のようになった。

アートなアートは(p.213、強調は原文ママ)

この他にも、「葉」や「薔薇」のイメージを要所で用いるなど、技巧面は際立っている。

先行作品からの引用

やはり当ブログ的に気になるのがこのテーマ。改行や改ページが多いため、文章量的にはさして長くない一冊である。しかし、そうした中でも先行作品からの膨大な引用がなされている。

まず、そもそもエピグラフが5つもあるという欲張り設計になっている。その5つも、詩人が二人にシェイクスピアまではいいとして、もう一つは執筆年の新聞から、最後はファッションデザイナーからという、作品を予見するような内容となっている。

作中で目に付いたところでは、オウィディウス『変身』、ジョイス『ダブリナーズ』、シェイクスピア『テンペスト』、ハクスリー『すばらしい新世界』、ディケンズ『二都物語』、そしてキーツの詩あたりだろうか*2。

このうち、書き手の私に馴染みのあるところで、『テンペスト』と『すばらしい新世界』の引用の妙について軽く触れておこう。

まず、そもそも『すばらしい新世界』のタイトルは、『テンペスト』の作中人物であるミランダのセリフから採られている。

立派な人たちがこんなに大勢!

何て美しいのかしら、人間って!ああ、すばらしき新世界!

こんな人たちがいるなんて。(第五幕第一場、訳文は角川文庫河合訳)

そしてこの場面は、発話をしている当人にとっては真実であるが、実際に周囲にいる人間はこれまで争いを続けてきた醜い人間たちであるため、観客目線では皮肉に映るというダブルミーニングとして描かれている。

そして、ハクスリーの『すばらしい新世界』の方は、完全管理社会が実現した未来を描いたディストピア小説である。ちなみに、その未来社会の中の蛮人保存地区で、シェイクスピアが読み継がれているというオチが付く。

『秋』では、エリサベスの夢の中で、『テンペスト』のミランダが『すばらしい新世界』を読んでいるという場面が登場する。ここには、理想社会の実現と夢想した選択が、実はディストピアでありうるという、アリ・スミスの皮肉が込められているのだろう。

そして、もう一つ、『テンペスト』のモチーフが効いてくる箇所がある。それは、本作が生起し続ける現実社会を取り込んで描かれた実験小説であるという点だ。『テンペスト』のエピローグには、観客の拍手の多寡によって結末が変わることが宣言される場面がある。恐らくは、これと同じように、「四季四部作」もその後生成する社会の有様によって結末を、そしてダニエルの命運を変えうる物語であったのだろう。

政治色の強い物語

本作を語る上で、この点も避けては通れまい。

本作は、相当に政治色の強い物語である。まず、作中最初の一行を引用しよう。

それは最悪の時だった。最悪の時。またしても。いつもそうだ。すべてはばらばらになる。今までも。これからも。それが自然。そして、とても年を取った老人が浜に打ち上げられる。まるで空気が抜けて、縫い目がほどけたフットボールみたい。百年前に使われていた古い革製の。(p.7、強調は原文ママ)

これがヨーロッパの隠喩ではなく何だろうか?そして、ブレクジット反対へのメッセージ以外にどう解釈の余地があろうか?

勿論、ダニエルとエリサベスの隣人関係もまた、ヨーロッパのアナロジーになっている。以下は、少女時代のエリサベスが書いた作文、とされる文章である。

「隣人についての作文」

私たちが引っ越してきた新しい家の隣には、私が今までに会った中でいちばん優雅な人が暮らしています。・・・正直言うと私は、ビデオやビデオプレーヤーを買ってもらうよりも、隣に新しい人が引っ越してきた気分はどんなものですかとか、誰が隣に住んでいても同じですかとか、いろいろな質問をしたいと思っています。私がお隣さんに尋ねたいのは次のような質問です。第一問。隣人がいるというのはどんな気分ですか?第二問。隣の人から見たら自分が隣人だというのはどんな気分ですか?・・・(p.214)

この文章からもやはり、ブレクジット決定への悔恨の思いが滲んでいるように見える。
ちなみにここから、私が政治色の強い文学作品、特に一方の立場に加担するような作品に否定的であることを書く予定であった。ところが、既に『スモモの木の啓示』【過去記事】の感想で同じことを書いているため、詳しくはそちらをお読みいただきたい。

分断陣営v.s.連帯陣営に分けたとき、確かに著者は連帯陣営に属しているのだろう。しかし私には、彼女がヒラリー・クリントンとダブって見える。鼻に付くインテリ、そして冷たい女――と受け取られる人物。

作中、お役所対応をする郵便局や、粗雑な対応をするテレビ局などが戯画的に描かれる場面がある。しかしどうして、こうした場面において、お役所対応を強いられている局員や、電話で苦情を受け付ける末端の従業員に作者のエンパシーは向かわないのだろうか?そうした階級への冷笑的な態度こそが、反エスタブリッシュメント感情を刺激し、連帯を分断へと向かわせているのではなかろうか。

窓ガラスを壊して回る15歳の少年と、その後片付けをする大人たち。その両方を描けている作品こそが、私の読みたい文学作品だ。

 

現時点で・・・

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆

『冬』

親愛なるアーサー。政治と芸術は正反対の存在よ。とても繊細な詩人がかつて言ってたように、"あからさまな意図を含んだ詩は嫌われる。"(p.320)

『秋』から引き続いて季節はめぐり、『冬』である。そして冬といえばもちろん、クリスマスのお話だ。本節では、最初に『秋』との異同について説明・指摘の上、『冬』の感想を記していこう。

