ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ガルガンチュワ物語―ラブレー第一之書』フランソワ・ラブレー/渡辺一夫訳

15cで不良(ポストモダン)と呼ばれたよ

いかほど深遠な寓喩や理窟があることになさろうと御勝手でござるし、殿も各々方も、お好きなだけ夢を見られるのもよろしかろう。拙僧より見ますれば、打球戯の有様を、判りにくい言葉で描き出しただけのものと心得まするぞ。(58章、p.289)

<<感想>>

第一の犯人はamazonだ。

6年も前に重版された(冬の一括重版)ものなのに、いまだにきちっと在庫を抱えているとは何事か。さらには、レビューも(いつもあてにならないのだが)概ね好評と来ている。

第二の犯人は当然、岩波書店だ。ご丁寧に「読みやすくなった岩波文庫」などと書きよって、新訳(改訳)か何かかと誤解を誘っている。

第三の犯人は私だ。岩波、名訳、そして箱付き!!!

何を隠そう、何も隠していないが、箱入り文庫が好物だ。

我が家の『モンテ・クリスト伯』【過去記事】も、『ドン・キホーテ』も箱入り。

下手の箱好きである。

 

何の犯人かといえば、新訳のちくま版【amazon】では無く、伝統訳の岩波版を選ばせた(選んだ)犯人だ。

 

本作の感想を書くにあたって、五つの「書」すべてを読了してからにしようか、各「書」ごとに書こうか少し悩んだ。

書きたいことがたくさん出そうだということと、とりあえず「第一之書」で放り投げて『失われた時を求めて』【過去記事】に戻りたくなってきたのとで、後者にすることとした。

 

さて、本作は「抱腹絶倒」などと評されるのを目にする。

しかし、あらゆる「抱腹絶倒」の例に漏れず、実際のところ本書を見ながら腹を抱えているいる人はおらず、せいぜいがところ唇の端に皮肉な笑みが漂う程度のところだろう。

 

そればかりか、本作のテクストそれ自体、本作に内在する読書体験がお目当てで本作を手に取る人は少数派なのではないだろうか。

きっと多くの人は、『イーリアス』や『オデュッセイア』を手に取るときのように、文学史的な興味か、あるいは歴史的・考古学的な興味を持って本作を手に取ってるのだと思う。

いわば、テクストに外在的な部分がお目当てなはずだ*1。

 

文学史的な興味から考えると、ラブレーといえばまずバフチンだ。

仏文科を何人敵に回そうとも、バフチンといえばラブレー、ではなく、ラブレーといえばバフチンだ。

バフチンに従って、ラブレー→セルバンテス→ドストエフスキーと読みついで、「カーニバル文学」を堪能するのも一興だろう。

「カーニバル文学」といえば、用語法はバフチンのそれとは異なりそうだが、ミラン・クンデラ【過去記事】も本作を称揚している。

もしくは、ラブレー→セルバンテス→スターン→ジョイスという経路も面白そうだ。

 

かくいう私は、『キング、クイーン、ジャック』【過去記事】のついでに読んだ『センチメンタル・ジャーニー』のついでに『トリストラム・シャンディ』を読みたくなったため、その下準備として本作に取り掛かった*2。

 

さて、実際に読み進めてみると、共通了解の不足(膨大なギリシア古典知識、当時の政治状況など)が激しく、現代の読者である私がその内在的な価値を見出すのは困難であった。平たくいうと、あんまおもんなかった。

 

その一方で、歴史的・考古学的な興味は大いにそそられた。

何が凄いって、この人、近代小説の創始者ことセルバンテスよりも、近代哲学の創始者ことデカルトよりも、近代と前近代の画期ことフランス革命よりもよほど古い人なのだ。

 

教科書的な哲学史の理解では、ヨーロッパ思想の本質はヘブライズム(キリスト教)とヘレニズム(ギリシア古典)の融合であると言い慣わされている。ラブレーの狙いは、受容(あるいは「再」受容―ルネサンス)初期におけるヘレニズムに依拠して、行き過ぎたヘブライズムを批判することにあったようだ。そしてこうした精神的風土が、後年のデカルト*3を生み、まるで代数と幾何とを融合させたかのように、西洋近代哲学を創始させたかと思うと実に感慨深い。

 

さらに興味深いのが、冒頭に引用した一説に代表されるように、作者ラブレーが、作品が解釈されることに自覚的でありつつ、なおかつ一意に解釈されることへの拒絶を示している点である。

十分に発達したプレ・モダンは、ポストモダンと見分けがつかない。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆

 

<<背景>>

1532-1564に成立したと推定。著者ラブレーは推定1483年生まれ。

第一之書は、第二之書の後の1534年作と推定されている。

エラスムスの『痴愚神礼賛』は1511年作のようだ。

セルバンテスの『ドン・キホーテ』前編が1605年だから、およそ70年は先行している。

デカルトが『方法序説』並びに幾何学の成果を発表したのが1637年だから、大よそ100年後の出来事である。

スターンの『トリストラム・シャンディ』は1759年だから、実に200年以上の時が隔たってている。

 

<<概要>>

全58章構成。第一章の前に「作者の序詞」が、さらにその前に「読者に」という文章が置かれる。

章の上下に区切りはなく、各章に章題が付される。

章の題は長く、58章分の章題を読めば(読み返せば)、概ねあらすじが把握できてしまうほどである。

第一之書だけで58章というと、いかにも長そうだが、各章は数ページ足らずである。

岩波文庫版で、本文290頁と、どちらかというと短いといってもよい。

 

<<本のつくり>>

名訳と言われればきっとそうなのだろう。

偉大な訳業と言われればそれもきっと正しい。

何せ、本文290頁以降、570頁まで、解説と注とで占められる熱心さである。

本文も実に荘重である。とはいえ、本書は滑稽譚でもあるわけだから、さながら古典落語のような訳文になっている。

しかしそうとはいえ、求めているものとはちょっと違う。

別に私はラブレーを研究したかったわけではない。

この訳文自体、もとはWWII終戦前に訳出されたもののようで、「いま、息をしていない言葉」 なのである。

感想の冒頭でも取り上げたが、さすがに購入する版のセレクションを間違えたといわざるをえない。

古典落語ではなく、せいぜいコント調か漫才調くらいの訳であれば、もう少し馴染みやすかったのかもしれない。

箱付で買ってしまった以上、この上ちくま版を買うのはちょっと妻が怖い。

 

 

*1:とはいえ、私のようにブログに感想を書き綴ることが読書の楽しみ一部を構成している場合、純粋に作品に内在的な読書というのはもはやありえないのかもしれないが。

*2:さすがに『痴愚神礼賛』まで戻る気はしなかった

*3:イエズス会の出にして、「方法的懐疑」である。