『秋』との異同

まず、『冬』では、主要登場人物が一新されている。なるほど、四季ごとに違う物語を展開するスタイルで行くのね・・・。軽く人物紹介を済ませてしまうと、主要登場人物は主人公格のアート(「アーサー」のあだ名)、アートが金で雇ったニセ彼女のラックス、アートの母にして元バリキャリ経営者のソフィア、ソフィアの実姉にして元左翼活動家アイリスの四名だ。

『冬』においても、焦点が当たるのはあくまで各登場人物の現在と過去である点は変わりない。しかし、『秋』と比べるとパッチワークの断片が大きく、かつ物語性に富むのが特徴だ。本作の物語はざっくり次のとおり。アートは、クリスマスには彼女を実家に連れて帰り、母に紹介するつもりだった。ところがクリスマス直前になって当の彼女と激しい喧嘩をしてしまう。そこでたまたま道端で知り合った女性ラックスに、報酬と引き換えに彼女に成りすまして貰うよう依頼する・・・。

読みようによっては、ノンポリクズ男アート君のビルドゥングス・ロマンのようにも読めるため、『秋』に比べるととっつきやすい物語である。

続いて、先行作品からの引用についても触れておこう。

まず、エピグラフはやっぱり5つ。シェイクスピアが続投、ディケンズにミュリエル・スパーク(小説家)まではいい。新聞からの引用に変わり首相発言が、デザイナーに変わって彫刻家が作用されている。

本文中での引用は、シェイクスピア『テンペスト』に変わり、珍しい『シンベリン』が重要なモチーフとなっている。シェイクスピアの中でも最もマイナーな部類の作品であるが、『テンペスト』同様、いわゆる「後期ロマンス劇」に分類されている。キーツの詩は続投、ディケンズでは『二都物語』に変わって『クリスマス・キャロル』と『大いなる遺産』からの引用が認められる。特に面白いのが書き出しである。

神は死んだ。まずはこれ。(p.7、強調は原文ママ)

これはニーチェからの引用*3であるとともに、『クリスマス・キャロル』の書き出し、"Marley was dead, to begin with. "のパロディだろう(『冬』の原文が確認できないのが残念だ。)。

そしてもう一つ、『秋』との比較で気づいたことだが、毎シーズン一つずつ、かつての社会運動と、女性芸術家とを取り上げていく方針なのだろうか?今作では、グリーナムコモン女性平和キャンプ(参考リンク)とバーバラ・ヘップワースがフィーチャーされている。

なお、一番良いところで使われる薔薇のモチーフは本作でも健在だ。なので、一番いいところを引用してここに書き留めておこう。

昔カナダにいたときに、図書館に行ったの。通っていた学校で、先生の引率で。そこにはとても古いシェイクスピアの本が置いてあって、その途中に昔誰かが花を挟んでたらしくて、その跡が残ってた。

挟んであったのは薔薇のつぼみ。(p.212)

 

『冬』の特徴

さて、ここからようやく感想めいた言及になるが、正直なところ『秋』よりは『冬』のほうが大分楽しめた。

その理由の一つは『秋』で鼻に付いた部分が大分緩和されているからである。別の言い方をすれば、『冬』が、『秋』について私が書いた悪口の一つの回答となっているのである。

まずそもそも、『冬』も『秋』同様に、ド直球に政治的主題を扱った物語である。しかし、その書かれ方は『秋』より多声的になっている。戯画的なまでに典型的な左派の役回りをアイリスに、その反対の立場をソフィアに担わせることにより、一歩引いた立場で描写することに成功している。そして、そのソフィアとアイリスは、まるで「トムとジェリー」のように仲良く喧嘩をしており、本書の読みどころの一つになっている。

もちろん、昔の左右両陣営間では対話が可能であったのに、現代ではそれもできないほど分断している、ということを示す意図もあるのだろう。

この、対立することの馬鹿馬鹿しさというモチーフは、先に指摘した『シンベリン』にも連なるものである。作中、ソフィアとラックスにより劇中最も有名な「葬送歌」の引用が行われるが(p.199)、断片的なものなので、次に全文を引用しよう。手元に訳書がないため、原文からである。

Fear no more the heat o' the sun,

Nor the furious winter's rages;

Thou thy worldly task hast done,

Home art gone, and ta'en thy wages;

Golden lads and girls all must,

As chimney-sweepers, come to dust.

輝ける若者も少女も(Golden lads and girls)、煙突掃除人(chimney-sweepers)と同様、塵に還る、と表現されているのがおわかりいただけるだろう。

ただ、それでもなお現代の(政治的)物語は難しいなと思うのは、子世代(アート、ラックス)の解像度が低く感じられてしまう点だ。それは勿論、私がアート君と二歳差で、アート君の側の価値観・感覚に親近感があるのと無関係ではないだろう。ひょっとすると、私がいわゆる古典作品や、非西側諸国の物語を好むのは、この当事者性の軛から抜け出すことができるからなのだろうか?

 

さて、最後に『秋』より『冬』を好むもう一つの理由を紹介しよう。それは、「いつか話そうと思ってたこと」というモチーフが度々登場することだ。ライカ犬の話、CHEIBRESの話などなど・・・。「時を隔てて他人に伝わること」とまで抽象化すれば、先ほど引用した薔薇の跡の箇所とも繋がるかもしれない。

文学作品っていうのはやっぱりこう、さりげなくやるのがいいところなんだよ。

現時点で・・・

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆

 

『秋』

to be continued...

*1:エリオット『ダニエル・デロンダ』や、ウリツカヤ『通訳ダニエル・シュタイン』なども、ユダヤ系の人物が主役となる作品だ。

*2:なお、21世紀の作品なのに、古きヨーロッパ偏重の引用姿勢にも疑問無しとしない。

*3:この老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。(岩波文庫氷上訳p.14より。)